(おっ…?)
涼しそうだな、とハーレイが目を留めた新聞記事。
夏休みの朝、ブルーの家へと出掛ける前に。
家を出るにはまだ早い時間、朝食を終えてのんびり開いた新聞。
其処に載っていた夏の川遊び、船に乗っての急流下り。
一年中やっているのだけれども、今が一番人気の季節。
船頭が操る船で下る川、時には水の飛沫も浴びる。
急な段差を下った時やら、流れが早くて逆巻く所をゆくような時に。
両親や友人たちと何度か乗っているから分かる。
あれに乗るなら夏が一番、飛び散る飛沫を被りながらの川下り。
(ブルーも喜びそうなんだが…)
乗せてやったら喜ぶと思う、小さなブルーも。
車を出したら充分に日帰り出来る場所。
川下りの船に乗り込む前に車とキーとを預けておいたら、車はちゃんと運んで貰える。
船で下って辿り着く場所、其処の近くの駐車場まで。
キーを受け取って乗って帰るだけ、船に乗った場所まで戻らなくても済むサービス。
乗りに行くのは簡単なのだし、帰って来るのも簡単だけれど…。
(…問題はあいつがチビだってことで…)
大喜びでついて来そうなブルー。
「ホントにいいの?」と車に乗り込み、川下りに行くのだとはしゃぎそうなブルー。
容易に想像出来るけれども、如何せん、ブルーは十四歳にしかならない子供。
(…ただの教え子というだけだったら…)
川下りにだって連れて行ってやれる、他の子たちに遠慮はせずに。
学校からも、生徒たちからも「贔屓だ」と文句は出はしない。
自分は守り役なのだから。
聖痕を持った小さなブルーが二度と出血を起こさないよう、側にいるのが役目だから。
ただの守り役と、守られる方の教え子と。
それだけだったら、いつでも行ける川下り。
「今日は天気がいいから行くか」と車で乗り付け、ブルーを乗せて。
ブルーの両親だって何も言わない、それどころか御礼を言われるくらい。
「わざわざ車を出して貰ってすみません」と、「ブルーをよろしくお願いします」と。
川下りの費用も払うと言い出しかねない、二人分を。
息子が乗せて貰うのだからと、もしかしたら「お昼御飯もどうぞ」と余分に。
そうして笑顔で見送るのだろう、一人息子を乗せた車を。
角を曲がって見えなくなるまで、「行ってらっしゃい」と手を振りながら。
連れてやるのは簡単だけれど、何の問題も無いけれど。
川下りの船にも乗れるけれども、今のブルーの年が問題。
(本当に、ただの教え子だったらいいんだが…)
二人きりで車に乗って行っても、遊びに行くというだけだから。
今が一番のシーズンだからと、川下りをしに行くだけだから。
けれどもブルーは実は恋人、前の生から愛したブルー。
どうしたわけだか、幼くなってしまっただけで。
青い地球の上、二人揃って生まれ変わって出会ったけれども、小さなブルー。
前の生でメギドに飛んだ時より、恋人同士だった頃より。
幼くなった小さな恋人、それでも同じに愛おしいブルー。
再会して直ぐの頃には何度も途惑い、小さなブルーの姿に惑いもしたけれど。
この姿でも恋人なのだと、ブルーなのだと心がざわめき、騒いだけれど。
今ではすっかり落ち着いた心、育つまで待とうと生まれた余裕。
心も身体も幼い恋人、小さなブルーが前と同じに育つまでは、と。
唇へのキスも、その先のことも、ゆっくりと待てる。
今のブルーの子供ならではの幸せな日々を、愛らしい顔を見守りながら。
自分の方ではそうなのだけれど、とうに心は決まったけれど。
納得しないのが小さなブルーで、何かと言ったら強請られるキス。
「キスしてもいいよ?」と誘ったりもする、小さな子供の姿のくせに。
無垢で愛くるしい笑みしか出来はしないくせに、一人前の恋人気取りで。
きっと自分では、妖艶な顔をしているつもり。
前のブルーがそうだったように、甘く香しい花がふわりと綻ぶように。
(…見事に失敗してるんだがな?)
今のあいつにそんな魅力があるもんか、とクックッと笑う。
暗闇でも人を誘いそうな花、そんな花とは違って愛らしい花、と。
けれども、ブルーはまるで分かっていないから。
待とうと決めた自分の心を突き崩そうと、あの手この手で頑張るから。
(二人きりだと危ないんだ、うん)
何をしでかすのか分からないブルー、二人きりでのドライブとなれば。
川下りに出掛けてゆくとなったら、それこそ頭をフル回転で。
(…思い付く限りの手を繰り出すぞ)
これはデートだと、勢い込んで。
千載一遇のチャンスなのだと、せめてキスくらいは勝ち取ってやろうと。
そうなってくると、自分の覚悟のほども怪しい。
二人きりの車内、ブルーがせっせと繰り出す攻撃、あの手この手で。
どんなはずみに懐に向けて撃ち込まれるか分からない。
自分の心を射抜くような弾を、キスはしないと決めた心を微塵に砕いてしまう弾を。
(…絶対に無いとは言い切れないしな…)
自分もブルーも、人だから。
いくら心を決めていたって、聖人君子ではない自分。
ブルーの方でも、チビはチビでも中身はブルー。
恋に夢中で、夢は「本物の恋人同士」で、前のブルーの記憶もしっかり抱えたままで。
子供の声でも、子供の顔でも、前のブルーと重なることもあるだろう。
出会って間もない頃の時期には、そうしたこともあったのだから。
だから危ない、いくら川下りが楽しそうでも。
ブルーが喜んでついて来そうでも、ブルーの両親が御礼を言ってくれそうでも。
(…連れてやるには危なすぎてなあ…)
まだまだ先になりそうだよな、と眺めた新聞記事の中。
涼しげに川を下ってゆく船、夏の日射しに煌めく飛沫。
この船がまたいい、遠い遥かな昔の日本で使われた船と同じ川舟。
和船と呼ばれる木で出来た船が、「船」と書くより「舟」が似合う船が。
華奢なように見えて、実は頑丈らしい船。
逆巻く急流も乗り越えてゆく船、川下りの魅力は船にもあって。
(…今どきの船では味わいがなあ…)
川下りをするならこういう船だ、と覗き込む写真。
いつかブルーと乗りに行こうと、ブルーが大きくなったなら、と。
水の飛沫が似合う季節に、夏の盛りに、「涼みに行くか」と車を出して。
ブルーと二人で少しドライブ、川下りの船の乗船場所でキーを預けて、この船に乗って。
同じ乗るなら前の方。
船の速さを、流れ下る川を、飛び散る飛沫を満喫できる場所がいい。
川を下って進んでゆく船、それの魅力を楽しめる場所が。
断然前だと、船を一隻見送ってでも前に乗ろうと思った所で。
ブルーと二人で並んで座って、川を下ろうと思った所で。
(…船なんだよな?)
