(もう充分に明るいんだが…)
朝なんだがな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
眩しい朝日が射すダイニングで、コーヒーが入ったマグカップを片手に。
とうに読み終わってしまった新聞、朝食の方も殆ど終わりで。
分厚いトーストをもう一枚焼くか、それとも田舎パンでも切って食べるか。
空腹なわけではないけれど。
朝食の量が少なすぎたわけでもないのだけれど。
スクランブルエッグにソーセージにサラダ、普段の朝より多めに作った。
早い時間に目が覚めたから。
それに出掛けるわけでもないから、いつもの職場へ。
今日は土曜で、仕事は無い日。学校へ出掛けなくてもいい日。
以前だったら、こんな日の朝はジムに行ったりしたけれど。
まだ人が少ないプールで泳いで、爽やかな気分で次は道場へ。
家に帰るより、断然、道場。
柔道の指導が出来る道場、其処へ行ったら好きなだけ柔道を楽しめるから。
友人がいれば試合も出来るし、指導を待っている者も大勢いるし…。
ところが今では、すっかり御無沙汰。
体力作りは欠かさないけれど、暇を見付けてジョギングだってしているけれど。
ジムにも通うし、道場にだって顔を出してはいるのだけれど。
(丸一日いるなんて日は、すっかり無くなっちまったよなあ…)
まるで変わってしまった休日、仕事が休みの日の過ごし方。
体力作りや鍛えることとは逆様になった、運動はしていないから。
今日のように綺麗に晴れた日だったら、往復は歩いてゆくのだけれど。
休日となったら出掛けてゆく場所、ジムでもなければ道場でもなくて。
何ブロックも離れた所の、緑の生垣に囲まれた家。
其処で待っている人がいるから、恋人が待っていてくれるから。
足は自然とそちらへと向く、誰に命令されなくても。
「行け」と家から追い出されなくても、何度もうるさく言われなくても。
世間的には、それも仕事と認識されているけれど。
まさか恋人の家とも思わず、「大変ですね」と労ってくれる人も多いけれども。
聖痕を持った小さな恋人、前の生から愛したブルー。
十四歳にしかならないブルー。
前の自分が失くしてしまった、誰よりも愛したソルジャー・ブルー。
そのブルーが生きて帰って来た。
長い長い時の果てに、蘇った青い水の星の上に。
前のブルーが焦がれ続けた、母なる地球に生まれ変わって。
自分も同じに生まれ変わって、もう一度巡り会えた恋人。
夢ではないかと思うくらいに、何度も頬を強く抓ってみたほどに。
小さなブルーの身体に浮かび上がった聖痕、それは一度しか見ていないけれど。
再会した日に見た一度きりで、二度と起こっていないけれども。
両方の肩に左の脇腹、宝石のように輝く右目。
そこから溢れた大量の鮮血、あの日の衝撃は忘れていない。
最初は事故かと思った聖痕、前のブルーが撃たれた傷跡。
前の生の最後に、悪魔のような地球の男に。
メギドへと飛んだブルーを待ち構えていて狩った、忌まわしいキース・アニアンに。
そう、あの男は前のブルーを狩った。
弄ぶように撃って撃ち続けて、とどめを刺す代わりに右の瞳まで撃って。
ブルーを痛めつけるためだけに撃った、いたずらに苦痛を長引かせるために。
それを思うと腸が煮えくり返るようだし、今も心が痛むけれども。
前の自分はどうしてキースを殴りもしないで終わったのかと、何度悔やんだかしれないけれど。
前のブルーが撃たれた傷痕、それがブルーを連れて来た。
小さなブルーに前のブルーの記憶が戻って、自分も全てを思い出した。
前の自分は誰であったか、ブルーは誰であったのかを。
恋人と共に生まれて来た地球、蘇った青い母なる星。
本当だったら、ブルーとの仲は教師と教え子、それだけで終わりなのだけど。
ブルーだけにかまっていられはしないし、頻繁に会えもしないのだけれど。
小さなブルーの身体を鮮血に染めた聖痕、それが間を繋いでくれた。
ブルーが起こした大量出血、何度も起こせば寝たきりになることもあったと伝わる聖痕現象。
放っておいたら、いつ起こるかも分からないから。
ただでも弱いブルーの身体に、聖痕現象はあまりにも危険すぎるから。
自分が守り役につくと決まった、ブルーがそれを起こさないように。
ソルジャー・ブルーが撃たれたというメギドの時と同じ状況、それを出来るだけ回避するよう。
キャプテン・ハーレイが側にいたなら、其処はメギドではないのだから。
彼にそっくりな自分さえいれば、ブルーの心が安定するから。
生まれ変わりだとは誰も知らないブルー。
それに今の自分。
だから同僚たちに言われる、「大変ですね」と。
休日の度にブルーの家に行かねばならないわけだし、平日だって、時間があれば。
なんとも大変そうな仕事だと、しかも無期限で守り役だとは、と誰もが案じてくれる状況。
それでは休みが無いではないかと、自由時間が全く無いと。
そう言われる度、「いえ、息抜きはしていますから」と答えるけれど。
