(美味しかったー!)
今日の晩御飯も美味しかったよ、と御機嫌で部屋に戻ったブルー。
ハーレイは寄ってはくれなかったけれど、両親との夕食だったけれども。
それでも美味しい、母が作る食事。
どんな料理でも母は得意で、美味しく作ってくれるから。
食が細くておかわり出来ない自分の胃袋、それが申し訳なく思えるほどに。
自分くらいの年の男の子だったら、普通はもっと食べるだろうから。
(…みんな、食べ盛り…)
友達は、みんな。
いつものランチ仲間もそうだし、最近は御無沙汰しがちな遊び仲間だって。
(…ハーレイといる方が楽しいんだもの…)
同じ休日ならハーレイと二人、その方が断然、有意義だから。
キスさえ許して貰えなくても、恋人と過ごせる方がいいから。
遊びに出掛ける機会はすっかり減ってしまった、何人もの遊び仲間たち。
彼らも、それにランチ仲間も、よく食べる。
気持ちいいくらいの食べっぷりだし、自分はとても敵わないけれど。
その胃袋と比較したなら、もう本当に母には悪いのだけれど…。
今日も色々と並んだ食卓、父はもちろんおかわりしていた。
「そっちの煮物をさっきと同じくらいでだな…」といった具合に、おかずをたっぷり。
それに合わせて御飯もおかわり、自分には無理としか言えない量を。
母にしたって「もう少し」と自分のお皿に取り分けていたし、なんとも情けない自分。
(…ホントはぼくだって、食べ盛りなのに…)
そういう年頃の筈だというのに、少しも容量が増えない胃袋。
頑張って食べようと努力しても駄目で、そのせいか背までが伸びてくれない。
いつぞや、挫折した大盛りランチ。
食べたら大きくなれると思って学校の食堂で注文したのに、多すぎてとても食べ切れなくて。
(…ハーレイに食べて貰ったんだよ…)
分厚いトーストなどを持て余して、すっかり困っていた自分。
其処へ現れたハーレイが綺麗に片付けてくれた、食べ切れなかった大盛りランチを。
本当だったら、そんな助けが現れなくても食べ切れるのが今の年頃だろうに。
ランチ仲間も遊び仲間も、気持ちいいくらいに食べるのだから。
母の素晴らしい料理の腕前、あれこれと考えてくれる献立。
日々の努力の甲斐が全く無いだろう子供、それが自分で。
他の子だったら、ランチ仲間や遊び仲間が母の子だったら、作り甲斐が…、と零れる溜息。
なんて自分は駄目なのだろうと、母も張り合いが無いだろうにと。
(もっと沢山食べる子だったら…)
おかわりは基本で、おまけに夜食。
自分には信じられない世界だけれども、夜食なるものも今の年頃だと普通。
勉強でなくても遅い時間まで起きていたなら、みんな夜食を食べるのだという。
「お腹が空いた」と、「何か作って」と母に強請って。
遅い時間にそれを平らげ、一晩眠れば、朝からしっかり朝食まで。
(…朝御飯だって…)
たまに話題に上るのだけれど、自分の倍以上の量を軽く食べるのが仲間たち。
それでも足りないと言っていたりする、ランチの時間まで持ちそうにないと。
お腹が減ったから、頭も疲れて来そうだなどと。
(…本当に何か食べちゃう子だって…)
教室を見回せば少なからずいる、コッソリと何か食べている子が。
自分の家から持って来たのか、途中の何処かで買って来たのか。
今の自分はそういう年頃、いくらでも食べられそうな年頃。
食べ盛りな上に育ち盛りで、本当だったら、母も毎日腕を奮っているのだろうに。
夕食はこれで足りるだろうかとドッサリ作って、朝食だって。
注文があれば夜食も作ろうと材料を揃えて、日々、楽しみにしていただろうに。
(…夜食どころか、おかわりも無理…)
それだけで済めばまだマシな方で、残してしまう日だってある。
母が盛り付けておいてくれた量、それをきちんと読めなくて。
(…多すぎるよ、って先に気付いたら、ちゃんと減らして貰うんだけど…)
失敗した日は、自分のお皿に食べ切れなかった料理が残ることになる。
「ごめんなさい」と謝るけれども、母は「いいのよ」と笑顔で許してくれるけれども。
無理に詰め込んで身体を壊してしまうよりは、と微笑む母。
「パパが代わりに食べるとするか」と「ママの料理は美味いからな」と食べてくれる父。
そういう光景が当たり前の食卓、「ママ、おかわり!」と元気一杯に器を差し出す代わりに。
「後で夜食も作って欲しいな」と「御馳走様」の後で頼む代わりに。
これでは駄目だと思うけれども、母にも申し訳ないけれど。
小さな胃袋は広がらないから、容量が増えてはくれないから。
とても美味しかった今夜の料理も、自分が食べた量はほんのちょっぴり。
食べ盛りだとも思えない量で、「それじゃ大きくなれないだろうが」と父が笑う量。
(ぼくだって、もっと食べられたら…)
母が喜んでくれるくらいに、張り切って夜食を作ってくれそうなほどに。
それだけの量をペロリと平らげることが出来たらと、まるで駄目だと溜息をついて。
(…あれ?)
