(当分の間は、行けそうにないなあ…)
旅ってヤツには、とハーレイが微かに浮かべた苦笑。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
ふと思いついたのが「旅」という言葉。
旅行とも呼ぶ、娯楽の一種。
当分は、それに行けそうもない。
一ヶ月や二ヶ月なんかではなくて、年単位で。
(どう考えても、二年以上は無理だな…)
行けっこないぞ、と頭に描いたチビの恋人。
十四歳にしかならないブルーは、きっと許してくれないだろう。
「旅に出てくる」と言ったなら。
たとえ一泊二日の旅でも、プンスカ怒るに違いない。
「なんで、ハーレイ、一人で行くの!」と。
「ぼくは一緒に行けやしないのに」と、「一人で好きに遊びたいんだ!」と。
なにしろ、連れては行けないから。
恋人とはいえ、まだまだ内緒の間柄。
隣町に住む自分の両親はともかく、ブルーの両親は何も知らない。
一人息子が恋をしていることも、その恋人が足繁く訪ねて来ることも。
(…それをいいことに、一緒に連れて行けだとか…)
言い出しそうなのがチビのブルーで、そうなった時は断れない。
ブルーの両親は、きっと喜んで許すだろうから。
「ハーレイ先生が一緒だったら、安心だ」と。
身体の弱い一人息子でも、保護者つきの旅なら大丈夫。
そう考えて「どうぞ、よろしくお願いします」と頭を下げるのだろう。
一人息子の魂胆も知らず、「ハーレイ先生との旅」に出してやりたくて。
旅は見聞を広めるチャンスで、世界がグンと広がるもの。
だから「是非に」と、大喜びで。
一人息子の成長を願って、「先生と旅をしてくるといい」と。
けれども、それは出来ない相談。
ブルーの両親が承知したって、肝心の自分が「お断り」。
誰も気付いていないことでも、ブルーは「恋人」なのだから。
前の生から愛していた人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
白いシャングリラでブルーに恋して、ブルーも同じに恋してくれた。
キスを交わして、愛を交わして、共に暮らした長い歳月。
もちろん今も忘れていないし、忘れられよう筈も無い。
どれほどにブルーが美しかったか。
この腕の中に抱き締めた時に、どれほど愛しく思ったのかも。
(いくらあいつがチビになっても、その辺の記憶は…)
少しも薄れちゃいないんだ、と充分にある自覚。
頭から消えてくれない面影。
(……だからだな……)
小さなブルーと、旅は出来ない。
前のブルーと重ねてしまって、道を踏み外すようなことになったら…。
(あいつの両親に顔向け出来んし、第一、俺は自分が許せん)
なんということをしたのだろうかと、自分を責めることだろう。
意志薄弱にも程があるのだし、言い訳などは、とても出来ない。
(…あいつにとっては、うんと都合がいいんだろうが…)
本当の所はどうなんだかな、と考えもする。
小さなブルーは何かと言ったら、「ぼくにキスして」と強請ってばかり。
早く大きくなろうと夢見て、せっせと牛乳を飲んでもいる。
前のブルーと同じ背丈に成長したなら、キスを許して貰えるから。
キスのその先に待っていることも、じきにお許しが出るのだろうと。
(……しかしだ……)
ちゃんと育ったブルーはともかく、チビのブルーは間違いなく子供。
「キスのその先」に待っていることは、今のブルーには早すぎる。
分かっているから、小さなブルーと旅には行けない。
もしも過ちを犯したならば、大変なことになるだろうから。
(…きっとショックで、泣き叫んだ末に…)
ブルーが心に負うだろう傷。
いくら自分が望んだことでも、「思い描いていたもの」とは酷く違ったら。
甘やかな夢が儚く砕けて、惨い現実と入れ替わったら。
(……あいつを旅行に連れてく、ってことは……)
そういうリスクを負うということ。
自制心が利かなくなった時には、小さなブルーを傷付けかねない。
前のブルーと重ねてしまって、そっくり同じに扱った末に。
(…でもって、俺も傷付くからなあ…)
旅は出来んぞ、と最初の所に戻った思考。
小さなブルーが大きくなるまで、旅は封印するしかない。
研修旅行や、柔道部の生徒を連れた旅とか、遠征試合は許されても。
小さなブルーが「仕方ないよね」と、納得してくれるケースだけ。
置き去りにされて、留守番でも。
「ほら、土産だ」と渡した何かを、「ありがとう」と素直に喜ぶ場合。
