(断られちゃった…)
ハーレイのケチ、と小さなブルーが尖らせた唇。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドの端に腰掛けて。
昨日も今日も会ったハーレイ、週末を二人で過ごしたけれど。
考えた末に出した注文、それをあっさり断った恋人。
「お前には早い」と睨まれた上に、額もコツンと小突かれた。
キスを強請ってはいないのに。
ちょっと上着を貸して欲しいと、お願いをしただけなのに。
(ハーレイの上着…)
それを羽織ってみたかった。
チビの自分が羽織ったらきっと、ブカブカの筈の大きな上着。
昨日や今日に着ていたような普段着とは違う、スーツの上着を。
今のハーレイの仕事用の服。
学校で授業をしている時には着ているスーツ。
暑い季節はワイシャツだったけれど、今はきっちりスーツにネクタイ。
つまりスーツはハーレイの制服、キャプテンの制服がそうだったように。
だから羽織ってみたいと思った、大きいだろうスーツの上着を。
前の自分がそうだったから。
キャプテンの制服の上着を借りては、それを羽織って過ごしていたから。
ハーレイが来るのが遅くなった日は。
青の間で独りが寂しいような気持ちになったら、昼間にだって。
たまたま羽織った父の上着が切っ掛けになって、思い出したこと。
前の自分が借りて羽織ったキャプテンの上着。
一番最初は、ハーレイが酷く遅くなった日。
あらかじめ言われていたのだけれども、「遅くてもいいから来て」と頼んだ。
けれど、待つ間に寂しくなって。
まだハーレイは来られないのかと、サイオンで何度も様子を眺めて。
(ハーレイ、真面目だったから…)
一向に終わる気配も見えないキャプテンの仕事。
待ちくたびれて、寂しさが増して。
ふと思い付いたのがキャプテンの制服を借りること。
きっと自分には大きすぎる上着、それを着たなら暖かくなるに違いないと。
まるでハーレイに包まれたように、すっぽり包んでくれそうな上着。
そう考えたら、本当に欲しくなったから。
キャプテンの部屋のクローゼットに並んだ上着を、「借りるよ」と一つ失敬した。
瞬間移動でヒョイと攫って。
腕の中にバサリと落ちて来たそれは、思ったよりも重いもの。
羽織ってみたら、本当にハーレイに包まれた気分になったから。
嬉しくなって、頬が緩んで、もう幸せで。
いつの間にやらベッドでうたた寝、それを着たまま。
(…ハーレイには呆れられちゃったけど…)
気に入ったのだった、あの上着が。
自分が着るには大きすぎる服、ブカブカのキャプテンの制服が。
それ以来、何度も無断で借りた。
ハーレイが来るのが遅くなったら、寂しい気持ちを感じたら。
キャプテンの部屋から一つ持ち出して、くるまっていた大きな上着。
クリーニングを済ませたものでも、「ハーレイみたいだ」と思えたから。
恋人の腕に包まれた気分になれたから。
(…あの上着、ホントに好きだったから…)
今のハーレイのも着てみたくなった。
学校で着ているスーツの上着。
あれを羽織らせて貰えないかと、きっと幸せになれるから、と。
ところが、ハーレイとゆっくり過ごせる週末の休日。
ハーレイはそれを着て来ない。
いつも普段着、ハーレイに似合う普通の上着。
休日にスーツは着ないから。
スーツはあくまで仕事用だから、週末に着て来るわけがない。
せっかく思い付いたのに。スーツの上着を着てみたいのに。
(昨日も普段着、今日も普段着…)
色もデザインも違ったけれども、スーツではなかったハーレイの上着。
昨日は「違うんだ…」とまじまじ眺めて、心で何度もついた溜息。
「これじゃ駄目だ」と。
自分の夢は叶いはしないと、休みの日には無理なようだと。
だから昨夜に一大決心、今日は強請ってみようと決めた。
普段着のハーレイがやって来たなら、平日に備えて注文を、と。
仕事が早く終わった時には、帰りに寄ってくれるハーレイ。
部屋で二人でお茶を飲みながら、夕食の支度が出来るのを待つ。
そういう時なら、ハーレイはスーツ。
学校で着ていたスーツそのまま、借りようと思えば借りられる上着。
(…頼んだら、上着、借りられるもんね?)
借りてやろう、と決意を固めて、まずは予約、と考えた。
今日もハーレイは普段着の上着、それをまじまじと眺めた後で。
頼まなければ何も始まりはしないから。
「あのね…」とハーレイに語り掛けた言葉。
次にスーツで来る日があったら、上着を貸して欲しいんだけど、と。
「いいぞ」と答えそうだったハーレイ。
多分、最初はそう思った筈。
「おっ?」という顔はしていたけれども、嫌そうには見えなかったから。
あのままハーレイが承知していたら、きっと着られていただろう上着。
次にスーツでやって来たなら。
「これだっけな?」と脱いだ上着を、「ほら」と肩から被せてくれて。
「ブカブカだなあ…」などと苦笑しながら、袖を通すのを手伝ってくれて。
今のハーレイの制服のスーツ。
重くてブカブカ、それでも幸せになれたと思う。
ハーレイに包まれた気分になって。
前の自分が羽織っていた上着、あの頃の日々を思い浮かべて。
なのに世の中、思い通りにはならないもの。
ハーレイの上着を借りる計画は、上手く運びはしなかった。
間の悪いことに、ハーレイが思い出したから。
前の自分が借りた上着を、キャプテン・ハーレイの上着のことを。
どういう時に借りていたのか、そっくりそのまま戻った記憶。
お蔭で「駄目だ」と断られた上着。
「チビのお前にはまだ早すぎだ」と、「もっと大きく育ってからだ」と。
前の自分と同じ姿に育つまでは駄目だ、と言われた上着。
そうなれる日は遠そうだから、と借りて羽織ってみたかったのに。
気分だけでも、あの頃のぼく、と上着を借りてみたかったのに。
(…ハーレイ、ホントにケチなんだから…!)
