(さて、と…)
すっかり遅くなっちまった、とハーレイが座った机の前。
ブルーの家には寄れなかった日の夜、いつもの書斎で。
愛用のマグカップに淹れた熱いコーヒー、それをお供に。
(思った以上に遅くなったな…)
まあ、楽しくはあったんだが、と思う同僚たちとの夕食の席。
仕事の帰りに誘われたから、断り切れずに出掛けた次第。
ブルーの家へと出掛けてゆくには、もう遅すぎる時間だったから。
(あの時間から行くと、迷惑かけちまうからな…)
自分も料理をするから分かる。
夕食の支度に間に合わせるには、何時頃までに着くべきかは。
人数に見合った量の料理を、きちんと作り上げられる時間。
それを過ぎたら、予定外の何かを作るしかない。
一人増えた分を補える料理、家にある食材で手早く作れるだろう料理を。
(いくら「御遠慮なく」と言われてたってなあ…)
寄るとブルーが喜ぶから、と「いらして下さい」と何度も言われる。
一人息子のブルーを愛する両親に。
遅い時間でも大丈夫だから、毎日でもお越し下さい、と。
けれど、やっぱり寄りにくい。
自分はブルーの家族ではないし、親戚ですらもないのだから。
(いつかあいつと結婚したなら、俺も家族になるんだが…)
その日までは、と遠慮している遅い時間に訪れること。
せめてブルーと婚約するまで、それまでは早い時間だけだ、と。
そうしようと固く決めているから、今日も寄らずに帰って来た。
真っ直ぐに家へ帰るつもりが、少々、予定が狂ったけれど。
「ハーレイ先生も如何ですか?」と誘われた食事、それに出掛けてしまったけれど。
たまには、同僚たちとの食事。
楽しい時間を過ごせる上に、色々な話も聞けるから。
思った通りに有意義だった、ワイワイ賑やかにやった席。
生徒の思いがけない話や、他の学校での愉快な事件。
同僚たちの数だけネットワークがあるから、いくら話しても尽きない話題。
夕食だけで、と入った店で、弾む話題に合わせるように追加で注文。
あれもこれもと、皆の好みや、「面白そうだ」と思うものやら。
どんどん増えていった注文、お蔭でドッサリ食べて来た。
「酒は飲まない」と決めていたから、代わりに料理。
同僚たちもそれは同じで、酒が入らない分、料理をたらふく。
(美味かったんだが…)
本当に遅くなっちまった、と眺める時計。
いつもだったら、この時間には、コーヒーは淹れ立てではなくて…。
(飲んじまった後か、冷めちまってるか…)
そんな時間だ、と零れる苦笑。
ブルーはとうに寝ているだろうか、もう遅いから。
それとも自分がそうだったように…。
(すっかり遅くなっちゃった、とだな…)
大慌てで眠る支度だろうか、本にでも夢中で時間が過ぎて。
まだお風呂にも入っていなくて、大慌てで飛んで行ったとか。
そうでなければ、パジャマ姿で「クシャン!」とクシャミをしているか。
「身体、ウッカリ冷やすんじゃないぞ?」と何度も注意しているけれど…。
(…俺が見張っているわけじゃないし…)
ブルーがきちんと何か羽織ったか、忘れているかは分からない。
「ちょっとだけだよ」と読み始めた本、それに捕まって羽織り忘れてしまった上着。
その結果として「クシャン!」とクシャミで、気が付く時計。
指している時間は何時なのかと、今の時間はこんなに遅い、と。
如何にもブルーがやりそうなことで、やっているかもしれないから…。
「おい、早く寝ろよ?」
風邪引いちまうぞ、と呼び掛けたブルー。
もちろん思念波などではなくて、肉体の声で。
直接、通信を入れるのでもなくて、机に飾ったブルーの写真に。
夏休みの最後の日に二人で写した、一枚きりの記念写真。
弾けるような笑顔のブルー。
それは嬉しそうに、両腕でギュッと、左腕に抱き付いて来たブルー。
幸せだった時間を切り取り、こうして形になっている写真。
小さなブルーは其処にいるから、話し掛けてやった。
「もう遅いしな?」と、「そろそろ寝ろよ」と。
「早くベッドに入らないと」と、「明日も学校、あるだろうが」と。
ブルーは応えはしないけれども、届くような気がするものだから。
声が届いているのでは、と温かな気持ちになれるから…。
「おやすみ、ブルー」
いい夢をな、と写真のブルーに微笑み掛けた。
「怖い夢なんか見るんじゃないぞ」と。
ブルーが恐れるメギドの悪夢。
それがブルーを襲わないよう、「いい夢を」と。
ブルーがぐっすり眠れるように、「おやすみ」と。
(…ちゃんと早めに寝るんだぞ?)
