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カテゴリー「書き下ろし」の記事一覧

(夏は夜…)
 ふうん、とブルーが覗き込んだ新聞、枕草子の一節だけど。
 以前だったらチラリと眺めておしまいだったか、一応は目を通したか。
 その程度だった、古典などは。
 そういった文章がかつてあったと、遠い昔の文化なのだと思う程度で。
 ところが今では事情が違った、古典となったら惹き付けられる。
 わざわざ全てを、本を丸ごと読破しようとまでは思わなくとも、こういう時には。


 青い地球の上に生まれ変わって再び出会えた、前の生から愛したハーレイ。
 白いシャングリラの舵を握っていたキャプテン・ハーレイ、そのままの恋人に出会ったけれど。
 見た目も声もまるで変わっていないけれども、変わってしまったその仕事。
 シャングリラの舵を握る代わりに、船の仲間を纏め上げる代わりに、ハーレイは教師。
 今のブルーが通う学校、其処に教師としてやって来た。
 古典の授業を受け持つ身として、古典を教える教師として。


 恋人が古典の教師となったら、古典の世界を知りたくなる。
 遥かな遠い昔の文化を、この地域で生まれた物語なども、詠まれた歌も。
 けれども、たったの十四歳では古典の全ては学べないから。
 上の学校へ進んで学ぶつもりも、今の所は全く無いから。


(…上の学校に進んだりしたら、後が大変…)
 せっかく再会できた恋人、ハーレイとの未来の予定が狂う。
 十八歳になったら、結婚出来る年になったらと夢見ているのに、上の学校などに入ったら。
 今の学校を卒業するのが十八歳だし、今のゴールは卒業すること。
 生徒でなくなることが大切、その先にあるのはハーレイとの未来。
 上の学校になど行っていられない、回り道などしていられない。


 だから古典にいくら惹かれても、子供のお遊び、学校での授業の延長といった趣で。
 こうして新聞で目にしたりしたら、これはチャンスと読んでおく程度。
 このくらいのことは知っておこうと、自分の知識を増やしておこうと。
 ハーレイの好きな古典の世界を覗いてみたいし、きっと話の種にもなるから。
 授業も熱心に聞いているけれど、こういう記事も見逃さない。
 何が書いてあるか、どういったものか。
 まずは知ろうと、そこに書かれた古典の世界に浸ろうと。


(夏は夜…)
 涼しいからかと思ったけれども、そうではなかった。
 「月の頃はさらなり」、月が美しい頃は言うまでもない、と。
 うだるような暑さが和らぐのだろうか、さやかに月が照らす夜には。
 きっとそうだと読み進めてみたら、「闇もなほ」とあるものだから。
 やはり涼しい夜がいいのかと、一度は納得しかけたけれど。
 「闇もなほ」の後にはこう続いていた、「蛍の多く飛びちがひたる」と。
 「また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし」と。


 これは違うとやっと気付いた、夏の夜の良さは涼しさなどではなかった。
 月の光もそうだけれども、ほのかに光るという蛍。
 それが素晴らしいと綴るからには、涼しさではなくてその景色。
 空に照る月や、飛び交う蛍や。
 夏の夜の魅力はそこにあったらしい、枕草子が記された頃は。
 遠く遥かに過ぎた昔には、SD体制が敷かれるよりも遠い昔の地球の日本では。


(月に、蛍に…)
 ハーレイも知っているのだろう。
 前のハーレイではなくて今のハーレイ、古典の教師のハーレイならば。
 夏は夜だと、月の頃だと。
 蛍が飛び交う様もまたいいと、乱舞する蛍も、一つ二つと数えられるくらいの蛍の舞も。
 それが良いのだと、夏はこれだとハーレイは知っている筈で。
 青く蘇った今の地球なら、月も蛍も身近なもので。


 そう考えたら、俄かに見たいと思う気持ちが込み上げた月。それから蛍。
(月の頃はさらなり…)
 今日の月は、と新聞を見ていたダイニングから外を見てみれば、空を覆ってしまった雲。
 まだ日が暮れてはいないけれども、この時間から湧いた雲なら夜には消えない。
 月は駄目だ、と溜息をついた、今夜は見られそうにはないと。
 蛍も身近な存在とはいえ、家から歩いて行ける所に飛んではいないし…。


 なんとも酷い、と零した溜息、月も蛍も無いだなんて、と。
 古典の世界に触れてみたいのに、手が届きそうにないなんて、と。
 心底ガッカリしたのだけれども、月は今夜は無理そうだから。
 蛍も気軽に見に行けないから、仕方ない。
 どうやら御縁が無かったらしい、と読み進めた記事、枕草子の抜粋の続き。
 「雨など降るもをかし」と結ばれていたから、ハッと息を飲んだ。
 雨もいいのかと、それも夏の夜の魅力なのかと。


