(青い鳥なあ…)
本物だったぞ、とハーレイが思い返した出来事。
夜の書斎で、コーヒー片手に。
今日、本当にあった小さな出来事、ちょっとした事件。
(俺はちょっぴり早く出掛けただけなんだがな?)
仕事帰りに、ブルーの家に。
いつもは放課後の指導が日課な柔道部。
そちらの方が休みだったから、普段よりも早い時間に行けた。
小さなブルーに予告はしないで。「早めに行くぞ」とは言わないで。
着いてガレージに車を停めて。
チャイムを押したら、出て来たブルー。いつもなら母の方なのに。
(たまたま買い物で留守っていうのは分かるんだが…)
その日を狙っていたかのように、起こった事件。
何も知らずに到着したら、ブルーにグイと腕を引かれた。
「こっち」と、「大変なんだよ」と。
聞けば青い鳥がどうとかこうとか、そんな鳥を見た記憶は無い。
ブルーは「ぼくの青い鳥」と言ったけれども、部屋で見掛けたことが無い鳥。
他の部屋にも鳥籠は無いし、飼っているとも聞かないし…、と思ったら。
(降って来た鳥と来たもんだ)
青い空から、ブルーの家に。
窓のガラスに、真っ直ぐゴツンとぶつかって。
ガラスに映った庭の景色を、本物なのだと勘違いして。
連れてゆかれたダイニング。
普段だったら、夕食の時に入る部屋。
ブルーの両親も一緒に囲む食卓、そのための部屋に昼間に入った。
それもブルーと二人きりで。
「あそこ…」とブルーが指差したテラス。
真ん丸な青い小鳥が一羽。
瑠璃色の羽根で、真っ白なお腹。
一目で名前が分かったオオルリ。声が美しいと評判の小鳥。
けれど、こんなに丸かったろうか、と思うくらいに膨らんだ姿。
ふくら雀でもあるまいに、と驚いたけれど、オオルリはオオルリ。
(ビックリして、羽根が逆立っちまって…)
そのせいか、と思い至ったオオルリの姿。
ブルーが言うには、ぶつかって直ぐは転がっていたらしいから。
死んでしまったのかと慌てるくらいに、お腹の方を上にしてコロンと。
起き上がったまではいいのだけれども、丸く膨れたままだという。
獣医に連れて行った方が、と用意をしようとしていたブルー。
其処へ来たのが自分だった次第、オオルリを調べてやる羽目になった。
具合はどうかと、獣医に行くべきなのかどうかと。
(…詳しいことまでは分からないが、だ…)
サイオンで包めば、なんとなく分かる。
小鳥の気分の欠片らしきものが。
酷く痛むのか、そうではないのか。
暫く経ったら飛んでゆけそうか、飛べそうもなくて困っているか。
そうやって調べてやった結果は…。
(腰が抜けてただけだってな)
痛いだとか、とても苦しいだとか。
そんな気分は感じ取れなくて、ビックリして固まっているらしい小鳥。
いったい何が起こったのかと、ちゃんと飛んでいた筈なのに、と。
(…小鳥の世界に、窓ガラスなんかは無いからなあ…)
無理もないな、と思った事故。
その内に正気に戻るだろうし、何処も傷めてはいないようだから。
小さなブルーに教えてやったら、「良かった…」と嬉しそうだったブルー。
よほど心配していたのだろう、青い小鳥の身体のことを。
死んでしまいはしないかと。
このままパタリと倒れてしまって、それっきりになりはしないかと。
(獣医に行こうとしてたほどだし…)
俺のサイオンが役に立って良かった、とホッとしていたら、小さなブルーが言い出したこと。
なんともないなら、この鳥を飼ってもいいだろうかと。
せっかく庭に飛んで来たから、ぼくが飼いたい、と。
そうは言っても、オオルリは野生の鳥だから。
ペットショップで賑やかに囀る鳥たち、彼らとは違うものだから。
「それは駄目だぞ」とブルーを止めた。
自然のものは自然のままにと、その方が鳥も幸せだから。
自由に大空を飛んでゆける方が、小鳥のためになるのだから。
ところがブルーは未練たらたら、オオルリを家で飼いたいらしい。
鳥籠に入れて、可愛がって。
青い姿を、毎日眺めて。
そんなに気に入ったのだろうか、と思ったオオルリ。
元々、小鳥が飼いたかった所へ、この鳥が飛んで来たのだろうか、と。
けれど違った、ブルーの動機。
欲しかったものは青い小鳥で、しかも青い小鳥が欲しかったのは…。
(…前のあいつの時からなんだ…)
何年越しの夢なんだか、と浮かべてしまった苦笑い。
オオルリだって欲しくもなるさと、飼いたくなるのも無理はないな、と。
青い小鳥を欲しがったのは、ソルジャー・ブルーだったから。
幸福を運ぶ青い小鳥が欲しい、と夢を描いた前のブルー。
そういう本を読んだから。
幸せの青い鳥が欲しいと、地球の色をした青い小鳥を飼ってみたいと。
前のブルーはそう願ったのに、叶わなかった青い小鳥を飼う夢。
青い鳥は役に立たないから。
シャングリラの中だけが全ての世界で生きてゆくには、無駄なものだから。
美味しい卵を産みはしないし、もちろん食べるわけにもいかない。
青い小鳥は肉には出来ない、飼うならペットなのだから。
ペットを食べるなど言語道断、けして許されはしないから。
(あいつの夢は、却下されちまって…)
誰も賛成しなかった。
青い鳥が欲しい、と願った前のブルーの夢。
ブルーはそれが欲しかったのに。
幸せを運ぶ青い小鳥が、青い地球の色を纏った鳥が。
夢を諦めたブルーだけれども、青い小鳥は覚えていた。
飼いたかった、と忘れなかった。
だからナキネズミを開発した時、青い毛皮のを選んだほど。
この血統を育ててゆこうと、青い毛皮のナキネズミがいい、と。
毛皮の色は他にも色々あったのに。
どれを選ぶのも自由だったのに、前のブルーは迷わず選んだ。
「青がいいよ」と、「この子にしよう」と。
欲しかった青い小鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミ。
