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カテゴリー「書き下ろし」の記事一覧

(今日も見事に膨れてたってな)
 そりゃあ見事に、とハーレイがクッと漏らした笑い。
 ブルーの家へと出掛けて来た日の夜、いつもの書斎で。
 マグカップに淹れたコーヒー片手に、クックッと。
(何度言ったら分かるんだか…)
 あのチビは、と小さなブルーを思い出す。
 キスを強請って来たブルー。
 何度も「駄目だ」と叱っているのに、唇へのキスを。
(子供のくせに…)
 十四歳にしかならないブルーは、まだ子供。
 恋人同士のキスを交わすには早すぎるから、唇にキスは贈らない。
 頬と額だけ、そう決めたのに。
 前のブルーと同じ背丈に育つまでは、と何度も言って聞かせているのに…。
(懲りないってトコが子供なんだ)
 それに、断られたら「ケチ!」と怒り出すことも。
 プウッと膨れてしまうのも。
 きちんと育った大人だったら、あんな風には膨れない。
 同じようにキスを断られたって、膨れる代わりに大粒の涙。
 いったい何がいけなかったかと、嫌われるようなことをしたのかと。
(そっちだったら、俺だって…)
 懸命に慰めにかかるだろう。
 キスが出来ない理由を話して、零れる涙を拭ってやって。
(…俺が風邪でも引いているとか、そういうのだな)
 育ったブルーとキスをしないなら、理由は多分、その程度。
 風邪は滅多に引かないけれども、引いたとしたって軽いけれども。


 前と同じに育ったブルーにキスをしないなら、風邪くらい。
 うつしてしまうと大変だから、と。
 けれどブルーは知らずに強請って、勝手に泣き出しそうだから。
 「ぼくを嫌いになってしまった?」と大粒の涙を零しそうだから、愛おしい。
 きっと抱き締めてしまうだろう。
 「すまん」と、「俺が悪かったよな」と。
 育ったブルーに泣かれたら。赤い瞳から、真珠の涙が零れたら。
(…あいつが一人前の恋人だったら、そうなるんだが…)
 生憎と小さなブルーは子供。
 真珠の涙を零す代わりに、プウッと膨らませてしまう頬っぺた。
 「ハーレイのケチ!」とプンスカと。
 唇を尖らせて、プンプンと。
(まるでフグみたいになっちまうんだ)
 そういや、前に…、とプッと吹き出す。
 キスを狙って悪だくみをしたブルーの頬を、両手で潰してやった時。
(…ハコフグって呼んでやったんだっけな)
 その日は一日、小さなブルーをハコフグと呼んだ。
 膨れた頬っぺたをギュッと潰したら、ハコフグになったものだから。
 海の中で出会ったハコフグの姿、それが重なったものだから。
(今日のあいつも、見事なフグだぞ)
 フグと呼ぶのを忘れちまったが、と膨れっ面のブルーを想う。
 そう呼んだならば、もっと膨れてしまいそうだけれど。
 「酷い!」と怒って、唇をもっと尖らせて。
 ますますフグに似てしまうのに。
 膨れっ面になればなるほど、フグそっくりの顔になるのに。


(今のあいつは、フグでハコフグ…)
 そんなトコだ、と本物のフグとブルーの顔を重ねてみる。
 フグにしては可愛すぎるだろうかと、赤い瞳のフグもいないな、と。
(でもまあ、あいつにはフグが似合いで…)
 次に膨れたら「フグ」と呼ぶか、と考えていたら、ヒョイと頭に浮かんだ水槽。
 本物のフグが泳ぐ水槽、水族館などで何度も目にした。
 あの中にブルーが泳いでいたなら、自分はブルーに気付くだろうか?
 膨れっ面のブルーではなくて、本物のフグの姿のブルー。
 目の前をスイスイ泳いでゆくだけ、赤い瞳もしていないブルー。
(…分かるのか、俺は?)
 ガラスで隔てられた向こうにブルーがいると。
 前の生から愛した恋人、愛おしい人が其処にいるのだと。
(…フグになっても…)
 分かるのだろうか、ブルーを見分けられるだろうか。
 フグに聖痕がありはしないし、第一、フグは喋らない。
 思念波だって持ってはいなくて、水槽の中を黙って泳いでいるだけで…。
(それでも、俺は…)
 きっと分かる、という気がした。
 ブルーの方でも、きっと気付いてくれるだろう。
 水槽の前に張り付いていたら、泳ぐブルーを見詰めていたら。
(ガラスをコツンと叩かなくても…)
 こちらに泳いで来てくれる。
 フグの瞳は、赤い瞳ではないけれど。
 前のブルーとフグは少しも似ていないけれど、それでもブルー。
 きっと自分は捕まるのだろう、水槽の中を泳ぐブルーに。
 本物のフグに生まれ変わったブルーでも。


 違いないな、と自分でも分かる。
 ブルーがどんな姿になっても、きっと出会えるだろうから。
 見付けて、記憶を全て取り戻して、ブルーに恋をする筈だから。
 たとえブルーがフグになっても、水族館の水槽越しに出会っても。
(はてさて、ブルーがフグの場合は…)
 どうしたもんか、と想像してみるブルーとの恋。
 いくらブルーが気付いてくれても、人間とフグの恋となったら…。
(障害ってヤツが山ほどで…)
 チビのブルーとは比較にならん、と簡単に分かってしまうこと。
 住んでいる世界が違うから。
 ブルーは水の世界の住人、自分は水の中では息が全く出来ない人間。
 ほんの短い逢瀬だったら、水の世界で会えるけれども…。
(…俺が潜っていられる間だけしか…)
 ブルーの側にはいられない。
 シールドを使えば長く潜っていられるとしても、それではブルーに触れられない。
 自分の周りに閉じ込めた空気、それが間に挟まるから。
(それに、シールドが無かったとしても…)
 フグのブルーに触れられる時間は僅かなもの。
 人間と魚の体温は違って、長い間、抱き締めていたならば…。
(…ブルーが火傷をしちまうんだ…)
 そして弱って、きっと長くは生きられない。
 迂闊にキスも贈れはしないし、触れ合うことも難しいブルー。
(水槽の中に潜るのだって…)
 許可が出るのか、それも怪しい。
 ただの客だし、職員などではないわけだから。
(ブルーを貰って帰るのも…)
 難しいだろうし、貰えたとしても上手に世話が出来るのかどうか。
 金魚だったらマシだけれども、フグなのだから。


