(ふむ…)
少し冷えるな、とハーレイが零した独り言。
ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後のダイニングで。
すっかり片付けを済ませたテーブル、これからコーヒータイムだけれど。
いつも夜には淹れる一杯、そういう頃合いなのだけれども。
ふとしたはずみに気付いた温度。
部屋の室温、それが低いと。
(寒いってほどじゃないんだが…)
上着を羽織るほどでもないし、と思う程度の夜の冷え込み。
身体が頑丈に出来ているから、その気になったら真冬でもシャツは一枚でいい。
半袖のTシャツ、それでも風邪など引かない身体。
けれど感覚は鈍くないから、冷えた時にはきちんと分かる。
肌で、身体を包む空気で。
(どうするかな…)
まずはコーヒー、と淹れにかかれば、使う熱源。
熱い湯を沸かして淹れるわけだし、周りの温度は上がるから…。
愛用のマグカップに注ぐ頃には、改めて感じた「冷える」ということ。
カップが冷たかったから。
いつもと同じに手に取ったカップ、コーヒーを淹れる前のカップが。
(食器棚の中で冷えてやがったか…)
つまり普段より寒いわけだ、と見回した部屋。
書斎に行くか、ダイニングのテーブルでのんびり飲むか。
どっちにしようか、悩ましい。
本に囲まれた書斎の空気は、何処かひんやりしているもの。
その雰囲気も好きだけれども、こんな夜にはどうするかな、と。
もちろん、書斎にもある暖房。
今夜だったら、それのお世話になるのが快適。
ほんの少しだけ温めてやって、空気がふうわり柔らかくなったら直ぐに切る。
後は書斎の気分にお任せ、冷えてゆくのも悪くない。
冷えていったら、なんとなく…。
(頭が冴えるような気がするんだよなあ…)
昔の人もそう言ったんだ、と古い言葉を思い出す。
「頭寒足熱」、そういう言葉。
頭は冷やして、足は温めるという意味の言葉。
「頭を冷やす」と言うほどなのだし、頭には多分、冷えているのがいいのだろう。
実際、書斎の空気が冷えたら、頭も冴えてゆく気がするから。
(蛍の光に窓の雪ってな)
遠い昔の勉強方法、蛍を集めて夜に勉強、窓の雪明かりでやっぱり勉強。
蛍が光る夜は昼より冷えるものだし、雪の季節も寒いもの。
頭のためには冷えるのがいいというわけだ、とクックッと笑う。
「そういう意味の言葉じゃないな」と、「蛍の光、窓の雪はな」と。
分かってはいても、素敵な解釈。
ちょっとこじつけ、「冷える時の方が頭が働く」と。
明日、学校で話してやろうか、何処かのクラスで。
「昨夜はちゃんと勉強したか?」と切り出して。
冷える時こそ勉強なんだと、冴えた頭で頑張ったか、と。
いいな、と思った雑談の種。
やはり書斎に行くとしようか、勉強と言えば書斎だから。
勉強部屋とは違うけれども、ダイニングよりは「勉強」向け。
机に向かって調べ物とか、読書するための部屋だから。
仕事で使う資料の纏めもするから、冷える夜には…。
(俺も生徒を見習ってだな…)
頭寒足熱で勉強ならぬ読書でも、と思った所で頭に浮かんだ恋人の顔。
前の生から愛した恋人、十四歳の小さなブルー。
今のブルーは自分の教え子、学校の生徒。
(…あいつ…)
どうしているだろうか、今頃は。
今夜は少し冷えるけれども、ちゃんと暖かくしているのだろうか?
(…さっさとベッドに入ってりゃいいが…)
こういう時に限って、起きていそうな気がしないでもない。
風呂に入って温まった後に、のんびりと。
「もうちょっとだけ」と、読みかけの本を読み進めようと。
上に何かを羽織ればいいのに、それも忘れて。
「温まったから」とホカホカの身体で、暖房を入れることさえ忘れて。
やりかねないのが小さなブルーで、如何にも子供らしいこと。
(直ぐに夢中になっちまうしな?)
本にしたって、考え事をするにしたって。
そうした挙句に風邪を引いたり、そうならなくても…。
(暖かい間に寝ないもんだから…)
冷えてしまう右手、ブルー自身が気付かない内に。
自覚も無しでベッドに入って、そのまま眠ってしまいそうなブルー。
「もう眠いから」と本をパタンと閉じて。
冷える夜にはどうするべきかも、すっかり忘れ果ててしまって。
大丈夫だろうか、と心配になった小さなブルー。
前の生から愛した人には、今は小さくなってしまった身体には…。
(…前のあいつの…)
悲しい記憶が今でも刻み込まれたまま。
小さな右手に秘められた記憶、冷えた時には蘇るそれ。
(俺の温もりを失くしちまって…)
メギドで凍えてしまった右手。
前のブルーは、ソルジャー・ブルーは泣きながら逝ってしまったと聞いた。
最後まで持っていたいと願った、右手の温もり。
「ジョミーを支えてやってくれ」と送り込んだ思念、その時に触れた前の自分の腕の温もり。
自分は全く気付かなかったけれど、ブルーは温もりを持ったままで飛んだ。
最期を迎えるだろうメギドへ、死が待つ場所へと。
なのに、ブルーはそれを失くした。
撃たれた痛みで失くしてしまって、一人きりになってしまったブルー。
「ハーレイとの絆が切れてしまった」と、「もう会えない」と泣いて、ブルーは逝った。
だから今でも、その夢を見る。
右手が冷えてしまった夜には、メギドの悪夢に襲われる。
そうならないよう、右手を包むサポーターを作ってやったのに…。
(あいつ、忘れてしまいそうなんだ…)
右手に着けて眠るのを。
ほんの少しだけ冷える夜だから、寒いほどではないのだから。
右手が冷えたことにも気付かず、眠ってしまっていそうなブルー。
もしも自分が側にいたなら、「おい」と注意してやれるのに。
「ちゃんと着けろよ?」とサポーターを出して、「ほら」と渡してやれるのに。
そうなるよりも前に、何か羽織らせていそうだけれど。
「暖かくしろよ」と暖房も入れて。
早くベッドに入るようにと、うるさいほどに声だって掛けて。
けれど、ブルーには届かない言葉。
届きはしない、自分の心配。
小さなブルーが住んでいる家は、何ブロックも離れているから。
そんな注意をするだけのために、連絡を取れはしないから。
(何事なのかと思われるしな?)