それを飼えるなら、と前のブルーが重ねていた鳥。飼えなかった幸せの青い鳥。
(…しつこく覚えていたってわけだな)
生まれ変わっても執念深く、とクックッと笑う。
思い出した途端に欲しくなったかと、それまで忘れていたくせに、と。
今のブルーなら、青い小鳥はいくらでも好きに飼えるのだから。
「欲しいよ」と両親に強請ったら直ぐに、青い小鳥が来るだろうから。
ペットショップに連れて行って貰って、「どれが飼いたい?」と訊いて貰って。
青い鳥を選んだら、お次は鳥籠。
部屋に似合うのはどれだろうかと、どの鳥籠を選びたいかと。
アッと言う間に、ブルーは手に入れられるのだけれど。
青い小鳥を飼えるのだけれど、すっかり忘れていたらしい。
前の自分が欲しがったことも、幸せの青い小鳥のことも。
幸せの青い鳥の話は知っていたって、自分と重ねなかったのだろう。
綺麗サッパリ忘れていたから。
あのオオルリが降って来るまで、思い出しさえしなかったから。
欲張りになった小さなブルー。
窓ガラスにぶつかってしまったオオルリ、それを飼おうとしたブルー。
「駄目だ」と止めたら残念そうで、元気になったオオルリが空へと飛び去った後も…。
(庭の方ばかり見ていやがって…)
いつもだったら、けして他所見はしないのに。
向かい合わせで座った自分をじっと見ているのに、今日は何度も庭を見ていた。
またオオルリが飛んで来ないかと、来たらいいなと思っている顔。
(幸せの青い鳥だしなあ…)
欲しい気持ちはよく分かる。前のブルーの夢なのだから。
百年などではとても足りない、前のブルーが青い小鳥を夢見た歳月。
それが空から降って来たなら、もっと、と思いもするだろう。
幸せを沢山持っていたって、青い小鳥が欲しいだろう。
(なんたって、前のあいつの夢…)
そいつが飛び込んで来たんだからな、と思うけれども、それは欲張り。
前のブルーなら止めないけれども、今のブルーは幸せだから。
山ほどの幸せを持って生まれて、これからも幾つも降って来る幸せ。
青い小鳥に頼まなくても、「もっと欲しい」と願わなくても。
だからブルーを止めたけれども、「自然のものは自然のままに」と諭したけれど。
(あいつ、幸せになったんだよなあ…)
青い鳥の方から来るくらいにな、と零れた笑み。
シャングリラには青い小鳥はいなかったけれど、今は空から降って来るから。
「幸せをどうぞ」と配達中の青い小鳥が来るのだから。
前のブルーが焦がれた星で。
青い地球の上で、青い小鳥たちが配る幸せ。
それをブルーは受け取れるから。
青い鳥が欲しいと願わなくても、空から降って来るのだから…。
青い鳥とあいつ・了
※ブルー君が「飼いたい」と願ったオオルリ。「駄目だ」と止めたハーレイ先生ですけれど。
欲しい気持ちは分かるようです、前のブルーの夢だけに。でも、家で飼うのは駄目ですよねv
(ぼくの頭の中…)
ハーレイで一杯、と小さなブルーが思い浮かべた恋人の顔。
どんな時でも一杯みたい、と。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
ふと気付いたら、考えているハーレイのこと。
「この時間だとコーヒーかな?」だとか、「お酒かも」だとか。
そう思ったら気になってくるのが、ハーレイの居場所。
お気に入りだという書斎にいるのか、他の部屋で何かしているのか。
(書斎だったら、読書なんだと思うんだけど…)
他の部屋だったら、出来そうなことは幾つでも。
「腹が減ったな」と夜食だとか。
夜食にしようと、キッチンに立っているだとか。
(何か作っているにしたって…)
鼻歌交じりに作っているなら、その鼻歌が気にかかる。
自分が聞いたら「あれだ!」と直ぐにピンと来るのか、来ないのか。
聞いた途端に分かる歌でも、今の歌なのか、昔の歌か。
(前のハーレイも歌っていたのか、そうじゃないのか、どっちなわけ?)
ハーレイは学校の教師なのだし、今の歌にも詳しいだろう。
生徒の間で流行っていたなら、きっと覚えて歌う筈。
そういう歌を歌っているのか、もっと昔に流行った歌か。
昔と言っても、今の自分が赤ん坊だった頃とか、ハーレイの子供時代とか。
二十四歳も年が離れているから、流行った歌でも小さな自分が知らない歌はきっと沢山。
(…鼻歌、なあに?)
それとも本当に歌を歌っているのだろうか。
前の生から好きでたまらない、あの温かい声で楽しげに。
歌か、それとも鼻歌なのか。
作っている夜食は何だろうか、と考え始めている自分。
また一杯、とコツンと軽く叩いた頭。
ハーレイで一杯になっちゃった、と。
(…すぐ一杯になるんだから…)
ちょっとしたことが切っ掛けで。
今、一杯になった切っ掛けは、「コーヒーかな?」と思ったこと。
この時間なら、ハーレイはコーヒーを飲んでいるのかも、と。
そうしたらポンと浮かんだのがお酒、ハーレイがたまに飲むらしい酒。
次に居場所が気になってきたら、やっていることが気になって…。
(夜食かな、って思っただけなのに…)
ぐんぐん膨らんだ頭の中身。
ハーレイが夜食を作っているなら、どんな歌を歌っているのだろうと。
流行りの歌か、古い歌なのか、鼻歌か、本当に歌っているか。
たった一杯のコーヒーを頭に描いた所から、ハーレイが歌う歌声にまで膨らんだ。
ハーレイなんだ、と思っただけで。
恋人のことが気になっただけで。
(もしも、お料理の方を考えてたら…)
夜食は何か、と考えたのなら、別の方へと行ったろう。
冷蔵庫を覗いて材料を探すハーレイだとか、棚を覗いている姿とか。
これがあった、とウキウキ作り始める夜食。
フライパンで何か焼こうとするのか、小さな鍋の出番になるか。
鼻歌交じりに作る夜食は何だろう?
