(あいつの悩みが羽根ペンだったとはなあ…)
可愛いもんだな、とハーレイの頬が緩みそうになる。
おっと、と慌てて引き締めたけれど。
人が行き交う百貨店の中、大柄な自分が一人でニヤニヤしていれば…。
(不気味だよな?)
そう思われるか、あるいは向こうが「自分は変なことをしただろうか」と心配になるか。
多分、二つに一つだよな、と意識して真面目な表情を作る。
学校で教壇に立っている時とか、研修や会議に出掛けた自分を思い浮かべながら。
此処は百貨店のフロアではなくて職場なのだと、きちんと仕事をしなければと。
もっとも、此処でする仕事は…。
(…いかん、いかん)
それを考えたらまた顔が…、と意識して眉間に寄せた皺。
せめて売り場に辿り着くまでは教師の顔でいようと、幸せ気分を引き締めようと。
背筋を伸ばして向かう目的地は文具売り場で、馴染みは深い。
職業柄、何度も足を運んだし、買い物だって何度もして来たけれど。
(…まさか今頃、魅力的な所になるとは思っていなかったんだ)
つい数ヶ月前までは。
五月の三日がやって来るまでは、さほど特別な場所でもなくて。
まさか夏休みに胸を弾ませて訪れようとは思わなかった。
夏休みまでの五月と六月、それに七月の半ば過ぎまで、その間に何度も来た売り場。
もうその頃から、少し変わって見えていた。
文具売り場の中の一角、人影はあまり無い場所が。
そうなる前から、それこそ教師になった頃から、何度も見てはいたのだけれど。
(…興味があったっていうだけなんだよなあ…)
誰がこういうものを買うのかと、お洒落なものではあるのだが、と。
自分には縁が無さそうだけれど、悪くはないと思っていたもの。
机に置いたら、いい雰囲気になりそうだから。
書斎の机にあれば絵になるものだから。
それが羽根ペン、今どきレトロなスタイルのペン。
白い羽根やら、青や緑に染めたものやら、羽根の模様を生かしたものやら。
遥かな遠い昔の書物でお馴染み、古い絵などにも描かれたペン。
自分が教える古典の中には出てこないけども、他の地域の古典には登場するアイテム。
「ちょっといいな」と思ってはいた、机に置いたらお洒落だろうと。
書斎の雰囲気がグンと良くなりそうな羽根ペン、遠い昔の作家たちの書斎さながらに。
とはいえ、買っても使いこなせはしないだろうから。
机の飾りになるのがオチで、見て満足するだけだろうから。
(…それくらいなら他の物を買うよな)
なにしろ安くはないのが羽根ペン、鉛筆などとは比較にならない。
その値段で本が何冊買えるか、食費だったら何日分になってしまうのか。
それを思えばとても買えない、机をお洒落にするためだけには。
使いこなせる自信があるなら買ってみるけれど、ただの飾りでは。
そんなこんなで、いつも眺めて帰るだけ。
誰が買うのかと想像しながら、書斎にあったらお洒落だろうな、と。
文具売り場に来て時間があったら、ついでに覗いた羽根ペンの売り場。
其処が変わって見えるようになった、五月の三日から後の自分の目。
(…俺は今でも俺なんだがな?)
柔道と水泳が得意な古典の教師で、もうすぐ三十八歳になる。
八月の二十八日が来たら。
夏休みの残りが、あと三日という日が来たら。
それは全く変わらないけれど、姿も変わっていないのだけれど。
中身も同じだと思うけれども、頭の中身が少々増えた。
いや、とてつもなく増えてしまったと言うべきか。
(知識が増えたと言っていいやら、悪いやら…)
なんとも悩む、と思う自分の頭の中身。
教師としてなら、何の役にも立たないから。
柔道や水泳をやるにしたって、役に立ってはくれないから。
(…俺の人生、何倍ほどになったんだ?)
