(あいつを愛しちゃいるんだが…)
嫌いだなんて言いやしないが、とハーレイがフウと零した溜息。
ブルーと過ごした休日の夜に、いつもの自分の家の書斎で。
夕食を御馳走になって来たから、帰宅してから淹れたコーヒー。
愛用のマグカップに熱いのをたっぷり、それを片手の時間だけれど。
(なんだって、今のあいつはだな…)
ああも我儘になっちまったんだか、と思い浮かべる小さなブルー。
今日は午前中から一緒だった人。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ブルーも自分も生まれ変わりで、遠く遥かな時の彼方で共に暮らした。
二人きりではなかったけれど。他に仲間が大勢いた船、恋さえ秘密だったのだけれど。
(前のあいつと言えばだな…)
それは立派で、皆の手本で…、と前の自分が愛したブルーを考える。
ソルジャー・ブルーと呼ばれた人。白いシャングリラで生きたミュウたちの長。
ただの一度も、我儘など言いはしなかった。前のブルーは。
(アルタミラから、脱出した直後の船でもだ…)
まだソルジャーではなかった頃でも、ブルーは我儘を言ってはいない。
今と同じにチビだったブルー。
本当の年はともかくとして、ブルーの中身はチビだった。見た目そのままに少年で。
閉じ込められていた檻の中では、心も身体も、長く成長を止めていたから。
(今のあいつとそっくりにチビで…)
子供だったが、我儘などは一回も…、と今も鮮やかに覚えている。
少年の姿をしていた前のブルーが、あの船でどう生きたのか。
(もうすぐ食料が尽きちまうんだ、って話したら…)
皆が飢え死にしないようにと、ブルーは船から飛び出して行った。たった一人で。
そして奪って戻った食料、人類の輸送船を見付けて其処の倉庫から。
奪った物資で皆が暮らし始めて、初期の頃には食材が偏ったこともしばしば。
ジャガイモだらけのジャガイモ地獄に、キャベツだらけのキャベツ地獄だって。
愚痴を零す仲間も多かったけれど、ブルーはいつでも素直に食べた。どんな食事でも。
あの頃のあいつはそうだったんだ、とブルーの笑顔を思い出す。
まだキャプテンなどいなかった船で、前の自分は厨房担当。
偏った食材をせっせと調理し、「文句があるか!?」と皆に食べさせていた。
「これでも昨日のとは変えてあるんだ」と、「食材は全く同じだがな!」などと。
いくら工夫を凝らしてみたって、同じ食材では限界がある。
皆の不満も仕方ないことで、それは分かっていたのだけれど…。
(前のあいつは、文句の一つも言わないで…)
ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も、明るい笑顔で付き合ってくれた。
時には「ごめんね」と謝りながら。
「ぼくが色々と奪っていたなら、食材、偏っていなかったのにね」と。
謝られる度に「何を言うんだ」と返した自分。「お前の安全が第一だろうが」と。
危険を冒して奪うことはないと、ジャガイモ地獄やキャベツ地獄で充分だからと繰り返して。
食料があれば生きてゆけるし、もうそれだけで幸せなこと。
文句を言う者が現れるのも、船が平和な証拠だから。
(アルタミラの檻じゃ、食事どころか餌と水だぞ?)
それしか食えなかったじゃないか、と皆を睨んでも、一度覚えた楽な暮らしは癖になる。
食事は色々な食材があって、調理方法も味付けも豊かで、美味しく食べて当然のもの。
そういうものだと思ってしまえば、それが無くなったら不満な者も出てくるだろう。
けれどブルーは文句どころか、「美味しいね」と笑顔で頬張ってくれた。
ジャガイモだらけの日が続こうが、キャベツまみれの毎日だろうが。
(どれも美味しい、って言ってくれてだな…)
ずいぶんと励みになったもの。
他の仲間が何と言おうが、ブルーが笑顔で食べてくれたら。
「お昼に食べたのと、ちょっと違うね」と、工夫に気付いてくれたなら。
(…前のあいつは、そういうヤツで…)
同じチビでも、まるで違うぞ、と思ったブルーの中身のこと。
なにしろ今のブルーときたら、本当に我儘放題のチビ。
我慢という言葉は知っていたって、少しも我慢しようとしない。
幸せ一杯に育ったお蔭で、今のブルーはとびきり我儘。…前に比べて。
そうなっちまった、と今日のブルーを思う。
ブルーの家に出掛けて行ったら、また炸裂したブルーの我儘。
キスは駄目だと言ってあるのに、「ぼくにキスして」と強請ったブルー。
もちろん「駄目だ」と断ったけれど、ブルーが納得するわけがない。
たちまちプウッと膨れた頬っぺた、尖ってしまった桜色の唇。「ハーレイのケチ!」と。
(いったい何回、アレを言われたやら…)
今じゃすっかりお馴染みなんだ、と耳が覚えている言葉。不満そうな響きの声と一緒に。
「ハーレイのケチ!」とプンスカ怒って、赤い瞳で睨み付けるブルー。
悪いのはブルーの方だというのに、まるでこちらが悪いかのように。
(俺は子供にキスはしない、と何度も説明してあるんだがな?)