熱い間が美味しい料理か、冷ました方が美味しいものか。
それを作って何処で食べるのか、コーヒーが合うのか、お酒の方か。
(…夜食って…)
ピザとかドリアだとか、と膨らんでゆく頭の中身。
ハーレイが作るのは、どんな夜食、と。
またまた一杯になっていた頭、今度はハーレイの夜食のせいで。
何を作るのか、何を食べるのかと、頭の中身はハーレイのことで溢れそう。
(…ぼくは夜食は食べないのに…)
そんなに沢山、食べられるわけがない食事。
夕食だって、盛り付けられた分を残さずに食べるのが精一杯。
夜食にはとても辿り着けない、どう頑張っても。
(でも、ハーレイは食事も沢山食べるから…)
いつもおかわりしているもんね、と両親も一緒の夕食の席を思い出す。
「おかわりは如何ですか?」と母に尋ねられたら、「頂きます」と答えるハーレイ。
二人きりで食べる昼食の時は、ハーレイの分が明らかに大盛り。
(あんなにあっても、平気でペロリと食べちゃうんだもの…)
そういえば、と蘇って来た学校のランチタイムの記憶。
沢山食べたら背が伸びるかも、と注文してみた大盛りランチ。
食べられそうもなくて困っていたら、ハーレイが助けてくれたのだった。
「俺に寄越せ」と、綺麗に食べて。
自分用のランチのトレイも持っていたくせに、大盛りランチの残りまで。
(ハーレイ、ホントに凄いよね…)
だから柔道も強いんだよね、と顔が綻ぶ。
大盛りランチは、運動部員の御用達だから。
しっかり食べて体力作りを、と提供される大盛りランチ。
きっとハーレイも、自分くらいの年の頃には学校で食べていたのだろう。
ランチタイムは大盛りランチで、全部ペロリと平らげて。
それの他にも、休み時間になったなら…。
(パンとか、食べていそうだよね?)
運動部員のクラスメイトは、そうだから。
「食べないと、とても身体が持たない」と、休み時間に食べているパン。
家から持って来ているパンとか、学校で買ったパンだとか。
ハーレイだったら、どっちだろう、と想像してみた子供時代。
大盛りランチの他に食べるパンは、学校で買ったか、家から持って行ったのか。
(…学校に行く途中に、美味しいパン屋さんがあったかも…)
其処に入って買ったかもしれない、いつもお小遣いを握り締めて。
どれを買おうか散々迷って、「これにしよう」とトレイに一個。
(二個だったかも…?)
もっと凄くて三個だったとか、そういうこともあるかもしれない。
三個の内の一個は必ず、毎日同じパンだったとか。
(お気に入りのパン、ありそうだものね?)
好き嫌いの無いハーレイだけれど、それは自分も同じだけれど。
これがいいな、と思う料理はあるわけなのだし、パンだって、きっと。
(どんなのかな、ハーレイがお気に入りだったパン…)
子供時代のハーレイが買っていたパンは…、と今度はパンで頭が一杯。
ハーレイが学校へ行くまでの道に、パンを売っている店があったかどうかも知らないのに。
店があっても、其処で買わずに、学校で買ったかもしれないのに。
(…パンで一杯になっちゃった…)
夜食のことを考えてたのに、と思わず零れてしまった溜息。
どうして一杯になるんだろうと、すぐにハーレイで溢れちゃうよ、と。
(勉強している時は大丈夫だけど…)
ハーレイで一杯になっていることはないんだけれど、と思ったけれど。
そのハーレイが授業をしている古典の時間はどうだろう?
