(今度もあいつは駄目なんだろうなあ…)
美味いんだが、とハーレイが傾けたグラス。
夜の書斎で、たまには一杯。気に入りの酒のボトルから。
こうして飲む日は、前のブルーの写真集を出しては来ない。
引き出しの中で、ゆっくり眠っていて貰う。
自分の日記を被せてやって、その下で。
『追憶』という名のソルジャー・ブルーの写真集。
表紙のブルーは、記憶そのままに美しいけれど。
真正面を向いた意志の強い瞳、その奥に秘めた憂いと悲しみ、かの人の真の姿だけれど。
眺めれば、やはり辛くなるから。
あの日、どうして止めなかったかと、悔やむ気持ちに囚われるから。
(…あいつと飲むと、悲しい酒になっちまうんだ…)
分かっているから、出しては来ない。
酒を楽しみたい時は。
寛いだ気分で飲みたい日には。
代わりに小さなブルーを眺める、フォトフレームの中の記念写真。
夏休みの最後に写した、今のブルーと二人の写真。
自分の左腕、ギュッと両腕で抱き付いたブルー。
それは嬉しそうな笑顔をしている、生まれ変わって来たブルー。
十四歳にしかならない子供だけれども、一人前の恋人気取り。
何かと言えばキスを強請るから、「駄目だ」と叱ってばかりのチビ。
今夜は、チビのブルーと一緒。
本物のブルーは、眠っているかもしれないけれど。
(起きていたって、酒は無理だしな?)
子供には飲ませられない酒。
教師の自分が勧めるなどは論外だから、飲ませようとも思わない。
それに、ブルーは…。
(…前のあいつと同じだったら、酒は間違いなく駄目なんだ)
飲んだら確実に二日酔いだ、と前のブルーを思い出す。
そういう思い出は、悲しくなりはしないから。
幸せだった日々を思い返して、懐かしむ酒になるのだから。
(あいつときたら、まるっきり駄目で…)
飲めなかった、と思い浮かべたソルジャー・ブルー。
誰よりも愛した、気高く美しかった人。
皆の前では我儘などは決して言わない人だったけれど。
恋人だった前の自分には、無茶も我儘もぶつけたりした。
それが余計に愛おしくなって、愛しさが増して。
(俺にだけ見せてくれるんだ、って…)
我儘なブルーが好きだった。
無茶を言われても、駄々をこねるように我儘ばかりを繰り返されても。
その我儘の一つが酒。
まるで飲めないと分かっているのに、いったい何度強請られたことか。
「ぼくも飲むよ」と、「君ばかり美味しそうに飲むんだから」と。
けれど、酒には弱かったブルー。
酒の美味さも分かっていなくて、飲めば必ず不満そうな顔。
「何処が美味しいのか分からないよ」と、文句まで。
せっかくの酒がもったいないから、無駄にしたくはなかったのに。
いくら合成の酒といえども、喜ぶ人と飲みたかったのに。
(ヒルマンとかゼルなら、美味い酒で、だ…)
話も弾んだ、時には何かをつまみながら。
つまみが無くても、酒さえあれば。
ところが、前のブルーの場合。
注いでやった酒には「美味しくない」と文句をつけるし、喜びもしない。
美味しくないなら、残りは寄越してくれてもいいのに…。
(意地になって全部飲んじまうんだ)
如何にも不味そうといった感じで、ちびちびと。
苦い薬でも飲むかのように。
(酒は百薬の長なんだがな?)
前のブルーにそう言ったならば、「その通りだね」と返しただろう。
これだけ不味い薬だったら、さぞかし身体にいいのだろうと。
「でも、この薬は人を選ぶね」とも。
なにしろ酒に弱いのだから、ブルーの場合は薬になりはしなかった。
さながら毒薬、待っているものは二日酔い。
酷い頭痛や、胸やけやら。
飲んだ翌朝は寝込むのが常で、ベッドの中から文句を述べた。
「酷い気分で起きられやしない」と、「頭もずいぶん痛むんだけど」と。
一度で懲りて二度と飲まなくなったのだったら、まだ分かる。
きっと本当に不味いのだろうと、ブルーには向かない飲み物らしい、と。
(なのに、あいつは懲りるどころか…)
何度も強請って酒を飲んでは、酷い目に遭ったとブツブツ文句。
ブルーは頑固だったから。
強固な意志は結構だけれど、前の自分と二人きりの時は…。
(そいつが我儘な方へ向くんだ)
前の自分にだけ見せてくれた姿。
仲間たちには見せない姿。
そのせいもあって、ついつい注いでしまった酒。
強請られるままに、「無駄にされる」と分かっていても。
飲んでいる時から不味そうな顔で、次の朝には苦情が来ると分かっていても。
ブルーに「ぼくにも」と強請られた時は。
「一緒に飲むよ」とせがまれた夜は。
何度となく無駄にされた酒。
前のブルーが文句ばかりを言っていた酒。
それが鮮やかに思い出せるから、今のブルーにも期待はしない。
前のブルーとそっくり同じに育つ予定のチビだから。
(今度は頑張る、と言ってるんだが…)
どうなることやら、と眺める写真。
とびきりの笑顔の小さなブルー。
(ハーレイをパパに盗られちゃう、っていうのがなあ…)
その発想からして子供なんだ、とクックッと笑う。
もしもブルーが飲めなかったら、酒を飲むならブルーの父と。
きっとそうなることだろう。
いつかブルーと結婚したなら、新たに増える自分の家族。
ブルーの父と、それから母と。
その人たちとの食事ともなれば、酒が出ることもあるだろうから。
今のブルーが飲めないのならば、ブルーの父と酌み交わす酒。
小さなブルーは、それが腹立たしいらしい。
