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カテゴリー「書き下ろし」の記事一覧

(ハーレイ、帰って行っちゃった…)
 独りぼっち、と小さなブルーがついた溜息。
 ハーレイと過ごした休日の夜に、自分の部屋で。
 お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
 「またな」と帰ってしまったハーレイ。
 夕食の後のお茶が済んだら、「また来るから」と。
 そう言って立ち上がられてしまったら、二人きりの時間はもうおしまい。
(表まで送って行けたって…)
 其処でお別れ、門扉の前で。
 二人並んで庭を歩いて、表の通りに出てしまったら。
 街灯が灯る通りに出たなら、後は見送ることしか出来ない。
 「またな」と手を振るハーレイを。
 大きな背中が去ってゆくのを、大股で歩いて行ってしまうのを。
(…ぼくも一緒に帰りたいのに…)
 連れて帰っては貰えない。
 「早く入れ」と言われるだけ。
 ハーレイがこちらを振り返っても。
 足を止めてこちらを向いてくれても、「来るか?」とは言って貰えない。
 「もう遅いから」と促されるだけ。
 いつまでも手を振っていないで、早く家へと入るようにと。
 庭に入って門扉を閉めろと、子供は家に入って寝ろ、と。
(…そりゃ、子供だけど…)
 子供なんだけど、と悔しい気持ち。
 ぼくも一緒に帰りたかったと、ハーレイと帰りたいのに、と。


 けれど許してくれないハーレイ。
 いつも「またな」と帰ってゆくだけ、「また来るから」と言われるだけ。
 自分の家と、ハーレイの家は違うから。
 ハーレイが「またな」と帰ってゆくのは、ハーレイのための家だから。
(…ぼくの家じゃないから…)
 連れて帰っては貰えない。
 自分の家なら、ちゃんと帰ってゆけるのに。
 「またな」と置いてゆかれる代わりに、一緒に帰って「ただいま」と入る。
 家はそういうものだから。
 玄関に誰も見当たらなくても、「ただいま」と帰る場所だから。
(…この家も、そう…)
 学校から家に帰った時には、玄関先で「ただいま」の言葉。
 奥の方から、母の声が返って来なくても。
 母は庭だと分かっていたって、やっぱり「ただいま」と入る家。
 此処は自分の家だから。
 家は自分を待っていたから、「ただいま」と声を掛けるもの。
 「帰って来たよ」と、この家にだって。
 素敵な時間を自分にくれる家だから。
 優しい両親も、美味しい食事も、この家とセット。
 暖かな家で、幸せな家。
 小さな頃からずっと幸せ、泣きべそをかいてしまった時も。
 転んで泣いてしまった時でも、涙を止めてくれた家。
 「大丈夫?」と、母が抱き締めてくれて。
 父が「ちょっとしみるぞ」と、傷薬を塗ってくれたりして。
 幸せな時間に包み込まれて、消えていった痛み。
 涙だって溶けて消えてしまった、幸せの中に。


 「ただいま」と帰って来られる家。
 どんな時でも、暖かく迎えてくれる家。
 ちょっぴり泣きべそをかいていたって、俯いて帰った時だって。
(ぼくの家、ちゃんとあるけれど…)
 幼い頃から変わらないまま、この場所に今もあるのだけれど。
(…帰りたいよ…)
 ハーレイと一緒に帰りたいよ、と零れてしまう小さな溜息。
 この家とは違う、ハーレイの家に。
 自分のものではない家に。
 ハーレイが「またな」と帰ってゆく度、「帰りたいな」と思ってしまう。
 自分の家は此処にあるのに。
 この家が自分の家なのに。
(…パパがいて、ママも、ぼくの部屋だって…)
 自分の家だから、此処に揃っている全て。
 大好きな父も、それから母も。
 お気に入りの部屋も、両親と過ごすダイニングやリビング、家を取り巻く庭だって。
 何もかもが此処に揃っているから、幸せな時間をくれる家。
 これから眠るためのベッドも、眠りを包んでくれる空気も。
(…全部、この家にあるんだけれど…)
 だから自分は幸せだけれど、それでも帰りたい気持ちが消えない。
 家は此処しか無いというのに。
 他に自分の家などは無くて、帰れるわけがない筈なのに。
(…でも、ぼくも…)
 帰りたいな、と帰ってしまった恋人を想う。
 「ぼくも一緒に連れて行って」と、「一緒に帰りたいのに」と。
 ハーレイの家へ、二人一緒に。
 「ただいま」と二人で玄関を開けて。


 無理だと分かっているけれど。
 そんな望みは叶わないけれど、帰りたい気持ちは消えてくれない。
 ハーレイが「またな」と帰ったら。
 この家にポツンと置いてゆかれたら、帰りたくなるハーレイの家。
 自分の家は此処にあるのに、此処が自分の家なのに。
 ハーレイの家はハーレイのもので、この家とはまるで違うのに。
(でも、帰りたいよ…)
 この家もとても大切だけれど、幸せに暮らせる家なのだけれど。
 優しい両親も、美味しい食事も、自分だけのための小さなお城もあるけれど。
(…それじゃ、足りない…)
 前には足りていたんだけどな、と零れる溜息。
 ちゃんと幸せだったのに、と。
 帰りたい家は此処だけだったし、他の家は要らなかったのに、と。
(…ぼくって、欲張り…?)
 幸せな家を持っているのに、その家だけでは足りないだなんて。
 もう一つ欲しいと考えるなんて、ハーレイの家も欲しいだなんて。
(…やっぱり、欲張りなんだよね…?)
 もっと、もっと、と欲しがる子供。
 ショーウインドウの前で駄々をこねる子、そんな子供と変わらない。
 「あれも欲しい」と、「あれも買って」と。
 あれをちょうだいと、あれが欲しいと。
 オモチャは充分持っているのに、お菓子だって沢山食べたのに。
 それでも欲しいと、大騒ぎしている小さな子供。
 きっと自分も似たようなもので、子供の我儘。
 幸せな家なら持っているのに、もう一つ欲しいと思うのだから。
 ハーレイの家も欲しいと思って、「これじゃ足りない」と不満なのだから。