それ以外の旅は、当分は無理。
小さなブルーが前と全く同じに育って、一緒に旅するようになるまで。
何処へ行くにも、「お前も一緒に来るんだろう?」と、誘えるようになるまでは。
その日は、まだまだずっと先のことで、今の所は見えてさえ来ない。
きっと最初の旅はこれだ、と分かっていても。
二人で出掛ける新婚旅行で、行き先は宇宙なのだ、とも。
チビのブルーは、一度も地球を見ていないから。
宇宙から青い地球を見るのが、二人の新婚旅行だから。
ブルーと二人で旅に出られる時が来るまで、行けない旅行。
出掛けられない、旅というもの。
前は気ままに旅していたのに、すっかり難しくなってしまった。
「おっ、いいな」と心が動くことがあっても、「今は行けん」と諦めてばかり。
ほんの片道半日くらいで、行ける場所でも。
日帰りするには少し遠くて、一泊二日が似合う土地でも。
(一泊二日で行けるトコなら…)
小さなブルーと出会う前には、よく行ったもの。
週末にドライブを兼ねて行くとか、公共の交通機関などで。
(もっと遠くに行きたい時には、夏休みとか…)
長い休みが取れる時に合わせて、旅の予定を組んでいた。
「今度は此処を回ってみよう」と、色々な場所を組み合わせて。
この地球だけでも、長い旅なら、いくらでも出来る。
宇宙船で出掛けてゆく旅だったら、地球を離れて遥か彼方まで。
(…今だったら、行ってみたい所は…)
いったい何処の星だろうな、と考えてみる。
懐かしいアルテメシアだろうか、今の自分は知らないけれど。
前の自分が長く暮らした、雲海の星というだけで。
(…とんと興味も無かった星だが…)
ミュウの時代の始まりの星だ、と歴史の授業で教わる星がアルテメシア。
だから知らない者などいないし、前の自分の名前を刻んだ墓碑がある記念墓地だって。
けれども、記憶が戻る前には、ただそれだけの星だった。
「いつか行こう」と思いもしなくて、「機会があれば」という程度。
近くの星まで行くことがあれば、旅程に組み込むのもいい、と。
「うんと有名な星なんだしな」と、記念墓地などを見学しようと。
そう、入ってはいなかった。
旅したい星のリストには。
長い休みに出掛ける旅行で、「是非とも行きたい場所」の中には。
それを思うと、なんと変わったことだろう。
いつかは行きたい場所の一つに、アルテメシアが入るとは。
歴史で習っただけだった星が、「懐かしい星」になってしまうとは。
(…やっぱり、一度は行きたいよなあ…)
あいつが大きくなった時には、と頭に描いた雲海の星。
青い地球を見る新婚旅行が最初だけれども、ブルーと出掛けてみたい場所。
(まずは新婚旅行なんだが…)
宇宙から青い地球を見んとな、と思った所で気が付いた。
今は「地球の方が」近いのだと。
アルテメシアの方が遠くて、青い星、地球は、足の下にある。
前の生では、前のブルーが焦がれ続けた星だったのに。
ブルーは辿り着けずに終わって、前の自分だけが地球まで行った。
前のブルーの言葉を守って、白いシャングリラの舵を握って。
まるで青くない星とも知らずに、約束の場所へと、ミュウの箱舟を運んで行って。
(…着いたのは、死の星だったんだがな…)
ついでに俺も死んじまったが、と遠い日のことを思い出す。
地球の地の底で命尽きた日、ブルーの許へと魂が空へ飛び立った時。
(…その筈だったが、気付いたら、俺は…)
今のブルーと地球に来ていた。
青く蘇った母なる星に。
旅路の遥か彼方だった星が、今では二人の故郷になった。
(……こうも近すぎる星になると、だ……)
ちょいと有難味が減る気もするな、と傾けたコーヒーのカップ。
今では旅に出るとなったら、「地球から」だから。
アルテメシアの雲海で地球に焦がれる代わりに、「遠いな」と思うアルテメシア。
チビのブルーがうるさい間は、行けないから。
いつか二人で行ける時まで、雲海の星には、旅をしたくても出来ないから…。
近すぎる星・了
※当分は気ままに旅が出来ない、ハーレイ先生。置き去りにされたブルー君が怒るので。
けれど今では、近くなった地球。長い旅路を辿らなくても、足の下に地球。近すぎる星v
「ねえ、ハーレイ。…前のぼくのこと、どう思う?」
いきなり投げ掛けられた問い。
ブルーと過ごす休日の午後に、お茶を飲んでいたら。
テーブルを挟んで向かい合わせで、寛ぎの時間の真っ最中に。
(…前のブルーだと!?)
