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(…今のぼくはキスが前より下手くそ…)
 そういうことになっちゃうみたい、とブルーがついた大きな溜息。
 お風呂上がりにパジャマ姿で、自分の部屋で。
 ベッドの端にチョコンと腰掛け、視線を遣った先にテーブルと椅子。
 今日はハーレイと其処で過ごした、土曜日だから。
 楽しみに今日を待ったというのに、どんでん返しと言うべきか。
 ポロポロと涙を零す羽目になったし、今はこうして溜息が一つ。
 最高の休日になる筈だったのに。
(…サクランボ…)
 事の起こりはサクランボ。
 旬はとっくに過ぎたけれども、輸入物が店に出回る季節。
 地球の反対側に位置する地域は、今がサクランボの旬だから。
 おやつに出て来たチェリーパイのお蔭で戻った記憶。
 前の自分と前のハーレイ、白いシャングリラで食べたサクランボ。
(…サクランボの軸を、口の中で上手く結べる人は…)
 「キスが上手だそうですよ」と前のハーレイが教えてくれた。
 そのハーレイは上手く結べた、サクランボの軸を。
 そういう記憶が戻って来たから、母に強請ったチェリーパイ。
 土曜日にまた焼いて欲しいと、前のぼくもサクランボを食べていたから、と。
 「いいわよ」と引き受けてくれた母。
 父も母から聞いたものだから、生のサクランボも買って貰えた。
 せっかくだから、と父が思い付いてくれた輸入物を。


 ワクワクしながら待っていた今日。
 ハーレイと二人で、思い出の味を楽しもうと。
 サクランボの軸の話をしようと、今のハーレイも口の中で上手く結ぶだろうか、と。
 けれど、ハーレイには「悪戯小僧」と詰られた。
 甘い思い出を語り合うどころか、悪戯者め、と睨まれた始末。
 「お母さんまで巻き込んだな」と、「軸の話はしてないだろうが」と。
 それでも、思い出してはくれたハーレイ。
 遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラで食べたサクランボを。
 前のハーレイがサクランボの軸を、口の中で上手に結べたことを。
(…そこまでは良かったんだけど…)
 とんだオマケがついて来た。
 前よりも腕を上げたハーレイ。
 サクランボの軸を口の中でヒョイと結ぶ腕前、今は各段に上がったそれ。
 ほんの二センチくらいの軸でも、今のハーレイは結んでしまえる。
 「出来るぞ」と自慢して、本当にやった。
 サクランボの軸を、ポキンと折って。
 二センチほどの長さに短く、それを口へと放り込んで。
 モグモグと動いたハーレイの口。
 さほど時間をかけもしないで、見事に結んでしまった軸。
 どんなもんだと、今の俺ならこの通りだ、と。


 凄い腕前を持つと言うから、早速ハーレイに尋ねてみた事。
 「キスは前よりもっと上手いの?」と。
 前のハーレイよりも上手に軸を結ぶのだったら、キスも上手いのだろうから。
 なのに、答えは貰えなかった。
 「こんな動機でチェリーパイとかを持ち出すヤツには教えられんな」と。
 そして言われた、「今度はお前も上手くなったらどうだ?」と。
 前の自分はどう頑張っても、サクランボの軸を結べなかったから。
(…上手くなれ、って言われたから…)
 ひょっとしたら下手だったのか、と考えた前の自分のキス。
 サクランボの軸を結べなかった前の自分は、キスも下手くそだったのだろうか、と。
 心配になったから、ハーレイに訊いた。
 「前のぼくって、下手くそだった?」と、前の自分のキスの腕前を。
 下手だったかもしれない、前の自分。
 ソルジャー・ブルーはキスが下手くそで、キャプテン・ハーレイは上手だったとか。
 そういうこともあるかもしれない、サクランボの軸で分かるキスの腕前。
 口の中で上手く結べたらキスが上手で、結べなかったら…。
(…下手なんだよね?)
 きっとそうだ、と落ち込みそうな気持ちで投げ掛けた問い。
 前の自分は自信たっぷり、何度も何度もハーレイにキスを強請ったけれど。
 ハーレイの方はキスが上手くて、前の自分は下手だったのかもしれない、と。


 どんよりと項垂れてしまった自分。
 下手だった前の自分のキス。
 ハーレイはキスが上手かったのに。
 前のハーレイはサクランボの軸を上手く結べる、キスの達人だったのに。
 なんてことだろう、と俯いていたら、ピンと額を弾かれた。
 「俺は下手だとは思わなかったぞ」と、嬉しい答えを返して貰えた。
 思わず「ホント!?」と声を上げたほど、救われた気分になったのに。
 次の言葉が悪かった。
 ハーレイはこう続けたから。
 「本当だ。…ただ、如何せん、比較対象が…な? お前以外に知らなかったし」と。
 絶句してしまった、その言葉。
 比較対象、それに「お前以外に知らなかったし」。
 考えるほどに、胸の奥から湧き上がる不安。
 前のハーレイには自分だけしかいなかったけれど、今のハーレイは違うかもしれない。
 今の自分はチビだけれども、ハーレイはずっと年上の大人。
 キャプテン・ハーレイの記憶が戻るよりも前は、ハーレイは自由だった筈。
 誰と付き合おうが、キスをしようが、誰もハーレイを咎めはしない。
 変でもなんでもないことだから。
 プロの選手にならないか、と誘いまで来た柔道と水泳の腕前、モテたハーレイ。
 モテていたなら、恋人だって選び放題。
 必死になって探さなくても、相手の方からやって来る。
 恋の相手も、キスの相手も。
 キスのその先のことにしたって、相手に不自由しなかったろう。
 そうしたいと思いさえすれば。