(ぼくって、我儘…)
 それに子供だ、と思うけれども、帰りたい家。
 ハーレイと一緒に帰れる家。
 「ただいま」と二人で玄関を開けて、灯りを点けて。
 一息ついたら、ハーレイはコーヒーを淹れるのだろう。
 「お前はコーヒー、苦手だしな?」などと、からかいながら。
 「こいつでいいだろ?」と、紅茶を淹れてくれたりして。
(…そういう家に帰りたいのに…)
 駄目なんだよね、と悲しい気分。
 ハーレイの家はハーレイのもので、「またな」と言われたら、もう帰れない。
 「一緒に来るか?」と言って貰えたら、二人で帰ってゆけるのに。
 幸せな家に二人で入れて、独りぼっちにはならないのに。
(…ハーレイのこと、好きになっちゃったから…)
 だから欲張りになっちゃった、と分かってはいる、欲張りになってしまった原因。
 前の自分の記憶が戻って、またハーレイと巡り会えたから。
 消えてしまった恋の続きを、今の自分が生きているから。
(…前のぼくの記憶が戻る前なら…)
 この家があれば充分だったし、もっと欲しいとは思わなかった。
 もう一つ家が欲しいだなんて。
 幸せな家がもっと欲しいと、「帰りたいよ」と欲張ったりはしなかった。
 なのに今では我儘な子供、もう一つ欲しいと思う家。
 ハーレイと二人で「ただいま」と帰れる、幸せな家が欲しくなる。
 欲しくても、それは貰えないのに。
 ハーレイは「またな」と帰ってゆくだけ、「来るか?」と言ってはくれないのに。
 けれど、欲しくてたまらない家。
 今はハーレイしか帰れない家、ハーレイだけのために建っている家。


 欲しくて欲しくてたまらないのに、いつも自分は「またな」と置き去り。
 今日もそうだし、その前だって。
 これから先も、置いてゆかれる。
 ハーレイが帰る時間が来たら。
 「また来るから」と椅子から立ち上がったら。
 自分の家は此処にあるから、ポツンと一人で残されてしまう。
 「早く入れよ?」と促されて。
 ハーレイだけが帰ってしまって、自分は此処に一人きり。
 優しい両親が一緒でも。
 自分のための小さなお城の、この部屋で幸せに暮らしていても。
(…ぼくの家、もう一つ、欲しいのに…)
 ハーレイと「ただいま」と帰りたいのに、その家は手に入らない。
 チビの自分は置いてゆかれて、ハーレイを見送るだけだから。
 門扉を閉めて中に入るしかなくて、ハーレイだけが帰ってゆくから。
(…ハーレイの家に帰りたいのに…)
 小さな自分は帰れない。
 いつかハーレイと結婚するまで、「一緒に住むか?」と言って貰えるまで。
 いくら溜息を零しても。
 「帰りたいよ」と、ハーレイに瞳で訴えてみても。
(……酷いよね……)
 ハーレイのケチ、と思うけれども、どうやら自分も欲張りだから。
 幸せな家を持っているくせに、もっと欲しいと駄々をこねている子供だから…。
(…どっちもどっち…)
 ハーレイはケチで、ぼくは欲張り、と部屋の中をぐるりと見回してみる。
 家はあるけど、これじゃ足りないと。
 もっと欲しいけど、それは欲張り、と。
 けれど帰りたい、ハーレイの家。
 「ただいま」と二人で言いたいから。幸せな家に、二人で帰ってゆきたいから…。

 

        家はあるけど・了


※幸せな家を持っているのに、もっと欲しくなるブルー君。「帰りたいよ」と。
 ハーレイ先生と一緒に帰れるようになるまで、きっと我儘一杯。それも幸せですけどねv





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(今夜も置いて来ちまったんだが…)
 連れて帰れはしないからな、とハーレイが思い浮かべた恋人。
 十四歳にしかならない小さなブルー。
 二人で過ごした休日の夜に、いつもの書斎で。
(…どんなに見詰められてもなあ…)
 あいつの家は別なんだし、と傾ける愛用のマグカップ。
 中身はブルーの苦手なコーヒー、今日は朝食の時に飲んだだけ。
 朝食の後は、歩いて出掛けて行ったから。
 コーヒーが苦手な恋人の家へ、小さなブルーが待つ家へと。
 一日、一緒に過ごしていたから、コーヒーは無し。
 基本的には出ないコーヒー、ブルーの家では。
(お母さんたちも心得てるしな?)
 コーヒーは駄目、と。
 小さなブルーは飲めないから。
 飲みたがっても、そのままで飲めはしないコーヒー。
(ミルクたっぷり、砂糖もたっぷり…)
 ホイップクリームもこんもりと入れて、ようやっと飲めるコーヒーになる。
 愛おしい小さな恋人の舌は、今も昔も変わらない。
 前のブルーもそうだった。
 「ぼくも飲むから」とコーヒーを強請って、いつも「苦い」と顰めた顔。
 だから砂糖とミルクをたっぷり、ホイップクリームもこんもりと。
(…あんな飲み方になるんじゃなあ?)
 コーヒーは出さないのが吉だ、と熱いコーヒーの味と香りを楽しむ。
 「今日は朝から御無沙汰だった」と。


 今は書斎でコーヒータイム。
 心安らぐ時なのだけれど、やっぱり浮かぶ恋人の顔。
 帰り際に「またな」と手を振った時の。
 「また来てね」と見送りに出て来た時の。
 今日は歩いて出掛けたのだし、帰りも歩き。
 ブルーの家の庭を横切り、門扉を通って表の通りへ。
 もちろんブルーはついて来た。
 門扉を通って、街灯が灯る通りまで。
(…ついて来たいのは分かるんだがなあ…)
 ブルーは口にしないけれども、心に抱えている思い。
 「ぼくも一緒に帰りたいよ」と、「連れて帰って」と。
 ぼくだけを置いて帰らないでと、ぼくも帰る、と。
(しかし、そいつは早すぎるってな)
 あいつの家は別なんだから、とブルーの家を考える。
 何ブロックも離れた所で、声も届きはしない家。
 けれど、ブルーの家は其処。
 両親と暮らす暖かな家で、本当だったら幸せ一杯。
 「帰りたいよ」と、別の家など求めずに。
 ブルーくらいの年頃ならば。
 まだまだ遊びたい盛りの子供で、十四歳にしかならない子供。
(あいつのお父さんたちだって…)
 きっと、そういうつもりだろう。
 自分たちの息子は小さいのだから、手元でたっぷり可愛がって、と。
 美味しい食事や、甘いお菓子や、ブルーが欲しがる本などや。
 何でも与えて可愛がりたい、大切に育てたい子供。
 我儘だろうが、おねだりだろうが、ブルーの望みは叶えてやって。