表情には出さなかったけれども、ハーレイは内心、狼狽えた。
ブルーが「前のぼく」と言ったら、ソルジャー・ブルー。
今も心の奥から消えない、前の生で恋をしていた人。
(……まさか、バレたか!?)
あいつのことを忘れられないのが、と背中に流れた冷たい汗。
チビのブルーには内緒だけれど、書斎の机の引き出しには…。
(あいつの写真集が入れてあるんだ…)
それは『追憶』というタイトルの本。
前のブルーの一番有名な写真が表紙の、後世に出た写真集。
毎晩、机の引き出しを開けて、前のブルーに語り掛ける。
他愛ないことなどを、今も彼が生きているかのように。
今のブルーは、サイオンがまるで使えない。
心を読むことなど出来はしないし、バレる心配は…。
(全く無いと思ってたんだが、いつの間に…!)
これはマズイ、と心臓の鼓動が早くなる。
前のブルーに嫉妬しているのが、チビのブルー。
鏡に映った自分に喧嘩を売る子猫みたいに、目の敵にする。
そんなブルーにバレたとなったら、ただでは済まない。
(…あの写真集を捨てろってか!?)
今のブルーなら、言いかねない。
家に来ることは禁じてあるから、あの本を此処へ…。
(持って来て、目の前で破り捨てろと…?)
そうなった時は、どうすればいいと言うのだろう。
前のブルーも今のブルーも、魂は全く同じだけれど…。
(…だからと言って、前のあいつの写真集を…)
捨てることなど、とても出来ない。
破るなんて、出来る筈もない。
(……どうすりゃいいんだ……)
大ピンチだぞ、と身が縮む思い。
あの写真集を破るとなったら、心まで破れそうだから。
(…前のあいつを、捨てるみたいで…)
それも俺の手で引き裂いて…、と血の涙まで溢れて来そう。
小さなブルーはそれで良くても、大満足で輝く笑顔でも。
(…このハーレイ、一世一代のピンチ…)
なんというヘマをしたのだろうか、と悔いは尽きない。
チビのブルーに、心を読まれたなんて。
未だに忘れられない恋人、その存在を知られたなんて。
(なんてこった…!)
窮地に追い詰められた所へ、チビのブルーが笑いかけた。
「前のぼくって、とても心が強かったよね」と。
「はあ?」
何の話だ、と言いかけて、慌てて取り繕った。
「そうだな、あいつは強かったな」と。
そうしたら…。
「だからね、ぼくも見習うべきだと思うんだよ」
諦めちゃったらダメだもんね、と胸を張ったブルー。
「ハーレイがキスをしてくれるまでは、諦めないよ」と。
「おいおいおい…」
いつもだったら、此処で「馬鹿野郎!」と言うのだけれど。
小さなブルーを叱るのだけれど、窮地を脱したものだから…。
(……たまにはなあ……?)