 フグを飼うのは、素人の自分には無理だろう。
 海水を入れた水槽は用意出来たとしたって、その後のこと。
 水族館の職員のようにフグの飼育のプロではないから、日に日に弱ってゆきそうなブルー。
(それでも、あいつは…)
 きっと文句を言いもしないで、幸せそうに泳ぐのだろう。
 水族館でしか会えなかった頃より、ずっと嬉しそうに、幸せそうに。
 やっと一緒に暮らせるのだと、もう離れなくて済むのだからと。
(…どんなに弱っちまっても…)
 ろくに泳げなくなってしまっても、ブルーはきっと水族館には帰らない。
 「お前にはあそこの方がいいんだ」と言い聞かせたって、連れて行こうと用意したって。
 フグは言葉を喋れないけれど、それでもブルーの気持ちは分かる。
 「ぼくはこのまま、此処にいたいよ」と、「水族館には戻りたくない」と。
 弱り切って命が尽きる時にも、静かに眠りに就きそうなブルー。
 「幸せだったよ」と言うように。
 「水族館にいた時より、ずっと幸せ」と、「ハーレイに会えて嬉しかった」と。
 水族館から連れ出したのは、弱らせたのは自分なのに。
 あのまま水槽で泳いでいたなら、もっと寿命があっただろうに。
(…それでも、あいつは満足なんだ…)
 それに自分も、悔やみながらも、涙を幾つも零しながらも、何処かで満足しているのだろう。
 ブルーに巡り会えたから。
 ほんの短い間だけでも、ブルーと一緒に暮らせたから。
 水の世界と、水の外の世界に隔てられても。
 フグのブルーが暮らす世界と、自分の世界が重ならなくても。
(…会えただけでも、幸せなんだ…)
 もう一度ブルーと恋が出来たら、それだけで。
 フグのブルーの命が尽きても、その日が来るまでに重ねた思い出。
 また会えたのだと弾んだ心や、一緒に暮らそうとブルーを連れて帰った日やら。
 幸せな恋の日々を生きたし、ブルーも幸せだったのだから。


(…うん、フグのあいつでも恋は出来るな)
 どんなあいつでも恋は出来る、と揺らがないブルーへの想い。
 たとえフグでも、二人の世界が重ならなくても、恋は出来ると。
 きっと出会って恋をするのだと、何処までもブルーを追ってゆけると。
 フグのブルーがいなくなったら、次のブルーを見付け出す。
 何処かに生まれ変わったブルーを、前の生から愛し続けてやまない人を。
(…小鳥だろうが、またフグだろうが…)
 ブルーを見付けて恋をするけれど、幸せに過ごしてゆけそうだけれど。
(今のあいつが一番だってな)
 前と同じに恋が出来るし、何の障害も無いわけだし…、と浮かべる笑み。
 膨れっ面のフグだけれども、小さなブルーは人間だから。
 どんなブルーでも恋をするけれど、人間同士の恋が一番、幸せになれる筈だから…。

 

        どんなあいつでも・了


※ブルー君がフグだとしたって、恋をするのがハーレイ先生。水族館のガラス越しでも。
 どんな姿でも恋して大切にするでしょうけど、今のブルー君が一番ですよねv





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(えーっと…)
 目が覚めちゃった、と小さなブルーが見上げた天井。
 部屋の明かりは常夜灯だけ、もちろん窓の外も真っ暗。
 けれど、ぽっかり目が覚めた。
 何かのはずみに、夜更けの部屋で。
(怖い夢は見てないんだけれど…)
 メギドの悪夢を見てはいないし、何かに追われる夢だって。
 多分、夢など見ずに眠っていた筈なのに…。
(起きちゃった…)
 今は何時、と伸ばした手。
 枕元に置いた目覚まし時計を手に取ってみたら、本当に夜中。
 夜が明けるには早すぎる時間、まだまだ続く真っ暗な夜。
(お月様や星は、あるだろうけど…)
 窓のカーテンを開けてみたなら、庭園灯や街灯も見えるだろうけれど。
 そういう光も全部闇の中、周りをぼうっと照らすだけ。
 まるで漆黒の宇宙空間、そんな感じがするのだろう。
 宇宙に庭は無いけれど。
 表の通りも、向かい側の家も、宇宙には存在しないのだけれど。
(地球も宇宙の一部なんだし…)
 宇宙にも庭はあるのかも、と考え方を変えてみる。
 庭も表の通りも宇宙、と。
 向かい側の家も、この町だって、と。
 そう考えたら面白い。
 何も無い筈の宇宙に沢山、色々なもの。
 庭があったり、道路があったり、街灯が幾つも並んでいたり。
 暗い間に家を抜け出して散歩している、猫がトコトコ歩いていたり。