これも船だ、と気が付いた。
華奢に見えてしまう川下りの船、「舟」と書きたくなるような船。
木で出来た船で、川を下ってゆくだけの船で、それにブルーと乗るのだけれど。
並んで乗ろうと思ったけれども、船ならブルーと乗っていた。
前のブルーと、ずうっと船に。
川を下るための遊びの船とは違って、仲間たちの命を、ミュウの未来を乗せていた船に。
楽園という名を持っていた船、箱舟だったシャングリラ。
あの白い船で宇宙を旅した、前のブルーと広い宇宙を。
船と言ったらシャングリラだった、前の自分とブルーにとっては。
遊びで乗っていた船とは違って、地球を目指して乗っていた船。
ミュウの未来を掴み取ろうと、青い地球まで辿り着こうと。
(…他に船なんかは…)
無かったのだった、ブルーと二人で乗れる船などは。
シャングリラの格納庫にはギブリなどのシャトルもあったけれども、あっただけ。
仲間を救出する時だとか、ナスカとシャングリラの往復だとか。
そういう時にだけ使っていた船、ブルーと乗れる船ではなかった。
シャトルでは地球に行けないから。
小さな機体しか持たないシャトルは、とても地球まで飛べないから。
なのに、この船はどうだろう。
ブルーと二人でいつか乗ろうと、前の方がいいと思った川舟。
「舟」という字が相応しい船、シャトルよりもずっと小さな和船。
それにブルーと乗ってゆく。
シャングリラで地球を目指す代わりに、水の飛沫を浴びながら。
青い地球の上の川を下って、川遊びのために乗ってゆく舟。
(…これにあいつと乗れるのか…)
二人きりで、と笑みが零れた、なんと素敵な船だろうかと。
シャングリラよりも遥かに小さく、まるでオモチャのような船。
それに乗れると、ブルーを誘って乗りに行ける日が訪れるのだと。
(うん、船だな…)
今日はブルーに話してやろうか、「船と言っても色々だよな」と。
前の自分たちが乗ってゆけた船は一つだったけれど、今は沢山ありそうだよな、と。
ただし、川下りの計画は内緒。
小さなブルーは「今、行きたいのに!」と膨れっ面になるだろうから。
大きくなるまで待てと言ったら、きっとプンスカ怒り出すから…。
川を下る船・了
※ハーレイ先生が計画している川下り。シャングリラと違って、遊ぶための船で。
同じ船でも形も意味も違うのです。ブルー君と早く乗りに行けるといいですよねv
(お月様…)
あんな所に、と小さなブルーが眺めた三日月。
今の季節は日が沈むのが遅いから。
太陽の名残を留めている空、其処にほんのり浮かんだ月。
細いけれども、ピカピカ光りはしないけれども、月だと分かる。
これから満ちてゆくのだろう月、まだまだ細い姿の月。
今日は学校があった日だから、ハーレイは来てはくれなくて。
仕事帰りに寄ってくれるかと待ったけれども、駄目だった。
とうの昔に過ぎてしまった、ハーレイが寄ってくれそうな時間。
こんな時間から来てはくれない、日暮れの遅い今の季節に夕陽が沈んでしまっては。
細い三日月が西の空にあると、眺めて気付く時間には。
(…昼の間は分かんなかった…)
三日月なんて、と考える。
何度も空を仰いだけれども、細い月には気付かなかった、と。
もしやハーレイが来てはくれないかと、ハーレイの車が見えはしないかと出た家の外。
門扉の向こうの通りまで出て、暫く待ってみたのだけれど。
ハーレイの車が来るならこっち、と眺めてみたり、そちらへと少し歩いてみたり。
そうして待っていたというのに、やはりハーレイは来てくれなくて。
前のハーレイの背にあったマント、それと同じ色の車は走って来なくて。
やっぱり駄目だと、待っていたのに、と戻ろうとした家の中。
溜息をついて門扉に手を掛けた時に気付いた三日月、西の空にほっそり光る月。
昼間は気付かなかったのに。
青い空に月はあったのだろうに、まるで気付かなかった三日月。
(…ぼくと同じでチビのお月様…)
だから見付からなかったのだと思う、あまりに小さな月だから。
まだ生まれたてと言っていいほど、三日しか経たない月なのだから。
(ぼくの方がまだ大きいくらい?)
十四歳にはなっているのだし、あと四年経てば十八歳。
ハーレイと結婚出来る年になる、四年待ったら、十八歳に。
そこまで育って来てはいるのだし、三日月よりかは大きく育っているかもしれない。
なんと呼ぶのか分からないけれど、あの三日月よりも太った月。
そう思ったら、俄かに覚えた親近感。
細っこいチビの三日月に。
これから日に日に満ちてゆくだろう、満月を目指してゆく月に。
(…今はぼくの方が先輩だけど…)
生まれて三日しか経たない月より先輩の自分、大きな自分。
けれども、月は直ぐに自分を追い越してゆく。
少しも背丈の伸びない自分を、十八歳になるまでに四年もかかる自分を。
アッと言う間に満ちてゆく月、二週間も経たずに丸くなる月。
すっかり育って立派な満月、それが夜空に昇ってくる。
けれど…。
(今はホントにチビなんだしね?)