寝言だと思って聞き流すかな、と浮かべた笑み。
前のブルーを想う気持ちは、バレてはいないようだから。
何も知らないチビのブルーは、自分の気持ちで手一杯。
(よしよしよし…)
そのまま気付いてくれるんじゃないぞ、と今日は広い心。
たまには、こういう日だっていい。
チビのブルーを叱らなくても。
言いたいように言わせておいても、心は痛くならないから…。
陥ったピンチ・了
(…ビックリしちゃった…)
今日の古典、と小さなブルーが瞬かせた瞳。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は寄ってはくれなかったハーレイ。
放課後に会議が入っていたのか、柔道部の指導が長引いたのか。
それは全く分からないけれど、学校でハーレイには会えた。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
古典の教師になったハーレイ、その授業の中で起こった事件。
ブルーのクラスにやって来た時に、宿題を集めようとして。
(……泣き落としなんて……)
そんなの思い付かなかったよ、と驚きと共に感嘆する。
宿題を忘れた男子生徒が、そういう手段に訴えた。
前の授業で、ハーレイが予告していたから。
「宿題をやって来なかったヤツには、追加の宿題を出すからな」と。
(それが嫌だから、泣き落とし…)
宿題のことなど忘れていたろう、件の男子。
彼は「やっていません」と申し出る代わりに、真っ赤な嘘をつくことにした。
「ミミちゃんが病気だったんです」と、愛猫の名前を口にして。
家族同然の「ミミちゃん」だから、上を下への大騒ぎ。
動物病院に連れて行ったり、帰ってからも皆で見守ったりと。
(…晩御飯を食べるのも、うんと遅くなって…)
ミミちゃんの具合が落ち着いた頃には、とうに変わっていた日付。
疲労困憊してベッドに入って、宿題どころではなかった昨日。
お風呂に入るのが、精一杯で。
今日の学校の授業に備えて、時間割だけ整えただけで。
(……ホントに大変だったんだよね、って……)
心から同情した自分。
ところが、事実は違っていた。
何もかもが、口から出まかせの嘘で。
クラスメイトも騙されたけれど、誤魔化せなかったハーレイの目。
事情を聞き終えたハーレイはといえば、大きく頷いて、こう言った。
「なるほど、それは大変だったな」と同情をこめて。
自分も昔は猫を飼っていたから、「帰りにミミちゃんの見舞いに行こう」と。
聞くなり、顔色が変わった生徒。
「ミミちゃん」は病気になっていないし、昨日は、ごくごく平凡だった日。
宿題をやらずに終わった理由は、単に忘れていただけのこと。
もしもハーレイが見舞いに行ったら、家族は恐縮することだろう。
彼がついた嘘もバレてしまって、夜に帰って来た父親に…。
(ゲンコツを貰うとか、晩御飯は抜きになっちゃうだとか…)
ロクな結果になるわけがない。
仕方なく、彼は白状せざるを得なかった。
本当のところはどうだったのかを、「宿題は、やっていないんです」と。
(だから追加の宿題が出て…)
ハーレイを騙そうとした罪の分まで、別の宿題が追加になった。
「忘れました」と言うならともかく、同情を買おうとしたものだから。
愛猫が病気だと「お涙頂戴」、「泣き落とし」などを試みたから。
(……正直に言えば良かったのに……)
そうしていたなら、宿題の追加は一つだけ。
オマケの宿題は貰わなかった。
とはいえ、彼の「真っ赤な嘘」がバレなかったら、効果は大きい。
「やむなく宿題が出来なかった」上に、家族同然の「ミミちゃん」が病気。
一晩で無事に治ってはいても、誰だって気の毒に思うだろう。
病気になったミミちゃんのことも、看病に励んだ彼や家族をも。
(なのにハーレイが、宿題を追加していたら…)
きっとクラス中がブーイング。
「先生、酷い!」と、非難轟々で。
授業が終わった休み時間には、他のクラスにまで伝わって。
(……血も涙も無い、鬼教師だ、って……)
たちまち評判が立つのだろうし、自分だって、ハーレイを責めたくなる。
いくらハーレイのことが好きでも、それとこれとは別問題。
次にこの家を訪ねて来たなら、真っ先に口にすることだろう。
「ハーレイ、なんで宿題を追加しちゃったの!」と。
とても可哀想な生徒を相手に、なんということをするのか、と。
(宿題は、忘れたんじゃなくって…)
男子生徒の言い訳によれば、昨日、仕上げる筈だった。
そのつもりで予定もメモしておいたし、やらない気など全く無かった。
けれど起こった突発事故。
大切な猫が病気となったら、宿題などはしていられない。
気が気ではなくて、勉強なんかは…。
(絶対に、手につかないよね…?)