 両親と暮らしているブルー。
 暖かな家で、幸せに。
(幸せ一杯の筈なんだがなあ…)
 もしもブルーが、前のブルーでなかったら。
 遠く遥かな時の彼方で恋をしていた、ソルジャー・ブルーでなかったら。
 もしも記憶が戻らなかったら、ブルーが欲しがる家は一つだけ。
 両親と暮らす、あの家だけ。
 他に欲しいと思いもしないし、「帰りたい」とも思わない。
 家はきちんとあるのだから。
 両親といつも一緒に暮らして、幸せを沢山、沢山貰って。
(…今のあいつも幸せなんだが…)
 充分、幸せな子供だと思う。
 コーヒーは苦手と分かっているから、出来るだけコーヒーは出さない両親。
(俺がコーヒー党だってことは、百も承知だというのにな?)
 それを出したら、小さなブルーも飲みたがるから。
 苦くて飲めもしないのに。
 ミルクと砂糖とホイップクリーム、それがブルーの飲み方なのに。
 「ぼくもコーヒー!」と欲しがるブルー。
 「みんなと一緒のコーヒーがいいよ」と、「ハーレイもコーヒーなんだもの」と。
 そうならないよう、出ないコーヒー。
 羨ましがった小さなブルーが、悲劇に見舞われないように。
 「やっぱり飲めない…」とションボリしょげてしまわないように。
 きっと自分がいない時には、コーヒーを飲むだろうブルーの両親。
 ブルーの母が淹れるコーヒー、その味は絶品なのだから。
(滅多に出ては来ないんだがな?)
 余程コーヒーが合いそうな夕食、それが出て来た時くらいしか。
 けれど、コーヒーの美味しさで分かる。
 「きっと普段は飲んでるんだ」と、「俺がいる日は控えるんだな」と。


 小さなブルーのためを思って、コーヒーを控えている両親。
 食後にコーヒー、と飲みたくなっても、ブルーのために。
 「コーヒーを飲むなら、また今度」と。
 小さなブルーが欲しがらないよう、「苦いよ」と困らないように。
(…それだけ愛されているんだがなあ…)
 本当にいいお父さんたちなのに、と浮かんだ苦笑。
 「なのに、あいつは帰りたがるんだ」と、「あいつの家は、ちゃんとあるのに」と。
 贅沢なヤツだと、あいつは充分、幸せなのに、と。
 優しい両親と暮らす、暖かな家。
 普通の子供なら充分満足、きっと「出たい」とは言わない家。
 サマーキャンプや合宿などで出掛けたとしても、「帰りたくない」とは思わない家。
 どんなに楽しく遊んでいても、家も家族も忘れていても。
(俺にだって覚えはあるからな?)
 子供時代の、そういった時。
 ふとしたはずみに、「帰りたいな」と思った記憶。
 合宿なども楽しいけれども、家での食事や会話もいいな、と。
(…直ぐに忘れてしまうんだが…)
 友達に呼ばれたら、その瞬間に。
 アッと言う間に家のことなど忘れてしまって、楽しい時間にすっかり夢中。
 それでも、消えはしない家。
 楽しい時間が終わった後には、其処に帰ってゆける家。
 家に帰ったら、家ならではの素敵な時間。
(…しかし、ブルーの場合はなあ…)
 ちょっと事情が違うからな、と苦笑い。
 「俺のことさえ、思い出さずにいたならな」と。
 前のブルーが持っていた記憶、それが戻らなかったなら、と。


 なまじ記憶が戻ったばかりに、小さなブルーが見付けた恋人。
 見付けて出会って、また恋をした。
 前のブルーが恋した通りに、そのまま記憶を引き継いで。
 好きだった人にまた会えたのだと、また恋をしてもいいのだと。
(…恋をするにも早すぎるのに…)
 まだまだそんな年ではないのに、ブルーが落ちてしまった恋。
 だから一緒に帰りたがる。
 両親と暮らす暖かな家があるというのに、「連れて帰って」と。
 「ぼくも一緒に帰りたいよ」と、別れの度に目で訴えて。
 そんなこと、出来はしないのに。
 小さなブルーを連れて帰れはしないのに。
(…あいつの家も、あいつの家族も…)
 あそこにちゃんとあるんだから、と分かっているから、知らん顔。
 ブルーがどんなに見詰めていたって、「帰りたいよ」と赤い瞳が揺れていたって。
 「またな」と軽く手を振ってやって、それでお別れ。
 ブルーを連れては帰れないから。
 小さなブルーの家も家族も、あそこにきちんとあるのだから。


(あいつを連れて帰れるとしたら…)
 そいつはずっと先のことだな、と傾けるコーヒーが入ったカップ。
 まだまだ先だと、その日は当分来ないんだが、と。
(…あいつの家族が、一人増えないと…)
 でないと駄目だ、と分かっている。
 ブルーの家族が、帰ってゆく家が、もう一つ増えてくれないと。
 「この家もブルーが暮らす家だ」と、誰もが思う日が来てくれないと。
 つまりは、もう一人、新しい家族。
 それをブルーが手に入れないと。
 今は家族に数えられない、自分が家族に加わらないと。
(…あいつ、全く分かっちゃいないな)
 その辺のことは、とクックッと笑う。
 「早くハーレイと結婚したいよ」が口癖のくせに、その意味は分かっていないんだ、と。
 もう一人、家族が増えるのだと。
 両親の他にも一人増えるから、その時は家も一つ増えると。
 「帰りたいよ」とブルーが見詰める、この家もブルーの家になる。
 それに全く気付いてないなと、チビだからな、と。
(結婚するのと、俺と一緒に帰るのと…)
 たまには結び付くのだろうけれど、普段はきっと気付かないブルー。
 だから見送りに出て来る度に、「帰りたいよ」と訴える瞳。
(…もう何年かの我慢だ、我慢)
 そしたら連れて帰ってやるから、とコーヒーを喉に送り込む。
 今は家族がいるだろ、と。
 それが増えるまで我慢しておけと、俺が家族になる時までは、と…。