あの月はきっと、本当に子供なのだろう。
早く育って満月になろうと、夜空を明るく照らし出そうと、夢を見ている子供の月。
まだ三日月にしかなっていないと、まだまだチビで光も弱いと。
昼の間は見えないのだから。
青空に月はあったのだろうに、気付いてくれる人は本当に少なかっただろうから。
自分と同じに小さな三日月、生まれて三日目の細い月。
それに力を貰った気がした、自分だって今に大きくなれると。
大きく育って満月になれると、ハーレイと結婚出来る日が来ると。
細っこい月に、「おんなじだね」と心で呼びかけて。
「ぼくの方が少し先輩だよ」と、「大きいんだよ」と自慢して。
西の空に向かって手を振った。
そちらにハーレイの車は無いのだけれども、月に向かって。
生まれて三日しか経たない三日月、自分と同じにチビの細い月に。
家に入ったら、もう三日月は見えなくて。
そうでなくても、きっと沈んでしまっただろう。
沈む間際に「あそこに見える」と気付く細い月、それが三日月なのだから。
太陽が輝く昼の間は、気付いて貰えないのだから。
今頃は山や地平線の向こうに沈んでしまって、育ってゆく日を待っている月。
しっかり眠って明日は育とうと、今日より大きな月になろうと。
(明日も会えるかな?)
今日よりも少し育った月に。
ほんの少しだけ大きく育って、「月があるよ」と早めに気付いて貰えそうな月に。
(…ハーレイが来てくれたら、忘れそうだけど…)
月の光が見えそうな頃は、きっと話に夢中だから。
部屋のテーブルを挟んで座って、あれこれ話しているだろうから。
そうでなければハーレイの膝にチョコンと乗っかっていそうな自分。
この時間なら母は来ないと、甘えていても大丈夫だと。
もしもハーレイが来てくれたならば、忘れそうな月。
今日より少し育ったろうかと、眺めに出るのを忘れそうな月。
(そうやって、一日忘れちゃったら…)
一日見るのを忘れていたなら、月は大きく育つのだろう。
これがチビだった三日月なのか、と思うくらいに。
同じように欠けた細い月でも、ずいぶんしっかりしたんだけれど、と。
二日忘れたら、その分だけ。
三日忘れたら三日分だけ、細かった月は育ってゆく。
チビの三日月はぐんぐん育って、チビの自分を追い越してゆく。
(…次に会ったら、ぼくより大きい?)
満月は何歳になるのだろうか、と考えてみた。
結婚出来る十八歳なのか、お酒が飲める二十歳なのか。
どちらだろうかと勉強机の前に座って、首を捻って、窓の外を見て。
(…十八歳?)
一番綺麗に見えると言われる月が、満月で十五夜なのだから。
結婚出来る年が似合う気がした、お酒が飲めるようになる年よりも。
二十歳よりも十八歳だと、満月はきっとそういう年だと。
月に年齢があるのなら。
生まれたての月がどんどん育って、大人になってゆくのなら。
丸く大きく満ちた満月が十八歳なら、今の自分と同い年の月はどれだろう。
どのくらいの月が自分と同じで、十四歳の月になるのだろう。
(んーと…)
生まれたての月が零歳だから、と指を折る。
十五夜の月が十八歳なら、三日月は三歳と少しだろうか、と。
その勘定でいけば、多分、満月の少し前。
二日ほど前が十四歳の月なのだろうか、今の自分と同い年の。
きっとそうだと、同い年だと、その月を思い浮かべたけれど…。
負けた、と悲しくなった月。
月の名前はまるで詳しくないのだけれども、上弦の月は知っていた。
七日ほど経った頃の月の見え方、ちょうど半分くらいの月。
そこから更に六日も経ったのが満月の二日ほど前の月。
何処から見たって、三日月のような形の月では有り得ない。
どちらかと言えば丸に近い月、満月なのかと間違えそうなくらいに丸いのだろう、その月は。
十四歳ならこのくらいだと、同い年だと思った月は。
チビで小さな自分と違って、もうすぐ満月になりそうなほどに育った月。
結婚出来る年は直ぐそこなのだと、こんなに大きく育ったのだと。
(…ぼくはホントにチビなのに…)
見た目も、ハーレイが言うには中身も。
前の自分と違って子供で、ハーレイはキスもしてくれない。
「キスは駄目だ」と、「チビには頬と額だけだ」と。
もっと自分が大きかったら、そうは言われなかっただろうに。
前の自分と同じ背丈に育つまでは駄目だと言われもしないで、キスの一つも貰えたろうに。
負けてしまった、と悔しい月。
今はチビでも、生まれて三日しか経たない月でも、直ぐに育って一人前。
十八歳になった満月だったら、負けて諦めもつくけれど。
あれは大人のお月様だと、結婚出来る年なのだからと、納得して仰ぎもするけれど。
(…ぼくと同い年でも、きっと丸くて…)
大きいのだろう、満月の二日ほど前の夜の月は。
さっき自分が勘定してみた、十四歳くらいになるだろう月は。
(…今はチビなのに…)
本当にチビの月だったのに、と悔しい三日月、羨ましい月。
十四歳になった頃には一人前かと思えそうなくらいに丸いだろう月、満ちてゆく月。
月のくせに、と膨れてしまった、昼間は見えもしなかったくせに、と。