具合の悪い「ミミちゃん」のことが心配で。
動物病院に連れて行ったのが彼でなくても、家で留守番していたのでも。
(……ぼくだって、きっと泣きたくなるよ……)
ペットを飼ったことは無いけれど、気持ちは分かる。
「このまま、死んでしまったら…」と、涙がポロポロ零れるだろう。
動物病院から帰って来たって、落ち着くまではオロオロ見守る。
「ちゃんと元気になるんだよね?」と、何度も両親たちに尋ねて。
大事な家族がいなくならないかと、寝ている姿を覗き込んで。
(誰だって、きっとおんなじだよ…)
病気のペットを思う気持ちは、誰だって、きっと変わりはしない。
だから「泣き落とし」は効果絶大、彼が成功していたならば。
真っ赤な嘘だとバレなかったら、ハーレイに看破されなかったら。
そうは言っても、世の中、そこまで甘くなかった。
百戦錬磨のハーレイ相手に、通じなかった泣き落とし。
彼が貰ったのは「オマケの宿題」、ハーレイを騙そうとしていた分まで。
素直に「忘れました」と言っていたなら、追加の分だけで済んだのに。
(…思いっ切り、間抜けだったんだけど…)
それは結果がそうなったからで、バレずに成功していた時は…。
(上手くやったな、って羨ましがられて…)
ちょっとしたヒーローだっただろう。
嘘八百を並べまくって、ハーレイの同情を買ったのだから。
「そういうことなら仕方ないな」と、免除になった追加の宿題。
ついでにお見舞いの言葉も貰って、得意だったに違いない。
授業が終わって、ハーレイが姿を消したなら。
「ミミちゃん、病気だったのかよ?」と、友人たちに囲まれたなら。
(…泣き落としだぜ、ってニヤニヤ笑って…)
してやったり、という顔だったろうか。
結果は逆に転んだけれども、ハーレイを騙せていたならば…。
(すげえ、って、友達に褒められちゃって…)
たちまちクラスの英雄扱い、「頭が切れる」と大評判。
宿題を忘れた時の言い逃れに、「泣き落とし」という手は斬新だから。
咄嗟に思い付いたことやら、効果の大きさに、皆が感心して。
(……失敗しちゃったんだけれどね……)
あの手も、きっと悪くないよね、と「泣き落とし」のことを考えてみる。
自分は宿題を忘れないけれど、他の場面で役に立ちそう。
同情を買って「お涙頂戴」、使い方によっては、素晴らしい武器。
彼は泣いてはいなかったものの、本当に涙を流したならば…。
(もっと効果は抜群で……)
普通だったら、すげなく断られそうなことでも、許して貰えそうな気がする。
言われた相手が可哀想に思って、仕方なく折れて。
涙を零したくらいだったら、「駄目だ」と突き放された時でも…。
(大泣きに泣いて、泣きじゃくったら…)
どうにもこうにもならないのだから、涙を止めにかかるだろう。
最初は、僅かに譲歩してみて。
それでも涙が止まらないなら、じりじりと後退していって。
(…うんと無茶なことを言ってても…)
泣き落としという手段に出たなら、勝ち目はありそう。
目玉が溶けて流れるくらいに、おんおんと泣いていたならば。
「聞いて貰えないなら、死んじゃった方が遥かにマシだよ」と、訴えたなら。
(……うん、使えそう……)
いつか大いに役立つだろうか、たとえば両親を相手にして。
ハーレイと結婚できる年になったのに、結婚に反対されたりしたら。
両親が頑として譲らなかったら、まずはポロポロ涙を零して。
「ハーレイとしか結婚しない」と、唇を噛んで。
それで駄目なら、もう身も世もなく泣きじゃくるまで。
結婚を許して貰えないなら、家出するとか。
「御飯は二度と食べないからね」と、ハンガーストライキに入るのもいい。
痩せ衰えて死んでやるから、と涙ながらに脅しをかけて。
そういう手段に訴えたならば、両親も、きっと折れるだろう。
一人息子を失うよりかは、許した方がマシだから。
ハーレイと結婚されてしまっても、息子の命は残るのだから。
(……よーし、この手で……)
いけばオッケー、と笑みを浮かべて頷いた。
両親に反対された時には、「泣き落とし」という手が使えそうだ、と。
(…ついでに、ケチなハーレイにも…)
やってみようか、と考えてみる。
断わられてばかりの唇へのキスも、この手で貰えるかもしれない。
涙をポロポロ幾つも零して、「ぼくにキスして」と。
「ハーレイのキスが貰えないなら、死んじゃうからね」と泣きじゃくって。