 気付いた途端に、ポロリと零れてしまった涙。
「…ハーレイ、前に恋人、いたんだ…。ぼくよりも前に、誰かとキスして……」
 そう口にするのが精一杯。
 後は言葉になりはしなくて、ただポロポロと零れた涙。
 生まれて来るのが遅かったばかりに、大好きなハーレイを盗られちゃった、と。
 何処かの誰かが、自分よりも先にキスをした。
 もしかしたらキスの上手い誰かが、一人どころか、もっと大勢。
 悲しくて辛くて、それに悔しくて。
 サクランボの軸の思い出話は、酷い現実を運んで来た。
 今のハーレイはキスが前よりもっと上手で、沢山の人とキスをしていて。
 比べることだって出来るのだろう、チビの自分が育った時には。
 ようやくキスを交わせた時には、今の自分のキスの腕前が、上手か下手か。
(…上手にしたって、下手にしたって…)
 そんなことは、ほんの些細なこと。
 ハーレイを誰かに盗られてしまった、その恐ろしい事実の前には。
 キスが上手くても、下手くそにしても、今のハーレイには、自分よりも前に誰か恋人。
 比べることが出来る誰かが、キスを交わした誰かがいるから。
 ハーレイの言葉で、それが分かってしまったから。
(……前に恋人……)
 あんまりだよ、と叫びたくても、八つ当たりにしかならないそれ。
 ハーレイは大人で、記憶が戻って来るよりも前は自由な人生。
 恋をするのも、キスをするのも、その先のことも、ハーレイ次第だったのだから。


 泣くことだけしか出来なかった自分。
 ポロリポロリと零れ落ちた涙。
 どうにも出来ないことだけれども、あまりにも悲しすぎたから。
 泣き濡れていたら、「泣くな、馬鹿」とクシャリと撫でられた頭。
 「今の俺にはお前だけだ」と、「俺はお前しか好きにならない」と。
 俺を信じろ、と見詰めてくれたハーレイ。
 「俺の隣に居てくれるヤツはお前だけしか欲しくはない」と。
 何度も頭を撫でて貰って、何度も何度も誓って貰って。
 やっと止まった自分の涙。
 前を向こうと、今のハーレイは自分を選んでくれたのだから、と。
 そのハーレイの指が、ヒョイと摘んだサクランボ。
 「俺には一生お前だけだが、心配だったら練習しておけ」と、ポキリと折ったサクランボの軸。
 自慢していた二センチほどの長さ、ハーレイは見事に結んでみせた。
 口の中にポイと放り込んで。
 俺の腕前はこの通りだ、と。
 今から練習しておくといいと、キスは駄目でもこれならば、と。
 サクランボの軸を上手く結べたら、キスが上手いと言うのだから。
 せっせと練習しておいたならば、キスが上手くなる筈だから。


(…頑張らなくちゃ…)
 サクランボの軸を結ぶ練習、と自分自身に発破をかけた。
 今のハーレイが他の誰かとキスをしたかは、この際、考えないとしたって。
(…ハーレイのキスの腕前、前のハーレイよりも上なんだから…)
 ほんの二センチしかないサクランボの軸、それを結んでしまえるハーレイ。
 つまりはキスの腕も上がった、間違いなく。
 今の自分がこのままだったら、前の自分と同じキスしか出来なかったら…。
(…前よりキスが上手いハーレイなら…)
 きっと下手だと思うのだろう。
 前のハーレイは下手だと思わなかったらしいけれども、キスが上手な今のハーレイは。
 それは困るし、なんとも悲しい。
 上手くなりたい、今のハーレイに合わせて自分も。
 だから頑張る、と決意を固めたキスの練習。
 本物のキスはまだ出来ないから、サクランボの軸を結ぶ練習。
 前の自分には無理だったけれど、「下手なキスだ」とハーレイに呆れられないように…。

 

         サクランボと軸・了


※サクランボの軸を結ぶ話を持ち出してみたら、藪蛇だったブルー君。自業自得ですけど。
 今度はキスが上手い自分に、と固めた決意。サクランボの軸で頑張りましょうねv





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(…悪戯小僧め…)
 実にとんでもないヤツだ、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 ブルーの家へと出掛けて来た日に、夜の書斎で。
 愛用の大きなマグカップ。熱いコーヒーをたっぷりと淹れて。
 それは普段と変わらないけれど、その他に一つ、ガラスの器。
 ちょっとしたフルーツを入れたりするのに丁度いい器、一人暮らしには。
 つまりは小さめ、器の中身は真っ赤な果実。
 今の季節にそぐわない果実、旬はとっくに過ぎ去ったから。
 みずみずしく光るサクランボ。
 まるでブルーの瞳のよう。
 生きた宝石、赤い所もブルーの瞳を思わせる果実。
 前の自分もそう思ったな、と零れた笑み。
 白いシャングリラでブルーと食べたサクランボ。
 ブルーの瞳も食べられるから、と瞼に落としてやったキス。
 「食べられないと思うんだけど?」と言ったブルーに、「いえ」と返して。
 「こうすれば食べられますよ」と、両の瞼にキスを落として。
 ブルーは頬を染めたのだったか、「驚いたよ」と。
 「両目とも食べられてしまうなんて」と。
 遠く遥かな時の彼方の甘い思い出、前のブルーと過ごした日々。
 それをブルーが持ち出して来た。
 今の小さなチビのブルーが、十四歳にしかならないブルーが。


 ブルーの家を訪ねて行ったら、おやつに出て来たチェリーパイ。
 それだけなら全く気付かないけれど、器に盛られた生のサクランボ。
 旬の頃には何度も二人で食べたけれども、今は秋。
 サクランボの旬はとうに過ぎ去り、生の果実は輸入物。
 そこへブルーの嬉しそうな顔、本人は多分、上手に隠したつもりだろうけど。
 ついでに零れた心の欠片。
 それは楽しそうにキラキラと光る、楽しげなブルーの心の欠片。
 気付かない方がどうかしている、このサクランボが問題なのだと。
 チェリーパイと、生のサクランボ。
(…サクランボで何かある筈なんだ、と思うよなあ…?)
 小さなブルーがはしゃぐような、何か。
 心が弾んで、中身がコロンと零れ落ちるようなものが。
(あいつと出会った頃が、丁度サクランボの旬で…)
 チェリーパイも、生のも、何度も食べた。
 けれど、それだけ。
 特には何も思い付かない、ブルーの心が跳ねるようなこと。
 だとしたら…、と遠い過去へと思いを向けたら、答えは直ぐに降って来た。
 前のブルーと二人で食べたと、白いシャングリラにもあったのだ、と。
 赤くみずみずしい果実。
 ブルーの瞳のような宝石、甘く熟したサクランボが。