 そんな宇宙も素敵だよね、と広がる夢。
 何処までも広がる漆黒の宇宙、其処に家やら道路やら。
 庭も幾つも、それに街灯。
 勝手気ままに歩く猫たち、しなやかな尻尾を誇らしげに立てて。
(…宇宙船が来たら、よけるんだよね?)
 暗い宇宙を散歩する猫。
 ぶつからないよう、大急ぎで。
 宇宙船のライトが見えて来たなら、邪魔にならない方向へ。
(通りすぎたら、また戻って来て…)
 散歩の続き、と想像してみる。
 宇宙船は行ってしまったから、と我が物顔で。
 もう大丈夫と、ツンと澄ました顔で。
(今の時代なら、ホントにありそう…)
 漆黒の宇宙を散歩する猫も、宇宙に並ぶ街灯も。
 庭も道路も、人が住んでいる家だって。
(今の宇宙は、夢が一杯…)
 どんな夢を見るのも、夢を描くのも。
 技術的に可能かどうかはともかく、夢を見るのは本当に自由。
 誰もが好きな夢を見られる、そういう時代。
 猫がトコトコ横切る宇宙も、家や街灯が並ぶ宇宙も。
(みんな、好きなように夢が見られて…)
 それを実現させたくなって、頑張るのもまた自由な時代。
 宇宙に家を建ててみようとか、庭を作ってみようとか。
 街灯を幾つも並べたいとか、宇宙を散歩できる猫が欲しいとか。
(…宇宙をトコトコ歩ける猫って…)
 猫の世界のタイプ・ブルーかも、とクスッと笑う。
 そういう猫なら平気だよねと、宇宙だってきっと歩ける筈、と。


 今は幾らでも見られる夢。
 想像の翼を広げて飛ぶのも、実現に向かって努力するのも。
 誰も咎めに来たりしないし、却って褒めて貰えるくらい。
 夢は大きい方がいいから、その方が楽しい毎日だから。
 「それ、無理だろ?」と友達が呆れるような夢でも、笑われそうな夢を抱えていても。
 呆れられて、笑われて、たったそれだけ。
 猫が散歩をしている宇宙も、庭や街灯が散らばる宇宙も。
(…でも、今だから…)
 今の時代から、夢を自由に描けるだけ。
 実現しようと努力したって叱られないのも、今だから。
 前は違った、と前の自分が生きた時代を思い出す。
 機械が支配していた世界。
 何もかも機械が決めてしまった、あの忌まわしい時代のことを。
(生まれた時から、全部、機械が…)
 決めて育てていた人間。
 生まれる前からと言ってもいいかもしれない、機械が選んでいたのだから。
 どう組み合わせるか、命が生まれる前の時点で。
 細胞分裂が始まる前から、交配して命が芽生える前から。
(みんな、人工子宮で育って…)
 育った後には、選ばれた養父母。
 この子供は此処、と機械が決めて配った。
 そうして育って自我が芽生えたら、今度は教育。
 夢を持つのは自由だけれども、あまりにも自由に描きすぎたら…。
(…危険思想だ、って…)
 そう見做されたら、待っているのは深層心理検査など。
 危険とされない夢にしたって、実現しようと思ったら…。
(それが出来るコースに行かないと…)
 研究させても貰えないまま。
 一般市民に振り分けられたり、違う分野が向いているからと回されたり。


 夢も見られない時代だっけ、と零れる溜息。
 前の自分は其処から外れて、転げ落ちたから描けた夢。
 子供時代の記憶をすっかり失くしてしまって、生きる権利も失くしたけれど。
 ミュウと判断された途端に、全部失くしてしまったけれども…。
(…機械は追い掛けて来なかったんだよ…)
 社会から弾き出された後は。
 繰り返された人体実験の末に、星ごと滅ぼされそうになった後には。
 燃えるアルタミラから逃げ出した船を、機械は追って来なかった。
 ミュウが逃げるとは、機械は思っていなかったから。
 星ごと消えたと信じていたから、船と一緒に自由になれた。
 制約付きの生活でも。
 船の中だけが世界の全てで、踏みしめる地面を持たなくても。
(地球に行きたい、って考えるのも…)
 自由だったし、ミュウの未来を思い描くのも自由。
 もしも人類がそれをしたなら、たちまち機械の餌食だったろうに。
 不適切な夢は、記憶と一緒に処理されて。
 相応しくないと思われた夢は、無かったことにされてしまって。
(人類は記憶を、消したり、植えたり…)
 機械の意のままに翻弄されていた時代。
 子供はもちろん、大人だって。
 機械にとっては、人間はただの道具だから。
 世界を構成するコマの一つで、いくらでも取り替えられたから。
 個人の記憶も、持っている夢も。
 場合によってはコマの置き場所も、どういう具合に配置するかも。
(…サムも、スウェナも…)
 ジョミーの友達だというだけのことで、その後の進路が決まってしまった。
 機械が勝手に選んで、決めて。
 彼らの夢など、まるで考えないままで。


 そういう時代に、前の自分は自由に生きた。
 好きなように夢を描いていられた、社会から弾き出されたから。
 失くした生きる権利の代わりに、夢を描ける世界を貰った。
(…きっと、幸せだったんだ…)
 前の自分が思った以上に、幸せな時を生きたのだろう。
 機械に人生を支配されずに、幾つもの大きな夢を描いて。
 今の時代は、それが普通の世界だけれど。
 宇宙をトコトコ歩いてゆく猫、それを夢見るのも自由だけれど。
(前のぼくも、幸せだったけど…)
 今度のぼくは、もっと幸せ、と振り返った自分が描いていた夢。
 漆黒の宇宙に庭が幾つも、街灯が並んで、散歩する猫も。
 素敵だと思った宇宙の光景、今の時代なら本当に何処かにあるかもしれない。
 今の自分が生きる世界は、お伽話の世界だから。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が夢に見た世界。
 きっといつかはミュウの時代をと、平和な青い地球が欲しいと。
(前のぼくの夢…)
 それをそっくり叶えた世界が、今の自分がいる世界。
 ハーレイとの恋も、今度は誰にも隠さなくていい。
 結婚出来る年になったら、二人で暮らせる時が来たなら。
(ホントのホントに、夢の世界で…)
 血の繋がった両親までがついて来た。
 其処までの夢は、前の自分は思い描いていなかったのに。
 思い付きさえしなかったのに。
(夢よりも、ずっと素敵な世界で…)
 けれど、本物の青い地球。
 今の自分が生きている世界、お伽話よりも素晴らしい世界。
 其処に自分は来られたのだから、宇宙を歩く猫だって。
 漆黒の宇宙に並ぶ街灯、それだって、今なら、今の世界なら…。