これならケチなハーレイでも、と考えたけれど…。
(……鬼教師……)
男子生徒の真っ赤な嘘を見抜いたように、直ぐに見抜かれることだろう。
「馬鹿野郎!」と頭に軽くゲンコツ、おまけに罰も来るかもしれない。
「俺は当分、来ないからな」と、サッサと帰ってしまわれて。
それから何日待っていたって、一向に来てはくれなくて。
(……うーん……)
泣き落とせたらいいんだけどな、と思いはしたって、相手はハーレイ。
きっと敵いはしないものだから、ガックリと肩を落とすしかない。
「泣き落とせたなら、幸せなのに」と、「ハーレイのキスが貰えるのにね」と…。
泣き落とせたなら・了
※ハーレイ先生の授業で、泣き落としを試みた男子生徒。ブルー君まで騙されたほど。
その手を自分も使えるかも、と浮かんだ名案。ハーレイ先生には、無理そうですけどねv
(まだまだ、詰めが甘かったよな…)
この俺を甘く見るんじゃないぞ、とハーレイの顔に意地の悪い笑み。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた、コーヒー片手に。
ふと思い出した昼間の出来事。
ブルーのクラスに古典の授業で出掛けて、遭遇した珍事。
(…俺は宿題を集めただけで…)
それは、ごくごく普通のこと。
前の授業で宿題を出せば、次の時間に回収するもの。
もっとも宿題の中身によっては、もっと後になることもあるけれど。
(今日のは、1時間もあれば出来るヤツで、だ…)
翌日に回収にやって来たって、大抵の生徒は困らない筈。
家に帰って「宿題があった」と思い出して取り掛かったなら、直ぐに完成するから。
(現にだな……)
教室で「宿題を集める」と声を上げると、生徒たちはサッと用意した。
前回の授業で配ったプリント、それに対する宿題の結果を。
順に提出させたのだけれど、其処で上がった困惑の声。
とても困った顔付きをした男子生徒が、自分の席で手を挙げた。
「宿題が出来ていないんです」と。
それを聞くなり、「そうか」と重々しく頷いてやった。
「こいつが追加の宿題だからな」と、取りに来るよう促してやって。
(…そういう約束だったしな?)
宿題をやらなかった生徒は、罰に宿題を追加する。
何度も念を押してあったし、文句を言われる筋合いは無い。
ところが件の男子生徒は、泣きそうな顔で…。
(……出来なかったんです、と来たもんだ)
宿題は昨夜に仕上げる予定で、ちゃんとスケジュールを書いたメモまで。
なのに思わぬ事態が起こって、手つかずになってしまったのだ、と。
クラス中の生徒が固唾を飲んで見守る中で、彼は切々と訴えた。
「ミミちゃんが病気になったんです」と。
(…妹なのか、と訊き返したら…)
ミミちゃんというのは猫だった。
けれども彼の家族も同然、両親も可愛がっている猫。
その「ミミちゃん」が病気だというので、たちまち家中、上を下への大騒ぎ。
動物病院へ連れて行ったり、診察を終えて家に戻ってからも…。
(自分たちの食事もそっちのけで、せっせと看病……)
落ち着いた頃には、すっかり夜更けで、誰もが疲れ果てていた。
皆で黙々と遅い夕食を食べて、ミミちゃんの様子を確認してから…。
(ああ良かった、と風呂に入って…)
ベッドにもぐり込んだ頃には、日付が変わっていたという。
そんな具合だから、全く出来なかった宿題。
今日の時間割をするだけで精一杯で、古典の教科書やノートがあるのが奇跡なのだ、と。
そちらも忘れて登校したって、何の不思議も無かったのだ、とも。
(…事情を考慮して下さい、と泣き落としで…)
追加の宿題を免れようと、懸命に説明を続けた彼。
「ミミちゃん」が如何に重病だったか、大切な家族の一員なのかを。
今朝は元気になっていたから、こうして授業に出ているけれど…。
(病気が重くて死にそうだったら、学校を休んで、付きっきりで…)
ミミちゃんの看病をしていた筈だ、と彼は主張した。
そうなっていたら、宿題の提出日が今日であろうと関係無い。
授業に出席していないのだし、当然、提出義務だって無い。
追加の宿題を貰うことも無くて、何も知らずに過ごしただろう。
(でもって、例の宿題は…)
次の授業に出席した時、「遅れました」と詫びて提出。
もちろん追加の宿題は出ない。
彼は欠席していたのだから、宿題を忘れずに出しただけでも立派なもので。
(…言うことは間違っちゃいないんだがな?)