「ハーレイをパパに盗られる」と。
そうならないよう、頑張ると言っていたブルー。
「今度は飲めるようになるよ」と、「ハーレイとお酒を飲むんだから」と。
「前のぼくとは体質も変わっているかもね」と、小さなブルーは夢見るけれど。
恐らく前と同じだろう。
「美味しくないよ」と不味そうに飲んで、翌日は二日酔いだろう。
だから今度も、きっと文句を言われながらの酒なんだ、と眺めた写真。
十四歳の小さなブルー。
いつか大きく育ったとしても、お前は酒は駄目だろうな、と。
(美味いんだがなあ…)
それに今では本物の酒。
シャングリラで暮らした頃とは違って、正真正銘、本物の酒。
合成どころか、地球の水で仕込んだ素晴らしいもの。
前の自分が耳にしたならば、「一度は飲みたい」と考えたのに違いない。
一番安いものでいいから、ほんの一口、と。
(もう最高の美酒ってヤツで…)
きっと一口で美味しく酔えたことだろう。
アルコール分とは関係無く。
「地球の酒だ」と、その有難さを思っただけで心地良く。
そういう酒が今は山ほど、あちこちの場所で仕込まれる名酒。
味も種類も選び放題、それこそ料理や気分に合わせて。
「今日はこれだ」と気まぐれに。
出掛けた店でも、好き放題に。
酒好きだった前の自分からすれば、今はさながら天国のよう。
本物の酒で、地球の酒。
それを何処でも気軽に飲めて、自分の家でも傾けられる。
(ゼルやヒルマンを呼んでやれたら…)
大喜びするに違いない。
遠い昔の飲み友達。
彼らと夜の巷に繰り出し、あちこちハシゴするのもいい。
「次はあっちだ」と店を移って、大いに飲んで、大いに食べて。
つまみも全て地球のものだし、最高の酒を楽しめるのに…。
(…あいつらはいなくて、酒が駄目なブルー…)
もったいない、と零れた溜息。
また俺は酒を無駄にするのかと、素晴らしい地球の酒なのにと。
ブルーにとっては猫に小判で、「不味い」と言われるだけなのかと。
(…苦手を克服、と挑まれてもなあ…)
その酒はきっと無駄になるんだ、と酒の神様に詫びたい気持ち。
青く蘇った地球で、数々の酒が造られるのに。
神様が醸して下さった美酒を、ブルーが無駄にするらしい、と。
(きっと今度も駄目だろうしなあ…)
まず飲めないな、と思った酒。
小さなブルーが育ったとしても、前のブルーと同じだろうと。
地球の水で仕込んだ最高の美酒も、「不味い」と嫌われてしまうのだろうと。
なんとも寂しい話だけれども、そんなブルーも愛おしい。
「美味しくないよ」と顔を顰めても、無理をして飲んで二日酔いでも。
けれど、少しだけ夢を見る。
もしもブルーが今度は酒を飲めたなら、と。
(家で飲むのも悪くないんだが…)
ゼルやヒルマンと出掛けたいように、ブルーと飲みに行けたなら。
「次はあっちだ」と店をハシゴし、大いに酒を酌み交わせたら。
きっと愉快で、楽しい夜になるのだろう。
恋人同士なことも忘れて、遠い昔に友達同士だった頃に戻って。
バンバンと肩を叩き合っては、「次に行こうか」と飲み歩いて。
ほんの少しだけ、夢を見る。
「そんなブルーもいいだろうな」と、「どう考えても無理なんだがな」と…。
飲めないあいつ・了
※お酒が駄目だったソルジャー・ブルー。今のブルー君もきっと駄目なのでしょう。
でも、飲むことが出来たなら…、とハーレイ先生が思うのも無理はありませんよねv
「ねえ、ハーレイ。お話には作者がいるんだよね?」
どんなお話でも、と小さなブルーが投げた質問。小鳥のように首を傾げて。
「そりゃまあ、なあ? …書くヤツがいなけりゃ、話は出来んし」
もっとも、長い年月が流れる間に、誰が書いたか分からなくなる話も多いが…。
かぐや姫の話みたいにな。
日本で最初の物語なのに、作者が不明なんだから。
「そうなんだ…。じゃあ、ぼくたちを書いてる人は?」
どんな人なの、ハーレイだったら分かるかなあ、って…。
一応、日本の人みたいだから。
「おいおいおい…。これは古典になれそうか?」
そもそも、物語ですらないぞ。二次創作っていうヤツだ。
ちゃんとした古典で名を残すんなら、オリジナルの方に行かんとな。
「ふうん…? やっぱり、ハーレイ、知ってるわけ?」
ぼくには全然分からないけど、これを書いてるのが誰なのか。
なんとなく、お話にされてるみたいな気がするだけ。
…何処かで誰かが書いてるよ、って。
「俺も似たようなモンなんだがな…。其処は職業柄ってトコか」
どうにも気になる、と思いながら寝たら、夢を見た。
俺たちのことをせっせと書いてる、誰かの後姿ってヤツを。
「後姿…?」
「うむ。生憎と顔は見えなかったな」
こっちを向いてはくれなかったもんで、どんな顔だかサッパリだ。
ああ、こいつだな、と思っただけで。
なんとも愉快な夢だったが、とハーレイは可笑しそうだから。
二次創作だの、オリジナルだのと、妙な言葉も鏤めるから。
「夢のお話、いったい何が楽しかったの?」
後姿で、顔も分からなかったんでしょ?
面白い人かどうかも、それだと分からないんじゃない…?
「それがだ、なんとも不思議なことに…。ナレーションつきの夢だったわけで」
どうして俺たちを書いているのか、その説明がついて来た。
聞いた途端に俺は吹き出したぞ、「トマトだった」と言うんだから。
「トマト?」
ちょっと待ってよ、トマトって…。
野菜のトマトで、真っ赤なトマト?