キスをしてくれと頼んでも駄目。
上着を貸して、と言っても駄目。
自分がチビだというだけで。
前の自分と同じ姿をしていないだけで、なんでも「駄目だ」と言うハーレイ。
どんなおねだりも、お願いも駄目。
「ちゃんと育ってから言うんだな」と。
チビでは話になりはしないと、大きくなったら叶えてやると。
(…キスも駄目だし、上着だって駄目…)
本当になんてケチなんだろう、とプウッと頬っぺたを膨らませた。
ハーレイが見たら言うのだろうに。
「前のお前は、そういう顔はしなかったがな?」と、「やっぱりチビだ」と。
昼間も同じにプンスカ怒った。
「ハーレイのケチ!」と、膨れっ面で。
けれど帰ってしまったハーレイ。
両親も一緒の夕食が済んだら、「またな」と軽く手を振って。
次に会う時はきっと平日、スーツを着込んで寄ってくれるのに…。
(…上着、借りられないんだよ…)
断られたから、頼むだけ無駄。
強請ってみたって、額をコツンと小突かれるだけ。
「俺は駄目だと言った筈だが?」と。
大きな上着を着てみたいのに。…ちょっと羽織ってみたいのに。
(…だけど、駄目…)
自分が大きくなるまでは。
前の自分と同じに育って、キャプテンの上着を借りていた頃と同じ背丈になるまでは。
ハーレイの上着を着たいのに。
ほんのちょっぴり、試着気分で羽織らせてくれればそれでいいのに。
(前のぼくとおんなじ背丈になったら、上着なんか…)
羽織らせて欲しいと頼まなくても、いくらでも着られることだろう。
結婚して同じ家で暮らせるのだから、いくらでも。
前の自分がやっていたように、ハーレイが仕事で留守の間に。
「ちょっと借りるね」とハンガーから外して、どれでも好きに着放題。
スーツだろうが、普段着の方の上着だろうが…、と考えたけれど。
(…普段着の上着?)
待って、と頭に閃いたこと。
ハーレイが着ている普段着の上着。
それは無かった、と思い出した白いシャングリラ。
ハーレイの上着は、いつもキャプテンの制服ばかり。
あの船に私服は無かったから。誰もが制服だったから。
けれども、今の時代は違う。
ハーレイにはちゃんと普段着があって、自分も制服の他に普段着。
いつかハーレイと結婚したなら、デートの時には…。
(制服じゃないよ…)
二人で揃いの服を着てもいいし、まるで似ていないデザインでもいい。
好きな服を着て、上着だって。
そうやって二人であちこち出掛けて、冷える季節になったなら。
(ぼくがクシャン、ってクシャミしてたら…)
ハーレイが着せてくれるのだろう。
自分が着ていた上着を脱いで、バサリと肩に被せてくれて。
「風邪を引くから、これも着ておけ」と、「俺は鍛えてあるからな」と。
(…今のハーレイ、うんと丈夫で…)
柔道に水泳、どちらもプロになれる腕前。
そのハーレイなら、きっと自分の上着を譲ってくれるのだろう。
黙って拝借しなくても。「貸して」と頼んだりしなくても。
大きな上着を着せて貰って、二人並んで歩けそうだから。きっと幸せだろうから。
(…それまでの我慢…)
今度も貸して貰えるものね、と綻んだ顔。
前の自分が羽織っていた上着、それを今度も着せて貰える。
今度は二人で歩きながら。
デートの途中で、「ほら、着てろ」と掛けて貰って、上着ごと肩を抱いて貰って…。
羽織っていた上着・了
※ハーレイ先生のスーツの上着は、借りられそうもないブルー君。大きくなるまでは。
けれど、デートに行くとなったら、今度も着せて貰える上着。幸せですよねv
(あのチビめ…)
何が上着だ、とハーレイが浮かべた苦笑い。
ブルーの家へと出掛けて来た日に、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりコーヒー、熱いそれをコクリと飲むけれど。
頭の中には小さな恋人、十四歳にしかならないブルー。
今日は日曜、昨日に続いてブルーの家で過ごしたけれど。
(あいつ、昨日から時々まじまじ見てたんだよなあ…)
何度も気付いた、自分を見詰めていた瞳。
けれども、顔を見ていたわけではなかったから。
「なんだ?」と問えば、慌てて視線を上げていたから、不思議ではあった。
いったい何が気に懸かるのかと、ブルーは何を見ているのかと。
(俺の服に何かついてるのかって…)
そうでなければ、ボタンが取れかかっているだとか。
自分でも視線を落としたけれども、特におかしい所は無くて。
ブルーに訊いても「ううん、別に…」と曖昧な返事が返っただけ。
(だからだな…)
それ以上、尋ねはしなかった。
ロクでもないことを考えそうなのがブルー。
子供ならではの飛躍っぷりで、キスも出来ない仲ゆえの不満。
尋ねたら墓穴を掘ると思った、とんでもないことを頼まれたりして。
そんな具合で過ごしたのが昨日。
「またな」とブルーに手を振った時も、何故だか同じ視線を感じた。
ブルーは自分を見ていたけれども、同じに服も。
(もう絶対に服だと思うよな?)
