(本当に地球に来ちまったんだな…)
夢のようだが、とハーレイがギュッと抓ってみた頬。
夕食の後で、ダイニングで。
コーヒーを飲みながら広げた新聞、そこに見付けた「地球」という文字。
ごく当たり前に、一週間の天気の欄に。
色々な所へ旅行する人も少なくないから、様々な地域の週間予報。
晴れのマークやら、雨マークやら。
中には雪のマークまである、地球の半分は今の季節が逆だから。
他に「地球」は…、と目を向けてみれば、それは幾つもの「地球」の文字。
地球のあちこちから送られて来た愉快なニュースや、彩りも豊かな写真やら。
それより何より、新聞そのものが地球の新聞。
地球に住んでいる人が読者の中心、投稿欄を見たって分かる。
日々の出来事を綴ったものから、趣味の短歌の類まで。
投稿者が暮らす地域の地名は殆どが地球で、たまに他のが混ざる程度で。
つまりは全てが地球で構成された新聞、本日の地球のホットなニュース。
写真も、記事も。
読者があれこれ投稿している、読者中心のコーナーだって。
前世の記憶を取り戻してから、何度も「地球だ」と思ったけれど。
自分は地球にやって来たのだと、地球の住人だと思ったけれど。
その度に頬を抓りたくなる、今夜のように。
こんな奇跡があっていいのかと、本当に地球に来られるとは、と。
おまけにブルーもついて来た。
前の生から愛し続けた、一度は失くした愛おしい人。
ソルジャー・ブルーだったブルーも、この地球の上に生まれて来た。
前とそっくり同じ姿で、けれど少々、幼い姿で。
まだ十四歳にしかならないブルーと、三十代も後半の自分。
奇跡のようにまた巡り会えた、青い地球の上で。
前の生から二人でゆこうと夢を見続けた、水の星の上で。
当たり前のように其処にある地球、今の自分たちが生まれて来た地球。
何も知らずに生まれ変わって、今まで暮らしてきていた星。
前の生の記憶が戻るまで。
前の自分が誰であったか、それに気付いたあの日まで。
ブルーと出会って戻った記憶。
白いシャングリラで生きていた自分、キャプテン・ハーレイだった頃。
この地球は夢の星だった。
ブルーと行こうと夢を見ていた、いつかはきっと、と。
白い鯨で辿り着こうと、母なる地球をその目で見ようと。
なのにブルーは逝ってしまって、取り残されてしまった自分。
愛おしい人を追って逝くことも出来ず、シャングリラに独り残された自分。
仲間たちの姿が幾つあっても、自分は独りきりだった。
生きる意味さえ失くしてしまった、自分のためにと生き続ける意味は。
前のブルーが望んだからこそ、前の自分は生きていた。
ジョミーを支えて地球へ行かねばと、このシャングリラで辿り着かねばと。
そうして半ば屍のように、けれども船のキャプテンとしては懸命に。
ただひたすらに地球を目指した、其処がゴールになるのだろうと。
辿り着いたら役目は終わると、きっとブルーの許へゆけると。
それだけを心の支えにしていた、地球に着いたら終わるのだから、と。
少しばかり残務処理があっても、それが済んだらブルーの許へ、と。
(…土産話にしたかったんだが…)
地球を見られずに逝ってしまった、愛おしい人。
青い水の星に焦がれ続けたブルー。
先に逝ったブルーと再会したなら、土産話に青い地球。
自分は其処へ行って来たのだと、こんな星だったと、土産話にしたかった。
きっとブルーも魂となって、シャングリラを追っているだろうけれど。
青い地球にも一緒に着くだろうけれど、魂だけでは分からないものもあるだろうから。
地球の空気や、風の気配や、それが運んで来る匂いやら。
肉体が無くては分からないもの、感じ取れないだろうものたち。
そういったものを土産にと持って、ブルーに会いにゆく筈だった。
「地球は本当に青かったですよ」と、「これが地球に吹く風の香りですよ」と。
青い星で飲んだ水の味やら、其処で育った野菜の味やら。
そんなものまで持ってゆきたかった、味わえなかったブルーのために。
「地球の食べ物はこうでしたよ」と、「地球は素晴らしい星でしたよ」と。
それなのに夢は無残に砕けた、長く苦しかった旅の終わりに。
勝ち戦が続いていた時でさえも、ブルーを失くした悲しみしか無かった旅の終わりに。
ようやっと辿り着いた地球。
最後のワープで超えた空間、月の向こうに見えてくる筈だった青い星。
それをブルーに報告しようと、この感動の瞬間を一番最初にブルーの許へ、と見詰めた月。
もうすぐ向こうに地球が見えると、旅の終わりの水の星が、と。
(…だが、あの地球は土産どころか…)
笑い話にさえもなりはしなかった、赤かった地球。
あれが地球かと、そんなことがと、誰もが言葉を失った地球。
死の星が其処に転がっていた。
そう、文字通りに「転がっていた」としか言えなかった地球、骸と化した醜い星。
前の自分たちの死に物狂いの努力と戦いを嘲笑うように。
長かった旅路を、地球までの旅を嘲るように。
青い水の星は何処にも無かった、前のブルーに見せたかった星は。
前のブルーと夢見た星は。
土産話に持ってゆこうにも、どうしようもない赤い死の星。
こんな土産は持ってゆけはしない、地球に焦がれていたブルーには。
