(俺にとっては馴染みの味で…)
朝の定番だったんだがな、とハーレイが眺めるマーマレード。
トーストに塗り付けた蜜のような金色、夏の太陽を思わせる色。
ガブリと齧れば、いつもの味。
甘いけれども少しビターな、夏ミカンで出来たマーマレード。
幼い頃から、朝のテーブルにあったそれ。
大きなガラスの瓶に一杯、いつでも朝の日射しの中に。
(おふくろ、いつから作ってたんだか…)
物心ついた頃には、今と変わらない味だった。
きっとレシピも変わっていなくて、いつでも同じ味なのだろう。
(加減をするとは言ってたが…)
その年の夏ミカンの出来に合わせて、入れる砂糖や蜂蜜の量を。
煮詰める時間も変わるのだろう、夏ミカンの皮が含んだ水分の量も色々だから。
(俺も手伝ってはいたんだがなあ…)
レシピそのものを聞いてはいない。
わざわざ自分で作らなくても、不自由はしないマーマレード。
隣町の家に出掛けて行ったら、大きな瓶を渡されるから。
「ほら、いつもの」と手渡されるのが常だから。
夏ミカンの金色が詰まった瓶を。
母の手作りのマーマレードがたっぷり入ったガラスの瓶を。
子供の頃から舌に馴染んだ味、一年に一度、母がせっせと作る味。
自分が育った隣町の家、其処の庭にある夏ミカンの実で。
庭のシンボルと言っていいほど、目立つ大きな夏ミカンの木。
もっと背の高い木もあるというのに、幾つも実る金色の実。
それがドッサリ、そのせいで目立つ。
通りすがりの散歩の人でも、足を止めて暫し眺めるほどに。
なんと見事な夏ミカンの木かと、手入れもきっと大変だろうと。
(大した手入れはしてないんだがな?)
枝の剪定と、肥料を入れてやるくらい。
手がかからないのが両親の自慢で、手間いらずで実る夏ミカン。
(おまけに、当たり外れもないし…)
果樹にありがちな、当たり年とか外れ年。
個人の庭で育つ果樹だと、気まぐれな木が多いもの。
食べ切れないほどの実をつけた翌年、数えるほどしか実が出来ないとか。
(しかし、あの木は優秀な木で…)
そうなったことは一度も無かった、自分の記憶にある限り。
季節になったら実る金色、その数はいつも変わらない。
数えていたなら、「今年は少し少ないな」と思う年もあるかもしれないけれど。
ほんの二個だか、三個だかの差で。
きっとそういう木なのだと思う、両親もそう言っているから。
当たり外れのない夏ミカンの木だと、褒めるのを何度も聞いているから。
夏ミカンの実は、秋に黄色くなるけれど。
他のミカンとそっくりだけれど、食べようとしたら失敗する実。
名前の通りに夏が食べ頃、正確に言うなら初夏の頃。
それまでは酸っぱいだけのミカンで、甘くなるのは冬を越してから。
(甘くなったら、マーマレード作りの季節ってな)
沢山の実をもいで、キッチンに運んで、其処で始まるマーマレード作り。
母がグツグツと大鍋で煮詰める、太陽の金色のマーマレード。
(本当に俺には馴染みの味で…)
朝のテーブルには欠かせないんだ、と眺めるマーマレードの瓶。
トーストと一緒に頬張った味も、多分、一種のおふくろの味。
料理とは違うものだけど。
それだけで一品になりはしなくて、トーストに塗ったり、料理のソースの隠し味にしたり。
(まさか、こいつがプレゼントになるとは思わなかったぞ)
両親はマーマレードが出来上がる度に、「どうぞ」と配って回るけど。
近所の人や友人たちにと、届けに出掛けてゆくのだけれど。
(俺もお使いに行ったもんだが…)
マーマレードの瓶を抱えて、近所の家へ。
隣町の家に住んでいた頃には、「こんにちは」とチャイムを鳴らして。
けれどそこまで、あくまで「お使い」。
自分の友達にプレゼントしたりはしなかった。
家に来た友達が「美味いな」と褒めたら、母が土産に持たせた程度。
プレゼントするのは父か母かで、自分は常に脇役だった。
ところが、今では変わった事情。
夏ミカンの実のマーマレードを小さなブルーが食べている。
前の生から愛したブルーが、生まれ変わって再び出会えた恋人が。
(あいつ、ホントに気に入っちまって…)
まるで宝物のような扱い、マーマレードは金色なだけで、黄金とは違うものなのに。
本物の金では出来ていないのに、顔を輝かせた小さなブルー。
両親からの贈り物だ、と初めて届けてやった日に。
「俺の嫁さんになるお前にプレゼントだそうだ」と、両親の言葉を伝えた時に。
それは嬉しそうに、マーマレードの瓶を見ていたブルー。
表向きはブルーの両親への御礼だったのに。いつも御馳走になっているから。
(そのせいで、先に食われちまったんだっけな)
ふと思い出して、零れた笑い。
小さなブルーが開けるよりも前に、マーマレードの瓶を開けてしまっていた両親。
「ぼくよりも先に食べられちゃった」と、泣きそうな顔をしていたブルー。
まるでこの世の終わりのように。
(親父たちからのプレゼントだしなあ…)
自分が思ったよりも遥かに、ブルーには大切だったのだろう。
両親から預かって来たマーマレードが、最初の贈り物だった瓶が。
「パパとママも気に入ってるから、直ぐ無くなるよ」と肩を落としていたブルー。
せっかく貰ったマーマレードなのに、アッと言う間に無くなっちゃう、と。
だから、急いで慰めてやった。
隣町の家で毎年、山のように実る夏ミカン。
マーマレードも山ほど出来るし、またプレゼントしてやると。
気に入ったのなら、いくらでも、と。
(そして、その通りになったんだよなあ…)
隣町で暮らす両親にも、報告したから。
小さなブルーは気に入ったようだと、これからも届けてやりたいと。
もちろん喜んでくれた両親、「いくらでも持って行くといい」と。
だから今では、自分からブルーへのプレゼント。
「おふくろのマーマレードを届けに来たぞ」と、「そろそろ無くなる頃だろう?」と。
大喜びで受け取るブルー。
「ありがとう!」と、「ハーレイのお母さんたちにもよろしくね」と。
今朝もブルーは食べているだろう、自分と同じに、あの金色を。
夏ミカンの実のマーマレードを、キツネ色のトーストにたっぷりと塗って。
(俺がマーマレードを届けに行くのは、いつもお使いだったんだがなあ…)
今じゃ俺からのプレゼントだ、と浮かべた笑み。
前の生から愛したブルーに、心をこめて。
「お前の好きなマーマレードだ」と、「また持って来てやるからな」と。
恋人に贈るマーマレード。
両親の使いで行くのではなくて、自分のために。
小さなブルーの喜ぶ顔を見たいから。
「ありがとう!」と弾ける笑顔が、もう嬉しくてたまらないから。
なんとも素敵な贈り物になった、幼い頃からの馴染みの味。
当たり前のように朝のテーブルにあった、夏ミカンの金色のマーマレード。
それを恋人に届けにゆくのが今の自分で、マーマレードは立派な贈り物。
作っているのは母だけれども、それはプレゼントにありがちなこと。
店で買った品物を贈るのだったら、自分の手作りではないのだから。
菓子にしたって、食べ物にしたって、プロが作ったものだから。
だからいいんだ、と頬を緩めたマーマレードのプレゼント。
(あいつも喜んでくれるんだしな?)
