(やっぱり、こいつが美味いんだ…)
これが落ち着く、とハーレイが傾けた熱いコーヒー。
夜の書斎で、椅子にゆったりと腰を下ろして。
愛用のマグカップに淹れたコーヒー、夜の定番。
それを飲む場所は、色々だけど。
こうして書斎で飲んでいる日や、リビングのソファで飲む日やら。
ダイニングのテーブルも気に入りの場所で、要は何処でもかまわない。
コーヒーがあれば。
香り高くて絶妙な苦味、心ゆくまで楽しめれば。
(…本当は、夜は駄目らしいがな?)
よく耳にする、そういう話。
遅い時間にコーヒーを飲むと、寝付けないとか言われるけれど。
個人的な差だと考えている。
眠れなくなったことは無いから。
どちらかと言えば、その逆だろうか。自分の場合は。
(…飲み損なったら駄目なんだよなあ…)
流石に少し遅いだろうか、と飲まずにベッドに入った夜に限って欲しくなる。
やっぱり飲めば良かったと。
どうも今夜は落ち着かないと、なかなか眠れないんだが、と。
そうは言っても、健康的な日々を過ごしているから。
バランスの取れた食事に適度な運動、「規則正しく」がモットーだから。
眠れないな、と思っていたって、いつの間にやら眠っているもの。
気付けば翌日の朝になっていて、爽やかに目が覚めるもの。
(…つまり、飲まなくてもいいってわけか?)
夜のコーヒー、と浮かべてしまった苦笑い。
飲み損なったら落ち着かなくても、普段と同じに眠れるのだから。
「眠れないな」と思う時間は、さほど長くはない筈だから。
(単なる俺の嗜好品だな)
間違いないな、と眺めるカップ。
一人でコーヒーを楽しむ時には、これを使うと決めている。
かなり大きめ、たっぷりと入るマグカップ。
頑丈なカップとは長い付き合い、もう何年になるのだろうか。
朝も使って、夜も使って、馴染みの友といった雰囲気。
もっとも、カップは喋らないけれど。
手に馴染んだというだけのことで、それ以上ではないのだけれど。
コーヒー片手のひと時が好きで、前は昼間もよく飲んだ。
休日を家でのんびり過ごして、その合間に。
(…とんと御無沙汰になっちまったなあ…)
そっちのコースは、と指で弾いたカップ。
朝はこいつと出会うけれども、次は夜まで会わないようだ、と。
(仕事のある日は家にいないし…)
そうでなくても、昼間は留守。
小さなブルーに出会ってからは。
前の生から愛し続けた、愛おしい人と遂げた再会。
(…あいつがチビでさえなけりゃ…)
今頃はとうに、家に迎えているだろう。
仕事があるから、結婚式はまだ挙げられないままでいたとしたって。
(昼間は俺の家に呼んでもいいわけだしな?)
ブルーと二人で過ごす休日、自分の家で。
それが出来たら、カップの出番もあるというもの。
夜まで仕舞ったままにしないで、昼食の後や、お茶の時間に。
ところがブルーは、十四歳にしかならない子供。
ついでに自分が禁じてしまった、「家に来るな」と。
もしも歯止めが利かなくなったら、小さなブルーに無茶をするから。
前のブルーと同じに扱い、きっと傷つけてしまうから。
ブルーの身体も、まだ幼くて無垢な心も。
そんなわけだから、休日の昼間はブルーの家へ。
仕事が無ければ、いそいそと。
朝食が済んだら出掛けてゆくから、マグカップとは其処でお別れ。
ブルーの家で夕食を食べて帰って来るまで、会えないカップ。
(…お前さんを昼間に拝むチャンスは…)
いつ来るんだか、とカップに向かってついた溜息。
どうやら当分、来そうにないぞ、と。
小さなブルーは、今も変わらずチビだから。
再会してから少しも育たず、一ミリも背が伸びないから。
(二十センチと来たもんだ…)
其処まで育て、と自分がブルーに言い聞かせた背丈。
「前のお前と同じになるまで、キスは駄目だ」と。
前のブルーは百七十センチ、それがソルジャー・ブルーの身長。
チビのブルーは百五十センチ、足りない背丈が二十センチ。
(…まったく伸びやしないってな)
縮まりもしない、前のブルーとの背丈の差。
チビで愛らしいブルーもいいから、特に不満は無いけれど。
今となっては、ゆっくり育って欲しいと思っているけれど。
前のブルーが失くしてしまった、子供時代の幸せな記憶。
アルタミラで少しも成長しないで、苦しみの中で過ごした年月。
それを補って余りある幸せ、両親と過ごす温かな日々。
ブルーにはそれを、存分に味わって欲しいから。
子供時代の幸せな日々を、いくらでも与えてやりたいから。
何年でも待っていられると思う、チビのブルーが育つまで。
雛を見守る親鳥のように、小さなブルーを慈しみながら。
唇へのキスは与えないまま、愛はたっぷり注いでやって。
抱き締めて、額に、頬にキスして。
(そういうのも悪くないんだが…)
俺はそいつも好きなんだが、と傾けたカップ。
朝に別れたら、今は夜まで会えないカップ。
(…お前さんとは、昼間に会えないままらしいな?)
ブルーが育たない内は。
「家に来るか?」と誘ってやれない内は。
いつになるやら分からない、その日。
前とそっくり同じに育ったブルーを、この家に連れて来られる日。
けれど、その日が訪れたなら…。
(こいつと昼間に会える日だって…)
もう珍しくはないのだろう。
最初の間は、ブルーは昼間に来るだろうけれど。
夜になったら、家へ送るのだろうけど。
(その内、此処が家になるんだ)
ブルーの家に。
愛おしい人が暮らしてゆくための家に。
そうなったならば、仕事の無い日は二人で過ごす。
デートに出掛けて行かない限りは、この家で二人。
朝食の時に使ったカップと、昼間にも会えることだろう。
小さなブルーと出会う前には、いつもそうしていたように。
(それも、一人で飲むんじゃなくてだ…)
ブルーと二人で、お茶の時間や食後のひと時。
今は昼間は御無沙汰のカップ、それにコーヒーをゆっくりと淹れて。
「お茶にしないか?」とブルーを呼んで。
ケーキなんかも切り分けてやって。
(もう何年かの辛抱だってな)
お前さんも俺と一緒に待とう、とカップの縁を撫でたのだけれど。
慣れた手触りを「ふむ」と確かめ、コーヒーをコクリと飲んだのだけれど。
(…待てよ?)