きっと、ブルーの両親に。
「ハーレイ先生から」と取り次ぎながらも、首を傾げるだろう両親。
いったい何の用事なのかと、ブルーが何かしたのだろうか、と。
(…それはマズイし…)
あいつに期待するしかないな、と零れた溜息。
夜更かししないで早く寝てくれと、それが無理なら気付いてくれと。
冷える夜にはサポーターだと、右手を暖かくして眠れと。
(…気付いてくれるといいんだが…)
俺さえ側にいたならば、と眺めたマグカップのコーヒーから昇る温かな湯気。
この湯気のように、ふうわりと包んでやれるのに。
ブルーが無茶をしないようにと、温かな想いで幾重にも。
まるで真綿で包み込むように、柔らかく。
ブルーの邪魔をしない程度に、「気を付けろよ?」と何か羽織らせて。
眠る前にはこれをはめるのも忘れちゃ駄目だ、とサポーターだって、と考えたけれど。
(……待てよ?)
もしも自分が側にいたなら、サポーターなどはもう要らない。
ブルーの右手が冷えていたなら、温めてやればいいことだから。
いつもしてやるように両手で包んで、「ほら」と温もりを移してやって。
夜更かししていて冷えた身体も、丸ごとしっかり抱き締めてやって。
(あいつが眠いと言い出したなら…)
そっと運んでやるだろうベッド。
「おやすみ」とキスを一つ落として、後はブルーを胸に抱いて眠る。
ブルーが暖かく眠れるように。
幸せな夢を見られるように。
いつか、その日がやって来る。
ブルーと二人で暮らし始めたら、いくらでも世話をしてやれる。
「今夜は少し冷えるからな」と、熱い紅茶やココアを淹れて。
肩にふわりと何か羽織らせて、ブルーが寒くないように。
(…あいつが側にいるんなら…)
こんな夜には、きっと書斎に行きはしないで、ダイニングにいることだろう。
でなければリビング、ブルーと二人で。
自分はコーヒー、ブルーは紅茶かココア辺りをカップに淹れて。
暖かい部屋で二人一緒で、きっと話は尽きないのだろう。
「少し冷えるな」と口にしたなら、「うん、少しだけ」と声が返って。
「ずっと前には、サポーターが無いと駄目だったけど…」と、ブルーの右手が差し出されて。
もう温もりなど充分なくせに、「温めてよ」と。
昔みたいにと、悪戯っぽく目を輝かせて。
きっとそうだな、という気がするから、今夜コーヒーを飲む場所は…。
(此処にするかな)
書斎は駄目だ、と腰を下ろしたダイニングの椅子。
此処でゆったり飲むのがいい、と。
ブルーと二人で暮らし始めたら、こんな夜はきっと、書斎に行きはしないのだから…。
少し冷えるな・了
※ほんのちょっぴり冷える夜。ハーレイ先生が心配になった、小さなブルー。
いつか一緒に暮らす日を夢見て、今夜はダイニングでコーヒーを。幸せたっぷりの時間ですv
(ハーレイ、とっくに帰っちゃったし…)
後は寝るだけ、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日も来てくれた、愛おしい人。
前の生から愛したハーレイ、今も愛しているのだけれど。
(ぼくはホントにハーレイが好きで…)
今もこうして想っているのに、世の中、上手く出来てはいない。
十四歳の子供でしかない、小さな自分。
ハーレイと一緒に暮らせはしなくて、いつもこうして置いてゆかれる。
夕食の後のお茶が済んだら、帰って行ってしまうハーレイ。
「またな」と軽く手を振って。
のんびり歩いて帰って行ったり、停めてあった愛車に乗り込んだりして。
今日もやっぱり残された家。
ハーレイは自分の家に帰って、呼んだって声は届かない。
何ブロックも離れた所に、声が届きはしないから。
思念を紡いで届けようにも、今の時代は難しいそれ。
人間が全てミュウになった今は、何処の家にも施されている仕掛けがあるから。
白いシャングリラのようにはいかない、他所の家へ思念を届けること。
あの船だったら、簡単に届けられたのに。
「ハーレイ?」と呼べば応えて貰えたのに。
今の時代の仕組みもそうだし、今の自分の方も問題。
(…とっても不器用…)
とことん不器用になったサイオン、思念波もろくに紡げないレベル。
だから仕掛けが無かったとしても、此処からハーレイの名前は呼べない。
呼んでも決して届きはしなくて、ポツンと独りぼっちの自分。
ハーレイに巡り会えたのに。
今も愛して、恋しているのに。
なんとも悲しい、今の状況。
すっかり慣れたと思っていたって、何かのはずみに思い出す。
今の自分の幸せな恋は、ちょっぴり欠けているのだと。
とても幸せに恋していたって、前のようにはいかないのだと。
(キスが出来ないのもそうだけど…)
ハーレイに「駄目だ」と叱られるキス。
前の自分と同じ背丈に育つまでは貰えない、唇へのキス。
いつだってキスは頬と額だけ、ハーレイがそう決めたから。
どんなに強請ってもキスは貰えなくて、代わりに叱られてしまうだけ。
「俺は子供にキスはしない」と、「何度言ったら分かるんだ」と。
キスも貰えない有様なのだし、恋人同士の時間は持てない。
抱き締めて貰ってもそれでおしまい、二人でベッドに入れはしない。
(…前のぼくたち、本物の恋人同士だったのに…)
今はそうではなくなった恋。
「俺のブルーだ」と言って貰えても、それっきり。
キスは駄目だし、溶け合えもしない自分たち。
だから、こうして置いてゆかれる。
「またな」とハーレイが帰って行って。
独りぼっちでベッドにチョコンと座るしかなくて、ハーレイに声も届かない。
夕食の後のお茶が済んだら、お別れの時間。
前の自分とハーレイだったら、それからが大切だったのに。
キスを交わして、愛を交わして、朝まで一緒。
同じベッドで二人で眠って、目覚めた時にはハーレイの顔。
「よくお休みになれましたか?」と。
おはようのキスを贈って貰って、其処から始まっていた一日。
ベッドから出たら、恋人同士の時間は終わってしまっても。
ソルジャーとキャプテン、そういう二人に戻らなくてはいけなくても。