ちょっと待って、と頭に引っ掛かったこと。
今日の昼休みに誰が零していたのだったか、今夜の夕食の献立のことで。
(…苦手って言ってた…)
そうだったっけ、と思い出したランチ仲間の一人の顔。
祖父母からだったか、親戚からだったか、届いたらしい彼の苦手な食材。
今夜は早速それの出番だと、苦手で食べたくないのにと。
(…だけど、食べないとお腹が減るし…)
とても困ると愚痴を言っていた、今日の夕食は嬉しくないと。
苦手な料理を食べない限りは、夜食も作って貰えないらしい。
「夕食をきちんと食べなかったから、お腹が減っているんでしょう」と叱られて。
食べなかった子供の夜食なんかは作らないから、と断られて。
よくよく周りを見回してみれば、特に珍しくもない話。
彼の場合は「苦手な食材が届いたことを知っていた」から先に出た愚痴、それだけのこと。
今夜の献立が予測出来たから零していた愚痴、普通は不意打ちで現れる苦手。
(…みんな、色々あるんだっけ…)
食材もそうだし、調理法だって。
これは嫌だと、食べたくないと思う苦手はありがちなもの。
お蔭で何度も耳にしている、食事を巡って繰り広げられる攻防戦。
「食べないのなら明日のおやつは抜き」などは、そういった時の親の定番の台詞。
下の学校の頃から「おやつ抜きの刑」を知っていた。
それが「夜食抜きの刑」に変わったのが今、きっとおやつも…。
(セットで抜かれちゃうんだよ)
我儘を言うならこうしてやる、とキッチンの主人の怒りを食らって。
家に帰ればある筈のおやつ、それが出ないとか、隠されてしまって見付からないとか。
そこまで考えて、「よし!」と自分に自信を持った。
胃袋はとても小さいけれども、食事も残してしまいがちだけれど。
(好き嫌いだけは無いんだよ、ぼく)
どんな食材も料理も平気。
幼い頃から何でも食べる子、母はその点では困らなかった。
生まれつき身体の弱かった自分、少しでも丈夫になってくれればと母が色々工夫した料理。
それを「嫌い」と嫌がったことだけは無かったという、ただの一度も。
体調が悪い時でさえなければ、いつも御機嫌で笑顔で食べた。
「美味しいね」と、どんなものでも。
今の友達が「子供時代の苦手料理」を話題にする時、トップに躍り出るようなものでも。
どれも美味しくて、母の料理だと喜んで食べていたのが自分。
好き嫌いが無かった、幼かった自分。
それに今だって…。
(何が出たって食べちゃうしね?)
今日、ランチ仲間が愚痴を零した食材にしても、それを使った料理にしても。
どうすれば「苦手」になるのかが謎で、自分だったら美味しく食べる。
料理上手の母が失敗しなければ。
「焦げちゃったのよ」だとか、「お砂糖とお塩を間違えたのよ」とか、そういった場合。
母に限って、それは決して有り得ないけれど。母は失敗しないのだけれど。
何でも美味しいと思える自分。美味しく食べてしまえる自分。
(…ほんのちょっぴりしか食べられないけど…)
母は張り合いがあることだろう。作った料理は何でも食べて貰えるのだから。
「これは嫌い」とそっぽを向かれず、文句も言われはしないのだから。
勝ったと思った、今が食べ盛りのランチ仲間や遊び仲間に。
自分の方がずっと上だと、子供の頃から上だったのだと。
(でも、これは…)
好き嫌いが無くて、何でも美味しいと思える理由。
ハーレイと再会するまでは気付いていなかったけれど、今なら分かる。
(…前のぼくのせい…)
アルタミラで餌と水しか貰えないまま、長い年月を過ごしたから。
食べ物があれば嬉しいと思う自分が出来上がってしまって、生まれ変わってもそのままで。
(…ハーレイと探しに行くまでは…)
約束をした、好き嫌いを探しに出掛ける旅。
それに行くまでは、きっとこのままなのだろう。何でも美味しく感じるのだろう。
少し寂しい気もするけれども、ランチ仲間には勝ったから。
(これでいいよね?)
まだ暫くは、何でも美味しいと思える舌の自分で。好き嫌いの無い自分のままで…。
何でも美味しい・了
※好き嫌いの無いブルー君。でも、食べられる量はほんのちょっぴり、食べ盛りなのに。
そんなブルー君にも見付かるといいですね、好き嫌いが言える食べ物が、いつかv
(うん、美味い!)
買って来た甲斐は充分あった、とハーレイの顔に浮かぶ笑み。
ブルーの家には寄り損なったけれど、こんな日ならではの気ままな夕食。
食材を吟味し、あれこれ料理も楽しいけれども、一人暮らしでは難しいものもあったから。
今日、買って帰った刺身の盛り合わせも、その中の一つ。
SD体制が始まるよりも遥かな昔に、この地域の辺りにあった島国、日本。
とても小さな国だったけれど、豊かな食文化を持っていた国。
前の自分が生きた時代には何処にも無かった出汁や、他にも色々、和食の文化。
刺身も日本で生まれた食べ方、今の自分には馴染みのもの。
釣り好きな父のお蔭で幼い頃から食べていた。
父が自分で魚を捌いて、「美味いぞ」と自信満々だったり、母が手際よく作っていたり。
(…だが、あの頃でも盛り合わせはなあ…)
此処までバラエティー豊かじゃなかった、と眺める盛り付けた皿の上。
鯛やヒラメや、マグロや海老や。
父が友人たちと釣りに出掛けても、これだけの種類は揃わなかった。
それに今でも…。
(俺が自分で刺身を作るのなら、だ…)
せいぜい二種類といった所か、魚が一種類と、貝くらい。
一人暮らしで無理のない量を買うならその程度だから、それが限界なのだから。
何種類もの刺身を盛り付けた皿。
次はコレだ、と取り箸で取ってはヒョイと小皿へ。
刺身用にと買ってある醤油、それとワサビをつけて頬張る。
新鮮な海の幸の数々、どれを選ぶのも自分の自由。
順番などはありはしないし、家で食べるならマナーも要らない。
行儀は全く気にしなくていい、「これはこうして食うのもいいな」と御飯茶碗に入れたって。
温かい炊き立ての御飯に乗っけて、丼よろしく口に運んでも誰もチラリと見はしない。
「刺身はそれだけで食べないと」という非難めいた視線が届きはしないし、自分の好みで。
せっかく買って来た盛り合わせなのだし、心の底から満喫したい。
「寿司ネタにもどうぞ」と書かれていた刺身、そう書かれるのも納得の味。
父が釣って来た魚と同じに、身がシャッキリとしているから。
噛んで固いというわけではなくて、舌で感じる新鮮さ。
魚もそうだし、海老も貝も同じ。
なんとも美味い、と嬉しくなる味。
一人暮らしは長いのだから、小さなブルーが生まれた頃にはもうこの町に住んでいたから。
刺身の盛り合わせも何度となく買った、食べたくなったら。
今日はコレだと思った時には買って帰った、今日のように好きに味わっていた。
温かい御飯に乗せて食べたり、本当に丼に仕立ててみたり。
そうやって楽しんだものだけれども、今では価値がググンと増した。
(…なんたって地球の海の幸なんだ)
前の自分が白いシャングリラで目指した地球。
ブルーと二人で夢見ていた地球、宇宙の何処かにある筈の星。
青い水の星にいつか行こうと、このシャングリラで辿り着こうと前のブルーと何度も語った。
ブルーが守った白い船。自分が舵を握っていた船、それでゆこうと。
地球に着いたら、真っ先に見えてくるだろう海。
母なる地球を青く染める海原、地表の七割を覆うという海。
青い地球には海がある筈で、テラフォーミングされた星の海より豊かな筈で。
(…魚だって山ほど棲んでるんだと思っていたしな…)
そういう星だと夢に見た地球、その地球の海で獲れた魚や貝などが皿の上にある。
どれから食べるのも自分の自由で、どんな食べ方をするのも自由。
前の自分には想像も出来なかった贅沢な食卓、地球の刺身の盛り合わせ。
こいつがいいと、最高なんだと、ヒョイと取り箸でつまんだトリ貝。
トリ貝が最高という意味ではなく、最高なのは好きに食べる刺身。
次はコレだとつまんだトリ貝、それを刺身醤油に浸そうとして。
(…待てよ?)