ちょっと待った、と頭に浮かんだブルーの顔。
チビのブルーもそうだけれども、前の育ったブルーの方も…。
(あいつ、コーヒー、駄目だったんだ…!)
迂闊だった、と思い返したブルーの嗜好。
コーヒーを好むどころではなくて、とことん苦手なタイプがブルー。
(…いや、タイプ・ブルーってわけじゃなくって…)
駄洒落に逃げたくなってしまったほど、ブルーはコーヒーが駄目だった。
昔も、今も。
チビのブルーも、前のブルーも。
(…なんてこった…)
今の自分が好きなコーヒー。
眠る前にも寛ぎのひと時、愛用のマグカップにたっぷり淹れて。
それを飲まなければ落ち着かないほど、今の自分はコーヒー好き。
前の自分も、今と同じに好きだった。
コーヒーを好んだキャプテン・ハーレイ。
(…しかしだな…!)
前の俺には無かったんだ、と今頃になって気付いてしまった夜のコーヒー。
ブルーと夜を過ごす時には、そうそう飲めはしなかった。
なにしろ、ブルーは飲めなかったから。
たまにコーヒーを淹れる時には、自分の分しか淹れられなかった。
ブルーが文句を言うものだから。
「何処が美味しいのか分からないよ」と、コーヒーを嫌うものだから。
(…でもって、あいつ…)
気まぐれに挑戦していたコーヒー。
なんとか飲もうと、あの手この手で頑張ったけれど。
(ミルクたっぷり、砂糖たっぷり、それにホイップクリームまで入れて…)
ようやくブルーが飲めたコーヒー、もはやコーヒーとは呼べない代物。
おまけに、後で「眠れなくなった」と訴えたブルー。
目が冴えて駄目だ、と嘆いたブルー。
なんとか寝かせはしたのだけれども、それはブルーをベッドの上で…。
(あいつがぐっすり眠っちまうまで…)
疲れ果てて眠るまで抱いたんだった、と思い出した情事。
コーヒー騒動の後始末。
また今回もそうなるのか、と呆然と眺めてしまったカップ。
昼間に飲んでも「またコーヒー?」とブルーに言われて、夜になったら。
(「今は毎日飲んでるわけ?」って…)
ブルーが呆れ果てるのだろうか、「コーヒー、そんなに美味しいわけ?」と。
そんなものより紅茶がいいよ、と前のブルーと同じように。
「ぼくと一緒に紅茶を飲まない?」と。
その光景が見える気がした、ブルーと紅茶を飲んでいる自分。
愛用のカップは出番を失くして、コーヒーだって。
(…そうはならないと思いたいんだが…)
俺はコーヒーを飲みたいんだが、と思うけれども、読めない未来。
今の内だ、とコーヒーのカップを傾ける。
ブルーがまだまだチビの内にと、今の内にゆっくり飲んでおこうと…。
コーヒーとあいつ・了
※ハーレイ先生の寛ぎのひと時、夜でもコーヒー。落ち着く時間らしいですけど…。
いつかはそれが無くなるのかも、と気付いてしまったハーレイ先生。どうなるでしょうねv
(…今のぼくはキスが前より下手くそ…)
そういうことになっちゃうみたい、とブルーがついた大きな溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、自分の部屋で。
ベッドの端にチョコンと腰掛け、視線を遣った先にテーブルと椅子。
今日はハーレイと其処で過ごした、土曜日だから。
楽しみに今日を待ったというのに、どんでん返しと言うべきか。
ポロポロと涙を零す羽目になったし、今はこうして溜息が一つ。
最高の休日になる筈だったのに。
(…サクランボ…)
事の起こりはサクランボ。
旬はとっくに過ぎたけれども、輸入物が店に出回る季節。
地球の反対側に位置する地域は、今がサクランボの旬だから。
おやつに出て来たチェリーパイのお蔭で戻った記憶。
前の自分と前のハーレイ、白いシャングリラで食べたサクランボ。
(…サクランボの軸を、口の中で上手く結べる人は…)
「キスが上手だそうですよ」と前のハーレイが教えてくれた。
そのハーレイは上手く結べた、サクランボの軸を。
そういう記憶が戻って来たから、母に強請ったチェリーパイ。
土曜日にまた焼いて欲しいと、前のぼくもサクランボを食べていたから、と。
「いいわよ」と引き受けてくれた母。
父も母から聞いたものだから、生のサクランボも買って貰えた。
せっかくだから、と父が思い付いてくれた輸入物を。
ワクワクしながら待っていた今日。
ハーレイと二人で、思い出の味を楽しもうと。
サクランボの軸の話をしようと、今のハーレイも口の中で上手く結ぶだろうか、と。
けれど、ハーレイには「悪戯小僧」と詰られた。
甘い思い出を語り合うどころか、悪戯者め、と睨まれた始末。
「お母さんまで巻き込んだな」と、「軸の話はしてないだろうが」と。
それでも、思い出してはくれたハーレイ。
遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラで食べたサクランボを。
前のハーレイがサクランボの軸を、口の中で上手に結べたことを。
(…そこまでは良かったんだけど…)
とんだオマケがついて来た。
前よりも腕を上げたハーレイ。
サクランボの軸を口の中でヒョイと結ぶ腕前、今は各段に上がったそれ。
ほんの二センチくらいの軸でも、今のハーレイは結んでしまえる。
「出来るぞ」と自慢して、本当にやった。
サクランボの軸を、ポキンと折って。
二センチほどの長さに短く、それを口へと放り込んで。
モグモグと動いたハーレイの口。
さほど時間をかけもしないで、見事に結んでしまった軸。
どんなもんだと、今の俺ならこの通りだ、と。
凄い腕前を持つと言うから、早速ハーレイに尋ねてみた事。
「キスは前よりもっと上手いの?」と。
前のハーレイよりも上手に軸を結ぶのだったら、キスも上手いのだろうから。
なのに、答えは貰えなかった。
「こんな動機でチェリーパイとかを持ち出すヤツには教えられんな」と。
そして言われた、「今度はお前も上手くなったらどうだ?」と。
前の自分はどう頑張っても、サクランボの軸を結べなかったから。
(…上手くなれ、って言われたから…)
ひょっとしたら下手だったのか、と考えた前の自分のキス。
サクランボの軸を結べなかった前の自分は、キスも下手くそだったのだろうか、と。
心配になったから、ハーレイに訊いた。
「前のぼくって、下手くそだった?」と、前の自分のキスの腕前を。
下手だったかもしれない、前の自分。
ソルジャー・ブルーはキスが下手くそで、キャプテン・ハーレイは上手だったとか。
そういうこともあるかもしれない、サクランボの軸で分かるキスの腕前。
口の中で上手く結べたらキスが上手で、結べなかったら…。
(…下手なんだよね?)