 思い出したら、途端にブルーが悪戯小僧に見えて来た。
 よくもと、チビが悪知恵を、と。
(サクランボと言えば、軸だったんだ…!)
 前のブルーと食べていた時、前の自分が持ち出した話。
 何処で仕入れた知識だったか、今では思い出せないけれど。
 本で読んだか、データベースで調べ物の途中に、たまたま見付けたものだったのか。
(サクランボの軸を、口の中で上手く結べるヤツは…)
 キスが上手い、というのがそれ。
 「そうなのか?」と驚いた時は、まだ恋人はいなかった。
 ブルーは仲のいい友達だったし、他の仲間にも恋をしたことは無かったから。
 だから経験すらも無かったのがキス、けれど気になるサクランボの軸。
 口の中で結ぶことが出来れば、キスが上手いというのだから。
(…キスをする相手がいなくても、だ…)
 やはり興味は出て来るもの。
 自分は上手く出来るだろうかと、軸を上手に結べるのかと。
 キスする相手も、キスの予定も無いけれど。
 いつかキスすることがあるなら、もちろん上手い方がいい。
 上手い方がいいに決まっているから、どんなことでも。
 下手では誰も褒めてくれない、何をするにしても。
 だからサクランボの軸も心に残った、「上手く結べたらキスが上手い」と。


 そんなこんなで、前の自分が覚えてしまった、サクランボの軸とキスの関係。
 サクランボの軸に出会えば「これか…」と思うし、試したくもなる。
 周りに誰もいなければ。
 実ではなくて軸を口に入れても、「食べられるのか?」と声が掛からないなら。
(…果たして最初は、いつだったやら…)
 覚えてはいない初挑戦。
 何処でやったか、生のサクランボだったか、それさえも。
 シロップ漬けのサクランボだったかもしれない、軸も一緒のものもあるから。
 とにかく出会って、周りは無人。
 そうでなければ無関心。
 実を食べた後に軸を口に入れ、さて、その後はどうなったのか。
(…それも覚えていないんだよなあ…)
 初挑戦で成功したのか、まるで話にならなかったか。
 記憶が遠すぎることもあるけれど、今の自分の記憶も邪魔をしてくれる。
 なにしろ、今は平和な世界。
 血気盛んな青少年が集っていたなら、誰かが話を持ち出すから。
 「お前、出来るか?」とサクランボの軸とキスの話を。
 口の中で軸を上手く結べるなら、キスが上手いと言うんだが、と。
(…あの話で何度、盛り上がったやら…)
 わざわざサクランボを買って来てまで、競い合ったこともあったほど。
 旬でなければ、シロップ漬けで。
 出来る、出来ないと、それは賑やかに。


 今の自分が積み過ぎた記憶、サクランボの軸とキスに纏わる記憶。
 お蔭ですっかり霞んでしまった、前の自分とサクランボのこと。
(いつから挑んで、いつ出来たのかも…)
 思い出せんな、と首を捻るしかない。
 今の自分がそうだったように、「出来るんだが?」と初挑戦で成功したか。
 それとも、何度も挑み続けて、苦労した末に身につけた技か。
(…しかし、苦労をしていたんなら…)
 前のブルーに話してみたりはしなかったろう。
 「これを口の中で結べますか?」と。
 悪戦苦闘していたブルーに、「私は簡単に出来るのですが」とも言わないだろう。
(…前の俺にも、その才能はあったらしいな?)
 そして今ではもっと上手に、とヒョイと摘んだサクランボの実。
 ブルーの家から帰る途中の食料品店、其処で買って来た輸入物。
(…うん、本当にあいつの瞳にそっくりだってな)
 生きてる赤い宝石なんだ、と口に含んだサクランボ。
 舌で転がし、味わった後は、残った種を吐き出してから…。
(今日はこっちがメインなんだ)
 軸の出番だ、と口に入れた軸。
 若い頃からやっていたように、舌を使って上手に曲げて…。
(こうやって…)
 こうだ、と器に吐き出した軸は、クルンと見事に結ばれていた。
 前の自分がやった通りに、それ以上に。


 どんなもんだ、と眺めた軸。
 今の自分は前の自分より、遥かに腕を上げているから。
 平和な時代にサクランボの軸で遊び続けて、短い軸でも結べるから。
(…キスも前より上手い筈だぞ)
 サクランボの軸と、キスの話が本当ならば。
 上手く結べればキスが上手いと言うのだったら、前よりもきっと上手い筈。
 そして、サクランボを用意していたブルーは…。
(…相変わらず下手なままなんだ…)
 前のブルーと全く同じに、今のブルーも軸を結べはしなかった。
 口に入れても、どう頑張っても。
 「ハーレイ、ぼくはキスが下手かな?」と心配そうだった前のブルー。
 サクランボの軸を上手く結べないから、キスも上手に出来ないだろうか、と。
 けして下手だとは思わなかった、前のブルーと交わしたキス。
 だからサクランボの軸を結ぶのは遊びで、前のブルーと何度もやった。
 「まだ無理ですか?」とからかいながら。
 「ほんのちょっとしたコツなのですが」と、口の中でヒョイと結んでみせて。
 ブルーも努力はしていたけれども、ついに出来ないままだった。
 ただの一度も、軸を結べはしなかった。


 それを思い出したのが、小さなブルー。
 日頃から「駄目だ」と禁じてあるキス、話題にするならサクランボだ、と。
 母にチェリーパイを焼いて貰って、輸入物まで用意した。
 「シャングリラのサクランボ、覚えている?」と。
 もう充分に嫌な予感がしていた所へ、軸の話を持ち出したブルー。
 キスも出来ないチビのくせに、と悪戯小僧をこらしめてやった。
 二センチほどの短い軸。
 それを結んで、「今の俺の方が前より上手い」と。
 案の定、ブルーは「前のぼくのキス、下手だった…?」と言い始めたから。
 「比較対象が無かったからな」と、ニヤリと笑みを浮かべておいた。
 俺は下手だと思わなかったが、比べるものが無かったから、と。
(…悪戯小僧には、おしおきなんだ)
 ポロリと涙を零したブルー。
 「ハーレイ、前に恋人、いたんだ…」と。
 誰かとキスをしていたんだ、と小さなブルーは泣き出した。
 「ハーレイを誰かに盗られちゃった」と。
 ちゃんと宥めて、「俺はお前しか好きにならない」と涙は止めてやったけれども。
 当分、反省しているがいい、と口に含んだサクランボ。
 悪戯小僧はおしおきせねばと、サクランボの軸とキスの話はチビには早すぎなんだから、と…。