美味いんだが、とトリ貝を箸でつまんだままで見詰めた、その独特の色と形を。
前の自分がこれを見たならどう思うかと、これは食べ物に見えるだろうかと。
(…うーむ…)
トリ貝だけがズラリと並んでいたなら、そういう食材と素直に納得しそうだけれど。
こんな風に他の刺身とセットで盛り付けられた形で対面してしまったら…。
(…悩みそうだな、これも刺身の内なのかどうか)
前の自分が生きた頃には、刺身自体が無かったけれど。
似たものがあったならカルパッチョくらい、あれはこういう風にはならない。
何種類もの魚や貝の身、それを一緒に盛りはしないから。
(トリ貝なあ…)
異質だよな、とパクリと頬張り、「美味い」と顔を綻ばせる。
これも立派に刺身の内だと、ちょっと見た目が異なるだけで、と。
薄い切り身になって並んだ魚たちとは違うだけで、と。
そういう視点で皿を見てみれば、なんとも不思議な取り合わせ。
今の自分には馴染みだけれども、赤身の魚に白身の魚。
子供の頃から刺身は何度も食べて来たから、どれも美味しいと知っているけれど。
(…さっきのトリ貝だけじゃなくてだ…)
見た目もそうだし、刺身そのものが持つ味わい。
好き嫌いのある子も多かった。「これは嫌だ」と食べない子供。
食べる前から嫌がる子供に、食べても「やっぱり嫌だ」と言う子。
特に珍しくはなかったのだった、そうした子供も。
父の釣り仲間の子供にも多くいたから、自分は美味しい思いをしていた。
一緒に釣りに出掛けた時には、「持って帰るか?」と分けてくれる大人も多かったから。
「ウチの子はコレは好きじゃないから」と、「持って帰って食べるといいよ」と。
刺身でなくても、煮付けが美味しい魚とか。
焼くのが美味しい魚などでも、惜しげもなく分けて貰えたもので。
(…俺は何でも食えたからなあ…)
子供の頃からまるで無かった好き嫌い。
両親が躾けたわけでもないのに、「まあ、食べてみろ」と盛り付けられたわけでもないのに。
今から思えば、恐らくは前の自分のせいだった。
餌と水くらいしか与えられずに長く過ごしたアルタミラ。
あまりに悲惨で、惨めに過ぎた実験動物時代の自分の食生活。
それが影響していたのだろう、「食べ物は何でも美味しいものだ」と骨の髄まで染み透って。
心に、記憶に深く絡み付いて、生まれ変わっても抜け落ちないで。
だから何でも美味しく食べたし、好き嫌いだってしなかった。
食べ物は美味しいものだから。
生き物を飼うための餌とは違って、人の身体を、心を養うためにあるのが食べ物だから。
(…前の俺がそういう考えだしなあ…)
トリ貝がズラリと並んでいようが、刺身にヒョッコリ混ざっていようが。
前の自分なら「これも食べ物か」と迷いもしないで口に運んだことだろう。
そして「美味い!」と喜んだだろう、また一つ新しい食べ物の味を覚えたと。
これも人間が食べるものだと、餌とは全く違うのだからと。
(…そのせいで今の俺までが、だ…)
好き嫌いの無い身になってしまった、食べ物が豊富な地球に来たのに。
父の釣り仲間の子供たちのように、「これは嫌だ」と言ってかまわない世界に来たのに。
(お得な舌ではあるんだが…)
どんな食材でも、調理法でも、美味しいと感じるのが自分。
明らかに塩と砂糖を間違えただとか、丸焦げになってしまったものなら別だけれども。
(…それでもなあ…)
些か損をしている気がする、今は我儘が言えるのに。
好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いだと言える素敵な時代に生きているのに。
だからブルーと約束をした。
いつか好き嫌いを探しに行こうと、自分たちにもきっと何かがあるだろうと。
「これだけは駄目だ」と逃げ出したくなるような食べ物、それが見付かったら面白い。
駄目なものが無くても、「なんとしてでも、また食べたい」と言いたくなるほど美味しい何か。
そういった好き嫌いを探しに行こうと、あちこち旅をして回ろうと。
けれども、それはまだ先の話。
小さなブルーが前と同じに大きく育って、二人で旅に出られるようになってから。
つまり、それまでは…。
(何でも素敵に美味いってことだ)
前の自分が見た目で「食べ物なのか?」と悩みそうな気がしたトリ貝のような代物も。
食べ物であれば、人の身体を、心を養うものでさえあれば。
それも悪くはない人生。何でも美味しいと思える人生。
(損な気もするが、実際、何でも美味いんだしな?)