現にジムにも道場にも行くし、身体はなまっていないけれども。
(本当にまるで逆なんだよなあ…)
自分の休日の過ごし方。
道場に出掛けて丸一日とか、思う存分ジムのプールで泳ぐとか。
ドライブなどにも行っていたけれど、基本は身体を動かしていた。
それが好きだし、せっかくの休みにじっと座ってなどいられるかと。
なのに今では…。
(座ってるのが殆どだな、うん)
ブルーの部屋にあるテーブルと椅子か、あるいは庭の木の下にいるか。
庭で一番大きな木の下、小さなブルーのお気に入りの場所。
其処に据えられたテーブルと椅子でも過ごすけれども、つまりは座っているわけで。
水泳や柔道とはまるで逆様、腰掛けたままでお茶にお菓子に、それから食事。
以前だったら想像も出来なかった休日、運動の代わりに座っているだけ。
小さな恋人を膝に乗せたり、抱き締めたりはするけれど。
頬や額にキスも落とすけれど、それは運動とは言えないのだし…。
ブルーの家へと出掛けてゆく時、運動というものがあるのなら。
これは運動だと言っていいものがあるなら、ブルーの家まで歩く道のり。
普通ならバスに乗るだろう距離、それを歩いてゆくのだから。
自分にとっては大した距離ではないけれど。
ジョギングだったらもっと長い距離を気ままに軽々と走ってゆくから、ほんの散歩で。
(今から出たら、だ…)
アッと言う間に着いちまうんだ、と壁の時計を眺めて溜息。
訪ねてゆくには早すぎる時間、あまりに常識外れの時間。
行くには早いな、とコーヒーを傾け、また思案する。
分厚いトーストをもう一枚か、それとも田舎パンでも切るか。
ブルーの家に行くには早すぎる時間、けれどもジムに行ってしまったら…。
(…中途半端になっちまうんだ)
思う存分泳げはしなくて、途中で切り上げ。
小さなブルーが待っているから、長くは待たせられないから。
以前だったら、こんな悩みは無かったけれど。
休日の朝に早く起きたら、好きなように時間を過ごせたけれど。
(…幸せな悩みっていうヤツか…)
恋人の家に早く着きすぎないよう、さりとて遅刻しないよう。
時計を見ながら時間を見極め、頃合いを見て家を出る。
早すぎないよう、遅すぎないよう、丁度いい時間に着くように。
小さなブルーが待っている家に、恋人が待っている家に。
もう少しパンを、と思ったけれど。
時間潰しにトーストを一枚、あるいは田舎パンでも少し…、と思ったけれど。
(行くには少し早すぎるんだが…)
待ち切れないと騒ぎ出す心、早く会いたいと、家を出ようと弾んでいる胸。
恋人に会える休日だからと、今日はブルーと過ごせる日だと。
躍る気持ちを、どうにも押さえ切れないから。
こんな晴れた日は、早く行きたくてたまらないから。
行くには少し早いんだがな、と苦笑しながら始めた後片付け。
少し早いけれど歩いてゆこうか、ブルーの家へと。
早い分だけ回り道をして、運動を兼ねて時間潰しに。
もうこれ以上は待てないから。
早く出ようと、会いに行こうと、心が我慢の限界だから…。
行くには早いが・了
※ハーレイ先生の休日、前とはすっかり変わってしまったみたいですけど。
それでも嬉しい、ブルー君に会える日。早い時間に出掛けてしまうハーレイ先生ですv
(あったかい…)
それに気持ちいい、と頬を緩めたブルー。
右の手を握ってくれるハーレイ、両手で温めてくれるハーレイ。
今の季節は暑いけれども、窓を開ければ熱気が入って来るのだけれど。
太陽が眩しい夏だけれども、それと右手は別の問題。
前の生の最期に凍えた右手。メギドで冷たく凍えた右の手。
キースに撃たれた痛みのせいで。
弾を撃ち込まれる度に痛みで薄れて、最後には消えてしまった温もり。
ハーレイの腕から貰った温もり、「頼んだよ」と触れて思念を送った時に。
その温もりを抱いて逝こうと、最後までハーレイと一緒なのだと貰った温もり。
いつまでも覚えていたかったのに。
命が尽きるその瞬間まで、肉体が滅ぶその時まで。
ハーレイと共にと、この温もりがあれば一人ではないと大切に抱いていたかったのに。
撃たれた痛みでそれを失くした、撃たれる度に薄れていって。
最後に撃たれた右の瞳に走った激痛、真っ赤に染まってしまった視界。
右目を失くしたと気付いた時には、もう右の手に温もりは無くて。
ハーレイの温もりの欠片さえも無くて、落としたのだと気付かされた。
温もりを落として失くしてしまったと、自分は独りになってしまったと。
どれほど悲しく辛かったことか。
自分の命が消えることより、もう死ぬのだということより。
ハーレイの温もりを失ったことが、独りぼっちで迎える最期が。
もうハーレイには会えないのだと、二度と会えないと泣きじゃくった自分。
ハーレイとの絆が切れてしまったと、自分は独りぼっちになったと。
冷たく凍えてしまった右の手、手が冷たくて悲しくて泣いた。
独りぼっちだと、右手が冷たいと、一人きりで。
泣きじゃくりながら死んでいった自分、あまりにも悲しくて辛かった最期。
なのに、今ではどうだろう。