気付いていた人は少ないだろうに、ぼくよりもチビの月のくせに、と。
怒ったって月には届かないのだし、膨れているだけ無駄なのだけど。
月はとっくに沈んでしまって、今の自分の膨れっ面さえ知らずに眠っているのだけれど。
明日にはもっと大きくなろうと、しっかり眠って育たなくては、と。
育つために沈んで行った月。
今は眠っているのだろう月、生まれてから三日しか経たない三日月。
それはくるりと地球を回って、明日になったらまた昇ってくる。
今日よりも少し遅い時間に、今日よりも少し育った姿で。
(…くるっと回れば育つだなんて…)
おまけに十四歳までにうんと大きく育つだなんて、とプウッと膨れて。
月のくせにと、今はぼくよりもチビのくせにと窓の向こうをキッと睨んで、気が付いた。
真っ暗になった窓の外。
月は無いから星たちの世界、そういう夜空があるだろうけれど。
幾つもの星が見えるだろう空、十日も経てば十四歳の月が輝くだろう空。
(…地球の空だよ…)
それに月も、と驚いた自分。
前の自分が焦がれていた地球、地球の周りを回っている月。
夢に見た星で、青い地球の上で、地球の月に向かって膨れっ面をしていたなんて。
月のくせにとプウッと膨れて、チビのくせにと、地球の三日月に。
生意気な月だと思ったけれども、もう許すしかないだろう。
前の自分が焦がれた地球。
その地球の上に、ハーレイと二人で来たのだから。
だからこそ羨ましかった月。
同い年のきっと丸いだろう月、それに負けたとプウッと膨れていたのだから…。
チビの三日月・了
※チビの三日月に負けてしまったと膨れっ面のブルー君。月のくせに、と。
けれども地球の月だと気付けば、もう許すしかないようです。地球にいる幸せv
(ほう…)
月か、とハーレイが眺めた西の空。
今の季節は日が暮れるのが遅いから。
今の時間も西の空を明るく見せている太陽の名残、これから降りてくる夕闇。
其処にほのかに浮かんでいる月、ほっそりと白く浮かんだ月。
満月ほどの輝きは無くて、それほどの大きさも全く無くて。
頼りないほどに細い三日月、まだ若い月。
眉月とも夕月とも言うのだったか、こういう月は。
これから満ちてゆく月は。
七日月には早すぎる月。
上弦の月とも、弓張月とも呼ばれる半分ほど満ちた月のこと。
(…あれは昼間の月なんだ)
正午に昇ってくる半月が上弦の月。
真昼の青空に浮かぶけれども、今の季節は太陽の輝きに負けてしまって忘れられがち。
何人の人が気付くのだろうか、昼間に月が昇っていると。
半分しか満ちていない月が青空にあると、あの白いのが月なのだと。
今の三日月もそうだけれども、太陽に負けてしまいがちな月。
一緒に空に昇った時には、主役は圧倒的に太陽。
(もう少し太れば夕方でも綺麗に見えるんだろうが…)
でなければ日暮れが早い季節、と眺める三日月。
家のガレージに車を入れた後、わざわざ表の通りまで出て。
庭からだと木々などの陰に隠れて見えなくなるから、頼りなさげな細い月を。
こういう月もなかなかにいいと、細くても味わいがあるものだと。
眉月に三日月、それから若月。
同じ形の月であっても、幾つもの名前。
これから満ちてゆくのに合わせて増えてゆく名前、空に輝く月を指す名前。
七日経ったら上弦の月。
弓張月で七日月になる、あの三日月が太ったら。
それまでの間は夕月だったか、弓張月には足りない月。
上弦の月が更に満ちてゆけば、もっと名前が増えてゆく。
十三夜の月に、十四夜の月。
見事に満ちたら満月で十五夜、夜空を煌々と照らす望月。
(…まだまだだな)
十日以上もかかるんだ、と庭に入って別れを告げた。
さっきよりかは明るさを増した三日月に。
もうすぐ西の空に沈むのだろう、細く頼りない眉月に。
庭に入ればもう見えない月、やがて宵闇が降りてくる。
月は沈んでしまったのだから、星たちが煌めき輝く夜が。
月の光に打ち消されないで、幾つもの星が空一面に散らばる夜が。
そういう夜も嫌いではない、月の無い夜空。
主役は自分だと言わんばかりに、星たちが幾つも煌めく夜空。
玄関を開けて入った家。
着替えをしたり、夕食の支度をしたりする間に、とっぷりと暮れて。
さて食べるか、とダイニングのテーブルに着いた頃には真っ暗な庭。
(このくらい暗くなっていればな…)
眉月だって綺麗に光っていただろう。
細いなりにも、銀色の針か何かのように。
夜空に爪で入れた切り込み、そんな風にも見える輝き。
季節がまるで逆の頃には、お目にかかれる明るい三日月。
冷え込む夜の訪れを前に、西の夜空に浮かぶ眉月。
(今の季節じゃ、そうはいかんし…)
強く輝く細い月を見るなら、朝早く。
満月から欠けて細くなった月、二十六夜と名前がついた細い月。
欠けている側は、今日の月とは逆様になっているけれど。
三日月とは逆の側がすっかり影になった月、二十六夜と呼ばれる月。
(十日どころか、もっと先だぞ)
うんと先だ、と窓の向こうの庭に目を遣る。