 

         家はあるのに・了


※暖かな家も、優しい両親もいるというのに、「帰りたいよ」と見詰めるブルー君。
 けれど、連れて帰ってやれないのがハーレイ先生、家族じゃないのに無理ですよねv





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(やっちゃった…)
 ぼくの大馬鹿、と小さなブルーがついた溜息。
 ハーレイが訪ねて来なかった日の夜、自分の部屋で。
 お風呂上がりにパジャマ姿で、広げた本を手にしたままで。
(…まだ最後まで読んでいないのに…)
 こんな酷いことになっちゃうなんて、と眺めたページ。
 半分に折れてしまったページ。
 元に戻しても、ページにくっきり残った折り皺。
 此処で折れたと、本を乱暴に扱うからだ、と言うように。
(…ママが、お風呂、って…)
 「お風呂の時間よ」と呼びに来た母。
 勉強机で本の世界に入り込んでいたら、扉を軽くノックして。
 時計を見れば、そういう時間。
 呼ばれたら直ぐに行くのが「いい子」で、おまけに読書中だったから。
(…もうちょっとだけ、って思ったら…)
 アッと言う間に時間が流れて、「何をしてるの?」と母が覗きに来るだろう。
 「今日はお風呂に入らないの?」と、「何処か具合が悪いの?」と。
 お風呂は好きだし、病気の時でも入りたいくらい。
 本を読むのも好きだけれども、お風呂の時間も捨て難い。
 だから「エイッ!」と諦めた本。
 キリのいい所まで読もうとはせずに、「今は此処まで」とページの途中で。
 お風呂の後でゆっくり読もうと、湯冷めしない程度の時間まで、と。
 そう思ったから、栞は無し。
 「此処までしか読んでいないから」と、机の上に伏せた本。
 読んでいたページを開いたままで。
 手に取った時に、そのまま続きを読めるようにと。


 熱いお風呂にのんびり浸かって、戻った二階の自分の部屋。
 さっきの続き、と伏せておいた本を手にしたら…。
 半分に折れていたページ。
 普段はそのまま伏せはしないから、まるで注意していなかった。
 「後で」とポンと置いて行っただけ、本には注意を払わなかった。
 気を付けて置いてやらなかったら、こういうことになってしまうのに。
 ページが曲がってしまっていたなら、其処から折れてしまうのに。
(…真っ二つ…)
 丁度真ん中、そんな風についてしまった折り皺。
 折れたページを元に戻しても、元通りにはなってくれない紙。
(…ちゃんと栞を挟むとか…)
 でなければ閉じておけばよかった、どのページかを覚えておいて。
 何ページ目、と隅に刷られた数字を。
(…目印だって、ちゃんとあったのに…)
 折れたページの隣のページ。
 其処に挿絵が載っているから。
 何ページ目かを忘れていたって、挿絵で気付くだろうから。
 「此処まで読んだ」と、「この絵だった」と。
 それに、挿絵の隣のページ。
 其処にくっきり残された皺は、もう悲しいとしか言いようがない。
 挿絵のページが入るほどだし、本の山場の一つだから。
 文字が紡ぎ出す物語の世界、それが盛り上がるシーンの一つ。
 こういう具合に本の世界を眺めて欲しい、と素敵な挿絵が入るのに。
 登場人物は今、此処にいるのだと、周りの景色はこんな世界、と。
 本全体でも、それほど多くは無いだろう挿絵。
 余計に悔しくなる失敗。
 最高のページを台無しにしたと、ぼくが失敗しちゃったから、と。


 本を伏せてお風呂に出掛けた時には、浮き立つ気分だったのに。
 お風呂が済んだら続きを読もうと、とても楽しみだったのに。
 部屋に戻って、手に取る時も。
 続きは椅子に座って読もうか、それともベッドで読もうかと。
(…ホントにワクワクしてたのに…)
 今夜は何処まで読めるだろう、と。
 物語の世界はどうなってゆくか、主人公たちは何処へ行くのか。
 どういう話が紡がれるのか、今夜の自分は何処までそれを見られるだろう、と。
 けれど、開いたら戻れる筈だった世界と物語。
 本を手にしたら直ぐに入れて、其処に流れる時間が始まる筈だったのに…。
(……折れちゃった……)
 ページが駄目になっちゃった、と指で撫でても、消えてくれない折れた後の皺。
 ガックリとベッドに腰を下ろして、穴が開くほど眺めても。
 膝の上に置いた本のページをいくら見詰めても、折れたページは戻せない。
 ピンと伸びた元のページには。
 皺一つ無かったシャンとしたページ、それは戻って来てくれない。
 何度も読んでいた本だったら、まだ幾らかはマシなのに。
 同じように気が緩んでいたって、同じ失敗をやらかしたって。
 「仕方ないよね」と諦めはつく。
 「もう何回も読んだんだから」と、「何度も読んだら、本も傷んでくるものね」と。
 酷い折り皺は出来ないとしても、表紙や、本の開き具合といったもの。
 繰り返し読めば、それは自然と表れるから。
 そういう本に皺が出来ても、悔しい気持ちは同じだけれど…。
(…まだ読んでいない本よりはマシ…)
 傷一つ無いのを、何度も読んで来たのだから。
 自然と表紙がくたびれるくらい、お気に入りのページが直ぐ開くくらい。