原因は服に違いない、と確信したから、家に着くなりチェックした服。
最初は瞳で、次は鏡で。
それで結果が謎だったから、風呂に入るのに脱いだ時にも…。
(前も後ろもしっかり眺めて、ついでに振って…)
バッサバッサとやってみたけれど、何も落ちてはこなかった。
ブルーの興味を引きそうなものは、ただの一つも。
服にくっつきそうな草の種やら、食べたお菓子の欠片やら。
それに染みさえついていなくて、ますますもって深まった謎。
(…あいつ好みの服だったかとも思ったんだが…)
確か、前にも着て行った筈。
その時はブルーは普通だったし、何よりも服が気に入ったなら…。
(お洒落だよねとか、いい色だとか…)
ブルーならきっと言うだろう。
「その服、いいね」と触ろうとしたり、「ハーレイらしいよ」と顔を輝かせたり。
けれど、全く無い記憶。
褒められたとも、ブルーが喜んだとも。
まったく謎だ、と風呂に入って、服はきちんと片付けた。
ちょっと羽織るのに丁度いい上着、毎日洗うものでもないから。
ハンガーにかけて、軽くはたいて、伸ばしておいて。
(でもって、今日は違うのをだな…)
シャツに合わせて、また違う上着。
それを羽織って出掛けて行ったら、またまじまじと見詰めたブルー。
テーブルを挟んで、お茶とお菓子で寛ぐ合間に。
ふと気付く度に服に視線で、そうなってくると原因は…。
(服のデザインとかじゃなくて、だ…)
自分にあるか、でなければ上着そのものか。
とはいえ、訊いたら墓穴を掘るから、やはり守っておいた沈黙。
もちろんブルーと話は弾んでいたのだけれども、服のことには全く触れずに。
そうしたら…。
(いきなり、スーツと来たもんだ)
小さなブルーはそう言った。
「あのね」と、「今度、スーツを着て来た時に…」と。
スーツ姿でブルーの家を訪ねてゆくのは、仕事の帰りに寄った時だけ。
てっきりスーツに興味があるのだと、頭から信じたものだから。
「俺のスーツがどうかしたか?」と素直に返した。
スーツは自分の仕事着だから。
教師としての自分の制服、暑い夏以外は着込む物。
それに関心でもあるのだろうと、軽い気持ちで、考えもせずに。
ところが、ブルーが続けた言葉。
それに思わず目を剥いた。
小さなブルーは、「ちょっとお願いがあるんだけれど…」と言い出したから。
(…お願いと来たら、嫌な予感しかしないよな?)
相手はチビのブルーだから。
何かと言えば「ぼくにキスして」と強請ってくるのがブルーだから。
まさかスーツでキスをしろとか、そういった無茶。
きっとそれだと身構えた途端、ブルーは笑顔でこう続けた。
「スーツの上着を貸してくれない?」と。
ちょっと羽織ってみたいんだよね、と頼まれたから。
お安い御用だ、と引き受けようとして、心に引っ掛かったこと。
どうして上着を羽織りたいのか、それもスーツだなどと言うのか。
上着だったら今も着ているし、昨日も別のを着ていたから。
しかもブルーは上着をまじまじ…。
(見ていやがったし、と気になって…)
キーワードは多分、上着なのだ、と探った記憶。
今の自分の物とは違って、遠く遥かな昔のもの。
キャプテン・ハーレイだった頃だ、と探し始めたら、答えはストンと降って来た。
なにしろ、モノが上着だから。
キャプテン・ハーレイの上着と言ったら、制服だけしか無かったから。
(悪ガキめが…!)
ブルーが何を思い付いたか、何をしようと考えたのか。
ピンと来てしまえば、「悪ガキ」としか思えなかった小さなブルー。
愛くるしい顔をしているけれども、もうとびきりの悪戯小僧。
(俺の上着を着ていやがったんだ…!)
チビではなくて、前のブルーが。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーに向かって、「着ていやがった」は無いけれど。
あの頃には「また着ているのか」と愛おしかっただけで、抱き締めていたものだけれども。
一番最初は、確か自分が青の間に行くのが遅くなった日。
待ちくたびれて、ベッドでうたた寝していたブルー。
よりにもよって、前の自分の上着を羽織って。
キャプテンの制服の上着を纏って、ベッドにぱたりと倒れ込んで。
何事なのかと驚いたけれど、寂しかったらしいソルジャー・ブルー。
青の間で独り待たされる内に、ついつい羽織ったキャプテンの上着。
瞬間移動で、失敬して。
それを羽織って、前の自分の温もりを感じたつもりになって…。
(安心して眠っちまったってな)
それが上着を盗られた始まり。
前の自分が遅くなったら、ブルーはちゃっかり着込んでいた。
アンダーの上からガウンよろしく、キャプテンのための重い上着を。
華奢なブルーには大きすぎる上着、それに包まれて、さも嬉しそうに。
しっかり記憶が蘇って来たら、チビのブルーの魂胆も読めた。
あの頃の幸せをもう一度、と狙っているのが自分のスーツ。
(普段着の上着じゃ駄目なんだ…)
それは制服とは違うから。
下に着ているシャツに合わせて、気まぐれに変えるものだから。
スーツの上着もワイシャツと合わせはするけれど…。
(形はどれも似てるしな?)
だからこその今の自分の制服。
普通の服ほど流行は無くて、どれもデザインは似たり寄ったり。
だからブルーは目を付けた。
キャプテンならぬ今の自分の制服、それを羽織って恋人気分、と。
今の自分に包まれたつもり、そんな気分を味わいたいと。
(チビのくせして、一人前に…!)