 

        サクランボとキス・了


※サクランボの軸とキスの思い出を持ち出したブルー君、ハーレイ先生から見れば悪戯小僧。
 おしおきなんだ、と苛めたようです。「比較対象が無かったから」って、大人の余裕v





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(どう考えても、無理なんだけど…!)
 絶対に作れないんだけれど、と頭を抱えた小さなブルー。
 真っ白な亜麻で出来たハンカチ、それを前にして自分の部屋で。
 ハーレイと二人で過ごした日の夜、勉強机の前に座って。
 母の部屋からコッソリ失敬して来たハンカチ。
 特に飾りもついていないから、消えても母は気付かないだろう。
 亜麻のハンカチの一枚くらい。
 たかがハンカチ、されどハンカチ。
 このハンカチが大いに問題、真っ白な亜麻で出来ているのが。
 それが大きな問題で課題、戦う相手は亜麻のハンカチ。
(…前のぼくって、どうやったわけ?)
 くっつかないよ、と亜麻のハンカチを広げてみた。
 二つ折りにして三角形だったハンカチ、それはペロンと四角くなった。
 元の通りに、四角いまんま。
 三角形になりはしなくて、ただの四角いハンカチが一つ。
 前の自分が持ち上げたならば、三角形になっていたのだろうに。
 二つに畳んで三角形になった山の天辺、そこがピタリと繋がり合って。
 糸で縫ったか、ピンか何かで留めたかのように、離れなくなって。
 けれど、自分には出来ない芸当。
 ハンカチは四角に戻ってしまって、三角形のままでいてはくれない。
 天辺同士がくっつきはしない、亜麻のハンカチの端同士は。


 事の起こりはハーレイのシャツで、取れそうになっていた袖口のボタン。
 ハーレイに言ったら毟り取ろうとしたものだから、「待って」と止めた。
 ボタンを一つ縫い付けるくらいは、簡単なこと。
 家庭科の授業でやったことだし、直ぐに上手に付け直せるから。
 棚から取って来た裁縫道具入りの小さなバッグ。
 取り出した針と糸を使って、元の通りに縫い付けたボタン。
 ハーレイは「器用なもんだな」と褒めてくれたけれど、その後に妙な言葉が続いた。
 「しっかり上手にくっついてるなと思ってな…。前と違って」と。
 感慨深そうにボタンをしげしげ眺めた後に、そういう台詞。
 何のことかと目を丸くしたら、「前のお前だ」と答えたハーレイ。
 おまけに「…忘れちまったのか?」とまで。
 「スカボローフェアだ」と、「不器用の証明だったからな」とも。
 まるで記憶に無い、スカボローフェア。
 それが何かも分からない上、不器用の証明というのも謎で。
 しきりに首を捻るしかなくて、それでも少しも思い出せなくて。
 スカボローフェアとは、どういうものか。
 不器用の証明とハーレイが言うのは、いったい何のことだったのか。
 遠い記憶をいくら探っても出て来ない答え、前の自分は何をしでかしたと言うのだろう?
 そうしたら、更に深まった謎。
 「ある意味では、とても器用だったな」と付け加えられた一言で。
 スカボローフェアだ、と繰り返して。


 ハーレイが始めた昔語り。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやらかしたこと。
 今日と同じにハーレイの袖口、ただしキャプテンの制服で。
 袖口がほつれていたのを見付けて、裁縫道具を持ち出した自分。
 「脱いで」と、「ぼくが直してあげる」と。
 ところが、今の自分のサイオンのように、不器用だった前の自分の裁縫の腕。
 上手くほつれを直すどころか、不揃いな縫い目が出来てしまった。
 生地も引き攣れ、繕う前よりも酷い状態になってしまった袖口。
 結局、ハーレイが全部ほどいて縫い直した末に、しょげていた自分にこう言った。
 頑張ったのに、と主張していた前の自分に。
「本当に私のためだと思っていらっしゃったなら…」
 とんでもない縫い目を作るどころか、縫い目の無いシャツを作れそうですが、と。
 「なに、それ?」と目を見開いてしまった言葉。
 縫い目の無いシャツとは何のことかと、それはどういうものなのか、と。
 前のハーレイは穏やかな笑みを浮かべて教えてくれた。
 遠い昔の恋歌だというスカボローフェア。
 人類が地球しか知らなかった頃に、イギリスで栄えたスカボローの町。
 其処で開かれる市に行く人、それを捕まえて頼む伝言。
 スカボローに住む、今は別れてしまった恋人。
 その人にこれを伝えて欲しいと、出来そうもない無理難題を。
 かつての恋人が、それを果たしてくれたなら。
 恋人の許へ戻ってゆこうと、その人こそ真の恋人だから、と。


 「スカボローの市へ行くのですか?」と始まる恋歌、スカボローフェア。
 行くのですか、と尋ねた続きに、呪文のようにハーブの名前。
 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
 そう歌った後は無理難題。
 縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作って欲しい、と。
 前のハーレイがそう歌ったから、「これのことか」と、やっと分かった。
 縫い目の無いシャツというのはこれだ、と。
 ハーレイが歌うスカボローフェアには、まだまだ続きがあったのだけれど。
 そのシャツを涸れた井戸で洗ってくれとか、波と浜辺の間に一エーカーの土地を探せだとか。
 出来そうもないことが幾つも歌われたけれど、一つなら出来る。
 一番最初に歌われたシャツくらいならば、ハーレイが言ったシャツならば。
 だから勢い込んでハーレイに言った、スカボローフェアを歌い終えたばかりの恋人に。
 「分かった、それが作れたら正真正銘、ぼくの裁縫の腕を認めてくれるんだ?」と。
 縫い目も針仕事の跡も無いという亜麻のシャツ。
 それを作れたら本当の恋人、そういうことになるんだろう、と。
 スカボローフェアは、そう歌ったから。
 遠い遥かな昔の恋歌、パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
 縫い目も針跡も無い亜麻のシャツをと、それを恋人に作って欲しいと。
 出来上がったならば、その人こそが真の恋人。
 その人の許へ戻ってゆこうと。