もう最高のプレゼントなんだ、とトーストに塗ったマーマレード。
この味がいいと、おふくろの味だが今はブルーも気に入りの味、と。
(また、その内に届けてやらんと…)
新しい瓶を持って行ってやろう、と思い浮かべたブルーの顔。
きっと今度も喜んでくれる、「ありがとう!」と瓶を抱き締めて。
「お母さんたちにもよろしくね」と、それは愛くるしい笑みを湛えて。
本当に最高のプレゼントだな、とマーマレードの瓶を眺めて頷いたけれど。
(…待てよ…?)
小さなブルーがいつも口にする、両親への言葉。
「よろしくね」と、「ハーレイのお母さんたちにも」と。
もしかしたら、マーマレードを届けにゆくのは自分だけれども、ブルーの中では…。
(おふくろたちからのプレゼントなのか…!?)
気付いた瞬間、そうだと分かった。
ブルーだけでなくて、自分の両親の方もそのつもり。
隣町の家に出掛けて行ったら、「ブルー君の分も」と持たされるから。
(俺は今でも、お使いだってか…?)
マーマレードの瓶を届けに出掛ける先が変わっただけか、と苦笑するしかない現実。
どうやら自分は変わらないらしい、隣町の家にいた頃と。
近所の家へと瓶を抱えて、お使いに出掛けていた頃と。
(まあ、いいんだがな…)
小さなブルーが、マーマレードを喜んで貰ってくれるなら。
笑顔になってくれるのだったら、それでいい。
「ハーレイも同じのを食べてるんだよね」と、「これが大好き」と。
マーマレードが繋ぐ食卓、小さなブルーの家の朝食にも、この金色があるのなら…。
マーマレードと俺・了
※ハーレイ先生には馴染みのマーマレード。今はブルーへのプレゼント。
いそいそ届けているようですけど、お使いだったらしい実態。それでも幸せなんですよねv
(んーと…)
喉が渇いた、と小さなブルーが見回した部屋。
自分のためのお城だけれども、生憎と飲み物は置かれていない。
クッキーなどの食べ物だって。
ハーレイが来た時は、母が運んで来てくれるけれど、普段は置かれていないもの。
紅茶が飲みたい気分なのに。
カップに一杯、熱い紅茶を。そういう気分。
ストレートでも、レモンティーでも、ミルクティーでもかまわないから。
(…おやつの時に、お茶…)
飲まなかったっけ、と思い出した。
学校から帰って、直ぐに食べたおやつ。母が焼いてくれた胡桃のタルト。
「飲み物は?」と訊かれて、頭に浮かんだココア。
ホットココアが欲しかったから、母に頼んで美味しく飲んだ。
胡桃のタルトを味わいながら、熱いココアを。
(失敗しちゃった…)
甘かったココアは、紅茶よりもずっと味が濃いから。
ホイップクリームもたっぷり浮かんでいたから、もう充分だと覚えた満足。
タルトも食べたし、ココアも飲んだ、と。
けれども、今日の午後にあった体育の授業。
負担にはならなかったのだけれど、弾んでいた息。
あれから水を飲んではいない。
ほんの少しだけ、授業が終わった直後に学校で喉を潤した。
喉を傷めてしまわないよう、湿らせようと。
それが最後の水分補給で、お次がココア。
たった一杯しか飲まなかったココア、きっと水分不足だろう。
紅茶を選ばなかったから。うっかりココアにしてしまったから。
おやつに紅茶を選んだ時だと、母がポットを持ってくる。
「はい、どうぞ」と。
時間が経って紅茶が濃くなる時に備えて、差し湯のポットがつくことも。
ポットの紅茶なら二杯は飲めるし、二杯飲んでもまだ残る。
お湯を使えば四杯分以上になるだろう。
流石にそんなに飲めないけれども、体育の授業が午後だった日は紅茶。
身体がそういう気分だから。
水を沢山、と思うから。
(だけど、失敗…)
ハードではなかった今日の体育、息は弾んでも楽しかった。
ごく簡単なマット運動、順番待ちの方が長かったから。
マット運動も遊びのようなものだったから。
(身体、疲れていなかったから…)
紅茶という気分がしなかった。
どちらかと言えば甘い飲み物、そっちが欲しいと。
だから選んだホットココア。
今から思えば、ミルクティーにすべきだったのだろう。
あれなら沢山飲めるから。
砂糖を多めに入れてやったら、充分に甘くなるのだから。
間違えて選んだ、おやつの飲み物。
紅茶の代わりにホットココア。
喉が渇いて、どうにもならない。
部屋に飲み物は置いていないのに、見回したって出て来ないのに。
(ハーレイ、来るかな…)
もしもハーレイが来てくれたならば、部屋に紅茶がやって来る。
母が運んで来てくれる。
ハーレイの分と、自分の分を。
いつもだったらカップに一杯、そのくらいしか飲まないけれど。
カップに半分の時もあるけれど、母はポットにたっぷり持ってくるから…。
(沢山飲めるよ、おかわりをして)
そしたら飲める、と時計を眺めた。
ハーレイが来るなら、あと少しだけの我慢だから、と。
なのに、一向に来ないハーレイ。
チャイムの音も聞こえて来ないし、窓から見たって車は来ない。
前のハーレイのマントの緑をした車。ハーレイの愛車。
たまに生垣の向こうを走ってゆくのは、違う色をした車ばかりで。
(…今日は駄目みたい…)
もうこんな時間、と溜息が零れた時計の針が指す時間。
ハーレイが来ないということは…。
(紅茶、持って来てくれないよ、ママ…)
部屋にポツンと座っていたって、けして紅茶は届かない。
扉を開けて「ママ、紅茶!」と叫べば、届くかもしれないけれど。
(…でも、来なさいって言われるよね?)