きっとそうだ、と落ち込みそうな気持ちで投げ掛けた問い。
前の自分は自信たっぷり、何度も何度もハーレイにキスを強請ったけれど。
ハーレイの方はキスが上手くて、前の自分は下手だったのかもしれない、と。
どんよりと項垂れてしまった自分。
下手だった前の自分のキス。
ハーレイはキスが上手かったのに。
前のハーレイはサクランボの軸を上手く結べる、キスの達人だったのに。
なんてことだろう、と俯いていたら、ピンと額を弾かれた。
「俺は下手だとは思わなかったぞ」と、嬉しい答えを返して貰えた。
思わず「ホント!?」と声を上げたほど、救われた気分になったのに。
次の言葉が悪かった。
ハーレイはこう続けたから。
「本当だ。…ただ、如何せん、比較対象が…な? お前以外に知らなかったし」と。
絶句してしまった、その言葉。
比較対象、それに「お前以外に知らなかったし」。
考えるほどに、胸の奥から湧き上がる不安。
前のハーレイには自分だけしかいなかったけれど、今のハーレイは違うかもしれない。
今の自分はチビだけれども、ハーレイはずっと年上の大人。
キャプテン・ハーレイの記憶が戻るよりも前は、ハーレイは自由だった筈。
誰と付き合おうが、キスをしようが、誰もハーレイを咎めはしない。
変でもなんでもないことだから。
プロの選手にならないか、と誘いまで来た柔道と水泳の腕前、モテたハーレイ。
モテていたなら、恋人だって選び放題。
必死になって探さなくても、相手の方からやって来る。
恋の相手も、キスの相手も。
キスのその先のことにしたって、相手に不自由しなかったろう。
そうしたいと思いさえすれば。
気付いた途端に、ポロリと零れてしまった涙。
「…ハーレイ、前に恋人、いたんだ…。ぼくよりも前に、誰かとキスして……」
そう口にするのが精一杯。
後は言葉になりはしなくて、ただポロポロと零れた涙。
生まれて来るのが遅かったばかりに、大好きなハーレイを盗られちゃった、と。
何処かの誰かが、自分よりも先にキスをした。
もしかしたらキスの上手い誰かが、一人どころか、もっと大勢。
悲しくて辛くて、それに悔しくて。
サクランボの軸の思い出話は、酷い現実を運んで来た。
今のハーレイはキスが前よりもっと上手で、沢山の人とキスをしていて。
比べることだって出来るのだろう、チビの自分が育った時には。
ようやくキスを交わせた時には、今の自分のキスの腕前が、上手か下手か。
(…上手にしたって、下手にしたって…)
そんなことは、ほんの些細なこと。
ハーレイを誰かに盗られてしまった、その恐ろしい事実の前には。
キスが上手くても、下手くそにしても、今のハーレイには、自分よりも前に誰か恋人。
比べることが出来る誰かが、キスを交わした誰かがいるから。
ハーレイの言葉で、それが分かってしまったから。
(……前に恋人……)
あんまりだよ、と叫びたくても、八つ当たりにしかならないそれ。
ハーレイは大人で、記憶が戻って来るよりも前は自由な人生。
恋をするのも、キスをするのも、その先のことも、ハーレイ次第だったのだから。
泣くことだけしか出来なかった自分。
ポロリポロリと零れ落ちた涙。
どうにも出来ないことだけれども、あまりにも悲しすぎたから。
泣き濡れていたら、「泣くな、馬鹿」とクシャリと撫でられた頭。
「今の俺にはお前だけだ」と、「俺はお前しか好きにならない」と。
俺を信じろ、と見詰めてくれたハーレイ。
「俺の隣に居てくれるヤツはお前だけしか欲しくはない」と。
何度も頭を撫でて貰って、何度も何度も誓って貰って。
やっと止まった自分の涙。
前を向こうと、今のハーレイは自分を選んでくれたのだから、と。
そのハーレイの指が、ヒョイと摘んだサクランボ。
「俺には一生お前だけだが、心配だったら練習しておけ」と、ポキリと折ったサクランボの軸。
自慢していた二センチほどの長さ、ハーレイは見事に結んでみせた。
口の中にポイと放り込んで。
俺の腕前はこの通りだ、と。
今から練習しておくといいと、キスは駄目でもこれならば、と。
サクランボの軸を上手く結べたら、キスが上手いと言うのだから。
せっせと練習しておいたならば、キスが上手くなる筈だから。
(…頑張らなくちゃ…)
サクランボの軸を結ぶ練習、と自分自身に発破をかけた。
今のハーレイが他の誰かとキスをしたかは、この際、考えないとしたって。
(…ハーレイのキスの腕前、前のハーレイよりも上なんだから…)
ほんの二センチしかないサクランボの軸、それを結んでしまえるハーレイ。
つまりはキスの腕も上がった、間違いなく。
今の自分がこのままだったら、前の自分と同じキスしか出来なかったら…。
(…前よりキスが上手いハーレイなら…)
きっと下手だと思うのだろう。
前のハーレイは下手だと思わなかったらしいけれども、キスが上手な今のハーレイは。
それは困るし、なんとも悲しい。
上手くなりたい、今のハーレイに合わせて自分も。
だから頑張る、と決意を固めたキスの練習。
本物のキスはまだ出来ないから、サクランボの軸を結ぶ練習。
前の自分には無理だったけれど、「下手なキスだ」とハーレイに呆れられないように…。
サクランボと軸・了
※サクランボの軸を結ぶ話を持ち出してみたら、藪蛇だったブルー君。自業自得ですけど。
今度はキスが上手い自分に、と固めた決意。サクランボの軸で頑張りましょうねv
(…悪戯小僧め…)
実にとんでもないヤツだ、とハーレイが浮かべた苦笑い。
ブルーの家へと出掛けて来た日に、夜の書斎で。
