「おっと…!」
落ちる、と掴んだドレッシングのボトル。
夕食にしようと着いたテーブル、ふとしたはずみに手が当たった。
もうその時点で分かっているから、伸ばした利き手で掴んだボトル。
(よし、と…)
落ちなかったな、とテーブルの上に戻すついでに、軽く振る。
中身は揺れてしまったのだし、振ればそのまま使えるからな、と。
使う前に振るタイプのドレッシングだから。
でないと中身が分かれてしまって、せっかくの風味が損なわれるから。
これでよし、とドレッシングを野菜サラダにたっぷりとかけた。
アスパラガスにキュウリ、トマトなどなど、新鮮な野菜。
ざっくりと切って盛り合わせただけ、味の決め手はドレッシングで。
今日はこういう気分なんだ、とドレッシングのボトルを眺める。
凝ったサラダも好きだけれども、美味い野菜はそのままもいい、と。
流石に何も味付け無しとはいかないけれど。
手作りにしても、買ったものにしても、ドレッシングは要るのだけれど。
でなければ、オリーブオイルとか。
(オリーブオイルだけでも、美味いんだが…)
それと塩でもいけるんだが、と思うけれども、今日の気分はドレッシング。
好みで揃えてある市販品の一つ、よく使うからボトルも大きめ。
一人暮らしにしては大きいボトル。
朝食に野菜サラダは欠かさないから、そのせいも多分あるだろう。
小さいボトルを買ってみたこともあったけれども…。
(アッと言う間に無くなるんだ、これが)
そして買いにゆく羽目になる。
気に入りのドレッシングが使いたい時に無いとなったら、ガッカリだから。
そうならないようボトルは大きめ、一人暮らしでも。
大きすぎないかと思うくらいで丁度いい。
俺にはこいつが似合いなんだ、と眺めたボトル。
デカいけれども、これでないと、と。
(落っこちていたら、さぞいい音がしたんだろうが…)
割れはしなくても、床でゴトンと。
屈み込んで拾い上げるのは別にかまわないけれど、落とすよりかは防ぐ方がいい。
気付いた瞬間、パッと掴むのも大切だから。
そこで反応出来ないようでは、とても武道など出来ないから。
(腕はなまっちゃいないってな)
こういった時の反射神経、それも研ぎ澄ませておかなければ。
でないと読めない、対戦相手の動きなど。
先回りをして技をかけられない、相手の技もかわせない。
たかがドレッシングのボトルであっても、あそこで落としてしまっていたなら…。
(少し身体を鍛え直さんとな?)
なまった身体を鍛えてやらねば、だらけてしまった駄目な身体を。
以前だったら落とさずに済んだボトルを落とすほど、なまった身体を。
たかだか、ボトルなのだけど。
ドレッシングのボトルだけれども、馬鹿に出来ない、さっきの出来事。
ウッカリ落としそうになったことやら、それを未然に防いだことやら。
もしも落下を防げなかったら、食事の後は…。
(今後のトレーニングが課題ってヤツだ)
どういう風に鍛えるか。
鍛え直すには柔道でいくか、水泳の方に力を入れるか。
幸い、どちらも今の所は要らないけれど。
身体はなまっていないのだから、現状維持でいいのだけれど。
(こいつを落としちまっていたら、だ…)
大ショックだったな、と掴んでみたボトル。
一人暮らしには大きいサイズのドレッシングが入ったボトル。
小さなブルーの手首より太いかもしれん、と握って太さを確かめてみて。
デカいボトルだと改めて思って、テーブルに戻して。
(あいつの手首なあ…)
細くなったな、とサラダを頬張りながら小さなブルーを思い浮かべた。
十四歳の子供の細っこい腕、手首も細い。
「温めてよ」と差し出される手を握る時には、手首は関係無いけれど。
メギドで凍えたという右の手だけを包み込むから、手首を握りはしないけれども。
それでも、手首も何度も握ったことがあるから。
色々な時に握っているから、細さは充分、分かっている。
ドレッシングのボトルより細いかもしれない手首。
細っこくなってしまった手首。
前のブルーも細かったけれど、今よりかは…。
(太かったな、うん)
このくらいか、と前の自分の記憶を辿った。
前のブルーの手首の太さはこのくらい、と利き手の指たちを曲げてみる。
こんなものだと、これくらいだったと。
指を曲げてみて、キュッとその手を握ってみて。
途端に手の中に蘇った感触、さっき掴んだボトルの感触。
落ちないようにと止めたドレッシングのボトル、あの時に感じた重さや感覚。
(そうか、今度は…)
掴めるんだ、と胸を貫いていった衝撃。
それを衝撃と呼ぶかはともかく、雷のように貫かれた。
今度は掴んでかまわないのだと。
あのドレッシングのボトルと同じに、あの手を掴んで止めていいのだと。
(あいつの手首…)
掴めなかった、前の自分は。
掴み損ねてしまうどころか、掴むことさえ許されなかった。
ブルーがメギドへ飛び立つ前に。
行ってしまうと、もう戻らないと分かっていたのに、掴めなかった手首。
「行くな」と、「俺を置いて行くな」と。
掴もうと思えば、掴める所にブルーはいたのに。
前のブルーは隣にいたのに。
前の自分が望みさえすれば、そうしようと思いさえすれば。
きっと掴めていた筈の手首、前のブルーの細かった手首。
それを自分は掴み損ねた、掴める立場にいなかったから。
前のブルーとの恋は秘密で、あの時ブルーを止めるなど無理で。
キャプテンとしての立場が自分を縛った、前の自分を縛ってしまった。