それも聞かない我儘なヤツ、と今のブルーの我儘っぷりに呆れるばかり。
キスを断ったら不満たらたら、「ケチだ」と文句で膨れっ面。
命に関わることでもないのに、キスが無くても飢えて死んだりしないのに。
膨れっ面など、前のブルーは一度もしてはいないのに。
(ジャガイモ地獄だの、キャベツ地獄だのと比べたら…)
今の暮らしは天国だろうが、と思うけれども、その「天国」が我儘なブルーを作った。
優しい両親と暖かな家と、何の不自由も無い暮らし。
十四年間もそれを続けていたなら、今のようにもなるだろう。
「欲しいもの」は何でも手に入るのだし、する必要すら無い我慢。
たまに小遣いを切らしていたって、両親に頼めばきっと補充をして貰える筈。
そうでなければ、代わりに買って来てくれるとか。
(シャングリラの写真集がソレだよなあ…)
俺が持ってるのとお揃いだが、とチラと本棚に目を遣った。
白いシャングリラの姿を収めた豪華版。
下調べをして出掛けた本屋で、「やはり買おう」と決めたそれ。
買うなりブルーに教えてやって、「お前が買うには少し高いが…」とも付け加えたけれど。
ブルーの両親なら、きっと買い与えてくれる筈だと考えた。
可愛い一人息子のためなら、喜んで。
案の定、ブルーは買って貰って、持っている。「ハーレイの本とお揃いだよ」と。
そんな具合で我儘放題、我慢を知らない小さなブルー。
あれでも我慢はしているだろう、と思ってはみても、前のブルーと比べたら…。
(我慢のガの字も無いってくらいで…)
少しも我慢しないんだ、と頭が痛くなってくる。
これから先も、いったい何度聞くことだろう。「ハーレイのケチ!」と。
膨れっ面を何度目にするのだろう、プンプン怒っているブルーの顔を。
(フグみたいだから、可愛いんだが…)
今ならではの顔なんだが、と思考を別の方へと向けた。
我儘一杯に育ったブルーを、前の自分は見ていない。
アルタミラの檻で心も身体も成長を止めて、希望さえも失くしていたブルー。
人としてさえ生きられなかった辛すぎた日々が、前のブルーから奪った「我儘」。
檻で我儘など言えはしないし、その中で長く生きる間に、ブルーが失くしてしまった未来。
「こうしたい」だとか、「こうなればいい」とか、そういった夢も全て失くした。
其処から再び歩み出しても、もう「我儘なブルー」は出来ない。
すっかり我慢に慣れてしまって、欲しいものなど無いのだから。
たとえ「欲しい」と思ったとしても、「手に入ればいいな」と考える程度。
何が何でも手に入れたい、と我儘を炸裂させはしなくて、せいぜい努力してみるくらい。
「こうすれば手に入るのかな?」と、仲間たちに迷惑が掛からないよう、控えめに。
(前のあいつは、そうだったから…)
我儘なブルーは「いなかった」。シャングリラの何処を探しても。
三百年以上も共に暮らしても、そんなブルーに会ってはいない。ただの一度さえも。
(そいつを思えば、我儘で膨れっ面のあいつも…)
うんと可愛くて好きなんだが、と思った所へ、耳に蘇った「ハーレイのケチ!」。
小さなブルーの愛らしい声で、まだ声変わりをしていない声で。
(…しかし、ケチだと言われるのは、だ…)
実に不本意で心外なんだ、と傾けるコーヒー。「俺はあいつのためを思っているのに」と。
ブルーの幸せを思っているから、子供の間は子供らしく。キスなどしないで。
なのにブルーは「ケチ!」ばかりだから、溜息だって零れてしまう。
「愛してるんだが、我儘なヤツ」と、「そんな所も、纏めて愛してるんだがな」と…。
愛しているが・了
※前のブルーは我儘なんかは言わなかった、と思うハーレイ。我慢することに慣れてしまって。
ところが今のブルー君は我儘放題なわけで、零れる溜息。それでも愛してるんですけどねv
(王子様かあ…)
前のぼくならそうなんだけどな、とブルーの頭に浮かんだ言葉。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰掛けていたら。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した恋人。