二十六夜の月が夜明け前の暗い空に昇るまでには、まだどのくらいかかるだろうか、と。
三日月が満ちて、丸くなるまでに十日以上はかかるから。
満月の次の日が十六夜の月で、その次の日が立待月。
人は満月が好きだからだろうか、月の名前はググンと増える。
まだか、まだかと月が昇るのを立って待つから立待月。
その次の日には立って待つのに疲れてしまうから、座って待つ月、居待月。
そのまた次の日は、寝て待つことになって臥待月と呼ばれる月の名。
寝て待ったならば充分だろうという気がするのに、まだ次があった。
夜が更けるまで待っているから更待月、と。
月を待ち侘び、幾つも名前を付けて昇るのを待った人々。
遥かな遠い昔の地球で。
SD体制など誰も思いもよらなかったろう、滅びる前の青かった地球で。
その人々も、夜更けまで待った更待月を見たら満足したのか、疲れ果てたか。
一日刻みの月の名前は其処で途切れて、二十三夜の下弦の月まで無い名前。
二十三日目の夜の月だから二十三夜で、次はまたまた途切れる名前。
三日月の逆の二十六夜が昇ってくるまで、ついていない名前。
(つくづく、よくも名付けたもんだ)
これだけの名前を、と苦笑いした、月なんだが、と。
夜空で満ちては欠けてゆく月、ただの衛星に過ぎないんだが、と。
さっきの三日月も、これから満ちたら見える満月も、月は月。
地球の周りを巡る衛星、ただ一つきりの地球の衛星。
幾つ名前をつけた所で月は月だし、その姿までは変わりはしない。
太陽の光を受けて光る面、その大きさが変化するだけで。
月と太陽の位置の関係、それで変わってゆくというだけで。
けれども、遠い昔の人には仕組みも分からなかっただろう。
月は地球の衛星ではなくて神秘の天体、太陽と同じに崇められたもの。
その輝きを忌む人々もあったけれども、月の神までいたのだから。
太陽の女神の弟の一人が月の神。
まさか衛星だとは、誰も思っていなかったろう。
地球の周りを巡っていることも、一ヶ月かけて巡る間に満ち欠けることも、知られないまま。
人は暦を作っただけ。
次に満月が来るのはいつかと、この日の月は何になるのかと。
(…それでだな…)
さっきの月は三日月で間違いなかったろうか、と開いた新聞。
天気予報の欄についている、今日の月齢。
確かめてみたら、やはり三日月、思った通りに眉月だった月。
まだ若いから若月な月、夕方に見えているから夕月。
朔の名を持つ新月から三日しか経っていないのが三日月だから。
(やっぱり当分かかるんだな、うん)
名前だらけの月が毎晩続けて昇るまでには。
十三夜の月に十四夜の月、見事に満ちた十五夜の月。
十六夜が過ぎたら立待月で、居待月が来て、臥待月から更待月。
ズラリ並んだ月の名前は、前の自分が知らなかったもの。
白いシャングリラから月は見えなくて、第一、キャプテンには要らない知識。
月の周りを飛ぼうというなら、名前ではなくて月そのもののデータ。
軌道や重力、そういったもの。
月がシャングリラに及ぼすだろう力や、シャングリラとの距離などのデータ。
それさえあったら船は飛べたし、月の名前は必要無かった。
三日月だろうが、満月だろうが、三日月とはまるで逆の形の二十六夜の月であろうが。
(…知らなくっても当然だよな)
要らないものは、と額を指でピンと弾いた、「今は必須の知識なんだが」と。
月の名前も分からなくては、古典の教師は務まらない。
遠い遥かな昔の人々、彼らが記した文の味わいも、余韻も読み取ることが出来ない。
(でもって、逆にだ…)
今は要らない、月の軌道や重力のデータ。
宇宙船のパイロットをするわけではないし、持っていたって役には立たない。
シャングリラを地球まで運ぶためには必要不可欠だったけれども。
白い鯨で地球に行くには、月の軌道も重力のデータも、他にも色々要ったのだけれど。
そこまで考えてハタと気付いた、夜空に浮かぶ月なるもの。
地球の周りを巡る衛星、たった一つしか無い地球の月。
(…おいおい、あれが本物じゃないか)
正真正銘、あれが月だ、と前の自分が驚いた。
今の自分には当たり前の月で、一ヶ月かけて満ちて欠ける月。
地球を回るたった一つの衛星、夕方の空にあった三日月。
今でも一年は十二ヶ月だし、一ヶ月は三十日前後。
けれども、それが当てはまる場所は。
月が一ヶ月かけて満ち欠け、星の周りを巡ってゆく場所は…。
(…本家本元は地球の月だぞ)
あの三日月だ、と気が付いた。
前の自分が目指していた地球、白いシャングリラから一度だけ目にした地球の衛星。
此処を越えれば地球が見えると、青い水の星があると飛び越えた月の向こうに…。
(…無かったんだった、青い地球なんぞは)
どれほど辛く悲しかったか、月を越えた向こうにあった死の星。
前のブルーが夢に見た星、焦がれ続けて求めた星。
それは何処にも無かった筈で、月の向こうに約束の場所は無かったけれど。
今は夜空にその月が浮かぶ、幾つもの名前を持っている月が。
遠い遥かな昔と同じに、地球が滅びる前と同じに。
(…あの時と同じ月なんだがな?)