自分だって地獄の鬼ではないから、事情があったら臨機応変。
「そういうことなら、この次でいいぞ」と、無罪放免するくらいのことは、わけもない。
とはいえ、世の中、そうそう甘くは…。
(出来てないってな、生憎と)
他の生徒の手前もあるんだ、とコーヒーのカップを傾ける。
真面目に宿題をやった生徒は、きちんと評価されねばならない。
ほんの1時間で出来るものでも、仕上げるのは生徒の義務なのだから。
(…そいつをやらずに、のうのうと遊び暮らした末に…)
真っ赤な嘘で言い逃れるなど、言語道断。
しかも自分が風邪を引いたとか、腹痛だったとかなら、まだしも…。
(……猫が病気だったと、お涙頂戴……)
クラスメイトたちの同情を誘って、泣き落としという手段に出た彼。
これで追加の宿題を出せば、教師の自分が悪者にされる。
「なんて酷い」と、まず女子生徒が騒ぎ始めて。
愛猫のために頑張った彼に、罰を与えるなど、鬼の所業だと。
(そうなれば、男子も黙っちゃいないし…)
俺の人気が地に落ちるんだ、と顰めた顔。
せっかく学校で勝ち得た人気は、すっかりオシャカになるだろう。
「おい、聞いたか?」と噂がたちまち駆け巡って。
「ハーレイ先生、酷すぎるよな」と、まるで根拠の無い悪評が。
(……なにしろ、猫のミミちゃんは……)
病気なんかじゃないんだからな、とカップをカチンと指先で弾く。
宿題を忘れた男子生徒は、苦し紛れに大嘘をついた。
「こう言えば、許して貰えるだろう」と、泣き落としに出て。
きっと嘘だとバレはしないと、スラスラと嘘を並べ立てて。
それが証拠に、彼の顔色はサッと変わった。
「気の毒にな…。帰りに見舞いに寄るとしよう」と微笑んだら。
「俺が子供の頃には、おふくろが猫を飼っていたしな」と、ミミちゃんに敬意を表したら。
(…本当に修行の足りないヤツだ)
同じ嘘なら、もっとマシなのを言えばいいのに、と苦笑する。
修行を積んだ教師が見たって、「嘘かどうか」の判断に困るようなのを。
「宿題を家に忘れて来ました」という定番の方が、まだバレない。
この世の中には、本当に忘れる不幸な生徒もいるものだから。
通学鞄を逆さに振っても、「入れた筈」の宿題が出て来ない子が。
(そっちにしてれば、俺だって……)
宿題の追加を出すべきかどうか、きっと考え込んだだろう。
彼の日頃の行いなどから、総合的に判断するために。
(……しかしだな……)
あの泣き落としは頂けん、と彼に下した追加の宿題。
「特別に、これも付けてやろう」と、その場で考えた宿題もセット。
悪事を働こうとしていたのだから、相応の罰を与えなくては。
「泣き落とし」という卑怯な手段を用いた、彼に。
嘘だとバレなかった時には、「追加の宿題を出したハーレイ先生」が悪者にされる。
「猫が病気だったと言っているのに、酷すぎる」と。
きっと小さなブルーさえもが、後から責めにかかるだろう。
「どうして許してあげなかったの?」と、赤い瞳でキッと見据えて。
「酷いよ、ハーレイ!」と、正義の拳を振りかざして。
そうなっていたら、本当に目も当てられない。
生徒どころか、恋人にまで悪者にされてしまうとは。
血も涙も無い鬼教師だと、情があるとは思えない、と。
ところがどっこい、露見したのが彼の嘘。
「ハーレイ先生」が家に見舞いに来ようものなら、今度は彼が困る番。
きっと玄関を開けた家族は、とても恐縮するだろうから。
(ミミちゃんは、ピンピンしててだな…)
宿題を忘れた言い訳に使われただけで、動物病院に行ってはいない。
「泣き落とし」に出た彼はその場で、家族に叱られることだろう。
先生の手を煩わせた上に、宿題も忘れた悪人として。
場合によっては、夕食の時に、父からゲンコツを貰ったりもして。
(……本当に、あいつは馬鹿だったんだが……)
ちょっと使ってみたい気もする、と思う手段が「泣き落とし」。
彼は失敗したのだけれども、成功するなら、試してみたい。
「大の男」が「お涙頂戴」、それで解決するのなら。
頭を抱えるような難問、それがアッサリ…。
(許しますよ、と言って貰えるのなら…)
いいんだがな、と考える。