(ホントに何処かにあるのかもね?)
 でなければ、これから出来るとか。
 前の自分の夢が叶って、今の時代があるように。
 夢見た以上に素敵な世界が、お伽話の世界が自分を待っていたように。
(…宇宙をトコトコ歩いていく猫…)
 いつかハーレイと見られるだろうか、そんなのんびりした光景を。
 漆黒の宇宙に散らばる庭やら、幾つも並んだ街灯やらを。
(…見られるといいな…)
 見てみたいよね、と考えていたら、小さな欠伸。
 それに眠気と、重くなった瞼。
(宇宙を散歩してる猫…)
 今は本物の夢でいいから、ハーレイと二人で眺めてみたい。
 これから再び落ちてゆく眠り、その夢の中で、ハーレイと二人。
 夢の世界なら、どんなことでも叶うから。
 前の自分も色々な夢を描いていたから、今の時代はもっと素敵な夢が見られる世界だから…。

 

         夜中に目覚めたら・了


※夜中に目が覚めたブルー君。暗い外の景色を考える内に、宇宙を散歩する猫まで浮かぶ有様。
 今の時代ならではの夢なんだ、と気付いたら見たくなったようです。猫の夢、見てねv





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(ん…?)
 まだ夜中か、とハーレイが見上げた暗い天井。
 ベッドで目覚めて、瞼を開けて。
 何のはずみか浮上した意識、ぽっかりと覚めてしまった目。
 時計を見れば本当に夜中、真夜中と言っていい時間。
(こいつは流石に…)
 起きるにはかなり早すぎだ、と思う時間で、明かりを点けるにも不向きな時間。
 下手に明かりを点けてしまったら、そのまま朝になりそうだから。
 身体が朝だと勘違いして、眠り直すことは多分出来ない。
 やりたいことが次から次へと湧いて出て。
(本でも読むか、って方に行ったら…)
 次はコーヒーが欲しくなる。
 淹れに行ったら、コーヒーの香りで目覚める身体。
 カフェインは抜きで、その香りだけで。
(コーヒーを淹れたら、ちょっと飯でも食いたくなって…)
 きっと胃袋が騒ぎ始める。
 何か食べようと、トースト一枚でかまわないからと。
(トーストを焼こうって方に行ったら…)
 もう間違いなく、朝の始まり。
 カーテンを引いた窓の向こうは、真っ暗でも。
 空には星が瞬いていても、始まるだろう自分の一日。
(本格的に作っちまうんだ…)
 普段通りの朝食を。
 まだ新聞も来ない時間から、卵料理も、サラダもつけて。
 今日はずいぶん早く起きたと、何をしようかと考えながら。


 それもたまにはいいけれど。
 出勤の前にジョギング出来るし、ジムにだって行けるのだけれど。
 今日はそういう気分ではなくて、眠り直したい気分の方。
(サボろうってわけじゃないんだが…)
 気が乗らない時は、自分の気持ちに従うのが吉。
 知らない所で、無理をしたかもしれないから。
 自分では全く自覚が無くても、頭や身体を使いすぎたということもある。
 なにしろ仕事だけではない日々。
 以前だったら、仕事と運動、それに趣味だけで良かったけれど…。
(あいつに割いてる時間ってヤツが…)
 増えた分だけ、忙しくなったことだろう。
 前の生から愛した恋人、今は教え子の小さなブルー。
 聖痕を持ったブルーの守り役、そういう立場。
 それを生かして、仕事のある日も訪ねてゆくのがブルーの家。
 仕事が早く終わったら。
 ブルーの両親も一緒の夕食、それの支度に間に合いそうな時間なら。
(俺にとっては楽しい時間で、充実してて…)
 晩飯も作らなくてもいいし、と思うけれども、心配してくれる同僚たち。
 「今日も行くのか」と、「お疲れ様」と。
 あんまり無理をしないように、と誰もが声を掛けるからには…。
(傍目には大変そうだってことだ)
 そう見えるのなら、使っているだろうエネルギー。
 ブルーのために割く時間の他にも、それを捻出するためのあれこれ。
 仕事を効率よく終わらせるとか、急ぎ足で歩いているだとか。
(走ってることもあるからなあ…)
 柔道部の指導を終えた直後に、「まだ間に合う」と。
 此処で走れば、と体育館から職員室へと、職員室から駐車場へと。


 日々の疲れが溜まっていたって、けして不思議ではない生活。
 ブルーに会えたら幸せでも。
 来られて良かった、と胸が弾んでも、それと身体の疲れとは別。
(しっかり休んでいるつもりだが…)
 こうして気になる自分がいるなら、何処かで無理をしたのだろう。
 起きちゃ駄目だな、とベッドで過ごすことにした。
 その内に眠くなる筈だから。
 身体が眠りを欲しているなら、いずれ眠気が訪れるから。
(…あいつのためなら、無理をしたって苦にならないがな)
 今度は俺が守るんだから、と小さなブルーを思い浮かべる。
 前の生でも何度も「守る」と誓い続けて、約束したのに果たせなかった。
 ブルーと自分の力が違い過ぎたから。
 前の自分は守られる方で、ブルーは守る方だったから。
(あいつの心の方はともかく…)
 守ってやれなかったブルーの身体。
 ただ一人きりのタイプ・ブルーで、ソルジャーだった前のブルー。
 ソルジャーという肩書き通りに、前のブルーは本当に戦士。
 たった一人で船を守って、船の仲間を守り続けた。
 白いシャングリラを、ミュウたちを乗せた箱舟を。
(俺はあの船を動かしただけで…)
 ブルーのようには守っていない。
 キャプテンとして出来る範囲で守っていただけ、舵を握って立っていただけ。
 丸ごと守れはしなかった。
 前のブルーがやったようには。
 命まで捨てて、メギドを沈めたブルーのようには。
 そんな力は持たなかったから。
 いくら望んでも、持っていない力を使うことなど出来ないから。