白いシャングリラを、自分たちの船を地球へと送り出すために、散ってしまったブルーには。
とてもブルーに話したくはない、教えたくもない赤かった地球。
生き物の影さえありはしなくて、青い海さえも無かった地球。
あの時の衝撃を忘れてはいない、こうして生まれ変わった今も。
死に絶えた地球に降りた時の痛み、「ブルーには言えない」と渦巻いていた胸の奥の痛みも。
けれども、今では地球は青くて、此処にあるのが当たり前の星。
自分の手の中に地球の新聞、青い地球の今を映した新聞。
読者が撮って送った写真や、記者たちが書いた様々な記事や。
天気予報までが地球で埋められ、晴れのマークに雨マーク。
曇りのマークも、雪のマークも、何もかもが賑やかに地球で埋め尽くされて。
(前の俺が見たら…)
きっと夢だと思うだろう。
そんなことなどありはしないと、地球は死の星だったのだから、と。
自分はこの目でそれを見たのだし、新聞などがあるわけもないと。
第一、誰がそれを読むのだと、ただの日報の間違いだろうと。
ユグドラシルにいたリボーンの者たち、彼らのための読み物だろうと。
ところが時代はすっかり変わって、シャングリラは時の彼方に消えて。
前の自分も地球の地の底で死んでしまって、それから長い時が流れていって。
地球は青い星になって宇宙に戻った、蘇った青い水の星。
自分もブルーも其処に生まれた、前と全く同じ姿で。
再び出会って恋をするために、今度こそ共に生きてゆくために。
前の自分たちの夢だった地球、共にゆこうと夢に見た地球。
其処へブルーと還って来た。
前の自分も一度は着いた地球だけれども、あんな赤い地球は…。
(地球は地球でも、あれじゃ話にならないってな)
先に逝ってしまった愛しい人への土産話にも出来はしない、と思った地球。
信じられない思いで見詰めた、赤い死の星。
それが今では青い星になって、こうして新聞までがある。
地球のニュースや写真を集めて編まれた、天気予報まで地球一色の新聞が。
当たり前になってしまった地球。
日常になってしまった地球。
(…なんとも不思議な話だよなあ…)
それに奇跡だ、と小さなブルーを思い浮かべる、恋人と二人で此処まで来たと。
夢だった地球に辿り着いたと、今度こそ二人で生きてゆこうと…。
夢だった地球・了
※ハーレイ先生も驚く、「地球が当たり前にある」という今の現実。それも青い地球が。
キャプテンだった時代に目にした赤い地球。見たからこそ分かる今の素晴らしさですv
(夏のお日様みたいなんだよ…)
ハーレイの笑顔、とブルーは微笑む。
お風呂上がりにパジャマ姿で。ベッドにチョコンと腰を下ろして。
前の生から愛した恋人、今も大好きでたまらないハーレイ。
前と同じに恋人だけれど、お互い恋人同士だけれど。
少し小さく生まれすぎたから、まだ十四歳にしかならないから。
残念なことにキスは出来ない、唇へのキスは貰えない。
その先のこともしては貰えない、どんなに望んでも、強請ってみても。
キスさえも「駄目だ」と叱る恋人、今日もコツンとやられたけれど。
「キスしてもいいよ?」と言ったら額を小突かれたけれど、それでも好きでたまらない。
前の生から愛し続けたハーレイのことが、また巡り会えたハーレイのことが。
一度は離れてしまったのに。
右の手に持っていたハーレイの温もり、それを失くしてしまったのに。
メギドでキースに撃たれた痛みで、落として失くしてしまった温もり。
最後まで持っていたいと願った、ハーレイの腕から貰った温もり。
それを失くして泣きながら死んだ、独りぼっちになってしまったと。
もうハーレイには二度と会えないと泣きじゃくりながら、前の自分の生は終わった。
白いシャングリラから遠く離れて、暗い宇宙で。
たった一人で死んでしまった、メギドを沈めたのと引き換えに。
なのに、どうしたことだろう。
気付けば自分は地球の上にいた、青く蘇った水の星の上に。
新しい命と身体を貰って、ハーレイと共に生まれ変わって生きていた。
そして出会った、またハーレイに。
夏の太陽のような笑顔が眩しい、今を生きているハーレイに。
柔道と水泳、それを得意とするハーレイ。
前とはすっかり違う人生、教師になってしまった恋人。
白いシャングリラの舵を握る代わりに、古典を教えているハーレイ。
今の自分が通う学校で、五月の初めに転任して来て。
まるで全く違う生き方、宇宙船など動かしもしないハーレイだけれど。
宇宙船の代わりに車だけれども、キャプテンの制服も着ていないけれど。
前と変わらない顔立ちと姿、服を替えたらきっと分からない。
前のハーレイと区別がつかない、恋人の自分の目から見たって。
ハーレイが口を利かない限りは。
「俺の顔に何かついているのか?」と言わない限りは分からない。
前のハーレイだったら敬語だった言葉、それが崩れてしまうまでは。
(でも、元々は…)
敬語ではなかったハーレイの言葉。
前のハーレイが自分と話していた時の言葉。
それが互いの立場のせいで変わってしまった、ソルジャーを敬うための敬語に。
どんな時でもハーレイは敬語、恋人同士の時でさえ敬語。
