(……うーむ……)
どうも眠いな、とハーレイが軽くこすった目元。
夜の書斎で、読んでいた本を開いたままで。
何故だか襲って来た眠気。
特に疲れてはいないと思うし、疲れるようなことだって…。
(…してはいないと思うんだがな?)
ブルーの家にも寄っていないぞ、と考える。
逆に言うなら「ブルーの家に寄って帰るには遅すぎた」ということになるけれど…。
(あいつの家に寄って帰ると、晩飯を御馳走になってから…)
食後のお茶まで出たりするから、帰宅の時間は遅くなる。
学校で会議などをした後、家に真っ直ぐ帰るよりも。
(それでも、あいつの家に寄るとだ…)
疲れるのではなくて、元気になる。
心がすっかり満たされるから、とても幸せな気分になって。
(今日は、そいつが出来なかったから…)
眠気が襲って来たのだろうか、と考えもする。
「こんな日は早く寝るのに限る」と、心が癒しの方に走って。
ベッドでぐっすり眠る時間も、元気をくれるものだから。
(…そうなのかもな?)
ブルーの家に寄り損なって、ガッカリしたのは否めない。
その分、失せたかもしれない「元気」。
お蔭で身体が眠りを欲して、「早く寝よう」と出して来たサイン。
「別に仕事があるわけじゃなし」と、「今日は、ここまで」と。
そういうことなら、今日は寝るのもいいだろう。
持って帰った仕事は無いから、コーヒーの残りを飲み干して。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それは眠るのを妨げはしない。
(…世の中、眠気防止にコーヒーなヤツも多いらしいが…)
生憎と俺には当てはまらんな、と一気に飲んだカップの中身。
読みかけの本はパタンと閉じて、ページには栞を挟んでおいた。
椅子から立って、書斎の灯りを消して…。
(後はカップを洗って、と…)
きちんと拭いて棚に片付けたら、熱いバスタブにゆったりと浸かる。
身体がほぐれて、いい具合にのんびり過ごしたら…。
(風呂から上がって、髪を乾かして…)
ベッドにもぐって眠るだけだ、と向かったキッチン。
まずはカップを洗うことからで、朝まで流しに放っておこうとは思わない。
いくら気ままな一人暮らしで、独身の中年男でも。
誰に咎められるわけではなくても、そういったことは…。
(やりたくないのが、俺の性分なんだ)
今日できることは今日の内に、というのがポリシー。
たかがカップを洗うことでも、拭いて片付けるだけのことでも。
(一事が万事で…)
やらないと気持ちが落ち着かないんだ、と洗ったカップ。
それを拭いて、棚へと片付ける時に、フイと昔の記憶が掠めた。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやっていたこと。
まだ名前ばかりだった、シャングリラという船の厨房で。
白い鯨ではなかった時代に、まだキャプテンでもなかった頃に。
(…洗って、片付けていたっけな…)
俺が厨房にいた頃には、と蘇る記憶。
皿洗いの係もいたのだけれども、料理の試作をした時などは自分で洗った。
「これは俺がやる」と、まな板も鍋も、何もかも全部。
あるべき場所へと片付けた後に、「さてと…」と後にした厨房。
夜遅くまで仕込みをしていた時にも、同じように。
(…厨房の頃なら、眠くなったら…)
一応、頼める「誰か」はいた。
自分が最後までいたのでなければ、「後は頼む」と、任せられた仲間。
皿洗い専門の係だろうが、調理担当の者であろうが。
(丸投げしたことは無いんだが…)
必ず自分でやっていたが、と思いはしても、気楽だったのが厨房の時代。
いざとなったら「頼める誰か」が、いたものだから。
眠くなったら後を任せて、自分の部屋へと戻って良かったのだけど…。
(……キャプテンの方は、そうはいかんぞ)
誰にも任せられんじゃないか、と軽く握った拳。
白い鯨になる前の船も、白い鯨になった後の船も…。
(…今みたいに、眠くなったからって…)
眠っていいような場所ではなかった。
キャプテンたる者、どんな時でも、毅然とブリッジに立っていてこそ。
勤務時間の真っ最中は。
そうでなくても、非常事態で叩き起こされた夜中でも。