(そのせいで、俺は失くしちまった…)
 守りたかった前のブルーを。
 何度も「守る」と誓い続けた、自分の命よりも大切な人を。
 前のブルーがいなくなった後に、何度涙を流したことか。
 追えば良かったと、どうしてブルーを止めなかったと、幾度も溢れた後悔の涙。
 もう帰らない人を想って、一人残された悲しみの中で。
(いつか、あいつを追ってゆこうと…)
 それだけを思い続けて生きた。
 戦いの日々を、地球までの道を。
 そして自分の命は終わって、ブルーを追った筈だったのに…。
(どうしたわけだか、地球にいたんだ)
 青く蘇った水の星の上に。
 今のブルーよりも先に生まれて、三十年以上も自由に生きて。
 ブルーを思い出しもしないで、好き勝手に。
 今の自分が思うままに。
(…散々、勝手をしちまったんだし…)
 こいつはしっかり埋め合わせないと、と考えるのが筋だろう。
 今度こそブルーを守ると決めたし、そのように。
 小さなブルーの家に行ける日、それを作るために努力することも。
(努力とも言えん代物なんだが…)
 前のブルーがやってのけたことに比べたら。
 白いシャングリラを、ミュウの未来を守ったことと比べたら。
(子供のお遊び以下だってな)
 同僚たちから「大変ですね」と、声を掛けられる毎日でも。
 傍から見たなら忙しそうで、本当に無理をしていたとしても。
 きっと努力とも、無理とも呼べない。
 前のブルーに比べたら。
 愛おしい人の小さかった背中、それに背負わせた重荷と比べてしまったら。


 なんという強い人だったろうか、と前のブルーの瞳を想う。
 強い意志を宿した赤い瞳を、その底に秘めた深い憂いと悲しみを。
 その瞳で真っ直ぐ、前だけを見詰め続けたブルー。
 ミュウのためにと、ミュウの未来をと。
(あいつ、頑張りすぎたんだ…)
 前のブルーは強すぎたから。
 ミュウの未来を、白いシャングリラを守る力を持っていたから。
 けれども、今のブルーは違う。
 前と同じにタイプ・ブルーでも、まるで使えていないサイオン。
 とことん不器用なチビのブルーは、きっとこの先も変わらない。
 前のブルーと同じ姿に育ったとしても、今と変わらず不器用なままでいるのだろう。
 ろくに思念も紡げないほど、タイプ・ブルーと言われても信じられないほどに。
(そういう風に生まれて来たのも…)
 きっと神様のお蔭ってヤツだ、と零れた笑み。
 自分の願いが叶ったのだと、今度はブルーを守ってやれると。
 今の時代は、敵など何処にもいなくても。
 ブルーを何から守ればいいのか、悩むくらいに平和でも。
(…とりあえず、今はあいつと過ごせる時間を…)
 沢山作ってやらないと、と分かっているから、そのために努力。
 キスも出来ない小さなブルーは、待つことだけしか出来ないから。
 自分が訪ねて行ってやるのを、家のチャイムを鳴らすのを。
(そいつが当分、俺の役目で…)
 ブルーの心を満たしてやるのが、ブルーの笑顔を守るのが。
 少々、身体に無理がかかっても、それを無理とは呼びたくもない。
(守ると誓ったんだしな?)
 それに今度は守るんだから、と思ったら漏れた小さな欠伸。
 何処からか、やって来た眠気。
 今は眠りに戻ることにしよう、ブルーを守り続けるために。
 小さなブルーに会いにゆく時間、それを作れる健康な身体、それを眠りで養うために…。

 

         夜中に目覚めて・了


※夜中に目が覚めたハーレイ先生。起きるには少し早すぎたようです、まだ真っ暗で。
 ベッドの中で思い浮かべる、小さなブルー君のこと。今度は守れる大切な人で、愛おしい人v





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(あれ…?)
 なんで、とブルーが見詰めたもの。
 ひらりと目の前を横切った蝶。
 学校から帰って、それからおやつを食べに出掛けて。
 ダイニングから部屋に戻った途端に、扉を開けたら蝶がひらりと。
 さして珍しくない、黄色い翅の。
(ぼくの部屋だよ?)
 庭じゃないのに、と驚かされた訪問者。
 どうして此処にと、いったい何処から、と。
(蝶なんか…)
 帰った時にはいなかった筈、と見回した部屋。
 答えは直ぐに見付かった。
 風にふわりと揺れるカーテン、部屋の窓辺で。
 カーテンの向こうはまだ明るい庭、日暮れには早い時間だから。
(窓、開けっ放し…)
 そういえば窓を開けたんだっけ、と思い出した。
 学校から家に帰った時に。
 鞄を置いて制服を脱ごうと、二階の自分の部屋に来た時に。
(部屋が暖かかったから…)
 汗ばむほどの陽気だった昼間、今はそれほどでもないけれど。
 窓が開いていても丁度いい気温、そんな感じの風が入ってくるけれど。
 帰った時には、少し暖かすぎた部屋。
 制服の上着を着ていたら。
 「ちょっと暑い」と思った部屋。
 制服は脱いでしまうのだけれど、暖かすぎる部屋は些か季節外れで。
(夏みたいだから…)
 外の空気を呼び込まなくちゃ、と開けた窓。
 こもった熱気を外に出そうと、新鮮な空気と入れ替えようと。