(…当てて欲しくて、手を挙げてるし…)
他の誰かが指名されたら、ガッカリしてしまうハーレイの授業。
やっぱり一杯なのかもしれない、勉強の時も。
ハーレイの姿が見える時には、ハーレイが教える時間には。
それに体育の授業を見学する時、いつも一度は考えること。
「ハーレイがやったら、カッコいいよね」だとか、「ハーレイでも教えられそう」だとか。
サッカーでも、マット運動でも。バスケットボールも、走り高跳びも。
きっと、とってもカッコいいんだ、と体育の指導をするハーレイを思い描いていて。
(また一杯になっちゃってるよ…)
どうしてパンから体育になるの、と呆れるしかない自分の頭。
すぐにハーレイで一杯になって、溢れそうになる頭の中身。
一杯だよ、と気が付いたって、今度は違うものがポンと浮かんで膨らんでゆく。
ハーレイだったら、と思った途端に。
夜食からパンに化けてしまったり、パンが体育に化けてしまったり。
そして一杯になる頭。
ハーレイのことで、すぐに一杯。
(…だって、ハーレイなんだもの…)
前の生から好きだった人で、また巡り会えて恋人同士。
けれど、まだ一緒には暮らせないから、離れている時は、ついつい気になる。
ハーレイは今、どうしているかと、いったい何をしているのかと。
二人一緒にお茶を飲んでいても、やっぱり気になるハーレイのこと。
何を話そうか、何を話してくれるのかと。
気付けば、いつでも頭の中身はハーレイのこと。
会っている時も、離れている時も、何をしていても浮かぶハーレイ。
(ぼく、ハーレイに捕まっちゃってる…)
ハーレイが頭から離れないもの、と褐色の肌の恋人を想う。
此処にいなくても、ぼくを捕まえているみたい、と。
捕まってるから、いつも頭がハーレイで一杯、と。
(こういうの、確か…)
恋の虜って言うんだよね、とヒョイと頭に浮かんだ言葉。
何処かで聞いた歌の歌詞だったか、何かの本で読んだのか。
恋に夢中で、捕まった人。…恋の相手に捕まった人。
(ぼくは、ハーレイに捕まったから…)
恋の虜で、ハーレイの虜なのだろう。
ハーレイの褐色の腕に囚われて、逃げられなくなっているのだろう。
その腕は、今は無いけれど。
チビの自分を、捕まえていてはくれないけれど。
(だけど、ぼくが大きく育ったら…)
もう本当に捕まるのだろう、あの腕の中に、広い胸の中に。
「逃がさないぞ」とギュッと抱き締められて、閉じ込められてしまうのだろう。
けれど、そういう檻の中ならかまわない。
とうにハーレイの虜だから。
「君だけだよ」と、前の生から想う恋人。「君の虜」と思うだけで胸に溢れる想い。
ハーレイのことしか考えられない、幸せな牢獄に住んでいる自分。
ずっと牢獄で生きてゆくから、ハーレイの虜なのだから…。
君の虜・了
※ふと気付いたら、ハーレイ先生のことで頭が一杯らしいブルー君。次から次へと。
まだチビなのに恋の虜で、牢獄にいるみたいです。これからもずっと、それが幸せv
(ふうむ…)
言葉だけの時代になっちまったか、とハーレイが頭に描いた言葉。
夜の書斎で、コーヒー片手に。
ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後でのんびり読書。
愛用のマグカップに淹れたコーヒーがお供、コクリと飲んではページをめくって。
今日はこれだ、と選んだ一冊。
読み進めていたら出会った言葉、普段だったら気にしないけれど。
たまたま合ったタイミング。
この段落を読んだらコーヒー、と思ったキリのいい所。
其処で出て来た言葉が「とりこ」で、漢字で書くなら「虜」の一文字。
目にした途端に、「おや?」と思った。
それから引っ張り出した辞書。
どういう風に説明されているかと、虜の意味は、と。
(生け捕りにした敵、か…)
別の辞書だと、「戦闘の際、生け捕りにした敵」という丁寧な説明。
どちらの辞書でもそれが一番、二番目の意味はこうだった。
「あることに心を奪われること」や、「心を奪われて逃げ出せない人」。
但し書きとして、「本来の意味がこうだったので」、と二番目の意味が生まれた理由。
もしも心を奪われたならば、心が生け捕りになるわけだから。
生け捕りにされて逃げ出せないから、一番目の意味が必要になる。
「心を生け捕りにされました」と。
捕まってしまって、逃げられません、と。
「恋の虜」などという、使用例も載っているのだけれど。
どの辞書も必ず、一番目に書かれている意味は「生け捕り」。
戦いの時に捕虜にした敵、それを指す言葉。
ところが、こいつが無いんだよな…、と辞書を眺めて考える。
辞書を引くことになった原因の、さっき読んでいた本のページも。
どうやら今日はここまでらしい、と苦笑い。
もう読めないなと、俺の心は「虜」の虜になったもんで、と。
(生け捕りなあ…)
今の時代にいるわけないぞ、と言い切れるのが本物の「虜」。
どの辞書を見ても一番に書かれた意味だけれども、もういない。
戦闘など、ありはしないから。
平和になった今の時代に、生け捕りも捕虜も無いのだから。
(死語ってわけではないんだが…)
一番目の意味の出番は無いな、とクックッと笑う。
使う場面が無い時代では。生け捕りも捕虜も無い時代では。
(俺としたことが、今日まで気付いていなかったってか?)
何度も本で読んだのに。
前の自分の記憶が戻った時から、今日までに。
キャプテン・ハーレイが生きた時代なら、本物の「虜」もいたというのに。
(人類軍のヤツらも、海賊退治で生け捕りにしていたんだろうが…)
機械が統治していた時代も、はみ出して生きる者たちはいた。
宇宙で海賊になってしまって、勝手気ままに生きる者たち。
そういう輩を退治するとか、たまに何処かで起きた叛乱。
人類軍が派遣されたら、捕虜になる者もあったろう。
(前の俺たちだって、捕まえたしな?)
とてつもない有名人ってヤツを、と眉間の皺が深くなった捕虜。
あれさえ始末していたら、と今でも忌々しいキース。
シャングリラで捕虜にしてたんだった、と。
赤いナスカにやって来たキース、それをジョミーが捕まえた。
メンバーズだから、地球の情報でも得られれば…、と誰もが考えたのに。
(情報どころか、逃げられた挙句にメギドまで…)
それでブルーを失くしちまった、と悔やんでも悔やみ切れない思い。
あの時、キースを始末していたなら、と。
(…いかん、いかん…)
そっちへ行ったらコーヒーが不味くなっちまう、とコクリと一口。
ブルーは帰って来たのだから。
青い地球の上に生まれ変わって、幸せに生きているのだから。
(…しかしだ、本物の捕虜がいないってことは…)
もしかしたらアレが最後の捕虜だろうか、と思わないでもないキース。
(俺たちは、アレしか捕まえていないわけだし…)
捕虜にされたミュウなどはいるわけがない。
ミュウと知れたら処分されるか、研究所に送られた時代。
人類に戦いを挑んだミュウは前の自分たちだけ、他には誰もいなかったから。
(戦闘でないと、生け捕りはなあ…?)
ただ捕まって檻の中では捕虜ではないな、と大きく頷く。
ミュウが捕まえた捕虜はキースで、あれ一人だけ、と。
(…記念すべき最後の捕虜ってヤツか?)