 そういうことなら、作らなくてはならないだろう。
 縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを。
 それが出来ても、涸れた井戸で洗えはしないけど。
 アダムが生まれた時から花が咲いたことのないイバラ、其処に干すことは出来ないけれど。
(シャツくらいだったら…)
 作れるんだから、と前の自分は考えた。
 亜麻の布さえあったなら。
 ハーレイのために作ることが出来る、縫い目も針跡も無いシャツを。
 スカボローフェアの歌の通りのシャツを。
 本当の恋人の証のシャツ。
 縫い目も針跡も無しにそれを作れる、裁縫の腕の素晴らしさもきっと証明出来る。
 だから作ろう、と服飾部に布を貰いに行った。
 真っ白な亜麻の布を一枚、シャツを作るのに充分な量の。
 ハーレイのシャツのサイズも調べた、黒いアンダーの下に着ているシャツ。
 首の周りがこうで、幅と丈と袖はこんな具合で…、と。
 寸法に合わせて切った真っ白な亜麻の布。
 裁縫の腕はサッパリだった前の自分が、どうやったのかは覚えていない。
 多分、サイオンでイメージ通りに切ったのだろう。
 それから布をシャツに仕上げた。
 針も糸も全く使いはしないで、切り取った布を繋ぎ合わせて。
 サイオンだけを使って、それを。
 縫い目も針跡も無い真っ白なシャツを、スカボローフェアに歌われたシャツを。


 得意満面で差し出したシャツ。
 けれども、それをハーレイに着ては貰えなかった。
 伸縮性のある素材で作ったシャツの寸法、それに合わせたものだったから。
 亜麻の布はそれほど伸びはしなくて、頭から被ることさえ出来ない。
 無理に着たなら、ビリッと音がするだろうから。
(…前のぼく、失敗しちゃったから…)
 着られないシャツが出来てしまった、歌の注文には応えたけれど。
 縫い目も針跡も無い亜麻のシャツなら、自分はきちんと作ったけれど。
 それでも、抱き締めてくれたハーレイ。
 キスを贈ってくれたハーレイ。
 スカボローフェアの歌は、そういうシャツを作って欲しいと歌うだけだから。
 そのシャツを着るとは歌わないから、このシャツだけで充分なのだと。
 前の自分の失敗作。
 縫い目も針跡も無かったけれども、着られなかった亜麻のシャツ。
 それをハーレイは大切に持っていてくれた。
 宝物のようにクローゼットの奥に仕舞って、何度も何度も取り出して、撫でて。
 「地球へ降りる時に着れば良かった」とも言ったハーレイ。
 きっと最高の晴れ着だったろうと、あちこち破れてしまったとしても、と。


 そういう思い出、前の自分がハーレイに贈った、縫い目も針跡も無かったシャツ。
 スカボローフェアの歌、そのままのシャツ。
 「今度は着られるシャツで頼む」と、片目を瞑った今のハーレイ。
 「本物の恋人同士になった時には、お前が作ってくれるんだな」と。
 上等の亜麻のシャツがいい、というのがハーレイの注文。
 それを着て街まで出掛けられるような、うんとお洒落な亜麻のシャツ。
 縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを作ってくれと、俺が着るから二人並んで街を歩こうと。
 「無理なこと、分かっているくせに!」と叫んでしまった、不器用な自分。
 そんなシャツなど、今の自分には作れないから。
 ハーレイは「分かった、分かった」と笑ったけれど。
 「今のお前には期待してないさ」と、亜麻のシャツは二人お揃いで買おうと言っていたけれど。
(…やっぱり、作ってみたいんだけど…!)
 前の自分が作り上げたシャツ、縫い目も針跡も無かった奇跡の亜麻のシャツ。
 作り方さえ分からないけれど、あれをハーレイに贈りたいから、ハンカチ相手に頑張ってみる。
 スカボローフェアの歌の通りに作れないかと、またあのシャツを作れないかと。
 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
 縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを、今の自分には無理そうなシャツを…。

 

        無理そうなシャツ・了

※ブルー君、只今、ハンカチ相手に練習中。縫い目も針跡も無いシャツを作りたいから、と。
 どう頑張っても無理そうですけど、努力しているブルー君。ハーレイ先生は幸せ者ですv





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(はてさて、あいつに作れるやらなあ…?)
 多分、無理だと思うんだがな、とクッと笑ってしまったハーレイ。
 ブルーの家で過ごした日の夜、いつもの書斎で。
 コーヒーを飲みながら眺めた袖口、ブルーが縫い付けてくれた小さなボタン。
 取れてしまいそうだったのを、見付けてくれて。
 自分は毟り取ろうとしたというのに、「ちょっと待ってて」と。
 それは器用に縫い付けてくれた、小さなブルー。
 家庭科の授業で習ったのだろう、慣れた手つきで。
 不器用だった前のブルーとは、別人のような腕前で。
(…前のあいつは裁縫が駄目で、今のあいつはサイオンが駄目、か…)
 面白いもんだ、と傾けるコーヒーのカップ。
 同じブルーでこうも違うかと、見た目は同じなんだがな、と。
 チビはともかく、赤い瞳も銀色の髪も全く同じ。
 今は幼い顔立ちだって、育てば前とそっくり同じになるだろう。
 前の自分が失くしてしまった、気高く美しかった恋人。
 そっくりそのまま、戻って来たと思ったのに…。
(…今のあいつは不器用なんだ)
 ただしサイオン限定でな、とクックッと笑う。
 裁縫の腕なら今の方が上だと、前のブルーよりも遥かに凄い、と。