ハーレイと二人、青い地球の上に生まれて来た。
蘇った青い水の星の上に、ハーレイと二人。
前とそっくり同じに生まれた、二人揃って生まれ変われた。
自分は少し小さいけれども、十四歳にしかならないけれど。
「キスは駄目だ」と叱られる幼さ、そんな年での再会だけれど、ハーレイに会えた。
こうして右手を温めてくれるハーレイに。
前の自分の記憶にあるのと、まるで変わらないハーレイに。
五月の三日に再会してから、何度も温めて貰った右手。
温もりを移して貰った右の手。
季節は春から初夏へと移って、今はすっかり夏だけれども。
部屋にはクーラーが必要な季節で、窓を開ければ暑すぎる風が来るけれど。
それでも右手の温もりは別。
ハーレイに温めて貰う手は別。
どんなにしっかり包み込まれても、暑いと思いはしないから。
温めてくれるハーレイの体温が高すぎるとは思わないから。
(ふふっ、あったかい…)
もっと、もっと、と思ってしまう。
ハーレイの温もりがもっと欲しいと、もっと右の手を温めて欲しいと。
右手もそうだし、この身体だって。
もっとハーレイにくっつきたいから、心地良い温もりが欲しいから。
「ねえ」と強請った、膝に乗せて、と。
「ハーレイの膝の上に座っていいでしょ」と。
キスは駄目だと叱られるけれど、いつも叱られているけれど。
唇へのキスは貰えないけれど、頬と額しか駄目だけれども。
膝の上には座ってもいい、子供にありがちなことだから。
小さな子供は膝にチョコンと座るのが好きで、そういう光景もよく見掛けるから。
だからハーレイも「駄目だ」と言わない、叱りはしない。
「またか」と呆れられる程度で、「好きにしろ」と膝を叩いてくれる。
ポンと叩いて、「ほら、座れ」と。
椅子を少し引いて、テーブルとの間を空けてくれて。
今日もそうしてくれたから。
自分の椅子からサッと移った、ハーレイの膝へ。
チョコンと座って、ニコッと笑って、それからギュウッと抱き付いた。
大きな身体に、腕を回して。
両方の腕を広げて回して、広い胸へと身をすり寄せた。
それも駄目とは言われないから。
キスは駄目でも、こうしてベッタリ貼り付くことは叱られないから。
ハーレイの温もりが嬉しい時間。
くっついて甘えていられる時間。
前の自分は独りぼっちで死んでいったけれど、右手が冷たく凍えたけれど。
ハーレイの温もりは右手に戻って、こうすれば身体も温かい。
大きな身体にギュッと抱き付いて、胸に身体をすり寄せていれば。
ハーレイの膝の上に座って、心地良い温もりに包まれていれば。
温かくて、それに気持ち良くて。
もう幸せでたまらないから、ただただペタリと貼り付いていたら。
大きな身体にくっついていたら、「おい、夏だぞ?」と頭をクシャリと撫でられた。
「外は暑いんだが、お前、暑くないか?」と。
「こんなにベッタリくっついていたら、暑いんじゃないかと思うんだが」と。
「…なんで?」
ぼくはちっとも暑くないけど、と両腕にキュッと力をこめた。
剥がされたのではたまらないから、離れたいとは思わないから。
「ふうむ…」
ならいいが、と返った返事。
暑くないなら好きにしていいと、好きなだけくっついていればいいと。
傍目にはとても暑そうな光景だけれど、誰が見るというわけでもないし、と。
(…誰も見ないものね?)
母が来そうな気配がしたなら飛び下りる。
ハーレイの胸からパッと離れて、膝の上から離れて戻る。
自分の椅子へと座り直して、さも最初から其処にいたように。
何処にも行ってはいなかったように。
母に知られたら大変だから。
ハーレイとの恋がバレてしまったら、もう二人きりにはなれないから。
だから誰も見ない、ハーレイに抱き付いている自分の姿は。
膝の上に座って甘える姿は、誰の目にも入りはしないから。
たとえ傍目に暑そうだろうが、どう見えていようが、どうでもいい。
誰も見たりはしないのだから。
暑そうなことをやっているなと、暑い季節に暑そうなことを、と思う人などいないのだから。
それに、自分は暑くなどない。
少しも暑いと思いはしない。
ハーレイの温もりが心地良いだけ、もっと、もっとと考えるだけ。
右の手だけではとても足りないと、もっとベッタリくっつきたいと。
ハーレイの温もりがもっと欲しいと、もっと、もっと、と欲張るだけ。
本当に心地いいのだから。
いくら貰っても、もっと欲しくなる。
右の手を温めて貰ったならば、ペタリと貼り付いて身体ごと。
大きな身体から、広い胸から欲しい温もり、ハーレイの温もり。
前の生の最期に失くした温もり、それをもっと、と。
(ホントに暑くないんだから…)
自分でもそれは不思議だけれど。
夏の暑さや日射しは苦手で、弱い身体が悲鳴を上げるのが常なのだけれど。
(ハーレイだと平気…)
外の暑さより、もっと体温は高い筈なのに。
暑い盛りに、熱いものには近付きたくない筈なのに。
たとえば、花壇の縁石だとか。
でなければ、父が日向に停めておいた車のボンネットだとか。