(雨だったら、きっと…)
 運が良ければ降り始めるだろう、この雲行きなら。
 文脈からすれば、蛍が飛ぶ夜の雨のことかもしれないけれど。
 闇の中を飛ぶ蛍と雨との競演なのかもしれないけれども、雨だけならば見られそうだから。
 そこに蛍が飛んでいるつもりで庭を眺めれば良さそうだから。
(夜が雨なら…)
 幻の蛍を庭に描こう、心の中で飛ばせてみよう。
 土砂降りの雨でなかったら。蛍が一つか、あるいは二つ。
 飛んでゆけそうな雨になったら、部屋の窓から庭を見下ろして。


 そうして夕方から降り始めた雨、しとしとと庭を濡らす雨。
 夜に自分の部屋に戻って窓を開ければ、濡れた緑の匂いが溢れて。
(…こんな夜なら、川に行けばきっと…)
 蛍が飛んでいるのだろう。
 細かい雨の中をほのかに光ってスイとあちらへ、次はこちらへと。
 そんな蛍を思い描いてみる、庭に蛍はいないけれども。
 川も流れていないけれども、そこを蛍が飛んでゆくように。
 夏は夜だと、雨もまたいいと。


(ハーレイも、蛍…)
 見ているのだろうか、こんな夜には。
 「闇もなほ」と月の無い夜を味わい、雨の夜の蛍を見るのだろうか。
 もしかしたら車に乗って出掛けて、蛍が飛び交う川のほとりで。
 「一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし」と口にしたりして。


 最初は「いいな」と思ったけれど。
 「羨ましいな」と思ったけれども、直ぐに心が騒ぎ始めた、自分も見たいと。
 ハーレイが見ているだろう蛍を、「夏は夜」と綴られたその風景を。
 一人で見たいというわけではなくて、ハーレイと二人。
 「夏は夜で、だな…」とあの声で聞いて、この景色なのだと指して貰って。
 雨の夜でもかまわないから、蛍が一つか二つだけでもかまわないから。


(見たいんだけど…)
 とても見たいと思うけれども、ハーレイと二人では出掛けられない。
 ドライブなどには連れて貰えない、蛍狩りなどはとても無理で。
 「月の頃は」と綴られた夜空を二人で仰ぐくらいが限界、それも自分の家の庭から。
 「闇もなほ」と称えられた蛍を見にはゆけない、ハーレイと二人で見に行けはしない。
 ハーレイの好きな古典の世界に酔いしれたいのに、二人で蛍を見てみたいのに。


(…蛍は無理…)
 まだまだ無理、と溜息をついた、自分が大きくなるまでは。
 二人でドライブに行けるようになるまでは無理で、今は諦めるしかないのだけれど。
 いつか見てみたい、ハーレイと二人、川に出掛けて。
 「夏は夜でしょ?」と、「連れて行って」と、蛍を見たいと強請って、頼んで。
 いつか二人で「夏は夜」。
 ハーレイの声で解説を聞いて、これがそうかと二人で蛍の舞を眺めて…。

 

       見てみたい蛍・了


※ブルー君の場合は、蛍でなくても月でオッケー、古典の世界なら、と思ったようですが。
 ハーレイ先生が見に行ったかも、と考え始めたら蛍狩りデートを夢見るのですv






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(夏は夜、か…)
 月の頃はさらなり、とハーレイが呟いた枕草子。
 なにしろ古典の教師だから。
 今の自分には、SD体制が始まるよりも遥かな昔の日本の古典は馴染みのもの。
 ふとしたはずみに出て来る一節、こんな具合に。
 夜のダイニングで夕食の後に、庭を眺めて口にするほどに。


 月の頃はさらなり、と呟いたけれど、今夜の空には月などは無くて。
 暮れ方からの曇り空だから、今夜は生憎、月は見えない。
 仮に姿を覗かせたとしても、煌々と照らす満月ではない、さほど明るい月ではない。
 星の瞬きを打ち消すくらいに明るくはなくて、「月が見えるな」という程度の月。
 おまけに今夜は星も無かった、雲に隠れてしまったから。
 五月闇と言おうか、しっとりと湿り気を帯びた闇夜で、庭に出ればきっと…。
(青葉の匂いがするんだろうな)
 今の地球ならではの、緑の匂いが。むせ返るような木々の香りが。
 白いシャングリラでは出会えなかった、心酔わせる、魅せられる香が。