それを思えば、今はすっかり元の通りと言えなくもない。
前のハーレイと出会った頃と。
互いの立場と距離が開いてしまう前の頃と。
それに何より、ハーレイの笑顔。
夏の太陽を思わせるハーレイの笑顔、これは昔から変わらない。
前の生で出会った時から変わらず、言葉と違って変わらないままで最後まで。
いつもは穏やかな笑みだったけれど、ふとした時に見せたとびきりの笑顔。
それだけは変わりはしなかった。
ハーレイの言葉が敬語になっても、恋人同士になった後にも。
だから懐かしい、ハーレイの笑顔。
前と全く同じに眩しい、夏のお日様そのものの笑顔。
「キスは駄目だと言ってるだろうが」とコツンと額をつついた後にも、その笑顔。
軽く睨まれて、プウッと膨れた自分に向かって。
「文句があるか?」と、「駄目なものは駄目だと言っているよな?」と。
大抵はそれで陥落してしまう、膨れっ面。
フニャリと崩れて、もう降参で。
それくらいに好きなハーレイの笑顔、膨れっ面も消し飛ぶ笑顔。
前の自分も好きだった。
ハーレイが見せた、あの笑顔。
青い地球の夏は知らなかったけれど、アルテメシアの夏の太陽に似ていた笑顔。
とても眩しくて、それに明るくて。
どんなに気分が沈んでいたって、「どうしました?」と微笑まれるだけで軽くなった心。
「私がいますよ」と、「大丈夫ですよ」と笑顔を向けられたら、怖いものなど無くなった。
ハーレイがいてくれるのだったと、自分にはハーレイがいるのだから、と。
恋人同士になる前から。
最高の友達同士だった頃から。
そのハーレイは、生まれ変わって夏生まれ。
本物の夏に地球の上に生まれた、八月の二十八日に。
まだまだ暑い夏の盛りに、ハーレイ曰く「夏休みが残り三日しか無い」という八月の末に。
夏に生まれたと知っているからか、余計に太陽が似合うハーレイ。
姿はもちろん、夏の太陽のようだと思った笑顔も夏のお日様そのもので。
眩しくて明るくて、膨れっ面さえも消し飛んでしまう、あの笑みを向けられてしまったら。
太陽の笑顔を向けられたら。
(…ホントのホントに、夏のお日様…)
思えば思うほどに夏の太陽、前の生から変わらない笑顔。
ハーレイが見せる、とびきりの笑顔。
今はともかく、前の生では辛いことも沢山あっただろうに。
アルタミラで舐めた辛酸の数は、思い出したくもなかっただろうに。
けれど、明るく笑ったハーレイ。
いつも、いつだって「大丈夫ですよ」と。
前の自分にも、仲間たちにも向けられた笑顔。
歪んだ悲しい顔の代わりに、まるで本物の太陽のように。
どんな時でも行く道を明るく照らし出すように、船を導く灯台のように。
きっとそう言えば、ハーレイは「違う」と首を左右に振るだろうけれど。
白いシャングリラを導く灯台、それはソルジャー・ブルーだったと言うだろうけれど。
(でも、ハーレイがぼくの灯台…)
ハーレイがいたから立っていられた、どんな時でもソルジャーとして。
倒れることなく立っていられた、ハーレイが支えていてくれたから。
前の自分を導く灯台、行く手を照らしてくれた太陽。
そのハーレイの笑顔は太陽そのもの、心から闇を払ってくれた。
悲しみも辛さも明るい光で消し去ってくれた、太陽の笑顔だったから。
まるで真夏の太陽のような、そういう笑顔だったから。
今も変わらないハーレイの笑顔、それは何処までも眩しくて。
太陽さながらに明るい笑顔で、あの笑顔が好きでたまらない。
「キスは駄目だ」と額をコツンと小突かれたって、叱られたって。
頬っぺたをプウッと膨らませたって、ハーレイの笑顔を向けられたらもう降参で。
とても膨れっ面を続けてはいられないから、自分の負け。
夏の太陽に溶かされてしまうアイスみたいに、氷みたいにフニャリと崩れてしまって負け。
気付けばすっかりしてやられている、あの笑顔に。
膨れっ面は消えてしまって、自分も笑顔。
ハーレイが好きでたまらないから、そのハーレイのとびきりの笑顔なのだから。
(…今日も負けちゃった…)
今日こそは負けてたまるものかと膨れたのに。
精一杯の膨れっ面でプンスカ怒っていたつもりなのに、あっさりと負けてしまった自分。
いつの間にやら御機嫌になって、ハーレイと笑顔で話をしていた自分。
あの笑顔には敵わない。
どう頑張っても勝てはしなくて、膨れっ面だって保てない。
「キスは駄目だ」とコツンとされたら、叱られたらプウッと膨れるのに。
意地悪な恋人を睨んでやるのに、あの笑顔のせいでいつだって負ける。
ハーレイに「すまん」と謝られる前に、ほどけてしまう膨れっ面。
何も言われていないというのに、笑顔を見たら許してしまう。
いつも、いつだって、今日みたいに。
大好きな笑顔を向けられただけで。
なんとも情けない話だけれども、今日もあっさり負けたけれども。
ハーレイの笑顔にやられたけれども、何故だか悔しい気持ちはしない。
あの笑顔がとても好きだから。
夏の太陽のような笑顔が、前の生から好きだったから。
(…前のぼくの太陽だったんだものね…)
ソルジャーだった前の自分の灯台、太陽だったハーレイの笑顔。
それを頼りに前の自分は生きていたから、あの笑顔が太陽だったのだから。
(…勝てっこないよね?)