 比類なきサイオンを誇った恋人、ソルジャー・ブルー。
 前のブルーが、ある日、繕おうとしてくれたキャプテンの制服の袖口のほつれ。
 「そのままだと引っ掛けて酷くなるから」と、裁縫道具を持ち出して。
 ところが、ブルーは不器用だった。
 今のブルーのサイオンさながら、救いが無かった裁縫の腕。
 針に糸を通す所からして既に怪しく、糸の端っこに結び目を作るまでにも一苦労。
 やっとのことで繕ってくれた袖は、とても見られたものではなかった。
 不揃いな縫い目に、引き攣れた生地。
 これでは駄目だと、前の自分が全部ほどいて縫い直した。
 ブルーよりかはマシに縫えたし、服飾部の者に「頼む」と渡せる程度の応急措置。
 そんな具合だから、肩を落としていたブルー。
 「ぼくはホントに頑張ったのに」と。
 しょげる姿が可笑しかったから、不意に浮かんだ悪戯心。
 完璧な筈のソルジャー・ブルーにも、不得手なことがあるらしいから。
 あれだけ悪戦苦闘したって、袖口のほつれを上手く直せないようだから。
 だから口にした、こういう言葉。
「本当に私のためだと思っていらっしゃったのなら…」
 とんでもない縫い目を作るどころか、縫い目の無いシャツを作れそうですが、と。


 遠く遥かな昔の恋歌、スカボローフェア。
 今の自分も知っているけれど、前の自分も知っていた。
 何処で知ったかは忘れたけれども、気に入っていたそのメロディ。
 それに出て来る、縫い目の無いシャツ。
 縫い目も針跡も無いというシャツ、そうやって作り上げたシャツ。
 前のブルーは歌を知らなくて、「なに、それ?」と目を丸くしたから。
 スカボローフェアを教えてやった。
 歌が生まれた遠い昔のイギリスで栄えた、スカボローの町。
 其処で開かれる市に行く人、その人に頼み事をする歌。
 スカボローの町に住む、かつての恋人。
 その恋人に伝えて欲しいと、幾つも並べる無理難題。
 恋人がそれを果たしてくれたら、その人の許へ戻ってゆこうと。
 「あなたこそが私の真の恋人」と、かつて別れた人の許へと。
 縫い目も針跡も無い亜麻のシャツ。
 それが一つ目の注文だった。
 そういうシャツを作ってくれたら、私はあなたの許へ戻ろう、と。


(スカボローフェアなあ…)
 今の自分も気に入りの歌。
 気付けば口ずさんでいたりする。
 小さなブルーに出会う前から、前の自分の記憶が戻る前から。
 「スカボローの市へ行くのですか?」と、問い掛ける言葉で始まる歌。
 行くのですか、と尋ねた後には、呪文のように挟まるハーブの名前。
 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
 そう歌った後は、果たせそうもない無理難題。
 縫い目も針跡も無い亜麻のシャツなど、まだまだ可愛い方だった。
 涸れた井戸でそれを洗ってくれとか、波と浜辺の間に一エーカーの土地を見付けろだとか。
(どうにもならないヤツばかりだがな?)
 どんなに努力してみた所で、出来るわけがないことばかり。
 スカボローフェアはそういう恋歌。
 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
 四つのハーブを織り込みながら、果たせそうもない無理難題を吹っ掛ける歌。
 だから、前の自分が口にしたのも、ほんの冗談。
 「こういう歌があるのですが」と、「本当の恋人だったら出来ますよね?」と。
 前のブルーが作った不揃いな縫い目が、あまりに可笑しかったから。
 それを作ってしょげるブルーが、なんとも愛おしかったから。


 ところが、何を勘違いしたか。
 歌って聞かせたスカボローフェアを聴いたブルーは、こう言った。
「縫い目も針仕事の跡も無い亜麻のシャツ? 分かった、それが作れたら…」
 正真正銘、ぼくの裁縫の腕を認めてくれるんだ、と。
 どう考えても、前のブルーの勘違い。
 スカボローフェアは「それを作れ」と歌うけれども、恋人の愛の深さを試す恋歌。
 本当に作れとは言っていなくて、それほどに深い愛を見たいと戯れる歌。
 そう説明をしたというのに、「もう一度、歌って」と強請ったブルー。
 強請られるままに歌って聞かせたスカボローフェア。
(…そうしたら、あいつ…)
 作ったのだった、前のブルーは。
 どうやったのかは分からないけれど、縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを。
 真っ白な亜麻の布で作った、スカボローフェアの歌そのままのシャツを。
 得意満面でそれを差し出したブルー。
 「ほら、ハーレイ」と。
 「君が歌ってくれたスカボローフェアに出て来るシャツ」と。
 驚いて子細に調べてみたシャツ。
 亜麻のシャツには、縫い目は一つも見付からなかった。
 針の跡さえ、ただの一つも。
 遠く遥かな昔の恋歌、果たせない筈の無理難題を果たしたブルー。
 縫い目も針跡も、見付かりはしない亜麻のシャツ。
 誰も作れはしないままだった、スカボローフェアの歌の通りの奇跡のシャツを。


 けれど、着られなかったシャツ。
 前のブルーは、どこまでも不器用だったから。
 こと、裁縫に関しては。
 奇跡のシャツを作る参考にしていた、前の自分のシャツのためのデータ。
 それをそのまま引き写したから、シャツは失敗作だった。
 伸縮性のあるシャツの素材と、亜麻の布とは違ったから。
 被って着たならビリッと破れてしまうのがオチで、けして着られはしないシャツ。
 それでも、ブルーが愛おしくて。
 「…着られないわけ?」と慌てたブルーを、抱き締めてキスを贈ってやった。
 スカボローフェアの歌は、そういうシャツを作れと歌っているけれど。
 出来上がったシャツを自分が着るとは歌わないから。
 着られなくてもかまわないのだと、作り上げれば充分だから、と。
(…あいつ、最高の恋人だったんだ…)
 たとえ着られないシャツであっても、奇跡のシャツを作ったブルー。
 遠い昔から不可能なことを並べて歌い継がれた恋歌、その中の一つを果たしたから。
 恋人のためにそれをしようと、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを見事に作り上げたから。