 同じ空気を入れ替えるなら、と大きく開け放った窓。
 庭からの風が心地いいから、両手を広げて深呼吸だって。
(もっと外をよく見たくって…)
 邪魔だ、と思った虫よけの網戸。
 これは要らない、と開けてしまった。
 遮るものが無くなった窓は、外の世界に繋がる扉。
 もしも自分が空を飛べたら、其処から空へと舞い上がれる。
 庭の上を飛んで、向かいの家の屋根も飛び越えて、上へ。
 もっと遠くへ、高く高く空へ。
(飛べるかな、って…)
 今の自分は飛べもしないのに、広がった夢。
 空を飛べたらどうだろうかと、此処から飛んでゆけるのに、と。
 そうして酔っていた景色。
 窓辺で外からの風に吹かれて。
(外を見てたら、ママに呼ばれて…)
 いつもなら直ぐに下りてゆくのに、行かないから。
 「おやつよ」と声を掛けに来た母。
 部屋の扉を軽くノックして。
(おやつ、急いで食べに行かなきゃ、って…)
 きっと支度は出来ているから。
 時間が経ったら美味しさが減るお菓子、そういうものかもしれないから。
 出来上がったばかりのプリンとか。
 焼き立てはふんわり膨らんでいても、冷めたら萎むスフレとか。
 それは困る、と慌てて部屋を飛び出した。
 窓にくるりと背を向けて。
 おやつの時間、と大急ぎで。


(そのまま、忘れちゃったんだ…)
 窓を閉めるということを。
 網戸も、それにガラスの窓も。
 だから窓辺で揺れているカーテン、部屋の中には…。
(入って来ちゃった…)
 網戸が無いから、ひらりと入ってしまった蝶。
 庭の続きで、窓からそのまま。
 部屋と庭とは繋がっていたし、遮るものなど無かったから。
(えーっと…)
 思わぬ珍客、ひらりひらりと舞っている蝶。
 本棚の方へ飛んで行ったり、机の上を飛び越えてみたり。
(どうしよう…)
 窓から出してやりたいけれども、部屋に無いのが捕まえる道具。
 下に行っても、きっと無い。
(捕虫網なんか…)
 振り回す子供ではなかったから。
 小さな頃から弱い身体に、そんな元気は無かったから。
 暑い盛りにセミを追うとか、カブトムシを捕りに行くだとか。
 元気な子供なら夢中になること、それを自分はしていない。
(ぼくの捕虫網、無いんだから…)
 母に訊いても、家に置いてはいないだろう。
 虫を捕る子供はいなかったのだし、父も網では捕まえていない。
 「ほらな」とセミを捕まえて見せてくれたのは、父の大きな手だったから。
 トンボの目を回して捕ってくれたのも、父の指と手。
 網の出番は無かったのだし、きっと無いだろう捕虫網。
 飛び回っている蝶は捕まえられない。
 部屋から出してやりたくても。
 「庭はこっち」と、窓から放してやりたくても。


 網が無いなら、捕まえるには手しか無いけれど。
 幼かった頃に父がやったように、手を使う以外に無さそうだけれど。
(セミやトンボは…)
 手で捕まえても大丈夫。
 父の大きな手に捕まっても、怪我をしたりはしない虫。
 けれども、蝶は駄目だと言われた。
 「蝶も捕って」と頼んだら。
 幼かった日に、「側で見たいよ」と強請ったら。
(蝶の翅が駄目になっちゃうから、って…)
 そう教えられた、父と母から。
 ひらひらと舞う翅を彩る模様は、とても細かな粉なのだと。
 鱗粉という粉の集まり、それが染めている蝶の翅。
 アゲハチョウみたいなお洒落な蝶も、黄色や白の蝶の翅の色も、作るのは粉。
 人間の手で捕まえられたら、剥がれてしまう翅の鱗粉。
 指の形がついてしまって、元の姿には戻せない。
(だから見るだけ、って…)
 捕まえたら可哀相だから、と諭された蝶。
 側で見るなら、花や葉っぱに止まった時にしておきなさい、と。
(それでも見たくて…)
 駄々をこねたら、「今日だけだぞ?」とサイオンで捕まえてくれた父。
 サイオンの玉で蝶を包んで、ふうわりと。
 ほんの少しの間だったけれど。
(…サイオンだったら、出来るんだけどな…)
 蝶を捕まえて出してやること。
 窓から庭に放すこと。
 けれど出来ない、今の自分では。
 不器用なサイオンでは空も飛べないし、蝶を捕まえることだって。


 ひらりひらりと飛んでいる蝶。
 どうすればいいというのだろう?
 部屋の中には、蝶の餌など何も無いのに。
 翅を休める場所はあっても、蜜を吸える花は咲いていないのに。
(お腹、空いちゃう…)
 こうして飛んでいる間にも。
 飛ぶにはエネルギーを使うし、お腹はどんどん減ってゆく筈。
 とうにペコペコかもしれない。
 花を探して迷い込んだなら、肝心の花が見付からなくて。
(ぼくのせいだよ…)
 閉め忘れてたぼくが悪いんだもの、と眺める自分が閉め忘れた窓。
 おやつを食べようと急いでいて。
 自分のおやつに夢中になって。
(その間に迷い込んじゃって…)
 部屋を飛んでいる蝶のお腹は減る一方。
 このまま外に出られなかったら、疲れてしまって…。
(床に落ちちゃうとか?)
 そうでなければ、机や棚に止まったままになるだとか。
 今は軽やかに飛んでいるのに、すっかり動けなくなってしまって。
 お腹を空かせて、飢えてしまって。
(子猫とかなら…)
 餌をあげれば済むことだけれど、蝶の場合はどうなのだろう。
 「はい」と差し出したら蜜を吸うのか、人間の手からは食べないものか。
 幼虫だったら、葉っぱを与えて飼う友達もいたけれど…。
(蝶を飼ってた友達なんて…)
 いなかったから分からない。
 庭の花を摘んで持って来たなら、餌の代わりになるのかどうか。