前の自分も好きだった笑顔、前の自分の行く手を照らした太陽の笑顔。
それを向けられて勝てるわけがない、悔しい気持ちにもなるわけがない。
太陽が無ければ人は困るし、とても生きてはゆけないのだから。
宇宙船の中だけで生きるならともかく、星の上で生きるなら要るのが太陽。
まして地球なら、母なる青い水の星なら、太陽は命の源だから。
負けても仕方ないのだと思う、ハーレイの笑顔に敗北しても。
それに負けても悔しくはない。
何度負けても、負け続きだとしても、ハーレイの笑顔が見られればいい。
もうそれだけで幸せだから。
前の自分がそうだったように、ハーレイの笑顔が大好きだから…。
ハーレイの笑顔・了
※ハーレイ先生の笑顔に弱いブルー君。今日もあっさり負けたようです、膨れっ面が。
ソルジャー・ブルーだった頃から好きだった笑顔、これは絶対勝てませんよねv
(あいつ、本当に可愛いんだ…)
チビだけあって、とハーレイは夜の書斎で微笑む。
小さなブルーを思い浮かべて、愛用のマグカップに淹れたコーヒー片手に。
前の自分が失くしてしまった、ソルジャー・ブルー。
誰よりも愛した、気高く美しかった恋人。
いつかは彼の許へゆこうと、其処へ逝くのだと、それだけを思って生きていた自分。
命尽きる日が早く来ないかと、この世での務めが終わらないかと。
ブルーがそれを望んでいたから、言い残したから、追ってゆけずに。
そうして命が終わった時。
死の星だった地球の地の底、崩れ落ちる瓦礫を見上げて思った。
これで逝けると、ブルーの所へ旅立てるのだと、笑みさえ浮かべて。
なのに、どうしたことなのか。
何が起こったのか、自分でも分からないけれど。
奇跡だとしか思えないけれど、終わった後にまた貰った命。
青く蘇った水の星の上、新たな命が続いていた。
それにブルーも帰って来た。
前の生で焦がれた青い地球の上に、ブルーが夢見た青い星の上に。
十四歳にしかならない少年の姿の、愛らしいブルー。
母なる地球に、青い地球の上に生まれ変わって還り着いたブルー。
まだ小さすぎて、幼いから。
心も身体も、見た目そのままに無垢だから。
キスは出来ない、唇へのキスは。
恋人同士のキスはまだ許されはしない、いくらブルーを愛していても。
前の生から愛し続けて、今も同じに愛していても。
小さなブルーはそれが不満で、膨れっ面になるけれど。
それは見事にプウッと膨れて、海に棲むフグかと笑いそうな日もあるけれど。
駄目なものは駄目で、キスを許しはしないから。
自分からも決してキスはしないし、ブルーにもキスは許さないから。
今日もプウッと膨れたブルー。
キスは駄目だと叱られた後に、額をコツンとやられた後に。
前のブルーの膨れっ面など目にしただろうか、前の自分は?
小さなブルーと同じくらいだった背丈の、出会ったばかりの頃のブルーは膨れたろうか?
多分、膨れてなどいない。
そんな余裕は無かったから。
メギドの炎で燃えるアルタミラを後にした船、その船の中で生きてゆかねばならなかったから。
少し余裕が出て来た頃には、愉快な日々もあったけれども。
笑い合ったりしたものだけれど、膨れられるほどの余裕は無かった。
いくら不満でも、プウッと膨れていられる船では無かったから。
そもそも、不満を言える船では無かったから。
(…言ってたヤツらはいたんだけどな?)
人が集まれば衝突もあるし、不満も出てくる。
遠慮なく口にする者もいれば、口よりも先に手だという者も。
けれどブルーはそれとは無縁で、プウッと膨れることすらも無くて。
(どっちかと言えば、笑ってたよな?)
今が幸せだと、この船で暮らす日々が好きだと。
アルタミラにいた頃よりもずっと幸せで、このシャングリラが好きなのだと。
そうして笑っていたブルー。
膨れっ面ではなかったブルー。
今でも覚えている笑顔。前のブルーの、幾つもの笑顔。
けれど、その中に今のブルーと重なる笑顔は、いったい幾つあるだろう?
小さなブルーの笑顔そっくりの笑顔は幾つあるのだろう?
一つ、二つと数えてゆく。
遠い記憶の彼方の笑顔を、今のブルーと変わらない姿だった頃のブルーの笑顔を。
幸せだから、と笑っていた。
嬉しいからとも、楽しいからとも。
可笑しいと笑い転げていた時もあった、なんて傑作なのだろうと。
幾つも思い出せるけど。
前のブルーが見せた笑顔は、幾つも幾つもあるのだけれど。
(…まるで足りんな)
今のブルーには及ばないな、と零れた笑み。
笑顔の数では断然今だと、今の方がずっと数が多いと。
もちろん笑った回数ではない、自分が眺めた笑顔の種類。
それがずっと多い、今のブルーは。
同じ姿でも、前のブルーよりも、遥かに、ずっと。
プウッと膨れてしまった時にも、フニャリと笑んでしまったりする。
膨れっ面が緩んで微笑んだりする、幸せそうに。
(右手を温めてやったら、確実なんだ)
反則技だとは承知だけれども、ブルーの右の手。
前の生の最後に凍えた右の手、それを握って温めてやるとブルーは弱い。
まるで赤ん坊をあやすかのように、ほどけてしまう膨れっ面。
フニャリと崩れて笑顔へと変わる、それは幸せそうな笑顔に。
あれが最たるものだろうか、とクスリと笑った、前のブルーがしていない笑顔。
一度も見せてはいなかった笑顔。
膨れっ面から笑顔に変わることなど、ただの一度も無かったのだから。
してはいなかった膨れっ面。
頬っぺたをプウッと膨らませたりはしなかったブルー。
それではそれが緩むわけもない、膨れっ面をしていないのだから。
元からブルーは笑顔だったし、プウッと膨れはしなかったから。
他にも幾つも、幾つも、笑顔。
今のブルーにしか出来ない笑顔。
両親に愛され、幸せ一杯に育ったからこそ弾ける笑顔。
子供っぽい笑顔も、悪戯っぽく瞳を煌めかせる時の笑顔も。
「キスしてもいいよ?」と一人前の恋人気取りで誘う時の顔も、やっぱり笑顔。
きっとブルーは甘く艶やかな笑みのつもりだろうけれど。
前の自分と同じ表情のつもりで誘っているのだろうけれど、子供は子供。
背伸びした顔にしか見えはしなくて、無駄な努力が笑いを誘う。
「チビのくせに」と、「まだ懲りないか」と。
本当に幾つあるのだろう。
自分は幾つ見て来たのだろう、今のブルーの笑顔なるものを。
同じくらいの姿だった頃の前のブルーがしなかった笑顔、それを幾つ見たと言うのだろう?