あの頃のお前と全くサイズが違うだろうが、と睨みたい気分。
「今のお前はただのチビだ」と、「俺の上着はまだ早いんだ」と。
前のブルーが着込んでいてさえ、ブカブカだったキャプテンの上着。
愛らしくて笑いを誘った姿。
けれども、今のブルーが自分のスーツの上着を羽織ったならば。
(デカすぎるなんてモンじゃなくてだ…)
もう本当に笑うことしか出来ないだろう。
愛おしいだとか、抱き締めたいとか、そう思う前に。
なんて不格好で傑作なのだと、まるで案山子に着せたようだと。
それに、ブルーはキスも出来ない子供でチビ。
恋人気取りで羽織る上着は早すぎるから。
「おい、お前」とチビのブルーを睨んでやった。
俺はすっかり思い出したぞと、キャプテンの俺の制服だよな、と。
「うん、そう!」と顔を綻ばせたブルー。
あの頃の気分になってみたいから、今度、スーツの上着を貸して、と。
悪びれもせずに、ウキウキと。
「思い出してくれた?」と、「次に着て来た時に貸して」と。
お願い、とブルーは強請ったけれど。
スーツの上着を貸して欲しいと、羽織らせて欲しいと頼んだけれど。
「馬鹿め」と額を小突いてやった。
「もっと大きく育ってから言え」と、「俺と暮らすようになってからだな」と。
みるみる唇を尖らせたブルー。頬っぺたもプウッと膨らませて。
「ハーレイのケチ!」と決まり文句で、それは見事に膨れたけれど。
プンスカと怒り始めたけれども、「断る」と放って帰って来た。
そうして今に至ったわけで、次に会う時は、きっと平日。
スーツを纏っているだろうけれど、生憎と今の自分の上着は…。
(あいつにはまだ早すぎるんだ)
貸してやらん、とコーヒーのカップを傾ける。
ブカブカの上着は、それが似合いの姿のブルーになってこそ。
もっとも、スーツの上着ではきっと、絵にはならないだろうけど。
キャプテンの上着だったからこそ似合ったんだ、と可笑しくなってくるのだけれど…。
羽織られた上着・了
※キャプテンの制服の上着を借りて着ていた前のブルー。今のブルーの狙いはスーツ。
けれど却下なハーレイ先生、思い出す前なら貸したんでしょうね。何も知らずにv
(まだまだ結婚出来ないんだけど…)
チビなんだから、と小さなブルーがついた溜息。
自分の部屋で、パジャマ姿で、壁の鏡を覗き込んで。
其処に映っている自分。
何処から見たって子供でしかない、十四歳にしかならない自分。
結婚出来る年はまだ先、十八歳にならないと無理。
早くハーレイと暮らしたいのに。
夜になったら、今の自分はポツンと一人。
ハーレイの家に行けはしなくて、独りぼっちで残される。
もっとも、今日は…。
(ハーレイ、最初から来てないけどね…)
仕事の帰りに寄ってはくれなかった恋人。
寄ってくれたら、この部屋で二人、お茶とお菓子をお供に過ごして。
その後は両親も一緒の夕食、それから帰ってゆくハーレイ。
「またな」と軽く手を振って。
自分をポツンと置き去りにして。
それが寂しくてたまらない。
置いてゆかれるのはチビだから。
今日、ハーレイと夕食を食べられなかったのもチビだから。
(…結婚してたら、いつでも一緒…)
こんな風に置き去りにされる代わりに、二人での暮らし。同じ屋根の下で。
早くその日が来ないものかと考えるけれど、まだ先のこと。
十八歳にならないと無理で、チビの自分には夢のまた夢。
なにしろ、キスさえ出来ないのだから。
(前のぼくと同じに育たないと駄目…)
ハーレイにそう言われてしまった。
前の背丈と同じに育て、と。
育つまでは、キスは額と頬だけだな、と。
結婚は無理で、キスも駄目。
なんとも悲しくてたまらないから、せめて夢では…。
(会いたいんだけどな…)
一緒に暮らせるハーレイに。
キスを交わして、その先のことも。
本物の恋人同士が過ごす時間も、自分にくれるハーレイに。
けれども、邪魔をするのが自分。
前の自分がヒョイと出て来て、ハーレイを横取りしてしまう。
あちらは大きく育っているから、夢のハーレイとキスを交わして。
愛も交わして、ハーレイを横から攫ってしまう。
チビの自分は夢でも置き去り、自分の身体を乗っ取られて。
目が覚める度に大きな溜息、「ぼくじゃなかった…」とつく溜息。
夢の中では幸せだけれど、目覚めてみたら不幸な自分。
幸せだったのは前の自分で、チビの自分はいなかったから。
ハーレイも、前の自分も、今の自分を置き去りにする。
ポツンと一人で置いてゆかれる。
ハーレイは「またな」と家に帰るし、前の自分は夢のハーレイを…。
(横から攫って行っちゃうんだよ…)
チビの自分が気付かない内に。
小さい筈の身体を勝手に育ててしまって、前の自分がちゃっかりと。
何度そういう夢にやられたか、悲しくて数えたくもない。
夢の中では幸せなのに、起きた途端に不幸になる夢。
「ぼくじゃなかった…」と肩を落として、溜息をついてしまう夢。
たまには育ってみたいのに。
大きくなれた、と思う夢を見て、ハーレイと幸せに過ごしたいのに。
(…どうせ、無理…)
きっと見られないに決まっているから、溜息交じりに入ったベッド。
今夜も前の自分にしてやられるのか、それともメギドの夢になるのか。
メギドよりかは、前の自分にハーレイを盗られる方がマシ。
痛くない分だけ、悲しくて辛くならない分だけ。
メギドの悪夢がやって来たなら、本当に独りぼっちだから。
もうハーレイには二度と会えないと、泣きじゃくりながら死ぬ夢だから。
ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が冷たく凍えてしまって。
(あんな夢よりは…)
前のぼくにハーレイを盗られる方が、と思うけれども、悔しい気持ち。
どうして自分は置き去りなのかと、夢でハーレイと暮らしたいのに、と。
無理だと分かっているけれど。
夢は決して、思い通りにならないけれど…。
ふと気付いたら、目の前にハーレイ。
前のハーレイではなくて今のハーレイ、ちゃんとスーツを着ているから。
優しい笑顔で見下ろしていて…。
「じゃあ、行ってくる」
またな、と頬に落とされたキス。
(えっ…?)
なんで、とポカンと見開いた瞳。
ハーレイは仕事用の鞄を抱えて、「じゃあ、行ってくる」と言ったから。
「またな」は何度も聞いているけれど、「行ってくる」は初めて聞いたから。
けれど、ストンと納得した。
ハーレイが車に乗り込んだから。
窓を開けて手を振り、そのまま走り去ったから。
(ハーレイの家…)
そうだよね、と幸せ一杯で見回した家。
家も、庭にも見覚えがある。
たった二回しか来ていないけれど、チビの自分は知らないけれど。
どうやら今は、此処が自分の家らしいから。
ハーレイと二人で住んでいる家、ハーレイが「行ってくる」と出勤してゆく家。
(…いつの間に結婚したんだっけ?)