誰にも秘密で、隠し通した前の自分とハーレイの恋。
そうしなくてはいけなかったから、誰にも言えずに終わった恋。
けれど、確かに幸せだった。
ハーレイに恋して、愛されて。
いつも心は寄り添っていたし、呼べばハーレイが応えてくれた。
ブリッジで舵を握っていたって、「どうなさいました?」と。
「後でそちらに伺いますから」と、用を作って来てくれもした。
ハーレイは多忙だったのに。
教師をしている今のハーレイより、遥かに忙しかったのに。
(…ハーレイの時間は、前よりたっぷり…)
キスも出来ないチビの自分を、わざわざ訪ねて来てくれるほど。
「仕事が早く終わったからな」と、学校のある平日だって。
休みの日ならば、午前中から来てくれる。
二人で一日一緒に過ごして、夕食の後のお茶の時間まで。
ハーレイが割いてくれる時間は、前よりもずっと多いのに。
多い筈なのに、それは昼間の間だけ。
太陽が沈んで夜になったら、近付いてくるのがお別れの時間。
今もこんなに愛しているのに、ハーレイは「またな」と帰ってしまう。
「行かないでよ」と言えはしなくて、見送ることしか出来ない自分。
ハーレイが此処にいてくれたならば、今だってきっと幸せなのに。
キスは駄目でも、二人でベッドに入れなくても。
(…ハーレイがいたら…)
眠くなるまで、話すことは山ほどあるのだろう。
いくら話しても尽きはしなくて、次から次へと浮かぶのだろう。
これを話そうと、次はあっち、と。
ハーレイもきっと相槌を打って、話を楽しくしてくれる。
「其処は俺だと…」と、思いもよらない方へ話を転がしたり。
二人でいたなら、終わりは来そうにない話。
眠くなってベッドに入るまで。
ハーレイが「おやすみ」と言ってくれるまで。
「続きは明日な」と、「ゆっくり眠れよ」と優しい声で。
同じベッドで眠れなくても、ハーレイのベッドは別の部屋でも。
(…ホントに、ちょっぴり欠けちゃってる…)
前の自分の恋に比べて、自分の恋は。
いつでも側にいてくれたハーレイ、離れていたって感じた思念。
それが今では離れ離れで、思念だって家まで届きはしない。
家の仕掛けも問題だけれど、ハーレイは思念を届けようとはしてくれないから。
そんなつもりがあるのだったら、「またな」と帰りはしないから。
(…ハーレイ、好きだって言ってくれるけど…)
「俺のブルーだ」と何度も抱き締めて貰ったけれども、それだけのこと。
前と同じに好きだと思ってくれているなら、ハーレイだって…。
(…離れたくない筈なんだよ…)
自分を独りぼっちにしたりはしない。
独りぼっちにするしかなくても、もっと悲しんでくれる筈。
「俺も帰りたくないんだけどな」と、「すまん」と謝ってくれるとか。
帰り際には手を握り締めて、名残を惜しんでくれるとか。
(…パパとママがいるから、無理にしたって…)
方法はきっと、幾つでもある。
「またな」と軽く手を振る代わりに、握手したなら伝わる温もり。
そうでなくても、見送りに出た時、小さな声で囁くだとか。
「愛してる」と、とても小さな声で。
自分だけにしか届かない声で、あるいは優しい思念の声で。
それなら誰も気付かないのに。
両親は全く気付かないから、きっと大丈夫な筈なのに。
けれども、今日も「またな」とだけ。
軽く手を振って帰ったハーレイ、「愛してる」の言葉は貰えなかった。
握手さえ求めてくれなかったから、温もりだって貰っていない。
独りぼっちで置いてゆかれて、ベッドにポツンと座った自分。
ハーレイが此処にいてくれたならば、それだけで充分幸せなのに。
(…キスは駄目でも、ベッドも別で部屋も別でも…)
眠くなるまで、ハーレイと一緒にいられたら。
他愛ない話を交わし続けて、瞼が重くなってくるまで。
欠伸を噛み殺せなくなってしまって、「チビは寝ろよ?」と言われるまで。
どんなに幸せな気分だろうか、そういう風に過ごせたら。
いつもハーレイと一緒にいられて、「おやすみ」と言って貰えたら。
唇ではなくて、頬にキスでも。
額に「おやすみ」と貰うキスでも、きっと幸せが胸に溢れる。
そのまま一人で眠るだけでも、一人きりで眠るベッドでも。
ハーレイが側にいてくれたならば、眠りに落ちるまでいてくれたなら。
(ホントのホントに、きっと幸せ…)
おやすみのキスしか貰えなくても。
ハーレイと一緒に眠れなくても、今よりもずっと幸せな筈。
なのにハーレイは帰ってしまって、今夜も自分は独りぼっちで…。
(やっぱり、ちょっぴり欠けているよね…)
今の自分とハーレイの恋。
前と同じに恋をしていても、ちょっぴり欠けた月のよう。
きっと自分がチビだから。
ハーレイもチビだと思っているから、「またな」と自分を置いてゆく。
側にいてくれたら、もうそれだけで充分なのに。
唇にキスを貰う代わりに、頬か額に「おやすみ」のキス。
それが貰える毎日だったら、きっと最高に幸せなのに。
(君さえ、側にいてくれるなら…)
いくらでも我慢出来ると思う。
キスは駄目でも、本物の恋人同士の時間を持つことは出来なくても。
いつもハーレイと一緒だったら、と思うけれども、チビの自分は今日も置き去り。
君さえいれば、と頼んでも、きっと駄目だから。
ハーレイは「またな」と帰るだけだから、こんな夜には零れる溜息。
たまに、気付いてしまったら。
今の自分の幸せな恋は、ちょっぴり欠けたお月様だ、と…。
君さえいれば・了
※今のぼくの恋はちょっぴり欠けてる、と溜息なのがブルー君。独りぼっち、と。
ハーレイ先生の気持ちが分からないのは、チビだから。これではキスは貰えませんよねv
(よし、今日も一日、頑張ったよな)
俺の仕事はきちんとやった、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
ブルーの家から帰って来た後、夜の書斎で。
コーヒー片手の寛ぎの時間、いつも通りのお楽しみ。
休日も平日もそれは同じで、この一杯から生まれるあれこれ。
仕事の段取りをするにしたって、「こうすればいい」と閃くアイデア。