多分そっち、とハッキリ分かる。
この部屋は自分のお城だけれども、一人だけでは飲んだり食べたりしないから。
ハーレイか、友達か、いわゆるゲスト。
そういう誰かが来た時だけしか、紅茶のポットは届かないから。
なんとも困った、乾いた喉。
紅茶が飲みたい気分の喉。
夕食は父が帰ってからだし、まだまだ先に決まっている。
(晩御飯まで待てないよ…)
それまでに何か飲まなくちゃ、と諦めてお城の外に出た。
階段を下りて、キッチンへ。
紅茶は上手く淹れられないから、冷蔵庫の牛乳か何かでいいや、と。
運が良ければジュースが入っているかもしれない。
たまに朝食用にオレンジジュースなどを母が買うこともあるのだから。
(牛乳か、ジュース…)
ホントは紅茶の気分なんだけど、と冷蔵庫を開けて覗いたら。
「あら、ブルー?」
お腹空いたの、と母に訊かれた。夕食の支度をしていた母に。
「ううん、牛乳かジュース…」
喉が渇いてしまったから、と冷蔵庫の中を覗き込んでいたら。
「…そんなのでいいの?」
温かい飲み物の方がいいわよ、この時間なら。
嫌でなければ、紅茶を淹れてあげるから、飲んで行ったら?
「ホント!?」
淹れてくれるの、と喜んだ。
早速、お湯を沸かしている母。
「ちょっと待ってね」と、「ダイニングに持って行ってあげるから」と。
思いがけなく淹れて貰えた紅茶。
熱いポットと、差し湯を満たした小さなポット。
好みで入れられるミルクもたっぷり、砂糖の壺も。
母に「ありがとう」と御礼を言って、カップに注いだ香り高い紅茶。
牛乳やジュースとは違う飲み物、ひと手間かかっている飲み物。
(ふふっ、ぼく用…)
来て良かった、と傾けたカップの幸せの味。
ミルクも加えたまろやかな紅茶、砂糖の甘みがとても優しい。
牛乳やジュースではこうはいかない、ふうわりと幸せが広がりはしない。
喉の渇きが癒えるだけのことで、それっきり。
余韻も無ければ、口へと運ぶ楽しみも、きっと。
(紅茶を淹れて貰えて良かった…)
ママだもんね、と浮かんだ笑み。
きっと母なら、頼めば淹れてくれたのだろう。
冷蔵庫を覗き込むよりも前に、「紅茶を淹れて」と言ったなら。
忙しくしていても、手を止めて。
「ちょっと待ってね」と、さっきのように。
そして紅茶にありつけただろう、今の自分が飲んでいるように。
熱い紅茶を満たしたポットと、差し湯のポット。
ミルクも添えて、砂糖壺まで。
本当だったら、お茶の時間はとっくに終わった後なのに。
この幸せは母のお蔭だ、と嬉しくなった。
(ママ、優しいもの…)
きっと母なら、これが夜中でも紅茶を淹れてくれるのだろう。
もしも自分が欲しがったならば、母も必要だと判断したら。
どんな時間でも、いつだって紅茶。
熱い紅茶を淹れて貰えて、幸せたっぷりで飲めるのだろう。
(ママがいるから、いつだって…)
紅茶でなくてもココアだって、と思った所で気が付いた。
今の自分には当たり前の母、夕食の支度の途中でも紅茶を淹れてくれた母。
学校から帰れば家にいてくれて、病気で休んでしまった時にもいてくれる母。
すっかり当たり前になっているけれど、その母は…。
(…前のぼくには、いなかったんだよ…)
母はもちろん、父だって。
どちらも育ての親だっただけで、その記憶さえも失くしてしまった。
シャングリラで暮らしていた頃の自分は、こんな風に紅茶を飲めなかった。
「はい、どうぞ」と母が淹れてくれる紅茶。
牛乳やジュースよりも紅茶の方が、と気遣ってくれる母は何処にもいなかった。
今はいつだって、母の紅茶が飲めるのに。
たとえ夜中に飲みたくなっても、それが身体のためならば。
母もそれがいいと思ったならば。
いつも、いつだって飲める母が淹れた紅茶。
今の自分には母がいるから、本物の母がいてくれるから。
(ぼくって、とっても幸せなんだ…)
前のぼくよりずっと幸せ、と眺め回したダイニング。
もう少ししたら、母が夕食の準備をしにやって来るのだろう。
テーブルの上を綺麗に拭いて、取り分けるためのお皿などを並べに。
その時、自分がのんびり紅茶を飲んでいたなら、邪魔にならない所へ置きに。
(…準備が出来たら、パパが帰って来て…)
母は夕食の仕上げを始める。
熱い料理を、出来立ての料理を並べられるように。
美味しい料理が、今日も幾つもテーブルに運ばれて来るのだろう。
それまで紅茶を飲んでいたって、母は叱りはしないだろう。
「晩御飯もちゃんと食べるのよ?」と注意するだけで。
こんな時間でも飲んでいい紅茶、いつだって飲める母が淹れた紅茶。
(前のぼくだと、ママはいなくて…)
紅茶を飲むなら自分で淹れるか、ハーレイが淹れるか、でなければ青の間の係の誰か。
ハーレイには「紅茶が飲みたいな」と甘えられても、それはハーレイが恋人だから。
今のハーレイにはまだ甘えられない、一緒に暮らしていないから。
それに、前のハーレイは恋人である前にキャプテンで…。
(いつでも頼めはしなかったよ、紅茶…)
キャプテンの仕事が優先だから。
いくらソルジャーが偉い存在でも、ソルジャーの紅茶よりシャングリラの方が大切だから。
(今のぼくだと、ママが紅茶を淹れてくれて…)
いつかはハーレイも淹れてくれるよ、と思ったら溢れた幸せな気持ち。
今のハーレイなら、前のハーレイより時間に余裕があるだろうから。
(明日は仕事なんだが、って言っていたって…)
母と同じに、夜中でも淹れてくれそうな紅茶。眠い目を擦りながらでも。
なんて幸せなのだろう、と紅茶のお蔭で気付いた幸せな今。
いつだってぼくは紅茶を飲めると、今はママで、いつかはハーレイだよねと…。
いつだって飲める・了
※ブルー君が飲みたくなってしまった紅茶。お母さんに淹れて貰えて、幸せ一杯。
それだけでも充分、幸せだったのに、気付いた前の自分との違い。もう最高に幸せですよねv
(…今夜は一杯やるとするかな)
ちょいと飲みたい気分なんだ、とハーレイが眺めた棚の酒。
夕食の後で広げた新聞、それに広告が載っていたから。
ブルーの家には寄り損なった日、だから自分の家で夕食。
そういうパターンも珍しくはないし、ブルーも慣れているものだから。
(寂しがってはいない筈なんだ)
残念には思ったとしても。
またその内に会える日が来る、明日か、明後日か、土曜日になるか。
お互い、それが分かっているから、一人で酒を飲んでいたって…。
(ブルーに悪いわけじゃないしな?)