心のままには動くことが出来ず、ブルーの手首は掴めなかった。
そしてブルーは行ってしまった、たった一人で。
二度と戻れないメギドへ、一人で。
掴み損ねてしまった手首。
このくらいだった、と手を握ってみて。
前のブルーの手首はこうだと、このくらいだと確かめてみて。
それからドレッシングのボトルを握った、掴んでみた。
(こんな風にだ…)
さっき咄嗟に握ったボトル。
落としてなるか、と反射的に掴んでいたボトル。
それと同じに前のブルーの手首を掴めていたなら、全ては変わっていただろう。
前の自分はブルーを失くさなかっただろう。
あの時、出来はしなかったけれど。
許される筈もなかったけれど。
(だが、今度は…)
掴んで止めてもかまわない。
誰も自分を咎めはしない。
ブルーも掴んだ自分の手から抜け出して飛んだりはしない、今の生では。
メギドなどは無くて、瞬間移動も出来ないブルー。
今の時代では、ブルーが何処かへ飛んで行ったりはしないけれども。
自分を残して飛び去ったりはしないけれども…。
今度は止めてもかまわないのだ、と浮かんだ笑み。
ドレッシングのボトルを咄嗟に掴んで止めていたように。
止めようと思えば、止めねばと思えば、望みのままに。
腕が動くままに掴んでもいい、ブルーの手首を。
今はまだ細っこい、子供の手首のブルーだけれど。
(今度の俺は掴めるんだな…)
掴みたい時に、ブルーの手首を。
キュッと握って、握り締めて。
そう思ったら、また握らずにはいられない。
今度は掴めると、掴んでいいのだと、さっきのドレッシングのボトルを。
たかがドレッシングのボトルだけれども、それが自分に教えてくれた。
こう掴んでもいいのだと。
今度の自分はブルーの手首を掴めるのだと…。
今度は掴める・了
※ドレッシングのボトルを掴むみたいに、今度は掴んでもいいブルーの手首。
ハーレイ先生、きっと幸せ一杯です。今度は掴んでいいんですからv
(なんで駄目なの…?)
恋人なのに、とブルーがついた大きな溜息。
ハーレイが帰ってしまった後で。ガランとしてしまった、自分の部屋で。
今日はハーレイと一緒に過ごした、お茶を飲んだり、食事をしたり。
いつものテーブルと椅子で、ハーレイと二人。
あの椅子にハーレイが座っていたのに、と眺めた椅子。
今はもう座る人影も無くて、ポツンと置かれているだけの椅子を。
ハーレイが来たら座っている椅子。
その椅子に腰掛けたハーレイの膝に座るのも好きで、お気に入り。
今日もチョコンと膝の上に座った、そうしてハーレイに微笑み掛けた。
「キスしてもいいよ?」と。
ぼくにキスしてと、ぼくはちっともかまわないから、と。
言葉に出しては言わなかったけれど、瞳にそういう思いをこめた。
ぼくはいいよと、ぼくにキスしてと。
けれども「駄目だ」と返った答え。
おまけに額をピンと弾かれた、「キスは駄目だと言ってるだろうが」と。
「キスしてもいいよ?」と言ったのに。
前の自分がそう言ったならば、その場でキスを貰えたのに。
顎を取られて、上向かされて。
ハーレイの唇がきっと降って来た、前の自分なら。
なのに「駄目だ」と断られた上、額をピンと弾かれた自分。
「キスは駄目だと言ってるだろうが」と睨まれてしまった、鳶色の瞳で。
俺はキスなどする気は無いと、全く無いのだと言わんばかりの表情で。
(キスしていいよ、って言ってるのに…)
今日も駄目だった、キスは貰えなかった。
唇と唇を重ねるキス。恋人同士で交わすキス。
欲張らないから、ほんの少し触れるだけでいいのに。
ハーレイの唇を唇に感じて、その温かさと柔らかさが分かれば充分なのに。
ただ触れるだけのキスでいいから唇に欲しい、恋人同士なのだから。
恋人同士のキスは唇、それでこそ恋人同士なのに。
分かっているから、強請ってしまう。
ぼくにキスしてと、ぼくの唇にキスをしてと。
恋人同士のキスが欲しいと、「キスしてもいいよ?」と誘ったりもする。
なのに応じてくれないハーレイ、キスの代わりに叱られるだけ。
鳶色の瞳でギロリと睨まれ、「キスは駄目だ」と頭をコツンと小突かれもする。
額を指でピンと弾かれる、俺はキスなどする気は無いと。
こんな子供にキスはしないと、チビのお前にキスはしないと。
前の自分と同じ背丈に育つまでは出来ないらしいキス。
頬と額にしか貰えないキス、ハーレイのキス。
前の自分は幾つも幾つも、何度でもキスを貰えたのに。
強請らなくてもキスを貰えて、触れるだけのキスよりも、もっと深いキス。
熱くて甘かった、ハーレイのキス。
それをそのままくれとは言わない、深いキスまでくれとは言わない。
唇にそっと触れるだけのキス、それだけでもう充分なのに。
そういうキスでも唇へのキス、貰えないよりずっとマシだから。
今よりはずっと幸せな気持ちになれるのだから、触れるだけのキス。
それが欲しいと強請っているのに、「キスしてもいいよ?」と誘うのに。
「駄目だ」と断り続けるハーレイ、ピンと額を弾くハーレイ。
時には頭をコツンとやられる、「キスは駄目だ」と。
チビには早いと、お前にはキスは早すぎるんだと。
(早すぎないよ…)
ぼくはハーレイの恋人なのに、とプウッと頬を膨らませる。
ハーレイの前でそうやったように、膨れっ面になって怒ったように。
キスをくれないなんて酷いと、おまけに額を弾くなんて、と。
(恋人に向かって、あんまりだよ…!)