机に向かって唸っていたって、出て来ないような素敵なものが。
(コーヒーから生まれるわけじゃないんだが…)
酒を一杯、という時にだってポンとアイデアは降って来るから。
翌朝見たって充分に使える、真っ当なものが。
(多分、こいつで切り替わるんだな)
頭の中のスイッチが。
「完全に俺の時間だ」と。
やるべきことは全部終わって、コーヒーを飲んだら後は寝るだけ。
酒の方でも同じこと。
飲みながら本を読むにしたって、もう完全に自由な時間。
日記を書くのも自由時間の内に入るし、何をしたっていいのだから。
(考え事をしようが、飲み終わったら寝ちまおうが…)
誰も文句は言いに来ないし、誰にもかけはしない迷惑。
「ハーレイ、酷い!」とブルーがプンスカ膨れもしない。
「ぼくを放っておくなんて」と。
「本を読むより、ぼくを見てよ」とか、「なんでコーヒー?」とか。
小さなブルーはコーヒーが苦手で、一人前の恋人気取り。
こういう時間があると知ったら、きっと膨れてしまうのだろう。
「ぼくがいないと自由時間なの?」と。
きっとそうだな、とクックッと喉を鳴らして笑う。
ブルーがいたなら、こんな風にはいかないと。
書斎でのんびり出来はしなくて、引っ張り出されるリビングだとか。
「ぼくを放っておかないでよ」と。
仮に書斎にいられたとしても、隣か後ろにいるだろうブルー。
「まだ終わらないの?」と言いはしなくても、チラチラ視線を向けながら。
自分も本を読んでいるけれど、本のページは進まないままで。
(そいつはそいつで、かまわないんだが…)
もしもブルーが此処にいるなら、きっと自分は幸せだから。
自由時間を全部奪われても、本望というヤツだから。
(今度こそ、あいつを離さないんだ…)
そう誓ったから、それでいい。
一人きりで寛ぐ夜のひと時、それを失くしてしまっても。
素敵なアイデアが浮かぶ時間が無くなっても。
(アイデアなら、きっと浮かぶしな?)
ブルーが側にいるだけで。
どんなに邪魔をされたとしたって、「コーヒーは駄目!」と禁止されたって。
「ぼくと一緒に紅茶にしようよ」と、ダイニングに引っ張って行かれたとしても。
誰よりもブルーを愛しているから。
二度と離すまいと思うのだから、ブルーがいれば何でも出来る。
仕事のアイデアも次から次へと浮かぶのだろう。
ブルーと話している内に。
「今日はな…」と報告している間に、空からポンと降って来る。
机に向かって考えていても、浮かばないようなアイデアが。
「その手があるな」と、自分でも感心するような。
そうに違いない、という確信。
夜のコーヒーが飲めなくなっても、代わりにブルー、と。
(俺のミューズというわけだ…)
芸術とはまるで無縁だけれども、たとえて言うなら、そういった所。
ブルーが側にいてくれるだけで、アイデアがポンと浮かぶなら。
一人でいるより二人の方が、ずっといいのだと言うのなら。
(コーヒー無しでも、酒も駄目でも…)
酒もやっぱり苦手なブルー。
小さなブルーは飲める年にはなっていないし、なったとしたって、多分、無理。
前のブルーは酒もコーヒーも駄目で、どちらも苦手だったから。
今度もきっと、という予感。
ブルーと一緒に暮らし始めたら、酒もコーヒーも駄目だろうな、と。
たまに飲ませて貰えたとしても、ブルーの冷たい視線とセット。
冷たい視線を浴びせられなくても、「まだ飲んでるの?」と呆れた視線。
「ぼくを放っておくなんて」と。
「コーヒーの方がそんなにいいの?」と、「ぼくよりお酒の方が好き?」と。
もちろんブルーの方が好きだし、そう言われたなら…。
(酒もコーヒーも放り出すってな)
そしてブルーを抱き締める。
「コーヒーの味…」と嫌われようが、顎を捉えて贈るキス。
「お酒の味だよ」と顔を顰めても、きっとブルーは逃げないから。
じきに綻ぶだろう顔。
自分の方を向いてくれたと、これからは二人の時間だと。
そんなブルーを抱き締めていたら、もう幸せでたまらない時間。
コーヒーを飲んでいるよりも。
どんなに美味しい酒があっても、それを傾けているよりも。
ブルーのためなら迷わず捨てる、と断言出来るコーヒーや酒。
一人きりで寛ぐこの時間だって、捨ててしまってかまわない。
ブルーがいれば充分だから。
邪魔をされても、ブルーがミューズなのだから。
(アイデアは浮かぶし、考え事だって一人でするより…)
二人の方が、断然いい。
想像の翼を広げて飛ぶなら、一人より二人。
ブルーと二人で何処までも飛ぼう、色々な場所へ。
「何が食べたい?」という話題だけでも、きっと大きく広がるから。
本の感想を語るにしたって、どんどん彼方へ飛んでゆけるから。
「ぼくはその本、読んでいないよ」と言われたならば、勧めるだとか。
ブルーの好みの本でなくても、自分の感想を話したならば…。
(面白いね、と言ってくれるとか、信じられないと呆れられるか…)
其処から二人で飛び立つ世界。
好みの違いがあるとしたなら、どうしてそういう風になるのか。
お互いの育った環境なんかを比較してみて、「仕方ないな」と笑い合ったり。
ブルーに柔道の話をしたって通じないけれど、興味を持ってはくれるから。
「ぼくには無理!」と言っていたって、「もっと聞かせて」と煌めく瞳。
だから二人で何処までも飛べる、「もしも」と想像の翼を広げて。
自分が教える、遠い昔の古典の中の世界へも。
ブルーは全く出来ない柔道や水泳、それを取り巻く世界へも。
「お前が柔道をやっていたなら、違う出会いになってたかもな?」と。
学校の教室で出会う代わりに、バッタリ顔を合わせる道場。
もうそれだけで世界は変わるし、羽ばたいてゆける想像の翼。
二人ならきっと、今よりも。
ブルーが側にいてくれたならば、コーヒーも酒も捨ててしまっても。
あいつさえいれば、と傾けた愛用のマグカップ。
今は一人でコーヒーだけれど、いつかはこれも用済みだろうと。
寛ぎの時間が消えてしまっても、きっと自分は後悔しない。
(…あいつがいれば、充分だしな?)