前の自分が白いシャングリラで飛び越えた月。
青い地球があると信じて越えて行った月。
それから長い長い時を飛び越え、本物の青い地球に来た。
前の生から愛し続けたブルーと二人で、月を従えた青い地球の上に。
そして月には名前が戻って、今の自分がそれを数える。
三日月に十五夜、十六夜の月と。
立待月の次の月は居待月、その次の月は臥待月、と…。
三日月の夜に・了
※ハーレイ先生、今ではすっかり古典の教師の世界です。月の名前をズラズラと挙げて。
キャプテンだった頃には要らなかった知識、それを幾つも持てる幸せv
(んー…)
この窓からはちょっと無理、とブルーが見上げた夜の空。
ハーレイが「またな」と帰って行った後、名残惜しげに外を眺めた後で。
夏休みだから、ハーレイは明日も来てくれるけれど。
それは充分に分かるけれども、やはり「またな」と言われると辛い。
ハーレイと一緒に帰りたくなる、自分の家は此処なのに。
まだハーレイとは暮らせないのに、「ぼくも一緒に帰りたかった」と。
だからハーレイを家の表で見送った後は、部屋の窓から外を見る。
「またな」と手を振りながら歩いて帰って行った恋人、その姿が消えた方角を。
ハーレイの家はあっちの方だ、と何ブロックも離れた方を。
いくら見詰めても、連れて帰っては貰えないのに。
ハーレイが戻ってくる筈もなくて、今夜はこれでお別れなのに。
じいっと暗い外を眺めて、溜息をついて。
もう遅いから、と閉めようとした窓、その向こうに瞬く星に気付いた。
黒々と茂る庭の木々の上に、住宅街の屋根の上の空に。
星が見える、と思った途端に探したくなった二つの星。
アルタイルとベガ、彦星と織姫。
天の川を隔てて向き合う星たち、恋人同士だと伝わる星。
ハーレイの古典の授業で習った催涙雨。
七夕の夜に雨が降ったら、天の川が溢れて恋人たちは会えなくなる。
カササギが翼を並べて架けるという橋、それが架かってくれないから。
一年に一度しか会えない二人が涙を流すことになるのが、七夕の夜に降る雨、催涙雨。
もしも自分とハーレイが天の川で隔てられたなら。
ハーレイは「泳いで渡るさ」と言った、カササギの橋が架からなければ。
広い天の川を泳ぎ渡って、会いに行くからと笑った恋人。
きっとハーレイなら泳ぐだろうから、水泳が得意だと聞いているから。
七夕の夜に雨が降っても、天の川が溢れてしまったとしても、今の自分は泣かなくていい。
前の自分が生の終わりに泣きじゃくったように、悲しい涙を流さなくていい。
もうハーレイには会えないのだと、絆が切れてしまったからと泣きながら死んだ、前の自分は。
右の手に持っていたハーレイの温もり、それを失くして。
最後まで抱いていようと思った恋人の温もり、それを失くして凍えた右手。
あの涙はもう流さなくていい、ハーレイとの絆は切れないのだから。
たとえ天の川を泳ぎ渡ってでも、ハーレイが会いに来てくれるのだから。
今度は切れない、ハーレイとの絆。
二人で生まれ変わって来た地球、その上で生きてゆくことが出来る。
前の自分たちの約束の場所で、白いシャングリラで目指した星で。
ハーレイが泳いで渡ると約束してくれた天の川。
あれほどに広い川があっても、天を流れる川があっても、切れない絆。
それを見たいと、恋人同士の二つの星と天の川を、と窓から見上げてみたけれど。
少し角度が悪かった。
そうでなくてもアルタイルとベガ、それに白鳥座のデネブ。
三つの星が作る夏の大三角形、天頂に近い星座たち。
窓から見るには乗り出すしかない、頭の真上を見たいのならば。
(…落っこちたら、馬鹿…)
窓辺に腰掛けて上半身を外に出そうかと思ったけれども、落ちそうな自分。
バランスを崩して、アッと言う間に。
夢中で星を見上げる間に、窓の外へと真っ逆様に。
前の自分の頃と違って、今はサイオンが不器用だから。
空を飛ぶどころか、ろくに浮けない有様だから。
窓から落ちたら怪我をするだけ、庭まで落ちて何処かを打つだけ。
上手い具合に屋根の端っこに引っ掛かっても、自分で上がって来られない。
大声で叫んで父と母とを呼ぶ羽目になって、赤っ恥な上に叱られるオチ。
仕方ないから、アルタイルとベガは諦めた。
一階に下りて庭に出たなら、ちゃんと夜空にあるだろうけれど。
デネブもセットの夏の大三角形、それが見付かるだろうけれども、どうせ見えない天の川。
住宅街の庭では見えない、天の川は。
もっと光が少ない所へ行かない限りは、ほのかに輝く星の川は。
(ハーレイが泳いでくれる天の川は見えないんだし…)
今夜の所は別にいいか、と元の通りに閉めかかった窓。
閉めてカーテンを引こうとした窓。
アルタイルもベガも此処からは無理、と。
けれど…。
(…星だよね?)
星の海だ、と気が付いた。
太陽が輝く昼の間は、青い空が邪魔をするけれど。
星は一つも見えないけれども、今は何処までも見渡せる空。
空の向こうは宇宙に続いて、其処に輝く幾つもの星。
怖いくらいに澄んでいる夜空、遥か彼方まで広がり散らばる星たちの海。
銀河系を抜けてその向こうまでも、長い長いワープを繰り返してようやく着ける星までも。
そう、この空には果てが無い。
前の自分が旅を続けた、暗い宇宙の海と同じに。
白いシャングリラで地球を目指した、あの星たちの海と同じに。
そう思ったら、まるで夜空に吸い込まれるよう。
前の自分が自由自在に飛んでいた宇宙、生身で駆けていた宇宙。
何処までも飛翔することが出来た、サイオンの青い光を纏って星々の中を。
メギドへと飛んだ最後の旅路は悲しかったけれど、辛かったけれど。
二度と戻れない白いシャングリラ、戻れないハーレイの腕の中。
ともすれば止まりそうになる自分を叱って、ミュウの未来を思って飛んだ。
今はこれしか無いのだからと。
自分が行かねば白い鯨は沈んでしまって、ミュウの未来も消えるのだからと。
けれども、それよりも前の自分は何度宇宙を駆けただろう。
皆のためにと物資を奪いに飛んで行ったり、シャングリラを外から眺めてみたり。
暗い宇宙は馴染んだ世界で、星たちの中を飛んでいた。