SD体制が崩壊した後、宇宙から消えてしまった戦闘。
人類とミュウが和解した後の世界になったら、誰も戦わなかったという。
もう戦っても意味が無いから、海賊も叛乱も意味が無いから。
そうして消えて行った武器。
すっかり姿を消した戦闘。
今の時代に捕虜などはいない、「虜」という言葉の意味があるだけ。
何かに心を奪われた時に、二番目の意味を使うから。
「心が捕まってしまいました」と、「生け捕りなんです」と。
何もかも変わっちまったな、と遥かな時の彼方を思う。
今は捕虜さえいない時代かと、本物を見た者は誰もいないな、と。
(キースの野郎が最後だったのか、他にもいたのか…)
分からないが、と飲んだコーヒー。
前のブルーをナスカで失くして、シャングリラで向かった地球への旅路。
捕虜にした者はいなかった。
心を鬼にしていたジョミーは、容赦なく殺していったから。
(だが、人類の方ではだな…)
ミュウを捕虜にはしなかったけれど、同じ人類を何処かで捕えていたかもしれない。
海賊だったり、叛乱を起こした者だったり、と。
(キースが最後ではないかもしれんな、前の俺たちが知らないだけで)
最後の捕虜は誰なんだか…、と考えてみると愉快になる。
今の時代は、いない捕虜。
言葉だけしか残っていない捕虜、けれど言葉は生きているから。
さっきの本にも記されていたし、様々な場面で使われる言葉。
詩にだってなるし、歌に乗せられることだって。
(恋の虜、ってな)
本来の意味の捕虜はいなくて、二番目の意味で馴染みの言葉。
「あなたの虜」と歌う恋歌とか、恋を綴った詩やら、それこそ手紙にだって。
生け捕りになってしまいました、と恋の相手に打ち明ける想い。
それにピッタリの言葉が「虜」で、今の時代はいない捕虜。
(最後に捕虜になっていたヤツが知ったら、ビックリだろうな)
囚われの境遇を嘆いただろうに、記念すべき最後の捕虜なのだから。
今の時代に「虜」と言ったら、幸せな場面で使うのだから。
恋に夢中だとか、趣味の何かの虜だとか。
不幸だった本物の捕虜を見た者は、今の時代はいないのだから。
(前の俺だと、知ってるんだが…)
キースの野郎で、大物としては最後の捕虜の筈なんだが、と傾けるコーヒー。
今の時代も有名なキース、捕虜になったアレを確かに見たぞ、と。
(でもって、逃げられちまってだな…)
酷い目に遭ったのが前の俺だが、と思うけれども、今の自分。
奇跡のように生まれ変わって、失くしたブルーとまた巡り会えた。
もう捕虜などはいない世界で。
青く蘇った、平和な地球で。
(そして、今度は俺が捕虜だぞ)
自由の身なのに、立派に捕虜だ、と思い浮かべた恋人の顔。
十四歳にしかならないブルーを、チビになってしまった恋人を。
(あいつの虜になっちまった…)
戦っちゃいないし、二番目の意味で、とチョンとつついた分厚い辞書。
「心を奪われて逃げ出せないぞ」と、「あいつに生け捕りにされちまった」と。
なにしろ、ブルーに夢中だから。
キスも出来ない小さな恋人、それでも好きでたまらないから。
気付けばブルーを追っている心、どんな時でも。
前の自分がそうだったように、心はとうにブルーの虜。
本物の捕虜はいない時代に、ブルーの虜になっている自分。
生け捕りにされて、夢中になって。
(次に会えるのはいつなんだか、って思っちまうのは普通だし…)
会っている時は、ブルーしか目に入らないと言ってもいいくらい。
キスも交わせはしないのに。
まだまだチビで、ほんの子供の恋人なのに。
(…それでも、あいつの虜ってな)
キースと違って俺は逃げんぞ、と腰抜けな捕虜を鼻で笑った。
あのメンバーズは逃げやがったが、俺は腰抜けではないからな、と。
ブルーの虜になったからには、一生、捕虜でいる覚悟。
いつまでも、何処までも、ブルーの虜。
今度こそ、ブルーと幸せに生きてゆくのだから。
生け捕りにされても、それが幸せ。
ブルーが自分を閉じ込めた檻が、恋をするための幸せな牢獄なのだから…。
あいつの虜・了
※捕虜がいなくなった今の時代に、捕虜になっているらしいハーレイ先生。
ブルー君に生け捕りにされたようですけれども、幸せ一杯みたいです。捕虜でも幸せv
(うーん…)
また明日からはハーレイ先生、と小さなブルーが零した溜息。
ハーレイと過ごした日曜日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
昨日は土曜日、今日は日曜。
学校は休みでハーレイも休み、何の用事も無かったから。
二人でのんびり、お茶に食事といった週末。
それは幸せな時間を過ごして、ハーレイは家に帰って行った。
いつものように「またな」と軽く手を振って。
(でも、昨日だと…)
今日とは違った、「またな」の重み。
同じ「またな」でも、昨日だったら「また明日な」という意味だったから。
ほんのちょっぴり、一晩だけの別れの挨拶だったから。
けれども、今日の「またな」は違って…。
(いつ来てくれるか分からないよ…)
運が良ければ、平日もハーレイは来てくれるけれど。
仕事が早く終わった時には、一緒に夕食を食べてくれるけれど。
その日がいつかは分からない。
明日から始まる一週間の内に、来てくれる日があるかどうかも。
(学校の仕事がどうなるか…)
前もって分からないのが平日、だから予告はしてくれない。
来られそうだという予告は。
