(んーと…)
少し風でも入れてみよう、とブルーが開けた部屋の窓。
今日はハーレイが来なかったから、部屋にお菓子の匂いは無くて。
紅茶の香りも残っていなくて、ハーレイがいたという名残も無くて。
ただの平日、そんな日の夜。
ハーレイが寄ってくれたらよかったのに、と寂しい気持ちになってくるから。
もうハーレイは家でとっくに夕食を済ませているだろうかと、独りぼっちな気がするから。
それでは駄目だと、もっと元気にと、気分転換に空気の入れ替え。
きっと清しい風が吹き込むから、窓から吹いてくるだろうから。
とうに暮れて暗くなった庭。
夕食は食べたし、後はお風呂に入って寝るだけ、そういう時間。
庭園灯が照らす庭から、思った通りに涼しい風。夜気を含んだ木々の匂いも。
(うん、気持ちいい…!)
庭の緑の葉っぱの匂い、と胸一杯に風を吸い込んだ。
まるでミントの葉を噛んだかのように、すっきりと晴れた気がする心。
今日はハーレイは来なかったけれど、また会えるからと。
明日も駄目でも、週末はきっと。
予定があるとは聞いていないから、土曜日が来れば会える筈。
週末は会えるに決まっているのに、土曜日を待てばいいだけなのに。
それさえ忘れて、寂しい気持ちになっていた自分。独りぼっちだと思った自分。
土曜日になったら、ハーレイはちゃんと来てくれるのに。
今日はハーレイは来なかったけれど、両親と夕食を食べたのに。
(…寂しがっちゃって、独りぼっちだなんて思って…)
なんて我儘な子供だろうか、もっと、もっとと欲しがる子供。
あれが欲しいと、これも欲しいと、ショーウインドウの前で騒ぐ子供と同じ。
足を踏ん張って、駄々をこねて。
我儘だったと気付けただけでも、窓を開けた甲斐はあったから。
気分転換になってくれたと、開けて良かったと、そのまま外を眺めていたら。
庭園灯が灯った庭と、生垣の向こうの通りなどを窓から見ていたら…。
(あれ?)
タッタッと軽快に走る人影、生垣の向こうを。
もしやハーレイかと思ったけれども、まるで違った背格好。
街灯の下を通ってゆく時、若い青年の姿が見えた。
ハーレイと比べたら細っこいけれど、しっかり鍛えてあるだろう身体。
マラソン選手のような服装、ゼッケンが無いというだけで。
(こんな時間でも走ってるんだ…)
それは軽快に、リズミカルに。
タッタッと乱れもしない足取り、アッと言う間に見えなくなってしまった青年。
何処から来たのか、何処へゆくのか、タッタッと軽く地面を蹴って。
走ることなど息をするのと変わりはしない、と言わんばかりに、リズミカルに。
自分だったら、あんな速さで長く走れはしないのに。
学校のグラウンドを一周したなら、それだけで座り込みそうなのに。
凄い、と感心した青年。
ジョギングをする人は何度も見掛けたけれども、特に珍しくはないのだけれど。
夜に外へ出ることは滅多に無いから、夜にはあまり出会わない。
窓を開けた所へ通り掛かってくれない限りは、走っていたって気付かないから。
暗くなってカーテンを閉めてしまったら、外は全く見えないから。
(夜でも走ってて、おまけに速くて…)
あの青年は走るのが好きなのだろうか、それとも鍛えているのだろうか。
ハーレイと同じでジョギングが趣味で、時間が出来たら夜でも走ってゆくのだろうか…?
改めて思えば、とても速かった青年の足。
ジョギングしようというほどの人は、誰でもさっきの青年くらいのペースだけれど。
それだけのスピードも出せないようでは、きっとジョギングは無理だろうけれど。
(うんと長い距離を走るんだしね…?)