どちらも夏の日射しに灼かれて、温まりすぎたものだから。
触るどころか、側に寄るのも御免蒙りたいけれど。
熱気が来そうで嫌だけれども、ハーレイは別。
近付くどころか、こうしてペタリとくっついていても。
身体ごと貼り付いて甘えていても。
どうして自分は平気なのだろう。
夏の暑さは得意ではないし、暑い盛りに外を駆け回りもしないのに。
考えただけでクラリとするのに、何故だか欲しくなる温もり。
暑い夏でも、外の暑さより熱い筈のものが何故だか欲しい。
それに心地良い、それを貰うと。
夏の暑さで気分を悪くすることもあるのに、暑さは苦手な筈なのに。
(でも、暑くない…)
少しも暑いと思いはしない。
暑すぎるとも思わない。
外が暑くても、ハーレイに「暑くないか?」と訊かれても。
今は夏だと念を押されても、何故だか暑いと思いはしなくて、もっと欲しいだけ。
気温よりも高い温もりが。
ハーレイの温もりが、もっと、もっと欲しいと思うだけ。
少しも暑いと思わないから。
暑くないから、欲しくなる。
もっと欲しいと、もっと温もりを分けて欲しいと。
きっとハーレイの温もりだから。
誰よりも好きで、好きでたまらないハーレイがくれる温もりだから…。
暑くないから・了
※暑さは苦手なブルー君。なのにハーレイ先生にベッタリくっついています、暑いのに。
大好きな人だから、少しも暑いと思わない不思議。恋は偉大ですv
(流石に暑いな…)
今の季節は、とバサリと脱ぎ捨てた長袖のワイシャツ。
学校へ行く時は必ず長袖、袖口も襟元もボタンをキッチリ。
それが自分のやり方だけれど、制服だとも思っているけれど。
ネクタイも緩めずに締めるけれども、夏は夏。
同僚たちは「流石ハーレイ先生ですな」と、感嘆の目で見ているけれど。
武道で鍛えた人は違うと、汗一つかかずに凄いものだと褒めちぎるけれど。
見た目にいくら涼しげであっても、涼しい顔で過ごしてはいても。
長袖のワイシャツにネクタイなのだ、と決めたからには崩さないけども、夏は夏。
人と同じに暑さは感じる、暑い所へ出たなら暑い。
クーラーが効いた校舎の中やら、車の中から外へ出たなら。
長袖のワイシャツは日除けになるから、日射しは痛くないけれど。
肌をじりじりと焼きはしないから、そういう意味ではプラスだけれど。
(…日射しは嫌いじゃないんだ、俺は)
ずっと水泳をやって来たから、夏の日射しは大の親友。
肌に痛いと思うくらいが丁度いい夏、水辺の季節。
そんな自分でも、暑いものは暑い。
夏はやっぱり暑いものだし、いくら好きでも暑さを感じないわけがない。
(心頭滅却すれば火もまた涼し、と言いはするがだ…)
それで本当に涼しくなるなら、火傷する人間はいないだろう。
あくまで心の持ちよう一つで、心構えの問題だけで。
「暑い」と口に出したら駄目だと、涼しげでいようと決めているだけ。
好き好んで着ている長袖にネクタイ、それを「暑い」と言ってはならない。
自分の制服なのだから。
着ようと自分で決めたからには、涼しげに。
「暑そうですなあ…」と同僚たちに言われないように。
とても暑そうだと、彼らまで暑さを余計に感じてしまわないように。
それが矜持で、今日も長袖、おまけにネクタイ。
一日過ごして部活に会議で、ブルーの家には寄り損なった。
中途半端に遅い時間で、夏の陽はまだ落ちていなくて。
昼間の熱気が冷めていない時間、熱せられた外気は充分に暑い。
だから家まで車で帰って、運転席から降りた途端に襲われた暑さ。
車はクーラーを効かせていたから、いきなり包まれた熱すぎる空気。
庭に入ればスウッと風が吹いたけれども、涼しげな風が抜けたけれども。
ほんの一瞬で去った涼しさ、芝生も地面も温まったまま。
これは暑いと家に急いだ、早く入ろうと。
家の中なら外よりマシだし、早く入ってしまうに限ると。
遠い昔には夏の季節は家の中まで暑かったものだと聞くけれど。
夏の日射しに家ごと灼かれて、オーブンの中にいるようだったとも言うけれど。
(…家の作りやうは、夏をむねとすべし…)
徒然草の人もそう綴っていた、遥かな昔に。
「冬は、いかなる所にても住まる」と、夏に過ごしやすい家にするべきだと。
それほどに嫌われた、夏の家の暑さ。屋内に籠って抜けない暑さ。
けれど今では、そちらの方が珍しい。
わざわざそういった風にしない限りは、何の加工もしないログハウスなどの類を除けば。
家に入れば遮断される熱気、そこそこ涼しくなる空気。
クーラー無しでも、家の屋根や壁が遮っていてくれるから。
ただし、耐え難くない程度に。
「少し暑いな」と、クーラーを入れたくなる程度に。
全てを遮断してしまったなら、それは自然に反するから。
夏はやっぱり暑いものだし、人は自然と共に生きねばならないから。
地球が一度は滅びた時代に、機械が全てを支配していた時代に、人間はそれを学んだから。
自然と共にあるべきだと。
母なる地球が二度と滅びないよう、自然と共にあらねばならぬと。
(だが、暑いものは暑いんだ…!)