トマトジュースのトマトのことなの、そのトマトなの?
「耳を疑ったが、野菜のトマトだ。もう吹き出すしかないだろうが」
お前にとっては、少し気の毒ではあるんだが…。
俺が笑えるのも、お前が帰って来てくれたお蔭というヤツだが。
「えーっと…?」
どうして、ぼくが気の毒なの?
トマト、嫌いじゃないけれど…?
好き嫌いはちっとも無いんだから。前のぼくと同じで。
ハーレイもそうでしょ、食べ物でとっても苦労したから。
トマトの何処が気の毒なの、とキョトンとしている小さなブルー。
そういえば…、とハーレイも直ぐに気が付いた。
「そうか、お前はナスカじゃ眠っていたからなあ…」
あそこのトマト自体を知らんか、そりゃあ見事に実ってた。
それでだ、前のお前が死んじまった後に、ゼルがだな…。
涙を流しながらトマトを齧って、こう言ったんだ。
「こんなに美味かったんじゃなあ…。ハロルド」と、ナスカで死んだ仲間にな。
「ハロルド…。ツェーレンのお父さんだっけ?」
ぼくもハロルドは知ってたけれども、眠っちゃってたから…。
死んじゃったハロルドは可哀相だけど、ぼくとは直接、関係無いよ?
「そこが問題だったんだ。前の俺たちは、前のお前を失くしちまったのに…」
偉大なソルジャー・ブルーを失くした、そういう場面だったんだ。
なのに「ハロルド」と言ったのがゼルで、俺が夢で見た人間はだな…。
「ちょっと待て、テメエ!」と叫んだらしいな、その瞬間に。
なんでトマトでハロルドなんだと、其処はソルジャー・ブルーを悼む所だろうと。
前の俺たちの人生ってヤツは、アニメになってたらしいんだ。
しかも土曜の夕方六時からという、とても有名な枠ってヤツで。
だからだ、俺たちを書いてる人間は、そいつで全部見ていたんだな。
前のお前が死んじまったのも、ゼルがトマトを齧ったのも。
「うーん…。ぼくはトマトでも気にしないけど?」
それにハロルドでも、いいと思うけど…。命の重さは誰でも同じ。
「お前なら、そう言うんだろうが…」
俺たちを書いてるヤツにしてみれば、そうじゃなかった。
よくもソルジャー・ブルーをコケにしたなと、トマトのくせに、とブチ切れたんだ。
それ以来、トマトの恨みを抱き締めて生きていたらしい、とハーレイはクックッと笑う。
どうしても許せないのがトマトで、誰かなんとかしてくれないかと思った人間。
せっせと探し回るのだけれど、誰もトマトを書いてはいなくて、怒り続けて。
大きなトマトは腹が立つからと、大好物だったスタッフドトマトにもムカつく有様。
けれど時間は流れてゆくから、前の自分たちのアニメは忘れられていって。
二次創作をする人たちも消え去っていって、それっきり。
トマトの恨みは晴らせないまま、スタッフドトマトにムカつく夏が幾つも過ぎて…。
「とうとう自分で書いちまったそうだ、トマトの恨みを晴らす話を」
しかし、未だに世に出せんとかで、ストックで抱えているらしい。
それよりも後に書いちまった話は、フライングで出したらしいんだが…。
よりにもよって、俺がキャプテンになると決めた話をポンと気前よく。
「…なんでトマトを出さなかったわけ?」
「さあなあ、何か考えがあったのかどうかは知らないが…」
とにかくトマトだ、それが原動力だったらしい。
今じゃすっかり恨みを忘れて、ノホホンと書いてるらしいんだが…。
「読んだ人がムカっと来ない話を」と、「幸せになってくれればいいな」と。
自分がトマトで苦しんだもんで、そういうポリシーらしいんだな、うん。
要はトマトだ、と聞かされたブルーは驚いたけれど、所詮は夢のお話だから。
ハーレイが夢で聞いた話で、本当かどうかは分からないから…。
「あのね…。ぼくたちのお話、ホントに誰かが書いてると思う?」
夢に出て来たトマトの人って、本当に何処かにいるのかな…?
「俺にも分からん。古典の作者が分からないのと同じでな」
しかしだ、もしも誰かが書いているなら、トマトの人なら愉快じゃないか。
前のお前には少し気の毒だが、トマトが原動力だなんてな。
「そうだね、トマトで書きまくるんだものね…」
よっぽどスタッフドトマトが好きな人だったんだね、美味しく食べたくて頑張ったんだね。
好きだった食べ物で腹が立つなんて、凄く悲しいだろうしね…。
「そいつは分かるな、俺も酒でそういう目に遭ったなら…」
泣けてくるしな、原動力にもなるだろう。
下手の横好きでも、この際、書いて書きまくろうと。
今はスタッフドトマトを美味しく食べているそうだからな、俺が夢で見た人間はな。
「そっか、良かった…」
全部ハーレイの夢のお話でも、ちゃんとハッピーエンドだね。
大好物だったスタッフドトマトを、美味しく食べられるようになったんなら…。
ホントに良かった、と小さなブルーは嬉しそうだから。
妙な夢でも見た甲斐はあった、とハーレイも顔を綻ばせる。
何処かにいるかもしれない作者。
自分たちの恋物語をせっせと書いている人間。
そういう人間が本当にいるなら、トマトを美味しく食べてくれと。
スタッフドトマトを食べまくってくれと、ムカついていた時の分まで取り返せよ、と…。
始まりはトマト・了
※何故だか来てしまったお笑いなネタ。書くしかなかろう、と書いちゃいました。
これは本当にあったお話です、始まりはトマトだったんです~!