この曜日なら、と期待出来そうな日でさえも。
だから「またな」がズッシリと重い、日曜日にそれを聞いた時。
運が良ければ直ぐだけれども、悪かったならば次の土曜日まで会えない。
学校で会えるのは「ハーレイ先生」、「ハーレイ」と呼べはしないから。
挨拶したって、恋人ではなくて先生だから。
次に恋人と会えるのはいつか、「ハーレイ」と呼べるのはいつか。
分からないから重かった「またな」、昨日ならとても軽かったのに。
ほんの一晩、会えないというだけだから。
一晩眠れば次の日になって、またハーレイに会えるのだから。
けれど、日曜日の「またな」は違う。
下手をしたなら次の土曜日まで、会えないままになる恋人。
先生のハーレイには会えるけれども、恋人ではない「ハーレイ先生」。
どんなに熱く見詰めていたって、知らないふりをされるから。
「おう、どうした?」と訊かれるだけで。
他の生徒とまるで変わらない、ただの教え子扱いなだけで。
(ぼくの守り役でも、そこはおんなじ…)
特別扱いはして貰えなくて、教え子の一人。
自分も敬語で話すしかないし、開いてしまうハーレイとの距離。
(…敬語、苦手じゃないんだけれど…)
ウッカリ普通に喋らないよう、切り替えるのは得意だけれど。
それでも思い知らされる距離。
ハーレイは「先生」、自分は「教え子」。
学校はそういう場所なのだからと、恋をするための場所ではないと。
(ハーレイ先生も大好きだけど…)
どんな呼び方でも、ハーレイはハーレイ。
敬語で話さなくては駄目でも、恋人には変わりないのがハーレイ。
そうは言っても、開く距離。
学校へ行けば、また平日がやって来たなら。
「またな」と手を振って帰ったハーレイ、そのハーレイには出会えない。
学校にいるのは「ハーレイ先生」、学校で仕事をしている間は。
土曜日までに来てくれるのか、それとも会えないままなのか。
分からないから零れる溜息、次に会えるのはいつだろうか、と。
(パパもママも待っているのにな…)
遠慮なさらないでいらして下さい、と今日も見送っていた両親。
遅い時間でも、お食事は用意できますから、と。
(だけどハーレイ、来ないんだよ…)
料理上手の母にかかれば、一人分くらい簡単なのに。
皆の料理とは違っていたって、アッと言う間にハーレイの分を作るのに。
(ママは何度もそう言ってるのに…)
夕食の支度に充分間に合う時しか来ないハーレイ。
遠慮しなくていいと思うのに、本当に来て欲しいのに。
(ぼくもお願いしたいけど…)
遅くなる日でも帰りに寄って、と言いたいけれども、チビだから。
両親の家で暮らす子供で、料理を作るのは母だから。
(ぼくが言っても、ただの我儘…)
ハーレイはきっと、「チビが我儘言うんじゃないぞ」と頭をポンと叩くのだろう。
「お母さんに迷惑かけるだろうが」と、「お前が料理をするんじゃないし」と。
両親だったら、ちゃんとハーレイに言えるのに。
「そう仰らずに」と、「毎日でも、いらして下さい」と。
それが大人と子供の違いで、残念でたまらない気分。
ハーレイが「またな」と手を振る度に。
次はいつになるか分からない日曜、その夜に「またな」を聞かされる度に。
今日もズシリと重かった「またな」、明日から始まってしまう平日。
「ハーレイ先生」にしか会えない平日、また直ぐにでも会いたいのに。
明日にだって来て欲しいのに、と思うけれども強請れない。
ハーレイが「またな」と手を振る時に。
両親に「今日は有難うございました」と、礼を言って帰ってゆくハーレイに。
チビの自分はハーレイのために、何一つしてはいないから。
料理はもちろん、お茶を出すことも。
そんな自分は無理を言えなくて、両親だけが言えること。
「遠慮なさらずに」と、「いらして下さい」と。
両親がそれを言った所で、ハーレイは聞きはしないのだけれど。
「有難うございました」と言うほどなのだし、家族同然でも、やっぱり違う。
言葉遣いが丁寧だから。
両親に向かって「またな」と言いはしないから。
(…パパやママには、いつだって敬語…)
それにママたちも、と夕食の席を思い出す。
ハーレイは其処でも「ハーレイ先生」、この家と学校は違うのに。
自分は「ハーレイ」と呼んでいるのに、両親はいつも「ハーレイ先生」。
ハーレイは学校の先生だから。
チビの自分が通う学校、其処で教師をしているのだから。
(仕方ないよね…)
パパとママがそう呼んでいるのも、と思ったけれど。
敬語になるのは先生だから、と考えたけれど。
(あれ…?)
学校だと少し違うみたい、と気が付いた。
他の教師がハーレイに話し掛ける時。
えっと…、と思い浮かべた学校の風景。
ハーレイとバッタリ出会った時には、よく立ち話をするけれど。
そういった時に、他の教師が直ぐ側を通り掛かったら…。
(ハーレイ先生、とは言ってるけれど…)
それは両親と同じだけれども、続く言葉が違うのだった。
(じゃあ、また後で、って…)
丁寧な言葉で話してはいても、別れ際に言う言葉が違う。
両親だったら、「じゃあ、また後で」とは、決して言いはしないだろう。
「また後でよろしくお願いします」とか、「また後で伺いますから」だとか。
ハーレイが「ハーレイ先生」な学校、そこでは違ってくる言葉。
先生同士が顔を合わせて話す時には、「じゃあ、また後で」でいいらしい。
(…どっちも先生だからだよね?)