(…眠いだなんて言っていたら、だ…)
船の仲間の命が危うい。
キャプテンが持ち場を離れていたなら、即座に出来ない様々な判断。
眠くなったら寝てもいい、という職ではなかった。
ベッドで眠っていた時にだって、よくあったのが緊急呼び出し。
雲海の星、アルテメシアを後にしてからは、頻繁に。
(ナスカに腰を落ち着けた後は…)
それも減ってはいたのだけれども、ナスカを追われて、再び多忙になった。
前のブルーを失った痛み、それさえも時には忘れるほどに。
人類軍との戦闘の日々が絶えず続いて、船の指揮だけに忙殺されて。
(徹夜したことも、珍しくなくて…)
もう「眠い」とさえ感じないほど、精神の糸が張り詰めていた。
「俺しか出来ん」と、ブリッジに立って。
時には主任操舵士だった、シドの代わりに操舵までして。
(…俺にしか舵を取れない場所も…)
まるで無かったわけではなかった。
「シドでも出来る」と考えはしても、それでは不安が残るもの。
皆の命を乗せた箱舟、白いシャングリラを沈めるわけにはいかない。
どんな局面であろうとも。
徹夜が続いて、「キャプテン、少しは寝て下さい」と皆に言われていても。
(…俺がベッドで眠ってしまったせいで…)
船が沈んだら、何と言って皆に詫びればいいのか。
死んでしまった仲間はもちろん、先に逝ってしまったブルーにだって。
ブルーが最後に残した言葉は、「頼んだよ、ハーレイ」だったから。
皆には内緒で思念で伝えて、メギドに向かって飛び去ったから。
(…あいつが命を捨ててまで…)
守った船を、自分が沈めてしまうことなど、出来る筈もない。
どれほどの激務が続いていようと、眠気すら感じないほどに疲弊していても。
そう、あの頃にはそうだった。
眠くなっても、眠れないのが当たり前で。
(…それが今では…)
眠っちまっていいんだな、と棚のカップをしみじみと見る。
カップは洗って片付けたけれど、今の自分の「仕事」は「そこまで」。
そのささやかな仕事にしたって、放って眠ってもかまわない。
「明日にするか」と、カップは流しに置きっ放しで。
明日の朝食の食器と一緒に、明日の朝、起きてから洗えばいい、と。
(……ついつい、洗っちまったが……)
そうしたって誰も困らないよな、と眺めるカップ。
前の自分が生きた頃なら、厨房で働いていた時代だって…。
(…俺がカップを放って行ったら…)
誰かが代わりに綺麗に洗って、所定の場所に片付けただろう。
それが「彼ら」の仕事だったし、ごく自然に。
(…そうなっちまうし、申し訳なくて…)
とても放っていけなかったが…、と噛み締める「今」との大きな違い。
今はカップは放っておけるし、眠くなったら眠ってもいい。
誰も困りはしないから。
キャプテン不在の船が沈んで、仲間たちの命が失われる事態も起こらないから。
(…なんとも贅沢な話じゃないか)
眠くなったら、眠っちまってもいいなんて…、と視線を自分の手に移した。
遠い昔は、この手で舵輪を握ったもの。
今の身体とは違うけれども、全く同じな大きさの手で。
ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、白いシャングリラの命綱の舵を。
(…あの頃の俺は、どう転がっても…)
持ち場を離れて、好きに眠れはしなかった。
「キャプテン」が必要だった時には。
ブリッジでどっしり構えるにしても、自ら操舵を行うにしても。
(それが今では、「なら、寝るか」と…)
読みかけの本に栞を挟んで、閉じておしまい。
コーヒーの残りを一気に飲んで、カップを洗って片付ければ。
(その片付けさえも要らないくらいに…)
平和な時代に来ちまったんだな、と改めて思う。
欠伸を噛み殺しもせずに。
「眠い時には、寝るとするか」と、バスルームの方へ身体を向けて。
そうしたところで、今の時代は、誰一人として困らないから。
白いシャングリラが沈みはしないし、厨房の係の仕事を増やしもしないから。
(……いい時代だよな……)
今夜はいい夢が見られそうだ、と浮かんだ笑み。
ブルーと二人で生まれ変わった、青い地球の上で。
前の生では何処にも無かった、ブルーが焦がれた水の星の上で…。