キスはくれないし、自分をまるで子供扱い。
指で額をピンと弾くなど、どう考えても子供の扱い。
前の自分はそんな目に遭っていないから。頭を小突かれもしていないから。
キスを強請れば直ぐに貰えた、強請らなくてもキスして貰えた。
唇に触れて、それから深く。
そういうキスを何度も交わした、甘い恋人同士のキスを。
自分は思い出したのに。
ハーレイのことも、恋人同士だったことも、何もかも思い出したのに。
そうしてハーレイと再会したのに、今の仕打ちはなんだろう?
キスは貰えなくて、代わりに額をピンとやられて、頭をコツンと小突かれて。
叱られて、睨まれて、それでおしまい。
「キスしていいよ?」と誘ってみたって、キスがしたいと言ったって。
恋人同士なのにキスが貰えない、欲しくてたまらないキスが。
唇へのキスが、ハーレイのキスが。
なんて酷い、と膨れっ面で怒るけれども、いないハーレイ。
とっくに帰ってしまったハーレイ。
キスの代わりに額を弾いて、「キスは駄目だ」と叱ったハーレイ。
その場で膨れてやったけれども、頬っぺたをプウッと膨らませたけれど。
ハーレイは焦って慌てる代わりに、「駄目なものは駄目だ」の一点張りで。
「キスはしてやらん」と冷たい一言、けして詫びては貰えなかった。
すまなかったと言いもしないで、それが当然だといった表情。
キスなどを贈るつもりは無いと。
膨れていようが、怒っていようが、俺はお前にキスなどしないと。
前の生からの恋人同士で、ようやく巡り会えたのに。
再会を遂げて、今度こそ一緒に生きてゆこうと何度も誓い合ったのに。
今日だって幸せな時間を二人で過ごして、幸せな気分だったのに。
「キスしていいよ?」と言った途端に、壊れてしまった甘い雰囲気。
ハーレイの眉間に寄せられた皺、「キスは駄目だ」と咎める目付き。
ついでに額にピンと一撃、褐色の指で弾かれた。
キスは駄目だと、チビには早いと。
けして早すぎはしないのに。
前の生から恋人同士で、長い時を共に生きていたのに。
チビだというだけで断られるキス、「駄目だ」と叱られてしまうキス。
何度プウッと頬を膨らませたか分からない。
プンプン怒って、機嫌を損ねて、ハーレイを睨んでやったのに。
酷いと文句もぶつけているのに、まるで効果が無いハーレイ。
それがどうしたと、たかがチビだと、涼しい顔をしているハーレイ。
こんなチビにはキスは要らないと、膨れっ面になるのがチビの証拠だと。
(そんなこと、ないし…!)
前の自分だって膨れたと思う、こんな酷い目に遭わされたなら。
キスの代わりに額をピンと弾かれたならば、「キスは駄目だ」と言われたならば。
頭をコツンと小突かれても同じ、「ハーレイは酷い」と、きっと膨れた。
何をするのかと、恋人なのに、と。
前の自分だってきっと怒った、膨れっ面になっていた。
ハーレイがそれをやらなかったから、一度も膨れはしなかっただけで。
いつでもキスを貰えていたから、膨れる必要が無かっただけで。
なんとも理不尽な話だけれども、今のハーレイはキスをくれない。
ただ触れるだけのキスもくれない、唇に触れるだけでいいのに。
もっと深くて甘いキスを、と欲張ったりはしていないのに。
唇にキスをして欲しいだけで、「もっと」と強請りはしていないのに。
(なんで駄目なの…?)