(うーん…)
凄く有名な本なんだけど、と小さなブルーがついた溜息。
とんでもないことになっちゃったよね、と。
今のハーレイが教える古典も、凄いものではあるけれど。
(SD体制の時代なんかより、ずっと昔で…)
人間が地球しか知らなかった時代に書かれた読み物。
宇宙船など飛んでいなくて、水に浮かぶ船しか無かった時代。
それでも人は文字を綴って、物語や歌を作ったから。
今も読まれる、遠い昔の物語。
それを教えているのがハーレイ、今は普通の古典の教師。
キャプテン・ハーレイにそっくりなだけの、多分、ごくごく平凡な。
特別だとしたら、柔道と水泳の達人なこと。
プロになれると言われた腕前、それは全く落ちてはいない。
(…でも、それ以外はホントに普通…)
柔道や水泳が好きな人なら、ハーレイの名前でピンと来るかもしれないけれど。
古典の教師としての道では、本当に普通なのだろう。
研究者ではないし、個人的にも何もやってはいないから。
論文を書くとか、発表するとか、そういったこと。
ハーレイは何もしてはいなくて、古典の教師をしているだけ。
遠い昔の物語などを挙げていっては、「有名なんだぞ」とクラスを見回して。
授業で習った、源氏物語や枕草子。
他にも色々、日本の古典。
今の自分が住んでいる地域に暮らす人なら、誰でも名前を知っているもの。
(そっちは当たり前なんだけど…)
時の流れを越えて残っても、きっと当然だと思う。
それが生まれた時代からずっと、多くの人に読まれて来たから。
何度も何度も書き写されては、後の時代に残されたから。
(…印刷が無かった時代だもんね?)
自分の手元に置きたかったら、書き写すしかなかった時代。
一番最初に書かれたものを、そっくりそのまま。
自分で写すか、プロに頼むか。
どちらかの道を選ばなければ、本など持てはしなかった。
そんな時代に大勢の人が「素晴らしい」と思ったからこそ、名作は時を越えられた。
沢山の人が称賛し続け、書き写して残し続けたから。
(消えちゃった本も、きっと沢山…)
書かれたとしても、誰も欲しいと思わなかったら、それっきり。
最初に書かれた物が古びて駄目になったら、消えておしまい。
幾つもの本がそうやって消えて、いい物だけが今に残った。
生まれた時から、既に名作だったから。
大勢の人が「欲しい」と願って、書き写して残したのだから。
(そういう本なら、分かるんだけど…)
今の時代に残っているのも、有名な本になっているのも。
少しも不思議に思わないけれど、なんとも謎な代物が一つ。
古典の授業には出て来ないけれど。
名前が出るのは歴史の授業で、必ず名前を教わる本。
(…扱いだけだと、古典とおんなじ…)
授業で聞く時は、そうだから。
「源氏物語や枕草子はこの時代です」と、教えられるのと変わらない。
それがハーレイの航宙日誌。
キャプテン・ハーレイが書き続けていた航宙日誌で、超一級の歴史資料。
初代のミュウの歴史を知るには、他に資料が無いのだから。
おまけに手書きで残されたもので、研究者たちの垂涎の的。
一流と呼ばれる学者でなければ、本物を見られはしないから。
(見る時は、きっと…)
白い特別な手袋をはめて、マスクだって要ることだろう。
長い長い時を越えて来たそれを、損なうことがないように。
次の時代の研究者たちも、同じように繰って読めるように、と。
初代のミュウたちの日々を記した、唯一の本。
長く後世に残すためには、傷をつけてはならないから。
そうっと、慎重に繰られるページ。
研究者だけが立ち入れる書庫の奥の一室、其処でそうっと、一ページずつ。
いつの間にやら、そういうことになっていた。
前のハーレイが書いた航宙日誌。
「俺の日記だ」と隠し続けて、一度も読ませてくれなかった日誌。
覗こうとする度、大きな身体の陰に隠して。
(前のぼく、一度も読んでないのに…!)
ホントに読めなくなっちゃったんだけど、と零れる溜息。
前の自分は仕方ないけれど、今の自分は別だと思う。
生まれ変わって別の人間、中身は前と同じだとしても。
それにハーレイも別の人間、隠す権利はもう無いだろう。
キャプテン・ハーレイの航宙日誌は、前のハーレイが書いていたもの。
「俺の日記だ」は通らないと思う、今のハーレイとは違うのだから。
(今のハーレイの日記だったら、駄目だろうけど…)
そうじゃないのに、と残念でたまらない航宙日誌。
今なら自分も読めるだろうに、あまりにも変わりすぎた状況。
超一級の歴史資料になってしまった航宙日誌。
読んでみたいなら、研究者になる他はない。
キャプテン・ハーレイの航宙日誌を、子細に読み込む研究者たち。
一流とされる学者だけしか、本物の日誌は扱えない。
手袋をはめて、マスクも着けて。
保管庫の奥の特別な書庫で、多分、許可証なんかも見せて。
こんなことなら、コッソリ読めば良かっただろうか?
前の自分が生きていた頃に、キャプテンの部屋に忍び込んで。
(…前のぼくなら、簡単だしね?)