眠くなったら・了
※ハーレイが急に感じた眠気。「寝るか」と思ったわけですけれど…。
眠くなっても、前の生では眠るわけにはいかなかった立場。今は平和な時代ですよねv
「ねえ、ハーレイ。複雑だよね…」
ホントにとても困っちゃうよ、と小さなブルーが零した溜息。
二人で一緒に過ごす休日、ブルーの部屋で。
いつものテーブルを間に挟んで、赤い瞳を揺らしながら。
「複雑って…。それに困り事か?」
どうしたんだ、と問うたハーレイ。
恋人が困っているとなったら、力になってやりたいもの。
いくら小さな恋人でも。
十四歳にしかならない子供で、中身も子供そのものでも。
「んーとね…」
なんて言ったらいいのかな、と口ごもるブルー。
さも困ったと言うように。
どう切り出したらいいというのか、自分でも迷っているように。
こんな時には大人の出番で、年上のハーレイが尋ねるべき。
小さなブルーが抱える悩みが、少しでも軽くなるように。
だから「どうした?」と微笑んだ。
「俺でいいなら相談に乗るぞ」と、赤い瞳を真っ直ぐ見詰めて。
「本当に? でも、ハーレイに分かるかな…」
ちょっと心配、と上目遣いに見上げるブルー。
「だって、ハーレイは大人だものね」と、言いにくそうに。
「おいおいおい…。妙なことでなければ、ちゃんと聞いてやるぞ」
変な話はお断りだが、と刺した釘。
何かと言ったらキスを強請るのが、小さなブルー。
頬や額へのキスと違って、唇へのキスを。
「ぼくにキスして」と、隙さえあれば。
(…用心に越したことは無いからな…)
こいつは悪知恵が回るんだ、と重々、承知。
今日までに何度ブルーを叱って、頭をコツンと小突いたことか。
「キスは駄目だと言ってるだろう」と。
「俺は子供にキスはしない」と。
それで今回も、先回りをしておいたのだけれど…。
「ねえ、ハーレイ。神様って、とても意地悪だよね」
「はあ?」
意表を突かれて、丸くなった目。
小さなブルーに現れた聖痕、お蔭で地球で再会できた。
神様に感謝することはあっても、意地悪だとは、何事なのか。
「お前なあ…。神様は意地悪なんかじゃないぞ」
俺とお前を、地球に連れて来て下さったじゃないか、と顰めた顔。
「なのにいったい、何を言うんだ」と咎めるように。
そうしたら…。
「だって、ぼくだけ子供なんだよ」
「…子供?」
「うん。ハーレイは、前とおんなじなのに…」
なんでぼくだけ子供なわけ、と嘆いたブルー。
「前と同じに生まれていたなら、すぐに結婚できたのに」と。
「なるほどなあ…。それで複雑だったのか」
「そう。神様には感謝してるけれども、複雑だよね…」
チビだなんて、とブルーが指差す自分の顔。
「神様、どうしてチビにしたんだろ」と。
小さなブルーの気持ちは分かる。
けれどチビでも、その方がいいと思いもする。
ブルーはこれから幸せになるし、小さい分だけ、夢も大きい。
「お前は複雑かもしれんがな…。チビの方がいいな」
ゆっくり大きくなってくれ、と銀色の頭を優しく撫でた。
「俺は、いつまでも待ってるから」と。
ブルーが大きくなってくれる日を、二人でキスが交わせる日を…。
複雑だよね・了
(……うーん、ちょっぴり……)
なんだか、お腹が空いちゃったかも、と小さなブルーが傾げた首。
ハーレイが寄ってはくれなかった日、夜に勉強机の前で。
とっくの昔に、食べた夕食。
それから此処で本を広げて、ページをめくっていたのだけれど…。
(晩御飯、足りなかったのかな…?)
全部きちんと食べたのに、と少し途惑う。
食が細いから、「お腹が減った」と夜に感じることは少ない。
学校から戻れば、毎日、母が用意してくれるおやつ。
それに夕食、ハーレイが来た日は、他にも「お茶の時間」がある。
だから「足りない」と思うことなど、本当に滅多に無いのだけれど…。
(…今夜は、珍しいパターン…)
夕食のメニューが、消化が良すぎるものだったろうか。
おやつに食べた母のケーキも、アッと言う間に胃袋を通り過ぎたのだろうか。
こんな時間に「お腹が空いた」と感じるくらいに。
いつもだったら「そろそろ、お風呂に入って寝なきゃ」と思う時間に。
(…えーと…?)