その人のことを想うつもりが、どうしたはずみか「王子様」と、ポンと。
(んーと…)
王子様と言えば王族、王様と王妃様との子供。
お伽話の世界の中には何人もいるし、現実にもいた王子様。ずっと昔は。
人間が地球しか知らなかった頃に、幾つも生まれては消えた王国。
何処の国にも王子様がいて、それは幸せに暮らした筈。
悲劇に見舞われてしまった王子も、きっと大勢いただろうけれど。
(人間が宇宙に出ていく頃になったら…)
もう王国の興亡は無くて、緩やかに消えて行った王族。それに貴族たちも。
王国はすっかり時代遅れで、広い宇宙で暮らす人間には馴染まない。
そうして本物の「王子様」は消えて、お伽話の王子様が残った。
ハッピーエンドの人生を生きる王子様。
辛く悲しい思いをしたって、お伽話はハッピーエンドで終わるもの。
(白鳥に変えられた王子様だって、最後は幸せ…)
片方の腕が白鳥の翼のままで残っても、ちゃんと迎えたハッピーエンド。王子に戻って。
他にもお伽話は色々、王子様に憧れる人だって多い。「本物」はとうにいなくても。
SD体制の時代に入るよりも前に、王族は消えてしまっていても。
(今の時代だと、前のぼくだって…)
どういうわけだか、立派に「王子様」扱い。王子様たちの仲間入り。
ミュウの時代の礎になったソルジャー・ブルーは、今の時代は大英雄。
写真集が幾つも出版されて、大勢の女性たちの憧れ。
まるで本物の王子様みたいに、ソルジャー・ブルーに夢を見ている女性たち。
「こういう人がいればいいのに」と。「理想の王子様」だとも。
なんだか不思議、と思うけれども、それが現実。
死の星だった地球が蘇るほどの時が流れて、青い地球の上に生まれてみたら、そうなっていた。
(王子様みたいなソルジャー・ブルー…)
ホントに王子様扱いだよ、と苦笑する。
前の自分は王子様など、まるで意識していなかったのに。懸命に生きていただけで。
(エラやヒルマンは、とても喜びそうだけど…)
ソルジャー・ブルーが王子様のように扱われる時代、それが未来と知ったなら。
大勢の女性たちが夢中で、写真集だって幾つもあると聞かされたなら。
(ソルジャーはとても偉いんだから、って…)
せっせと旗を振っていたエラ、ヒルマンだって頑張っていた。
船の中だけが全ての世界で、白い鯨になった後でも、二千人ほどしかいなかったのに。
大きな船でも世界は狭くて、仲間たちの数も少なかったのに、努力を重ねたエラとヒルマン。
「ソルジャーはとても偉いのだから」と、青の間まで作ってしまったほど。
そうでなくても、「ソルジャー」の称号を決める時には、暗躍していたあの二人。
(カイザーに、ロード…)
彼らが持ち出した称号の候補。
カイザーは皇帝、ロードの方は、場合によっては「神」の意味にもなる言葉。
そんなとんでもない候補を作って、船の仲間たちに説いて回った。「これが一番」と。
前のハーレイの機転が無ければ、きっと「ソルジャー」を名乗る代わりに…。
(…カイザーか、ロード…)
そのどちらかを名乗る羽目になっていただろう。前の自分は。
「皇帝」だなどと、偉そうに威張り返りたいとは、全く思わなかったのに。
場合によっては「神」になる「ロード」は、それこそ論外だったのに。
(だけど、どっちも凄く人気で…)
船の仲間たちは、それに投票する気満々。「カイザーかロードがいいと思う」と。
それを聞き付けて真っ青になった前の自分。
「大変なことになった」と慌てふためき、前のハーレイに助けて貰った。
カイザーとロードは絶対に嫌だと、「ぼくはソルジャーでいいんだけれど」と。
お蔭で「ソルジャー」になれたけれども、不満だったのがエラとヒルマン。
ハーレイが策を講じるまでは、カイザーとロードが大人気。
そのどちらかに決まりそうだと、二人とも思っていたのだから。
「カイザーになっても、ロードになっても、威厳たっぷりで偉そうだ」と。
けれども蓋を開けてみたなら、圧倒的多数で決まった「ソルジャー」。
ただの「戦士」にしかならない言葉で、とてもガッカリした二人。
(…それでも二人とも、負けていなくて…)