白いシャングリラで暮らした頃には無かった暑さ。
一年中を同じ服で過ごした、キャプテンの制服を着込んでいた。
夏服も無ければ冬服も無くて、いつも、いつでも同じ服。
生地の厚さも、服のデザインも。
(あの船にも四季はあったがなあ…)
農作物を育てるためには必要だったし、公園にだって。
夏は暑くて、冬は寒くて、春も秋もあった船だけれども。
それはごくごく一部の空間、他の所はまるで関係無かったから。
(たまに真夏の公園に出ても…)
暑くて耐えられないなどと思いはしなくて、「夏だな」と思っていた程度。
暑くなる前に戻るとするかと、汗をかく前にブリッジに、と。
それが今では長袖が暑い、キャプテンの制服よりも薄い生地のシャツが。
制服の下に着ていた黒のアンダーより、薄くてサラリとしているシャツが。
(…俺の我慢が足りないってわけじゃなくてだな…)
地球に来たから、こうなった。
青く蘇った地球に生まれ変わって、自然と共に生きているから。
皆が半袖に変わる季節に、長袖なんぞを着込んでいるから。
「流石ですな」と褒められるような、長袖のワイシャツにネクタイな姿。
暑く感じないわけがない。
どうにも暑いし、ちゃんと暑さは自覚しているし…。
今日は暑かったと、格別だったと、家用の半袖シャツに着替えて。
まずは水だと、冷蔵庫から冷えた水を取り出して氷も入れて。
グイと一息に飲み干してホッと一息ついた。
人心地ついたと、生き返るようだと。
(…まあ、本当に生き返っちまったわけだが…)
正確に言えば生まれ変わりで、蘇ったわけではないけれど。
前の自分の肉体は滅びてしまったけれども、まるでそっくり同じ身体で。
その身体が「暑い」と訴える夏。
これは堪らないと、家に帰ったら長袖なんかを着ていられるかと。
(夏はやっぱり、冷たいのがなあ…)
飲み物もそうだし、食べるものだって。
今夜の夕食も喉ごしのいいもの、身体から熱を取ってくれるもの。
ただし身体を冷やしすぎると毒だから。
ろくな結果にならないのだから、健康的に…、と考えていて。
(あいつみたいだな)
右手が冷たいと繰り返すブルー。小さなブルー。
こんな夏でも、暑い日でも。
前の生の最期に凍えた右手が、メギドで凍えた手が冷たいと。
夏でも右手を温めてやると喜ぶブルー。
ふんわりと笑みを浮かべるブルー。
小さな右手が凍えないよう、いつも温もりを移してやるから。
前のブルーがメギドで失くした、自分の温もりを与えてやるから。
(あいつの右手は、夏でも冷やしすぎたら駄目で、だ…)
ついでにピタリとくっつきたがる。
右手だけでは足りないとみえて、身体ごと甘えてくるのが好きで。
膝の上にチョコンと乗っかってみては、胸に身体をすり寄せて来たり、抱き付いたり。
暑いのにな、と苦笑して。
夏だというのにくっついてるな、と苦笑いをして。
(…待てよ?)
邪魔だと思ったことがない。
暑苦しいとも、暑いから膝から下りて欲しいとも。
ブルーが身体ごと抱き付いていても、甘えてベッタリ貼り付いていても。
小さなブルーは、ブルーの身体は、外よりもずっと熱いのに。
夏の気温よりも体温の方が、遥かに高い筈なのに。
長袖のワイシャツに体温は無くて、ブルーよりもずっと冷たい筈で。
袖を通しても、むしろ涼しい筈なのに。
小さなブルーにくっつかれるより、胸にペタリと貼り付かれるより。
なのに、熱くはないブルー。
暑苦しいとは思わないブルー、どんなにベッタリくっつかれても。
ギュッと抱き付かれて甘えられても、膝の上から下りてくれなくても。
(…そうか、やっぱり心の持ちようか…)
ブルーの体温は、小さなブルーの温もりは夏でも心地良いから。
生きているのだと、俺のブルーが此処にいるのだと、つい抱き締めてしまうから。
外の暑さよりずっと熱い筈の、小さな熱の塊を。
小さな身体を強く抱き締めて、胸に抱き込んでしまうから。
その方が暑い筈なのに。
長袖のワイシャツの比ではないのに。
(心頭滅却すれば…)
ブルーもまた涼し、と笑みを浮かべた、俺のブルーだと。
熱くなどはない、暑苦しいとも思うわけがない。
心頭滅却などと言わずとも、ブルーがいるだけで心地良い。
小さな身体が熱い夏でも、熱の塊など遠慮したくなる暑い季節でも…。
暑苦しくない・了
※夏でも長袖のワイシャツのハーレイ先生、でも暑いものは暑いのです。
なのにピッタリくっつかれていても、ブルー君だと全く平気。愛は偉大ですねv
(ちょっと残念…)
今日はハーレイが来てくれなかった、待ってたのに。
もしかしたら、って思っていたのに、チャイムが鳴るのを待っていたのに。
いつもハーレイが鳴らしてるチャイム、門扉の脇にあるチャイム。
それが鳴ったら、学校があった日もハーレイと家で会えるのに。
晩御飯も一緒に食べられるのに。
パパとママもいる食卓だけれど、それでもハーレイと一緒に御飯。
恋人同士の話は絶対出来ないけれども、ハーレイと御飯。
だけど、今夜は駄目みたい。
この時間になっても鳴ってないチャイム、もうハーレイは来てくれない。
今から来たんじゃ遅すぎる、ってハーレイが決めてる時間だから。
ぼくはちっともかまわないのに、ママだって「どうぞ」って言っているのに。