ほんの僅かな空腹感。
きっとクッキーを一枚だとか、その程度で治まる腹の虫。
そうはいっても、この部屋には…。
(……今は、なんにも無いんだよ……)
普段から夜食の習慣は無いし、部屋に食べ物を置いてもいない。
前にハーレイがくれたクッキー、あれが今でもあったなら…。
(…瓶を開けて、一枚、食べるのに…)
生憎と、とうに食べ尽くした後。
ハーレイに貰った、とても美味しいクッキーは。
柔道部員用に買うのだと聞いた、徳用袋の、割れたり欠けたりしたものは。
口に入れるものが部屋に無いなら、「食べに行く」しか無いだろう。
まだ両親は起きているから、階段を下りて一階へ。
キッチンを覗いて何か探すか、「ママ、何か無い?」と尋ねるか。
(…作って貰うって程じゃないから…)
夜食が欲しいとまでは思わないし、母の手を煩わせはしない筈。
自分で探して食べる方にせよ、母に尋ねてみる方にせよ。
(…やっぱり、何か食べないと…)
お腹は空いてゆくだけだろう。
朝食までには、まだまだ時間があるのだから。
壁の時計を確かめてみても、八時間どころでは済まない時間が。
(もっと夜中になっちゃってから…)
お腹が空いた、と下りて行ったら、階段を下りる足音で…。
(パパとママが、目を覚ましちゃって…)
下まで様子を見に来るだろうし、そうなれば迷惑がかかってしまう。
両親の眠りを破った上に、ベッドから階下までやって来させて。
(…それじゃ、パパとママに悪いよね…?)
夜の夜中に、自分の勝手で「食べに出掛けて」起こすだなんて。
早い時間に食べておいたら、そんなことにはならないのに。
(……晩御飯、足りなかったのか、って……)
どうせ同じに笑われるのなら、「迷惑は抜き」にしたいもの。
今だったならば、笑い話で済むのだから。
「珍しいな」と父が笑って、母も可笑しそうな瞳になって。
(…食べるなら、今…)
何でもいいから、食べられれば…、と机の前から立ち上がった。
部屋の扉を開けて廊下を歩いて、階段をトントン下りて行ったら…。
「あら、ブルー。もうお風呂?」
今日は早いわね、と母とバッタリ出くわした。
確かに、お風呂には些か早い。
けれども、丁度いいとばかりに、母に尋ねた。
「ママ、クッキーか何かある?」
「…クッキー?」
「うん。…お腹、ちょっぴり空いちゃって…」
クッキーが一枚あればいいんだけれど、と正直に話したお腹の事情。
母は「あらあら…」と目を丸くして、「珍しいわね」と予想通りの言葉。
「ブルーが、「お腹が減った」だなんて…。でも、いいことだわ」
食べた分だけ育つものね、と母は早速用意してくれた。
「好きなのを取って食べなさい」と、クッキーが何枚も入った箱を。
「ありがとう、ママ!」
ズラリと並んだ色々なクッキー。
綺麗なパッケージに一枚ずつ入って、味も形も様々なもの。
(……んーと……?)