いつも、いつだって断られるキス。
「キスは駄目だ」と睨むハーレイ、叱って額を弾くハーレイ。
自分はハーレイの恋人なのに。
ハーレイの所に帰って来たのに、キスを贈ってくれないハーレイ。
だから悔しい、まだ貰えてはいないキス。
(キスしてもいいのに…)
そう思うから、キスをしたいから。
懲りずに強請り続けなくては、「キスは駄目だ」と叱られたって。
きっといつかは、ハーレイもキスを贈りたい気持ちになるだろうから。
唇にきっと、優しいキス。
それを貰えるに違いないから…。
キスが欲しいのに・了
※唇へのキスが欲しいブルー君。恋人なのに酷い、と怒ってますけど…。
膨れっ面は子供ならでは、そうやってプウッと膨れている間は無理そうですねv
(まったく、あいつは…)
ブルーときたら、と書斎でついた大きな溜息。
愛用のマグカップに熱いコーヒーをたっぷりと淹れて、それを飲みながら。
今日もブルーの家まで行って来たけれど、其処でブルーが言った一言。
膝の上にチョコンと腰掛けたままで、赤い瞳で見上げながら。
「キスしてもいいよ?」
それは愛くるしい顔で。十四歳の子供の顔で。
言葉と一緒に上を向いた顔、顎を取ってくれと言わんばかりに。
クイと上向かせてキスをしてくれと、してもかまわないと誘った瞳。
キスは駄目だと言ってあるのに、けして唇にはキスをしないと。
知っているくせに、分かっているくせに。
それでもブルーが強請ってくるキス、恋人同士の唇へのキス。
「キスしてもいいよ?」と誘うように。
自分の心を試すかのように。
その手に乗るか、と咎める目つきで見るけれど。
睨み付けたり、叱ったり。
ブルーの額を指先でピンと弾いてやったり、頭をコツンと小突いたり。
何度も何度も「駄目だ」と言うのに、小さなブルーは諦めない。
もう忘れたかと油断していたら、今日のようにキスを強請ってくる。
「キスしてもいいよ?」と恩着せがましく。
選ぶのはそちらだと言わんばかりに、ぼくの用意は出来ているから、と言うかのように。
諦めの悪い小さな恋人、小さなブルー。
まだ十四歳にしかならない恋人、あまりに幼い小さなブルー。
無垢な心にキスは早いし、キスのその先のことだって。
唇へのキスも駄目だというのに、それよりも先に進めるわけなど無いというのに。
ブルーの夢は「本物の恋人同士になること」、前と同じに結ばれること。
冗談じゃない、と頭を振った。
あんなチビにと、あんな子供にキスが出来るかと。
キスよりも先のこととなったら、もう本当に冗談どころの騒ぎではなくて。
子供相手に出来るどころか、考えることすら許されなくて。
だから家には来るなと言ったし、距離を保とうと心に決めた。
唇へのキスは、いつかブルーが前のブルーと同じ背丈に育つまでは禁止。
それまでは家に来るのも禁止で、二人きりにはなるまいと。
そうやって決めて保っている距離、今ではすっかり慣れたけれども。
前のブルーと今のブルーの区別もしっかりつくけれど。
間違えたって小さなブルーにキスはしないし、その先のことも求めない。
小さなブルーは無垢な子供で、前のブルーとは違うから。
記憶はそっくり同じものでも、心も身体も子供だから。
それに合わせて扱いの方も子供らしくと、キスは駄目だと叱るのに。
チビの間は頬と額だけ、それしか駄目だと言っているのに。
ブルーは懲りない、諦めもしない。
何かのはずみに紡がれる言葉。
「キスしてもいいよ?」と愛らしい声で。
ぼくはいいよと、キスをしようと。
もちろん許してやるわけがないし、キスだってしない。
ピンと額を弾いてやるとか、「こら!」と叱りつけるとか。
そんな結末しか無いというのに、小さなブルーは諦めない。
叱られようが、膝の上から追い払われようが、睨み付けられてしまおうが。
どうせ本気で怒りはしないと、高を括っているブルー。
「ハーレイが怒るわけがないもの」と考えているのがよく分かる。
わざわざ心を読まずとも。
ブルーの心を覗き込まずとも、いつだって顔に出ているから。
「ハーレイはぼくを叱らないよ」と、「怒っても本気じゃないんだから」と。
間違ってはいない、ブルーの読みは。
「キスは駄目だ」と叱るけれども、頭を小突きもするけれど。
額をピンと弾きもするけど、心の底から怒りはしないし、怒ってもいない。
怒る気持ちも起こらない。
小さくてもブルーはブルーだから。
前の生から愛し続けた、誰よりも愛した恋人だから。
それが小さくなったからと言って、心が変わるわけもない。
愛しい気持ちが消えるわけもない、愛おしさが更につのりはしても。
一度失くした恋人なだけに、前よりもずっと愛おしく大切に思いはしても。
そういう気持ちを知っているのか、いないのか。
小さなブルーは諦めもせずに、懲りもしないでキスを求める。
前の自分と同じにキスを。
唇へのキスを、それが欲しいと。
けれども、キスは贈れない。唇へのキスを贈れはしない。