なあ、とブルーの写真を見詰めて、もう一度「おやすみ」と繰り返して。
本当はキスを落としたいけれど、相手は小さな写真なだけに…。
(額や頬にキスのつもりが…)
唇にもキスをしちまうからな、と指先でチョンと触れてやったブルー。
フォトフレームのガラス越しに。
写真が汚れてしまわないよう、指先でそっと。
「おやすみ」とキスの代わりに、指。
ぐっすり眠れと、いい夢をと。
これで良し、と唇に浮かべた笑み。
ブルーはぐっすり眠れるだろうと、悪い夢だって来ないだろうと。
(俺が守ってやるからな)
お前の側にはいてやれないが、と見詰める写真。
それでも此処から見ているからと、「おやすみ」の挨拶もしてやったしな、と。
キスは無理でも、代わりに指先。
そうっとブルーの写真に触れて、「いい夢をな」と、「おやすみ」と。
きっとブルーを守れるだろう、と思いたい。
こうして言葉をかけておいたら、写真に触れてやったなら。
心だけでも、ブルーの側へと寄り添って。
小さなブルーが眠る時まで、ベッドの隣で見守ってやって。
(…あいつの右手を握るみたいに…)
前の生の終わりに、冷たく凍えたブルーの右手。
最後まで持っていたいと願った、前の自分の温もりを失くしてしまったせいで。
その手を握ってやりたいけれども、側にいられるのは心だけ。
ブルーの家は遠いから。
まだ家族でもないのだから。
(…俺に言えるのは、「おやすみ」っていう挨拶だけで…)
そいつが俺の精一杯だ、と思うけれども、愛おしい。
何ブロックも離れた所で、ベッドに入っただろうブルーが。
もしかしたら、もう眠っているかもしれないブルーが。
「ぐっすり眠れよ?」
おやすみ、と繰り返す言葉。
この挨拶を側で言えたらと、今の自分はまだ出来ないが、と。
(…前の俺なら…)
何度ブルーに言っただろうか、「おやすみ」と。
まだチビだった頃のブルーに。
今のブルーとまるで変わらない、少年の姿だったブルーに。
アルタミラから脱出した後、ブルーとはずっと友達だった。
お互いに一番仲のいい友達、だから何度も「おやすみ」の言葉。
ブルーの部屋で遅くまで語り合ったら、「おやすみ」と挨拶して帰って行った。
逆にブルーが訪ねて来たなら、「おやすみ」と手を振って扉の向こうの通路へと。
恋人同士になった後には、「おやすみなさい」と落としたキス。
額に、唇に、時には頬に。
「おやすみなさい」と、「良い夢を」と。
そうやって挨拶を贈った後には、ブルーが眠りに落ちてゆくまで…。
(抱き締めてやって…)
ブルーの眠りを守っていた。
遠い昔の恐ろしい夢が、ブルーを襲わないように。
アルタミラが滅びた時の地獄や、惨たらしい人体実験の記憶。
それをブルーが見ないようにと、いつも、いつだって、祈りをこめて。
「おやすみなさい」の挨拶の後は、ただ大切に抱き締めていた。
愛おしい人を、前のブルーを。
気高く美しかった恋人、ソルジャー・ブルーと呼ばれた人を。
(なのに、今では…)
まだ写真にしか言ってやれん、と指先で触れるブルーの写真。
それでも、「いい夢を見てくれ」と。
俺がこうしてついているから、悪い夢など見るんじゃないぞ、と。
(いつか、お前が大きくなったら…)
おやすみのキスも、挨拶だって、とブルーの写真に心で語り掛けてやる。
もう何年か経った頃には、本当に側にいるからと。
眠る時はいつも「おやすみ」のキスと、挨拶を贈ってやるから、と。
(今はまだ、贈ってやれない分まで…)
必ず贈ってやるからな、と瞑った片目。
楽しみに待っているんだぞ、と。
「おやすみ、ブルー」と、「今夜もいい夢を見てくれよ」と…。
おやすみの挨拶・了
※ハーレイ先生がブルー君に贈る、「おやすみ」の挨拶。今はまだ写真のブルー君に。
いつかブルー君が大きくなったら、毎晩、「おやすみ」の挨拶もキスも贈れますよねv
(ちょっと面白かったよね…)
あの新聞記事、と小さなブルーが浮かべた笑み。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した恋人。
それがちょっぴり寂しいけれども、おやつの時間に読んだ新聞。
「お国自慢」という記事の内容、国と言ってもこの地域。
遠い昔は日本だった辺り、其処に新しく出来た島。
地球が滅びて、青い星へと蘇る時に。
古い大地を燃やし尽くして、不死鳥のように蘇った地球。
青い水の星に生まれた陸の中にあるのが今の日本で、けして大陸ではないけれど。
昔の日本と同じくらいに小さいけれども、日本と名乗っている地域。
けれど、日本は広いから。
小さいながらも、南北に長く伸びているから、北と南で全く違う。
冬になったら寒い雪国、それが北の方。
雪の季節でも雪は降らない、暖かい場所が南の方。
此処だと、丁度、真ん中辺り。
四季のバランスが取れている場所で、高い山も聳えていないから…。
(多分、一番、いい所だよね?)
そんな気持ちがするのだけれども、そうでないことも良く分かる。
新聞の「お国自慢」を見たら。
国というのは日本ではなくて、日本の中での様々な場所。
雪がドッサリ積もる所や、雪など全く降らない所。
色々な所で暮らす人たち、誰もが愛する自分が住んでいる所。
「こんなに美味しい料理があります」と誇る場所やら、美しい景色が自慢の所。
何処に住む人も「此処が一番」、そう思うのが故郷で「お国」。
生まれ育った場所となったら、なおのこと。
此処が何処より素敵な場所だと、料理も、それに景色だって、と。
「お国自慢」の記事の中身は、いろんな所の良さを紹介してゆく文章。
インタビューもあったし、写真も沢山。
記者があちこち飛び回って書いた、其処の自慢の郷土料理や名物などや。
(…ぼくが知らないヤツも一杯…)
行ったことのない場所の料理は、殆ど知らないものばかり。
名物のお菓子にしても同じで、美味しそうだと思っても…。
(其処へ行かないと食べられない、って…)
量産しないから、その場所だけで売り切れてしまう名物のお菓子。
朝、店を開けて、「今日はこれだけ」と並べてゆく分、それでおしまい。
よく売れそうな日は多めに作っておくらしいけれど、夕方には全部売り切れて終わり。
だから他所には出荷しないし、食べたかったら買いに出掛けるか…。
(…その町の人にお願いして…)
お土産に買って来て貰うこと。
食べるための方法はその二つだけで、注文しても送って貰えない。
大量生産していないことが、その店の誇りなのだから。
仕入れた材料を新鮮な内に使い切ること、味の秘訣がそれだから。
(…なんだか残念…)
きっと記事になったお菓子の他にも、そういったものがあるのだろう。
この町とは違う町に行ったら、その町が誇る名物のお菓子。
小さな店でも、味は何処にも負けないと。
何処へ土産に提げて行っても、けして恥ずかしくはない味だ、と。
(お菓子、一杯あるんだよね?)