どれがいいかな、と暫し迷って、軽めのものを選び出した。
口の中でほろりとほどけるタイプで、どっしりと重くないものを。
「それにするのね? ホットミルクかココアも飲む?」
「…いいの?」
「いいわよ、ママも飲もうと思っていたから」
パパはコーヒーにするんですって、とホットココアを入れてくれた母。
ダイニングのテーブルで、思いがけない「夜のお茶の時間」。
両親も一緒に、クッキーを食べて。
父に「一枚だけでいいのか?」と、からかわれながら。
クッキーが一枚と、ホットココアと。
空腹感はすっかり消えて無くなり、代わりに満ちた充足感。
「御馳走様!」と部屋に戻って、机の前に腰掛けた。
(…食べに下りて行って、良かったよね…)
お風呂の方は、もう少し後でいいだろう。
食べて直ぐより、その方がきっと、身体にもいい筈だから。
(夜中に下に下りて行っても、ホットココアは…)
母に入れては貰えないから、本当にタイミングが良かったと思う。
それにクッキーが一枚だけでも、お茶の時間は幸せ一杯。
「珍しいな」と父に笑われたって。
「もっと食べないと、早く大きくなれないぞ?」と、からかわれたって。
(……どうせ、ぼくの背……)
一ミリだって伸びないもんね、と心で嘆いた所で、掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、「前の自分」が見て来たもの。
(…あの頃は、前のぼくもチビ…)
今と同じにチビだったっけ、と思い出す。
アルタミラの檻で長く成長を止めて、心も身体も子供のまま。
成長したって、「いいこと」は何も無いだろうから。
「育つだけ無駄だ」と何処かで思って、無意識の間に止まった成長。
メギドの炎で燃えるアルタミラから脱出した時、船では一番のチビだった。
正確に言うなら、ただ一人だけの「子供」でもあった。
他の仲間は、とうに大人になっていたから。
実験動物にされてしまっても、檻の中で成長し続けていて。
(……ぼくだけ、ホントにチビだったから……)
ハーレイたちは、せっせと育ててくれた。
「早く大きくならないと」と、心も身体も、ちゃんと大人になるように。
食事を多めに食べさせてみたり、散歩に誘って運動させたり。
(……あの船の食事……)
一番最初に食べた食事は、非常食だった。
パッケージを開ければ膨らむパンと、火傷しそうなくらいに温まる料理。
檻で食べていた「餌」とは違って、どれほど美味しく感じたことか。
けれど、人とは不思議な生き物。
いつの間にか「食事」に慣れてしまって、非常食よりも…。
(厨房でコトコト煮込んだものとか、焼き立てのパンとか…)
そちらの方が好みになって、忘れ去られた非常食。
朝昼晩と、毎日、「食事」を食べる間に。
前のハーレイたちが作った、色々な料理を味わう内に。
(…だけど、食料…)
誰も気付いていなかったけれど、近付いて来ていた「終わりの時」。
船の倉庫に山と積まれた食料、その山は、日々、減ってゆく。
何処からも補給の船は来ないし、補給のために宙港に降りることも無いから。
SD体制の異分子のミュウは、そんなことなど出来ないから。
(……人類軍の船に会ったら終わりで……)
船ごと沈められて、おしまい。
そうなるのが先か、食料が尽きて、飢え死にするのが先になるのか。
(…前のハーレイ、それに気付いて…)
一人で心を悩ませていた。
ある日、ポツリと零したほどに。
「もうすぐ、食料が尽きちまうんだ」と、チビだった頃の前の自分に。
(……食料が尽きてしまったら……)
みんな飢え死にするのだけれども、それよりも先に起こりそうなこと。
「お前は食べろ」と、ハーレイたちが譲ってくれそうな食事。
飢え死にするのが「一番最後」になるように。
チビの子供は、少しでも長く生かしておいてやりたいから、と。
(……やだよ、そんなの……)
そんなのは嫌だ、と心の底から思ったから。
前のハーレイや船の仲間たちを、飢え死にさせたくなかったから…。
(……御飯、何処かで貰って来よう、って……)
生身で宇宙へ飛び出して行った。
たった一人で、輸送船から食料を奪って帰ろうと。
そして本当に奪って戻った、コンテナにぎっしり詰まった食料。
船の仲間たちは死なないで済んで、前のハーレイは厨房で料理を続けた。
「文句を言わずに、ちゃんと食えよ!」と、食材が偏ってしまった時も。
ジャガイモ地獄やキャベツ地獄で、船の仲間が音を上げた時も。
(…だけど、今だと…)
お腹が減っても大丈夫、と浮かんだ笑み。
人間がみんなミュウになっている今の時代は、誰も飢え死にしたりはしない。
夜に突然お腹が減っても、ちゃんとクッキーが食べられたりする。
(……ハーレイだって、おんなじだよね?)