ハーレイが部屋に鍵をかけても、前の自分には意味のない鍵。
瞬間移動でスッと入って、きっと好きなだけ読めただろう。
「今日はこの辺り」と引っ張り出しては、前のハーレイの日記とやらを。
いったい何が書いてあるのかと、読む度に興味津々で。
時には怒っていたかもしれない、「この書き方は酷いと思う!」と。
(…前のぼくのこと、なんにも書いていないって…)
ハーレイはそう言ったから。
前のハーレイは何も言わなかったけれど、今のハーレイからそう聞いた。
「俺の日記だ」と隠し続けた航宙日誌。
其処に全く書かれてはいない、前の自分との恋の思い出。
ほんの小さな欠片でさえも。
だから今でも、誰も気付いていない恋。
キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーの恋は、今も変わらず隠されたまま。
何も書かれていなかったから。
どんなに細かく読み込んでみても、書かれていないことは読み取れないから。
前の自分が知っていたなら、きっと怒ったことだろう。
「ぼくのことは?」と。
前のハーレイに詰め寄っただろう、「ぼくはどうでもいいのかい?」と。
船のことやら、仲間たちのこと。
そういったことは書いてあるのに、書かれてはいない恋のこと。
甘い言葉の欠片さえも無くて、想いの欠片も無いのだから。
(…ハーレイ、酷い…)
あんなに何度も隠していたから、きっと素敵な中身だろうと思ったのに。
前の自分に読まれたならば、恥ずかしくなるようなハーレイの想い。
それが書かれているのだろうと。
大真面目に日誌を書いているふりで、恋の欠片も鏤めるのだと。
(…そう思ったから、読まなかったのに…)
前のハーレイの心の中まで、覗き見るのは悪いから。
決して心を読まないのならば、ハーレイが綴る日記も同じ。
「お読み下さい」と差し出されるまでは、開くべきではないだろう。
時が来たなら、ハーレイはきっと「どうぞ」と渡してくれるから。
それを読んでもかまわないなら。
読んでいい日が訪れたなら。
(…きっと素敵な中身なんだ、って…)
夢見ていたのに、外れた予想。
前のハーレイが書いていたものは、恋の欠片も無い日誌。
こんなことなら読めば良かった、そして怒ってやれば良かった。
「ぼくのことは何処に書いてあるわけ?」と、「これは日記じゃないようだけど」と。
今頃になって、触れもしないオチならば。
超一級の歴史資料になってしまって、手も足も出なくなるのなら。
(…書いたハーレイだって、読めないんだけど…)
ただの古典の教師では無理。
今の自分と全く同じで、読もうとしても門前払い。
けれど、ハーレイは奥の手を持っているらしい。
研究者よりも凄い才能、書き手だったからこそ使える才能。
(…元の字を見たら、読めるって…)
データベースで無料で見られる、航宙日誌の文字をそのまま写したもの。
其処に書かれた文字を見たなら、ハーレイには全て分かるという。
どんな思いでそれを書いたか、その日には何があったのか。
文字がハーレイに伝えるらしい、秘密の中身。
ハーレイだけが読み取れる日記。
それもぼくには読めやしない、とガッカリするのが航宙日誌。
超一級の歴史資料で、本物にはとても触れられなくて。
前のハーレイが文字の向こうに閉じ込めた想い、それも自分には読み取れなくて。
(…やっぱり、読んでおけば良かった…?)
読み放題だった、前の自分の頃に。
航宙日誌が超一級の歴史資料に出世する前に、コッソリと。
そして怒れば良かっただろうか、「ぼくのことは?」と。
「何処にも書いていないじゃないか」と、「恋人なのに!」と。
なまじ出世を遂げたばかりに、なんとも悔しい航宙日誌。
読めば良かったと、今のぼくには読めないのに、と。
(名作だったら許すんだけど…!)
そうではないと分かっているから、「なんで?」と零れてしまう溜息。
どうして日誌が出世するの、と。
お蔭でぼくは読めやしないと、出世しちゃうなんて酷すぎるよ、と…。
出世してる日誌・了
※名作だったら許すんだけど、とブルー君が怒る航宙日誌の出世ぶり。
ハーレイ先生、いつか解説させられそうですねえ、復刻版を買わされちゃって…v
(…とてつもなく出世しやがって…)
こんな筈ではなかったんだが、とハーレイが見詰める自分の日誌。
今のではなくて、前の自分の。
キャプテン・ハーレイだった頃に記した航宙日誌。
夜の書斎で、懐かしい文字を。
手で触れることは出来ないけれど。
本物は此処にあるわけがなくて、今の自分が手に取ることさえ…。
(出来なくなったと来たもんだ)
俺とは違って偉いんだから、と苦笑しながらコーヒーを一口。
愛用の大きなマグカップ。
それにたっぷり、熱いコーヒー。
今の自分はただの教師で、キャプテン・ハーレイに似ているというだけ。
「生まれ変わりか?」と尋ねられるほど、瓜二つというだけの一般人。
こうして飲んでいるコーヒーの銘柄、それさえ誰も気に留めない。
これがキャプテン・ハーレイだったら…。
(まず間違いなく質問攻めだな)
いつもコーヒーを飲んでいるのか、コーヒーと紅茶、どちらが好きか。
気に入りのコーヒーの銘柄は…、と色々と訊かれることだろう。
そして答えはアッと言う間に、宇宙に広がり…。
(誰かが余計な記事を書くんだ)
俺についてか、シャングリラだか…、と傾けるコーヒー。
今の俺なら本当に誰も気にしないんだが、と。
ただの古典の教師の自分。
たったそれだけ、古典の分野で名を上げたというわけでもない。
ついでに日本の古典が専門、SD体制の時代なんかは全く縁が無い世界。
(どう転がっても、こいつには会えん)
確かに俺が書いたんだが、と追ってゆく文字は本物そっくり。
けれどデータで、指で触れても画面に指がつくというだけ。
(超一級の歴史資料じゃなあ…)
自分が全く知らない所で、そういうことになっていた。
前の自分が地球の地の底で命尽きた後、一人歩きした航宇日誌。
まさか出世を遂げるなどとは、夢にも思いはしなかった。
これを記していた頃には。
(…後のヤツらの参考になれば、と書いてたんだが…)
毎日、律儀に。