日本だけでも、とても沢山。
「お国自慢」に取り上げられそうな、美味しくて量産していないお菓子。
記事になって評判を呼んだとしたって、きっと山ほど作りはしない。
「今日はおしまい」と出される「売り切れ」の札。
大量生産に向かないお菓子は、ほんの少しの数だからこそ、味を保てるものだから。
いつか色々食べたいけれども、その日はまだまだ遠そうな感じ。
チビの自分は十四歳にしかならない子供で、身体も弱い。
(…旅行、滅多に行けないし…)
この地球でさえも、一度も離れたことが無い。
宇宙から地球を見てはいなくて、地球の上でさえも…。
(遠い地域なんか、殆ど知らない…)
幼かった頃に親戚の所へ行った程度で、長い旅行はしていない。
その上、旅の疲れで熱を出したという有様。
両親も充分に知っているから、旅行自体が珍しいもの。
名物のお菓子を食べにゆく旅など、思い付くわけがない両親。
「行ってもブルーは熱を出すでしょ?」と、言われることもあるだろう。
遠く離れた所なら。
日帰りは無理で、行くだけでも半日かかりそうな場所。
そういう所を希望したなら、「とんでもないわ」と。
(…パパやママだと、そう言うんだから…)
行くとなったら、両親ではなくて、ハーレイに頼むべきだろう。
もっと大きくなってから。
前の自分とそっくり同じ姿に育って、結婚出来る時が来てから。
二人で一緒に暮らし始めたら、旅の約束があるのだから。
ドライブにだって行けるのだから。
(好き嫌い探しの旅をしよう、って…)
前にハーレイと約束したこと。
世界中を回って、色々なものを食べてみる。
「これだけは無理!」と叫びたくなるような不味い料理や、とても美味しい料理を探して。
好き嫌いの無い二人だから。
前の生で食べ物に苦労し過ぎた思い出、それを引き摺っているようだから。
記憶が戻る前から、そう。
ハーレイも自分も同じだったから、好き嫌いを探しに旅をする予定。
二人で暮らすようになったら、色々な場所へ。
(…日本から始めたっていいよね?)
好き嫌い探しの旅の第一歩。
「お国自慢」の記事を読んだら、食べ物だって沢山あるらしいから。
他の場所まで出荷するほど、大規模に栽培していない野菜や、果物などや。
其処だけで全部食べてしまって、流通網には乗らない食材。
(お料理だって、それを使うから…)
旅をしないと食べる機会が無いらしい料理、郷土料理と呼ばれるもの。
きっと幾つも味わってみたら、思いがけないものに出会える筈。
「これ、美味しい!」とパクパク頬張る料理や、「ぼく、無理かも…」と項垂れる料理。
その土地で生まれ育った人なら、誰でも喜ぶ筈の料理が…。
(美味しくないこともありますよ、って…)
書かれていた記事が「お国自慢」。
誇らしげだった、インタビューを受けた人たち。
「自分たちは好きな料理だけれども、他所の人は苦手みたいですね」と。
頼まれて宿で出してみたって、「作って下さったのにすみません」と、お客に謝られる料理。
注文した客は、一口で「駄目だ」と音を上げるから。
頑張って食べようと努力したって、全部食べ切れはしないから。
(好きな人も、たまにいるみたいだけど…)
大抵は投げ出してしまうらしいから、是非とも挑戦してみたい。
ハーレイと二人で宿で頼むか、わざわざ店に出掛けてゆくか。
(…ぼく、大丈夫な気もするけれど…)
あくまで「そういう気がする」だけだし、挑んでみたら結果は違うかもしれない。
「食べられないよ」と泣き顔になって、「ハーレイ、お願い」と押し付けるとか。
自分の料理が盛られた皿を。
とても食べ切れそうにないから、代わりに食べてしまって欲しいと。
(…ハーレイも困っちゃうかもね?)
自分と同じに「不味い」と思っていたならば。
ハーレイのお皿に盛られた分さえ、食べ切れる自信が無かったなら。
そんな料理に出会えるかも、と広がる夢。
「お国自慢」の記事のお蔭で、ハーレイと二人で旅をする夢。
名物料理やお菓子を探して、いろんな場所へ。
最初の一歩は日本から始めて、旅に慣れたら世界中へと。
(きっとホントに、お料理、色々…)
地球はとっても広いのだから、地域によって文化も料理も違うのだから。
旅の間中、其処の料理を端から試し続けていたら…。
(日本のお料理、食べたくなるかも…)
ある日突然、恋しくなって。
白い御飯とお味噌汁とか、卵焼きとか、そういったもの。
食べたくなったら探すのだろうか、日本の料理が食べられる店を?
それともハーレイに頼むのだろうか、「食べたいよ」と。
日本の料理の店が無いなら、厨房を借りて作って欲しいと。
(ハーレイだったら、きっと、なんとか…)
卵焼きくらいは作れるだろう。
白い御飯やお味噌汁は無理でも、卵焼きなら。
(…お味噌汁は、お味噌が無いと無理だし…)
白い御飯も、お米を食べない地域だと肝心の米が手に入らない。
用心のために、持って出掛けるべきなのだろうか、米と、保存が出来る味噌。
(長い旅行に出掛けるんなら…)
いつもの食事も必要だよね、と考えてハタと気付いたこと。
地球のあちこちに旅に出掛けて、日本の料理が恋しくなってしまいそうな自分。
(…ぼくの「お国」って、日本だよね?)
旅先で誰かに尋ねられたら、「日本から来ました」と答えるけれど。
「地球の、日本です」と答えたら、もっと正確だけれど。
(…ぼくって、地球が「お国」みたいだよ…?)