この寛ぎの時間が消えても、代わりにブルーがいるのだから。
ミューズだとも思うブルーがいたなら、何もかも上手くゆくのだから。
(仕事だって、アイデアだけに限らず…)
今よりもずっと、張り合いが出るに違いない。
家に帰れば、ブルーの笑顔。「おかえりなさい」と。
出掛ける時にも、「行ってくる」とブルーにキスを贈って、それから出勤。
とても充実した日々になって、やる気が溢れて来るのだろう。
今もやる気はたっぷりだけれど、それよりも、ずっと。
(本当に俺のミューズなんだ、あいつ…)
小さなブルーと出会えただけでも、人生の輝きが増したから。
「ブルーの家に寄れるといいが」と、仕事を頑張る呪文だって出来た。
もっと効率よく仕事したなら、時間に余裕が出来るだろうと。
同じ書類を作るにしたって、もっと、もっとと理想が高くなるから。
(ブルーさえいれば、何だって…)
どんなことだって出来るってもんだ、と眺めたカップ。
いつも飲んでいる寛ぎのコーヒー、これだって捨ててしまえると。
ブルーがいるだけで人生も仕事も、何もかも充実するんだから、と。
あいつは俺のミューズだから、と緩んだ頬。
ブルーさえいればと、もうそれだけで充分だから、と。
(うん、何もかも捨てられるってな)
間違いないな、と断言出来る。
ブルーだけがいればそれで充分、他には何も望みはしない。
生まれ変わってまた巡り会えた、誰よりも愛した愛おしい人。
今度はブルーを離さないから、ブルーがいれば幸せだから。
コーヒーも酒も、消えてしまっても。
自分一人の寛ぎの時間、それを失くしてしまったとしても…。
あいつがいれば・了
※ブルーさえいれば充分なんだ、と考えているハーレイ先生。それで充分、と。
コーヒーもお酒も捨ててしまってかまわないほど、大切なのがブルー君。愛されてますよねv
(んーと…?)
本当に似合わないのかな、と小さなブルーが傾げた首。
ハーレイが訪ねて来てくれた日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
(ハーレイに薔薇…)
似合わないぞ、とハーレイが言って、自分も笑った。
前のハーレイを、白いシャングリラで暮らした時代を思い返して。
ハーレイのお蔭で蘇った記憶、あの白い船と薔薇の花。
シャングリラの薔薇から作られたジャム。
(とっても素敵なジャムだったんだよ)
萎れ始めた薔薇の花から、船の女性たちが作ったジャム。
そのまま枯れて駄目になるより、花びらを集めてジャムにしようと。
香り高い品種を植えていたから、そういう花でも充分に出来た薔薇のジャム。
口に入れたら、ふうわりと薔薇の香りがしていた。
スコーンに塗ったり、紅茶に入れたり、楽しんで食べた薔薇のジャム。
前の自分は、いつも一瓶貰えたから。
新しい薔薇のジャムが出来たら、女性たちから届いた瓶。
少ししか作れなかったのに。
薔薇のジャムが欲しい他の仲間は、クジ引きするしかなかったのに。
(そのクジの箱が、いつも素通り…)
クジを引けずに見ていただけなのが、前のハーレイ。
「薔薇のジャムは如何ですか?」と、ブリッジにクジの箱が来たって。
ゼルまでがクジを引いていたって、ハーレイの前を箱は素通り。
薔薇の花もジャムも、前のハーレイには似合わないから。
女性たちはそう思っていたから、ハーレイも呼び止めなかったから。
ハーレイと二人、笑い転げた思い出話。
前のハーレイの前を素通りした箱、薔薇のジャムが当たるクジの箱。
ゼルも常連だったのに。
薔薇のジャムのクジがやって来たなら、「運試しじゃ」と手を突っ込んだのに。
(ハーレイ、ホントに似合わないから…)
そうなっても仕方ない、薔薇のジャムのクジ引き。
ジャムを作った女性たちは「似合わない」と考えていたし、前の自分だって。
(薔薇の花、ぼくには似合っていたらしいけど…)
キラキラと零れた、薔薇のジャムを作る女性たちの思考。
「ソルジャーには薔薇の花が似合う」と、「薔薇のジャムもよくお似合いになる」と。
恥ずかしい気分になったけれども、否定したりはしなかった。
彼女たちがそれで幸せならばと、心が弾んでいるのなら、と。
(それとセットで、前のハーレイ…)
薔薇が似合わない人と評されていた。
彼女たちは口にはしなかったけれど、心から零れていた思考。
「キャプテンは薔薇が似合わない」と。
薔薇の花が似合うと思われた自分と、似合わなかったハーレイと。
その組み合わせが可笑しかったから、前のハーレイとも何度も笑った。
薔薇のジャムが届いて、食べる時には。
青の間で二人、紅茶を淹れて、スコーンに薔薇のジャムを塗り付けて。
(ホントだったら、ハーレイ、食べられないんだから…)
薔薇のジャムが当たるクジさえ素通りするハーレイ。
クジを引かないと当たらないから、ジャムを食べられるわけがない。