 なのに、自分が失敗した本。
 パジャマに包まれた膝の上の本、最後まで読めていない本。
 手に入れたばかりで、今が最高に素敵な時間。
 どんな世界が待っているのか、物語はどう進むのかと。
 今夜の間に読み切れなければ、続きは明日に。
 明日でも無理なら、明後日まででも、その先までも。
 物語の世界の旅は続いて、本を楽しむ筈だったのに。
 今だって続きに入り込もうと、胸を高鳴らせて手に取ったのに…。
(…このページ、まだ半分も…)
 読めていないのに、くっきり折り皺。
 よりにもよって、山場の一つで。
 挿絵に描かれた場面がそっくりそのまま、綴られているだろうページの途中で。
(…こんなの、酷い…)
 どうして栞を挟まなかったか、ページを覚えて閉じなかったか。
 そうしておいたら、ページは折れなかったのに。
 開いたら直ぐに、本の世界に飛び込めたのに。
(…いつもだったら、ちゃんと栞とか…)
 栞の無い本だった時には、メモ用紙を挟み込むだとか。
 ページの数字を覚えておくとか、そうやって本を閉じるのに。
 開いたままで伏せて行きはしなくて、こんなことにはならないのに。
(大失敗…)
 ホントに失敗、と悲しい気持ち。
 話の続きを読み進めるには、とても向かない気分の自分。
 本当だったら、今頃は本の世界の中にいたのに。
 物語の登場人物と同じ世界を、時間を旅する筈だったのに。


(…ママが「お風呂よ」って呼びに来た時に…)
 戻りたいよ、と眺めた時計。
 時間が逆さに流れたら。時計の針が戻ってくれたなら。
(…この本、ちゃんと閉じるのに…)
 机の上に伏せておかずに、栞を挟んでパタンと閉じる。
 物語の世界も閉じるけれども、また開いたらいいだけのこと。
 栞を挟んだページを開いて、「此処からだっけ」と見付ける続き。
 途切れる流れはほんの少しだけ、じきに物語の世界に戻れる。
 栞を挟んだことを忘れて、一度は閉じたことも忘れて。
(戻りたいな…)
 一時間ほどでいいんだから、と思った時間。
 母が「お風呂よ」と呼びに来るまで、自分が本を伏せる前まで。
 そしたら、大切に閉じてゆく本。
 折り皺なんかはつかないように。
 まだ読めていないページの真ん中、くっきりと皺がつかないように。
(…ホントに、ちょっぴり…)
 こうなる前まで戻りたいよ、と思い浮かべたタイムマシン。
 夢物語の機械だけれども、それがあったら戻れるのに、と。
 ちょっと戻って慎重にやれば、こんな折り皺は出来ないのに、と。
(…戻りたいよね…)
 タイムマシンで、と溜息をついて見下ろすページ。
 この皺が消えてくれたなら、と。
 まだ最後まで読めていないのに、なんてことをしちゃったんだろう、と。


 そうは思っても、タイムマシンは今も無い。
 前の自分が生きた頃から、途方もない時間が流れ去ったのに。
(…あれって、作れないのかな?)
 いつまで経っても夢の機械のままなのかな、と思った途端に掠めた記憶。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が考えたこと。
 「戻りたいよ」と、溜息をついて。
 天体の間の階段に腰を下ろして。
(……眠ったままでも……)
 眠り続けて目覚めないままでも、それで良かった、とチラリと思った。
 十五年もの長い眠りから目覚めた後に。
 間近に迫ったハーレイとの別れ、命の終わりを悟った時に。
 自分の役目は分かっていたから、行くよりも他に無いけれど。
 死へと向かうしかないのだけれども、戻れるものなら戻りたいよ、と。
 こうして自分が目覚める前に。
 永遠にそれを繰り返すとしても、ハーレイと離れずにいられるのなら、と。
 いつまでも此処にいられるのなら、と。
(…ホントにチラッと考えただけ…)
 駄目だと自分で打ち消したけれど、あの時、一瞬、魅せられた夢。
 目覚める前に戻れたならばと、この道を行かずに済むのならと。
(あれに比べたら…)
 本のページについた折り皺、それは本当に些細なこと。
 時間を戻ってやり直すなんて、ただの小さな子供の我儘。
 ページに折り皺がついてしまっても、物語の時間は終わらないから。
 前の自分の時間と違って、ちゃんと続いてゆくのだから。


(…我儘、言っちゃ駄目だよね…)
 きっとハーレイにも叱られちゃうよ、と指先でそっと撫でた折り皺。
 前の自分が失くしてしまった、命の続き。
 それを幸せに生きているから、こんな失敗だってする。
 だから我慢、と我儘は言わないことにした。
 今の自分は幸せだから。
 時間を戻して生きていたいと願わなくても、戻りたかった時間の続きを生きているから…。

 

         戻りたい時間・了


※ブルー君がやった、大失敗。読み始めたばかりの本のページに折り皺、いい場面なのに。
 ショックみたいですけど、前の自分を思い出したら…。タイムマシンは要りませんよねv





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(うーむ…)
 やっちまった、とハーレイが零した大きな溜息。
 俺としたことが、と眺めたテーブル。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後のダイニングで。
(ちょいとお洒落に、と思ったのにな…)
 なんだってこうなるんだか、とゴシゴシと拭いたテーブルの上。
 見事に零れてしまったコーヒー、コーヒーの色に染まった新聞。
 読みかけの記事はコーヒーの色で、他の部分もコーヒー色。
 すっかり零してしまったから。
 デミタスカップに淹れたコーヒー、今は空っぽのデミタスカップ。
 ソーサ―の上に零れて溢れて、テーブルの上まで流れたのだから。
(…いつものカップにすれば良かった…)
 愛用の大きなマグカップ。
 それにたっぷり熱いコーヒー、夜のひと時のお決まりのコース。
 書斎で飲むか、ダイニングにするか、リビングに行くかの違いくらいで。
(…たまには、と思ったのが間違いの元で…)
 どうしたわけだか、少しお洒落に飲みたくなった食後のコーヒー。
 ちょっと気取った店で食べたら、食事の後でテーブルに置かれるデミタスカップ。
 そんな気分で、と考えた。
 夕食は普通の献立だけれど、今日はお洒落に締め括ろうと。
 いそいそとカップを用意して。
 来客の時に使う質のいいもの、それにしようと。
 選んだカップに注いだコーヒー、其処までは良かったのだけど。
 テーブルでゆったり飲み始めた時も、気分は最高だったのだけれど…。