白い鯨がそうだったように、前の自分も星の海の中を。
流石に地球へは飛べなかったけれど、瞬かない星が散らばる宇宙を。
(うん、あの星たちは輝いてただけ…)
大気の無い真空の宇宙空間、其処では星は瞬かないから。
今の自分が眺める星たち、窓の向こうの星たちのように瞬いたりはしないから。
チラチラと瞬く幾つもの星、遠く宇宙まで見渡せる夜空。
その中の何処にアルテメシアがあると言うのか、赤いナスカがあったと言うのか。
どちらも地球からは遠く離れて、見えはしないと授業で習った。
長く潜んだ雲海の星を擁したクリサリス星系、そこに至るまでは遥かに遠い。
赤いナスカがあった恒星、ジルベスター星系の二つの太陽も遠い。
この窓からは見えはしなくて、探すだけ無駄で。
それは分かっているのだけれども…。
(…あの空をぼくが旅してた…)
前の自分が、白い鯨で。
前のハーレイが舵を握っていた船、白いシャングリラで旅をしていた。
いつかは地球へ辿り着こうと、ハーレイと何度も夢を語り合って。
青く輝く星に着いたら、母なる地球に降りられたなら。
あれをしようと、これもしようと、幾つもの夢が、望みがあった。
ハーレイと一緒に青い地球へと、いつか必ず辿り着こうと。
けれど、夢へと旅立つより前。
青い地球へと船出する前に、前の自分の寿命は尽きた。
雲海の星に潜む間に、地球の座標さえ手にしない内に。
もう進めないと、地球への旅は出来はしないと、何度も何度も流した涙。
自分の代では行けはしないと、地球へ行くのは次の世代だと。
そうして迎えたジョミーのお蔭で、思いがけなくも永らえた命。
アルテメシアからは外に出られた、赤いナスカで終わったけれど。
地球の座標も分からない内にメギドを沈めて死んだけれども、雲海の星から宇宙には出た。
力尽きて深い眠りに就いたままでも、地球を探しにゆく船で。
広い宇宙を、幾つもの星を巡り続けながら、地球を求めるシャングリラで。
アルタイルとベガ、其処へも行ったとハーレイに聞いた。
キャプテン・ハーレイではない今のハーレイ、生まれ変わって来たハーレイに。
前の自分を乗せていた船は、彦星と織姫の周りをも飛んだ。
其処から何処をどう巡ったのか、シャングリラの旅路は知らないけれど。
(…あの空を旅して…)
前の自分は地球を目指した、深い眠りに就いたままでも。
方角も座標も定まらない旅路、それでも地球を探して飛んでゆく船に乗っていた。
前のハーレイが舵を握って、ジョミーが守っていただろう船に。
辿り着くことは無かったけれども、ナスカで降りてしまったけれども、地球へ向かう船に。
白いシャングリラで探し続けて、彷徨い続けて、着けなかった地球。
前の自分がいなくなった後、シャングリラは地球に着いたけれども。
青い水の星は無かったという、赤い死の星があっただけ。
なのに、自分は地球にいる。
遠い遠い昔にあの空を旅して、辿り着けずに終わった星に。
蘇った青い水の星の上に。
(…これって、奇跡…)
聖痕も奇跡だと思うけれども、ハーレイと二人、生まれ変わって辿り着けた地球。
それが最高の奇跡だと思う、前の自分が旅をした空を見ている今が。
あの空を旅して地球を目指したと、部屋の窓から夜空を見上げて遠い星の海を思い出す今が…。
あの空を旅して・了
※ブルー君が見上げて、気付いた夜空。前の自分が旅した空だと、暗い宇宙を旅していたと。
旅しても辿り着けなかった地球。其処から夜空を見上げられる今は幸せですよねv
(アルタイルか…)
それにベガか、とハーレイが見上げた夜空の星。
ブルーの家から帰る途中に仰いだ頭上。そこに輝く夏の星座たち。
彦星に織姫、それだと授業で教えた二つの星。
アルタイルとベガ。
七夕の星たち、恋人同士の二つの星たち。
今夜は綺麗に晴れているから、天の川まで見えそうな気がする。
小さなブルーに「俺は泳いででも渡ってやるぞ」と約束してやった天の川。
もしも、天の川にブルーとの間を引き裂かれたら。
年に一度しか会えなくなったら、七夕の夜には泳いで渡る。
カササギの橋が架からなかったら、雨が降って天の川が溢れたならば。
(あいつ、俺が橋を踏み抜くとか言いやがって…)
体重のせいで抜けそうだとブルーが笑ったカササギの橋。
確かに自分の体重だったら、カササギが翼を並べた橋は壊れてしまうかもしれないけれど。
なんとも愉快な話ではある、体重で抜けるカササギの橋。
そうなった時も泳ぐしかない、天の川が溢れた時と同じに。
向こう岸で待つブルーの許まで、全力で泳いで渡るしかない。
(宇宙空間なんだがなあ…)
しかもとてつもない距離なんだが、と苦笑しながら夜道を歩いて。
夏休みに入ってから何度も眺めた夜空を仰いで、のんびりと目指す自分の家。
明日も休みで、ブルーの家を訪ねるだけだから。
急ぎの用も何も無いから、「夏の大三角形だよな」などと考えながら。
門灯が灯った家に帰って、生垣に囲まれた庭に入って。
また改めて見上げてみた空、アルタイルにベガ、それからデネブ。
流石に街の中からは見えない天の川。
(あの辺りにある筈なんだがなあ…)
海辺で、郊外で、何度も目にした天の川。
それは美しい星で出来た川、星だと知らねば空を流れる光の川。
輝き煌めく光ではなくて、ほのかに淡く空をゆく川、夜空を流れる神秘の川。
遠い遥かな昔の人には本物の川に見えただろう。
だから呼ばれた、「天の川」と。
彦星と織姫の話も生まれた、夜の空に住む恋人たちの物語。
此処からは見えない天の川。
もう少し暗くなくてはいけない、あの星の川が見たければ。
とはいえ、他の星たちの輝きは充分に見える、この庭からも。
(うん、星は沢山見えるんだ)
SD体制が始まるよりも昔、地球が滅びに向かっていた頃。
人間が作り出す人工の明かりが眩しすぎたから、星たちは消えていったという。
夜の空から一つ、二つと、暗い星から姿を消して。
空を仰いでも星は全く見えなかった地球、地上に立ち並ぶ高層ビル群。
そうして地球は滅びてしまった、人に窒息させられて。