今頃は何か食べているかも、と思い描いた愛おしい人。
「ハーレイなら、カップ麺かもね?」と。
それとも何か作っているのか、出来た料理を食べているのか。
平和な青い地球の上では、もう飢えたりはしないから。
前の自分が焦がれ続けた青い水の星は、もはや「夢」ではなくなったから…。
お腹が減っても・了
※夜にお腹が減ってしまったブルー君。食べに出掛けて、クッキーを一枚、それで満足。
けれども、前の生では違った事情。お腹が減ったら直ぐに食べられる今は、幸せv
(…うーむ……)
なんだか小腹が空いたような…、とハーレイが軽く傾げた首。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
(コーヒーだったら、此処にあるんだが…)
少しばかり冷めて来ていても、と眺める愛用のマグカップ。
夕食の後に淹れたコーヒー、いつものようにたっぷりと。
それをお供に、のんびり読書の真っ最中。
(しかし、その前に…)
ひと仕事、片付けたのだった。
学校から持って帰ったプリント、教え子たちに出した課題の採点。
さほど労力は要らないけれども、頭は使うのかもしれない。
(採点だけで済ませるんなら、世話要らずだが…)
それでは生徒のやる気が出ないし、必ず一言、書き添える主義。
「次も頑張れ」とか、「この調子だ」とか。
ブルーのような優等生には、点数だけでいいのだけれど。
(下から数えた方が早いようなヤツは、励みが無いと…)
「どうせ駄目だ」と手抜きでサボリ。
すると下がってゆく成績。
下がり始めたら、ますます「やる気」を失くして、一番下まで真っ逆様に…。
(…落ちちまうから、怖いんだ)
そうならないようサポートするのも、教師の役目。
だから一言、添えてやる。
生徒の顔を思い出しながら、その子に相応しいものを。
お茶目な子ならば、そのように。
とても真面目な生徒だったら、頑張りを後押し出来るようにと。
(……一種の頭脳労働ではあるな)
授業ほどでは無いんだが…、と思い返した仕事の内容。
普段よりは頭を使っただろう。
本を読むだけの夜よりは。
お気に入りの本や、買ったばかりの本を読み耽る夜に比べて。
(頭を使うと、エネルギーが要るわけだから…)
腹が減っても不思議ではない。
柔道や水泳などとは違って、目に見える形で使うのとは異なるエネルギー。
(俺も、それほど詳しくはないが…)
脳味噌を使って何かしたなら、相応のエネルギーを消費する。
すると欲しくなる、減った分だけのエネルギー。
甘い物だったり、夜食だったりと。
(…何か食うかな…)
コーヒーだけでは腹は膨れん、と飲み干したカップのコーヒーの残り。
やはり減らない、空腹感。
(こういった時は、食わんとな?)
でないと眠れないじゃないか、と椅子から立ち上がった。
「腹が減った」と思いながらでは、質のいい睡眠は得られない。
考えなくても分かることだから、胃袋に何か入れるべき。
空腹感が消える何かを。
「食った」と満足できる何かを、使ったエネルギーの分だけ。
書斎に食料は置いていないし、灯りを消して、向かったキッチン。
空のマグカップをサッと洗って、干すための籠に置いてやる。
(こいつは、今夜はお役御免だ)
明日の朝まで出番は無いな、と別れを告げて、キッチンの中を眺め回した。
いったい何を食べようかと。
「小腹が空いた」といった気分に、何が一番、合うだろうかと。
(…ベーコンエッグは…)
どちらかと言えば朝食向け。
チーズやサラダは、一緒に酒が欲しくなる。
(酒まではなあ…)
要らないからな、と考える内に、頭にポンと浮かんだもの。
湯を注ぐだけで出来る食べ物、いわゆるカップ麺。
(うん、それでいいな)
あれなら確かに腹が膨れる、と戸棚を開けて、取り出した一個。
こういう夜には食べたくなるから、幾つかは常に買ってある。
(あとは湯を沸かして…)
注いで、少し待つだけだよな、と進めた準備。
じきにグラグラと湯が沸き立って、ケトルから勢いよく注いだ。
「ここまで入れて下さい」と引かれた線まで、キッチリと。
待つこと三分、蓋を開けたら…。
(出来上がり、ってな!)