愛用の大きなマグカップ。熱いコーヒーをたっぷりと淹れて。
それは普段と変わらないけれど、その他に一つ、ガラスの器。
ちょっとしたフルーツを入れたりするのに丁度いい器、一人暮らしには。
つまりは小さめ、器の中身は真っ赤な果実。
今の季節にそぐわない果実、旬はとっくに過ぎ去ったから。
みずみずしく光るサクランボ。
まるでブルーの瞳のよう。
生きた宝石、赤い所もブルーの瞳を思わせる果実。
前の自分もそう思ったな、と零れた笑み。
白いシャングリラでブルーと食べたサクランボ。
ブルーの瞳も食べられるから、と瞼に落としてやったキス。
「食べられないと思うんだけど?」と言ったブルーに、「いえ」と返して。
「こうすれば食べられますよ」と、両の瞼にキスを落として。
ブルーは頬を染めたのだったか、「驚いたよ」と。
「両目とも食べられてしまうなんて」と。
遠く遥かな時の彼方の甘い思い出、前のブルーと過ごした日々。
それをブルーが持ち出して来た。
今の小さなチビのブルーが、十四歳にしかならないブルーが。
ブルーの家を訪ねて行ったら、おやつに出て来たチェリーパイ。
それだけなら全く気付かないけれど、器に盛られた生のサクランボ。
旬の頃には何度も二人で食べたけれども、今は秋。
サクランボの旬はとうに過ぎ去り、生の果実は輸入物。
そこへブルーの嬉しそうな顔、本人は多分、上手に隠したつもりだろうけど。
ついでに零れた心の欠片。
それは楽しそうにキラキラと光る、楽しげなブルーの心の欠片。
気付かない方がどうかしている、このサクランボが問題なのだと。
チェリーパイと、生のサクランボ。
(…サクランボで何かある筈なんだ、と思うよなあ…?)
小さなブルーがはしゃぐような、何か。
心が弾んで、中身がコロンと零れ落ちるようなものが。
(あいつと出会った頃が、丁度サクランボの旬で…)
チェリーパイも、生のも、何度も食べた。
けれど、それだけ。
特には何も思い付かない、ブルーの心が跳ねるようなこと。
だとしたら…、と遠い過去へと思いを向けたら、答えは直ぐに降って来た。
前のブルーと二人で食べたと、白いシャングリラにもあったのだ、と。
赤くみずみずしい果実。
ブルーの瞳のような宝石、甘く熟したサクランボが。
思い出したら、途端にブルーが悪戯小僧に見えて来た。
よくもと、チビが悪知恵を、と。
(サクランボと言えば、軸だったんだ…!)
前のブルーと食べていた時、前の自分が持ち出した話。
何処で仕入れた知識だったか、今では思い出せないけれど。
本で読んだか、データベースで調べ物の途中に、たまたま見付けたものだったのか。
(サクランボの軸を、口の中で上手く結べるヤツは…)
キスが上手い、というのがそれ。
「そうなのか?」と驚いた時は、まだ恋人はいなかった。
ブルーは仲のいい友達だったし、他の仲間にも恋をしたことは無かったから。
だから経験すらも無かったのがキス、けれど気になるサクランボの軸。
口の中で結ぶことが出来れば、キスが上手いというのだから。
(…キスをする相手がいなくても、だ…)
やはり興味は出て来るもの。
自分は上手く出来るだろうかと、軸を上手に結べるのかと。
キスする相手も、キスの予定も無いけれど。
いつかキスすることがあるなら、もちろん上手い方がいい。
上手い方がいいに決まっているから、どんなことでも。
下手では誰も褒めてくれない、何をするにしても。
だからサクランボの軸も心に残った、「上手く結べたらキスが上手い」と。
そんなこんなで、前の自分が覚えてしまった、サクランボの軸とキスの関係。
サクランボの軸に出会えば「これか…」と思うし、試したくもなる。
周りに誰もいなければ。
実ではなくて軸を口に入れても、「食べられるのか?」と声が掛からないなら。
(…果たして最初は、いつだったやら…)
覚えてはいない初挑戦。
何処でやったか、生のサクランボだったか、それさえも。
シロップ漬けのサクランボだったかもしれない、軸も一緒のものもあるから。
とにかく出会って、周りは無人。
そうでなければ無関心。
実を食べた後に軸を口に入れ、さて、その後はどうなったのか。
(…それも覚えていないんだよなあ…)
初挑戦で成功したのか、まるで話にならなかったか。
記憶が遠すぎることもあるけれど、今の自分の記憶も邪魔をしてくれる。
なにしろ、今は平和な世界。
血気盛んな青少年が集っていたなら、誰かが話を持ち出すから。
「お前、出来るか?」とサクランボの軸とキスの話を。
口の中で軸を上手く結べるなら、キスが上手いと言うんだが、と。
(…あの話で何度、盛り上がったやら…)
わざわざサクランボを買って来てまで、競い合ったこともあったほど。
旬でなければ、シロップ漬けで。
出来る、出来ないと、それは賑やかに。
今の自分が積み過ぎた記憶、サクランボの軸とキスに纏わる記憶。
お蔭ですっかり霞んでしまった、前の自分とサクランボのこと。
(いつから挑んで、いつ出来たのかも…)
思い出せんな、と首を捻るしかない。
今の自分がそうだったように、「出来るんだが?」と初挑戦で成功したか。
それとも、何度も挑み続けて、苦労した末に身につけた技か。
(…しかし、苦労をしていたんなら…)
前のブルーに話してみたりはしなかったろう。
「これを口の中で結べますか?」と。
悪戦苦闘していたブルーに、「私は簡単に出来るのですが」とも言わないだろう。
(…前の俺にも、その才能はあったらしいな?)