一つ、二つと指を折ってゆく、「これは知らない」と。
「この笑顔は前は見ていなかった」と、「前の俺は一度も見てはいない」と。
一番最初に指を折ったのは、もちろん崩れる膨れっ面。
プウッと膨らんだ頬がフニャリとへこんで緩んでゆく時の、あの笑顔。
それを「一つ」と数えたけれども、そこまでは自信を持てるのだけれど。
(さて…?)
膨れっ面が緩む時。
小さなブルーがプウッと膨れたフグの顔から、笑顔へ変わってゆく時の顔。
それだけで幾つあるのだろうか、と両の手を見詰めて考える。
一つ、二つと折っていった指、それはとっくに十を超えていて。
両方の手は拳になってしまって、「十一個目」と立てた右手の指。
まだまだ足りない、笑顔の数は。
膨れっ面から笑顔へと変わる、それだけで十ではとても足りない。
あまりにも数が多いから。
渋々笑顔に変わる時やら、素直にふわりと笑む時やら。
幾つあるのか、笑顔の数は。
今のブルーの笑顔の数は。
拳の形になってしまった両手を眺めて、「十二」と指を立ててみて。
二本目の指は立てたけれども、まだ足りない。
前の自分が知らなかった、小さなブルーの笑顔。
今のブルーと全く同じに小さかった頃のブルーの笑顔。
思い出せるそれと重ならない顔、それがあまりに多すぎるから。
膨れっ面から笑顔に変わる時のものだけでも、十二を超えてゆきそうだから。
十二どころか、十五も、二十も。
拳の形に握った両手をまた開いても、まだ足りるとは思えないから。
(うーむ…)
お手上げだな、と肩を竦めた、「降参だ」と。
今のブルーの笑顔をとても数え切れはしないと、知らなかった笑顔が多すぎると。
顔立ちは少しも変わりはしなくて、出会った頃のブルーそのままなのに。
そういうブルーは知っていたのに、まるで知らないブルーの笑顔。
膨れっ面のブルーも知らなかったけれど、それが緩んだ笑顔も知らない。
前の自分は目にしてはいない、ただの一度も。
いったい本当に幾つあるのか、今のブルーの笑顔の数は。
前のブルーがしていない笑顔、それをどれほど持っているのか、今のブルーは。
(…きっと、幸せの数だけだな)
今のあいつの幸せの数だけ笑顔もあるな、と拳を見詰めた、このくらいでは足りないと。
両手と両足の指を使っても、足りない、足りるわけがない。
小さなブルーの笑顔の数。
幸せの数だけ、持っているだろう笑顔の数。
そう思ったら、もうお手上げでも仕方ない。とても数え切れるわけがない。
今の小さなブルーの幸せ、それを量れはしないから。
量り切れるような量ではないから、きっとこれからも幾つも増える。
前の自分が知らなかった笑顔。
今のブルーだから見せてくれる笑顔、愛らしい笑顔のコレクションが…。
ブルーの笑顔・了
※前のブルーが少年だった頃にはしなかった笑顔、笑っていても今より少なかった笑顔。
ハーレイ先生のコレクション、まだまだ増えそうです。ブルー君が育った後にも、きっとv
(うー…)
足が重たい、って思っちゃった、ぼく。
重たいって言うより、なんだかホントにうっとおしい。
ぼくの足にくっついてる靴が。
学校指定の靴が重たい、ついでにとってもうっとおしい。
バス停から家まで帰る途中の道なんだけれど。
頭の上から照り付けるお日様、それと地面の照り返し。
その両方とでジリジリ焼かれて、足まで重たくなってきた。
同じ制服でも半袖のシャツとか夏物のズボン、それは問題無いけれど。
重たいとまでは思いもしなくて、うっとおしくもないんだけれど。
足元は別で、きっと靴のせい。
学校指定の靴下を履いて、その上に靴。
二重に包まれてしまってる足が暑がってるんだ、窮屈だよ、って。
足に合わない靴じゃないけど、足をすっぽり包んじゃうから。
きっと息が出来ない気分の両足、ぼくの小さなサイズの足。
苦しいよ、って足が言ってる、靴のせいで息が出来ないよ、って。
そんな感じで重い両足、重たい感じがしちゃう足。
早く帰って脱いでしまおう、こんな靴。
家に帰ったら要らないんだから、靴なんかは。
暑い中を歩いて、家まで帰って。
バス停からのちょっぴりの距離を長く感じた、今日の帰り道。
これのせいだ、って靴を脱ぎ捨てた、途端に軽くなった足。
靴はそのまま捨てておきたい気分だけども…。
(でも、お行儀が悪いしね?)