広い宇宙に散らばる星たち、その中の地球で、その地球の日本。
其処が自分の「お国」で故郷。
前の自分は地球に焦がれて、辿り着けずに、途中で命尽きたのに。
夢に見ていた地球を見ないで死んだのに。
(…その地球が、ぼくの「お国」で、故郷…)
いつの間にやら、そういうことになっていた。
青い水の星が自分の故郷。地球の日本が自分の「お国」。
なんだか凄い、と見開いた瞳、そして見詰めた自分の両手。
「地球生まれの、地球育ちだよ」と。
今の自分は地球で生まれて、地球で今日まで育ったから。
これからも地球で育ってゆくから、もう幸せでたまらない。
今の自分の故郷は地球。前の自分が夢に見た星、その地球が故郷なのだから…。
ぼくの故郷・了
※ブルー君の故郷は地球の上の日本。生まれも育ちも青い地球。これから育ってゆく場所も。
前のブルーが目指した星。其処が自分の故郷だなんて、もう最高に幸せですよねv
(うん、なかなかに面白かったな)
あの記事は…、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
夕食の後に読んだ新聞、それに載っていた「お国自慢」。
遥かな昔は日本という小さな島国があった、この地域。
日本はとうに消えてしまって、地形も変わってしまったけれど。
龍の形に見えたと伝わる島たちは消えてしまったけれど。
(秋津島、大和の国に大八洲か…)
失われた島国、日本の名前。
それも古典の世界で呼ぶ時の名前。
今では単に「日本」と言うだけ、かつて日本があった地域を。
この辺りだった、と特定できる場所に生まれた新しい島を。
地球は滅びて、不死鳥のように蘇ったから。
何も棲めない死に絶えた星から、青い水の星に戻ったから。
(でもって、日本も広いもんだから…)
昔と同じで、大陸などではないけれど。
地球全体の広さからすれば、猫の額ほどしか無いのだけれど。
それでも、やはり日本は広い。
南北に長く伸びているから、北は雪国、南は南国。
真ん中辺りにある所だって、地形や標高で違いが出るもの。
海沿いだったら温暖になるし、高い山際なら冬はドッサリ積もる雪。
(どんなトコでも、住めば都で…)
其処に住む人たちには最高の場所で、他の場所より「いい所」。
だからこそ「お国自慢」になる。
こんなに綺麗な景色があるとか、美味しい料理では負けないだとか。
記者が出掛けて行った所で、色々と取材して来た記事。
インタビューやら、あちこち回って写真撮影。
同じ日本でも違うもんだ、と興味深く読んだ「お国自慢」。
前から知っていた内容もあれば、初めて目にした代物だって。
景色も、数々の郷土料理も。
(…行かなきゃ食えないモノもあるしな…)
輸送手段が発達したって、流通しない食材もある。
「わざわざ出荷することもない」と、其処だけで消費されるもの。
大して美味しくないだろうから、こんな魚を店に出しても、といった具合に。
(ところが、これが美味いんだ…)
釣り好きの父に連れて行かれた、海釣りの旅。
朝早くから釣りもするけれど、漁港にだって出掛けて行った。
暗い内から船を出した漁師、彼らの漁船が港に帰って来る頃合いに。
水揚げされる沢山の魚、競りが済んでも残った魚。
「売るほどでもない」と港に残された魚、それが漁師たちの朝食になる。
船の上でも食べているけれど、陸に上がって競りが済んだら、ゆっくり食事。
残った魚を豪快に入れて、その場で作る鍋料理。
(魚の名前が、また酷いんだ…)
これじゃ売れまい、と呆れるようなネーミング。
本当の名前は他にあるのに、昔の日本で使われたらしい酷すぎる名前。
明らかに楽しんで名付けたと分かる、遠い昔に日本だった頃の、郷土色豊かな名前の魚。
(美味いんだろうか、と疑っちまうわけだが…)
酷い名前だし、おまけに競りの売れ残り。
正確に言えば、競りに出されずに放っておかれた魚たち。
それをグツグツ鍋で煮込んで、「どうぞ」と盛ってくれた椀。
熱々の汁を口に含んで驚いた。
なんと素晴らしい味がするのかと、いい出汁が出る魚らしいと。
魚の身だって、なんとも味わい深いもの。
誰が食べても美味しいだろうに、売れ残るなど信じられない魚。
(…あれは鮮度が命らしいしな?)
美味いだろう、と笑顔だった漁師が教えてくれた。
水揚げされて直ぐに鍋にするから、とても美味しく食べられるのだと。
柔らかすぎる魚だとかで、競りに出して町に送り出しても…。
(店に並ぶまでなら、なんとかなっても…)
買って帰った人が食べる頃には、すっかり味が落ちるもの。
何処かの店で名物料理に、と考えたって理屈は同じ。
仕入れて直ぐに客は来ないし、どうにもならない魚の味。
(ただの魚の鍋になるなら、まだマシなんだが…)
食べられたものではないらしいのが、鮮度が落ちてしまった魚。
だから漁港で漁師たちが食べる。
獲って来て直ぐに、美味しい間に。
(ああいう魚は、きっと多いぞ)
魚でなくても、果物や野菜。
今の時代は「お国自慢」が記事になるほど、何処もこだわっているものだから。
遠い昔の日本で栽培された野菜や果物たち。
それを作って、まずは地元で美味しく食べて、沢山出来たら出荷する。
(キャベツやトマトなんかだったら…)
何処でも、いつでも売れるものだし、どんどん店に出るけれど。
毎日の食卓に並ぶ食材は、豊富に流通しているけれど…。
(隠れた名物は多いってな)
食材にしても、料理にしても。
其処へ出掛けて、初めて口に入れられるもの。
「こんなに美味いものがあるのか」と、「今まで全く知らなかった」と。
あるいは、噂に聞いていたって、食べる機会が無いだとか。
ドライブするには遠すぎる距離で、日帰り旅行が出来ない所。
「いつか行きたい」と思う場所なら、本当に山ほどあるのだから。
お国自慢の記事のお蔭で、ついつい笑みが零れてしまう。
小さなブルーが大きくなったら、結婚したら旅行だっけな、と。
(好き嫌い探しの旅をしようと約束したが…)
前世の記憶が影響したのか、自分もブルーも、まるで無いのが好き嫌い。
それもなんだか寂しいものだし、旅をしようと約束した。
「これは流石に不味くて食えん」と音を上げるものや、とびきり美味しいものを探しに。
世界中を旅するつもりだけれども、この地域からでも出来そうな感じ。
郷土料理を食べに出掛けて、二人揃って降参するとか。
(不味い、ってのもあるらしいしな?)