あいつはあいつで好きにしてるさ、と断言出来る。
「ハーレイが来ないよ…」と思っていたって、何処かで気分を切り替えて。
この時間ならば、両親も一緒に食後のお茶といった所か。
軽いお菓子をつまんでいるのか、果物なのか。
それが終わったら部屋に帰って、のんびり読書。
頃合いを見てお風呂に入って、寝るまでは自由時間の続き。
そんなトコだな、と綻んだ顔。
小さなブルーの日々の過ごし方は、だいたい把握出来ているから。
「あのね…」と話をしてくれるから、いつの間にやら覚えてしまった。
会えない日でも、ブルーは楽しく過ごしていると。
一人の時間を有意義に使っているようだと。
(はてさて、今夜はどうするんだか…)
どういう本を読むんだろうな、と思い浮かべたブルーの本棚。
あの中のどれがお供を仰せつかるのか、ブルーに選んで貰えるのかと。
ブルーはブルーで好きにしているし、こっちは酒だ、と向かった戸棚。
新聞広告にあったのと同じ銘柄、気に入りの一つ。
(あいつは元気にしてるんだからな?)
学校で挨拶して来たブルー。
ほんの少しの立ち話の間、ブルーを観察していたけれど。
具合が悪そうな気配はまるで無かったし、本当に安心できる夜。
ブルーの家には寄れなかったけれど、ブルーは元気にしていると。
こういう日だって、特に珍しくはないんだから、と。
(さてと…)
俺の今夜のお供はこれだ、と取り出したボトル。
たまに飲むから切ってある封、前ほどのペースでは減らないけれど。
前と言っても、小さなブルーに会うよりも前。
いつも一人で夕食だったし、酒の出番は幾らでもあった。
今はめっきり減ってしまって、酒を飲まない日の方が多い。
健康的だと喜ぶべきか、お楽しみが減ったと悲しむべきか。
(…どうなんだかな?)
酒好きとしては、とボトルをテーブルに置いて、お次はグラス。
書斎で飲んでもいいのだけれども、今夜はちょっぴりゴージャスな酒にしたいから。
(こいつは書斎に似合わないんだ)
あそこで飲むなら、せいぜいチーズ、と酒の肴の支度にかかる。
冷蔵庫にある食材を使って、カナッペを幾つか。
それから野菜スティックも。つけるディップも、手作りで。
(後はオリーブ…)
チーズも出そう、と盛り合わせた皿。
新聞の広告がこうだったから。
見栄えする肴を何種類も添えて、美味しそうに演出してあったから。
一人で飲むなら、やっぱり楽しい酒がいい。
行きつけの店で飲む時のように、肴もつけて。
グラスに注いだ気に入りの酒。
水割りにするつもりだけれども、まずは割らずにストレートで少し。
(うん、この味だ)
広告で見た酒の持ち味、それが広がる口の中。
酒の個性は色々あるから、棚のコレクションの味も色々。
今夜の気分はまさにこの味、飲みたかった味が滑ってゆく喉。
(俺はこのままでもいけるんだが…)
酒には強いし、ストレートでも充分飲める。
ただ、問題は今日の曜日で、週末ではないものだから。
ストレートで何杯も飲むというのは如何なものか、と平日は水割りに決めている。
揃えた肴に申し訳ない気もするけれども、これが自分の流儀だから。
(罪な日に広告を載せやがって…)
週末を控えた日にして欲しい、と考えたけれど、頭に浮かんだブルーの顔。
特に用事が入らない限り、小さなブルーと過ごす週末。
(今は事情が違うんだった…)
週末でもそんなに飲めはしないな、とコツンと叩いた自分の頭。
ウッカリ者めと、早速に酒が回ったのかと。
恋人のことさえ忘れ果てるほど、もう気持ち良く酔ったのかと。
ほんの一口、ストレートで口にしただけで。
酒を喉へと落とし込んだだけで、もう酔っ払っているのかと。
なにしろ、酒は久しぶりだから。
この前、こうして飲んでいたのは、いつだったか直ぐに出て来ないから。
とはいえ、ストレートでグラスに一杯飲み干そうとも、酔わない自分。
一口で酔っ払うわけなどはなくて、単に自分が迂闊だっただけ。
気ままな独身人生を謳歌していた時代の方が長いから。
小さなブルーと出会うまでは、ずっとそうだったから。
(あいつと会ったら、色々と事情が変わっちまって…)
酒だってとんと御無沙汰なんだ、と頬張るカナッペ。
たまに飲む酒は、チーズがあれば上等だから。
こんなに肴を揃えた酒は久しぶり。
(ゴージャスな酒じゃない方もだな…)
めっきり減ってしまったよなあ、と健康的なのかどうかと戻った思考。
酒を飲もうと肴を作り始める前に考えたこと。
飲む回数が激減したこと、それは酒好きとしてはどうなのか、と。
健康的になったと喜ぶべきか、飲めなくなったと悲しむべきか。
(どっちなんだかなあ…)
はてさて、と訊こうにも、一人の酒。
「どう思う?」と尋ねたくてもいない相棒、飲み友達。
一人で判断するしかないか、と水割りのグラスを傾けた所で思い出した。
訊ける相手ならいるじゃないかと、それも酒好きが。
自分と全く同じ酒好き、酒の好みも同じ筈。
体格も顔も、そっくり同じなのだから。
(よし、前の俺だ)
あいつの意見を訊こうじゃないか、と自分自身に問い掛けた。
キャプテン・ハーレイだった自分に、遠く遥かな時の彼方で生きた自分に。
「この状況をどう思う?」と。
飲む回数が減ったんだがと、健康的だと思うべきかと。
「お前さんはどうだ?」と酒を片手に尋ねた相手。
前の自分だったキャプテン・ハーレイ。
尋ねたのは自分で、答えを返すのも自分だけれど。
(うーむ…)
羨ましい、と反応したのがキャプテン・ハーレイ、今の自分が飲んでいる席。
「酒の肴はたっぷりとあるし、酒だって地球の酒じゃないか」と。