分からないけれど、間違いなく此処が自分の家なのだろう。
そうでなければ、ハーレイが「またな」と出勤して行く筈がないから。
(お嫁さん…)
ハーレイのお嫁さんになれたらしい、と緩む頬。
なんて幸せなのだろう。
独りぼっちにされはしないし、置き去りにだってなることはない。
同じ家で暮らしているのだから。
いつもハーレイと一緒だから、と思ったけれど。
(…ハーレイ、仕事に行っちゃった…?)
そうだったっけ、と眺めたガレージはとうに空っぽ。
前のハーレイのマントの色をしている車は、ハーレイが運転して行ったから。
(えーっと…)
ハーレイは何時に帰るのだったか、「またな」とキスは貰ったけれど。
「行って来ます」のキスを頬っぺたに貰ったけれども、帰る時間を聞いてはいない。
早く帰るのか、遅く帰るのか、それも知らないのが自分。
(でも、夕方には帰るよね?)
仕事で遅くならない限りは。
それに、ハーレイが遅く帰っても…。
(二人で御飯…)
帰るのを待って、二人で御飯。
ゆっくりと食べて、食べ終わったら片付けをして…。
ふふっ、と赤くなった頬。
夜もハーレイと一緒だものね、と。
ハーレイは仕事に出掛けたのだし、自分も頑張るべきだろう。
まずは掃除、と早速始めることにした。
前の自分も綺麗好きだったから、少しも苦にはならない掃除。
ピカピカにしようと張り切ったのに…。
(何処もピカピカ…)
掃除の出番は無さそうだった。
早起きして掃除をしてしまったろうか、家中、すっかり。
キッチンを覗いても、お皿もカップも片付いた後。
綺麗に洗って、きちんと拭いて。
(…ハーレイなのかな?)
一人暮らしが長かったから、つい、習慣で。
自分が家にいるというのに、それまで通りに掃除も、朝食の後片付けも。
(ハーレイらしいと思うけど…)
少しくらいは残しておいて欲しかった。
自分のために何か仕事を、と考えた所でポンと頭に浮かんだ考え。
(パウンドケーキ…!)
あれを焼こう、という思い付き。
ハーレイが好きなパウンドケーキ。
「おふくろが焼くのと同じ味なんだ」と、嬉しそうに食べるパウンドケーキ。
焼いておいたら、きっと喜ばれるから。
帰って来るなり大喜びで食べて、御礼のキスもくれそうだから。
パウンドケーキを焼かなくっちゃ、と捲った袖。
母が焼くのと同じ味のを、と勇んで焼こうとしたけれど。
(…どうやるんだっけ…?)
ママのレシピは、と探し回っても見当たらない。
材料は揃っているというのに。
(小麦粉とバター、砂糖に卵…)
それぞれ一ポンドずつ使って作るから、パウンドケーキ。
小麦粉もバターも、砂糖も、卵も…。
(一ポンドって…?)
何グラムなの、と思い知らされた自分の無知。
肝心のレシピが分かっていないし、考えてみれば…。
(…焼いたことない…)
記憶にある限り、ただの一度も。
母に習った覚えが無い。
結婚したなら、ハーレイのために焼こうと心に決めていたのに。
おふくろの味のパウンドケーキを母に習って、その味の通り。
(なんで練習して来なかったの…!)
ぼくの馬鹿、と泣きそうな気持ちで突っ立っていたら、扉が開いて。
「おっ、パウンドケーキ、焼いてくれるのか?」
これは楽しみだ、と笑顔のハーレイ。
忘れ物を取りに戻ったんだが、と。
「えっと…。パウンドケーキ…」
焼けないんだけど、と言うよりも前にギュッと抱き締められて。
「帰ったら早速、お茶にしような」とハーレイは再び行ってしまった。
パウンドケーキに期待したままで。
どうしても思い出せないレシピ。
レシピがあっても、焼いたことが無いパウンドケーキ。
(どうしたらいいの…?)
ポロリと涙が零れた所で目が覚めた。
真っ暗な部屋で、自分のベッドで。
(…夢だった…?)
ホッとしたけれど、幸せどころか情けない気分だった夢。
ハーレイの夢も、二人きりの家も、望み通りに見られたけれど…。
(正夢になったら困るじゃない…!)