(…前のあいつは、ちゃんと作ってくれたんだが…)
 何処かへ消えてしまったんだよな、と思い浮かべる奇跡のシャツ。
 前の自分は大切に仕舞っていたのだけれども、今は失われてしまったシャツ。
 誰も奇跡のシャツと気付かず、ただのシャツだと思われて処分されたのだろう。
 前の自分がいなくなった後、他の何枚ものシャツに紛れて。
(…ちょいと惜しい気もするんだがな?)
 そういう風に時の流れに消えるのだったら、着れば良かったと改めて思う。
 長い戦いの果てに辿り着いた地球、あの星へ降りてゆく時に。
 死の星だった地球だけれども、前のブルーとの約束の場所。
 其処に似合いのシャツだっただろう、前のブルーが作ってくれた奇跡のシャツは。
 あちこち破れてしまったとしても、とっておきの晴れ着になったのだろう。
(…着そびれちまった…)
 そして無くなっちまったんだが、と残念でならない奇跡のシャツ。
 前のブルーの愛の証で、大切に取っておいたシャツ。
 何度も何度も、前の自分が撫でていた。
 クローゼットの奥から取り出し、縫い目も針跡も無い真っ白なシャツを。
 ブルーが作った奇跡のシャツを。


 さて、今のブルーはどうするだろう?
 「作ってくれ」と注文したのだけれども、不器用な今のブルーの方は。
 今度は着られるシャツで頼むと、上等な亜麻のシャツがいいと。
(…作れるわけがないんだがな?)
 無理だと分かっているのだけれども、ついつい吹っ掛けた無理難題。
 いつか本物の恋人同士になった時には、前と同じに作ってくれと。
 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
 スカボローフェアの歌そのままのシャツを、縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを。
 作れなくても、ブルーは最高の恋人だけれど。
 奇跡のシャツなど作れなくても、誰よりも愛おしくて大切な人。
 だから、ふざけて無茶を言う。
 奇跡のシャツを作ってくれと、今度は着られる上等なのを、と…。

 

        奇跡のシャツ・了


※前のブルーが作ってくれた奇跡のシャツ。今のブルーには作れそうもないんですけれど…。
 ついつい「作ってくれ」と注文したくなっちゃいますよね、ハーレイ先生の悪戯心v





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(前とちっとも変わってないよね…)
 ホントに同じ、と小さなブルーが思い浮かべたハーレイの顔。
 お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドの端にチョコンと座って。
 今日も見詰めた鳶色の瞳。
 前のハーレイとそっくり同じで、何処も変わっていはしない。
 アルタミラで初めて出会った時から、ずっと変わらない優しい瞳。
 たまに怒りで色を変えても、直ぐに穏やかな瞳に戻った。
 誰もが安心するような色に。
 この鳶色の瞳さえあれば、何も心配要らないのだと。
(ハーレイ、いつでも落ち着いていて…)
 怒る時にも、ハーレイ自身のために怒りはしなかった。
 必ず何か理由があっての怒りだったし、そうすることが船の仲間のためになる怒り。
 仲間たちもそれが分かっていたから、ハーレイの怒りはよく効いた。
 感情が先に立ちやすいゼルや、小言ばかりのエラとは違うものだから。
(うんと怒って、叱り付けたら…)
 サッと切り替えていたハーレイ。
 いつもの穏やかな瞳の色に。
 温かい鳶色の瞳の色に。
 怒鳴られた者も、叱られた者も、その鳶色に癒された。
 「すみませんでした」と素直に謝り、ハーレイと同じに穏やかな顔。
 不平や不満を抱えたままではなかった、叱られた者たち。
 時には、そのままハーレイと話し込んだりもして。
 楽しげに笑って、相槌を打って。


 前のハーレイの鳶色の瞳。
 キャプテンに打ってつけだった色の瞳だと思う、あの鳶色は。
 誰が眺めても優しい鳶色、温かな印象を抱かせる色。
 その持ち主の心そのままに、心を瞳に映し出したように。
 いつも穏やかな光を湛えて、時には怒りに燃えたりもして。
(怒った時にも、あの色だったから…)
 無駄に怯えることはなかった仲間たち。
 何故ハーレイが怒っているのか、それを考える余裕があった。
 怖くてブルブル震えていたなら、考えは上手く纏まらない。
 「怒らせた」という事実だけで頭の中はパニック、混乱して回らない思考。
 そうなってしまえば、逃げ口上だけを並べ立てるか、食ってかかってゆくことになるか。
 いずれにしたって、ロクな結果を招きはしない。
 ハーレイの怒りは上手く伝わらず、叱った言葉は意味を持たずに砕けてしまう。
 叱られ、怒鳴られた者たちの中で。
 「自分は叱られている」という分かりやすい事実、それだけが先に立ってしまって。
 どうすれば其処から逃れられるか、そのことばかりに気を取られて。
 「すみません」と口では謝っていても、きっと頭では分かっていない。
 どうして自分が詫びているのか、自分の何が悪かったのかは。
(…そういう風になっちゃうもんね?)
 相手を怖いと思っていれば。
 怖い人だと恐れていたなら、それしか考えられなくなるから。
 早く其処から逃れたくて。
 一刻も早く逃げ出したいから、自分が逃げる方法ばかりを。