ソルジャーに決まってしまった後にも、あれこれと策を巡らせていた。
マントの色を「皇帝の色」の紫にしたり、皆の制服にあしらう石の色を選ぶ時にも…。
(お守りだから、前のぼくの瞳の色にしよう、って…)
赤い石に、と強引に話を進めたほど。
遠い昔の地球のお守り、魔除けだったという「メデューサの瞳」。
そのお守りは「青い瞳」だから、ミュウのお守りには「ソルジャーの瞳」の赤い石だ、と。
何かと言ったら、前の自分を祭り上げていたエラとヒルマン。
「他の仲間たちとは違うのだ」と、重ねた演出。
(…ずっと未来に、前のぼくが王子様扱いになるって聞いたら…)
踊り上がって喜んだだろう。「やはり自分たちは正しかった」と、手を取り合って。
自分たちの努力が報われるのだと、もっと頑張ってゆかなくては、と。
(祭り上げられる方は、とても迷惑…)
普通のミュウで良かったのに、と何度ぼやいたことだろう。
遠く遥かな時の彼方で、特別扱いされてしまう度に。
他の仲間たちと同じに暮らしたくても、「駄目です」と文句を言われる度に。
(王子様扱いになっちゃったのは…)
エラとヒルマンのせいだけではない、と分かってはいる。
前の自分の姿形も大きかったと、どちらかと言えば、そのせいだ、とも。
(でも、紫のマントとかを着せられていなかったら…)
扱いはきっと違っただろうし、責任が無いとも言えない二人。
今更文句を言った所で、二人とも、とうにいないけど。…時の彼方に逃げ去ったけれど。
青い地球に来て、気付いてみたら、前の自分が「王子様」。
王族の血など引いてはいなくて、ミュウの初代の長だったのに。
人類から見れば異分子の長で、さながら蛮族の族長みたいなものだったのに…。
(ミュウの時代が来てしまったら、王子様…)
ホントに不思議、と目をパチクリと瞬かせた。
アルタミラの檻で暮らしたチビが、いつの間にやら「王子様」。
今や多くの女性の憧れ、王子様扱いのソルジャー・ブルー。お伽話の王子様みたいに。
(前のぼくだと、王子様で人気も凄いのに…)
ぼくはちっともそうじゃないよね、と零れた溜息。
今の自分はチビの子供で、恋人にさえも鼻であしらわれる始末。
「お前は、まだまだ子供だしな?」と、「俺は子供にキスはしない」と。
チビの子供になってしまったから、ハーレイの扱いも変わったろうか。
王子様のようだった前の自分なら、とても大事にしてくれたのに。遠く遥かな時の彼方で。
いつも大切に扱ってくれて、今みたいに苛めはしなかった。ただの一度も。
キスを強請ったら断るだとか、それで膨れっ面になったら、頬っぺたを両手で潰すとか。
(…頬っぺたをペシャンと潰して、ハコフグ…)
恋人に向かって酷い渾名をつけたハーレイ。「ハコフグだな」と。
膨れていたなら「フグ」呼ばわりだし、実にとんでもない扱い。
ソルジャー・ブルーだった頃には、そんな目には遭っていないのに。
ハーレイはいつも優しかったし、けして苛めはしなかったのに。
(ぼくが本物の王子様だったら…)
あんな風には出来ないよね、と思うこと。今のハーレイのつれない態度。
いくらチビでも、本当に本物の王子様。
そういう身分に生まれていたなら、きっと大きく違ってくる。
今の時代に「本物の王子様」はいなくて、前の自分が生きた頃にもいなかったけれど。
SD体制が始まった時に、途絶えただろう「王族の血筋」。
彼らの遺伝子を引き継ぐ者がいたとしたって、それは遺伝子だけの問題。
誰がそうかは分かりもしないし、データは全て破棄されたから。
もう分からない「王族の血筋」。今も誰かが血を引いているか、いないかさえも。
(だけど、今のぼくが王子様なら…)
ハーレイはきっと、「ハコフグ」と呼びはしないだろう。
頬っぺたをプウッと膨らませても、「フグ」と笑いはしない筈。
なにしろ相手は王子なのだし、失礼があっては駄目だから。…ソルジャーよりも、ずっと。
(どうなさいました、って訊いて、それから謝って…)
御機嫌を取ってくれるんだよ、と思ったけれど。
上手くいったらキスだって、と考えたけれど、それをハーレイにさせる自分は…。
(前のぼくより、うんと偉そう?)