そして今ではもっと上手に、とヒョイと摘んだサクランボの実。
ブルーの家から帰る途中の食料品店、其処で買って来た輸入物。
(…うん、本当にあいつの瞳にそっくりだってな)
生きてる赤い宝石なんだ、と口に含んだサクランボ。
舌で転がし、味わった後は、残った種を吐き出してから…。
(今日はこっちがメインなんだ)
軸の出番だ、と口に入れた軸。
若い頃からやっていたように、舌を使って上手に曲げて…。
(こうやって…)
こうだ、と器に吐き出した軸は、クルンと見事に結ばれていた。
前の自分がやった通りに、それ以上に。
どんなもんだ、と眺めた軸。
今の自分は前の自分より、遥かに腕を上げているから。
平和な時代にサクランボの軸で遊び続けて、短い軸でも結べるから。
(…キスも前より上手い筈だぞ)
サクランボの軸と、キスの話が本当ならば。
上手く結べればキスが上手いと言うのだったら、前よりもきっと上手い筈。
そして、サクランボを用意していたブルーは…。
(…相変わらず下手なままなんだ…)
前のブルーと全く同じに、今のブルーも軸を結べはしなかった。
口に入れても、どう頑張っても。
「ハーレイ、ぼくはキスが下手かな?」と心配そうだった前のブルー。
サクランボの軸を上手く結べないから、キスも上手に出来ないだろうか、と。
けして下手だとは思わなかった、前のブルーと交わしたキス。
だからサクランボの軸を結ぶのは遊びで、前のブルーと何度もやった。
「まだ無理ですか?」とからかいながら。
「ほんのちょっとしたコツなのですが」と、口の中でヒョイと結んでみせて。
ブルーも努力はしていたけれども、ついに出来ないままだった。
ただの一度も、軸を結べはしなかった。
それを思い出したのが、小さなブルー。
日頃から「駄目だ」と禁じてあるキス、話題にするならサクランボだ、と。
母にチェリーパイを焼いて貰って、輸入物まで用意した。
「シャングリラのサクランボ、覚えている?」と。
もう充分に嫌な予感がしていた所へ、軸の話を持ち出したブルー。
キスも出来ないチビのくせに、と悪戯小僧をこらしめてやった。
二センチほどの短い軸。
それを結んで、「今の俺の方が前より上手い」と。
案の定、ブルーは「前のぼくのキス、下手だった…?」と言い始めたから。
「比較対象が無かったからな」と、ニヤリと笑みを浮かべておいた。
俺は下手だと思わなかったが、比べるものが無かったから、と。
(…悪戯小僧には、おしおきなんだ)
ポロリと涙を零したブルー。
「ハーレイ、前に恋人、いたんだ…」と。
誰かとキスをしていたんだ、と小さなブルーは泣き出した。
「ハーレイを誰かに盗られちゃった」と。
ちゃんと宥めて、「俺はお前しか好きにならない」と涙は止めてやったけれども。
当分、反省しているがいい、と口に含んだサクランボ。
悪戯小僧はおしおきせねばと、サクランボの軸とキスの話はチビには早すぎなんだから、と…。
サクランボとキス・了
※サクランボの軸とキスの思い出を持ち出したブルー君、ハーレイ先生から見れば悪戯小僧。
おしおきなんだ、と苛めたようです。「比較対象が無かったから」って、大人の余裕v
(どう考えても、無理なんだけど…!)
絶対に作れないんだけれど、と頭を抱えた小さなブルー。
真っ白な亜麻で出来たハンカチ、それを前にして自分の部屋で。
ハーレイと二人で過ごした日の夜、勉強机の前に座って。
母の部屋からコッソリ失敬して来たハンカチ。
特に飾りもついていないから、消えても母は気付かないだろう。
亜麻のハンカチの一枚くらい。
たかがハンカチ、されどハンカチ。
このハンカチが大いに問題、真っ白な亜麻で出来ているのが。
それが大きな問題で課題、戦う相手は亜麻のハンカチ。
(…前のぼくって、どうやったわけ?)