 暗い庭には庭園灯があるけれど。
 芝生と木々とをほのかに照らしているのだけれども、それも敵わない夜の闇。
 どの家もしんと静まり返って、まるで明かりなど無いかのようで。
 闇がそのまま降りて来たようで、思わず知らず呟いてしまう。
「闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる…」
 また、ただ一つ二つなどほのかに光りてゆくもをかし、と。
 この庭に蛍は来ないけれども。
 蛍を見るなら、川辺に行かねば出会えはしないのだけれど。


(…蛍なあ…)
 今年はお目にかかってはいない。
 去年までなら、蛍の頃には蛍見物と洒落込んだ。
 愛車に乗り込み、夜のドライブ、蛍が飛び交う川の方へと走ったものだ。
 もちろん一人で、カメラも持たずにのんびりと。
 川辺に着いたら車から降りて、飛び交う蛍を眺めていた。
(雨など降るもをかし、なんだ)
 枕草子を書いた女性は高貴な身だから、雨模様の夜に外へ出たかは知らないけれど。
 小雨の中で蛍を見たかは分からないけれど、雨の夜にも蛍は飛ぶから。
 そういった夜にも車で出掛けた、蛍が飛べる程度の雨なら。
 「雨など降るもをかし」と車を走らせ、今の季節ならではの風景を見に。


 ところが今年は出会ってはいない、ほのかに明滅する蛍に。
 一つ二つ光ってゆく蛍にさえも出会えてはいない、乱舞に出会える年もあるのに。
 これほどに見事な夜もあるか、と見惚れるような蛍の群れに。
(…行こうと思えば行けるんだが…)
 今からでもいい、車さえ出せば。
 ガレージに出掛けてエンジンをかければ、愛車はいつでも動いてくれる。
 走って行ってくれる、蛍が舞い飛ぶ川のほとりへ。
 辿り着くのに難儀するような所でもないし、ほんの半時間もドライブすれば。


 けれども何故だか行く気になれない、自分一人では。
 去年までなら楽しく出掛けた川までの道も、蛍を眺める川のほとりも。
(…あいつのせいだな)
 きっとそうだ、と小さなブルーを思い浮かべた。
 たった一度だけ、ブルーを乗せてやった助手席、そこにブルーがいないから。
 ブルーが座っていてくれないから、蛍を見にゆく気分になれない。
 川辺には二人連れの恋人同士も多いし、家族連れだって。
 一人の寂しさが際立ってしまう、ブルー抜きで一人で出掛けたならば。
 気ままな一人暮らしを満喫していた去年までとはまるで違って、今は恋人がいるのだから。


 一度だけブルーを乗せた助手席、そこにブルーがいないと寂しい。
 カップルや家族連れに出会う場所では、一人で来ている者が少ないような場所では。
(写真でも撮りに行くならともかく…)
 蛍を撮ろうとカメラを構える愛好家ならば、一人だけれど。
 そういう人々は一人だけれども、ぼうっと蛍を見るだけの一人というのは少ない、滅多にいない。
 わざわざ車を運転してまでやって来るとなれば、なおのこと。
 だから行きたい気がしないのか、と苦笑いをした、これでは何年行けないやら、と。
 ブルーを助手席に乗せられる日が訪れるのはまだまだ先になるだろうから。


 一度だけ乗せてやった助手席、ブルーの家までの短いドライブ。
 眠っている間に瞬間移動で飛んで来てしまったブルーを家へと送り届けた。
 たったそれだけ、ドライブと呼ぶにはあまりに短すぎる距離。
 それでもブルーを助手席に乗せた、隣にブルーが座る車で道を走った。
 忘れられない短いドライブ、ほんの少しの間のドライブ。
 次がいつかは分からないから、余計に心に刻み付けられた、ブルーと二人でいた時間が。
 二人きりで車に乗っていた時が、二人きりで走っていった時間が。


 それを知ったから、隣にブルーがいた時を忘れられないから。
 蛍見物には一人でゆけない、蛍狩りには出掛けられない。
 きっと寂しくなるだろうから、どうして自分は独りなのかと思うだろうから。
 去年までのように蛍に酔えはしなくて、溜息の一つも出るだろから。


(あくがれいづるたまかとぞ見る…)
 まさにそれだな、という気分がした、遠い昔に詠まれた歌。
 枕草子と変わらない頃の時代に詠まれた、「物思へば」と。
 「沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」と、蛍が魂のように見えると。
 恋をしていれば、思い詰めるほどに恋をしていれば、魂が身から蛍になって抜け出すようだと。
 もしも一人で出掛けて行ったら、ブルー抜きで蛍を眺めにゆけば。
 きっとそういう気になるのだろう、「物思へば」と。
 「あくがれいづるたまかとぞ見る」と、どうしてブルーと来られないのかと。