学校の先生は誰もが先生、「先生」なのが普通の世界。
きっと、生徒のいない場所では…。
(またな、って言ったりするんだ、きっと…)
友達同士の先生ならば。
そして学校の外で会ったら、もう本当に普通なのだろう。
「おう!」と呼び止めて、一緒に食事や、お酒を飲みに行くことだって。
つまり特別ではない「先生」。
学校の中では特別だけれど、教え子にとっても特別だけれど。
職場を離れている時だったら、普通の人と変わらない。
町を歩いている時も。
ハーレイだったら、ジョギングしている時だって。
だから自分にも「またな」と手を振る、帰る時には。
教え子だけれど、恋人だから。
「またな」と言ってもいい人だから。
恋人だものね、と綻んだ顔。
友達の先生と同じ扱い、と嬉しくなった「またな」の言葉。
ハーレイが他の先生たちと話す時には、「また後で」だから。
それと同じで、恋人のぼくにも「またな」と言ってくれるんだよね、と。
今日の「またな」は重かったけれど、またその内に会えるから。
きっとハーレイは来てくれるから、と考えたけれど。
(…前のぼく…)
聞いていない、と蘇った記憶。
前のハーレイは言ってくれなかった、「またな」の言葉。
「また夜に」とは言ってくれたけれど、あんな風ではなかった言葉。
いつも敬語で、ソルジャーのための言葉で話していたハーレイ。
恋人同士だったのに。
本当に本物の恋人同士で、夜は抱き合って眠っていたのに。
(…パパやママに話すみたいな言葉…)
それに「俺」とも言っていなかった、いつだって「私」。
前の自分はソルジャーだったし、ハーレイはキャプテンだったから。
おまけに秘密の恋人同士で、知られないよう気を付けていた。
だからいつでもハーレイは敬語、他の仲間たちの前で言い間違えたら大変だから。
(…ハーレイ、今は「またな」って…)
軽く手を上げて言ってくれる「またな」、日曜日に聞くと重たいけれど。
次はいつかと、ズシリと重くなるのだけれども、その「またな」。
言って貰えるのは、自分がただの教え子だから。
ソルジャーではなくて、ただの子供だから。
(ぼくが普通の子供だから…)
ハーレイの友達の先生とかと同じ扱い、と胸に溢れた幸せな気持ち。
前の自分が聞けなかった「またな」、それを自分は聞けるのだから。
普通の子供になったからこそ、ハーレイが言ってくれるのだから。
なんて幸せなんだろう、と思った「またな」の言葉。
今日はちょっぴり重たいけれども、今だから聞ける幸せな言葉。
ソルジャーではなくて、普通の子供。チビの教え子。
普通だから幸せなんだよね、と浮かんだ笑み。
「またな」と言って貰えるから。
いつか大きく育った時には、結婚だって出来るのだから…。
普通だから幸せ・了
※ハーレイ先生の別れ際の言葉、「またな」が重たい日曜日。ブルー君にとっては。
でも、その「またな」が聞けるのは今だからなのです。普通の子に生まれたことが幸せv
(ふうむ…)
明日からの予定は、とハーレイが頭に浮かべた一週間分のスケジュール。
ブルーと過ごした日曜日の夜、いつもの書斎で。
こうだったっけな、とコーヒー片手に。
一週間分のスケジュールと言っても、平日の分なのだけど。
月曜日から金曜日までの学校がある日、仕事がある日の五日分。
(週末には何も無いからな…)
今日と同じに、ブルーの家へと出掛けてゆける。
小さなブルーと一緒に過ごせる、お茶を飲んだり、食事をしたり。
今ではすっかり習慣になった、仕事の無い日の過ごし方。
(あれも立派にデートなんだ…)
何処に出掛けるわけでもないが、と顔が綻ぶ。
恋人と一緒にいられるのだから、二人きりの時間を持てるのだから。
(…次のデートは週末としても…)
他にも機会はありそうだな、と仕事がある日のスケジュールを思う。
長引きそうな会議は入っていないし、柔道部だって普段の通り。
急な用事が飛び込まなければ…。
(一回や二回は行けるだろうさ)
ブルーの家に、と考える。
仕事帰りに出掛けて行っても、全く問題無いのだから。
小さなブルーは大喜びだし、ブルーの両親も大歓迎。
夕食のテーブルに混ぜて貰って、ブルーの家族と普段着の食事。
気取った御馳走なんかではなくて、何処の夕食にもあるようなメニュー。
それが嬉しい、平日のデート。
あれもデートと呼ぶのなら。
今ではすっかり家族の一員扱いになった自分だけれど。
ブルーの両親も、笑顔で迎えてくれるけれども。
(やっぱり土日は、普段よりはなあ…)
御馳走といった雰囲気のメニュー、せっかくの休日なのだから、と。
自分と同じに仕事に出掛ける、ブルーの父も休みになる日。
朝からのんびり出来る日だから、御馳走になってしまいがち。
何処の家でも、きっと似たようなものだろう。
子供も学校が休みなのだし、「あれが食べたい!」と強請ったりして。
自分にだって経験があるから、よく分かる。
休日は普段よりも御馳走、それは自然なことなのだと。
(ああいう食事もいいんだが…)
フラリと寄った日の飯も好きなんだ、と考えることは贅沢だろうか?