健康的と言うより贅沢だろう、と前の自分の記憶が返した。
酒も肴も凄いけれども、飲みたい時に飲めることが、と。
(…そうだな、俺は広告を見て…)
それで飲もうと思ったのだった、今夜の酒を。
どうせだったらゴージャスにいこう、と肴もあれこれ用意して。
けれども、前の自分は違った。
確かに酒は「飲みたい時に」飲んでいたけれど、今の自分と同じだけれど。
(広告の酒が美味そうだから、と…)
飲めはしなかったな、と遠い記憶に思いを馳せた。
そもそも新聞広告自体が存在しなかったシャングリラ。
だから出会えはしない広告、それに惹かれるわけがない。
仮に広告があったとしても…。
(思い付いて、その日に飲めるかどうかは…)
分からなかったのが、シャングリラという船にいた頃。
あの船の酒は合成だったけれど、部屋にボトルは持っていた。
開けて飲むのは自由とはいえ、キャプテンの仕事に邪魔された酒。
飲みたい気分になった時でも、仕事があればそうはいかない。
何度も酒を諦めたのだった、前の自分は。
「今日は駄目だ」と、「またにしよう」と。
飲めば、仕事が出来ないから。…時間に余裕が無かったから。
なんと贅沢になったものだ、と目を見開いてしまった酒。
思い立ったら、戸棚から出せばいいのだから。
グラスを持って来て、ボトルの中身を注ぐだけ。
それで始まる贅沢な酒宴、テーブルには自分一人でも。
酒の肴など何も無くても、飲みたい時に好きに飲める酒。
(…健康的になったも何も…)
とてつもなく贅沢な酒だったんだ、とグラスの中身をまじまじと見た。
「広告の酒が美味そうだから」と飲みたくなった今日の酒。
ゴージャスに飲もうと肴を揃えて、久しぶりだと思ったけれど。
(前の俺だと、こんな風には…)
いかなかった日も多かった。
酒の肴が何も無いとか、そういう意味のことではなくて。
思い立っても飲めなかった酒、キャプテンとしての仕事のせいで。
(おまけに、キャプテンだった頃の仕事ってヤツは…)
教師の仕事とはまるで違って、船の仲間の命が懸かっていた仕事。
今の自分とは比較にならない、重すぎる仕事。
そのせいで何度も諦めていた酒、それを思い立ったら飲んでいる自分。
古典の教師しかしていないのに。
仕事の御褒美に酒を飲むなら、前の自分の方が遥かに相応しかったろうに。
(…それを今の俺が…)
広告を見たからと飲んでいるのか、と気付いた贅沢。
酒を飲む日は減ったけれども、きっと中身は濃いのだろう。
前の自分には飲めなかった酒、いつでも飲める自由という美酒。
そいつに乾杯、とグラスを掲げた、前の自分になったつもりで。
今はいつでも好きに飲めると、酒を自由に飲める時代は酒を何よりも美味くするよな、と…。
いつでも飲める・了
※お酒が大好きなハーレイ先生、思い立ったら一人でも飲んでいるようですけど。
前のハーレイには出来なかった贅沢、「好きな時に酒」。今夜のお酒は美味しそうですねv
(せっかくハーレイと会えたのに…)
キスは出来ないし結婚も駄目、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
もう何度目だか、数え切れない溜息の数。
今日だけではなくて、もっと前から。
ハーレイと再会して前の自分の記憶が戻った、五月の三日。
その日にはまだ、溜息は一つも出なかったけれど。
「ただいま」と胸が一杯になって。
「帰って来たよ」とハーレイに告げて、抱き締めて貰って、幸せだった日。
メギドで終わった筈の命が、恋が今へと繋がったから。
新しい身体と命だけれども、またハーレイと巡り会えたから。
あの時の幸せは忘れていないし、今も変わらず幸せだけれど。
ハーレイとは恋人同士だけれども、前の自分と同じようにはいかない恋。
今の自分はチビだから。
十四歳にしかならない子供で、結婚出来る十八歳はずっと先。
義務教育さえ終わっていないし、ハーレイと一緒に暮らせはしない。
その上、キスも出来ない有様。
ハーレイはキスをくれるけれども、頬と額にしか貰えないキス。
唇へのキスは一つもくれない、「俺は子供にキスはしない」と。
前の自分と同じ背丈に育つまで貰えない、唇へのキス。
ハーレイがそう決めたから。
どんなにキスを強請ってみたって、「駄目だ」と許してくれないから。
前の自分とハーレイの恋は、誰にも言えなかった恋。
ソルジャーとキャプテン、白いシャングリラを導く二人。
前の自分が守り続けた白い船。ハーレイが舵を握った船。
どちらが欠けても、守れなかったろうシャングリラと船の仲間の命。
そんな二人が恋人同士だと知れてしまったら、大変だから。
シャングリラの命運を左右する二人、ソルジャーとキャプテン。
信頼し合うことは許されても、恋となったらそうはいかない。
自分たちの都合で船の未来を決めるのだろう、と言われそうだから。
けれども、今の自分とハーレイ。
ハーレイはただの古典の教師で、自分は教え子。
たったそれだけ、他はせいぜい…。
(ハーレイがぼくの守り役なだけ…)
ハーレイと再会した日に起こした聖痕現象。
前の自分がメギドでキースに撃たれた傷痕、それとそっくり同じ場所から溢れた鮮血。
目にも肌にも傷は全く無かったけれども、傷の痛みで気絶した自分。
出血の量も多かった上に、遠い昔には聖痕のせいで寝たきりになった人の記録もあったから。
聖痕が二度と出ないようにと、ハーレイが守り役に選ばれた。
だから、いつでも会えるハーレイ。
仕事の無い日は家に来てくれるし、仕事が早く終わった日にも。
(前のぼくたちとは、逆だもんね?)