生き物の棲めない死の星になって。
その反省が今もあるから、蘇った地球を二度と滅ぼしてはならないから。
昔と違って見える星たち、天の川までは流石に無理でも。
明るすぎない今の地球の夜空、星は幾つも瞬くもの。
住宅街の中にある家の庭から空を仰いでも、鮮やかに浮かぶ星座たち。
アルタイルの鷲座、ベガがある琴座。
白鳥の姿の中に輝くデネブ、嘴の先にはアルビレオ。
天の川が無くとも夜空には星、それを見上げて頬が緩んだ。
なんと綺麗な星たちだろうかと、流石は地球だと、母なる星だと。
かつて目指した約束の場所。
白いシャングリラで行こうとした地球、前のブルーと暮らした船で。
前の自分が舵を握って、ブルーが守った白い船。
いつかは地球へと夢を見ていた、ブルーと一緒に辿り着こうと。
(なのに、あいつは…)
ブルーは地球まで行けはしなくて、暗い宇宙に散ってしまって。
前の自分は独り残された、巨大な白いシャングリラに。
それでもブルーに頼まれたから。
ジョミーを支えてくれとブルーが言い残したから、ただひたすらに地球を目指した。
其処へ着いたら全て終わると、自分の役目も終わるのだからと。
(…本当に終わっちまったが…)
文字通りに終わった前の自分の長い生。
ブルーを失くした悲しみの中で孤独に生きた生は終わった、地球の地の底で。
これでブルーの許へゆけると、自分は死ぬのだと笑みさえ浮かべて。
地球はそういう星だったから。
前の自分が目にした死の星、赤かった地球はさほど記憶に残ってはいない。
赤く濁った毒の大気に覆われていた地球、前の自分が降りた地球。
ユグドラシルで一夜を過ごしたけれども、生憎と夜空は記憶に無い。
真円の月は辛うじて覚えてはいても、他の星たちは。
月の光で見えなかったか、濁った大気が邪魔をしていたか。
それとも目には入らなかったか、それさえも自分は覚えてはいない。
死に絶えた地球に出会った衝撃、ブルーの夢が砕けた瞬間。
そこから後は、景色などを見る心の余裕を失くしていたから。
(しかし、ああいう星ではなあ…)
夜空を見たとて、何の感慨も無かっただろう。
他の星の方がよほどマシだと、アルテメシアやノアの方が、と溜息をついたことだろう。
こんな醜い空は要らないと、もっと美しい夜空でないと、と。
銀河の海に浮かぶ一粒の真珠、青く輝く母なる星。
青い水の星は何処へ行ったかと、こんな星など誰も求めていないのに、と。
けれども、今では蘇った地球。
其処へ自分は還って来た。
ブルーと二人で生まれ変わって、新しい身体と命を貰って。
こうして夜空も見上げていられる、幾つもの星が瞬く空を。
天の川は無くても、アルタイルにベガ、それにデネブも、アルビレオも。
もう最高に素晴らしい人生、ブルーと二人で辿り着いた地球。
夢のようだと、此処からは見えない天の川だって泳ぎ渡れると高揚する気持ち。
ブルーのためなら泳ぎ渡るし、そうでなくては始まらない。
今度こそ共に生きるのだから。
ブルーと二人で、この地球の上で。
幾つもの星が夜空にある星、青く蘇った母なる星。
其処でブルーと生きてゆく。
誰にも恋を隠すことなく、いつか結婚して、同じ家で暮らして。
(天の川だって見に行かなきゃな)
何処で見るかな、とドライブの行き先を思案していて。
郊外もいいし、海辺で眺める雄大な天の川もいいし、と考えていて。
(…待てよ?)
あの空だった、と仰いだ夜空。
アルタイルにベガ、彦星と織姫、今の自分が七夕の授業で教えている星。
(…俺はあそこを旅していたんだ…)
前のブルーを乗せていた船で。
アルテメシアを追われて彷徨った宇宙、地球を探して巡った星たち。
深い眠りに就いたブルーを乗せていた船で、白いシャングリラで。
座標も掴めない地球を求めて、端から巡った恒星系。
アルタイルもベガも訪ねたのだった、もしかしたら地球がありはしないかと。
この星系が地球を抱いてはいないかと、ソル太陽系ではないのだろうかと。
幾つも幾つも巡った星たち、その内の幾つがこの星空にあるのだろう。
前の自分が旅した宇宙は、どれほどの範囲になるのだろう。
(…まるで見当もつかんな、これでは)
アルタイルとベガは分かるけれども、それよりも遠い星たちは。
此処からは見えないジルベスター星系、赤いナスカがあった星系。
天の川を渡るどころではない距離を自分は旅した、あのシャングリラで。
ブルーの命が続く間に着ければいいがと、舵を握って。
けれども、着けなかった地球。
前のブルーの命ある間に、探し出せずに終わった星。
やっと見付けても赤い死の星、旅の終わりでしかなかった地球。
其処へ自分はまた還って来た、ブルーと共に。
生まれ変わった小さなブルーと地球で出会った、前の自分たちの夢だった星で。
あれほど長い旅をしたのに、探し出せなかった青い地球の上で。
前の自分たちが生きた頃には、何処にも無かった青い地球の上で。
(…そうか、あそこを旅していたのか…)
あの空を俺は旅したのか、と星を数える、一つ、二つと。
アルタイルにベガ、あちらの星にも行っただろうかと。
地球から見上げてみても分からない、前の自分が辿った旅路。
旅をした宇宙。
途方もない距離を旅したのだと驚くしかない、今の地球の夜空。
それだけの旅をしたというのに、挙句に死の星だった地球しか無かったのに。
(いったい、何がどうなったんだか…)
自分はストンと地球に着いていた、ブルーと一緒に。
まるで奇跡だ、と空を見上げる、これが本当の奇跡だろうと。
地球の地の底で死んだというだけ、なのにストンと辿り着いた地球。
なんとも不思議な話だよな、と家の庭から仰いだ夜空。
あの空を旅した、遠い遥かな時の彼方で。
前のブルーを乗せていた船で、地球へ行こうと、白いシャングリラで。
夢だった地球に、自分はいる。
あの空を旅したと星を見上げて、前のブルーと二人で夢見た青い地球の上に…。
あの空を旅した・了
※キャプテン・ハーレイが旅をした宇宙。それを地球から見上げられる不思議、今の人生。
あそこを旅した、と眺めるハーレイ先生、今では地球の住人なのですv