 ついつい狂ってしまった手元。
 広げた新聞を読んでいる内に、忘れてしまったカップのサイズ。
 いつもの調子で手を伸ばしたら、大きなマグカップは其処には無くて。
 コンと当たってしまった手。
 マグカップよりもずっと小さい、デミタスカップの縁にコツンと。
(当たった場所も悪かったんだ…)
 自分の大きな身体に見合った、大きな手。
 それにゴツンとぶつかられたなら、バランスを崩す小さなカップ。
 中のコーヒーごとコトンと倒れて、アッと思った時には、もう手遅れ。
 半分ほどか、三分の一か、覚えてはいないカップの中身。
 全部すっかり零れてしまって、新聞の上にまで流れたコーヒー。
(…幸か不幸か、新聞だったし…)
 新聞は水気をよく吸い取るから、テーブルだけで止まった被害。
 床まで汚れなかったことなら、とても有難い気分だけれど。
 床掃除の手間は省けたけれども、コーヒーの色に染まった新聞。
 それがなんとも悔しい感じ。
(この記事も、これも…)
 カラーってトコがミソだったのに、と嘆いた所で始まらない。
 一度染まったコーヒーの色は、拭いても残るものだから。
 鮮やかだった元の印刷、その上にコーヒー色の層。
 台無しになったカラー写真や、イラストなどや。
(…何もかも、俺が悪いんだがな…)
 やっちまったのは俺なんだし、と仕方なく畳んで閉じた新聞。
 とりあえず、全部読んでから。
 「綺麗な紙面で読みたかった」と、溜息を幾つも零してから。


 失敗だったデミタスカップ。
 洒落た気分で、と思わなかったら、きっと起こりはしなかった悲劇。
 いつものカップにしていたら。
 そうでなくても、自分が忘れなかったなら。
(…デミタスカップに淹れたってことを…)
 忘れて新聞を読み耽るのなら、普段のカップで充分だった。
 コーヒーの香りを楽しみながら、ゆったり飲むのがデミタスカップ。
 よそ見しながら飲むのではなくて、時間と空間を味わうもの。
 一人で店に入ったにしても、ゆっくりと。
 雰囲気と其処に流れる時間を、食事の余韻をカップに溶かし入れながら。
(…今夜の俺は、そいつには向いていなかったわけで…)
 なのに何処かで間違えた。
 少しお洒落に飲んでみようと、たまには気取ってデミタスカップ、と。
 そうして選んだ結果がコレ。
 どれほどカップに残っていたのか、それすら思い出せないコーヒー。
 淹れた値打ちが無かったコーヒー、ただ漫然と飲んでいただけ。
 おまけに最後まで飲み干す代わりに、テーブルの上に零した始末。
 読んでいた新聞は駄目になったし、テーブルはゴシゴシ拭いてやらねばならなかったし…。
(…まったく、とんだ結末だよな)
 やっちまった俺が馬鹿だった、と溜息をついて立ち上がる。
 「気分直しにコーヒーでも」と。
 飲んだ気分もしないほどだし、淹れ直した方がきっと楽しい。
 贅沢に最初から淹れるコーヒー、一晩に二度も。
 今度はいつものマグカップに。


 淹れ直してから向かった書斎。
 「最初からこっちにすれば良かった」と。
 新聞を読みながら半分ほど飲んで、それから移動するだとか。
 あるいは新聞を読み終えた後に、ゆっくりと淹れて書斎に来るとか。
(…ちょいと時間を戻せたらなあ…)
 椅子に座ったら、ふと思ったこと。
 ほんの少しだけ時計の針を戻せたら、と。
 食事を終えて、片付けのために立った頃まで。
(そしたら、今度はきちんとだな…)
 デミタスカップに淹れたコーヒー、それを飲み終えてから広げる新聞。
 コーヒー色になっていないのを。
 写真もイラストも鮮やかなものを、のんびり、ゆっくり。
(そうするのもいいし、デミタスカップにしないで、だ…)
 最初から今のマグカップ。
 これに淹れたら、きっと零れはしない筈。
 あのタイミングで手を伸ばしたら、慣れたカップに届くから。
 「これだ」とロクに眺めもしないで、ちゃんと手に取れる筈だから。
 そう出来たらな、と目を遣った時計。
 「こいつの針を戻せたらな」と、「この時間まででいいんだが」と。
 ほんのちょっぴり、時間旅行。
 それが出来たら嬉しいのにと、ヒョイと戻れたらいいのにと。
 コーヒーを零してしまう前まで。
 失敗する前の時間まで。
(タイムマシンがあったらなあ…)
 ちょっと戻ってやり直すんだが、と思い浮かべた夢の機械。
 時を遡れる便利な機械は、今も出来てはいないから。


(…そういう意味では、進歩してないな…)
 今の時代の技術ってヤツは、と流れた時の長さを思う。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分は生きていたから。
 あれから途方もない時が流れて、地球までが青くなったのに。
 何もかもすっかり変わっているのに、タイムマシンはまだ無いんだな、と。
(いつになったら作れるのやら…)
 それとも不可能なんだろうか、と考えた途端に掠めた記憶。
 前の自分の深い悲しみ、前のブルーを失くした後の。
(…戻せたなら、と思ってたんだ…)
 時計の針を、時の流れを。
 ほんの少しと、此処まででいい、と。
 「ほんの少し」と思った時間は、いつの間にか増えていたけれど。
 数時間だったのが一日に増えて、数日になって、一ヶ月を越えて、何処までも。
 前の自分の命が尽きてしまうまで。
 地球の地の底、終わりの時がやって来るまで。
(…俺は、あいつを…)
 前のブルーを取り戻したかった、時計の針を、時を戻して。
 その方法があると言うなら、タイムマシンがありさえすれば、と。
 もしも時間を遡れたなら、きっと失敗しないから。
 「ジョミーを支えてやってくれ」と、ブルーに言わせはしないから。
(…何が何でも、ナスカを撤収…)
 あそこに残ると言った者たち、彼らを端から殴ってでも。
 シェルターに麻酔ガスを注ぎ込んででも、一人残さず連れ帰る。
 そうしていたなら、直ぐにナスカを捨てられるから。
 メギドの炎がやって来る前に、シャングリラは宇宙に旅立てるから。