友人や同僚たちが揃って、「あれは駄目だ」と嘆く料理を幾つも聞いた。
「地元のヤツらは好きなんだろうが、どうにも駄目だ」と。
けれど、その料理を食べて育った人には美味しい料理。
他の場所や地域に引越しをしても、生まれ故郷に帰った時には…。
(一目散に食いに出掛ける料理で…)
まさしく郷土料理というヤツ、それが無ければ始まらないのが故郷での食事。
遠い星へと引越しをしても、地球に来た時は食べるのだろう。
「あれを食わねば」と故郷に急いで、「来て良かった」と笑顔になって。
きっと、そのために余裕を持たせてある日程。
地球での用事は一日くらいで済むにしたって、故郷の懐かしい料理を食べにもう一日。
人によっては二日とか。
もっと欲張って、三日とか、一週間だとか。
(飯だけじゃなくて、景色ってヤツも…)
たっぷり楽しみたいだろう。
遠い星へと引越したならば、余計に素敵だろう故郷。
「此処で遊んだ」と野原を歩いて、川遊びや山登りなんかもして。
生まれ育った土地の料理や、菓子などを思う存分食べて。
帰る時には、山ほど買っていそうな土産。
「これなら充分、日持ちするから」と、故郷の味を鞄に詰めて。
そんなトコだな、と考える郷土料理の豊かさ、それに「お国自慢」。
自分だったらどうだろうかと、真っ先に何を食べるだろうかと。
(…まずは、宇宙から地球を眺めてだ…)
あそこが故郷(くに)だ、と見詰める日本。
ぐんぐん近付く青い水の星、着陸態勢に入ってゆく船。
その中で胸を弾ませるのだろう、いったい何を食べようかと。
一番最初は何にしようかと、それを食べたら、あれもこれも、と。
(鍋も食いたいし、他にも色々…)
季節によっても変わるもんだし、と幾つも料理を挙げてゆく内にハタと気付いた。
今の自分の故郷は地球で、日本と名乗っている地域。
日本の中でも、四季のバランスが取れた所で、雪国でもなくて、南国でもない。
(丁度、真ん中といった辺りで…)
高すぎる山も聳えていないし、まさしく「住めば都」だけれど。
「ご出身は?」と尋ねられたら、「日本です。…地球の」と当然のように答えるけれど…。
(俺の故郷は、地球だってか!?)
それにブルーも、と見開いた瞳。
前の生では、懸命に地球を目指したのに。
ブルーが途中で命尽きた後も、地球へ行かねばと、それだけを思って生きたのに。
(なんてこった…)
今じゃ地球生まれの、地球育ちってヤツじゃないか、と見詰めてしまった自分の手。
地球で生まれて育ったのだし、生粋の地球の人間な自分。
(…古典の世界じゃ、地球で産湯を使ったってヤツで…)
俺もブルーも、と驚かされた今の現実。
いつの間にやら、地球が故郷になっていたから。
自分もブルーも地球育ちだから、地球で生まれた人間だから。
(大いに誇って良さそうだな、これは…)
今の俺たちは地球育ちだぞ、と。
俺もブルーも故郷は地球だし、青い地球で生まれて育ったんだ、と…。
俺の故郷・了
※自分の故郷は地球だった、とハタと気付いたハーレイ先生。日本以前に、地球なのです。
前の生では辿り着こうとしていた星。其処が今では故郷というのが凄いですよねv
(今日は、ちょっぴり足りないんだけど…)
ぼくの紅茶、と小さなブルーがついた溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
仕事の帰りに寄ってくれるかと思った恋人、ハーレイが来てくれなかった日に。
とっくに夜で外は真っ暗、後は眠るしかない時間に。
(水分は足りてるんだけど…)
喉が渇いたとも思わないから、水差しを持っては来なかったけれど。
でも足りないよ、と思うのが紅茶。
香り高い熱い紅茶が足りない。
(…冷めちゃってる時もあるけれど…)
ハーレイとの話に夢中になる間に、カップの中で冷めてしまって。
ポットから注ぎ入れた時には、火傷するほどに熱くったって。
けれど冷めても美味しいのが紅茶、向かいにハーレイさえいれば。
「おい、冷めてるぞ?」と鳶色の瞳が笑っていれば。
慌ててコクリと飲んだ紅茶が冷たくても、まるで気にならない。
熱かったらもっと美味しいのに、と後悔することも無いのが紅茶。
ハーレイと一緒だったなら。
この部屋の窓辺に置かれた椅子とテーブル、其処で二人で飲んでいたなら。
(紅茶、とっても美味しいのに…)
それに満ち足りた気分になるのに、今日は来てくれなかった恋人。
だから足りない、好きな紅茶が。
ハーレイと二人で飲める紅茶が、いつも二人で飲む飲み物が。
母が運んで来てくれる紅茶、ポットにたっぷり、おかわりの分も。
熱い間も、冷めてしまっても、とても美味しく飲めるのが紅茶。
ハーレイはコーヒー党だけれども、ちゃんと紅茶に付き合ってくれる。
チビの自分はコーヒーが苦手で飲めないから。
ハーレイもそれを知っているから、部屋で二人で飲むなら紅茶。
それが足りない、今日の自分。
喉は乾いていないけれども、紅茶がちょっぴり足りない気分。
ハーレイが来てくれなかった分だけ、二人で飲み損なった分だけ。
(…カップに二杯は足りないよ…)
もっと足りない気もするけれど、と数えるいつものティータイムの紅茶。
仕事の帰りにハーレイがチャイムを鳴らしてくれたら、母が運んで来る紅茶。
ポットにたっぷり、「ごゆっくりどうぞ」と。
熱い紅茶をカップに一杯、最初のは母がポットから注いでゆくけれど。
(ママが部屋から出てった後は…)
おかわりの紅茶を淹れるかどうかは、ハーレイと自分の気分次第。
その日の話の弾み具合で、まるで要らない日もあるし…。
(おかわり気分の時だって…)
冷めちゃった、と慌てて飲んで、代わりにポットから熱いのを。
「ハーレイも飲む?」と注ぐ日もあるし、ハーレイに「飲むか?」と尋ねられる日も。