 そうはならなかった、前のハーレイの鳶色の瞳。
 どんなに厳しく睨み付けても、瞳の色が冷たくなっても、鳶色だから。
 温かい印象を与える鳶色、怒りに燃えても、相手を委縮させたりはしない。
 ハーレイ自身に、そういう意図があったとしたなら別だけれども。
(視線だけで睨み殺してやる、ってことになったら、怖いよね…?)
 きっと、とブルッと震わせた肩。
 今のハーレイなら出来るのだろう、と。
 キャプテンではない、今のハーレイ。
 ただの古典の教師のハーレイ、生徒を叱る時には叱る。
 「こらあっ!」と怒鳴って、教科書ではない本などを没収していることも。
 そうは言っても、授業中に見せるハーレイの怒りは昔と同じ。
 明らかに生徒の方が悪くて、シャングリラで叱られていた仲間たちと同じ。
 鳶色の瞳は恐ろしい色を湛えはしなくて、生徒は怯え上がりはしない。
 「すみませんでした」と謝るとは限らないけれど。
 シャングリラの頃と今とは違って、謝らなくても困るのは叱られた生徒だけだから。
 他の生徒に迷惑はかからず、一人だけの問題なのだから。
 ウッカリ素直に謝り損ねて、後で困っている子も多い。
 「あの本、返して貰えるかな?」だとか、「今度の成績、大丈夫かな…」だとか。
 命が懸かったシャングリラとは違う、教室ならではの愉快な結末。
 鳶色の瞳は今も変わらず、「分かっているか?」と尋ねているのだろうに。
 何故叱られたか分かっているかと、分かっているなら謝るんだぞ、と。
(ハーレイ、今でもキャプテンの頃とおんなじなのに…)
 教室だからこそ、叱られた生徒が迎えてしまう悲惨な結末。
 鳶色の瞳が優しい色を帯びているから、ついつい、ウッカリ。
 「先生は本気で怒らないだろう」と高を括って、大切な本を没収されたりしてしまうオチ。


 今のハーレイはそうだけれども、教室ではそんな具合だけれど。
 他へ行ったら、前とは違った恐ろしい目も出来るのだろう。
 鳶色の瞳は変わらないのに、見た者が心底、怯え上がるような。
 とてもハーレイに勝てはしないと、下手をしたなら殺されるかも、と後ずさるような。
(…水泳は、そうでもないだろうけど…)
 幾つも並んだコースを泳いで勝負するのだし、対戦相手と向き合いはしない。
 向き合う相手は自分自身で、自分の限界との戦い。
 鳶色の瞳が睨む先には、きっとハーレイ自身の心。
 力の限りを尽くして泳げと、それが出来ないようでは駄目だと。
 けれど、もう一つ、ハーレイが得意な柔道の方。
 そちらは試合の相手がいる。
 戦う相手は別の誰かで、油断したなら負けるだけ。
(…きっと、最初が肝心だよね?)
 負けはしないぞ、と対戦相手にぶつける視線。
 試合のためにと向かい合った時には、勝負はついているかもしれない。
 相手の視線で怯んでしまえば、実力を出せはしないから。
 鋭い視線に飲まれたら最後、自分のペースに持ち込めないから。
(ハーレイの凄く怖い目が見られそう…)
 対戦相手になったなら。
 柔道で勝負を挑みに行ったら、前の自分が知らない瞳に出会うのだろう。
 同じ鳶色でも、穏やかさの欠片も無い瞳。
 睨まれただけでも射殺されそうな、それは恐ろしい色の瞳に。


(なんだか不思議…)
 おんなじ鳶色なんだけどな、と今のハーレイの瞳を思う。
 前のハーレイと変わらないのに、違った色も見られるらしい。
 キャプテンだった頃に見せていたなら、仲間たちが震え上がっていただろう色。
 それで相手を睨むのだから、今の時代は面白い。
(今はハーレイと、ぼくが逆様…?)
 立場が逆になっちゃったかも、とクスクス零れてしまった笑い。
 今の自分はチビの子供で、とてもソルジャーにはなれないけれど。
 戦士はとても無理だけれども、今のハーレイは柔道だったら戦士になれる。
 前のハーレイだった頃には見せなかったような、恐ろしい色の瞳の戦士。
 同じ鳶色の瞳のままでも、相手が戦意を失うほどの。
(…そういう目をしたハーレイだったら…)
 格納庫でキースといい勝負かも、と可笑しくなった。
 メギドはともかく、シャングリラから逃げようとしていたキース相手なら。
 「何処へ行くんだ?」と呼び止めただけで、もう充分な抑止力。
 他の仲間が駆け付けるまで、続いたかもしれない睨み合い。
 アイスブルーの瞳のキースと、鳶色の瞳のハーレイと。
 どちらも譲らず、火花がバチバチと飛び散りそうな。
 あのキースでさえ、「ただ者ではない」と考えそうなキャプテン・ハーレイ。
 残念ながら、前のハーレイだった頃には、無理な瞳の色なのだけれど。
 今のハーレイも、柔道の試合に臨んだ時しか、怖い瞳はしないのだけれど。


 なんとも不思議な鳶色の瞳。
 前のハーレイと今のハーレイ、姿はもちろん、瞳もそっくり同じまま。
 少しも変わっていないというのに、違う色にもなるらしい瞳。
 相手を射殺せそうな瞳が出来るハーレイ、すっかり平和な今の時代に。
 何処にも敵は隠れていなくて、命の心配も要らない時代。
 青く蘇った地球に来たのに、ハーレイは怖い瞳が出来る。
 鳶色の瞳は変わらないのに、前の自分が出会ったキースに負けないような。
 誰が見たって冷たい印象、アイスブルーの瞳をしていたメンバーズにも負けないような。
(ハーレイは変わっていないんだけどね?)
 姿も中身も、いつも穏やかだった瞳も。
 そっくりそのまま今のハーレイになっているのに、場面によって切り替わる。
 負けるわけにはいかない柔道の試合、それに挑むだろう時は。
 キャプテン・ハーレイは決して見せなかった瞳、睨むだけで相手が怯える瞳。
(それだけ平和になったってこと…)
 鳶色の瞳が怖い光を帯びていたって、何も不都合はない時代。
 ハーレイが試合に勝つというだけ、輝かしい戦果を挙げるだけ。
(怖い目をしたハーレイ、見たいな…)
 それには大きく育たないと、と夢を見る。
 柔道の試合を見に行きたければ、前の自分と同じ背丈が必要だから。
 きっといつかは、怖い瞳のハーレイの試合を応援しよう。
 前の自分が知らない瞳。
 睨んだだけでも相手が竦んで動けなくなる、鳶色の瞳をしたハーレイを…。

 

       ハーレイの瞳・了


※ブルー君が思うに、ハーレイ先生の瞳はキャプテン・ハーレイの瞳と同じ。
 けれど、柔道の試合の時には違うようです。ブルー君でなくても、見たいですよねv



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