忘れなくちゃ、とクルンと身体を丸くした。
眠り直して忘れなければ、正夢になってしまいそうだから。
いつかハーレイと結婚した時、本当になったら嫌だから。
今度は幸せな夢がいいな、と丸くなる。
パウンドケーキを上手に焼けるぼくがいいな、と。
レシピさえもまだ知らないくせに。ただの一度も、焼いていないくせに…。
夢で見た恋人・了
※ブルー君の夢は、ハーレイ先生と一緒に暮らすこと。夢は見られたようですけれど…。
焼こうと思ったパウンドケーキが作れない夢。忘れてしまう方が良さそうですねv
(俺が見付けたわけじゃないしなあ…)
そうそう上手くはいかないよな、とハーレイがついた小さな溜息。
夜の書斎で、コーヒー片手に本を開いて。
古典の授業で馴染みの竹取物語。
「かぐや姫」の方が多分、通りがいいだろう。
何の気なしに手に取った一冊、たまには古い物語を、と。
竹から生まれた小さな小さな女の子。
月の都から来た姫君。
(これがまた早く育つんだ…)
竹の節の中に入っていたほど、小さな子供。
すくすく育って、アッと言う間にそれは美しい姫君に。
求婚者が列をなすほどに。
噂を聞き付けた帝までもが、姫を欲しいと言い出すほどに。
(こんな具合に、あいつも育ってくれればなあ…)
十四歳にしかならない、小さなブルー。
おまけに少しも伸びない背丈。
「ゆっくり育てよ」とは言ってあるけれど、その方がいいと思うけれども。
たまに育って欲しくなる。
前のブルーと同じ姿に、同じ背丈に。
失くしてしまった愛おしい人、気高く美しかった人。
会いたくてたまらない時もあるから、「早く育ってくれれば…」と。
かぐや姫の物語を開いたばかりに、羨ましくなった月の姫君。
小さなブルーも同じに早く育ってくれればいいのに、と。
(しかしだ、俺が見付けたわけじゃないから…)
望むだけ無駄というものだろう。
竹藪で光る竹を見付けて、ブルーに出会ったわけではないから。
無欲な竹取の翁だからこそ、幸運に恵まれたのだから。
(…俺もブルーを探してたわけじゃないんだが…)
竹藪ならぬ、生徒が大勢集う教室、それに学校。
そういう所で仕事をしていて、竹を採る代わりに生徒を教える。
教師になってから幾つも移っていった学校、ブルーの学校には五月から。
年度始めに少し遅れて、今の学校にやって来た。
(竹を採りには行っていないが…)
生徒を教えに行っただけだが、と考えてみる自分の境遇。
そこでバッタリ出会ったブルー。
光り輝いてはいなかったけれど。
(あいつが光っていたんなら…)
きっと青だな、と思い浮かべる前のブルーのサイオンカラー。
あんな風に青く輝くだろうと、きっと美しいに違いないと。
(金色の竹じゃないんだな)
青く輝く竹なんだな、と重ねた竹取物語。
教室が竹藪だったなら、と。
もしも教室ならぬ竹藪、其処で光る竹を見付けていたら。
竹の中から小さなブルーを取り出したならば…。
(きっと、すくすく育つんだ…)
かぐや姫のように、ぐんぐんと。
昨日よりも今日、今日よりも明日と、それは素晴らしい速さで育つ。
見る間に前のブルーと同じに育って、美しい人になるのだろう。
求婚者が列をなすほどに。
今の時代に帝は何処にもいないけれども、そんな人まで欲しがるほどに。
(…だが、俺のだしな?)
ブルーは俺のブルーだから、と考えた所で気が付いた。
これは竹取物語。
自分の立場は竹取の翁、つまりはブルーの育ての親で。
(…俺のブルーには違いなくても…)
親の立場で「俺のブルー」。
求婚者たちがやって来たなら、ブルーを持ってゆかれるのだろう。
親ではどうにもならないから。
多分、結婚出来ないから。
(おいおい、そいつは困るってもんで…!)
光る竹は勘弁願いたい、と本をパタリと閉じた。
長く待たされる羽目になっても、ブルーと結婚したいから。
いくらブルーが早く育っても、育ての親では駄目だから。
今日は此処まで、と本棚に戻しておいた本。
書斎を後にし、コーヒーを飲んだ愛用のカップも片付けた。
それから、ゆったり入った風呂。
温まったら、パジャマに着替えて寝室へ。
(…今日もいい日ではあったんだ)
小さなブルーの家に寄れたし、仕事の方も順調だった日。
いい日だった、とベッドに入れば、直ぐに眠りが訪れる。
寝付きはとてもいい方だから。
気に懸かることでも出来ない限りは、いつもストンと落ちてゆく眠り。
夢も見ないで朝までグッスリ、そういう日だって珍しくない。
健康的な眠りについては…。
(俺は自信がある方なんだ)
今は必ず明日が来るから。
白いシャングリラの頃と違って、夜明けは必ず来るものだから。
夜の間に攻撃を受けて、船が沈みはしないから。
(うん、本当にいい時代に来たな…)
しかも地球だ、と落ちて行った眠り。
ブルーと一緒に青い地球に来たと、ブルーは少し小さいんだが、と。
ハタと気付けば、立っていた廊下。
家ではなくて、学校の廊下。
(…そうか、これから授業だったな)
きちんとせねば、と確かめた身なり。
締めたネクタイは緩んでいないか、スーツの上着は、と。
ピシッと着込んでいるスーツ。
これが自分の制服だから。仕事にはこれと決めているから。
よし、と扉を開けて教室に入って行ったのだけれど。
(ふむ…)
普通だな、と眺めた教室の中。
教え子たちがズラリと並んで待っている。
ただし、教室一杯の竹。
すっくと伸びた青竹の群れで、それが自分の教え子たち。
変だとも何も思いはしなくて、おもむろに開いた古典の教科書。
「授業を始める」と。
ザワザワと鳴っていた葉擦れの音が静まり、生徒たちは至極真面目なもの。
相手はもちろん、竹なのだけれど。
「では、次の箇所を…」
読むように、と指したら竹の葉擦れが聞こえる。
ちゃんと音読している生徒。
今日もいい日になるだろう。
朝一番の授業からして、幸先のいいスタートだから。
一時間目の授業を終えたら、一休みして次の教室へ。
(…このクラスは今日が初めてだったな)
俺が教えるのは初めてなんだ、と扉を開けたら、大勢の生徒。
此処でもやはり竹が一杯、教室と言うより竹藪だけれど。
(なんだ?)
妙な竹が、と一本の竹に惹き付けられた。
節の一つが青く輝く、なんとも不思議な竹だったから。
(そうだ、竹だった…!)
この竹を俺は探していたんだ、と思った途端に、消え失せた生徒。
周りはすっかりただの竹藪、自分の仕事も教師ではなくて。
(竹を採って帰って…)
何をするんだったか、と考え込んだ自分の仕事。
どうもハッキリしないけれども、竹藪で竹を切るのが仕事。
ついでに光り輝く竹というのを…。
(俺は探していたんだっけな?)