 五月闇の夜、蛍は川辺に幾つも飛び交い、スイと流れているだろうけれど。
 乱舞なのかもしれないけれども、行けば溜息をつくだろうから。
 ブルーがいないと、どうして自分は独りなのかと、恋人たちを羨み、きっと溜息が零れるから。
 魂が身から抜け出したようだと、「物思へば」と呟くだろうから。
 今年の蛍は諦めておこう、どんなに見事だと耳にしたとしても。
 今が見頃だと新聞などで目にしたとしても、同僚から教えられたとしても。
(…魂が抜けるのは御免なんだ)
 あれが自分の魂なのか、と眺める蛍は寂しくなるから。
 いつになったらブルーと二人で来られるだろうかと、溜息をつくのに決まっているから。


(夏は夜…)
 月の頃はさらなり、と庭の向こうの空を仰いだ、月があればと。
 蛍狩りに似合いの五月闇より月があればと、闇を払ってくれればと。
 月がさやかに照っていたなら、きっと蛍も霞むだろうから。
 こんな夜には月が出て欲しい、寂しくなってしまった夜には。
 小さなブルーと出掛けられないと、蛍狩りに二人で行けはしないと、零れる溜息。
 けれども、それもいつかは消える。
 今は無理でも、いつの日にか。
 ブルーと二人で蛍狩りにと出掛けてゆく日がやって来たなら、二人で蛍に酔える日が来たら…。

 

        見られない蛍・了


※物思いに耽るハーレイ先生、一人で楽しく出掛けていた蛍狩りを断念したようです。
 一人より二人、その方がいいと気付いたからには仕方ないですよねv







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(んーと…)
 美味しいんだけど、と小さなブルーが頬張ったケーキ。
 母の手作り、ふんわりと軽い口当たりが優しいシフォンケーキ。
 名前の通りに薄い絹のよう、好みのケーキなのだけど。
 好きだけれども、ちょっぴり寂しい。
 今日はそういう気分になった。
 シフォンケーキも美味しいけれども、これは自分の好みのケーキ。
 これとは違うケーキが大好きな恋人のことを、思い浮かべてしまったから。


 シフォンケーキよりも、パウンドケーキ。
 母が焼くそれが大好物の恋人が出来た、再び出会えた前の生から愛した人。
 褐色の肌に鳶色の瞳、大柄だけれど、それは優しい恋人が。
 小さな自分よりもずっと年上、学校で教えているほどに。
 自分は教え子、二十歳以上も年が離れた小さな教え子。
 そんな自分に恋をしてくれた優しいハーレイ、恋人扱いしてくれる人。
 キスは駄目だと叱られるけれど、本当に本物の恋人同士にはなれないけれど。


 そのハーレイの大好物がパウンドケーキで、シフォンケーキとは違う口当たり。
 薄い絹よりしっかりとしたケーキ、ハーレイらしい気がするケーキ。
 どうしてパウンドケーキが好きかは、ハーレイから聞いているけれど。
 おふくろの味だと聞いたけれども、それでもハーレイらしいと思う。
 ふうわりと軽いシフォンケーキよりもパウンドケーキが似合いそうだ、と。


 前の生では白いシャングリラの舵を握っていたハーレイ。
 今は柔道と水泳とで鍛えたハーレイ、今の学校では柔道部の顧問。
 シャングリラの操舵と柔道の技では使う力が違いそうだけれど、どちらも似合う。
 がっしりとした体躯のハーレイらしいと、ハーレイにとてもよく似合うと。
 だからケーキもシフォンケーキの頼りなさより、パウンドケーキ。
 それがハーレイに似合いのケーキで、ハーレイらしいと。


 そういう思いに囚われてしまうと、少し寂しいシフォンケーキ。
 好きだけれども、ハーレイの好物のパウンドケーキとは違うから。
 口当たりからしてまるで違った、ふわりと軽いケーキだから。
(ハーレイと食べるなら、パウンドケーキ…)
 それがいいな、と思ってしまう。
 ハーレイの顔が綻ぶパウンドケーキが、おふくろの味だというケーキが。


 いつも同じケーキを出せはしないし、シフォンケーキだって母は出すのだけれど。
 ハーレイも「美味いな」と食べてくれるけれど、パウンドケーキには敵わない。
 食べている時の表情が違う、見ていれば直ぐに気付くくらいに。
 小さな自分でも気付いたくらいに、それは美味しそうに食べているのがパウンドケーキ。