今のブルーが相手では。
十四歳にしかならないブルーは、そういうキスにはまだ早いから。
額と頬へのキスがせいぜい、それが精一杯のキス。
恋人へのキスには違いなくても、親愛のキスと変わらないキス。
小さなブルーが父や母から貰うキスと同じ、まるで変わらない優しいキス。
それがブルーに相応しいキス、今のブルーに似合いのキス。
なのに、諦めてはくれないブルー。
本物のキスがして欲しいブルー。
子供にはそれは似合わないのに、まだ似つかわしくないというのに。
それに相応しい年になったら、姿に育ったら、いくらでも贈ってやるというのに。
(…まったく、あいつは…)
諦めが悪いし、懲りもしないし…、とついた溜息、零れた溜息。
まるで全く分かっていないと、いつになったら分かるのかと。
「キスしてもいいよ?」と言うだけ無駄だと、頭を小突かれるだけのことだと。
額をピンと指で弾かれ、叱られて終わるだけなのだと。
(…チビだからなあ…)
学習って言葉を知らないかもな、とコーヒーを喉に送り込む。
何度言っても懲りないからには、少しも学習していないのだな、と。
途端にクッとこみ上げた笑い。
小さなブルーは懲りないけれども、全く学習しないけれども。
本当の意味での学習の方は、「学校の勉強」という方は。
(あれでもトップなんだよなあ…)
だから学習はしていると思う、学校の勉強といった意味では。
頭がいいから、猛勉強など必要無いとは思うけれども。
苦労しないで好成績を出すのだろうけれど、やはり学習はしているわけで。
そんなブルーに「お前は全く学習しないな」と言おうものなら、膨れるだろう。
「授業はちゃんと聞いているよ!」と。「宿題だってしているでしょ!」と。
(うんうん、学習はしてるんだ…)
ちゃんとしている、とクックッと笑った、小さなブルーが言う学習。
学校の勉強という意味の学習。
そちらはきちんとしているけれども、肝心の学習がサッパリ駄目で。
どんなに「駄目だ」と叱り付けようが、睨み付けようが、強請られるキス。
「キスしてもいいよ?」と誘ってまで。
顎を取ってと、ぼくにキスしてと、言葉にしなくても瞳を向けて。
なんとも困ったことだけど。
本当に困ってしまうのだけれど、学習をしない小さなブルー。
キスは駄目だと、強請るだけ無駄と、覚えてくれない小さなブルー。
(まったく、あいつは…)
困ったものだ、と溜息を零してコーヒーを飲む。
いい加減、覚えてくれないものかと、ブルーが学習してくれないかと。
そうは思っても、愛しいブルー。小さなブルーが愛おしい。
「キスしてもいいよ?」と誘うブルーが、唇へのキスを強請るブルーが。
一度は失くした恋人だから。
奇跡のように戻って来てくれた恋人の今の姿が、小さなブルーなのだから…。
キスは駄目だ・了
※ハーレイ先生に何度叱られても、キスを強請るのがブルー君。
甘く見られているらしいハーレイ先生、ブルー君には甘いから仕方ないですねv
(んーと…)
少し風でも入れてみよう、とブルーが開けた部屋の窓。
今日はハーレイが来なかったから、部屋にお菓子の匂いは無くて。
紅茶の香りも残っていなくて、ハーレイがいたという名残も無くて。
ただの平日、そんな日の夜。
ハーレイが寄ってくれたらよかったのに、と寂しい気持ちになってくるから。
もうハーレイは家でとっくに夕食を済ませているだろうかと、独りぼっちな気がするから。
それでは駄目だと、もっと元気にと、気分転換に空気の入れ替え。
きっと清しい風が吹き込むから、窓から吹いてくるだろうから。
とうに暮れて暗くなった庭。
夕食は食べたし、後はお風呂に入って寝るだけ、そういう時間。
庭園灯が照らす庭から、思った通りに涼しい風。夜気を含んだ木々の匂いも。
(うん、気持ちいい…!)
庭の緑の葉っぱの匂い、と胸一杯に風を吸い込んだ。
まるでミントの葉を噛んだかのように、すっきりと晴れた気がする心。
今日はハーレイは来なかったけれど、また会えるからと。
明日も駄目でも、週末はきっと。
予定があるとは聞いていないから、土曜日が来れば会える筈。
週末は会えるに決まっているのに、土曜日を待てばいいだけなのに。
それさえ忘れて、寂しい気持ちになっていた自分。独りぼっちだと思った自分。
土曜日になったら、ハーレイはちゃんと来てくれるのに。
今日はハーレイは来なかったけれど、両親と夕食を食べたのに。
(…寂しがっちゃって、独りぼっちだなんて思って…)
なんて我儘な子供だろうか、もっと、もっとと欲しがる子供。
あれが欲しいと、これも欲しいと、ショーウインドウの前で騒ぐ子供と同じ。
足を踏ん張って、駄々をこねて。
我儘だったと気付けただけでも、窓を開けた甲斐はあったから。
気分転換になってくれたと、開けて良かったと、そのまま外を眺めていたら。
庭園灯が灯った庭と、生垣の向こうの通りなどを窓から見ていたら…。
(あれ?)