やっと見付けた、と歩み寄った竹。
それを切るのが自分の仕事で、自分の役目というものだから。
教科書などの代わりに竹を切る道具、それもきちんと持っていたから。
(こいつを切って、と…)
力仕事には自信がある。
エイッとばかりに打ち込んだ鉈で、竹はスッパリ切れたのだけれど。
「おおっ…!」
なんと愛らしい、と思わず上げてしまった声。
銀色の髪に赤い瞳の、それは可愛い小さな子供。
竹の節の中に、そういう子供がチョコンと一人。
(俺のブルーだ…!)
かなり小さくて、手の中に収まるサイズだけれど。
それでもブルーで、愛くるしい顔も幼いブルーそのもので。
やっと見付けた、と大喜びで連れ帰ろうとしたのだけれど…。
(…待てよ?)
竹から生まれた小さなブルー。
まだ幼くて、何も言ってはくれないけれども、笑顔で自分を見ているブルー。
(…竹なんだぞ?)
竹から生まれて、すくすく育って、前のブルーときっと同じになるけれど。
アッと言う間に美しく気高く育つのだけれど。
(求婚者が列を…)
これはそういう物語だった、と我に返った。
小さなブルーは確かに自分のものだけれども、自分は育ての親だった。
ついでに、いつか小さなブルーは…。
(月の都に帰るってか!?)
そうだったのだ、と愕然とさせられた自分の立場。
ブルーと結婚出来はしなくて、いつかブルーは月の都へ。
美しく気高く育っても。
見る間に前のブルーと同じに育ったとしても。
(それは困る…!)
俺はまたブルーを失くしてしまう、と受けた衝撃で目が覚めた。
自分のベッドで、真っ暗な部屋で。
(…ゆ、夢か…)
夢だったのか、とホッと一息、小さなブルーは何処にもいない。
竹から生まれた、すくすく育つのだろうブルーは。
僅かな間に前と全く同じに育って、月の都に帰るブルーは。
(…とんでもない夢を見たもんだ…)
やっぱりブルーはチビでもかまわん、とポカリと叩いた自分の頭。
欲を出すから酷い夢をと、あんなとんでもない夢を見るのだと。
(眠り直して…)
忘れるとしよう、竹から生まれた姫君のことは。
小さなブルーでかまわないから。
ゆっくり育って、いつか自分と暮らしてくれれば、それで充分幸せだから…。
夢に見た恋人・了
※ハーレイ先生が夢で見付けたブルー君。竹の中から出て来ましたけど…。
早く育って月の都に帰られるよりは、ゆっくり育って一緒の方がいいですよねv
(やっぱり今度も駄目なのかな…)
飲めないのかな、と小さなブルーがついた溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、自分の部屋で。
ベッドの端にチョコンと座って、テーブルと椅子の方を見て。
今は空っぽの二つの椅子。
テーブルを挟んで置いてあるだけ、誰も座っていない椅子。
その片方がハーレイのための指定席。
向かい側の椅子が、自分の席。
(ハーレイがあそこに座っていても…)
出て来る飲み物は紅茶やジュース。
ハーレイが好きなコーヒーは自分が苦手ということもあって、まず出ない。
出て来たとしても、ハーレイの分しか出て来はしない。
けれど、それ以上に出て来ないものは…。
(……お酒……)
前のハーレイも好きだった。
もちろん、今のハーレイだって。
たまに父が「どうぞ」と勧める夕食の席。
「頂戴します」と嬉しそうなハーレイ、口に含んだら「美味しいですね」と。
父が勧める酒はいつでも、父の自慢の物だから。
「ハーレイ先生にも、是非」と思うような酒しか出さないから。
その父が今日、開けていた酒。
ハーレイの姿は無かったけれども、誰かに貰って来たとかで。
「美味いと評判らしいからな」と味見に一杯。
評判通りの味だったようで、顔を綻ばせて飲んでいた父。
「休みの日にハーレイ先生がいらっしゃったら、お出ししないと」と。
つまり、今週の土曜日にハーレイが来たら、父が「どうぞ」と注ぐのだろう。
子供の自分には飲めない酒を。
ハーレイのために、それに合いそうな料理とセットで。
(…パパにハーレイを盗られちゃうよ…)
決まっちゃった、と零れた溜息。
ただの酒なら、「美味しいですね」で終わるけれども、父が貰って来た酒だから。
手に入れた経緯や、何処の酒かという話やら。
ハーレイも評判を知っていたなら、話はもっと盛り上がるだろう。
「私も初めて飲みましたよ」とか、そんな具合に。
子供の自分には分からない話。
そうでなくても、普段から。
父と母がハーレイと話し始めたら、大抵、置き去りにされているのが自分。
キョトンと話を聞いているだけで、相槌すらも打てはしなくて。
悲しいことに、チビだから。
大人にとっては面白い話、それがサッパリ分からないから。
ただでも分かっていないというのに、酒の話はもっと謎。
辛口がとうとか、甘口だとか。
(お料理だったら、まだ分かるけど…)
ソースが辛いか、甘いかくらいは。
けれど酒だと、どんなものかも分からない。
「スッキリとした喉ごし」だとか、「重い」とか「軽い」。
そういう話になってしまったら、父やハーレイが飲んでいる酒を見詰めるだけ。
あんなに不味い飲み物でスッキリなんて、と。
それはともかく、「重い」や「軽い」。
酒を飲んだら頭がズシンと重くなるのに、胃だって重いだけなのに。
(…ホントに不味くて、次の日は最悪…)
チビの自分は飲めないけれども、前の自分の頃の経験。
前のハーレイが飲んでいた酒、それを何度も強請って飲んだ。
ハーレイが美味しそうに飲むから、飲みたくなって。
(幸せそうな顔をするんだもの…)
その幸せを共有したくて、何度も注いで貰った酒。
ただの一度も、美味しいと思いはしなかった。
せっかくだからと全部飲んでも、美味しい部分は一滴も無し。