学校のグラウンドを一周するのとは違う、ジョギングなるものは。
マラソンとまではいかないにしても、一キロや二キロは軽く走るもので。
人によっては隣町までも行ってしまうと聞いたこともある、調子が良ければ。
今日はこれだけ、と決めて走って、隣の町まで。
途中で飲み物を飲んだりしながら、タッタッと軽く地面を蹴って。
ハーレイの両親が住んでいる町まで、普通の人なら車で出掛ける隣町まで。
(きっと、ハーレイだって…)
走れるのだろう、その気になったら隣町まで。
庭に夏ミカンの大きな木がある、ハーレイの両親が住んでいる家。
その家にだって走ってゆくことが出来るかもしれない、途中で何度か休憩しながら。
帰り道だって、両親に貰ったお土産を背負って、タッタッと。
夏ミカンの実のマーマレードが詰まった瓶やら、他にも何かを詰めたリュックを。
これくらいの荷物は重くもないと、ついでに飲み物も入れておこうと。
そうして飲み物で休憩しながら、自分の家まで。
荷物を背負って疲れもしないで、それは軽快に地面を蹴って。
走るハーレイが目に浮かぶようで、さっきの青年よりもずっと速そうで。
もしかしたらハーレイも今頃は走っているかもしれない、この町の何処かを。
今日は運動だと、軽く走ろうと、信じられないくらいの距離を。
隣町までは行かないにしても、自分にはとても走れそうもない距離を、タッタッと。
(…ぼくだって、そんな風に走れたら…)
さっき通った青年のように、軽快に走ってゆけたなら。
疲れなど知らないといった足取りで、リズミカルに走ってゆけたなら。
(…ハーレイと合流…)
出来るかもしれない、町の何処かで。
走る途中でバッタリ出会って、せっかくだからと同じコースを暫く走って。
(…走れたらハーレイに会えそうなのに…)
今日のようにハーレイが来なかった日でも、ジョギングに出掛けて行ったなら。
ハーレイの家に行っては駄目でも、その方向へと走ったならば。
何処かで出会って、「お前もか?」などと声を掛けられて、一緒に走る。
暫くの間、同じコースを、ハーレイと並んでリズミカルに。
走りながら話は出来ないとしても、バッタリ出会って、暫くの間。
「俺はこっちだから」とハーレイが言うまで、道が分かれる所まで。
もしも走ってゆけたなら。
さっきの青年が走って行ったように、長い距離を楽々と走れたならば。
隣町までは走れなくても、其処までの距離は無理だとしても。
せめてハーレイの家まで軽く往復出来るくらいの、体力とスピードがあったなら。
「走ってくるね」と両親に言って、タッタッと走ってゆけたなら…。
どんなに素敵なことだろう。
走る途中でハーレイにバッタリ会うかもしれない、今日のような日でも。
ハーレイが来てくれなかった日でも。
そう思ったら走ってゆきたい、さっき走っていた青年のように。
ハーレイの家の方を目指して、軽い足取りでタッタッと。
何処かでハーレイに会えるかもしれないと胸を膨らませて、地面を蹴って。
何度もそうして走っていたなら、走ってゆくことが出来たなら。
(きっと、ハーレイにも会えるんだよ…)
ハーレイのジョギングコースの何処かで、バッタリと。
自分がタッタッと走るコースと、ハーレイが走るコースが重なり合った何処かで。
会えたら、きっと暫くは一緒。
お互いのコースが分かれてゆくまで、一緒に走って、手を振って別れて…。
(走りながらは話せなくっても…)
会えたら、それだけで満足だから。一緒に走れたら充分だから。
走ってゆきたい、ハーレイが走っていそうな場所へ。
今日のように会えなかった夜には、タッタッと軽く地面を蹴って。
(走って行けたら、会えそうなんだけどな…)
今日のような日でも、こんな夜でも。
会えなかったとションボリしている代わりに、ハーレイがいそうな方へと走って。
けれど、自分には出来ないジョギング。
前の自分と全く同じに弱い身体は、グラウンドを走って一周するのが精一杯で。
隣町まで走るどころか、ハーレイの家までも走れはしない。
学校にだって歩いて通えない、弱すぎる身体なのだから。
そんな身体でジョギングは無理で、ハーレイと一緒に走るのは無理。
ハーレイに会える方へと走ってゆくなど、出来はしなくて。
(でも、走りたいよ…)
叶わないから夢を見てしまう、もしも走ってゆけたなら、と。
こんな夜には走ってゆきたい、ハーレイに会えずに終わった日には。
けして出来ないから、叶わないから、夢を見る。
ハーレイに会いに走ってゆきたいと、一緒に走れたら幸せなのに、と…。
走ってゆきたい・了
※ハーレイ先生に会えなかった日のブルー君。会いたい気持ちは消えないようです。
ジョギングしていて会えるのならば、と夢見る辺りが健気ですよねv