それに足だって軽くなったし、と靴を揃えて置き直した。
端っこの方に。
お客さんが来た時に邪魔になったら駄目だから。
ド真ん中に置いておくものじゃないから、玄関スペースの端っこに。
やっとスッキリしてくれた足。
もう重たいって気分はしなくて、うっとおしくもなくなったから。
次は靴下、って制服を着替えたついでに脱いだ靴下。
新しいのを履く気なんかしない、こんな暑い日は。
もしも夜になって冷えて来たなら、その時に履けばいいんだから。
息が出来るよ、って喜んでる足、それをもう一度包んじゃったら可哀相。
ぼくだって足に「息が出来ないよ」って言われたくないし…。
裸足になったら気持ちいい床、部屋を出て階段をトントンと下りて。
ダイニングでママとおやつを食べてた間も裸足。
食べ終わって部屋に戻っても裸足。
帰り道の重たさが嘘だったみたいに軽い両足、靴が無いだけでこんなに違う。
靴下も少しは悪いだろうけど、重たかった原因は絶対に靴。
だって、家では履かないんだから。
「ただいま」って玄関のドアを開けたら、靴には「さよなら」なんだから。
学校指定の靴は重くはないけれど。
重さを量れば、きっとお洒落な革靴より軽いだろうけれど。
だけどやっぱり、今日みたいな日にはうっとおしい。
サンダルで学校に行ければいいのに、って思っちゃうくらい。
靴よりも遥かに軽いサンダル、それで充分いいのにね、って。
多分、お行儀とか、色々な意味で「駄目だ」って言われるだろうけど。
先生たちが怖い顔して、「サンダルで学校へ来ないように」って叱るだろうけど。
(…家だと脱いでもいいんだけどな…)
そうでなくっちゃ辛すぎる。
今日みたいな日に、重たかった靴を家でまで履いているなんて。
そんなことなんか出来やしないし、耐えられもしない。
此処に生まれて良かったと思う、家では靴を脱いでもいい場所。
遠い遥かな昔の島国、日本の文化を復興させてる、今のぼくが住んでるこの地域に。
地域によっては、家の中でも靴らしいから。
家に帰っても靴を履いてて、せいぜい部屋履きに履き替えるくらい。
そんなの嫌だ、と椅子に座って足をパタパタさせていて。
暑い季節に靴も靴下も要りやしない、って素足をパタパタ、それを見ていて。
(…あれ?)
前のぼくは一度もこんなことをしてはいなかった。
足にはいつでも行儀よく靴、それも靴どころかソルジャーのブーツ。
青の間の外へ出る時はもちろん、青の間でだって。
ハーレイの部屋へ出掛けた時にも、靴を脱いではいなかった。
嘘…、って思わず零れた言葉。
どんな時でも靴だったなんて、と驚いたけれど、本当に、そう。
白いシャングリラは靴を履くのが普通の世界で、誰でも靴を履いていた。
自分の部屋に一人きりの時も、きちんと靴を。
前のハーレイも、ぼくも、もちろん靴を。
脱いだりしないで履いていた靴、前のぼくだとソルジャーのブーツ。
あれはどの辺まであったっけ、って足を眺めてビックリした、ぼく。
玄関で脱いで来た靴なんかより、ずっと上まであった靴。
ピッタリしていたソルジャーのブーツ、前のぼくが脱がなかった靴。
(…脱ごうとも思っていなかったけど…)
履いているのが当然だったし、お風呂の時とか、寝る時だとか。
そういう時しか靴は脱がなくて、いつだって履いているもので。
前のぼくは変とも思っていなくて、うっとおしいとも思ってなくて…。
(あの靴は特別な靴だったけど…)
ソルジャー用にと開発されてて、重いと思ったことは無かった。
うっとおしいとも思わなかった。
だけど、いつでも両足に靴。
足は自由になれはしなくて、裸足になんかはなれなくて。
(…可哀相だった?)
前のぼくの足。
ハーレイもだけど、靴を脱がないのが当たり前だと思われてた足。
今は脱いでもいいけれど。
家に帰ったらポイと脱いでよくて、いくらでも裸足でいられるけれど。
靴下だって脱いでいいけど、前のぼくたちの足は違った。
いつも、いつでも靴の中。
ぼくの足にはソルジャーのブーツ、ハーレイの足にはキャプテンの靴。
青の間でも、ハーレイの部屋の中でも、いつだって、靴。
箱舟なんだと思っていた船、本当に箱舟だった船。
白いシャングリラは前のぼくたちの楽園みたいな船だったけれど。
其処で出来る限りの自由を手に入れて暮らしていたけど、靴に関しては…。
(…自由じゃなかった?)