おかわりの紅茶をカップに淹れたら、暫くの間は湯気を立てるカップ。
ポットの紅茶は冷めていないし、まだ充分に熱いから。
(火傷しそうなほどじゃないけど…)
それでも熱い、と言えるおかわり。
二杯目をカップに注いだ日ならば、其処で紅茶は二杯になる。
ハーレイと二人で飲む紅茶。
あれこれ話して、時には笑い合ったりもして。
二杯、と指を折ったのが紅茶。
今日は二杯目も無かったよ、と。
二杯目どころか一杯目だって、ハーレイと飲んでいないんだけど、と。
(…後は食後で…)
たまにコーヒーの日もあるけれども、夕食の後も大抵は紅茶。
それもハーレイと二人で部屋で飲めるから、食事の前に二杯飲んでいたなら、三杯目。
やっぱり足りない、今日の紅茶は。
二人でゆっくり飲んだ時には、三杯目だって飲めるのに。
今日の紅茶は足りてないよ、と零れる溜息。
こうして数を数えてみたなら、本当に足りていないから。
ハーレイと二人で飲める筈の紅茶、いつも幸せ一杯の紅茶。
それが足りない、三杯分も。
少なめに数えて二杯分でも、飲めなかったハーレイとの紅茶。
もしもチャイムが鳴っていたなら、それだけの紅茶が飲めたのに。
ハーレイと二人で幸せ一杯、熱い紅茶でも冷めた紅茶でも、もう最高の飲み物なのに。
(…うんと幸せな味なんだよ…)
喉を滑ってゆく紅茶。
冷めていたって、向かいに座ったハーレイの笑顔。
それだけで美味しくなる紅茶。
すっかり冷めた紅茶を飲んだら、カップが空になったなら…。
「ハーレイも飲む?」とポットを手にして、熱い紅茶のおかわりを。
そうでなければ、ハーレイが「飲むか?」と尋ねてくれる紅茶のおかわり。
「紅茶、すっかり冷めちまったぞ?」と、「飲むなら、俺が淹れてやろう」と。
ハーレイがポットに手を伸ばしたなら、コクリと頷いて飲む紅茶。
冷めて冷たくなった紅茶を、カップが空になるように。
熱い紅茶を、ハーレイが注ぎ入れられるように。
(ハーレイ、紅茶のポットだって…)
とても上手に扱って注ぐ。
チビの自分は母のようにはいかないけれども、ハーレイの方は母に負けない。
コーヒー党だと聞いているのに、家ではコーヒーを飲む筈なのに。
(きっと、ハーレイのお母さん…)
紅茶のポットの扱い方を、ハーレイに教えた先生は。
「こう淹れるのよ」と、茶葉の扱いだって。
何処から見たって、ハーレイの手は慣れているから。
紅茶のおかわりがたっぷり入ったポットを持つのも、そのポットから注ぐのも。
いつでも慣れた手つきだから。
紅茶を好んで飲む人のように、滑らかに手が動くから。
ホントに凄い、と思うハーレイ。
コーヒー党なのに、好きな飲み物はコーヒーなのに、紅茶も上手に淹れるハーレイ。
茶葉が入った缶を渡したなら、鮮やかに淹れてしまうのだろう。
「ふむ…」と淹れ方を確認して。
茶葉によって変わる、蒸らすための時間。
その茶葉だったらどのくらいなのか、茶葉の種類を確かめて。
(スプーンで掬って…)
ポットに入れたら、沸かしたばかりの熱いお湯。
それを注いで、見極める時間。
頃合いになったら、「よし」と紅茶を、温めてある別のポットへと。
そうでなければ、紅茶がそれ以上濃くならないよう、引き上げてしまって捨てる茶葉。
(淹れ方、色々あるみたいだけど…)
濃くなって来たら差し湯をするとか、色々と。
この部屋でハーレイと紅茶を飲む時は、差し湯が要らない紅茶が届く。
テーブルの上が狭くならないよう、差し湯用のジャグやポットが要らないように。
母がどういう淹れ方をするか、いつも自分は見ていないけれど。
(…ハーレイだったら、分かっちゃうよね?)
紅茶も上手に淹れられるのだ、と慣れた手つきで分かるから。
とても大きな褐色の手は、紅茶のポットの扱いにも慣れているのだから。
(…ハーレイ、ホントに凄すぎるよ…)
料理の腕もプロ級だしね、と思い浮かべたお弁当。
財布を忘れて登校した日に、御馳走になったハーレイの手作り豪華弁当。
「クラシックスタイルなんだぞ」と自慢していた、日本風。
(あんなのも、作れちゃうんだし…)
おまけに紅茶も上手に淹れる。
ハーレイの母が仕込んだのだろう、料理の腕はそうだから。
お菓子作りも、そうらしいから。
「パウンドケーキだけは上手くいかん」と、ハーレイは言っているけれど。
「おふくろと同じ味には焼けん」と、何度も聞いているけれど。
そのハーレイと飲めなかった紅茶、今日は二人で飲み損ねたお茶。
チャイムが鳴らなかったから。
仕事の帰りに寄ってくれずに、そのまま帰ってしまったから。
(紅茶、三杯分も足りない…)
二杯分かもしれないけれど、と思い浮かべる恋人の顔。
来てくれていたら、二人で紅茶が飲めたのに。
幸せを溶かし込んだ飲み物、冷めていたって美味しい紅茶。
ハーレイの笑顔があるだけで。
二人で紅茶を飲んでいられるというだけで。
(…足りないよ、紅茶…)
おやつの時間に飲んだけれども、それでは足りない。
ハーレイと飲む幸せな紅茶が足りない、二杯も、もしかしたら三杯分も。
(いつもハーレイと飲んでるのに…)
今日は足りない、と悲しい気分。
喉は乾いていないけれども、足りない紅茶。
いつもの紅茶が足りていないと、ハーレイと飲めなかったから、と。
(…どんな紅茶でも、気にしないのに…)
冷めていたって、気にしないどころか美味しい紅茶。
ハーレイと二人で飲んでいたなら、テーブルを挟んで向かい合わせに座っていたら。
「飲むか?」と注いで貰ったりして。
「ハーレイも飲む?」と、ポットから注いでみたりして。
その幸せな時間が無かった、いつもの紅茶が足りない今日。
三杯分も足りていないよ、と溜息を零したのだけど…。
(…三杯分…?)