けれど、ハーレイは食べていた。
届いたばかりの薔薇のジャムを。
クジに当たりもしていないのに、前の自分が貰った分を。
薔薇も、薔薇のジャムも、似合わないと言われた前のハーレイ。
作っていた女性たちはそう考えたし、クジも素通りして行ったのに。
そのハーレイは、前の自分と恋人同士。
青の間に薔薇のジャムが届けば、前の自分が淹れていた紅茶。
「ジャムが届いたから、食べよう」と。
薔薇のジャムにはスコーンが合うから、それを厨房から届けて貰って。
ハーレイと二人、薔薇の香りを楽しみながらのティータイム。
何度も二人で笑い合っていた。
「本当に酷い組み合わせだ」と。
薔薇が似合わないと言われるハーレイ、その恋人が前の自分だから。
「ソルジャーは薔薇がお似合いになる」と、薔薇のジャムを届けて貰うのだから。
なんとも酷いと、女性たちだって夢にも思わないだろうと。
この組み合わせで食べているとは、まさか恋人同士だとは。
(いつもハーレイと笑ってて…)
前のハーレイも、「いたたまれない気持ちになりますね」などと言っていた。
「これでは、せっかくの薔薇のジャムが…」と、「私の胃袋行きなのでは」と。
女性たちの気持ちも、薔薇のジャムの方も台無しだと。
だから二人で笑い合いながら食べたジャム。
「また貰えたよ」と、「ところで今度は、誰が当たりクジ?」などと。
クジ引きの話を持ち出したならば、ハーレイがプッと吹き出すから。
「今度のですか?」と報告しながら、「ハズレの人は御存知でしょう?」と。
「私にだけは当たりませんよ」と、「クジも引かせて貰えませんしね」と。
でも今回も当たりましたと、こうして食べていますからと。
前の自分が貰っていたから、ハーレイはいつでも当たりクジ。
クジの箱に手を突っ込まなくても。
運試しなどはしなくても。
強運とも言えた前のハーレイ、クジを引かずに食べていたジャム。
「似合わないのですが」と言っていたって、いつも当たった薔薇のジャム。
前の自分が、必ず一瓶貰うから。
「薔薇が似合うソルジャー」にお届けせねばと、女性たちが一瓶くれていたから。
貰う度にハーレイと食べて笑って、クジ引きのことも話題にして。
ハーレイが「また今回も素通りでしたよ」と、「そんな私が食べるのも…」と苦笑して。
そんな風に過ごした、遠い遠い昔。
白いシャングリラにいた、誰にも秘密の恋人同士。
薔薇の花もジャムも似合わないハーレイ、薔薇の花が似合うらしいソルジャー。
とても似合いとは言えないカップル、女性たちが知ったらショックだったに違いない。
最後までバレずに終わったけれど。
前の自分は死んでしまって、それきりになってしまったから。
(…ぼくが死んだ後は、ハーレイ、食べずに済んだよね、って言っちゃって…)
ハーレイをからかって遊ぶつもりが、泣く羽目になった小さな自分。
前のハーレイの悲しみを思い知らされて、ポロポロと。
考えなしの子供だったから。
それでも許してくれたハーレイ。
「涙、一発で止めてやろうか?」と、クジ引きの話を持ち出して。
いつでもクジは素通りだったと、遠い昔のハーレイのように笑ってみせて。
前の自分が死んだ後には、もうクジ引きは無かったけれど。
薔薇のジャムさえ、一度も作られなかったけれども、それよりも前。
前の自分が長い眠りに就いてしまったら、当たりクジを引けなくなったハーレイ。
元からクジは素通りなのだし、薔薇の花のジャムを食べるチャンスは無くなった。
青の間にジャムは届かないから。
眠ってしまった前の自分に、薔薇のジャムは届きはしなかったから。
ハーレイが逃してしまったチャンス。
二度と当たりはしなかったクジ。
遠い昔のように笑い合って、笑い転げてしまったけれど。
今のハーレイにも薔薇は似合わないと、二人揃って笑ったけれど。
(…薔薇の花、ホントに似合わない…?)
お風呂から上がって、ふと思ったこと。
前の自分は、まるで気付いていなかったけれど。
ハーレイと二人で笑っていたから、少しも考えなかったけれど。
本当に薔薇は似合わないのだろうか、ハーレイに?
(…今のぼくだって、薔薇はちっとも似合わないんだし…)
誰も似合うと言いはしないし、自分でも似合わないのだと思う。
チビの自分に、薔薇の花など。
ハーレイに言ったら、「いずれ育つし、前と同じに似合うようになるさ」と返されたけれど。
(似合ってたぼくが、薔薇が似合わない子供になって…)
青い地球の上に来ているのだから、ハーレイの事情も変わっていそう。
前とそっくり同じ姿でも、薔薇の花との関係は。
(…ハーレイ、柔道も水泳もプロの選手並みで…)
選手になる道を選ばなかったというだけのこと。
もしも選手になっていたなら、花束だって貰うのだろう。
優勝したら当然、花束。
ファンの人たちからも、花束。
(薔薇の花、きっと定番だよね?)