今はこの舌を楽しんでおこう、好き嫌いが全く無い舌を。
いつかブルーとそれを探しに行くまでは。
好き嫌いを探しに旅に出るまでは、何でも美味しいと感じるお得な自分の舌を…。
何でも美味い・了
※好き嫌いの無いハーレイ先生。ブルー君も同じですけど、お得なんだか、損なんだか。
いつか見付かると嬉しいですよね、今は許される好き嫌いを言ってもいい食べ物がv
(やっぱりハーレイには、あれが似合うと思うのに…)
きっと今でも似合う筈なのに、とブルーの唇から漏れる溜息。
どうして今は無いのだろうかと。
ハーレイは持っていないのだろうかと零れる溜息、ハーレイに似合いそうなもの。
流石に持って歩けはしないし、学校で使うのは無理だろうけれど。
学校でなくても、思い付いた時にポケットからヒョイと取り出したりは出来ないけれど。
溜息の原因は羽根で出来たペン、いわゆる羽根ペン。
前のハーレイが使っていた羽根ペン、キャプテンの部屋の机の上に乗っていた。
ペン立てに立てられて、白い羽根ペンが。
それで文字を書くためのインク入りの壺とセットで、いつも机に。
書き物をする時は羽根ペンだった、キャプテン・ハーレイだったハーレイは。
「俺の日記だ」と読ませてくれずに仕舞い込んでいた航宙日誌も、書類なども。
もっとも、会議に使う資料などの長い文面を書いていたわけではないけれど。
会議用の資料はキャプテンではなくて、様々な部門の者たちが作っていたけれど。
そういった資料や書類に目を通し、あの羽根ペンで署名をしていた。
「此処は直すように」と書き入れたりもしていた、白い羽根ペンで。
前の生から愛した恋人、今は教師になったハーレイ。
古典の教師をするのに羽根ペンは要らない、ごくごく普通のペンで充分。
今のハーレイが得意だという柔道にしても水泳にしても、羽根ペンなどは不要な世界。
だからハーレイが羽根ペンを持っていないのも分かる、それが当然だと思う。
(でも、絶対に似合うんだよ…)
ハーレイは今もハーレイだから。
キャプテン・ハーレイだった頃とそっくり同じな姿形で、服装が違うだけだから。
(柔道着だと似合わないかもだけど…)
どうだろうか、と想像してみて、「それでも似合う」と大きく頷く。
柔道の技をかけている時や、柔道部の指導をしている時なら羽根ペンの出番は無いけれど。
空いた時間に「ちょっと待ってくれ」と机に向かえば羽根ペンも似合う。
褐色の手は同じだから。
あの大きな手に羽根ペンを持って、スラスラと書くだろう動きは同じだから。
キャプテンの制服か柔道着かというだけの違い、たったそれだけ。
(柔道着でも…)
きっと羽根ペンは似合うことだろう。
柔道をやるために出来ているのが柔道着だけれど、武道のための道着だけれど。
それでもきっと羽根ペンが似合う、いかつい道着とのギャップも素敵に違いない。
柔道着で机に向かう恋人、足はもちろん素足の筈で。
「待たせてすまん」と羽根ペンを置いたら、直ぐに身体を動かすのだろう。
対戦相手を軽々と投げたり、かかってくる柔道部員たちを軽くあしらったりと。
そんな合間に少し書き物、羽根ペンを持って。
(…かっこいいんだけど…)
いいな、と顔が綻んだけれど、現実としては有り得ない光景。
羽根ペン持参で柔道部などには出掛けられないし、ペンを使うならありふれたペン。
(だけど、似合うし…)
柔道着だったら、と容易に想像出来る光景。
たとえ現実には有り得なくても、とても絵になる柔道着で羽根ペンを持ったハーレイ。
(…水泳はちょっと…)
そっちは無理、と頭を振った。
プールからザバッと上がってその場で、羽根ペンを持ちはしないだろう。
インク壺に浸して書くようなペンをプールサイドのテーブルに置いていたって…。
(変だよね?)
水着のままで椅子に座って羽根ペンで書き物、それは可笑しい。
肩にタオルを羽織っていたって、ちょっとした上着を着込んでいたって。
要は水着で、逞しい足が剥き出しだから。
そんな格好では絵にならないのが、前のハーレイが使っていた羽根ペン。
カッチリ着込んだキャプテンの制服とか、隙なく着こなす柔道着だとか。
そういった衣装が似合う羽根ペン、ラフすぎる水着は似合わない。
でも…。
(パジャマとかなら…)
それはそれで似合いそうな気がしてくるから面白い。
一度だけ見た今のハーレイのパジャマ、寝ている間にハーレイの家へ瞬間移動をした時に。
ハーレイのベッドで目が覚めた朝に、目にしたパジャマ。
あの格好でも、寝る前だったら羽根ペンを持っても似合うだろう。
ベッドで一晩眠る間についてしまう皺、それが無ければ。
(んーと…)
ハーレイは被りはしないだろうけれど、遠い昔の本の挿絵などのパジャマの人物の頭の帽子。
ああいった帽子を頭に被ってパジャマ姿でも、羽根ペンはきっと絵になるだろう。
パジャマ姿でも似合うのだから、スーツやワイシャツなら当たり前に似合う。
普段着のシャツでも、柔道着と同じで意外なギャップがいいのだろう。
半袖のシャツで腕が剥き出しでも、その手に似合いそうな羽根ペン。
ハーレイの手には羽根ペンが欲しい、羽根ペンを持っていて欲しい。
それなのに羽根ペンを持たない恋人、持ってはいない今のハーレイ。
前に訊いたらそう答えた。
「最近、欲しいような気もするんだがな」とは言っていたけれど、買ってはいなくて。
持っていないなんて、と残念でたまらなかったから。
たとえ今のハーレイの日記が覚え書きだろうが、ろくに中身が無かろうが…。
(…羽根ペンで書いて欲しいよね…)
前のハーレイがそうしていたように。
航宙日誌を書いていたように、書類に署名などをしていたように。
学校に持って行くには不向きなペンだし、柔道着の時には使わないとしても。
教室などで「ちょっと待ってくれ」とポケットから出して手帳に書いたりしなくても。
そうした場面は仕方ないから、普通のペンでいいのだけれど。
ありふれたペンでも何も文句は言わないけれども、ハーレイの家。
其処では使って欲しい羽根ペン、書斎の机にあって欲しいと夢見てしまう。
書き物をするなら前のハーレイと同じに羽根ペン、それがハーレイらしいのにと。
覚え書きに過ぎない日記だろうが、前と同じに羽根ペンがいいと。
そう思ったから、今のハーレイにも羽根ペンを持って欲しいから。
ハーレイが自分で買わないのなら、とプレゼントしようと決心したのに。
夏休みの残りがあと三日になる日にハーレイのためにプレゼント、と。
八月の二十八日はハーレイの誕生日だから。
三十八歳になる記念の日だから、その日に誕生日プレゼント、と。
同じ買うなら素敵なものをと、いい羽根ペンを贈りたいから、うんと予算を奮発したのに。
お小遣いの一ヶ月分をつぎ込むつもりで百貨店まで羽根ペンを買いに行ったのに…。
(…なんで羽根ペン、あんなに高いの…?)