チビのくせに椅子にふんぞり返って、「ぼくにキスして」と命令をする王子様。
ハーレイが「それは…」と詰まっていたなら、プウッと膨れて怒ってしまう我儘な王子。
「ぼくにキスしてくれないなんて」と、「ハーレイはぼくを怒らせたいの?」と。
とても偉そうで、生意気なチビ。
王子という身分を振りかざすチビで、ハーレイは従うしかないわけで…。
(…それだとハーレイ、ぼくのことを…)
今のように愛してくれるのかどうか、「俺のブルーだ」と嬉しそうに言ってくれるかどうか。
もしも自分が王子様だと、ハーレイの身分は下になる。
家臣か、それとも騎士になるのか、どういう身分になるにしても、下。
(そんなの、なんだか…)
幸せじゃない、という気がするから、王子様の身分は諦めた。
王子様だと我儘放題できそうだけれど、ハーレイの「心」が手に入らないかもしれないから。
「我儘王子め」と思うハーレイしか、得られないかもしれないから。
それは困るし、今のままでいい。
たとえハーレイに苛められても、「キスはしない」と断られてハコフグ呼ばわりでも…。
王子様だと・了
※今の時代は王子様扱いのソルジャー・ブルー。前のブルーにそんなつもりは無かったのに。
チビのブルー君も「なってみたい」とチラと思ったようですけれど。普通が一番v
(王子様なあ…)
ふと、ハーレイの頭に浮かんだ言葉。「王子様」と。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
コーヒー片手に寛いでいたら、そういう言葉がポンと浮かんだ。頭の中に。
今の時代は、何処にもいない「王子様」。お伽話の世界にしか。
(前の俺が生きた時代にも、とうにいなかったんだが…)
そういう人種は、と思い描いてみる「王子様」。
王子には王と王妃がつきもの、王の息子が王子だから。娘だったら、王女様。
(…王侯貴族ってヤツがいないと…)
そもそも存在しやしないんだ、と簡単に分かる「王子様」。
王国があって王族がいれば、王子様も存在するのだけれど…。
(その王国が消えてしまっていたから…)
人間が宇宙に版図を広げて、地球が窒息し始めた時は、もう王国は無かったという。
とうの昔に時代遅れで、王族も貴族も、いつの間にやら普通の人間。
(財産だけは持っていたかもしれないが…)
それさえも地球が滅びた時には、何の意味すらも無くなった。
「人間は全て地球を離れる」ことが決定されたから。
他の星へと散って行った後は、誰一人として表舞台に戻れはしない。
SD体制に入った世界に、旧世代の「人」は不要のもの。
人間は全て人工子宮から生まれる世界で、血縁などは誰も持たない。
(そんな時代に、世襲の財産が入り込む余地が無いからな?)
彼らの財産は没収されたか、あるいは最期を迎える星へと宇宙船で運ばれて行ったのか。
どちらにしたって、彼らは二度と戻らなかった。
財産も血筋も消えてしまって、その最期さえも分からない。
SD体制を始めた機械は、何の関心も彼らには「持たなかった」から。
何処で死のうが、滅びてゆこうが、不要な者たちが消えただけ。
そうして彼らは宇宙から消えて、何も残りはしなかった。身分も血筋も、財産さえも。
宇宙から消えた王侯貴族。SD体制の時代の幕開けと共に、もう完全に。
前の自分が生きた頃には、とっくに別の世界の住人。お伽話の中にいただけ。
(それでも言葉は知っていたがな)
王子様という言葉なら。王も王妃も、王侯貴族も。
お伽話は残っていたし、人類の歴史も調べれば分かる。
遠い昔は、本物の王子や王や王妃が存在したと。彼らを取り巻く貴族たちだって。
地球のあちこちにあった王国、お伽話ではない本物の国。
(しかし、現実味は無いモンだから…)
シャングリラで生きる自分たちには、何もかも夢の世界のもの。
船の中だけが世界の全てで、外に出たなら殺されるだけ。異分子として。
だから実在した王子も王族たちも、お伽話と変わらなかった。
自分たちとは無縁の世界で暮らす人々、「遠い昔に暮らした」人間。
それが王子や王族たちで、夢の世界の住人たち。本物だろうが、お伽話の人物だろうが。
(まあ、人類の方にしたって…)
事情は同じだっただろう。
血縁の無い家族関係、養父母の家で暮らす子供たち。
けれど十四歳の誕生日が来たら、大人の社会へ旅立たされる。
記憶を処理され、教育ステーションへと。大人社会の入口へと。
(それまでに読んでた、本の記憶は残るんだろうが…)
王子や王女が出てくる話が好きな子だったら、その記憶までは消えない筈。
それは「知識」で、そういう話を好むというのは「個性」だから。
本を与えた養父母の記憶は曖昧になっても、きっと残るだろう「読んだ本」の記憶。
(定番のお伽話なんかは、常識だしな?)