一杯分でも多すぎるくらい、と気付いた紅茶。
今の自分には「いつものこと」でも、それは奇跡の一杯なのだと。
ハーレイも自分も生まれ変わりで、時の彼方で失くした命。
しかも自分は独りぼっちで、ハーレイの温もりさえも失くして。
(…紅茶なんかは、もう飲めなくて…)
会える筈もなかった、愛おしい人。
もうハーレイには二度と会えないと、泣きながら死んだソルジャー・ブルー。
それが自分で、其処で失くしてしまった命。
なのに再びハーレイに会えた、この地球の上で。
また巡り会えて、二人で飲んでいる紅茶。
ハーレイが訪ねて来てくれた日には、平日にだって、二杯、三杯と。
(…一杯分でも、夢みたいな奇跡…)
足りないなんて言っちゃ駄目だ、と分かったから。
いつもの紅茶は奇跡なのだ、と気付かされたから、もう溜息はつかないでおこう。
今日は二杯も足りなくても。
三杯分も足りなかったとしたって、一杯でさえも奇跡の紅茶なのだから…。
いつもの紅茶・了
※今日は足りない、とブルー君が溜息を零した紅茶。ハーレイと二人で飲んでいないよ、と。
けれども、二人で紅茶を飲めることが奇跡。それに気付いたら、溜息はもうつけませんよねv
(うん、この一杯が美味いってな)
落ち着くんだ、とハーレイが傾けた熱いコーヒー。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
いつものように淹れたコーヒー、愛用しているマグカップに。
こうして書斎で飲むこともあれば、ダイニングで飲むことだって。
気分次第で変わる場所。
けれど落ち着く、コーヒーの味。
何処で飲んでも、ふわりとほどけてゆく心。
いつもの習慣、リラックスするための夜の一杯。
(コーヒーってヤツは、少数派なのかもしれないが…)
普通は酒か、と浮かべた苦笑。
自分くらいの年の男性なら、夜はコーヒーよりも酒かも、と。
もちろん、酒も好きだけど。
酒を飲む夜もあるのだけれども、これが性分。
夜の一杯、いつも飲むなら酒よりコーヒー、そういった主義。
(…酒も美味いんだが…)
職業柄ってヤツだよなあ、と思うのが酒。
夜も頑張って勉強する生徒、この時間ならばいてもおかしくはない。
(俺の授業の方じゃなくても…)
古典で宿題を出していなくても、テストの予定がまるで無くても、科目は色々。
明日にテストを控えた生徒や、宿題の山と戦う生徒。
けしていないとは言い切れないから、自分が酒を飲むというのは…。
(ちょっぴり後ろめたいってな)
毎日、飲むとなったなら。
たとえ一日に一杯限りと決めていたって、毎晩ならば。
生徒は勉強中だというのに、自分は酒。
申し訳ない気分がするから、毎晩飲むならコーヒーの方。
コーヒーだったら、眠気覚ましに飲む人だって多いもの。
朝食の時にコーヒーを一杯、それでシャキッと目を覚ます人も多い飲み物。
夜遅くまで仕事や勉強となれば、其処でも登場するコーヒー。
眠くなったら眠気覚ましに、「コーヒーでも飲んで頑張ろう」と。
(そういうヤツらも多いわけだし…)
コーヒーだったら問題無し、と傾けるのが夜の一杯。
酒の方なら、人によっては訪れる眠気。
そうならなくても、気が大きくなる人もいる。
(俺だったら、そうはならないんだが…)
グラスに一杯飲んだ程度では、全く酔いはしないから。
二杯、三杯と重ねてみたって、どちらかと言えば至って正気。
よほどでなければ酔いはしないし、損なタイプと言うかもしれない。
友人や同僚、彼らと一緒に飲みに出掛けたら…。
(…俺だけ、しっかり正気だってな)
あれはつまらん、と零れる溜息。
皆が陽気に歌い出しても、其処で一人だけ置き去りだから。
肩を組んでの懐かしの歌も、自分だけが帰れない過ぎ去った昔。
他の友人は、学生時代に戻っているのに。
同僚だったら青春気分で、心は時間を遡ってその頃に戻っているのに。
(…酒はそういう飲み物だしなあ…)
だから生徒に申し訳ない気分になるのが、酒というもの。
「俺は酔わない」と分かっていたって、同じ量で酔う人はいるから。
酒というものに弱い人なら、僅かでも酔ってしまうから。
(気が大きくなる方に行ったら…)
何の根拠もなく「大丈夫だ」と思いがち。
早めに準備を始めた方が、と酒を飲む前には分かっていたって…。
(準備なんぞはしなくてもいい、と思っちまうのが酒らしいしな?)