「晩御飯は直ぐに作れますから、来て下さいね」って。
でも、ハーレイは来ないんだ。
「お母さんに迷惑かけちまうだろうが」って。
自分で料理をするハーレイだから、その辺は譲れないみたい。
簡単に作れる御飯にしたって、遅い時間に訪ねて来るのはマナー違反だ、って。
ハーレイが来ないと分かってしまうと、つまらない。
まだまだ外は明るいのに。
今の季節は日が沈むのが遅いから。お日様がゆっくり沈んでゆくから。
だから余計にガッカリしちゃう。
真っ暗だったら諦めもつくけど、明るいんだから。
まだ充分に庭の木の色も、芝生の色も見えるんだから。
(…でも、時間…)
時計の針が指してる時間は、冬だったらもう真っ暗な時間。
そうでなくても、ハーレイが来てはくれない時間。
こんな時に部屋に一人でいたって、ぐるぐる考えちゃうだけだから。
ハーレイが来ない、って落ち込んでしまうだけだから。
(気分転換…)
晩御飯にはまだ早いから、ちょっぴりおやつ。
でなきゃ、飲み物。
それがいいな、と思った、ぼく。
ハーレイが来てくれた日には、お茶とお菓子が出て来るんだし…。
晩御飯に差し支えない量のを、ママが運んでくれるんだし。
何か食べよう、って部屋を出て。
階段を下りて、覗き込んだキッチン。
ママに訊いたら何か出て来るに決まっているから。
ケーキが少しとか、クッキーだとか。
飲み物だったら、冷たいものとか、温かいのとか。
「ママ、何かおやつ…」
ちょうだい、ってお料理しているママに言ったら、「そうねえ…」って。
「そこのケーキを少し食べるか、クッキーくらいね」
ちょっと待ってね、って笑顔を向けてくれたママ。
用意するから少し待ってて、って。
ケーキか、それともクッキーにするか。
ちょっぴり悩んでクッキーに決めた。小さな器に、幾つかクッキー。
丸いクッキーに四角いクッキー、味も色々。
ほんの少ししか食べられないなら、ケーキよりお得な感じだから。
一個ずつつまんで口に入れては、いろんな味を楽しめるから。
口どけだって、種類が違えば変わってくるし…。
クッキーを食べたら紛れた気分。
部屋にいるより良かったよね、って気持ちになった。
食べるってことは幸せだから。
それがお菓子なら、尚更だから。
(前のぼくだと…)
お菓子なんかは食べられなかった時代もあるから、とっても幸せ。
今のぼくは晩御飯の前におやつを食べられるくらいに幸せだよ、って。
幸せ気分で食べ終わったクッキー、ママに器を返しに行った。
「御馳走様」って。
美味しかった、って、「ちゃんと御飯も食べるから」って。
それから部屋に帰ろうとしたら、玄関の方でドアが開いた音。
「ただいま」っていうパパの声も。
これは迎えに行かなくちゃ。
ぼくの大好きなパパが帰って来たんだもの。
ハーレイのことも大好きだけれど、パパだって大好きなんだもの。
「おかえりなさい、パパ!」
急いでパタパタ走って行ったら、パパが「おっ?」ってビックリしてる。
「なんだ、いたのか?」
「うん、おやつを食べに下りて来てたんだよ」
「ほほう…。ただいま、ブルー」
大きな手でクシャッと撫でられた頭。
ハーレイにやられたら「酷いよ、子供扱いなんて!」って怒るけれども、パパは別。
ちっちゃな頃から撫でて貰っているから、これが普通で、ぼくは大好き。
パパの鞄をリビングに運んで、部屋まで着替えに行くパパと一緒に上った階段。
学校の話とかをしながら、ぼくが先に上って。
二階に着いてもまだ立ち話で、パパが「おいおい、パパも着替えないとな」って笑うまで。
確かにパパが着替えをしないと、晩御飯にはならないから。
まだもう暫く時間はあるけど、パパだって早く着替えをしたいだろうから…。
「じゃあ、また後でね!」
「ああ、続きは晩御飯の時に聞かせて貰うとしよう」
それまでに忘れていなければな、って、またまたクシャリと撫でられた頭。
「おやつもいいんだが、晩御飯もきちんと食べるんだぞ?」って。
軽く手を振って、部屋の方へと行っちゃったパパ。
ぼくも自分の部屋に戻ったけれども、何度も撫でて貰った頭。
(ふふっ、パパの手…)
ハーレイと同じで大きな手。とても優しく撫でてくれる手。
気持ち良かった、って目を細めた。
パパも大好き、って。
おやつを食べに下りて正解、パパに「おかえりなさい」を言えた。
いつも言うけど、玄関先で言えるチャンスは滅多に無いから。
パパの鞄も運んで行けたし、とっても幸せ。
(重たかったけど…)
でも、パパの鞄。
あれを軽々と提げるのがパパで、ハーレイと同じくらいに背が高いパパ。
重たい鞄も平気で持てちゃう、頼もしいパパ。
ぼくが病気で寝込んだ時には、パパが抱き上げて運んでくれるくらいなんだから。
大好きなパパに「おかえりなさい」で、鞄も運んで、一緒に上がって来た階段。
こんな日もいいよね、ハーレイは来てくれなかったけど。
ハーレイの代わりにパパが帰って来ちゃったけれど。
(…あれ?)
間違いだから、って頭をコツンと叩いた。
ハーレイはこの家に帰って来るってわけじゃなくって、お客さん。
パパが帰るよりも早い時間にやって来るだけ、帰って来るのはパパだけだよ、って。
(ハーレイは帰って来ないんだから…!)