大人社会でも何かのはずみに、話題になることもあったろう。
だから人類も、王子様なら知っていた。
「夢の世界の住人」として。
かつては本物がいたのだけれども、SD体制の時代は「不要な存在」。
とはいえ、夢はたっぷりあるから、時には本物の彼らの歴史を追ったりもして。
それから遥かな時が流れて、青い地球が宇宙に戻ったけれど。
SD体制も微塵に壊れて、人間は昔と同じ形で命を紡いでいるのだけれど…。
(王子様は戻って来なかったよなあ…)
今でもやっぱりお伽話の中だけなんだ、と平和な今の時代を思う。
人間は誰もがミュウになった世界、戦いも武器も無い世界。
頂点に立とうと野心を抱く者はいないし、世界征服を目論む輩もいない世の中。
それでは出来ない「王」や「王族」、王国だって生まれては来ない。
「王子様」は夢の世界の住人のままで、お伽話の世界の外には出てこない。
もちろん歴史の本の外にも、データを集めたライブラリーなどの外の世界にも。
(それでも、夢は一杯で…)
憧れるヤツも多いのが「王子様」なんだ、と前のブルーを思い浮かべる。
ミュウの時代の礎になった、ソルジャー・ブルー。
今の時代の始まりの英雄、誰もが称える初代のソルジャー。
(おまけに、ああいう姿だから…)
それは気高く、美しかったソルジャー・ブルー。
前の自分が恋をしたのを抜きにしたって、振り向かない人などいはしない美貌。
(キースの野郎は、遠慮しないで撃ちやがったが…)
普通だったら躊躇うぞ、と考えずにはいられない。
あの美しい赤い瞳に向かって、弾を一発ブチ込むなんて。
非の打ち所がない美を損ねるだなんて、たとえ敵でも迷うだろうと。
(こう、罰当たりな気がしちまって…)
俺なら引き金を引けないんだが、と思う、あの顔。
どうしても殺さねばならない敵なら、ただ息の根を止めればいい。
わざわざ瞳を砕かなくても、心臓を狙えばそれで済むこと。
神が作り上げた美を損ねずとも、ブルーの息は絶えるのだから。
(キースの野郎が例外なだけで、普通は惹かれるのがブルーの顔で…)
だからあいつは「王子様」だっけな、と思いを馳せる、今の時代のブルーの立ち位置。
すっかり「王子様」扱いだったと、憧れる女性が山ほどだぞ、と。
英雄な上に、あの美しさ。それに気高さ。
写真集が沢山出ているブルーは、「王子様」にも負けない勢い。
お伽話の王子様にも、遠い昔に実在していた「本物」の王子様たちにも。
(王族の血なんか引いちゃいなくて、人類に追われるミュウの長でだ…)
アルタミラじゃ檻で暮らしてたんだが、と前のブルーの人生を思う。
成人検査で発見された最初のミュウ。
ただ一人きりのタイプ・ブルーで、それもブルーに災いを呼んだ。
繰り返された過酷な人体実験、けれど死ぬことは許されない。生かしてデータを集めるために。
未来も希望も見えない中で、心も身体も成長を止めていたブルー。子供のままで。
(まるで囚われの王子様だな)
逃げ出した後は、ちゃんと育っていったんだが、と思い出す船の中での日々。
少年だったブルーは育って、やがてソルジャー・ブルーになった。
今も写真が何枚も残る、あのソルジャーの衣装を纏って。
白と銀の上着に、紫のマント。…お伽話の王子たちにも負けない姿。
(あれだけ揃えば、立派に王子になれるよなあ…)
今の時代も人気の王子に、とブルーを収めた写真集の多さに零れる溜息。
「前のあいつは、今じゃすっかり王子様だな」と。
そういうつもりで生きたわけではなかっただろうに、時が流れた今となっては「王子様」。
大勢の女性たちの憧れ、お伽話の世界の王子や、本物の王子に負けないほどの。
(…でもって、今のあいつの方も…)
王子様だぞ、と可笑しくなった。生まれ変わったブルーの方。
十四歳にしかならない子供で、まだまだチビの姿だけれど…。
(前に比べりゃ我儘一杯、幸せ一杯といった所で…)
前のブルーの人生とは違う、それは幸せな今のブルーの人生。
優しい両親も、暖かな家も、何もかも持っているブルー。それは贅沢に、王子様のように。
(財産は持っちゃいないんだが…)
恋人の俺まで持っていやがる、とチビの王子様な恋人を想う。
何かと言ったら我儘放題、「ぼくにキスして」と強請る恋人を。
(…本当に王子様だな、あいつ)
そしていずれは俺が足元に跪くんだ、とクックッと笑う。
いつかブルーが大きくなったら、プロポーズ。その時は跪くだろうから。
(文字通りに跪くかはともかく…)
ブルーに自分の人生を捧げ、一生守ると誓いを立てるだろう瞬間。
まるで王子に跪く騎士か、はたまた忠実な家臣なのか。
(…あいつが王子様なら、だ…)
俺はいったい何になるんだ、と想像するのも、また楽しい。
我儘なチビの王子様なブルーが君臨する今は、自分は何になるのだろうと。
教育係か、はたまた下僕か、あるいは王子に跪く騎士か。
(何でもいいよな、あいつの側にいられれば…)
充分なんだ、と浮かべた笑み。