その日に起こった出来事を書いて、残しておいた自分の記録。
シャングリラのことや、ソルジャーのことや。
(…俺の日記ではあったんだ、うん)
簡潔に書いておいたけれども、読んだら思い出せるようにと。
気まぐれにパラリと開いた箇所から、「こうだったな」と蘇る思い出。
そうなればいいと思っていた。
いつか懐かしくそれを読めたらと、のんびりページを繰れたならば、と。
青い地球に辿り着いたなら。
ブルーと二人で、長かった旅を思い返せる時が来たなら。
けれど、訪れなかったその日。
ブルーは地球まで辿り着けなくて、暗い宇宙に散ってしまった。
メギドを沈めて、たった一人で。
前の自分も一人残され、魂は死んで生ける屍。
地球へ行かねばと、辿り着ければ自分の役目も終わるのだからと、それだけの日々。
航宙日誌は綴り続けたけれども、もう読み返しはしなかった。
読んだ所で意味は無いから。
愛おしい人は何処にもいなくて、ただ辛くなるだけだから。
「これを書いた頃はブルーがいた」と。
こんな風に二人で語り合ったと、ブルーは幸せそうだったと。
(…俺と一緒にいた時のあいつは…)
泣いていたこともあったけれども、いつも最後は笑顔だったから。
「君がいてくれるから、もう大丈夫」と、前のブルーは微笑んだから。
恋人同士ではなかった頃から。
仲の良い友達だった頃から。
ブルーとの日々が、思い出が詰まった日誌。
それを読み返せる筈もなかった。
ブルーを失くしてしまった後には、ただの一度も。
(…シャングリラのことなら、他にデータが残っていたしな?)
わざわざ日誌を開かなくとも、データベースを調べればいい。
あの時にはどう対処したかと、どう判断を下したのかと。
(それが効率的ってもんだ)
船を進めるだけならば。
シャングリラを地球まで運ぶだけなら。
(…あの船で生きてゆこうと言うなら…)
日誌にも意味はあるのだけれど。
船で起こった日々の出来事、それが書かれていたのだから。
例えば船に来たばかりのジョミー、彼がキムたちと喧嘩したこと。
赤いナスカに着いた後なら、初めての収穫があったこととか。
そういったことは、生きてゆくのに欠かせないこと。
喧嘩で荒れた心の波やら、収穫の時の喜びやら。
生きているからこその感情、シャングリラで暮らした仲間たちの記録。
後の時代にそれを開いて、「今も昔も変わらないな」と誰かが思ってくれればいい。
「俺たちはもっと上手くやれるぜ」でも、「まるで進歩が無いんだが」でも。
それも生きている証だから。
キャプテン・ハーレイの時代に思いを馳せる仲間たちは、「今」を生きるのだから。
そう思ったから、綴り続けた航宙日誌。
前のブルーを失くした後も。
魂は死んでしまっていたのだけれども、日々の出来事を。
シャングリラのことも、戦いのことも、ただ淡々と。
仲間たちの記録もそれまで通りに、今日はこういうことがあった、と。
(…そいつが出世しちまうなんてなあ…)
消えちまったなら分かるんだが、と眺める自分が書いた文字。
遠く遥かな時の彼方で、それはレトロな羽根ペンで。
自分くらいしか使わなかった、非効率的な文具の羽根ペン。
インクが勝手に出ては来ないし、切れれば浸してやるしかない。
文字の続きを綴るためには。
(そういう面でも良かったのか、あれは?)
もしも手書きで残してはおらず、データの形だったなら。
何処かで散逸したかもしれない、何かのはずみに破損するとか。
けれども、手書きだったから。
立派な表紙まで作られたほどの、キャプテン専用の日誌だったから。
(…間違って捨てることもないしなあ…)
日誌は時を越えただろうか、今の時代まで。
死の星だった地球が青く蘇り、人間が其処で暮らせる日まで。
どうしたことだか、前の自分の航宙日誌は残り続けた。
白いシャングリラが時の流れに連れ去られた後も、この宇宙に。
超一級の歴史資料になってしまって、今の時代まで。
(…お蔭で俺も読めるわけだが…)
こんな具合に、とデータベースに収められている日誌を眺める。
前の自分の文字をそのまま写した、そのデータを。
羽根ペンで記した文字の滲みも、掠れ具合も、弄ることなく。
(…この日のあいつが、見える気がするな…)
前の自分が愛したブルー。
気高く、美しかった人。
そうは書かれていないけれども。
日誌の中では、「ソルジャー」もしくは「ソルジャー・ブルー」。
一度も「ブルー」と綴ってはいない。
恋の欠片も、想いの欠片も、まるで記しはしなかった。
それでも文字を見るだけで分かる。
この日のブルーはどうだったのかと、どんな言葉を交わしたのかと。
特別なことが無かった日でも。
(…あいつは、いつも通りだったってことで…)
そういう日なら、きっと、こう。
ブルーの言葉は、ブルーが見せた表情は。
それを鮮やかに思い出せるから、こうして開いてみたくなる。
データベースに収められていて、誰でも読める航宙日誌を。
戯れにあちこち拾い上げたページ。
時の彼方で、読み返さないままで終わった日誌。
それをしたいと思わないままで、前の自分は死んだから。
いつか懐かしく読み返そうと思っていた日は、前の自分には来なかったから。
(…そいつを俺が読んでるわけで…)
書いておいた甲斐はあったんだが、とコクリと飲んだ冷めたコーヒー。
肝心の日誌は、手元には無い。
繰ったページは、指でめくったわけではなくて…。
(ちょいと操作しただけってのがなあ…)
相手はデータで、紙を綴じてはいないから。
そういう形で読みたかったら、今の時代は…。
(とんでもない金がかかるんだ、これが)
なにしろ相手は、超一級の歴史資料。
本物の航宙日誌に触れたかったら、その研究者になるしかない。
それも一流と言われるレベルに。
(…なんだって俺が研究なんかを…)
しなくちゃならん、と思うのだったら、復刻された航宙日誌を買うしかなくて。
(そいつが素敵に高いんだ…)
研究者向けと来やがった、と出世しすぎた航宙日誌に漏れる溜息。
ただの活字でいいのだったら、文庫本にもなっているのに。
前の自分の文字を見るには、とてつもなく高い復刻版を買うか、研究者になるか。
当分はデータベースでタダ見しとくか、と苦笑いする航宙日誌。