 その恋人を思い出したら、二人でパウンドケーキを食べたい気持ちになったら、もう寂しい。
 どうしてシフォンケーキなのかと、パウンドケーキが食べたかったと。
(パウンドケーキだったら、ハーレイと一緒みたいな気分…)
 学校から帰ってのおやつの時間に、ハーレイがいるわけがないのだけれど。
 ダイニングのテーブルには自分一人か、あるいは母と二人でいるか。
 けれども、もしもパウンドケーキが今日のおやつに出ていたら…。


(ハーレイがいるような気持ちになれたよ…)
 きっとそうだという気がする。
 「これが好きでな」と嬉しそうな顔や、パウンドケーキの思い出を語ってくれる声やら。
 そういったことが蘇ってくる、きっとパウンドケーキの味から。
 口に含んだ舌触りから、ハーレイの笑顔も、優しい声も。
 鳶色の瞳も、フォークを握った手の大きさも、褐色の肌も、目に見えるように。
 まるでハーレイが向かい側に座っているかのように。


 けれどテーブルにハーレイはいなくて、恋人の姿は何処にも無くて。
 ケーキもパウンドケーキではなくて、自分の好みのシフォンケーキで。
 どうにも寂しい気持ちだけれども、おやつのテーブルには自分だけ。
 母を呼んだら、きっと向かいに座ってくれるだろうけれど、それでは駄目で。
(…ぼくがいて欲しいの、ママじゃなくって…)
 普段だったら母でもいいのに、母と楽しくティータイムなのに。
 今日はハーレイにいて欲しい気分で、母では代わりになりはしなくて。


 ハーレイが此処にいてくれたら、と溜息をついた、ケーキは自分の好みだけれど。
 恋人が好きなパウンドケーキとは違ってシフォンケーキだけれど。
(でも、ハーレイなら…)
 ハーレイならきっと、「これも美味いな」と微笑んでくれる。
 「お前はこれが好きなんだよな」と、「お前らしい味のケーキだよな」と。
 ふうわり軽いのがお前らしいとか、そういった風に。
 「俺にはあんまり似合わないよな」などと、おどけてみせて。


 考えていると、ハーレイがいるような気分になった。
 向かい側の椅子に腰を下ろして、シフォンケーキを「美味いな」と頬張るハーレイが。
(ここでおやつは食べないんだけど…)
 ハーレイとお菓子を食べる時には、自分の部屋か、庭のテーブルと椅子か。
 ダイニングのテーブルにハーレイが来るのは夕食の時で、両親も一緒。
 それでもハーレイがこのテーブルにいる時もあるから、思い描くことは難しくなくて。


(向かい側の椅子…)
 あそこがハーレイの座る椅子、と眺めて紅茶をコクリと飲んだ。
 そうしてシフォンケーキも頬張る、ふうわりと軽いシフォンケーキを。
 ハーレイと二人で此処でおやつを食べる時なんかがあるのだろうか、と。
 父も母も抜きで、ハーレイと二人。
 ダイニングのテーブルで二人でおやつ。
 そんな機会はきっと無さそう、と思ったけれども、夢に過ぎないと思ったけれど。
 其処で気付いた、そうではないと。
 いつかその日は来る筈なのだと、きっと訪れるに違いないと。


 今は来客という立場のハーレイ、どんなに親しく付き合っていても、家族ではなくて。
 ダイニングのテーブルに着くなら必ず両親も一緒、此処は家族の場所だから。
 家族で過ごすためにあるダイニングだから、ハーレイは夕食の席が限界。
 けれども、いつか家族になったら、ハーレイと家族になったなら。
(…ハーレイと二人でおやつだって…)
 おやつどころか、ハーレイと二人、此処で食事をすることだって。
 きっと出来るし、出来るようになるに違いない。
 ハーレイも家族になるのだから。
 ダイニングは家族のための場所だから。


(そうなったら、きっと…)
 シフォンケーキでも、パウンドケーキでもかまわない。
 ハーレイが此処にいてくれるのなら、ダイニングで二人、過ごせるのならば。
 そう、いつかハーレイに此処にいて欲しい、自分と一緒にこのダイニングに。
 来客ではなくて、この家の家族。
 そんなハーレイに此処にいて欲しい、いつか家族になれる時が来たら…。

 

       いて欲しい人・了


※ハーレイ先生とおやつを食べたい気持ちから、ぐんと膨らんだブルー君の夢。
 いつかは家族になれるでしょうけど、まずは大きくなることですねv





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(これはこれで悪くないんだが…)
 こういう時間も好きなんだが、と呟いてしまった夜のダイニング。
 今夜は少し豪華にステーキ、分厚い肉を焼いてみた。
 熱々のままで楽しみたいから、皿ではなくて保温できる鉄板つきの木のプレート。
 ジュウジュウと音を立てているそれを、テーブルに運んで来たけれど。
 スープやサラダも用意したから、大満足の夕食だけれど。