くっつかないよ、と亜麻のハンカチを広げてみた。
二つ折りにして三角形だったハンカチ、それはペロンと四角くなった。
元の通りに、四角いまんま。
三角形になりはしなくて、ただの四角いハンカチが一つ。
前の自分が持ち上げたならば、三角形になっていたのだろうに。
二つに畳んで三角形になった山の天辺、そこがピタリと繋がり合って。
糸で縫ったか、ピンか何かで留めたかのように、離れなくなって。
けれど、自分には出来ない芸当。
ハンカチは四角に戻ってしまって、三角形のままでいてはくれない。
天辺同士がくっつきはしない、亜麻のハンカチの端同士は。
事の起こりはハーレイのシャツで、取れそうになっていた袖口のボタン。
ハーレイに言ったら毟り取ろうとしたものだから、「待って」と止めた。
ボタンを一つ縫い付けるくらいは、簡単なこと。
家庭科の授業でやったことだし、直ぐに上手に付け直せるから。
棚から取って来た裁縫道具入りの小さなバッグ。
取り出した針と糸を使って、元の通りに縫い付けたボタン。
ハーレイは「器用なもんだな」と褒めてくれたけれど、その後に妙な言葉が続いた。
「しっかり上手にくっついてるなと思ってな…。前と違って」と。
感慨深そうにボタンをしげしげ眺めた後に、そういう台詞。
何のことかと目を丸くしたら、「前のお前だ」と答えたハーレイ。
おまけに「…忘れちまったのか?」とまで。
「スカボローフェアだ」と、「不器用の証明だったからな」とも。
まるで記憶に無い、スカボローフェア。
それが何かも分からない上、不器用の証明というのも謎で。
しきりに首を捻るしかなくて、それでも少しも思い出せなくて。
スカボローフェアとは、どういうものか。
不器用の証明とハーレイが言うのは、いったい何のことだったのか。
遠い記憶をいくら探っても出て来ない答え、前の自分は何をしでかしたと言うのだろう?
そうしたら、更に深まった謎。
「ある意味では、とても器用だったな」と付け加えられた一言で。
スカボローフェアだ、と繰り返して。
ハーレイが始めた昔語り。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやらかしたこと。
今日と同じにハーレイの袖口、ただしキャプテンの制服で。
袖口がほつれていたのを見付けて、裁縫道具を持ち出した自分。
「脱いで」と、「ぼくが直してあげる」と。
ところが、今の自分のサイオンのように、不器用だった前の自分の裁縫の腕。
上手くほつれを直すどころか、不揃いな縫い目が出来てしまった。
生地も引き攣れ、繕う前よりも酷い状態になってしまった袖口。
結局、ハーレイが全部ほどいて縫い直した末に、しょげていた自分にこう言った。
頑張ったのに、と主張していた前の自分に。
「本当に私のためだと思っていらっしゃったなら…」
とんでもない縫い目を作るどころか、縫い目の無いシャツを作れそうですが、と。
「なに、それ?」と目を見開いてしまった言葉。
縫い目の無いシャツとは何のことかと、それはどういうものなのか、と。
前のハーレイは穏やかな笑みを浮かべて教えてくれた。
遠い昔の恋歌だというスカボローフェア。
人類が地球しか知らなかった頃に、イギリスで栄えたスカボローの町。
其処で開かれる市に行く人、それを捕まえて頼む伝言。
スカボローに住む、今は別れてしまった恋人。
その人にこれを伝えて欲しいと、出来そうもない無理難題を。
かつての恋人が、それを果たしてくれたなら。
恋人の許へ戻ってゆこうと、その人こそ真の恋人だから、と。
「スカボローの市へ行くのですか?」と始まる恋歌、スカボローフェア。
行くのですか、と尋ねた続きに、呪文のようにハーブの名前。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
そう歌った後は無理難題。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作って欲しい、と。
前のハーレイがそう歌ったから、「これのことか」と、やっと分かった。
縫い目の無いシャツというのはこれだ、と。
ハーレイが歌うスカボローフェアには、まだまだ続きがあったのだけれど。
そのシャツを涸れた井戸で洗ってくれとか、波と浜辺の間に一エーカーの土地を探せだとか。
出来そうもないことが幾つも歌われたけれど、一つなら出来る。
一番最初に歌われたシャツくらいならば、ハーレイが言ったシャツならば。
だから勢い込んでハーレイに言った、スカボローフェアを歌い終えたばかりの恋人に。
「分かった、それが作れたら正真正銘、ぼくの裁縫の腕を認めてくれるんだ?」と。
縫い目も針仕事の跡も無いという亜麻のシャツ。
それを作れたら本当の恋人、そういうことになるんだろう、と。
スカボローフェアは、そう歌ったから。
遠い遥かな昔の恋歌、パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツをと、それを恋人に作って欲しいと。
出来上がったならば、その人こそが真の恋人。
その人の許へ戻ってゆこうと。
そういうことなら、作らなくてはならないだろう。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを。
それが出来ても、涸れた井戸で洗えはしないけど。
アダムが生まれた時から花が咲いたことのないイバラ、其処に干すことは出来ないけれど。
(シャツくらいだったら…)
作れるんだから、と前の自分は考えた。
亜麻の布さえあったなら。
ハーレイのために作ることが出来る、縫い目も針跡も無いシャツを。
スカボローフェアの歌の通りのシャツを。
本当の恋人の証のシャツ。
縫い目も針跡も無しにそれを作れる、裁縫の腕の素晴らしさもきっと証明出来る。
だから作ろう、と服飾部に布を貰いに行った。
真っ白な亜麻の布を一枚、シャツを作るのに充分な量の。
ハーレイのシャツのサイズも調べた、黒いアンダーの下に着ているシャツ。
首の周りがこうで、幅と丈と袖はこんな具合で…、と。
寸法に合わせて切った真っ白な亜麻の布。
裁縫の腕はサッパリだった前の自分が、どうやったのかは覚えていない。
多分、サイオンでイメージ通りに切ったのだろう。
それから布をシャツに仕上げた。
針も糸も全く使いはしないで、切り取った布を繋ぎ合わせて。
サイオンだけを使って、それを。
縫い目も針跡も無い真っ白なシャツを、スカボローフェアに歌われたシャツを。
得意満面で差し出したシャツ。
けれども、それをハーレイに着ては貰えなかった。
伸縮性のある素材で作ったシャツの寸法、それに合わせたものだったから。
亜麻の布はそれほど伸びはしなくて、頭から被ることさえ出来ない。
無理に着たなら、ビリッと音がするだろうから。