「ずいぶん出世しちまったな」と。
(…書いた俺でも手が出ないってのが…)
研究者になるか、大金を出すか、どちらも今の自分には…。
(うんと敷居が高すぎるってな)
ただの教師に過ぎないから。
大散財をして復刻版を揃えた所で、それを一緒に読みたい人は…。
(まだまだ家には来てくれないんだ)
失くしたブルーは帰って来たけれど、チビだから。
子供なのだから、航宙日誌は当分、タダ見。
いつかブルーと懐かしくそれを読める日が来たら、考えよう。
出世しすぎて、とんでもない値段の復刻版。
それを買おうかどうしようかと、出世しすぎた日誌の値段に躊躇いつつも…。
出世した日誌・了
※ハーレイ先生では、手も足も出ないキャプテン・ハーレイの航宙日誌。
自分の日記を読み返すのに苦労しているみたいです。平和な時代ならではですよねv
(…今日はコーヒー…)
ぼくだけ仲間外れだったよ、と小さなブルーがついた溜息。
ハーレイが訪ねて来てくれた日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドの端に腰を下ろして。
夕食の後に出て来たコーヒー。
父と母と、それにハーレイの分。
そうなった理由は至って単純、コーヒーが似合いのメニューだったから。
両親とハーレイは美味しく飲めるコーヒー、それが良く合う料理だったから。
けれども、ブルーは飲めないコーヒー。
苦くて、少しも美味しくないから。
母だってそれを知っているから、「はい」と置かれた紅茶のカップ。
「ブルーの分よ」と。
仲間外れも悲しいけれども、コーヒーならではの悲しい事情。
自分一人が飲めないコーヒー、ハーレイの方はコーヒー好き。
そのハーレイが遠慮しなくて済むように、と両親も一緒の食後のお茶。
紅茶だったら、時間のある日は「二階でどうぞ」と母が運んでくれるのに。
自分の部屋でハーレイと二人、ゆっくりとお茶を楽しめるのに。
コーヒーの場合はそうはいかない、食後のひと時。
両親も一緒のお茶の時間で、それが済んだらハーレイは帰る。
「またな」と軽く片手を上げて。
車だったり、歩いたりして。
仲間外れになるだけでは済まない、食後のコーヒー。
両親にハーレイを取られてしまうし、話の中身も自分は置き去り。
大人同士が楽しむ会話に、子供の自分は入れないから。
(…ゴルフの話をされたって…)
分かんないよ、とプウッと膨れた。
両親の前では大人しく聞いていたのだけれども、今頃になって出て来た不満。
仲間外れの上に置き去り、と。
そもそもは父が「ハーレイ先生は?」と訊いたゴルフの腕前。
ハーレイが何と答えていたのか、それさえも分からない自分。
父は「ほほう…!」と驚き、「流石ですね」と言っていたから、上手いのだろう。
多分、ハーレイのゴルフの腕は。
(…ゴルフなんか、練習してないくせに…)
ゴルフの選手になりたかった、と聞いた覚えはないハーレイ。
学生時代にやっていたのか、教師になってから始めたのか。
それさえ知らないハーレイのゴルフ、けれども父も驚く腕前。
たちまち話はゴルフだらけで、何のことだかサッパリだった。
ゴルフ用語も分からなければ、ゴルフ場だって行ったことすら無いのだから。
前の自分の知識を使って聴き入ろうにも、相手はゴルフ。
(…前のぼくだって知らないんだよ…!)
シャングリラにゴルフは無かったから。
ゴルフコースも、練習場も。
もしも食後が紅茶だったら、ハーレイと部屋で飲めたのに。
両親にハーレイを取られずに済んで、話だって二人で出来たのに。
(…同じゴルフの話でも…)
ハーレイならきっと、分かるように話してくれただろう。
ゴルフ用語の解説だとかは抜きにして。
(…どういう所でゴルフをしたとか、そういうの…)
そっちだったら、自分も少しは分かるから。
ゴルフに出掛けた父が「お土産だぞ」と買って来たりする、ゴルフ場の名物。
広い敷地で採れたキノコや、実った果物。
ハーレイが話してくれるのだったら、「俺がゴルフに行った時には…」と、そういう話。
買って来たキノコで作った料理や、果物をもいだ話とか。
(動物だって…)
リスがいる所や、カモが子育てする池やら。
色々な動物がいるらしいから、その話だって聞けるだろう。
子供が聞いても、楽しくてワクワクする中身。
ゴルフの知識がまるで無くても、相槌が打てるような話を。
ところが、そうはいかなかった今日。
食後に紅茶は出てはこなくて、熱いコーヒーが出されたから。
紅茶のカップはたった一つで、自分の分しか無かったから。
なんとも残念だったコーヒー、自分一人が飲めないコーヒー。
その上、ハーレイを両親に取られて、話題はゴルフ。
子供でも分かる中身ではなくて、大人にしか分からない中身。
母はゴルフをやらないけれども、ちゃんと相槌を打っていたから。
きっと父から色々と聞いて、ゴルフを知っているのだろう。
どうやって遊ぶものなのか。
何が出来たら素晴らしいことか、感心すべきポイントは何か。
…自分には分からなかったのに。
ハーレイのゴルフがどう上手なのか、それも分かりはしなかったのに。
(…ママには分かって、ぼくには謎で…)
キョロキョロしている間に終わった、食後のコーヒーで寛ぐ時間。
ハーレイが壁の時計を眺めて、「そろそろ失礼しませんと…」と言っておしまい。
両親は「遅くまで引き止めてしまいまして…」などと謝っていたけれど。
自分からすれば、まだまだ足りない。
遅くなどはなくて、あの時間からでもハーレイと二人で話したかった。
ほんの五分でかまわないから、二人きりで。
「あのね…」と、「ハーレイ、ゴルフは好き?」と。
前の自分は知らないけれども、その遊びはとても楽しいのかと。
どんな所でゴルフをしたのか、其処には何があっただろうか、と。
名物のキノコや、お土産に出来る果物や。
チョロチョロと走り回るリスやら、散歩しているカモの親子やら。
けれど、帰ってしまったハーレイ。
自分のためには、何も話してくれないで。
「またな」と軽く片手を上げて。
子供にも分かるゴルフの話は、何一つとして聞けないままで。
(…全部、コーヒーが悪いんだから…!)