 ナイフとフォークでステーキを切って、火傷しそうなのを口に含んで。
 溢れる肉汁と柔らかな肉を頬張るけれども、ついつい目がいく向かい側。
 テーブルの向こう、其処にも椅子。
 誰も座っていない椅子がある、当然と言えば当然だけれど。
 一人暮らしの夕食なのだし、誰もいるわけがないのだけれど。
(…なんだかなあ…)
 あそこにもう一人いてくれたらな、と心を掠めてゆく思い。
 せっかく美味しい肉を焼いたのに、豪華にステーキの夕食なのに、と。


 一人暮らしは嫌いではない、苦手と思ったこともない。
 この家で一人で暮らし始めて、気ままな日々が気に入っていた。
 自分しかいない家で一人の食事で、思い立ったら好きに出来る食事。
 今日のように豪華にやってみるのも、家にあるものを工夫して作ってみるのも。
 食べる時間も全くの自由、ゆっくり食べようが、かき込んでいようが、それも自由で。
 少し行儀が悪いけれども、新聞を広げて読みながらの食事も思いのままで。
 そういう食卓、それが気に入り。
 俺の自由だと、今日はこうだと好きに振舞って来たのだけれど。


 ふとしたはずみに心を掠める、「もう一人いてくれれば」と。
 前は思いもしなかったことが、笑って済ませていたことが。
(嫁さんがいたらいいな、と思ったことはあるんだが…)
 子供部屋までがある、自分の家。
 この町で教師になった時から住んでいる家、隣町に住む父が買ってくれた家だけれども。
 最初から子供部屋までがあった、直ぐに要るようになるだろうから、と。
 今は一人でも、結婚すれば子供も生まれるのだし、と。
 そんな家だから、たまに思った、「嫁さんがいれば」と、いてくれればと。
 けれども即座に笑い飛ばした、嫁さんのアテがまるで無いと。


 どういうわけだか、思い描けなかった未来の花嫁。
 「嫁さんがいれば」と考えはしても、具体的には浮かばなかった。
 丸顔がいいか、面長がいいか、そんな基本のことさえも。
 スラリと背の高い人がいいのか、小柄な人がいいのかさえも。
 つまりは無かった理想のタイプ。
 かと言って誰でもいいわけがなくて、「御縁があればな」と考えた程度。
 いつか縁があれば結婚だろうと、それまでは嫁さんのアテなどは無いと。
 積極的に探しもしなくて、友人たちに頼みもしなくて、そのままで過ぎていった日々。
 「人生は長いし、今から焦らなくてもな?」と。
 一人暮らしも気に入っていたし、気ままな日々を謳歌しようと。


 ところが事情が変わってしまった、五月の三日に一変した。
 突然に空から降って来た恋人、前の生から誰よりも愛し続けたブルー。
 その恋人が不意に現れた、本当に空から降って来たわけではないけれど。
 学校の教室でバッタリ出会って、それが再会だったのだけれど。
 とにもかくにも現れた恋人、戻って来てくれた愛しいブルー。
 本当だったら連れて帰って、この家で共に暮らすのだけれど。
 二人での暮らしを直ぐにでも始めたいのだけれども、ブルーは子供で。
 十四歳にしかならない子供で、自分の教え子。
 これではどうにもなりはしないし、家に連れては帰れないままで…。


(あいつが座れる場所は幾らでもあるんだが…)
 このテーブルに、と見回してみる。
 椅子は自分の向かい側にも、斜め前にも、隣にもある。
 どれも揃いのデザインの椅子で、ブルーが来たなら、どれに座ってもかまわない。
 実際、座っていたこともあった、たったの二回だけだったけれど。
 小さなブルーが遊びに来た日と、眠っている間に瞬間移動で来てしまった日と。
 その時、ブルーは向かい側に座った、それは嬉しそうに。
 此処が自分の居場所なのだと、笑顔でチョコンと。


 だから、ついつい向かい側の椅子を見てしまう。
 そこにブルーの姿を求める、「ここにもう一人いてくれれば」と。
 向かい側でなくても、斜め前でも、隣の椅子でも、ブルーがいれば、と。
 もう一人いれば、きっと楽しい。
 同じ夕食でも遥かに楽しい、二人、あれこれと話をして。
 うんと豪華な夕食だろうが、家にあるもので作った料理が並んでいようが。


 あれが美味しい、これが美味しいと語り合ったり、二人、微笑み交わしたり。
 サラダにかけるドレッシングの瓶を二人で譲り合ったり、手渡したり。
 そういったことが出来る相手がいるだけで違う、きっと本当に素敵になる。
 夕食のテーブルがきっと華やぐ、ブルーが向かいにいてくれるだけで。
 一緒にテーブルに着いてくれるだけで、一緒に夕食を食べてくれるだけで。
 もう一人、此処にいてくれるだけで。