(…前のぼく、失敗しちゃったから…)
着られないシャツが出来てしまった、歌の注文には応えたけれど。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツなら、自分はきちんと作ったけれど。
それでも、抱き締めてくれたハーレイ。
キスを贈ってくれたハーレイ。
スカボローフェアの歌は、そういうシャツを作って欲しいと歌うだけだから。
そのシャツを着るとは歌わないから、このシャツだけで充分なのだと。
前の自分の失敗作。
縫い目も針跡も無かったけれども、着られなかった亜麻のシャツ。
それをハーレイは大切に持っていてくれた。
宝物のようにクローゼットの奥に仕舞って、何度も何度も取り出して、撫でて。
「地球へ降りる時に着れば良かった」とも言ったハーレイ。
きっと最高の晴れ着だったろうと、あちこち破れてしまったとしても、と。
そういう思い出、前の自分がハーレイに贈った、縫い目も針跡も無かったシャツ。
スカボローフェアの歌、そのままのシャツ。
「今度は着られるシャツで頼む」と、片目を瞑った今のハーレイ。
「本物の恋人同士になった時には、お前が作ってくれるんだな」と。
上等の亜麻のシャツがいい、というのがハーレイの注文。
それを着て街まで出掛けられるような、うんとお洒落な亜麻のシャツ。
縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを作ってくれと、俺が着るから二人並んで街を歩こうと。
「無理なこと、分かっているくせに!」と叫んでしまった、不器用な自分。
そんなシャツなど、今の自分には作れないから。
ハーレイは「分かった、分かった」と笑ったけれど。
「今のお前には期待してないさ」と、亜麻のシャツは二人お揃いで買おうと言っていたけれど。
(…やっぱり、作ってみたいんだけど…!)
前の自分が作り上げたシャツ、縫い目も針跡も無かった奇跡の亜麻のシャツ。
作り方さえ分からないけれど、あれをハーレイに贈りたいから、ハンカチ相手に頑張ってみる。
スカボローフェアの歌の通りに作れないかと、またあのシャツを作れないかと。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを、今の自分には無理そうなシャツを…。
無理そうなシャツ・了
※ブルー君、只今、ハンカチ相手に練習中。縫い目も針跡も無いシャツを作りたいから、と。
どう頑張っても無理そうですけど、努力しているブルー君。ハーレイ先生は幸せ者ですv
(はてさて、あいつに作れるやらなあ…?)
多分、無理だと思うんだがな、とクッと笑ってしまったハーレイ。
ブルーの家で過ごした日の夜、いつもの書斎で。
コーヒーを飲みながら眺めた袖口、ブルーが縫い付けてくれた小さなボタン。
取れてしまいそうだったのを、見付けてくれて。
自分は毟り取ろうとしたというのに、「ちょっと待ってて」と。
それは器用に縫い付けてくれた、小さなブルー。
家庭科の授業で習ったのだろう、慣れた手つきで。
不器用だった前のブルーとは、別人のような腕前で。
(…前のあいつは裁縫が駄目で、今のあいつはサイオンが駄目、か…)
面白いもんだ、と傾けるコーヒーのカップ。
同じブルーでこうも違うかと、見た目は同じなんだがな、と。
チビはともかく、赤い瞳も銀色の髪も全く同じ。
今は幼い顔立ちだって、育てば前とそっくり同じになるだろう。
前の自分が失くしてしまった、気高く美しかった恋人。
そっくりそのまま、戻って来たと思ったのに…。
(…今のあいつは不器用なんだ)
ただしサイオン限定でな、とクックッと笑う。
裁縫の腕なら今の方が上だと、前のブルーよりも遥かに凄い、と。
比類なきサイオンを誇った恋人、ソルジャー・ブルー。
前のブルーが、ある日、繕おうとしてくれたキャプテンの制服の袖口のほつれ。
「そのままだと引っ掛けて酷くなるから」と、裁縫道具を持ち出して。
ところが、ブルーは不器用だった。
今のブルーのサイオンさながら、救いが無かった裁縫の腕。
針に糸を通す所からして既に怪しく、糸の端っこに結び目を作るまでにも一苦労。
やっとのことで繕ってくれた袖は、とても見られたものではなかった。
不揃いな縫い目に、引き攣れた生地。
これでは駄目だと、前の自分が全部ほどいて縫い直した。
ブルーよりかはマシに縫えたし、服飾部の者に「頼む」と渡せる程度の応急措置。
そんな具合だから、肩を落としていたブルー。
「ぼくはホントに頑張ったのに」と。
しょげる姿が可笑しかったから、不意に浮かんだ悪戯心。
完璧な筈のソルジャー・ブルーにも、不得手なことがあるらしいから。
あれだけ悪戦苦闘したって、袖口のほつれを上手く直せないようだから。
だから口にした、こういう言葉。
「本当に私のためだと思っていらっしゃったのなら…」
とんでもない縫い目を作るどころか、縫い目の無いシャツを作れそうですが、と。
遠く遥かな昔の恋歌、スカボローフェア。
今の自分も知っているけれど、前の自分も知っていた。
何処で知ったかは忘れたけれども、気に入っていたそのメロディ。
それに出て来る、縫い目の無いシャツ。
縫い目も針跡も無いというシャツ、そうやって作り上げたシャツ。
前のブルーは歌を知らなくて、「なに、それ?」と目を丸くしたから。
スカボローフェアを教えてやった。
歌が生まれた遠い昔のイギリスで栄えた、スカボローの町。
其処で開かれる市に行く人、その人に頼み事をする歌。
スカボローの町に住む、かつての恋人。
その恋人に伝えて欲しいと、幾つも並べる無理難題。
恋人がそれを果たしてくれたら、その人の許へ戻ってゆこうと。
「あなたこそが私の真の恋人」と、かつて別れた人の許へと。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツ。
それが一つ目の注文だった。
そういうシャツを作ってくれたら、私はあなたの許へ戻ろう、と。
(スカボローフェアなあ…)
今の自分も気に入りの歌。
気付けば口ずさんでいたりする。
小さなブルーに出会う前から、前の自分の記憶が戻る前から。
「スカボローの市へ行くのですか?」と、問い掛ける言葉で始まる歌。
行くのですか、と尋ねた後には、呪文のように挟まるハーブの名前。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
そう歌った後は、果たせそうもない無理難題。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツなど、まだまだ可愛い方だった。
涸れた井戸でそれを洗ってくれとか、波と浜辺の間に一エーカーの土地を見付けろだとか。
(どうにもならないヤツばかりだがな?)