履いているのが当たり前だった段階で。
脱いでいいですよ、って誰も言わなかった、思いもしなかった段階で。
裸足はこんなに気持ちいいのに、靴を脱いだら足はググンと軽くなるのに。
それを知らずに暮らしたぼくたち、白いシャングリラで暮らしたぼくたち。
靴は脱いでもいいものなんだ、って誰も考えてはいなかったから。
履いているのが当たり前のもので、部屋の中でも履いてて当然だったから。
(…前のぼくの足…)
あんなブーツに包まれたままで、脱いで貰えもしなくって。
どんなに窮屈だっただろう。
我慢強かった足は文句を言わなかったけど、きっと自由になりたかったと思う。
ブーツを脱いで欲しかったと思う、四六時中あんなのを履いていないで。
ちょっとくらい、って思っただろう、ほんの少しでいいから脱いで、って。
今日のぼくの足は文句を言っていたんだから。
足が重たいって、息が出来ないって、せっせと文句。
早く帰って自由にしてよって、この靴を脱いで外に出してよ、って。
前のぼくには無かった自由。
まるで全く気付いていなくて、自由じゃないとも少しも思っていなかったけれど。
(でも、脱げなかった…)
あのブーツは。
足にピッタリくっつくように出来上がっていたソルジャーのブーツ。
学校指定の今の靴より、うんと大袈裟だった白いブーツは。
どうして脱ごうと思わなかったのか、脱ぎたいとも思わなかったのか。
真面目に毎日履いたままでいて、部屋に一人でいる時だって。
ポイと捨てちゃって足をブラブラさせていたって、誰も気付きはしなかったろうに。
せいぜい、夜にハーレイが来た時、顔を顰める程度だったろうに。
(…あれが普通だと思っていたから…)
靴は脱いでもかまわないなんて、ちっとも思っていなかったから。
誰でも自分の部屋の中でも、きちんと靴を履いていたから。
(でも、今は…)
家の中なら脱いでもいい。
「ただいま」って玄関のドアを開けて入ったら、脱いでしまってかまわない靴。
どんなに軽くても、学校指定でも、脱いでもいい靴、叱られない靴。
もしかしなくても、今はとっても自由になったんだろうか、ぼくの足は?
前のぼくの足も、ハーレイの足も、今度はうんと自由だろうか?
(…うん、きっと…)
自由だと思う、だって脱いでもいいんだから。
ハーレイもぼくも、家に入ったら、靴なんか履いていなくてもいい。
ほんの小さなことだけれども、靴を脱いでもいい自由。
家に入ったら、脱いでもいい靴。
ぼくたちは、うんと自由になった。
前のぼくたちが生きた頃より、白いシャングリラの頃よりも自由。
靴は脱いでもいいんだから。
脱いでしまって裸足でいたって、誰も怒りはしないんだから…。
脱いでもいい靴・了
※ブルー君も気付いた、靴を脱いでもいい自由。小さなことでも、考えてみれば幸せです。
前は脱げなかった靴を脱いで裸足で足をパタパタ、今ならではの自由ですよねv
(さて、と…)
今日も一日無事に終わった、と車で帰り着いた家。
ブルーの家には寄り損なってしまったけれども、また明日がある。
白いシャングリラの頃と違って、ちゃんと来る明日。
太陽が昇れば新しい一日、次の日が消えてしまいはしない。
シャングリラで前のブルーと生きた頃には、そういう保証は無かったけれど。
夜の間に何が起こるか分かりはしなくて、明日があるとは言えなかったけれど。
それが今では明日があるから、必ず来ると分かっているから。
「また明日があるさ」と待ち侘びる心、明日が駄目でもまた次の日、と。
ブルーにはきっと何処かで会えるし、ブルーの家にも必ず行ける。
今日は行けずに終わったけれども、また次がある。
明日とか明後日、そのまた次の日。
いくらでも「明日」は訪れるのだから、それを思えば心も弾む。
ブルーに会いに行ける日はいつかと、明日に行ければいいのだが、と。
前の自分のマントの色をした愛車を停めたガレージを出て。
庭を横切って、玄関へ。
今の季節は昼が長いから、夜が来るのが遅いから。
まだまだ充分に庭は明るい、玄関のドアの辺りも、家も。
鍵を開けて家の中へと入って、ドアをパタンと閉じれば自由。
自分の好きに過ごせる空間、それは庭でも同じだけれど。
(…庭だと裸じゃいられないしな?)
まさか本当にはやらないけれども、家でも何か着ているけれど。
その気になったら素っ裸でいても、誰も文句を言わない家。
其処へ入ってドアを閉めたから、もう自由。
何をしようが、どう過ごそうが、好きにしていい自分の家。
まずは中へ、と脱いだ靴。
学校へ履いて出掛けた革靴、いつも自分で手入れする靴。
気に入りの靴ではあるけれど。
履きやすいものを選んで買ったのだけれど、やはり靴では…。
(あまり自由じゃないってな)
道を歩くには便利だけれども、足を余計に包む靴。
少し自由が失せる気がする、外はともかく、屋内では。
家でまで靴は履いていたくない、さっさと脱いでしまいたい。
ポイと脱ぎ捨てはしないけど。
きちんと揃えて置いておくけれど、やはり家では煩わしい靴。
それを脱げたと、もう自由だと踏み締めた床。
(靴下はまだ…)
靴に比べれば束縛されている気にはならない、所詮は薄い布だから。
革靴のように重たくはないし、足も自由に動かせるから。
(そうは言っても、だ…)
この季節は素足が一番なんだ、と歩いてゆく廊下。
荷物を置いてワイシャツを脱いだら、靴下も脱いでしまおうと。
素足に床が気持ちいい季節、そうしない手は無いのだから。
リビングのソファに荷物を下ろして、脱いだワイシャツ。
暑い夏でもこれでないと、と着込んで出掛ける長袖のシャツ。
学校に出掛ける時の制服、どんな季節も長袖のシャツで、それからネクタイ。
前の自分の制服よりかは、ずいぶんとラフなものだけど。
マントもついていないわけだし、御大層でもないのだけれど。
(だがなあ、制服は制服なんだ)
家ではこれじゃ落ち着かん、と半袖のシャツに着替えてしまう。
ズボンも家用のラフなズボンに。
そして靴下、それを脱いだら実に気持ちがいい素足。
やはりこれだと、靴も靴下も履いていられるかという気分になる。
自分の家ではこうでなくてはと、これでこそ自由な家なのだから、と。
真っ裸でいようとは思わないけれど、夏は素足でいるのが好み。
これに限ると、足が軽くなったと脱いだシャツなどを片付けに行って。
洗うものは此処、と決めてある籠に放り込んだら、もう靴下とはお別れで。
明日の朝まで履かなくて良くて、もちろん靴も。
(うん、こういうのが最高だってな!)