実に簡単で美味いんだ、とカップ麺の匂いに惹き付けられる。
流石に腹は鳴らないけれども、「待ってました」と喜ぶ腹の虫。
「ご主人様、早く食べましょうよ」と御機嫌で。
どうということもない、カップ麺。
特別高いわけでもなければ、期間限定品でもない。
定番中の定番だけれど、この味わいは気に入っている。
(なんたって、飽きが来ないんだ…)
ロングセラーの品だけはある、と二本の箸で口に運ぶ麺。
合間に熱いスープも啜って、腹の虫を満足させてゆく。
もちろん自分の空腹感も、たちまち綺麗に消えてゆくのが面白い。
(これだから、非常食ってヤツは…)
欠かせないんだ、と思った所で、遠い記憶が反応した。
遥か彼方の時の向こうで、「前の自分」が見て来たものが。
(……非常食……)
それが最初の「食事」だった。
メギドの炎で燃えるアルタミラ、其処を脱出した後の船で。
皆に配られ、パッケージの封を切って食べたもの。
開けるだけでふんわり膨らむパンや、たちまち温まるものを。
(…最高に美味いと思ったモンだが…)
人というのは、不思議な生き物。
実験動物だった時代の「餌」に比べれば、非常食は素晴らしい御馳走なのに…。
(じきに慣れちまって、調理したものが欲しくなるんだ)
食材から用意するものが。
鍋でコトコト煮込んだシチューや、焼き上がったばかりのパンなどが。
(どうやら俺は、料理に向いてて…)
厨房の担当者になった。
船の仲間たちの胃袋のために、毎日、食事を作る係に。
食料品が積み上げられた倉庫で、何が出来るか、考えて。
「今日はこれだ」と選び出したものを、調理して「料理」の形に変えて。
(…順調にいってたんだがな…)
アルタミラが在った宙域を遠く離れて、暗い宇宙を航行する船。
人類軍とも出会うことなく、穏やかな日々が流れていった。
船の中を整理し、暮らしやすいよう、色々な工夫などをして。
誰もが満足だったけれども、「その日」は、突然、やって来た。
本当の所は「突然」ではなく、いつか必ず訪れる「必然」。
誰も気付いていなかっただけで、考えさえもしなかっただけ。
(…食料ってヤツは、食えば減るんだ…)
食べた分だけ、調理されて胃袋に消えた分だけ。
非常食だろうと、食材だろうと、どちらも同じに減ってゆく。
そして追加の分が来ないなら、食料は、いずれ底を尽く。
食料品用の倉庫に山と積まれていても。
今は「どれから料理すればいいか」と眺めてはいても、悩む余地さえ無くなっていって。
(…船のヤツらの数を考えれば、いつになったら全部、消えちまうのか…)
前の自分には、すぐに分かった。
「終わりの日」が遠くないことが。
暗い宇宙を飛んでゆくミュウたちの船に、食料の補給などは無い。
これが人類の船だったならば、いつでも補給できるのに。
近い惑星に降りてもいいし、救難信号を出すことも出来る。
「食料が尽きてしまいそうだ」と、「補給を頼む」と。
けれども、ミュウに「それ」は出来ない。
アルタミラで星ごと殲滅されそうになった、SD体制の異分子には。
人類軍と出会ったが最後、沈められるだけの「ミュウの船」では。
あの時の恐怖を、忘れはしない。
「じきに終わりだ」と、背筋がゾクリと凍えたことも。
終わりが来ると分かってはいても、打つ手など、ありはしなかった。
何処からも補給する手段は無くて、食料は、日々、減ってゆくだけ。
どんなに切り詰めて使っていっても、終わりの時を先延ばし出来るというだけで…。
(……終わりが来ないわけじゃないんだ……)
それが、どれほど恐ろしかったか。
滅びの時がやって来るのに、仲間たちには明かせない。
せっかく自由を手に入れたのに、「もうすぐ終わりが来るのだ」とは。
少しでも長く「自由な暮らし」を味わって欲しい、と思ったから。
(…誰にも言えん、と思ったんだが…)
自分一人の胸だけに秘めて、黙っておこうと決意したのに…。
(ついつい、あいつに話しちまった…)
時の彼方で、前のブルーに。
「もうすぐ食料が尽きちまうんだ」と、「本当のこと」を。
(……そうしたら……)