一緒にいる方がいいとされる二人、そうすれば聖痕は出ないだろうから。
まるで恋人同士みたいに、何度会ってもかまわない二人。
前の自分たちは、懸命に恋を隠したのに。
(今も、バレたら大変だけど…)
それは自分がチビだから。
恋をするには早すぎる年で、おまけに教師と教え子だから。
だから今度は結婚も出来る、十八歳になったなら。
前の自分と同じに育って、両親が許してくれたなら。
前と違って、無い障害。ハッピーエンドを迎えられる二人。
ところが自分はチビの子供で、ハーレイに相手にされない始末。
どう頑張っても、唇へのキスは貰えない。
(本物の恋人同士にだって…)
なれはしなくて、前の自分のようにはいかない。
ハーレイが訪ねて来てくれる部屋に、ベッドはちゃんと置いてあるのに。
本物の恋人同士だったら特別な場所で、甘い時間を過ごす場所。
なのにハーレイは見向きもしないし、ベッドがあるとも思ってはいない。
あくまで、ただの寝場所としか。
(欠伸してたら、寝てこいって言うし…)
病気で寝込んでいる時にだって、優しく世話をしてくれるだけ。
前のハーレイが何度も何度も、作ってくれた野菜のスープ。
それを作って、「ほら」と部屋まで持って来てくれて。
飲み終わったら、「しっかり治せよ」と、横になるよう促されるだけ。
唇へのキスは貰えもしないし、添い寝だってして貰えない。
前の自分なら、病気の時には朝まで添い寝をして貰えたのに。
元気だった時なら、本物の恋人同士の時間。
ベッドで二人、愛を交わして、朝まで一緒だったのに。
(…ぼくが小さいから駄目なんだよね?)
キスをすることも、本物の恋人同士になることも。
前の自分と同じ姿に育っていたなら、出会ったその日にキスを貰えていただろう。
「俺のブルーだ」と、感極まったハーレイに。
頬や額へのキスと違って、唇へのキスを。
それを貰ったら、デートに誘われていただろう。
「いつ会える?」と。
何処へ行こうかと、「食事かドライブでもどうだ」と。
そういうデートを何度か重ねて、アッと言う間にプロポーズ。
今頃はとうに二人で暮らしていたかもしれない、結婚式を挙げて。
自分がチビでなかったら。…義務教育中の子供と違って、結婚出来る年だったら。
(前のぼくと同じ姿で会えてたら…)
ハッピーエンドになっていたのか、と思った途端にポンと頭に浮かんだ童話。
カボチャの馬車やら、ガラスの靴やら、ハッピーエンドのための小道具。
魔法使いが用意してくれて、舞踏会に行くお姫様。
そのままの姿では、お城の門さえ通れないのに。
通れたとしても、舞踏会には行けはしなくて、使用人たちの部屋へ案内されるのに。
(だけど、魔法で入れちゃうんだよ…)
夢のように眩く輝く世界へ、シャンデリアが灯る豪華な広間へ。
誰よりも綺麗な衣装を纏って、軽やかな靴で。
王子とダンスを踊って過ごして、魔法はやがて解けるのだけれど。
それでも迎えるハッピーエンド。
お姫様の姿で踊っていた時、王子の心を捉えたから。
「あの人しかいない」と王子が心に決めていたから、貧しい姿に戻っていても。
足にピッタリの靴を履いてみせたら、ちゃんとお妃に選ばれて。
結婚式を挙げてハッピーエンドで、幸せになれるお姫様。
それがぼくなら…、と頭に思い描いた魔法。
ハーレイとハッピーエンドを迎えるためには、いったい何が必要だろう、と。
(小さいせいで、結婚出来ないんだから…)
カボチャが馬車に変わったように、大きくなれる魔法だろうか。
魔法使いの杖で魔法をかけて貰って、前の自分と同じ姿に。
背丈を伸ばして、ぐんと大人っぽい顔に。
(…今の服、着られなくなっちゃうから…)
着られる服も必要だろう。
お姫様のドレスは要らないけれども、ハーレイとデートに行けそうな服。
(ソルジャー・ブルーの服でデートは変だよね?)
何処から見たって仮装パーティー、ハーレイも「それはちょっとなあ…」と言うだろうから。
魔法使いのセンスに任せて、素敵な服を貰わなければ。
靴も今のは小さすぎるし、育った足に丁度いい靴。
服に似合った靴を一足、ガラスの靴は要らないけれど。…普通の靴で充分だけれど。
後はハーレイの家まで行くための車、カボチャのタクシーくらいでいい。
路線パスでもかまわないくらい、行って帰って来られるならば。
(これでいいよね?)