タッタッと軽快に走る人影、生垣の向こうを。
もしやハーレイかと思ったけれども、まるで違った背格好。
街灯の下を通ってゆく時、若い青年の姿が見えた。
ハーレイと比べたら細っこいけれど、しっかり鍛えてあるだろう身体。
マラソン選手のような服装、ゼッケンが無いというだけで。
(こんな時間でも走ってるんだ…)
それは軽快に、リズミカルに。
タッタッと乱れもしない足取り、アッと言う間に見えなくなってしまった青年。
何処から来たのか、何処へゆくのか、タッタッと軽く地面を蹴って。
走ることなど息をするのと変わりはしない、と言わんばかりに、リズミカルに。
自分だったら、あんな速さで長く走れはしないのに。
学校のグラウンドを一周したなら、それだけで座り込みそうなのに。
凄い、と感心した青年。
ジョギングをする人は何度も見掛けたけれども、特に珍しくはないのだけれど。
夜に外へ出ることは滅多に無いから、夜にはあまり出会わない。
窓を開けた所へ通り掛かってくれない限りは、走っていたって気付かないから。
暗くなってカーテンを閉めてしまったら、外は全く見えないから。
(夜でも走ってて、おまけに速くて…)
あの青年は走るのが好きなのだろうか、それとも鍛えているのだろうか。
ハーレイと同じでジョギングが趣味で、時間が出来たら夜でも走ってゆくのだろうか…?
改めて思えば、とても速かった青年の足。
ジョギングしようというほどの人は、誰でもさっきの青年くらいのペースだけれど。
それだけのスピードも出せないようでは、きっとジョギングは無理だろうけれど。
(うんと長い距離を走るんだしね…?)
学校のグラウンドを一周するのとは違う、ジョギングなるものは。
マラソンとまではいかないにしても、一キロや二キロは軽く走るもので。
人によっては隣町までも行ってしまうと聞いたこともある、調子が良ければ。
今日はこれだけ、と決めて走って、隣の町まで。
途中で飲み物を飲んだりしながら、タッタッと軽く地面を蹴って。
ハーレイの両親が住んでいる町まで、普通の人なら車で出掛ける隣町まで。
(きっと、ハーレイだって…)
走れるのだろう、その気になったら隣町まで。
庭に夏ミカンの大きな木がある、ハーレイの両親が住んでいる家。
その家にだって走ってゆくことが出来るかもしれない、途中で何度か休憩しながら。
帰り道だって、両親に貰ったお土産を背負って、タッタッと。
夏ミカンの実のマーマレードが詰まった瓶やら、他にも何かを詰めたリュックを。
これくらいの荷物は重くもないと、ついでに飲み物も入れておこうと。
そうして飲み物で休憩しながら、自分の家まで。
荷物を背負って疲れもしないで、それは軽快に地面を蹴って。
走るハーレイが目に浮かぶようで、さっきの青年よりもずっと速そうで。
もしかしたらハーレイも今頃は走っているかもしれない、この町の何処かを。
今日は運動だと、軽く走ろうと、信じられないくらいの距離を。
隣町までは行かないにしても、自分にはとても走れそうもない距離を、タッタッと。
(…ぼくだって、そんな風に走れたら…)
さっき通った青年のように、軽快に走ってゆけたなら。
疲れなど知らないといった足取りで、リズミカルに走ってゆけたなら。
(…ハーレイと合流…)
出来るかもしれない、町の何処かで。
走る途中でバッタリ出会って、せっかくだからと同じコースを暫く走って。
(…走れたらハーレイに会えそうなのに…)
今日のようにハーレイが来なかった日でも、ジョギングに出掛けて行ったなら。
ハーレイの家に行っては駄目でも、その方向へと走ったならば。
何処かで出会って、「お前もか?」などと声を掛けられて、一緒に走る。
暫くの間、同じコースを、ハーレイと並んでリズミカルに。
走りながら話は出来ないとしても、バッタリ出会って、暫くの間。
「俺はこっちだから」とハーレイが言うまで、道が分かれる所まで。
もしも走ってゆけたなら。
さっきの青年が走って行ったように、長い距離を楽々と走れたならば。
隣町までは走れなくても、其処までの距離は無理だとしても。
せめてハーレイの家まで軽く往復出来るくらいの、体力とスピードがあったなら。
「走ってくるね」と両親に言って、タッタッと走ってゆけたなら…。
どんなに素敵なことだろう。