知らなかった、と零れる溜息、買えずに帰って来た羽根ペン。
前のハーレイが使っていたのと似た羽根ペンがあったのに。
白い羽根のペン、それとインク壺やペン先を収めたセットの箱が素敵だったのに。
手も足も出なかった白い羽根ペン、他のペンでも駄目だった。
青や緑に染められた羽根のペンは色々あったけれども、どの羽根ペンも…。
(…予算不足だよ…)
お小遣いではとても買えない値段の羽根ペン、つまりは子供には無理ということ。
背伸びして貯金を使って買っても、ハーレイはきっと困ってしまう。
「ありがとう」と御礼は言ってくれても、その顔にはきっと…。
(…すまん、って書いてあるんだよ…)
ハーレイは羽根ペン売り場を知っているのだし、値段も知っているのだから。
贈りたいのに贈れない羽根ペン、お小遣いでは買えない羽根ペン。
ハーレイに持って欲しいのに。
今のハーレイにも羽根ペンを使って日記を書いて欲しいのに。
(…ぼくの勝手な夢で我儘…?)
ハーレイは必要としてはいないのだろうか、羽根ペンを?
「欲しい気持ちはするんだがな」と話していた時、「使いこなせないかもな」と苦笑したし…。
使えないかもしれないペンなど、わざわざ買いはしないだろう。
羽根ペンの値段を知ってしまえば、ハーレイが買わずにいる理由だって分かる。
鉛筆のように気軽に買えはしないから。
買ってしまってから「使いにくい」と放っておくには、些か高いのが羽根ペンだから。
そうなった時に、「アレを買わなければ何が買えたか」と考えてしまいそうな羽根ペン。
同じ値段で本が何冊も買えるわけだし、他の物だって、きっと色々。
(…だからハーレイ、買わないんだ…)
今のハーレイと前のハーレイとは違うから。
羽根ペンが無くても困りはしないし、きっとこだわりも無いのだろう。
それに前のハーレイが使っていた羽根ペンにしても…。
(…誰も使わないから、持ってっただけ…)
奪った物資にドカンと混ざっていたのを、「俺が使う」と。
そしてハーレイの気に入りのペンになったというだけ、欲しくて手に入れたわけではないし…。
これは無理だと、今のハーレイは羽根ペンなどは使わないのだと零した溜息。
自分が買って贈らない限りは、きっと持ってはくれないのだと。
けれども予算は足りはしなくて、背伸びして買うことも出来なくて。
悩んで悩んで、とうとうハーレイに「悩みでもあるのか?」と訊かれてしまって。
(ハーレイに羽根ペン、あげられるんだ…!)
自分のお小遣いの分だけ、買ってプレゼント出来ることになった。
羽根ペンの羽根のほんの僅かな部分だけしか支払えなくても、残りはハーレイが出すと言う。
夢は叶って、ハーレイに羽根ペンを持って貰える、誕生日が来たら。
ハーレイが貰って来てくれるカタログ、それを二人で眺めて、選んで。
「これがいいよ」と白い羽根ペンを選べるといい。
前のハーレイのペンと似ていた、あの白い羽根ペンが入った、買えずに帰って来た箱を…。
あげたい羽根ペン・了
※自分の予算では羽根ペンは買えないと分かった後も諦め切れないブルー君。
溜息を沢山ついてましたけど、ハーレイ先生にプレゼント出来て良かったですねv
(あいつの悩みが羽根ペンだったとはなあ…)
可愛いもんだな、とハーレイの頬が緩みそうになる。
おっと、と慌てて引き締めたけれど。
人が行き交う百貨店の中、大柄な自分が一人でニヤニヤしていれば…。
(不気味だよな?)