前と同じに育った身体に、デートのための服と靴。
ハーレイの家に出掛けてチャイムを鳴らせば、きっと抱き締めて貰えてキス。
そして二人でデートして食事、帰る頃にはプロポーズ。
きっとそうなる、育った自分がハーレイに会いに行ったなら。
「ちゃんと大きくなったでしょ?」と、前の自分と同じ姿を見せたなら。
後は魔法が解けてしまう前に、急いで家に帰るだけ。
靴は落として来なくてもいい、ハーレイには誰か分かるのだから。
結婚式を挙げるためには、この家へ自分を迎えに来ればいいのだから。
ハッピーエンドになる筈だよね、と笑みが零れてしまった魔法。
豪華なドレスを貰わなくても、デートのための服と靴。
カボチャの馬車と洒落込まなくても、路線バスでもいいくらい。
うんと控えめな注文で済むのが今の自分で、魔法で大きくなれればいい。
ハーレイとデートに行く間だけ。
キスを交わして、プロポーズして貰えるまでの間だけ。
(後は急いで家に帰って…)
もしも魔法が解けてしまったら、チビの自分に戻るのだから。
チビに戻ったら、ハーレイはキスをくれはしないし、プロポーズもしてくれないから。
だから急いで家に帰ること、魔法使いとの約束通り。
カボチャのタクシーか、路線バスに乗って。…靴は落として来なくていいから。
(次の日になったら、ハーレイが迎えに来てくれて…)
結婚式を挙げるんだよ、と思ったけれど。
(…ぼくって、チビに戻ってる…?)
魔法は解けているのだから。
前の自分と同じ姿になっていたのは、魔法使いのお蔭だから。
それじゃ駄目だ、と頭を抱えた、ハッピーエンドにならない結末。
ハーレイはチビの自分を眺めて、きっとポカンとするのだろう。
それから魔法のせいだと気付いて、大笑いをしてくれるのだろう。
「昨日、履いてた靴、今も履けるか?」と。「お前の足にはブカブカだろう」と。
靴がピッタリ足に合わないお姫様では、王子に選んで貰えない。元の童話もそういう話。
(魔法があっても駄目なんだけど…!)
ハッピーエンドになってくれない、とガッカリだけれど、きっといつかは育つから。
魔法が無くても、前とそっくり同じ姿になる筈だから。
それまでの我慢、と魔法の世界は諦めた。
履けない靴では、迎えられないハッピーエンド。
ハーレイに笑われるだけだから。「チビはチビだな」と、大笑いされておしまいだから…。
魔法があったら・了
※魔法で大きくなることが出来たら、と夢見てしまったブルー君。ハッピーエンド、と。
けれど、魔法が解けた後にはチビに戻ってしまうオチ。残念ですけど、使えませんねv
(俺はブルーを取り戻したが…)
チビなんだよな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
夜の書斎で、コーヒー片手に。
引き出しから取り出した、『追憶』という名の写真集。
ソルジャー・ブルーの写真ばかりを集めて編まれた本だけれども。
最終章はブルーの最後の飛翔で始まる。メギドに向かって飛ぶブルーの。
爆発するメギドの青い閃光、それが一番最後の写真。
あまりにも辛くて悲しすぎる章、滅多に開いて眺めはしない。
けれど、表紙に刷られたブルー。
真正面を向いた前のブルーの有名な写真。
瞳の奥に秘めた憂いと悲しみ、本当のブルーを捉えたもの。
向き合う度に「ブルーだ」と思う。「お前なんだな」と。
前の自分が失くしたブルーは、こういう瞳をしていたと。
仲間たちの前では決して見せずにいたのだけれども、ブルーの瞳はこうだったと。
(あいつは帰って来てくれたんだが…)
青く蘇った水の星の上に、ブルーは帰って来たけれど。
自分と同じに生まれ変わって来たのだけれども、十四歳にしかならないブルー。
まだまだ子供で、アルタミラで初めて出会った頃と変わらない姿。
幼い身体と無垢な心は、どうしようもなくて。
恋をしていても、キスは出来ない。
頬と額にしか贈れないキス、今の自分がそう決めた。
小さなブルーが前と同じに育つまではと、大きくなるまでキスは駄目だと。
子供が相手では出来ないキス。恋人同士の唇へのキス。
ブルーはそれを欲しがるけれども、きっと分かっていないだろう。
恋人同士のキスを贈れば、驚き慌てて泣き出すだろう。
「こんなのじゃない!」と。
「ハーレイは酷い」と、「ぼくを苛めた」と。
小さくなったブルーの記憶は、多分、ぼやけているだろうから。
唇へのキスに憧れていても、それが欲しいと願っていても。
(気持ち悪かった、と怒るぞ、きっと…)
どうせそういうオチなんだから、とクックッと笑う。
此処で笑えるのが大人の余裕で、立派な大人の証明だけれど。
(そういう意味では失くしたままだな…)
俺のブルーはまだいないんだ、と見詰めた『追憶』の表紙のブルー。
小さなブルーが大人になるまで、この姿にはお目にかかれない。
気高く美しかったブルーは帰って来ない。
再会出来ても、出会えないまま。
前の自分が失くしてしまったブルーには。
誰よりも綺麗だと思ったブルー。
シャングリラの仲間が誇りに思った、天の御使いさながらの美貌。
何度うっとりと眺めたことか。
この人が自分の恋人なのかと、整った顔立ちを、赤い瞳を。
すらりと細くて華奢だったブルー、前の自分の自慢の恋人。
恋人同士だとは明かせなかったから、誰にも自慢出来なかったけれど。
自慢出来る相手はいなかったけれど、それでも誇らしかった恋人。
この美しい人は自分のものだと、「俺のブルーだ」と。
そんなブルーを失くした時には、生きている自分を呪ったほど。
どうしてブルーを追わなかったかと、どうして引き留めなかったのかと。
一人残され、辛い思いをするのなら。
白いシャングリラをたった一人で、地球まで運ばねばならないのなら。
(…いくらあいつの望みでも、だ…)
無視すれば良かったと、何度自分を責めていたことか。
前のブルーが残した言葉をそのまま聞き入れ、物分かり良く見送った自分。
キャプテンだからと、身を切られるような悲しみも辛さも押し殺して。