 まだまだ当分は叶わない夢、来てくれはしない小さなブルー。
 二人で暮らすことは出来なくて、向かい側の椅子は空っぽのままで。
 それは分かっているけれど。
 充分に理解しているけれども、こうしてたまに考えてしまう。
 「もう一人いれば」と、「ブルーがいれば」と。
 向かい側の椅子にもう一人、と。


(はてさて、こういうステーキだったら…)
 ブルーのためにと焼いてやる分は、どんなステーキになるだろう。
 きっと沢山は食べられないブルー、肉はこれよりもずっと小さめ。
 「分厚すぎるよ!」と言われそうだけれど、ステーキは分厚いのが美味しいから。
 分厚いステーキ肉を小さめに切って、ブルーが食べ切れそうな分だけ。
 冷めないように鉄板つきのプレートに乗せて、ジュウジュウと音を立てるのを二人で。


 考え始めると、向かい側にブルーがいるような気になる、二人で座っているような。
 ブルーと二人の夕食のような、そんな気分にもなってくる。
 今はまだ夢に過ぎないことでも、きっといつかは叶うのだから。
 ブルーと二人で食べる夕食、それが当たり前になるのだから。
 夢のブルーと二人で食べよう、今日のところは。
 「豪華にステーキといこうじゃないか」と、「美味いんだぞ」と。


 きっといつかは本当になる。
 「こんなに沢山、食べ切れないよ!」と叫ぶブルーと二人の夕食。
 分厚いステーキ肉を二人で、ブルーの分のステーキは小さめで、向かい合わせで…。

 

        もう一人いれば・了


※ブルー君がいてくれればいいな、と夢見てしまうハーレイ先生。
 気ままな一人暮らしもいいんでしょうけど、やっぱり二人がいいですよねv





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(…ハーレイはケチになっちゃったんだよ)
 それに酷い、と小さなブルーは溜息をついた。
 ハーレイが「またな」と軽く手を振って帰って行った後、自分の部屋で。
 今は夏休みで、平日でもハーレイと一緒に過ごせるけれど。
 今日も午前中から二人で過ごして、夕食まで一緒だったのだけれど。
 帰って行ってしまったハーレイ、自分の家へと帰ったハーレイ。
 小さな自分を一人残して、この家に「またな」と置き去りにして。


 置き去りの件については許そう、自分は子供なのだから。
 両親と暮らす十四歳の子供、それを一緒に連れて帰れと言う方が無理。
 自分はハーレイの家族ではなくて、甥でも従弟でもないのだから。
 いくら夏休みでもハーレイの家には泊めて貰えない、ただの教え子では。
 その上、ハーレイの家に行くのは禁止された身、遊びに来るなと言われた自分。
 ハーレイの心を騒がせるから、駄目だと言われてしまった自分。
 それではとても泊めて貰えない、泊まっていいとは言って貰えない。
 ハーレイが「またな」と帰ってゆくのも仕方ないこと、当然のこと。


 けれども、どうにも納得出来ない、今のハーレイのケチっぷり。
 自分に対する扱いも酷い、とても恋人とは思えない。
 「またな」と帰ってゆくのはともかく、帰る前にはキスの一つもして欲しい。
 強く抱き締め、顎を捉えて。
 鳶色の瞳で熱く見詰めて、クイと上向かせてキスをして欲しい。
 「またな」と、唇を優しく重ねて。
 また来るからと約束のキスを、今日の逢瀬の名残を惜しむキスを。


 ところがキスをくれないハーレイ、約束のキスも、それ以外のキスも。
 ただの一つもキスをくれない、唇へのキスをしてはくれない。
 額と頬にはくれるけれども、キスを貰えはしない唇。
 どんなに欲しいとキスを強請っても、いくら欲しいと願ってみても。
 「キスは駄目だ」と断るハーレイ、鳶色の瞳で睨むハーレイ。
 チビのお前にキスは早いと叱るハーレイ、願いを叶えてくれないハーレイ。


 もうケチだとしか思えない。
 自分にキスをくれないだなんて、頼んでも駄目だと断るなんて。
(お前は小さすぎるんだ、って叱られるけど…)
 ハーレイの家に行けない理由は、自分が行けばハーレイの心を騒がせるから。
 つまりはハーレイもキスがしたくて、抑えが利かなくなったら駄目だと考えているわけで。
 そんなことなど、気を遣わなくてもかまわないのに。
 自分はハーレイとキスがしたいし、キスのその先のことだって。
 本物の恋人同士になりたいと何度も言ったし、何度も何度もキスを強請った。
 だから自分が気にしないことを、ハーレイは知っている筈なのに。