 窓から出してやれもしないし、餌になる蜜もどうすればいいか。
 ぼくのせいだ、と泣きそうな気持ち。
 蝶が出られずに飢えてしまったら、飛べなくなってしまったら。
(…そんなの、酷い…)
 ふと重なった、前の自分の遠い遠い記憶。
 狭い檻の中に押し込められて、繰り返された人体実験。
 まるであの時の自分のようだと、出られない蝶は前のぼくと同じ、と。
(どうしたらいいの…?)
 母を呼んで来て、サイオンで包んで窓から出して貰おうか?
 「閉め忘れてたら、入っちゃった」と、自分のミスを打ち明けて。
 「可哀相だから、出してあげて」と。
 きっと、それしか無いのだろう。
 蝶の命を救うためには、と決心して部屋を出ようとしたら。
(えっ…?)
 ひらり、と蝶が飛び越えた窓。
 いとも容易く、部屋から庭へ。庭の向こうの広い世界へ。
(…ひょっとして、探検していただけ…?)
 入ってしまったこの部屋の中を、気まぐれに。
 知らない場所だと、気の向くままに。
 考えてみれば、窓からは風が吹いていたから。
 蝶がその気になりさえしたなら、きっと出口は分かったろうから。
(…此処、アルタミラじゃないもんね…)
 閉め忘れた窓はただの入口、そのまま出口になる扉。
 入りたい時にひらりと入って、出たい時には出てゆける扉。
 前の自分が入れられていた檻と違って、外の世界と部屋は続いているのだから。
(…ぼくも飛べたら、あの窓から外へ…)
 出られるんだっけ、と気付いた窓。
 閉め忘れてたのも、そのせいだっけ、と。


(今のぼくも蝶も、うんと自由で…)
 何処へ行くのも自由なんだよ、と浮かんだ笑み。
 閉め忘れてた窓のお蔭で気付いたと、もう檻なんかは無いんだっけ、と。
 あの蝶が飛んで行った方から、運が良ければハーレイも来る。
 窓からではなくて、玄関から。
 「仕事が早く終わったからな」と、優しい笑顔で。
 アルタミラの檻は遠い昔で、シャングリラだって、もう時の彼方。
 今の自分は自由だから。
 閉め忘れていた部屋の窓の外は、前の自分が焦がれ続けた地球なのだから…。

 

       閉め忘れてた窓・了


※ブルー君が閉め忘れた窓から、部屋に入ってしまった蝶。出すのは難しそうですけれど…。
 実は簡単に出られた窓。アルタミラの檻とは違う今の世界は、出入り自由な世界ですv





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(ん…?)
 どうだったか、とハーレイの頭を掠めたこと。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後に入った書斎で。
 愛用のマグカップに淹れたコーヒー、それを片手に座った椅子。
 机を前に寛ぎのひと時、さて、と思った所で、ふと。
(閉めたんだったか…?)
 二階の窓。
 仕事から帰って、寝室のある二階に行った。
 留守の間は閉めていた窓、それを開いて空気を入れに。
 朝一番にも開けるけれども、帰ってから開ける時だって。
 そういう気分になった時には、外の心地良い空気を呼ぼうと。
(開けて、それから…)
 いつでもベッドに入れるようにと、整えた用意。
 朝にきちんとしておいたベッド、それをもう一度、改めて。
(その後にだな…)
 本を一冊、置いたのだった。
 ベッドで読むにはお誂え向きの一冊を。
 たまに読みたくなる、繰り返し読んだ文庫本。
 腰を据えて書斎で読んでゆくより、気の向いた時にパラリと開く。
 それが似合いの旅のエッセイ、何処から読んでも魅力的だから。
 キリのいい所で「此処まで」と切れる、旅の日記のようなもの。
(そいつを思い出したから…)
 この書斎まで取りに戻って、枕元へと。
 今日から暫く読んでみようと、著者との旅と洒落込もうと。


(置きに戻って…)
 それから窓をどうしたろうか。
 普段だったら、寝室を整え終えた所で閉める窓。
 カーテンも引いて、これから降りる夜の帳に相応しく。
 けれども、本を取りに下りた書斎。
 様々な本がズラリと並んだ棚から一冊、「これだっけな」と取り出した。
 其処でパラパラ拾い読みして、頷いて閉じた気に入りの本。
(二階へ持って上がって行って…)
 寝室に入って、其処から後。
 自分は窓を閉めただろうか、それにカーテンも。
 本は確かに置いたのだけれど、置いて満足しなかったろうか?
(これで良し、と枕をポンと叩いて…)
 覚えてはいない、自分の行動。
 頭の中身は、夕食の支度に移っていたから。
 仕事の帰りに買った食材、それで作りたい今夜のメニュー。
 新聞で読んだばかりの工夫もしてみたかった。
 下味の付け方、それを試して、と。
(…すっかりそっちに行っちまって、だ…)
 窓をいったい、どうしたのだろう。
 身体が勝手に動いて閉めたか、あるいは忘れてしまったのか。
 まるで無い自信、「確かに閉めた」と。
 カーテンを引いた覚えも無いから、なんともマズイ。
 あれっきり開けたままだったのなら…。
(部屋が冷え切っちまっているぞ)
 いくら穏やかな季節とはいえ、夜は夜。
 こいつは駄目だ、と立ち上がった。
 閉め忘れたのなら、閉めに行かねば。
 部屋の空気が冷えてしまえば、ベッドも寝具も冷えるのだから。