今の時点で、その難問には、まだ立ち向かっていないけれども。
立ち向かうべき時は、まだ遥か先で、欠片も見えてはいないのだけれど。
(……息子さんを、嫁に下さいと……)
ブルーの両親を泣き落とせたら、どんなにか楽なことだろう。
「嫁に欲しい」と思う気持ちに嘘は無いから、いくらでも泣ける。
結婚を許して貰えないなら、首を括って死ぬとでも。
高い崖から身を投げるとでも、底無しの沼に飛び込むとでも。
(…あいつを嫁に貰えないなら、生きていたって意味が無いからなあ…)
泣き落とせたら、どんなにいいか、と思うけれども、きっと、その手は使わない。
同じブルーを貰うのだったら、正々堂々、正面から突破したいから。
何度、門前払いを食おうと、懲りずに通い詰めるのだから…。
泣き落とせたら・了
※ハーレイ先生の授業中に起こった「泣き落とし」。宿題を忘れた男子生徒の、真っ赤な嘘。
それが切っ掛けで、使ってみたくもある「泣き落とし」。いつかブルーの両親相手にv
「ねえ、ハーレイ。感謝の気持ちって、大切だよね?」
人間が生きてゆく上で…、と小さなブルーが言い出したこと。
二人で過ごす休日の午後に、テーブルを挟んで。
向かい合わせで、紅茶のカップを傾けながら。
「ほほう…? 珍しい話題だな」
お前にしては、とハーレイは笑む。
こういった時にブルーが持ち出す話題は、難しくないもの。
人生の話をするにしたって、将来の夢とか、希望だとか。
生きてゆく上で欠かせないものだったら、食事くらいだろう。
いつか二人で暮らし始めたら、是非とも食べたい料理や食材。
なのに、「感謝」と口にしたブルー。
まるで遥かな時の彼方で、前のブルーが言ったかのように。
(どう見ても、いつものブルーなんだが…)
珍しいこともあるもんだ、とハーレイは思う。
どんな心境の変化だろうか、「感謝の気持ち」の話だとは。
それは大事なものだけれども、別に無くても困らない。
人間としては問題とはいえ、生きるのに支障は全く無いもの。
「恩知らずだ」と思われるだけで、その責任は本人が負う。
同じ何かを頼むにしたって、頼まれた方は…。
(恩知らずなヤツを手伝うよりかは、感謝してくれる方…)
そっちを助けてやりたいものだ、と考えるのが普通だろう。
だから「恩知らず」だと言われる者は損をする。
仕事を手伝って貰えないとか、集まりに誘われないだとか。
けれど、そのせいで死んだりはしない。
食べるのに困るわけでもないから、本人が良ければ別にいい。
感謝の気持ちを持たなくても。
誰かに感謝をするということを、しないで生きる人生でも。
前のブルーが生きた人生、それは感謝の日々だったろう。
生きていられることを神に感謝し、仲間たちにも感謝の心。
ミュウの仲間を乗せた箱舟、シャングリラで共に暮らした者。
彼らの働きに感謝し続け、労い続けたソルジャー・ブルー。
(…誰が欠けても、あの船じゃ、大きな損失で…)
風邪で休んだだけのことでも、上手く回らないことが山ほど。
その船の頂点に立ったブルーは、皆の重みを知っていた。
未来への道を開くためには、感謝の気持ちを忘れないことも。
(……本当に、あいつらしかったんだ……)
どんなことにも礼を言っていたな、と思い出す。
公園で子供たちから貰った、小さな花冠に対してさえも。
「えっと…。ハーレイ?」
どうしちゃったの、とブルーが首を傾げる。
「ぼく、間違ったことを言っちゃった?」と。
「いや…。お前が言ったことは正しい」
実に正しい、と腕組みをして大きく頷いた。
感謝の気持ちを忘れないことは、とても大事なことだから。
そうしたら…。
「やっぱりそうでしょ? だからね、ぼくもハーレイに感謝」
こうして家に来てくれたりして、感謝してる、という言葉。
輝くような笑みを浮かべて、それは嬉しそうに。
「感謝の気持ちを伝えたいから、キスしてもいい?」と。
「馬鹿野郎!」
それとこれとは別問題だ、と叱り付けながら、零れた溜息。
「前のブルーと重ねた俺が、馬鹿だった」と。
「こいつは、こういうヤツだったよな」と、顔を顰めて…。
感謝の気持ち・了