それを抱えたハーレイの姿を思い浮かべたら、絵になる感じ。
表彰台に立って、腕に立派な薔薇の花束。
何本あるのか分からないほど、沢山の薔薇を束ねてリボン。
(…カッコ良くない?)
そういうハーレイ。
薔薇の花束を腕に抱えて、首からはきっとメダルを下げて。
いい感じだよ、と思ったハーレイの姿。
薔薇の花束を抱えていたって、何処も可笑しくない姿。
(…もしかして、前のハーレイも…?)
姿は全く変わらないのだし、似合わないと勝手に思い込んでいただけなのだろうか?
前の自分も、ハーレイも。
薔薇のジャムを作った女性たちだって、頭から決めてかかってしまって。
(…そうだったのかも…)
凄く絵になる、と思った表彰台のハーレイ。
大きな薔薇の花束を抱えて、首から金のメダルを下げて。
自分が其処に居合わせたならば、きっと見惚れているのだろう。
ハーレイが優勝した試合の余韻にまだ浸りながら、表彰台の上の恋人を。
とてもカッコいいと、ハーレイは誰よりも凄いんだ、と。
優勝して大きな薔薇の花束を貰えるほどに。
金のメダルを下げて貰って、祝福を浴びているほどに。
(薔薇の花束、ハーレイのだから…)
きっとハーレイに良く似合う。
自分が大きく育っていたって、自分よりも、ずっとハーレイに。
(やっぱり、ハーレイ、似合うんじゃない…?)
薔薇の花がちゃんと似合うじゃない、と思った恋人。
とても素敵で、カッコいいと。
きっとぼくより、薔薇が似合うと。
(みんな、間違えてただけなのかもね…?)
そう思うけれど、恋は盲目という言葉もあるから、自信が無いのが少し悲しい。
薔薇の花なら、ハーレイも似合いそうなのに。
表彰台で花束を抱えていたなら、誰よりも絵になりそうなのに…。
似合いそうな薔薇・了
※今のハーレイには薔薇が似合うよ、と考えているブルー君。ぼくよりも、ずっと、と。
けれども気になる「恋は盲目」。自信はあまり無さそうですねえ、今の自分の眼力にはねv
(やっぱり今でも似合わんだろうな…)
似合う筈がないな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
ブルーの家へと出掛けて来た日に、夜の書斎でコーヒー片手に。
愛用のマグカップにたっぷりのコーヒー、それだって…。
(うん、似合わないぞ)
アレには似合わん、と断言出来る。
遠い遠い昔、前のブルーと暮らした白い船。
ミュウの箱舟だった白いシャングリラ、其処に咲いていた薔薇の花たち。
(俺には薔薇は似合わない、ってな)
そういう定評、前の自分を評する言葉。
「キャプテンには薔薇は似合わない」という、あの船の女性陣の認識。
面と向かって言われたわけではないけれど…。
(自然と分かってくるってもんだ)
どういう風に見られているのか、彼女たちの瞳にどう映るかは。
キャプテンとしての威厳はともかく、この容貌。
(今の俺とそっくり同じわけだし…)
お世辞にも「甘い」とは言えない顔立ち、どちらかと言えば「いかつい」顔。
それからミュウらしからぬ体格、シャングリラの時代は目立ち過ぎた。
人間は全てミュウになった今の時代だったら、さほど珍しくはないけれど。
スポーツ選手は立派な体躯が普通なのだし、それを目指す者やアマチュアだって…。
(今じゃ、そこそこデカイんだがな?)
前の自分のように「デカブツ」とは言われないだろう。
ゼルがよく叩いた憎まれ口のように、「お前ぐらいだ」とけなされることは。
そうは言っても、今でもやっぱり…。
(似合わんぞ、薔薇は)
どう考えても柄じゃない、と思い浮かべた薔薇の花。
今日も目にしてきたけれど。
小さなブルーとお茶を飲んでいた庭、其処で開いていたのだけれど。
庭で一番大きな木の下、据えてある白い椅子とテーブル。
今のブルーのお気に入りの場所で、初めてのデートに選んだ場所。
(あいつ、今でも好きなんだ、あそこ…)
据えてある椅子とテーブルが変わってしまっても。
初めてのデートに使ったものとは、違うテーブルが据えてあっても。
最初のデートをした場所だから。
ブルーのためにと持って行ってやった、キャンプ用の椅子とテーブルで。
何度かそれでデートをした後、今の白い椅子とテーブルになった。
「運んで来て貰うのは申し訳ないから」と、ブルーの父が買ったお蔭で。
今日もブルーは「庭でお茶がいいな」と言い出したから。
午後のお茶は庭で、ブルーと二人。
(いいもんだな、と思っていたら…)
目に付いたんだよな、と庭の薔薇たちを思う。
ブルーの母が丹精している、多分、四季咲きだろう薔薇。
遠い昔に暮らした船とはまるで違って、地球の地面に植えられた薔薇。
それをお供にお茶の時間で、ブルーと二人。
なんと平和になったものかと、いい時間だと幸せを噛み締めていたら…。
不意に頭に蘇った記憶。
白いシャングリラで咲いた薔薇たち、あの薔薇は…、と。
自給自足で生きてゆく船、箱舟だったシャングリラ。
名前通りの楽園にしようと、観賞用の薔薇も植えられていた。
(薔薇が咲くだけなら、まだいいんだが…)
前の自分がいくら武骨でも、いかつい顔をしていても。
きっと薔薇とは、誰も比べはしなかったろう。
薔薇たちはただ、花開いているだけだから。
前の自分はブリッジに立って、舵を握っているだけだから。
(比較しようが無いってな)
ブリッジに薔薇は咲きはしないし、花が生けられることも無い。
そんな場所ではなかったから。
薔薇を植えようとか、花を生けようとか、そういったこととは無縁なブリッジ。
なにしろ、船の進路を決めてゆく場所。
船の心臓とも言える部分で、花を愛でている余裕があったら…。