他の仲間が「ソルジャーは直ぐにお戻りになる」と信じていたように、平気なふりで。
ブルーは二度と戻らないのに。
生きて戻りはしないからこそ、思念でこっそり言葉を残して行ったのに。
(本当に俺は馬鹿だったんだ…)
ブルーを止めずに喪った自分。
追い掛けて共に逝こうとしなかった自分。
「これは罰だ」と何度も思った、ブルーを失くした絶望と孤独。
シャングリラに仲間が何人いても、自分は一人だったから。
前のブルーがいないシャングリラは、空洞のように思えたから。
がらんとして誰もいない船。
たった一人で舵を握って、遠い地球まで。…そういう旅路。
ブルーを止めなかったから。追い掛けてゆくこともしなかったから。
それで一人になってしまったと、愚かだった自分への罰なのだと。
悔やみ続けて、悲しみ続けて終わった前の自分の命。
気付けば青い地球に来ていて、ブルーも帰って来たのだけれど。
愛おしい人を取り戻したけれど、失くしてしまったままのブルー。
(こういうブルーがいないんだよなあ…)
まだまだ当分会えそうにない、と零れた溜息。
『追憶』の表紙を飾るブルーは、まだいない。
生まれ変わったブルーは幼く、子供の姿をしているから。
顔立ちも背丈も子供そのもの、ソルジャー・ブルーだった頃とはまるで違うから。
(これは罰ではない筈なんだが…)
どちらかと言えばブルーのためで、と引き出しに仕舞った写真集。
このまま眺め続けていたなら、残念な気持ちが増すだけだから。
「こんなブルーに出会いたかった」と、「そしたら離れはしないのに」と。
前のブルーと全く同じなブルーと再会出来ていたなら、全ては変わっていただろう。
夜の書斎に一人でポツンと座る代わりに、ブルーと二人で過ごせただろう。
リビングで、あるいはダイニングで。
ブルーは紅茶で自分はコーヒー、ゆったりとした食後のひと時。
他愛ない話を交わして笑って、ちょっとした菓子をつまんだりもして。
ブルーがチビでなかったならば。
結婚出来る年と姿に育っていたなら、今頃はとうに二人での暮らし。
望んでも、今は無理だけれども。
小さなブルーは、とても幸せな子供時代を過ごすのだから。
前のブルーが失くしてしまった記憶の分まで、失くした子供時代の分まで。
きっとそういう神の采配、だからブルーはチビなのだろう。
ゆっくりと時間をかけて育って、幸せを山ほど味わうために。
両親と一緒に暖かい家で、満ち足りた日々を送るために。
そうだと分かっているのだけれど。
今の自分も、それがいいのだと思うけれども、ふとしたはずみに零れる溜息。
「俺はブルーを失くしたままだ」と、「失くしたブルーには、まだ会えないな」と。
気高く美しかったブルーは、今は小さな子供だから。
大きく育ってくれないことには、キスも贈れはしないのだから。
額と柔らかな頬にしか。
唇を重ねるキスは出来なくて、同じ家でも暮らせない。
今の世界なら、ブルーと結婚出来るのに。堂々とデートも出来るのに。
(小さなあいつも好きなんだがなあ…)
俺のブルーには違いないんだが、と思った所で頭にポンと浮かんだ童話。
仕事に使う斧を失くした、木こりの男の物語。
湖に斧を落としてしまって、出来なくなってしまった仕事。
途方に暮れていたら、湖の精が持って来てくれた金の斧。「これですか?」と。
けれど、男が失くした斧は、平凡な鉄の斧だったから。
正直に「違います」と答えて、今度は銀の斧が出て来た。鉄の斧とは違う斧。
それも愛用の斧ではないから、本当にガッカリした木こり。
自分の斧は戻って来ないと、明日から仕事をどうしようかと。
金の斧でも銀の斧でも、少しも喜ばなかった木こり。
湖の精は、鉄で出来た斧を持って来た。「これがあなたの斧ですか?」と。
大喜びした、欲の無い木こり。これで明日から仕事が出来ると。本当に欲の無い、正直な男。
お蔭で、彼は二つの斧を湖の精から受け取った。
正直者だからこれをあげようと、金の斧と銀の斧との二つを。
大切なものを、正直に答えて選んだ木こり。
金の斧よりも、銀の斧よりも、自分が愛用している斧を。
これが自分ならどうなるだろう、と頭に思い描いた湖。
失くしたブルーは気高く美しいブルーだけれども、小さなブルーが行方不明。
そういう状況、湖にポチャンと落ちてしまって。
もちろん生きてはいるブルー。小さなブルーは湖の底。それを取り戻す術が無いだけ。
其処へ湖の精が出て来て尋ねる、美しく気高いブルーを連れて。
「あなたが失くしたブルーというのは、この人ですか?」と。
なにしろ魔法がある世界だから、ブルーは育ったかもしれない。
湖に落ちて、水の魔法で。前のブルーとそっくり同じに。
(そうだとしたら、嬉しいんだが…)
自分は何と答えるだろうか、見違えるように育ったブルーを前にして。
「この人です!」と狂喜するのか、小さなブルーを案じるのか。
(…どうなんだかなあ?)
育ったブルーは欲しいけれども、直ぐに抱き締めてやりたいけれど。
もしも小さなブルーが湖の底にいるなら、大変だから。
育ったブルーがただの幻なら、迂闊な答えを返したが最後、ブルーは戻って来ないから。
(やっぱり駄目だな、違うと言わんと…)
そして育ったブルーは消えてしまうのだろう。湖の精に連れられて。
戻って来るのは小さなブルーで、今と同じにチビのままのブルー。
(…正直に答えた御褒美ってヤツで…)
育たないものかな、と思うけれども、きっと贅沢というものだろう。
失くしたブルーが戻っただけでも、充分すぎることなのだから。
小さいままでも、チビのままでも。
(うん、贅沢を言っちゃいかんな)
魔法でブルーを育てようだなんて、とコツンと叩いた自分の頭。
小さくても、ブルーはブルーだから。
いつか必ず前と同じに、美しく気高く育つのだから…。
魔法があれば・了
※前のハーレイが失くしたブルーは、育ったブルー。帰って来たブルーはチビのブルー。
魔法で育たないものだろうか、とハーレイ先生が思ってしまうのも無理はないかもv