もしもブルーが王子様なら、自分は跪くだけだから。
家臣だろうが、騎士であろうが、ブルーの側で守ってやれたら、もう充分に満足だから…。
王子様なら・了
※前のブルーが王子様扱いされる今。平和な時代ならではですけど、今のブルーも王子様。
我儘一杯で幸せ一杯、王子様みたいなブルー君。ハーレイ先生の役柄が気になりますよねv
(んー…)
どうしたんだろ、とブルーが開いた瞼。ベッドの中で。
とうに明かりを落とした部屋。眠ろうとしていたのだけれど。
そのつもりでベッドに入ったけれども、どうしたわけだか訪れない眠気。
コロンと横に寝返りを打っても、逆の方へと打ち返しても。
いつもだったら、ベッドに入れば眠くなる。入る前から眠い夜だって。
(夜更かし、あんまり強くないから…)
もう少しだけ、と本でも読もうものなら、出てくる欠伸。頑張る間に涙まで。
これでは駄目だ、と本を閉じたら、急に襲ってくる眠気。そのまま机で寝そうなほどに。
そういう夜にはベッドに入って、其処までで消えている記憶。
(明かり、消さなきゃ、って思っていても…)
それさえ忘れて眠ってしまって、目覚めたら朝になっているとか。
カーテンの隙間から射し込む朝日と、消し忘れたままの部屋の明かりと。
「やっちゃった」と思う朝もしばしば、眠気は直ぐに訪れるもの。
メギドの悪夢で夜中に起きたら、眠れない時もあるけれど。…怖くて身体が竦み上がって。
いったいどちらが現実なのかと、恐ろしい思いに捕まって。
(…今のぼくの世界、前のぼくが見ている夢の世界で…)
本当は自分は死んでしまったままなのでは、と思ったら震え出す身体。
こうしてベッドに寝ている自分は、ただの幻。
ソルジャー・ブルーの魂が紡ぐ夢の産物、何もかも「ありはしない」もの。
優しい両親も、暖かな家も、チビの自分が眠るベッドも。
「こういう風に暮らしたかった」と、ソルジャー・ブルーが夢を見ているだけで。
ふと気付いたら、自分は其処にいるかもしれない。
ソルジャー・ブルーに戻ってしまって、何一つ無い死の闇の中に。
青い地球も「今」も何もかも消えて、あるのは闇の世界だけ。
ハーレイさえも消えてしまって、死の闇の中に独りぼっちでいる「自分」。
まだハーレイは、地球へと進み続けていて。
白いシャングリラの舵を握って、ミュウの未来へと。
たまに捕まる、恐ろしい夢。メギドの悪夢。
前の自分が死んでゆく夢、自分の悲鳴で夜の夜中に飛び起きる。
早鐘を打つように脈打つ心臓、暗い部屋のベッドで怖くて震える。「此処は何処なの?」と。
本当に自分は「此処にいる」のか、ソルジャー・ブルーの夢の産物なのか。
(夢じゃないんだ、って分かってるけど…)
見回せばきちんと部屋が見えるし、暗がりの中でも間違えない。自分の部屋は。
勉強机にクローゼットに、本棚に、窓辺のテーブルと椅子。
「全部、本物…」とホッと息をついて、けれどやっぱり消えない怖さ。
一度捕まってしまったら。
今の自分は幻なのかと、チラと思ってしまったら。
(ああいう時には寝られないけど…)
ベッドで何度も打つ寝返り。怖い思いを追い払いたくて、コロン、コロンと。
両腕で身体をギュッと抱き締めて、「生きてるよね?」と確かめもする。
心臓の辺りに手を当ててみて、胸の鼓動を感じ取ることも。
(それでも駄目なら、ちょっと起きてみて…)
明かりを点けて、本棚から取り出す白いシャングリラの写真集。
ハーレイも同じのを持っている本で、父に強請って買って貰った豪華版。
それのページをめくっていったら、ようやく「今」が戻って来る。
前の自分が生きていた船は、今は何処にも無いのだと。
遠く遥かな時の彼方に消えてしまって、シャングリラは写真集の中。
前の自分が暮らした青の間、それも写真集のページの中に。
(写真集が出るほど、うんと昔になっちゃった、って…)
分かるから安心できる現実。
自分は確かに生きているのだと、長い長い時を飛び越えて来たと。…青い地球まで。
白いシャングリラは写真集の中で、歴史の授業で習う船。
地球まで行ったミュウの箱舟、SD体制の終わりを見届け、地球から去った。
役目を終えた白い鯨は宇宙を旅して、流れゆく時と共に消え去り、今は写真が残るだけ。
写真集の奥付に刷られた日付は、前の自分が生きた頃より遥かな未来。
今の自分は「此処にいる」と教えてくれる写真集。
白いシャングリラの写真の数々、それに奥付の日付などで。
(あれで安心して寝られるんだけど…)
今はいつかを確かめられたら、怖い気持ちは和らぐから。…幻ではないと分かったら。
現実に「此処」に生きているなら、眠れば「明日」がやって来る。
運が良ければハーレイに会えて、この部屋で二人で過ごす時間も持てるから。
(…今日は来てくれなかったけどね…)
そのせいだろうか、今夜はなかなか眠れないのは。ベッドに入っても寝付けないのは。
自分では全く自覚が無くても、会えなくてガッカリしてしまって。
(そういうことって、あるかもね…?)