そういう食事の方がいいな、と思ったりする日もあるなんて。
(今日も御馳走になっておきながら、贅沢の極み…)
ついでに昨日も御馳走だった、と土曜日のメニューも思い出すけれど。
凝った料理よりも普段着の料理、そっちの方に惹かれてしまう。
客扱いではないと分かるから。
本当に家族の一員扱い、「おかわりもどうぞ」と掛けられる声。
皿に綺麗に盛り付けられた御馳走も悪くないけれど…。
(大皿から好きなだけ取るってヤツもだ…)
家族になった気がするんだよな、と思うから。
何処から取ってもかまわない料理、形が崩れるわけではないから。
ブルーの母の手を煩わせなくても、自分で好きに取り分けて。
さて、明日からの一週間の間に、出会えるだろうか、そういう夕食。
スケジュール通りに運んだのなら、何処かで一度は行けそうな家。
仕事帰りに、普段とは違う方へと車を走らせて。
今からだったら充分行ける、とブルーの家へ向かう道へと。
夕食の支度に間に合う時間に、きちんと辿り着けそうならば。
通い慣れた家の門扉の横のチャイム、それを鳴らすことが出来そうならば。
(…今の所は行けそうなんだが…)
特に用事も無さそうだから、と思い浮かべた職場の学校。
行事の予定は何も無いのだし、柔道部の指導も順調なもの。
(俺の予定が駄目になるとしたら…)
柔道部の方くらいなモンか、と頭に描いた教え子たち。
「気を付けろよ」と言っているのに、たまに無茶をするものだから。
まだまだ早いと注意している技を使って、失敗するのはまだいいけれど…。
(たまに病院行きになるんだ)
あの馬鹿どもは、と浮かんでくる怪我をしそうな生徒の名前。
既に何度か怪我をした子や、運よく助かった生徒やら。
(ブラックリストというヤツで…)
あいつらが俺の足を引っ張るということも…、と考えてしまう放課後のこと。
「今日はブルーの家に行こう」と思っていたのに、車の行き先は近くの病院。
しょげている生徒を車に乗っけて、付き添いで。
診察が済んだら家まで送って、すっかり遅くなる時間。
ブルーの家には出掛けられなくて、車で家へと帰るしかない。
「とんだ目に遭った」と呟きながら。
だから何度も注意したのにと、あの馬鹿がまたやってくれたと。
頼むからやってくれるなよ、と願うクラブ活動中の怪我。
小さなブルーの家に出掛ける楽しみを奪う、ちょっとした事故。
御馳走ではなくて普段着の夕食、それを食べにゆく楽しみを。
家族の一員扱いの気分、それを満喫できる日を。
(ブルーと少しデートをしてだな…)
その後に家族で夕食なんだ、と心地良い時間を思い浮かべる。
ブルーと二人きりでなくても、とても幸せな時間だから。
いつかは本当に家族になれるブルーの両親、その人たちと一緒の食事。
まだまだ先だろうブルーとの結婚、それが連れてくる新しい家族。
幸せな未来を先取りしたようで、なんとも温かな気持ちになれる。
この人たちといつか家族になれるんだ、と。
(行ける筈だと思うんだが…)
あの馬鹿どもが怪我をしなければ、と確認してゆくスケジュール。
何も無いなと、他に俺の足を引っ張りそうな代物は、と。
(厄介な会議ってヤツは無いから…)
問題はクラブの事故だけなんだ、とフウと溜息。
こればっかりは俺の力ではどうにもならん、と。
なにしろヤンチャ盛りの年頃、叱った所で馬耳東風。
実力を過信しがちな年頃、いくら言っても聞きなどしない。
怪我をしてから、やっと反省する有様。
(それも、反省の中身がだな…)
指導する自分への詫びではなくて、生徒自身の気持ちの問題。
「明日から当分、練習できない」と、「クラブ活動は見学なんだ」と。
休んでいる間に力は落ちるし、ロクなことにはならないから。
不運な目に遭ったことを嘆いて、「しまった」と反省するだけだから。
(すみませんでした、とは言うんだがなあ…)
口だけだよな、と期待はしない教え子たち。
「やってくれるなよ」と願うしかない、自分の足を引っ張る事故。
車の行き先が病院になって、ブルーの家には行けないから。
普段着の食事を楽しむどころか、病院の付き添いで待合室に座る羽目になるから。
(本当に、俺じゃどうにもならんし…)
あいつらが勝手にやらかすんだから、と事故なるものを思ったけれど。
なんとも困ると、起こしてくれるなと考えたけれど。
(待てよ…?)
ただの生徒の怪我じゃないか、と気が付いた。
病院に連れて行けばいいだけ、叱って家まで送ればいいだけ。
(いったい俺は、何を心配してるんだ…?)
たかが怪我だ、と重なった前の自分の記憶。
遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラの舵を握っていた自分。
キャプテン・ハーレイだった頃の自分は、どういう日々を送っていたか。
船の中だけが世界の全ての、あの船でどう生きたのか。
(…事故と言ったら…)
もう本物の事故だった。
船の故障で済めばまだマシ、アルテメシアを離れた後には…。
(嫌というほど事故ってヤツが…)
事故と呼ぶのか分からないけれど、人類軍と遭遇した時や機雷群やら。
自分の予定が消し飛ぶどころか、船が消し飛びそうだった。
一つ間違えたら、宇宙の藻屑。
自分ばかりか、眠っていた前のブルーまで。
大勢のミュウの仲間たちまで、明日を失いそうだった。
今の自分とは桁違いの事故、前の自分が見舞われたのは。
なんてことだ、と思い返した「事故」という言葉。
柔道部で事故が起こらなければいいが、と願っていたのが今の自分。
たかが生徒の怪我なのに。
シャングリラで事故が起こった時には、そんな怪我では済まなかったのに。
(俺が病院まで付き添う前に、だ…)
搬送されて行った仲間たち。
医療班の者たちが駆け付け、メディカル・ルームへ。
そして自分には山のような役目、病院の待合室に座る代わりに。
白いシャングリラを守り抜くために、懸命に指揮を執り続けること。
事故のあった区画を閉鎖しろとか、航路を変更しろだとか。
人類軍の船が追ってくるなら、迎撃しろとか、そういったこと。
(今じゃ、生徒の怪我になっちまった…)
事故のレベルが違いすぎるぞ、と分かったから。
そうなったのも、今は自分がただの教師で、キャプテンとは違うせいだから。
(…人間、普通が一番ってことか…)
普段着の夕食と同じことだな、と浮かべた笑み。
食事のメニューも、人生の方も、普通が一番幸せだと。
平凡なようでも普通が一番、普通だからこそ幸せなんだ、と…。
普通が幸せ・了
※ハーレイ先生の平凡な日々。ブルー君の家で普通の食事、と願っているわけですけれど。
そういう普通なことが出来るのも、今は普通の人生だから。普通が一番幸せなのですv