 何度も思った、「時を戻す」こと。
 前のブルーを失くさないよう、あの時間まで。
 其処に戻れたらと、戻したいと。
 タイムマシンがあったならばと、どうしてそれは無いのだろうかと。
(…そうだったっけな…)
 もっと切実だったんだ、と気付いた「戻りたかった時」。
 やり直せたらと、戻したいんだと、前の自分が悔やんだ時間。
 最初の間は「ほんの少し」と。
 時が経つにつれて「戻したい時間」は、過ぎた分だけ増えたのだった。
 ほんの少しから、一日に。
 一日から、いつしか数ヶ月にも、もっと増えて終わりを迎えるまで。
(…コーヒーをちょっと零したくらいで…)
 戻したいなんて言っちゃいかんな、と自分を叱る。
 「お前は幸せなんだろうが」と、「ブルーは帰って来たろうが」と。
 「コーヒーを零しちまってな…」と失敗談を話してやったら、笑い転げそうな小さなブルー。
 今は笑いの種でしかない、自分が戻したかった時。
 だから自然と浮かんだ笑み。
 時間の流れを戻さなくても、幸せってヤツは来るもんだ、と。
 コーヒーを零したくらいが何だと、ブルーに言ったら、きっと笑ってくれるんだから、と…。

 

         戻したい時間・了


※ハーレイ先生が零したコーヒー、痛恨のミスで時間を戻してやりたいほど。零さないように。
 けれども、前の自分の気持ち。それに気付いたら、たかがコーヒー。今は充分幸せですv





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(今夜は、ちょっぴり…)
 冷えるみたい、と小さなブルーが見回した部屋。
 ハーレイが来てくれなかった日の夜、夕食を食べて戻って来て。
 まだ充分に暖かいけれど、部屋に戻って来る途中。
 階段の空気が冷たかったし、廊下も少し。
 暖かい空気は上に昇るから、二階はまだまだ暖かいけれど…。
(ママも冷えるって言っていたしね?)
 早めにお風呂に入りなさい、と夕食の時に言っていた母。
 明日の朝は冷えるという予報だから、暖かくして寝なさい、と。
(…ぼくの部屋、まだ暖かいけど…)
 その内に冷えて来るのだろう。
 今の季節にはありがちなことで、気の早い冬の使者の先触れ。
 冬が来るのはずっと先なのに、秋の天気は気まぐれだから。
 不意に降り出す天気雨とか、くるくると変わりやすいのが秋。
 空模様と同じに変わるのが気温、冷える夜やら、汗ばむような昼間やら。
(…暖かすぎる方はいいんだけれど…)
 冷える夜の方は注意信号、と自分でもちゃんと分かっている。
 ほんの小さな子供の頃から、繰り返し注意されたから。
 「夜更かしは駄目」と、「早く寝なさい」と。
 もっと遊んでいたい日だって、母にお風呂に入れられた。
 温まったら、直ぐにベッドへ。
 湯冷めしたなら、風邪を引くから。
 早めのお風呂で温まるどころか、逆に身体が冷えるから。
 子供時代はそうだったけれど、今も冷える日は注意しないと駄目なのだけれど。
(…注意信号の意味…)
 変わっちゃった、と眺めた右手。
 これが問題、と。


 今年の春まで、まるで知らずに過ごした自分。
 前の自分が存在したこと、自分が生まれ変わりなことを。
 けれども今は知っているから、冷える夜には気を付けること。
 恐ろしい夢に襲われないよう、メギドの悪夢を見ないよう。
(…右手が冷えたら…)
 あれを見ちゃう、とキュッと握った小さな右手。
 今は温かくて、握れば体温を感じるけれど。
 もっと強くと握り締めたら、手の中が熱くなるけれど。
(…前のぼくの手…)
 前の自分が持っていた手は、命の終わりに凍えてしまった。
 最後まで持っていたいと願った、愛おしい人の温もりを失くして。
 前の自分が恋したハーレイ、その腕から貰って行った温もりを落としてしまって。
 メギドでキースに撃たれた痛みで、落として消えてしまった温もり。
 ハーレイとの絆は切れてしまって、メギドで独りぼっちになった。
 二度とハーレイには会えはしないと、泣きじゃくりながら死んでいった自分。
 右手がとても冷たいと泣いて。
 凍えた右手が悲しすぎて。
(…ハーレイには、また会えたんだけど…)
 青い地球に二人、生まれ変わって巡り会えたから戻った記憶。
 前の自分は誰だったのかも、誰を愛していたのかも。
 それは嬉しいことだけれども、今もハーレイが好きだけれども。
(…ぼくの右手は…)
 ちょっと厄介になっちゃった、と零れる溜息。
 右手が冷えたら、メギドの悪夢に襲われるから。
 前の自分の悲しい最期が、目の前にまざまざと蘇るから。
 泣きながら目が覚める夢。
 とても怖いと、独りぼっちだと。