パパより早めに来るだけだから、って思ったけれど。
ハーレイは「ただいま」って入って来ないし、「おかえりなさい」じゃないんだけれど。
(…でも、ハーレイ…)
今は、ぼくの家のお客さん。
晩御飯も一緒に食べて行くけど、お客さん。
「ただいま」って家には入って来なくて、「おかえりなさい」も言えないけれど…。
いつかハーレイと結婚したら。
一緒に暮らすようになったら、その家はハーレイの家だから。
ハーレイが「ただいま」って帰って来るのが当たり前の家になるんだから…。
(さっきみたいに扉が開いたら…)
パパが「ただいま」って開けたみたいに、玄関の扉が開いたら。
入って来るのはハーレイなわけで、「ただいま」って声が聞こえて来るんだ。
ぼくが迎えに駆けて行ったら、きっとハーレイの鞄だって…。
(…持たせて貰える?)
ぼくが「持つよ」って言ったなら。
パパにそう言って運んだみたいに、ハーレイの鞄を持ったなら。
(重たいぞ、って言われそうだけど…)
本当に重いかもしれないけれども、ぼくが持ってもかまわない鞄。
「おかえりなさい」って、「ぼくが持つよ」って、運んで行ってもいい鞄。
ちゃんと鞄を運んだ後には、ハーレイが着替えに行ったりして…。
着替えが済んだら、二人で御飯。
ハーレイは料理が得意らしいから、自分で料理をしそうだけれど。
「すぐ出来るからな」って作り始めそうだけど、たまにはぼくが作ってもいい。
だって、ハーレイと二人で暮らすんだから。
ママが料理をしているみたいに、ぼくがやってもいいんだから。
(…お鍋、焦げちゃうかもだけど…)
調理実習しかやってないから、自信は全く無いんだけれど。
だけど、せっかくの「おかえりなさい」が言える家。
ハーレイが「ただいま」って帰って来る家。
そんな幸せな家に住むんだから、ちょっぴり料理もしてみたい。
お鍋やフライパンと大格闘でも、派手に失敗しちゃっても。
そうやってキッチンで頑張っていたら、玄関の扉が開くんだから。
扉が開いたら、ハーレイが「ただいま」って帰って来るんだから。
もしもお鍋が焦げちゃっていても、ぼくは玄関まで走っていくんだ、扉が開いたら。
ハーレイに「おかえりなさい!」って言いに大急ぎで、全速力で…。
扉が開いたら・了
※ハーレイ先生に「おかえりなさい」は、ちょっと言うわけにはいきませんけど。
いつかは「おかえりなさい」が言えるんですよね、出迎えて「おかえりなさい」ってv
(今日も一日、終わったってな)
ブルーの家には寄れなかったけれど、終わった仕事。
帰り道には買い出しもしたし、充実していた日だとは思う。
(柔道部のヤツらも頑張ってたし…)
普段は投げられてばかりの生徒が、今日は見事に一本決めた。
他の部員も触発されたか、いつも以上に熱気が溢れていた練習。
そうなって来たら教え甲斐もあるし、惜しみなく皆に稽古をつけた。
「かかって来い!」と相手をしたり、技の指導をしてやったり。
部活の後には会議が入っていたけれど。
そちらの方で時間を取られて、ブルーの家には寄れずに帰って来たけれど。
会議は無駄に長引いたわけでもないから、必要なことを決めたのだから。
(やっぱり仕事は大切なんだ)
それで生活しているわけだし、文句は言わない。
言おうとも全く思っていないし、今日も一日無事に終わったとガレージに車を入れただけ。
この後は俺の自由時間だと、家に帰ったら俺の時間だと。
(より正確に言うならば、だ…)
学校の門を出た瞬間から自由だけれど。
買い出しに行こうがジムに行こうが、ドライブに行こうが、好きにしてかまわないのだけれど。
そうは言っても、目指していたのが家だから。
あれとこれを買って家に帰って…、と決めて車で走り出したから、ゴールは家で。
ガレージに車を停めた所で、まずは第一段階をクリア。
助手席に置いた鞄と買い込んだ食料品の袋と、それを手にして車を降りたら次の段階。
運転席のドアをバタンと閉めて、ロックして。
ガレージから庭の方へと入って、玄関の方へ歩いてゆく。
もうすぐ終点、玄関に着けば。
玄関の鍵をカチャリと開けたら、家の中へと入ったら。
今の季節は日暮れが遅いし、この時間でも充分明るい。
とはいえ、昼間ほどではなくて。
夕方と呼ぶにも少し暗くて、言うならば薄暮。
庭も庭木も見えるけれども、鮮やかな色はもう消えていて。
闇が落ちる前のモノクロームの世界が忍び寄ってくる、そういう時間。
暗くなったら自動で点くようにしてある門灯、それがぼんやり灯ってもいる。
玄関の扉の脇の明かりも、ポウッと。
(さて、と…)
明かりに頼らねばならない暗さではないけれど。
これだっけな、と確認した鍵、それで玄関の扉を開けた。
扉の向こうにも点いている明かり、暗くなったら点く明かり。
なんとも思わず中に入って、扉を閉めて。
玄関先に鞄と食料品の袋とを置いて、靴を脱いだら揃えて置いて。
(これでゴール、と…)
家に帰ったぞ、と床を踏み締めた、俺の家だと。
これから先はもう完全に自由時間だと、好きに過ごしていいのだからと。
家の中は流石に、もう暗いから。
廊下の明かりをパチンと点けて、鞄と食料品の袋を提げて歩いて行って。
少し考えてから、まずキッチンへ。