 淹れたばかりの熱いコーヒー、それにお別れ。
 とにかく窓を、と急いだ二階。
 階段を上がって、勢いよく開けた寝室の扉。
(おや…?)
 其処の空気はいつも通りの柔らかなもの。
 冷たい夜気が満ちる代わりに、暖かな部屋が待っていた。
 見れば、閉まっているカーテン。
 念のためにと開けてみたけれど、その向こうの窓も。
(…閉めていたのか…)
 癖ってヤツだな、と納得した。
 自分では全く意識しなくても、身体は覚えていたらしい。
 寝室の支度を整えた後には、こうして窓を閉めるものだ、と。
 カーテンも引いて、夜に備えて。
(…癖だか、それとも本能なんだか…)
 なんにしたって、閉まっていた窓。
 無駄足になった此処までの道。
(まあ、いいんだがな?)
 冷え冷えとした部屋に出会っていたなら、「しまった」と思うだろうから。
 ベッドもすっかり冷えちまったと、後悔しきりだろうから。
(夜の空気じゃ、湿気ちまうし…)
 心地良い眠りは期待出来ない。
 季節外れでも暖房を入れて、暫く暖めたりしない限りは。
 そういう手間は省けたけれども、とんだ無駄足。
 一階から二階へ、そして二階から一階に戻ってゆくのだから。
 きちんと窓を閉めていたなら、それは要らない筈だったのに。


(俺としたことが…)
 ウッカリしてた、と戻った書斎。
 運動になったと思うしかない、二階への旅。
(階段を上がって下りたくらいじゃ…)
 このコーヒーで帳消しだよな、と傾けたカップ。
 運動した分のエネルギーよりも、コーヒーの方が上だろう、と。
 コーヒーのカロリーは知らないけれども、これも一種の食品だし、と。
(運動は足りているんだが…)
 無駄足というのが悔しい気分。
 その原因を作った自分も。
 しっかりしろと、窓は開けたら閉めるもんだ、と。
(ちゃんと閉めてはいたんだが…)
 記憶に無いというのが酷い。
 夕食の段取りをしていたにしても、それは余所見のようなもの。
 授業中に余所見をしている生徒と変わらないな、と小突いた額。
 これじゃ生徒を叱れないぞ、と。
(一事が万事で…)
 やり始めたことは、やり遂げること。
 些細なことでも、終わるまで。
 でないと、こういう失敗をする。
 窓を閉めたか、閉めていないかと、コーヒーを放ってゆくような。
 夕食の後の寛ぎの時を、中断する羽目になるような。
(窓だったから、まだマシなんだが…)
 これが料理の途中だったら、と情けない気持ち。
 火にかけてある鍋を忘れてしまって、シチューが煮詰まってしまうとか。
 味噌汁がグツグツ煮えてしまって、味噌の風味が飛ぶだとか。


 窓で良かった、とホッと一息。
(これが料理の方だったら…)
 目も当てられないシチューや味噌汁、あるいは黒焦げになったトースト。
 そっちよりかは、まだマシだと。
 開けっ放しの窓だったならば、閉めて終わりで、冷え切った部屋も…。
(ちょいと暖めてやればだな…)
 まだ取り返しがつくってもんだ、と考えた所で蘇った記憶。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が叫んでいた。
 白いシャングリラのブリッジで。
 緊迫した空気が満ちている中、「気密隔壁閉鎖!」と大きな声で。
(…おいおいおい…)
 窓の閉め忘れどころじゃないぞ、と思い出した前の自分の世界。
 キャプテン・ハーレイとして生きていた船、ミスなど許されなかった船。
(あそこで窓が開けっ放しだと…)
 外は宇宙か、アルテメシアの雲海か。
 いずれにしたって、外の世界に繋がる扉。
 それは閉ざしておくべきもの。
 開けたら必ず、閉め忘れないで。
(窓が無くても、いきなり開くんだ…)
 人類軍に攻撃されたら、シールドを突き抜けられたなら。
 船は傷つき、中の空気が外へ吸い出されてしまう状態。
 放っておいたら、大事故になる。
 最悪の場合、船は沈むか、バラバラに壊れて砕け散るか。
 そうならないよう、閉めていたのが気密隔壁。
 損傷した箇所を特定して。
 キャプテン自ら指示を飛ばして、「このブロックを遮断しろ」と。
 取り残された者がいるなら、救助して。
 船の空気が漏れ出さないよう、シャングリラが壊れてしまわないよう。


(その俺が、窓を閉めるのを忘れたってか…?)
 開けっ放しで、と見開いた瞳。
 窓は閉まっていたのだけれども、閉めていないも同然の窓。
 閉めた覚えが無いのだから。
 「閉め忘れたか?」とコーヒーを置いて、確認しようと出掛けた二階。
 窓は幸い、閉まっていただけ。
 自分で閉めた覚えは無くても、身体が閉めてくれていただけ。
 普段はこうだ、と動いてくれて。
 窓を閉めて、ついでにカーテンも引いて。
(…人間、変われば変わるもんだな…)
 キャプテン・ハーレイが窓を閉め忘れたか、と零れた苦笑。
 いくら結果がそうでなくても、記憶が無いなら同じこと。
 自分は窓を閉め忘れていて、これがシャングリラだったなら…。
(今頃は、とうに宇宙の藻屑で…)
 なんてこった、と唸るしかない。
 あの船でも、誰かが閉めただろうけれど。
 自分が余所見をしていたのならば、ゼルやブラウや、他の誰かが。
(…しかし、それでは…)
 後で確実に吊るし上げだな、と思うから。
 「何をしとるんじゃ!」と怒鳴るゼルやら、呆れ顔のブラウが見えるようだから。
(…俺もすっかり平和ボケってな)
 窓を閉め忘れる時代なんだ、と傾ける愛用のマグカップ。
 今は平和な時代だよなと、窓を閉め忘れても誰も困りやしないんだから、と…。

 

         閉め忘れた窓・了


※閉めるのを忘れてしまったかも、とハーレイ先生が閉めに行った窓。階段を上がって。
 ウッカリやっても許されるのが今の時代で、閉め忘れても事故にはならない時代v





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