そして後から困ることになる、準備など出来ていないから。
酒を飲む前にやっておいたら、そういうことにはならないのに。
眠くなったり、大きな気分になってしまったり、生徒には勧められない酒。
年齢的にも無理だけれども、生徒たちは酒を飲めないけれど。
(二十歳までは禁止だ、禁止)
酒の入った菓子がせいぜい、というのが自分の教え子たち。
一番上の学年だって、卒業の時は十八歳。
酒が飲める生徒はいない学校、義務教育の最終段階。
生徒たちは酒を飲めないけれども、飲むような者もいないけれども。
(…あいつらが酒を飲んじまったら…)
宿題は出来はしないだろう。
明日のテストに向けての勉強、それだって。
眠ってしまうか、気が大きくなって「大丈夫だ」と宿題を放り出すか。
陽気な気分になってしまって、勉強の代わりに歌い出すとか。
(…でもって、次の日に思い切り後悔するってな)
昨夜はどうして飲んだのだろうと、一杯の酒を。
あれさえ無ければ、きっとテストの点数はもっとマシだろうに、と。
宿題の方も、「出来ていません」と項垂れるしかない。
提出を求められたなら。
あるいは名指しで「これの答えは?」と訊かれたなら。
(とんでもないことになるのが、酒ってヤツで…)
その辺もあってコーヒーなんだ、と大きなマグカップを傾ける。
こっちだったら眠気覚ましで、生徒が飲んでも大丈夫だから。
宿題や勉強を放り出さずに、頑張って続けられるから。
(…まさに今頃、飲んでる生徒もいそうだってな)
明日が提出期限の宿題、それが全く出来ていない、とコーヒーを飲んで遅くまで。
テストに向けての勉強の方も、やっている子もいるだろう。
(昼間にウッカリ遊びほうけて、ピンチなヤツだ)
計画的に出来る子だったら、とうに仕上げて眠っているから。
宿題にしても、テスト勉強にしても、出来る生徒は早めにしておくものだから。
(…あいつも、そういうタイプだよなあ…)
寝てはいなくても、コーヒーなんぞに頼っちゃいない、と思い浮かべた恋人の顔。
前の生から愛したブルー。
十四歳にしかならないブルーは、生まれ変わって帰って来た。
前のブルーが焦がれた地球に、今の自分が住んでいるのと同じ町へと。
五月の三日に再会するまで、互いに気付いていなかったけれど。
この町に恋人が住んでいることも、前の自分がどういう名前だったのかも。
そうして出会った小さなブルーは優等生。
成績はトップクラスなのだし、宿題やテスト勉強などには…。
(追われちゃいないな、コーヒーに頼るほどにはな?)
自分のペースで早めに仕上げて、夜はぐっすり眠る筈。
無理に目を覚まして頑張らなくても、ブルーだったら充分に出来る。
コーヒーなんかを飲まなくても。
眠気覚ましに熱いコーヒー、それで頭をシャッキリと、と宿題の山に向かわなくても。
(余裕だ、余裕)
酒を飲んでも大丈夫だぞ、と今のブルーに重ねてみる酒。
まだまだ飲めない年だけれども、それを飲んでも問題無し、と。
眠くなっても、宿題は出来ているのだから。
陽気な気分で歌い出しても、テストに向けての勉強はとうに済んでいるから。
(…そういう生徒ばかりだったら、俺だって苦労しないのに…)
ブルーみたいなのが例外なんだ、と分かっているのが教師生活。
生徒は宿題を嫌がるものだし、忘れて来るのもありがちなこと。
テスト勉強の方にしたって、何日も前から予告したって…。
(ヤツらにとっては、抜き打ちテストと同じだってな)
どうせ前日まで、勉強しないでいるのだから。
明日はテストだ、と気付いてようやく始める勉強。
生徒によってはコーヒーを飲んで、「今からやって間に合うだろうか」と。
もう一時間ばかり頑張ったならば、マシな点数が取れるかも、と。
コーヒーを飲んで戦う生徒。
自業自得な結果とはいえ、宿題の山やテスト勉強に立ち向かってゆく戦士たち。
きっと今夜もいるだろうから、自分も酒は飲まずにコーヒー。
(…もっとも、俺はコーヒーくらいじゃ…)
眠気覚ましになりやしないが、とクックッと笑う。
リラックスした夜のひと時、それのお供がコーヒーなだけ。
眠れなくなったら本末転倒、ぐっすり眠るための一杯。
心がほぐれてゆくのがコーヒー、いつもの一杯、気に入りの場所で。
書斎だったり、ダイニングだったり、その日の気分で決めて、ゆったり座って。
(…こいつが実に…)
美味いんだよなあ、と味わう内に気付いたこと。
途端に噴き出しそうになったコーヒー、一気に笑いがこみ上げたから。
今の自分の勘違いなるもの、それがとんでもなく可笑しかったから。
(おいおいおい…)
コーヒーを飲んで頑張るも何も、と浮かんだ小さなブルーの顔。
あいつはコーヒーが駄目だったんだと、前のあいつも苦手だった、と。
(…今のあいつも、欲しいと強請りはするんだが…)
飲んでみようと頑張ってみては、敗退するのが苦いコーヒー。
前のブルーも全く同じで、コーヒーには砂糖をたっぷりと入れて、甘いホイップクリームまで。
(それに、酒だって…)
全く飲めなかったっけな、と止まってくれそうもない笑い。
とても優秀な生徒のブルーは、コーヒーどころじゃなかったんだ、と。
前のブルーも、コーヒーも酒も駄目だったよな、と。
(どっちも忘れていられるくらいに…)
今は新しい人生ってこった、と笑いながらも気分は乾杯。
青い地球の上、ブルーと生きてゆく人生に。
酒ではなくてコーヒーだけれど、乾杯の相手もいないのだけれど、「今の人生に乾杯だ」と…。
いつもの一杯・了
※ハーレイ先生のお気に入りのコーヒー、夜の一杯。お酒ではなくてコーヒーな主義。
ブルー君のことを想っていたのに、勘違い。ブルー君、お酒もコーヒーもまるで駄目なのにv