(それなのにキスもしてくれないなんて…)
 ハーレイは酷い、と零れる溜息。
 本当にケチだと、ハーレイはケチになったのだと。
 前の自分ならキスを貰えた、額や頬ではなくて唇に。
 唇どころかもっと貰った、手の甲や指にも、首にも、それこそ身体の何処にだって。
 それだけのキスをくれとは言わない、今、貰うのには無理があるから。
 父や母がいる家の中では、「お茶のおかわりは如何?」と母が入って来る部屋では。


 けれど、唇へのキスならば。
 そういうキスなら今でも貰える、貰えそうな時間はいくらでもある。
 母は四六時中いるわけではないし、お茶とお菓子を置いて行った後は暫く来ないから。
 キスを交わす時間はいくらでもある、父にも母にも気付かれないで。
 それなのにキスをくれないハーレイ、キスは駄目だと叱るハーレイ。
 もう本当にケチになったとしか思えはしなくて、ケチだと恨むしかなくて。


 今日も強請った、「ぼくにキスして」と。
 ハーレイの首に両腕を回して頼んだ、キスして欲しいと。
 心の底からそう願ったのに、今日こそは欲しいと願っていたのに。
 ハーレイは願いを叶えてはくれず、いつもと同じに叱られただけ。
 「キスは駄目だ」と、それはつれなく。
 それは素っ気なく断られたキス、願いは叶えて貰えなかった。
 願いを叶えてくれないハーレイ、けして叶えてくれないハーレイ。
 キスが欲しいといくら強請っても、どんなに欲しいと頼んでみても。


(ハーレイ、ホントにケチなんだから…!)
 どうしてケチになってしまったのか、あんなに優しかったのに。
 前のハーレイはとても優しくて、前の自分をいつも抱き締めてくれたのに。
 キスはもちろん山ほど貰った、唇に、そして身体中に。
 本物の恋人同士の時を過ごした、二人、抱き合って熱く甘い夜を。
 なのに変わってしまったハーレイ、すっかりケチになってしまったハーレイ。
 キスの一つもくれはしなくて、願いを叶えてくれはしなくて。
 唇へのキスは貰えないまま、本物の恋人同士にだってなれないまま。


 なんとも酷いと思うけれども、ケチだと悲しくなるけれど。
 ハーレイが「駄目だ」と言うものは駄目で、キスの一つも貰えない。
 本物の恋人同士にもなれはしなくて、今の自分は「またな」と置いてゆかれる立場。
 ハーレイと夜を過ごす代わりに、両親と暮らす家にポツンと。
 一緒に連れて帰って貰えず、こうして家に一人でポツンと。


(…酷いよ、ハーレイ…)
 あんまりだよ、と零すけれども、返らない返事。
 ハーレイはとうに帰ってしまって、今頃は自分の家で過ごしていることだろう。
 書斎でのんびり本を読んでいるか、はたまたダイニングで夜食なのか。
 それともシャワーを浴びているのか、バスタブにゆったり浸かっているか。
 いずれにしたってハーレイの方は、きっと何とも思っていない。
 自分を置き去りにして行ったことも、「キスは駄目だ」と叱ったことも。


 ハーレイはケチになってしまって、それが普通のことだから。
 唇へのキスはくれもしなくて、強請っても「駄目だ」と断られるだけ。
 自分の願いは叶えてくれない、どんなにキスが欲しいと言っても。
 いくら願っても叶えてくれない、唇へのキスは貰えない。


 前の生からの恋人同士で、やっと再会出来たのに。
 青い地球の上に生まれ変わって会えたというのに、貰えないキス。
 ケチなハーレイはキスをくれない、自分の願いを叶えてくれない。
 おまけに一人で置いて行かれる、「またな」と軽く手を振るだけで。
 名残を惜しむキスもくれないで、抱き締めて「またな」と約束のキスもくれないで。


(ホントのホントに酷いんだから…)
 それにケチだ、と溜息が漏れる、今のハーレイは酷くてケチだと。
 前のハーレイは優しかったと、いつでもキスをくれていたのに、と。
 そうやって一人、膨れっ面の小さなブルーはまるで知らない。
 ハーレイの想いも、今の自分を大切に思っていてくれることも。
 だからブルーは溜息をつく。
 ハーレイはケチだと、ぼくの願いを何も叶えてくれないんだから、と…。

 

       叶えてくれない・了


※ハーレイはケチになっちゃった、と膨れっ面のブルー君。キスの恨みは大きいです。
 キスをしないのが優しさだということ、早く気付くといいんですけどねv





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