そう思われるか、あるいは向こうが「自分は変なことをしただろうか」と心配になるか。
多分、二つに一つだよな、と意識して真面目な表情を作る。
学校で教壇に立っている時とか、研修や会議に出掛けた自分を思い浮かべながら。
此処は百貨店のフロアではなくて職場なのだと、きちんと仕事をしなければと。
もっとも、此処でする仕事は…。
(…いかん、いかん)
それを考えたらまた顔が…、と意識して眉間に寄せた皺。
せめて売り場に辿り着くまでは教師の顔でいようと、幸せ気分を引き締めようと。
背筋を伸ばして向かう目的地は文具売り場で、馴染みは深い。
職業柄、何度も足を運んだし、買い物だって何度もして来たけれど。
(…まさか今頃、魅力的な所になるとは思っていなかったんだ)
つい数ヶ月前までは。
五月の三日がやって来るまでは、さほど特別な場所でもなくて。
まさか夏休みに胸を弾ませて訪れようとは思わなかった。
夏休みまでの五月と六月、それに七月の半ば過ぎまで、その間に何度も来た売り場。
もうその頃から、少し変わって見えていた。
文具売り場の中の一角、人影はあまり無い場所が。
そうなる前から、それこそ教師になった頃から、何度も見てはいたのだけれど。
(…興味があったっていうだけなんだよなあ…)
誰がこういうものを買うのかと、お洒落なものではあるのだが、と。
自分には縁が無さそうだけれど、悪くはないと思っていたもの。
机に置いたら、いい雰囲気になりそうだから。
書斎の机にあれば絵になるものだから。
それが羽根ペン、今どきレトロなスタイルのペン。
白い羽根やら、青や緑に染めたものやら、羽根の模様を生かしたものやら。
遥かな遠い昔の書物でお馴染み、古い絵などにも描かれたペン。
自分が教える古典の中には出てこないけども、他の地域の古典には登場するアイテム。
「ちょっといいな」と思ってはいた、机に置いたらお洒落だろうと。
書斎の雰囲気がグンと良くなりそうな羽根ペン、遠い昔の作家たちの書斎さながらに。
とはいえ、買っても使いこなせはしないだろうから。
机の飾りになるのがオチで、見て満足するだけだろうから。
(…それくらいなら他の物を買うよな)
なにしろ安くはないのが羽根ペン、鉛筆などとは比較にならない。
その値段で本が何冊買えるか、食費だったら何日分になってしまうのか。
それを思えばとても買えない、机をお洒落にするためだけには。
使いこなせる自信があるなら買ってみるけれど、ただの飾りでは。
そんなこんなで、いつも眺めて帰るだけ。
誰が買うのかと想像しながら、書斎にあったらお洒落だろうな、と。
文具売り場に来て時間があったら、ついでに覗いた羽根ペンの売り場。
其処が変わって見えるようになった、五月の三日から後の自分の目。
(…俺は今でも俺なんだがな?)
柔道と水泳が得意な古典の教師で、もうすぐ三十八歳になる。
八月の二十八日が来たら。
夏休みの残りが、あと三日という日が来たら。
それは全く変わらないけれど、姿も変わっていないのだけれど。
中身も同じだと思うけれども、頭の中身が少々増えた。
いや、とてつもなく増えてしまったと言うべきか。
(知識が増えたと言っていいやら、悪いやら…)
なんとも悩む、と思う自分の頭の中身。
教師としてなら、何の役にも立たないから。
柔道や水泳をやるにしたって、役に立ってはくれないから。
(…俺の人生、何倍ほどになったんだ?)
単純に計算したって十倍近くになるのだろうか、と苦笑しかけて、引き締める顔。
売り場に着くまでは御機嫌な顔も笑みも禁物、たとえ苦笑いな顔であっても。
(連れがいるなら何の問題も無いんだが…)
生憎と自分一人だから。
笑いを誘う会話をしている友人や知人はいないから。
(あいつとは来られないからなあ…)
前の生から愛し続けて、再び出会った愛おしいブルー。
十四歳にしかならないブルーと五月の三日にバッタリ出会った。
そして戻った前の生の記憶、「俺はキャプテン・ハーレイだった」と。
シャングリラで三百年以上も宇宙を旅した頃の記憶が帰って来た。
一気に増えてしまった頭の中身は、それだったから。
古典の教師の役には立たない、柔道も、それに水泳にしても。
けれども、大切で懐かしい記憶。
前のブルーと暮らしていた船、其処での日々も。
キャプテン・ハーレイだった頃の記憶が戻った途端に、魅力的になった文具の売り場。
前から「お洒落だ」と見ていた羽根ペン、それがいきなり身近になった。
前の自分が使っていたから。
航宙日誌をつける時にも、ペンが必要な書類を書くにも。
あの羽根ペンの羽根は白かった。
キャプテンの机にいつも置いてあった、ペン立てに立てて、インク壺と一緒に。
使う時にはペン先を何度もインクに浸しては書いた、羽根ペンにインクは入っていないから。
ペン先についたインクが切れたら、浸して足さねばならないから。
(面倒なんだが、俺はそいつが好きだったんだ…)
今の自分ではなくて、前の自分が。
キャプテン・ハーレイだった自分がお気に入りだった、レトロに過ぎる羽根ペンが。
懐かしい記憶が蘇ったら、もう羽根ペンは「誰が使うのか」と想像してみるものではなくて。
使っていた人間の心当たりは前の自分で、それは気に入りのペンだったから。
(…文具売り場に用があったら…)
羽根ペンの売り場を覗いたのだった、それまでよりも心惹かれる売り場を。
とても懐かしいものが売られているなと、前の自分の羽根ペンはこれと同じだろうか、と。
そうやって何度も足を運んだけれども、欲しい気持ちもして来たけれど。
机の飾りに良さそうなものだと見ていた頃より、懐かしさが込み上げて来たけれど。
(…使っていたのは前の俺で、だ…)
今の自分はインクの出て来るペンに慣れていて、それしか使ったことがない。
日記を書くにも、生徒の提出物などに色々と書き入れるにも、そういったペン。
わざわざインクに浸さなければ駄目な羽根ペン、もうそれだけで敷居が高い。
ついでに自分はただの教師で、文人気取りで羽根ペンを買っても…。
(…使いこなせない気がしてなあ…)
試し書き程度で挫折してしまって、後は机の上の飾りに。
そうなってしまいそうな気がする羽根ペン、前の自分の愛用品。
鉛筆くらいの値段だったら「それでもいいか」と買ってみるけれど、安くないのが羽根ペンで。
懐かしさだけで買ってみたものの、使えなかったら癪だから。
癪と言うより情けないから、いつも眺めては返した踵。
欲しいような気はするのだけれども、今の俺には無理そうだと。
もっと自信がついてからだと、欲しい気持ちが高まって来たら買うのもいいな、と。
魅力的だと眺めてはいても、買えずに今日まで来た羽根ペン。
買うとしたってまだまだ先だと、欲しい気持ちが限界まで来たらと思っていたのに。
(…あいつが買ってくれると来たか…)
前の生から愛した恋人、十四歳の小さなブルー。
最近、どうも悩みを抱えていそうな色の瞳に見えたから。
楽しい夏休みに何があったかと、どんな悩みかと問い掛けてみたら、答えは羽根ペン。
「ハーレイにプレゼントしたかったのに…」と俯いたブルー。
誕生日に贈ろうと羽根ペンを買いに行ったというのに、予算が足りなかったのだと。
(あいつの小遣いでは無理で当然だ)
ブルーは子供なのだから。
お小遣いではとても買えない、鉛筆などより遥かに高い羽根ペンは。
それでもブルーはそれを贈りたくて、諦め切れずに悩み続けて、ついに悩みを口にしたわけで。
(…さてと、どういう羽根ペンにするかな…)
ブルーの小遣いで足りない金額は自分が支払う。
その方法で買おうと決まった羽根ペン、誕生日にブルーがくれる羽根ペン。
(まずはスポンサーの意向を大切にしないとな?)