どんなに努力してみた所で、出来るわけがないことばかり。
スカボローフェアはそういう恋歌。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
四つのハーブを織り込みながら、果たせそうもない無理難題を吹っ掛ける歌。
だから、前の自分が口にしたのも、ほんの冗談。
「こういう歌があるのですが」と、「本当の恋人だったら出来ますよね?」と。
前のブルーが作った不揃いな縫い目が、あまりに可笑しかったから。
それを作ってしょげるブルーが、なんとも愛おしかったから。
ところが、何を勘違いしたか。
歌って聞かせたスカボローフェアを聴いたブルーは、こう言った。
「縫い目も針仕事の跡も無い亜麻のシャツ? 分かった、それが作れたら…」
正真正銘、ぼくの裁縫の腕を認めてくれるんだ、と。
どう考えても、前のブルーの勘違い。
スカボローフェアは「それを作れ」と歌うけれども、恋人の愛の深さを試す恋歌。
本当に作れとは言っていなくて、それほどに深い愛を見たいと戯れる歌。
そう説明をしたというのに、「もう一度、歌って」と強請ったブルー。
強請られるままに歌って聞かせたスカボローフェア。
(…そうしたら、あいつ…)
作ったのだった、前のブルーは。
どうやったのかは分からないけれど、縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを。
真っ白な亜麻の布で作った、スカボローフェアの歌そのままのシャツを。
得意満面でそれを差し出したブルー。
「ほら、ハーレイ」と。
「君が歌ってくれたスカボローフェアに出て来るシャツ」と。
驚いて子細に調べてみたシャツ。
亜麻のシャツには、縫い目は一つも見付からなかった。
針の跡さえ、ただの一つも。
遠く遥かな昔の恋歌、果たせない筈の無理難題を果たしたブルー。
縫い目も針跡も、見付かりはしない亜麻のシャツ。
誰も作れはしないままだった、スカボローフェアの歌の通りの奇跡のシャツを。
けれど、着られなかったシャツ。
前のブルーは、どこまでも不器用だったから。
こと、裁縫に関しては。
奇跡のシャツを作る参考にしていた、前の自分のシャツのためのデータ。
それをそのまま引き写したから、シャツは失敗作だった。
伸縮性のあるシャツの素材と、亜麻の布とは違ったから。
被って着たならビリッと破れてしまうのがオチで、けして着られはしないシャツ。
それでも、ブルーが愛おしくて。
「…着られないわけ?」と慌てたブルーを、抱き締めてキスを贈ってやった。
スカボローフェアの歌は、そういうシャツを作れと歌っているけれど。
出来上がったシャツを自分が着るとは歌わないから。
着られなくてもかまわないのだと、作り上げれば充分だから、と。
(…あいつ、最高の恋人だったんだ…)
たとえ着られないシャツであっても、奇跡のシャツを作ったブルー。
遠い昔から不可能なことを並べて歌い継がれた恋歌、その中の一つを果たしたから。
恋人のためにそれをしようと、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを見事に作り上げたから。
(…前のあいつは、ちゃんと作ってくれたんだが…)
何処かへ消えてしまったんだよな、と思い浮かべる奇跡のシャツ。
前の自分は大切に仕舞っていたのだけれども、今は失われてしまったシャツ。
誰も奇跡のシャツと気付かず、ただのシャツだと思われて処分されたのだろう。
前の自分がいなくなった後、他の何枚ものシャツに紛れて。
(…ちょいと惜しい気もするんだがな?)
そういう風に時の流れに消えるのだったら、着れば良かったと改めて思う。
長い戦いの果てに辿り着いた地球、あの星へ降りてゆく時に。
死の星だった地球だけれども、前のブルーとの約束の場所。
其処に似合いのシャツだっただろう、前のブルーが作ってくれた奇跡のシャツは。
あちこち破れてしまったとしても、とっておきの晴れ着になったのだろう。
(…着そびれちまった…)
そして無くなっちまったんだが、と残念でならない奇跡のシャツ。
前のブルーの愛の証で、大切に取っておいたシャツ。
何度も何度も、前の自分が撫でていた。
クローゼットの奥から取り出し、縫い目も針跡も無い真っ白なシャツを。
ブルーが作った奇跡のシャツを。
さて、今のブルーはどうするだろう?
「作ってくれ」と注文したのだけれども、不器用な今のブルーの方は。
今度は着られるシャツで頼むと、上等な亜麻のシャツがいいと。
(…作れるわけがないんだがな?)
無理だと分かっているのだけれども、ついつい吹っ掛けた無理難題。
いつか本物の恋人同士になった時には、前と同じに作ってくれと。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
スカボローフェアの歌そのままのシャツを、縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを。
作れなくても、ブルーは最高の恋人だけれど。
奇跡のシャツなど作れなくても、誰よりも愛おしくて大切な人。
だから、ふざけて無茶を言う。
奇跡のシャツを作ってくれと、今度は着られる上等なのを、と…。
奇跡のシャツ・了
※前のブルーが作ってくれた奇跡のシャツ。今のブルーには作れそうもないんですけれど…。
ついつい「作ってくれ」と注文したくなっちゃいますよね、ハーレイ先生の悪戯心v