あんな飲み物が出て来るからだ、とプウッと膨らませてしまった頬。
両親の前では我慢した分、不平不満で一杯で。
これをハーレイの前でやったら、「どうした?」と訊いて貰えるだろう。
でなければ、「何を膨れているんだ、チビ?」と、額をピンと弾かれるか。
どちらにしたって、そこから生まれてくる会話。
膨らんだ頬に負けずに膨らむ、ハーレイとの会話のキャッチボール。
自分が膨れたままでいたって、プウッと膨れて怒っていたって。
(…ハーレイだったら、分かってくれるし…)
宥められたり、「我儘なヤツめ」と小突かれたりして、消えてしまうだろう頬の膨らみ。
いつまでも膨れていられないから。
ハーレイが上手に消してくれるから、頬っぺたを膨らませたくなった気持ちを。
時には、笑わせたりもして。
「お前、今の顔、分かっているか?」と、真似て膨れてみせたりもして。
そのハーレイは帰ってしまって、部屋にポツンと一人きり。
コーヒーのせいで逃したハーレイ、置き去りにされてしまった話題。
何もかもあれがいけないと思う、食後に出て来たコーヒーが。
母が淹れて来た熱いコーヒー、自分には飲めないあの飲み物が。
(…前に頼んで失敗したし…)
ぼくも、と強請って酷い目に遭った。
自分の舌には苦すぎたコーヒー、砂糖を入れても駄目だった。
ミルクを加えて貰っても駄目で、ハーレイが母にアドバイスした。
「ホイップクリームもたっぷりで」と。
それでようやく飲めたコーヒー、とてもコーヒーには見えない代物。
ハーレイは可笑しそうだった。
「ソルジャー・ブルーもこうでしたよ」と。
今と同じに飲めなかったと、ソルジャー・ブルーは大人だったのに、と。
(前のぼくでも駄目だったんだよ…!)
何度も挑んで、連戦連敗。
飲めた試しが無かったコーヒー。
今の自分も、きっとそうなる。
いつか大きく育ったとしても、飲めないだろう苦いコーヒー。
両親にハーレイを取られてしまって、それでおしまい。
食後のお茶の時間が済んだら、「またな」とハーレイが帰って行って。
(…酷いんだから…!)
大きくなっても仲間外れ、とプウッとますます膨らんだ頬。
コーヒーが苦手で飲めない自分は、育っても仲間外れにされる。
両親とハーレイばかりが話して、話題にもついていけなくて。
置き去りにされて、「またな」と帰ってゆくハーレイ。
その時もゴルフの話をするのか、まるで分からない別の話題か。
(…どっちにしたって、ぼくは置き去り…)
そしてハーレイは帰っちゃうんだ、と膨れた所で気が付いた。
自分がちゃんと大きく育っているのなら…。
(…ぼく、ハーレイと一緒に帰れる?)
前の自分と同じ姿になったなら。
ハーレイとキスが出来る姿をしているのならば、一緒に暮らせる。
ちゃんとハーレイと結婚して。
ハーレイの家で、一緒に住んで。
(それなら、食後がコーヒーだって…)
仲間外れになってしまっても、話題についていけなくても。
ハーレイが「そろそろ…」と時計を眺める時には、自分の方も見てくれるだろう。
「そろそろ家に帰るとするか」と、「お母さんたちに挨拶しろよ」と。
ハーレイは一人で帰ってゆかない。
自分も一緒に家を出るから、両親に「またね」と手を振るのだから。
それならいいや、と思ったコーヒー。
前と同じに飲めないままでも、食事の後には仲間外れで紅茶でも。
両親にハーレイを取られてしまっても、置き去りで話が弾んでいても。
(ハーレイが好きなコーヒーだもんね?)
二人きりの家では、きっとハーレイは付き合ってくれて紅茶だから。
前のハーレイもそうだったから。
たまにはコーヒーを飲ませてあげよう、両親と一緒にのんびりと。
「またな」と帰ってゆかないなら。
自分も一緒に連れて帰ってくれるのならば…。
コーヒーとぼく・了
※コーヒーが苦手なブルー君。ソルジャー・ブルーも苦手だっただけに、お先真っ暗。
そんなブルー君、ハーレイ先生を紅茶生活に付き合わせるつもり。どうなるんでしょうねv