あんな飲み物をハーレイと楽しく語り合う父、自分には謎の酒談義。
今度の土曜日はそれに決まりで、夕食の席は…。
(また置き去り…)
普段以上に、酒のお蔭で。
どういう話をしているのかすらも、見当も付かない酒の出番で。
週末のそれは、もう諦めるしかないけれど。
十四歳にしかならない自分は、「ぼくも」と酒を貰えはしない。
酒が飲めるのは二十歳から、それまでは禁止。
父はもちろん、教師のハーレイも「駄目だ」と叱るに決まっているから。
「一口ちょうだい」と強請ってみても。
一口ならぬ一滴でも。
(…貰えたとしても…)
いつか貰える年になっても、飲めないような気がする自分。
前の自分がそうだったから。
ソルジャー・ブルーだった頃には、大人のくせに飲めなかったから。
前のハーレイに強請って飲む度、酷い目に遭った。
美味しくない酒を頑張って飲んで、次の朝には二日酔い。
頭は割れるように痛むし、胸やけはするし、最悪な気分で目覚めた翌朝。
やっぱり飲むんじゃなかった、と。
(だけど、前のぼく…)
何度やっても、それで懲りてはいなかった。
ハーレイが美味しそうに飲むのを見る度、強請って、飲んで。
いつも結果は惨憺たるもの、美味しくはなくて二日酔い。
それでも懲りずに挑み続けた、本当に美味しそうだったから。
ハーレイの幸せそうな顔つき、それを共有したかったから。
「美味しいね」と。
幸せに二人、笑い合いながら、語り合いながら。
杯を重ねて、幸せな時を。
けれど、失敗に終わり続けた挑戦。
前のハーレイの飲み友達だった、ヒルマンたちのようにはいかなくて。
ハーレイと楽しく酒は飲めなくて、グラスに一杯が精一杯。
それも「美味しくない…」と嘆きながら飲んで、挙句の果てに二日酔い。
(…今度のぼくも、ああなっちゃうわけ…?)
あまり飲める気がしないから。
普段に父が飲んでいる酒も、美味しそうだと思わないから。
(…パパが飲んでたら、美味しそうだけど…)
酒のボトルが置いてあっても、少しも心惹かれはしない。
美味しそうだと眺めはしなくて、素通りするだけ。
舐めてみたいとも思わない。
ブランデーでも、ワインでも。
今の時代の、今の自分が住む地域。此処ならではの日本酒でも。
どんな酒でも、「ふうん?」と眺めて、それでおしまい。
また新しいのが置いてあるな、と思うだけ。
辛口も甘口も、「重い」も「軽い」も、自分にはまるで無関係。
想像すらも出来はしないし、飲みたいと思いもしないのに。
(…飲めなかったら…)
これから先もハーレイを盗られちゃうんだっけ、と零れる溜息。
父が新しい酒を手に入れたら。
ハーレイに「どうぞ」と勧め始めたら。
たちまち始まる酒談義。
美味しそうに飲む父とハーレイ、きっと自分は置き去りになる。
たとえ大きく育っていても。
ハーレイと結婚していたとしても。
なんとも酷い、と思うけれども、飲めなかったら確実な未来。
ハーレイは父と杯を重ね、自分はポツンと座っているだけ。
料理やつまみを作るだろう母、その隣に、多分。
母と一緒に紅茶でも飲んで、「楽しそうだね」とハーレイと父を見守りながら。
(それに、ママだって…)
少しは酒を飲めるのだから、自分と違って話に入れる。
ほんの少しだけ注いで貰って、酒の話題に入ってゆける。
甘口に辛口、「重い」や「軽い」。
そんな話をしている所へ、「そうですわね」と。
美味しさについて語れる母。
前の自分のように「不味い」と思わない母。
(…ぼくがホントに前と同じなら…)
もう本当に、置いてゆかれてしまうのだろう。
酒の美味しさが分からないから、どうしようもなくて。
「美味しい」と喜んでいる人たちの中で、「不味い」と言えはしないから。
勇気を奮って言ってみたって、「子供なんだな」と笑われるオチ。
身体ばっかり大きくなっても、舌は変わらず子供のままだと。
酒が飲めないチビのまま。
(…そういう体質、あるんだけれど…)
あるけれど、ごくごく少数派。
普通は飲めるものだから。
大人になったら、気に入りの酒の一つや二つはあるものだから。
(それに、地球のお酒…)
前のハーレイが飲んでいた酒は、合成の酒。
白いシャングリラで本物の酒は無理だったから。
今では酒は全て本物、おまけに地球の水で仕込まれたもの。
ハーレイからすれば「夢のような」酒で、素晴らしいのに違いない。
だからきっと、今のハーレイも…。
(ぼくと二人で飲むんだったら、前よりも、もっと…)
美味しそうに飲んで、ずっと幸せそうなのだろう。
「こんな酒を飲める時代が来るなんて」と。
もしも自分が酒好きだったら、「お前も飲むだろ?」と注いでくれて。
乾杯してから、二人で何度も重ねる杯。
ゼルやヒルマンたちがやっていたように、ボトルがすっかり空になるまで。
それが出来たら、と思うけれども、どうなのだろう?
(…今のぼくも、駄目…?)
前と同じに駄目なのだろうか、ハーレイと飲めはしないだろうか。
「美味しくない」と愚痴を零しながら一杯だけ飲んで、次の朝には二日酔い。
そういうコースが待っているだけで、楽しく飲めはしないのだろうか。
(…体質、変わっているといいんだけれど…)
サイオンが不器用になった代わりに、お酒は平気で飲めるとか。
美味しく飲めて、酔わないだとか。
そうだといいな、と夢を見る。
今度はハーレイと飲みたいから。
父にハーレイを盗られてしまって置き去りよりかは、ハーレイと二人。
「美味しいよね」と、「地球のお酒だね」と、幸せに杯を重ねたいから…。
飲めないぼく・了
※ハーレイとお酒が飲めそうもない、と溜息をつくブルー君。まだ子供なのに。
今度は飲めるといいんですけど、体質はきっと同じでしょうね。でも、飲みそうv