柔道も水泳も靴を履かないからなのだろうか、靴を脱いだらスッキリとする。
靴下も要らない、今の季節は家の中では履かなくていい。
やはり裸足が最高なのだと思ったけれど。
まして靴など履いていられるかと、誰が自分の家でまで履くか、と思ったけれど。
地域によっては、それが普通の所もあるから。
此処に生まれて良かったと思う、かつて日本があった辺りに。
小さな島国だった日本は、家では靴は履かなかったから。
家の中では土足厳禁、靴は玄関で脱いで入るのが日本の常識、日本の文化。
それを復興した地域に生まれた自分だからこそ、靴も靴下も要らないわけで。
此処で良かったと、素晴らしい場所だと、素足でリビングに戻って行って。
夕食の支度にかかる前にと、冷たく冷やしたお茶を一杯、と飲んでいて。
(……ん?)
待てよ、と掠めた遠い遠い記憶。
前の自分が生きていた船、ブルーと暮らした白いシャングリラ。
あの頃の自分は素足などでは…。
(…歩いていなかったぞ!)
そうだったのだ、と気が付いた。
靴を履くのが当たり前の世界、其処で自分は生きていたと。
今とはまるで違っていたと。
(……靴なあ……)
さっき玄関で脱いで来ちまったが、とソファに座って足を眺める。
靴下さえも履いていない素足、褐色の肌の鍛え上げられた足を。
柔道も水泳も足は大事で、特に柔道。
しっかりと床を踏み締めて掴む力が無ければ確実に負ける。
だから昔から鍛えていた足、素足になったらハッキリと分かる。
自分ではすっかり見慣れていた足、今の季節は家では素足と思うのに。
ごくごく見慣れた風景なのに…。
前の自分はそれを知らなかった、靴を脱ぐのが普通の世界を。
自分が自由に過ごせる空間、其処へ入ったら靴も靴下も要らない世界を。
いつもカッチリ着込んでいた制服、それと同じに靴だって。
白いシャングリラの中、何処へ行くにも足には靴。
自分の部屋でも、前のブルーと二人で過ごした青の間でも。
風呂に入るか、眠る時か。
そんな時しか脱がなかった靴、脱げなかった靴。
前の自分は何の不自由も感じていなかったけれど。
そういう記憶は無いのだけれども、今から思えば…。
(なんて窮屈な船だったんだ!)
やっていられん、と頭を振らずにはいられない。
制服はともかく靴だなんて、と。
自分の部屋でくらいは脱いでもいいのに、どうして律儀に履いていたかと。
(二度と御免だぞ、あんな生活…)
靴でなくても、あの生活は御免だけれど。
いくらブルーと暮らした船でも、船の中でしか生きられない世界は本当に御免蒙るけれど。
それの他にも靴があったか、と苦笑してしまう、なんと不自由な船だったか、と。
自分の部屋でも素足で歩けず、靴を履くのが普通だったとは、と。
(あの頃の俺は知らないにしても…)
靴を履かない暮らしがあるとは、思いもよらなかったのだけれど。
プライベートな場所に入ったら脱いでいいとは、本当に思いもしなかったけれど。
(俺もブルーも…)
クソ真面目に履いていたんだっけな、と前の自分たちの靴を思い浮かべた。
キャプテンだった自分はまだしも、ブルーの靴。ソルジャーのブーツ。
(あいつ、あんなのを律儀に履いて…)
脱いでいいかとも訊きはしなかった、二人きりでお茶を楽しむ時も。
ソルジャーとキャプテンの立場を離れて過ごす時にも。
(今のあいつなら…)
きっと自分と同じだろうな、と笑みが浮かんだ、家では靴を脱ぎたがるだろうと。
前のブルーのようなブーツを履いたままでいろと言われたならば、きっと困るだろうと。
今の暮らしは色々と自由だと思ったけれど。
本当に自由に生きられる世界、其処へ来られたと常々思っていたけれど。
(そうか、靴もか…)
脱いでいいのか、と顔が綻ぶ、此処では靴を脱いで自由に過ごせるのかと。
今の自分には当たり前のことで、家に入れば脱ぐけれど。
ブルーの家を訪ねた時にも、脱いで家へと入るけれども、それも今ならではのこと。
自分もブルーも脱いでいい靴、家では履かずに過ごせる靴。
ほんの些細なことだけれども、今の自由な世界の証。
今は脱いでもかまわない。
家に入るなら、靴を脱ぐ。
素足で床を踏んで歩いて、重たい靴など要りはしなくて。
自分もブルーも脱いでいい靴、今の時代は。
そういう時代に、そういう地域に生まれて来たから、脱いでいい靴。
本当に些細なことだけれども、それが嬉しい。
此処では靴を脱いでいいのかと、好きにしていい世界なんだな、と…。
脱いでいい靴・了
※キャプテンだった頃には履いているのが当たり前だった靴。自分の部屋でも。
今は自分の家に入ったら脱いでいいのです、それも自由の一つですよねv