食料品の中には冷蔵の物もあったから。
明かりを点けて、袋の中身の仕分けを済ませてしまえば、残る荷物は鞄だけ。
それを手にしてリビングに行った、帰宅して直ぐのお決まりのコース。
鞄を床かソファに下ろして、その後は着替え。
リビングにも明かりは点いていないから、パチンと点けた。
それからソファに鞄をドサリと、両手が空いたら緩めるネクタイ。
暑い季節にネクタイの同僚は少ないけれども、これが性分。
長袖のワイシャツを着込むのと同じで、ネクタイの方も外せない。
けれども家に着いたら要らない、ネクタイなどは。
結び目を緩めて、ほどいて、外して。
ソファの背もたれにポイと投げ掛けて、ワイシャツの襟元のボタンも外して。
出掛ける前から用意しておいた、家用のラフな半袖シャツとズボンと。
それに着替えたら、脱いだワイシャツとズボンの片付け。
ソファの背もたれに預けてあったネクタイも。
(これでよし、と…)
飯にするかな、とキッチンの方へ向かおうとして。
今夜の晩飯はこれとこれだ、と頭の中で考えながら廊下を歩いていて。
明かりが漏れているキッチン。
そこで気付いた、この家には自分一人だと。
当然と言えば当然だけれど、自分の他には誰もいないと。
(…俺しか住んでいないんだよなあ…)
だから明かりを点けねばならない、行く先々で。
足を踏み入れようとしているキッチンだって、さっき点けたから明るいだけで。
食料品を仕舞うために入って、そのままだったから明るいだけで…。
(いつもだったら…)
暗いのだった、このキッチンも。
ブルーの家で夕食を御馳走になって帰って来た日も、そうでない日も。
夕食を自分で作るにしたって、コーヒーだけを淹れるにしたって、暗いキッチン。
明かりを点けねばならないキッチン。
他の部屋にしたってそれは同じで、リビングも、入って直ぐの廊下も。
自動で点くよう、セットすることは出来るけれども…。
(…誰かが点けてくれるってことだけはないからなあ…)
この家には誰もいないのだから。
自分しか住んではいないのだから。
そう思ったら、頭に浮かんだブルーの顔。
今日は寄ってやれなかった家に住んでいる、十四歳の小さなブルー。
(…あいつがいればなあ…)
いてくれたらな、と思ってしまった、ブルーがいれば、と。
この家にブルーがいてくれたならば、先に明かりを点けておいてくれる。
暗くなって来たら、廊下も、リビングも、ダイニングも。
キッチンだって、きっと。
(それ以前に、だ…)
玄関を開けたら、ブルーが駆けて来るだろう。
「おかえりなさい!」と奥の方から。
もしも気付かずにいたとしたって、何処かで出会う。
リビングか、ダイニングか、ひょっとしたらブルーがキッチンに立って…。
(何か作っているかもなあ…)
前のブルーは料理は全くしなかったけれど。
今のブルーも調理実習の経験だけしか無いようだけれど、この家にブルーがいるならば。
(結婚してるってことなんだしな?)
そうなれば料理もするかもしれない、簡単なものしか作れなくても。
普段は自分が料理をしていて、ブルーは食べるのが専門でも。
キッチンに立っているブルー。
たとえ料理は上手くなくても、何か作ろうとしてくれるブルー。
(そんなブルーがいてくれたら…)
どんなに愛おしいことだろう。
きっとたまらず抱き締めてしまう、ブルーが鍋を焦がしていても。
フライパンの中身が黒焦げになってしまっていようが、鍋から煙が上がっていようが。
いてくれるというだけで嬉しい、その上に料理。
(そうだ、あいつがいてくれるだけで…)
この家の中が温かくなる。
帰れば明かりの灯っている部屋、そして「おかえりなさい!」の声。
ブルーの笑顔に、自分を迎えてくれる声。
扉を開けたら、その向こう側で。
「ただいま」と玄関の扉を開けたら、そこでブルーが待っている。
玄関先にはいないとしても。
リビングかダイニング、時にはキッチンにいるかもしれない。
そこでブルーに「ただいま」と言えば、「おかえりなさい」と笑顔が返って。
きっとネクタイも緩めない内に、ギュッと抱き付かれてしまうのだろう。
扉を開けたら、この家でブルーが待っていたなら。
(いつかはあいつが…)
出迎えてくれる、この家の中で。家の何処かで。
今はまだ小さくて幼いけれども、いつか大きく育ったならば。
結婚してこの家に来てくれたならば。
今はまだ夢で、いつとも知れない未来だけれど。
その日は必ずやって来るから、ブルーと暮らせる日が来るのだから。
(うん、それまでの辛抱だな)
ついでに束の間の自由なのかもな、とクッと笑った、今だけかもな、と。
ブルーがいてくれる家は幸せで、早く扉を開けたいけれど。
開けてブルーに会いたいけれども、その代わり。
仕事帰りに思い立ったからと、急にジムには行けなくなるから。
一人暮らしの気ままな自由は、もう無くなってしまうから。
(それでも、だ…)
一人より二人の方がいい。
ブルーと暮らせる家の方がいい。
扉を開けたらブルーがいる家が、ブルーが笑顔で待っている家が…。
扉を開けたら・了
※ハーレイ先生、今は気ままな一人暮らしの日々ですけれど。
ブルー君と二人の方がいいですよね、自由がちょっぴり減ったとしてもv