 気まぐれに来る秋の冷え込み、それが何度も運んだ悪夢。
 悩まされていたらハーレイがくれた、とても素敵なプレゼント。
 冷える夜には、右手にはめるサポーター。
 医療用のそれは薄い素材で、けして眠りを妨げはしない。
 おまけに、とても頼もしいもの。
 ハーレイが右手を握ってくれている時の力加減。
 それと同じに出来ているから、ハーレイの手が其処にあるよう。
(…今夜は、あれを忘れずに…)
 つけなくっちゃ、と取り出した。
 ハーレイに貰ったサポーター。
 今夜はこれと一緒に寝なきゃと、忘れちゃったら駄目なんだから、と。
 枕の上にそうっと置いて、それからお風呂。
 身体の芯まで温まるように、右手が凍えてしまわないように。
 熱いバスタブに浸かる間も、何度も左手で握った右手。
 「大丈夫だよ」と、「ぼくは平気」と。
 前の自分の悲しい最期は、今では時の彼方だから。
 歴史の授業で教わるくらいに、遠い昔の出来事だから。
 「怖くないよ」と言い聞かせる手。
 今の自分は、前の自分とは違うから。
 生まれ変わりでも、新しく貰った命と身体。
 悲しい記憶を秘めていたって、右手は今の自分の右手。
 メギドに連れ戻されはしないし、ハーレイの温もりを失くしもしない。
 ハーレイはちゃんといるのだから。
 自分と同じに生まれ変わって、前とそっくり同じ姿で。
 キャプテンの制服を着ていないだけで、中身は前のハーレイと同じ。
 やっていることは、違うけど。
 キャプテンではなくて古典の教師で、柔道と水泳もプロ級の腕を持つのだけれど。


 色々と変わった自分の周り。
 ハーレイも変わったし、自分も変わった。
 十四歳にしかならない子供で、ハーレイが教える学校の生徒。
 違う人生を生きているのに、たまに襲うのがメギドの悪夢。
(…あれだけは嫌…)
 悲しくて怖い夢だもの、と震わせた肩。
 ウッカリ見た日は、何もかも揺らぎそうになる。
 自分の悲鳴で飛び起きた夜中、世界さえもが幻に見える。
 今の自分も、自分の部屋も。
 同じ二階で寝ている筈の両親だって、両親と暮らす家だって。
 何度涙が零れただろうか、とても怖くて。
 全ては前の自分の夢かもしれないと。
 死んでしまったソルジャー・ブルーが、その魂が紡ぐ夢ではないのだろうかと。
 「怖い」と「助けて」と、ハーレイの名を呼ぶけれど。
 縋り付きたくて泣くのだけれども、ハーレイは側にいてくれない。
 たった一度だけ、ハーレイの家へと瞬間移動をした日以外は。
 無意識の内に飛んでしまって、ハーレイのベッドで目覚めた朝を除いては。
(…あれっきり、二度と飛べないし…)
 ただでもサイオンは不器用なのだし、飛んで行けるとも思わない。
 いくら泣いても、泣きじゃくりながら眠っても。
(…本当に飛べやしないんだから…)
 悲しくて怖くて、独りぼっちで泣き続けるだけ。
 「夢じゃないよね」と、「生きてるよね」と。
 ぼくもハーレイも生きているよねと、二人で地球に来たんだものね、と。
 泣いて心が落ち着くまで。
 自分は確かに生きているのだと、泣いて実感出来るまで。


 そんな思いはしたくないから、お風呂から出たら、真っ直ぐ部屋へ。
 パジャマだと少し寒いけれども、何かを羽織るほどでもない。
 急いで廊下を歩いたら。
 階段を上って部屋へ急いだら、中の空気は暖かいから。
(…まだ暖かい…)
 外がひんやりしてただけ、とホッと安心した部屋の中。
 これなら明日の朝になっても、それほど冷えはしないだろう。
 ちょっぴり頬に冷たいくらいで、きっと暖房も要らないけれど…。
(…これは忘れちゃ駄目なんだよ)
 今は暖かくても、寝てる間に冷えるんだから、と右の手にはめたサポーター。
 キュッとはめたら、頭に浮かんだ恋人の顔。
 それに温もり、いつも右手を「ほら」と両手で包んでくれる時の。
(ハーレイと一緒…)
 今も一緒、と綻んだ顔。
 ハーレイは此処にいないけれども、右手を握ってくれているから。
 このサポーターと一緒に、キュッと。
 「大丈夫だからな」と、「俺がいるから」と。
 きっと今夜も、ハーレイは守ってくれるのだろう。
 メギドの悪夢が来ないようにと、右手をしっかり握ってくれて。
 明日の朝まで、こうして自分を守り続けてくれるのだろう。
 サポーターをはめた時には、メギドの悪夢は来ないから。
 来てしまった時でも、夢の中では…。
(…ハーレイが温めてくれるんだよ…)
 冷たく凍えてしまった手を。
 温もりを失くして冷えた右手を、ふわりと両手で包み込んで。
 メギドからは遠く離れている船、シャングリラから飛んで来てくれて。
 夢の中のハーレイの魂だけが。
 想いが温もりを届けに来てくれて、もう泣かなくても済む幸せな夢。


 今夜もきっと大丈夫、と入ったベッド。
 上掛けを肩まで引っ張り上げたら、後は眠りに落ちるだけ。
 部屋の明かりは常夜灯だけ、それでも感じるハーレイの想い。
 ハーレイは側にいないけれども、サポーターをはめた自分だけしかいないけれども。
(でも、一緒…)
 今だってずっと一緒だもの、とハーレイを想う。
 きっとハーレイは、今も自分を想ってくれている筈だから。
(だって、今夜は冷えるから…)
 ハーレイも気付いて、心配をしているのだろう。
 メギドの悪夢に捕まらないかと、サポーターはちゃんと着けただろうかと。
 暖かい内にベッドに入ったろうかと、夜更かしして右手が冷えねばいいが、と。
(…大丈夫だよ、ぼく…)
 もう暖かくして寝ているから、と伝えたくても、届かない声。
 ハーレイの家は何ブロックも離れた所で、声が届きはしないから。
 けれど、ハーレイはきっと心配しているだろうから、小さな声で呟いてみる。
 「ちゃんと寝てるよ」と、「サポーターもはめているからね」と。
 ハーレイが側にいるかのように。
 本物のハーレイが側にいたなら、こんな具合、と瞼を閉じて。
 「少し冷えるね」と、「部屋の外はちょっぴり寒かったよ」と。
 でも平気だよ、と語り掛けながら眠りに落ちてゆく。
 ハーレイと一緒でとても幸せと、心はいつでも一緒だよね、と…。

 

          少し冷えるね・了


※ちょっぴり冷える夜のブルー君。きちんとサポーターをはめたようです、忘れないで。
 メギドの悪夢を防いでくれる大切なもので、はめると幸せな気持ちが一杯v





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