走る途中でハーレイにバッタリ会うかもしれない、今日のような日でも。
ハーレイが来てくれなかった日でも。
そう思ったら走ってゆきたい、さっき走っていた青年のように。
ハーレイの家の方を目指して、軽い足取りでタッタッと。
何処かでハーレイに会えるかもしれないと胸を膨らませて、地面を蹴って。
何度もそうして走っていたなら、走ってゆくことが出来たなら。
(きっと、ハーレイにも会えるんだよ…)
ハーレイのジョギングコースの何処かで、バッタリと。
自分がタッタッと走るコースと、ハーレイが走るコースが重なり合った何処かで。
会えたら、きっと暫くは一緒。
お互いのコースが分かれてゆくまで、一緒に走って、手を振って別れて…。
(走りながらは話せなくっても…)
会えたら、それだけで満足だから。一緒に走れたら充分だから。
走ってゆきたい、ハーレイが走っていそうな場所へ。
今日のように会えなかった夜には、タッタッと軽く地面を蹴って。
(走って行けたら、会えそうなんだけどな…)
今日のような日でも、こんな夜でも。
会えなかったとションボリしている代わりに、ハーレイがいそうな方へと走って。
けれど、自分には出来ないジョギング。
前の自分と全く同じに弱い身体は、グラウンドを走って一周するのが精一杯で。
隣町まで走るどころか、ハーレイの家までも走れはしない。
学校にだって歩いて通えない、弱すぎる身体なのだから。
そんな身体でジョギングは無理で、ハーレイと一緒に走るのは無理。
ハーレイに会える方へと走ってゆくなど、出来はしなくて。
(でも、走りたいよ…)
叶わないから夢を見てしまう、もしも走ってゆけたなら、と。
こんな夜には走ってゆきたい、ハーレイに会えずに終わった日には。
けして出来ないから、叶わないから、夢を見る。
ハーレイに会いに走ってゆきたいと、一緒に走れたら幸せなのに、と…。
走ってゆきたい・了
※ハーレイ先生に会えなかった日のブルー君。会いたい気持ちは消えないようです。
ジョギングしていて会えるのならば、と夢見る辺りが健気ですよねv
(…ふうむ…)
少し開けておくか、と近付いたダイニングの窓。
ブルーの家には寄れなかったから、家で夕食。支度を済ませて食べる前。
キッチンからの匂いがこもったというわけではない、料理の匂いはむしろ歓迎。
食べる前から食欲をそそる、湯気の匂いもスパイスなども。
それを追い出すためとは違って、庭を眺めながら食べたい気分。
ガラス越しにもよく見えるけれど、青々と茂った木々を抜けて来る風も欲しくて。
風が通るよう、窓を開けに行った、「このくらいか」と。
開けた窓から虫が入らないよう、ひと工夫。
自然の虫よけ、ゼラニウムの鉢を窓辺の床に据えれば、まず安心。
それでも入ってくる虫がいるなら、それもまた良し。
彼らの住みやすい庭がある証拠で、隣近所にも緑が多いということだから。
サアッと吹いて来た心地良い風、「よし」とテーブルで始めた夕食。
もう暗いけれど、庭園灯が照らす緑の木々を見ながら。
たまに自分で手入れする芝生も、この季節は特に元気がいい。
その上を歩けば独特の感触、スポーツ用の芝生を思い出させる感覚。
(柔道に芝生は無いんだがな?)
あれは畳の上でするもの、でなければ専用のマットレス。
道場に行っても畳と板敷の世界、芝生は全く生えてはいない。
得意の水泳の世界でも同じ、プールの水底に芝生などは無いし、プールサイドにも。
レジャー用のプールだったら、芝生の庭がついていたりもするけれど。
自分が泳ぐようなプールには無い、本物の葉をつけた青い芝生は。
(俺とは直接ご縁は無いが、だ…)
学生時代はグラウンドで世話になっていた芝生。
サッカーやラグビー、そういったもので。
ボールを追うのに走り回った、広々と密に茂った芝生を。
足の裏に蘇ってくる芝生の感触、其処を走ったと高まる気持ち。
運動好きだけに、血が騒ぎ出す。
走ってみたいと、気持ち良く駆けてゆきたいと。
庭の芝生も悪くないけれど、もっと広い場所を心ゆくまで。
芝生でなくても走ってゆきたい、心おもむくまま、気の向くままに。
(ひとっ走りするかな…)
食事が済んだら。
後片付けを済ませて、コーヒーでも飲んで一服したら。
(食って直ぐには走れないしな?)