ブルーは飛び出して行ってしまった。
「ぼくが食料を手に入れるから」と、生身のままで、暗い宇宙に。
そして持ち帰ってくれた食料。
コンテナいっぱいに詰まっていた「それ」、あの有難さを…。
(…今でも、忘れちゃいないんだがな…)
贅沢な時代になったもんだ、とカップ麺をしみじみ見詰めて頷く。
「小腹が空いた」と思った時には、こんな具合に「食べられる」何か。
カップ麺でも、自分で料理をするにしたって。
(…腹が減っても、飢え死にすることは無いんだ、今は…)
店にだって食べに行けるんだしな、と浮かんだ笑み。
夜の夜中も、開いている店は多いから。
「食べに行くか」と車を出したら、様々な料理が食べられるから。
しかも、憧れの青い地球の上で。
前のブルーが焦がれ続けた、あの頃は宇宙の何処にも無かった、青い水の星で…。
腹が減っても・了
※ハーレイ先生の夜食のカップ麺。思い付いたら、お湯を沸かして注ぐだけ。
お腹が減ったら、いつでも食べられるんですけれど…。前の生と比べてみると、贅沢な今。
「うむ。…やっぱり美味いな」
お母さんのパウンドケーキ、とハーレイが浮かべた極上の笑み。
ブルーの家で過ごす休日、ブルーと向い合せに座って。
午後のお茶に出て来たパウンドケーキ。
不思議なことに、ハーレイの母が焼く味にそっくり。
(まさに、おふくろの味ってな)
自然と頬が綻ぶくらいに、嬉しい気分になってくる。
いつ食べても、とても美味だから。
隣町に住む母が、コッソリ持って来たかと思えるほどに。
「美味しい? ママに頼んでおいたんだよ」
パウンドケーキ、とブルーが微笑む。
「今日はパウンドケーキがいいな」と、朝に頼んでおいたのだと。
「そうなのか…。気が利くな」
俺の大好物なんだ、と頬張るパウンドケーキ。
ブルーの母が作るケーキは、どれも美味しいのだけれど…。
(パウンドケーキが最高なんだ)
おふくろの味に及ぶものは無し、という気がする。
今の自分には血の繋がった、本物の母がいるのだから。
遠く遥かな時の彼方で、前のブルーと生きた頃。
白いシャングリラで暮らした頃には、いなかった「母」。
子供は全て人工子宮から生まれた時代で、いたのは「養父母」。
その養父母の記憶も機械に奪われ、何も残っていなかった。
だから無かった「おふくろの味」。
それがある今は素敵な世界で、その上に…。
(ブルーのお母さんが作るケーキと、俺のおふくろのが…)
同じ味だというのがいい。
目には見えない、深い絆があるようで。
小さなブルーが生まれる前から、ちゃんと繋がっていたようで。
(余計に美味く感じるってな…!)
これが別の人が焼くケーキならば、また印象は違ったろう。
同じに「おふくろの味」だとしても。
「食えたらいいな」と考えはしても、そこまでで終わり。
見ただけで心が躍りはしない。
フォークで口に運んでみたって、ただ単純に「美味い」だけ。
しみじみと感慨に耽りもしないで、パクパクと食べて…。
(御馳走様、って思うんだろうな)
そんなトコだ、と可笑しくなる。
ブルーの母が焼くケーキだから、舌も心も喜ぶのだ、と。
今日のケーキも、期待通りの「おふくろの味」。
ゆっくり、のんびり味わって食べて、フォークを置いた。
「美味かったぞ」と、ブルーに御礼を言って。
ブルーが注文してくれたお蔭で、食べられたから。
そうしたら…。
「良かったあ…! 好物は別腹だよね」
「まあな。だが、俺は昼飯を食い過ぎちゃいないぞ」
このくらいのケーキは軽いモンだ、と片目を瞑った。
倍の量が出たって平らげられるし、三倍だって、と。
「そうなんだ…。じゃあ、ハーレイの好物をあげる」
「おっ、追加を頼んでくれるのか?」
「ううん、ハーレイの大好きなキス!」
これはぼくから、と赤い瞳が煌めく。
「美味しいケーキを食べた後には、ぼくのキスだよ」と。
「馬鹿野郎!」
誰が食うか、とブルーの頭にコツンと落とした拳。
チビのブルーに、キスはしないという決まりだから。
たとえ別腹だと言われても。
どんなに美味しいケーキの後でも、キスは贈ってやらないから…。
別腹だよね・了