単純に計算したって十倍近くになるのだろうか、と苦笑しかけて、引き締める顔。
売り場に着くまでは御機嫌な顔も笑みも禁物、たとえ苦笑いな顔であっても。
(連れがいるなら何の問題も無いんだが…)
生憎と自分一人だから。
笑いを誘う会話をしている友人や知人はいないから。
(あいつとは来られないからなあ…)
前の生から愛し続けて、再び出会った愛おしいブルー。
十四歳にしかならないブルーと五月の三日にバッタリ出会った。
そして戻った前の生の記憶、「俺はキャプテン・ハーレイだった」と。
シャングリラで三百年以上も宇宙を旅した頃の記憶が帰って来た。
一気に増えてしまった頭の中身は、それだったから。
古典の教師の役には立たない、柔道も、それに水泳にしても。
けれども、大切で懐かしい記憶。
前のブルーと暮らしていた船、其処での日々も。
キャプテン・ハーレイだった頃の記憶が戻った途端に、魅力的になった文具の売り場。
前から「お洒落だ」と見ていた羽根ペン、それがいきなり身近になった。
前の自分が使っていたから。
航宙日誌をつける時にも、ペンが必要な書類を書くにも。
あの羽根ペンの羽根は白かった。
キャプテンの机にいつも置いてあった、ペン立てに立てて、インク壺と一緒に。
使う時にはペン先を何度もインクに浸しては書いた、羽根ペンにインクは入っていないから。
ペン先についたインクが切れたら、浸して足さねばならないから。
(面倒なんだが、俺はそいつが好きだったんだ…)
今の自分ではなくて、前の自分が。
キャプテン・ハーレイだった自分がお気に入りだった、レトロに過ぎる羽根ペンが。
懐かしい記憶が蘇ったら、もう羽根ペンは「誰が使うのか」と想像してみるものではなくて。
使っていた人間の心当たりは前の自分で、それは気に入りのペンだったから。
(…文具売り場に用があったら…)
羽根ペンの売り場を覗いたのだった、それまでよりも心惹かれる売り場を。
とても懐かしいものが売られているなと、前の自分の羽根ペンはこれと同じだろうか、と。
そうやって何度も足を運んだけれども、欲しい気持ちもして来たけれど。
机の飾りに良さそうなものだと見ていた頃より、懐かしさが込み上げて来たけれど。
(…使っていたのは前の俺で、だ…)
今の自分はインクの出て来るペンに慣れていて、それしか使ったことがない。
日記を書くにも、生徒の提出物などに色々と書き入れるにも、そういったペン。
わざわざインクに浸さなければ駄目な羽根ペン、もうそれだけで敷居が高い。
ついでに自分はただの教師で、文人気取りで羽根ペンを買っても…。
(…使いこなせない気がしてなあ…)
試し書き程度で挫折してしまって、後は机の上の飾りに。
そうなってしまいそうな気がする羽根ペン、前の自分の愛用品。
鉛筆くらいの値段だったら「それでもいいか」と買ってみるけれど、安くないのが羽根ペンで。
懐かしさだけで買ってみたものの、使えなかったら癪だから。
癪と言うより情けないから、いつも眺めては返した踵。
欲しいような気はするのだけれども、今の俺には無理そうだと。
もっと自信がついてからだと、欲しい気持ちが高まって来たら買うのもいいな、と。
魅力的だと眺めてはいても、買えずに今日まで来た羽根ペン。
買うとしたってまだまだ先だと、欲しい気持ちが限界まで来たらと思っていたのに。
(…あいつが買ってくれると来たか…)
前の生から愛した恋人、十四歳の小さなブルー。
最近、どうも悩みを抱えていそうな色の瞳に見えたから。
楽しい夏休みに何があったかと、どんな悩みかと問い掛けてみたら、答えは羽根ペン。
「ハーレイにプレゼントしたかったのに…」と俯いたブルー。
誕生日に贈ろうと羽根ペンを買いに行ったというのに、予算が足りなかったのだと。
(あいつの小遣いでは無理で当然だ)
ブルーは子供なのだから。
お小遣いではとても買えない、鉛筆などより遥かに高い羽根ペンは。
それでもブルーはそれを贈りたくて、諦め切れずに悩み続けて、ついに悩みを口にしたわけで。
(…さてと、どういう羽根ペンにするかな…)
ブルーの小遣いで足りない金額は自分が支払う。
その方法で買おうと決まった羽根ペン、誕生日にブルーがくれる羽根ペン。
(まずはスポンサーの意向を大切にしないとな?)
プレゼントしてくれるブルーの意見を尊重するのが筋だから。
こうして此処までやって来たぞ、と目的地に着いてケースを覗いて顔が綻ぶ。
ズラリ幾つも並んだ羽根ペン、ブルーはどれを選ぶだろうか?
その恋人は此処に来られないから、まだデートには連れ出せないから。
ケースの向こうの店員に頼んで貰ったカタログ、これでブルーと選べる羽根ペン。
(はてさて、あいつはどれを買おうと思って覗いていたんだか…)
これかもしれんな、と白い羽根ペンが収められた箱を覗き込む。
前の自分が持っていたペンに似ている羽根ペン、それをブルーは見ていたろうか?
ともあれ、ブルーと二人で決めよう。
カタログを広げて、相談して。
今の自分に似合うのはどれかと、「お前はどれがいいと思う?」と。
ブルーが贈ってくれるというから、前の自分の気に入りだったレトロな羽根ペンを…。
欲しかった羽根ペン・了
※ハーレイ先生が羽根ペンのカタログを貰いに行った時のお話です。百貨店まで。
貰ったカタログをブルー君と二人で眺める時間も幸せですよねv
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