プレゼントしてくれるブルーの意見を尊重するのが筋だから。
こうして此処までやって来たぞ、と目的地に着いてケースを覗いて顔が綻ぶ。
ズラリ幾つも並んだ羽根ペン、ブルーはどれを選ぶだろうか?
その恋人は此処に来られないから、まだデートには連れ出せないから。
ケースの向こうの店員に頼んで貰ったカタログ、これでブルーと選べる羽根ペン。
(はてさて、あいつはどれを買おうと思って覗いていたんだか…)
これかもしれんな、と白い羽根ペンが収められた箱を覗き込む。
前の自分が持っていたペンに似ている羽根ペン、それをブルーは見ていたろうか?
ともあれ、ブルーと二人で決めよう。
カタログを広げて、相談して。
今の自分に似合うのはどれかと、「お前はどれがいいと思う?」と。
ブルーが贈ってくれるというから、前の自分の気に入りだったレトロな羽根ペンを…。
欲しかった羽根ペン・了
※ハーレイ先生が羽根ペンのカタログを貰いに行った時のお話です。百貨店まで。
貰ったカタログをブルー君と二人で眺める時間も幸せですよねv
(凄い青空…!)
真っ青だ、とブルーが見上げた夏の空。
夏休みの一日、涼しい内にと出てみた庭の芝生から。
雲一つ無い夏の青空、まだ朝と言ってもいい時間なのに高く昇っている太陽。
今の季節は日が昇るのがとても早いから、この時間でも日は高い。
おまけに日射しも朝から眩しい、昼間の暑さが今から容易に分かるくらいに。
(今日は快晴…)
雲の欠片も見当たらない空、「快晴」なのだと思ったけれど。
前の自分には殆ど馴染みが無かった言葉で、仲間たちには更に無縁で。
(シャングリラはいつも雲の中…)
雲海の星、アルテメシアに隠れ住んでからは、船の周りはいつも雲。
昼は白くて夜は闇の色で暗くなる雲、それに取り巻かれていたシャングリラ。
あの雲たちは船の隠れ蓑、白いシャングリラを隠してくれた。
巨大な白い鯨だった船を、仲間たちを乗せた箱舟を。
雲が無いなど考えられない、そうなることは死を意味していたから。
人類に見付かり猛攻を浴びて、シャングリラは沈んでいただろうから。
前の自分が乗っていた船では無縁とも言えた「快晴」なる言葉。
雲はいつでも空にあるもの、船の周りにあったもの。
シャングリラから外へ出ていた時には、そうした空も目にしたけれど。
雲一つ無い空を飛んだけれども、地上に降りてそれを見上げもしたけれど。
(…やっぱり雲はあるのが普通…)
仲間たちには普通の光景、シャングリラからは見えなかった快晴、青く澄んだ空。
今ならではの景色だよね、と真っ青な空を見上げていたら。
雲の欠片も見えない夏の青空、それをしみじみ仰いでいたら。
(…もっと青いかな?)
海に行ったら、と頭に浮かんだ青い海。
水平線の彼方まで広がる大海原の上にある空、その空はもっと青いだろうか。
何処までも青い地球の海の青、それを映して青く濃く深く見えるだろうか。
海辺から空を見上げたら。
白い砂浜や、景色が綺麗な岩が幾つもある場所や。
そういった海から直ぐの所で、この青空を眺めたならば。
生まれつき身体の弱い自分は、海にも長くは入れないけれど。
身体が冷えてしまう前にと、両親に「上がりなさい」と言われたけれども、知っている海。
浮き輪を頼りにプカプカ浮いたり、波打ち際で砂のお城を作ったり。
急に深くなる岩場で泳ぎはしなかったけれど、其処へも行った。
見える景色が綺麗だからと、両親に連れて行って貰って。
「こんな所で泳ぐ人もいるんだ」と感心しながら眺めたりもした。
一人前の大人はともかく、今の学校には入れそうにない年の子供も泳いでいたから。
何が獲れるのか、浮き輪を浮かべておいて海へと潜っていたから。
(…ハーレイだったら、きっとやっていたよね?)