もちろん直ぐにでも走れるけれども、それでは消化に良くはないから。
半時間ほど休むのがいい、食事を収めた胃が落ち着くまで。
コーヒー片手に新聞でも読んで、それから走りに出掛けるのがいい。
ジョギング用の服に着替えて、靴だって走るための靴。
それが最適、健康的だし、何処までだって駆けてゆけるから。
今夜は此処まで、と折り返し点を決めるまで。
此処で帰ろうと向きを変えるまで、帰りの道へと走り出すまで。
そうしよう、と決めたけれども、食事が済んだらジョギングだけれど。
何も考えずに走っていいなら、今直ぐにだって走ってゆける。
窓辺の床に置いたゼラニウムの鉢、それを脇へとずらして庭へ。
ダイニングから外に出られるようにと置いてあるサンダル、それを引っかけて。
サンダル履きで走っていいなら、家の戸締りも気にしないなら。
ジョギング用のシャツやズボンの代わりに、今の普段着でいいのなら。
(そいつもなかなか…)
素敵ではある、思い付いて直ぐに走ること。
思い立ったが吉日とばかり、夕食も途中で放り出して。
子供の頃には本当にやった、食事中に何かを見付けたりしたら。
庭に見慣れない蝶が来たとか、子猫が迷い込んで来たとか。
もうそうなったら食事は放って庭に飛び出した、サンダル履きで。
サンダルも履かずに出たこともあった、大急ぎで裸足で駆け出した庭。
(…出て行く時は夢中なんだがなあ…)
戻って来る時にバツが悪かった、なにしろ食事の途中だから。
母には呆れられ、父にはこっぴどく叱られたりもした、「靴くらい履け」と。
サンダル履きの時はまだしも、裸足だった時は。
母が「足の裏をちゃんと拭いて入りなさい」と、雑巾を渡して寄越した時は。
今は流石にそれはやらない、この年で裸足で飛び出しはしない。
子供の頃より分別もあるし、年相応の落ち着きも身に付けたから。
それでも無性にやってみたくなる、思い立ったら走り出すこと。
夕食を放って、戸締りも放って、ダイニングから庭へと飛び出してみたい。
庭に出たなら芝生を突っ切り、門扉を開けて外の通りへ。
そうして何処までも走ってゆきたい、此処だと自分が思う場所まで。
此処で戻ろうと、折り返すんだと、家へと向きを変える時まで。
(呆れられるから、やらんがなあ…)
今のズボンと半袖シャツに、庭のサンダルを足に突っかけて走る。
それでも充分に走れるけれども、人並み以上の距離を走ってゆけるだろうけど。
何処から見たって、ジョギング向けではない服装。それにサンダル。
何を慌てているのだろうかと、誰もが振り向くことだろう。
飼っている猫か犬でも逃げ出したのかと、それを追い掛けているのかと。
どう考えてもそういう格好、今のシャツとズボンにサンダルならば。
けれど、人目を気にしないのなら、呆れられてもいいのなら。
食事を放って飛び出してもいい、子供時代にそうしたように。
バツの悪い思いをしてもいいなら、今のシャツとズボンにサンダル履きで。
庭へ駆け出し、それから芝生を突っ切って外へ。
表の通りをタッタッと走り、何処へゆくのも自分の自由。
此処で終わりだと、家に戻ろうと折り返し地点を決める場所まで、気の向くままに。
(そういうのも、やってみたいんだがな?)
この年でなければ、教師でなければ。
何処で教え子やその親に出会うか分からない上に、いい年だから。
人目を引くことはちょっとマズいと、やはり着替えて走らないと、と考えるけれど。
実際、そうして走りにゆこうと段取りを立てているのだけれど。
(…待てよ?)
思い立ったら飛び出してゆける、走ってゆける窓の外。
ゼラニウムの鉢を脇へずらして、置いてあるサンダルを足に突っかけて。
そのまま庭の芝生を走って、突っ切ったら門扉を開けて飛び出して…。
何処までも走れる、思いのままに。
折り返し点だと場所を定めるまで、此処で戻ろうと家へと足を向けるまで。
それを決めるまで、何処までだって。
真っ直ぐ北に走ってゆこうが、逆に南へと走ろうが。
西へゆこうが東にゆこうが、終点など無い窓の外。
もちろん、どちらへ向かった所で、夜を徹して走り続けたら、次の日も走って行ったなら。
山にもぶつかるし、川にもぶつかる、広い海にだって。
けれども、そういう障害物やら、終点なのだと言わんばかりの海にバッタリぶつかるまでは…。
(何処までも走っていけるじゃないか…!)
このダイニングから飛び出しても。
何の準備も整えないまま、今のシャツとズボンにサンダル履きでも。
少し開けてある窓の向こうを何処までも走れる、足の向くまま、気の向くままに。
此処で終わりだと遮られはしない、庭へ出ようとした瞬間に。
窓の向こうは自分が自由に走れる世界で、人目を気にせず走るのだったら、サンダル履きでも。
(そうだ、あの向こうは…)
風を入れようと開けた窓の外は、雲の海でも漆黒の宇宙空間でもない。
窓を開けた途端に真空の宇宙に吸い出されもしなくて、雲を突き抜けて落ちることもなくて。
窓の向こうへと真っ直ぐそのまま、サンダル履きでも走ってゆけて…。
そうだったのか、と改めて眺めた窓の外。
何処までも自由に駆けてゆける世界。
前のブルーが、自分が夢見た、踏み締められる地面が其処に広がる、この窓の外に。
(地球だとばかり思っていたが…)
青い地球に来られたと歓喜したけれど、ブルーと二人で地球に来られたと喜んだけれど。
踏み締められる地面も地球についてきた、何処までも走ってゆける地面が。
ならば、今夜は走らねばなるまい、好きに走れる地面の上を。
夕食が済んだら一休みして、着替えて、此処だと思う場所まで。
窓の外は何処までも、自由に走ってゆけるのだから。
シャングリラの窓の外とは違って、何処までも地面が続くのだから…。
走ってゆける・了
※運動好きなハーレイ先生、夕食の後にも走りに出掛けてゆくようです。
シャングリラでは走れなかった窓の外。今夜のジョギングはきっと最高の気分ですねv