(仕事だ、仕事)
操舵はもちろん、レーダーを見たり、他にも色々。
誰もが船の命を握って、自分の仕事をしていた場所。
たまに笑いが溢れていたって、薔薇の花を愛でる余裕までは無い。
けれども、其処に薔薇の花がやって来たっけな、と。
花そのものでは無かったけれど。
薔薇の花束がやって来たとか、誰かが生けに来たというわけでも無かったけれど。
(よりにもよって…)
ジャムだったんだ、と苦笑する。
そいつがブリッジに来るんだ、と。
似合わない俺の所にだけは来なかったが、と。
シャングリラの中で咲いた薔薇たち。
ただ咲くだけで、その内に散っていたのだと思う、最初の頃は。
その薔薇が、いつの間にやら化けた。
花が萎れ始める頃合い、それを狙って集め始めた女性たち。
(いったい誰が言い出したんだか…)
特に興味は無かったけれども、作っていた顔ぶれは今も思い出せる。
盛りを過ぎた薔薇を集めて、ジャムを作った女性たち。
香り高い品種を植えていたから、萎れ始めた花からジャムを作っても…。
(充分に薔薇のジャムだったんだ)
だからブルーに訊いてみた。
今の小さなブルーに向かって、「あの薔薇の花はジャムにするのか?」と。
ブルーの母が育てている薔薇、その花びらもジャムになるのか、と。
キョトンと瞳を見開いたブルー。
「しないよ、なんで?」と。
案の定、忘れていたブルー。
白いシャングリラにあった薔薇のジャムのことを、それを巡っての笑い話を。
(薔薇のジャム、あいつには似合ったんだが…)
気高く美しかったブルーは、自分と違ってそういう評判。
「ソルジャーは薔薇がお似合いになる」と、「薔薇で作ったジャムだって」と。
船で生まれた薔薇のジャム。
作り始めた女性たちがそれを、「如何ですか?」とブルーに届けてみたほどに。
試食用にと、出来立てを青の間に運んだほどに。
(でもって、あいつは、それ以来だな…)
薔薇のジャムを届けて貰える身分。
「美味しいよ」と評して以来、薔薇のジャムが出来たら、いつも一瓶。
とても希少なジャムなのに。
他の者たちはクジ引きなのに。
薔薇のジャムは沢山作れないから、欲しい者たちはクジを引く。
クジに当たれば一瓶貰えて、薔薇の花の香りと味を楽しむ。
そのためのクジが出来上がったら…。
(ブリッジにやって来たってな)
ジャムそのものが来るのではなくて、クジ引きの箱が。
運よく当たりを引き当てたならば、薔薇のジャムを貰えるクジ入りの箱が。
「薔薇のジャムは如何ですか?」と箱を抱えて来た女性。
欲しい人はどうぞクジ引きを、と。
(あの箱がだな…)
一度も来なかったのが俺なんだ、とクックッと笑う。
ただの一度も、キャプテンの所には来なかった箱。
舵を握っていたならともかく、キャプテンの席に座っていても。
特に仕事をしてはいなくて、ブラウたちと談笑していた時も。
(似合わないから、仕方ないんだが…)
いつも素通りしていった箱。
クジ引きの箱は止まりはしなくて、一度もクジを引いてはいない。
ゼルでさえもクジを引いたのに。
如何ですか、とクジの箱が来たら、「運試しじゃ」と手を突っ込んだのに。
(似合わないのは承知だったし…)
もしも自分が呼び止めたならば、目を丸くする顔が見えるよう。
「キャプテンもですか?」と、クジ引きの箱を持った女性が。
そうなることが分かっていたから、あえて呼び止めはしなかった。
自分の前だけ、クジ引きの箱が素通りしても。
ゼルさえも常連だったクジ引き、それに参加は出来なくても。
(似合わない俺は、クジを引かなくても食えたしなあ…)
前のブルーが持っていたから。
薔薇のジャムなら、いつもブルーと食べていたから。
(似合わない俺が、クジ引き無しと来たもんだ)
薔薇の花もジャムも似合わんのにな、と今になっても申し訳ない気分。
クジを引かずに食っていたぞと、それもブルーと二人でなんだ、と。
(あいつは薔薇が似合うからいいが…)
美しかった前のブルーに薔薇は似合いで、薔薇のジャムも良く似合っていた。
「貰ったから食べよう」と紅茶を淹れる姿も、それは優雅で…。
(そういうブルーと、俺が恋人同士でだな…)
薔薇のジャムを食べていると知ったら、あの女性たちはどうしたろうか?
「信じられない」と悲鳴を上げたか、気絶するほどの衝撃だったか。
まず間違いなく驚かれたろう、「薔薇が似合わない」自分がブルーの恋人では。
誰よりも薔薇が似合うソルジャー、前のブルーが恋をした相手。
それが薔薇など似合わない自分、クジ引きの箱も素通りするような男では。
(どう考えても美女と野獣で…)
酷いもんだ、と思うけれども、最後までバレはしなかった。
前のブルーがいなくなるまで。
白いシャングリラが戦いの道を歩み始めて、薔薇のジャムが船から消えてしまうまで。
(そのまま、バレずに終わっちまって…)
また似合わない俺がいるわけで、と眺めたコーヒー。
薔薇のジャムには紅茶だったと、コーヒーなんかは合いそうに無いと。
(…薔薇は似合わない上に、コーヒー好きでだ…)
もう薔薇のジャムは致命的に似合わないな、と指先でピンと弾いた額。
なのにブルーとまた恋をしたと、またしても美女と野獣らしいと。
(でもまあ、多分、許されるよな?)
薔薇が似合わない自分だけれども、今もブルーが好きだから。
今度こそブルーを離さないから、薔薇が似合う人の手を、二度と離しはしないのだから…。
似合わない薔薇・了
※前のハーレイの前を素通りしていた、薔薇のジャムが当たるというクジ引きの箱。
今もやっぱり似合いそうにない、と考えるハーレイ先生です。薔薇の花もジャムもv