水泳が得意だと聞くハーレイ。
前の生から愛した恋人、今日も来てくれる筈の恋人。
「キスは駄目だ」と叱られるけれど、唇へのキスはくれないけれど。
それでもハーレイはこう言ってくれる、「俺のブルーだ」と。
あのハーレイなら、子供の頃から深い海でも平気で泳いでいたのだろう。
獲った獲物を入れるための袋、それを括った浮き輪を浮かべて海の底まで潜ってゆこうと。
そう思ったら、ますます見たくなった空。
海の青を映して青いだろう空、それを海辺で眺めてみたい。
家の庭から、青い木々の梢が見える場所から仰ぐ青空もいいのだけれども、海の空。
きっと青いに違いないから、この芝生から見るよりも、ずっと。
(…海で見たいな…)
見てみたいな、と考えながら庭に別れを告げて。
家に入って、今度は二階の自分の部屋から夏の青空を見上げてみる。
暑い風が入って来ないようにと、もう窓は閉めてあるけれど。
冷房が弱めに入っているけれど、真夏の空はガラス窓越しでも色褪せない。
ガラスを一枚隔てたくらいでは褪せない青色、何処までも青い快晴の空。
こんな日だったら、海に行けばもっと青いだろう。
水平線の彼方まで遥かに広がる大海原の青を映して、空の青も、きっと。
(…でも、空の青は…)
海の青色を映すのだったか、海も空の青を映すのだったか。
少し違ったような気がする、どちらも恐らく太陽のせい。
細かい仕組みは忘れたけれども、太陽が作る青い色。
空の青さも、海の青さも。
今の自分は空の青さと海の青さは学校でチラリと習った程度。
詳しい仕組みは教わらなかった、まだまだ年が幼いから。
太陽の光を反射して青く光るのが海で、空の青さも太陽の光が青く散らばるからだったか。
(…前のぼくだって、詳しくないしね…)
戯れに資料を見てはいたのだけれども、専門にやってはいないから。
航宙学でさえも齧った程度で、白いシャングリラを動かせるほどの知識は無かった。
いざとなったら船を丸ごとサイオンで包んで運んでゆけば済む話。
ブリッジにあった計器のデータを読み取れはしても、使い方となれば…。
(ハーレイに勝てやしないんだよ)
いつも計器やデータを睨んでいたハーレイ。
キャプテンとして培った膨大な知識、それに敵いはしなかった。
もっとも、元から勝とうとも思っていなかったけれど。
シャングリラはハーレイに任せておくのが一番だったし、口を挟もうとも思わなかった。
前の自分には自分の役目が、ハーレイにはハーレイの役目がきちんとあったのだから。
お互いに支え合うのが一番、信頼し合っているのが一番。
前の自分が船を守って、ハーレイが船の舵を握って。
シャングリラはそういう船だった。
白い鯨になるよりも前も、白い鯨になった後にも。
そうやって二人、宇宙を旅した。
仲間たちを乗せた白い鯨で、箱舟だったシャングリラで。
雲海の星に長く留まっていた間も、旅は旅。
いつか地球へと飛び立てる日を待って隠れ住んでいた、アルテメシアの雲海の中に。
青い空さえ見えない雲海、快晴かどうかも船からは見えない雲の海に。
(…今だと、空はうんと青くて…)
雲一つ無い空だって見える、快晴なのだと窓から見られる。
その青を映した青い海だって、見たいと思えば見に出掛けられる。
車を出したら、充分に日帰り出来る距離。
其処まで行ったら海に出会えるし、今日のような日なら…。
(きっと、真っ青…)
空はもちろん、何処までも青く広がる海も。
この窓から見るよりもっと青い空、それが見られるだろう海。
真っ青な海を眺めたいなら、今日は絶好のチャンスで、空で。
今日でなくても夏の間は、夏空は海によく似合う。
海が一番輝く季節。
青く広がる海と戯れる人が大勢繰り出す季節で、空も海もきっと一番青い。
(見に行きたいな…)
青い空と海、と思うけれども、もうすぐ来てくれる筈の恋人。
晴れた日は歩いて訪ねて来てくれるハーレイ、その恋人の方が大切。
のんびり海には行っていられない、せっかくの逢瀬を捨ててまで。
両親に頼めば行けるだろう海、其処へ行ってはいられない。
(だって、ハーレイと一緒じゃないもの…)
ウッカリ頼んで家族旅行などということになれば、ハーレイに会えなくなるわけで。
ほんの二日か三日のことでも、それは寂しくて悲しいわけで。
(でも、ハーレイは「良かったな」なんて言うんだよ、きっと)
今の恋人は優しいけれども、ちょっぴり意地悪を言ったりするから。
「キスは駄目だ」と叱る恋人、そのハーレイならきっと言う。
「お前が旅行に行くんだったら、俺もゆっくり羽を伸ばせるな」などと笑顔で意地悪なことを。
「チビの相手をしないで済むなら、俺も泳ぎに行くとするかな」などとケロリとした顔で。
そして本当にやりかねないから、自分が行くのとは違った海に行きかねないから。
(海は見たいけど…)
今が一番綺麗に見える季節だろうけれど、諦めるのがいいのだろう。
海には夏が似合うのに。
真っ青な空と青い海とが、最高に輝く季節だろうに。
夏が似合うと分かっている海、快晴の日に見てみたい海。
見てみたいものは空から海へと変わってしまって、無いものねだりになりそうな自分。
部屋の窓から空は見えても、青い海など見えないから。
水泳が好きなハーレイが好きだと言っていた海、それは何処にも見えないから。
(…見たいんだけどな…)
海が見たいな、と窓の向こうを眺めていたら気が付いた。
今は駄目でも、いつか大きくなったなら。
ハーレイとキスが出来るくらいに大きくなったら、ドライブにだって行けるから。
(海を見たいよ、って言ったらドライブ…)
断られることは絶対に無いし、ハーレイが海で泳ぐ姿も見られるのだろう。
それまで我慢をしさえすれば、と空を見上げて、「青い」と思って。
(そっか、地球の青…)
海の青さは地球の青だった、前の自分が焦がれた青。
それをハーレイと見に行こう。
二人で地球に来たのだから。
青い海へと車で気軽に行ける地球まで、シャングリラではなくて車で海へと行ける地球まで…。
夏が似合う海・了
※ブルー君が見てみたくなった夏の海。家族で行くならハーレイ先生とは別行動になるわけで。
ハーレイ先生とドライブ出来る日がやって来るまで、海はお預けみたいですねv