悲しかったり、悔しかったり、心の何処かが騒いでいたなら、眠れない夜が来てしまう。
今夜の自分はそれなのだろうか、まるで気付いていなかっただけで。
(学校ではハーレイに会えたから…)
会えずに終わったわけではないから、そう悲しくはなかったけれど。
「今日は駄目な日…」と溜息をついて、気分をきちんと切り替えたけれど。
それが何処かで切り替わらないで、ちょっぴり残っていたろうか。
「ハーレイと二人で話せなかったよ」と、「家に来て欲しかったのにな…」と。
そういう気持ちが心にあるなら、眠れなくなることもあるだろう。
今日という日に満足できない、不満な自分がいるのなら。
「これでおしまい?」と悔しい自分が、何処かに隠れているのなら。
(…そうなのかも…)
悔しい気持ちか、それとも寂しい気持ちなのか。
ハーレイと二人で過ごす時間を、この部屋で持てなかったこと。
そのせいで眠気が来ないのだろうか、「今日」に不満があるせいで。
さっさと眠れば明日になるのに、きっとハーレイにも会えるだろうに、まだ眠れない。
ベッドでコロンと寝返りを打って、右へ左へ、向きを変えてみても。
「眠くなるかも」と目を閉じてみても、上掛けの下に頭まで潜ってみても。
ホントに駄目だ、と上掛けの下から覗かせた頭。
瞼を開いて部屋を見回して、目覚まし時計を手に取ってみる。
(……三十分……)
ベッドに入ってから半時間も経っているというのに、眠れない自分。
いつもだったら眠っているのに、メギドの悪夢で飛び起きたわけでもないというのに。
(…前のぼくなら、こんな時には…)
顔を横へと向ければ良かった。
同じベッドで眠る恋人、前のハーレイの顔の方へと。…「眠れないよ」と。
「ハーレイ?」と小さく呼んでみた名前。「起きているかい?」と。
そうしたら、直ぐに返った返事。
「どうなさいました?」と、「何か心配事でもおありですか?」と、優しい声で。
応えて「ううん」と横に振った首。
ただ眠れないというだけなのだし、恋人に心配は掛けられない。
けれど眠れずにいるのは辛くて、ついつい起こしてしまっていた。
ハーレイが寝息を立てていたって、遠慮がちに「起きているかい?」と呼び掛けて。
恋人の名前を小声で呼んでは、起きてくれないかと考えながら。
(…ハーレイ、いつでも起きてくれたよ…)
そして両腕で抱き締めてくれたり、背中をそっと撫でてくれたり。
「大丈夫ですよ」と、「私がお側におりますから」と。
時には「何か話でもしましょうか?」とも言ってくれたし、眠くなるまで付き合ってくれた。
ハーレイだって、きっと眠かったろうに。
キャプテンの仕事は多忙なのだし、夜はゆっくり休んで疲れを取りたかったのだろうに。
(だけど、いつでも、直ぐに起きてくれて…)
前の自分が眠くなるまで、ハーレイは二度と眠らなかった。
「私のことなら御心配なく」と、「あなたよりも頑丈ですからね」と。
一日や二日、眠らなくても、少しも堪えはしないのだ、とも。
(ハーレイだったら、ホントにそう…)
今と同じで丈夫だったものね、と前のハーレイを思い出す。「身体は弱くなかったっけ」と。
補聴器を使っていたというだけの、前のハーレイ。
ミュウは虚弱な者が殆どだったというのに、「虚弱」とは無縁だったキャプテン。
だからこそ皆が安心できたし、前の自分も甘えていられた。
眠れない夜は「ハーレイ?」と呼んで、「起きているかい?」と起こしてしまって。
(…うーん…)
そのハーレイがいないんだけど、とコロンと横に寝返りを打つ。
其処に恋人の姿は無くて、反対側に向いても同じ。
前の自分が眠れない時には、ハーレイはいつも側にいてくれたのに。
「ハーレイ?」と呼べば起きてくれたし、眠りに就くまで、ずっと見守ってくれたのに。
けれど恋人の姿は無いから、ますますもって眠れない。
何度寝返りを打ってみても無駄で、「ハーレイがいない」と思うから。
(…これじゃ駄目だよ…)
明日、寝不足で倒れちゃう、と心配になった学校のこと。
体育の授業は見学しておいた方がいいのだろうか、最初から?
「あまり具合が良くないから」と母に頼んで、学校に手紙を書いて貰うとか。
そうでなければ体育の時間に、自分で「今日は見学しておきます」と告げるとか。
(…見学してたら、ハーレイが通り掛かるかも…)
たまにそういう時もあるから、それなら嬉しい。
「おっ、見学か?」と声を掛けてくれて、ハーレイも暫く隣で見学してくれる時。
それだといいな、と思ったら不意に口から出た欠伸。急に襲って来た眠気。
(えっと…?)
明日の体育…、と決めない間に眠りの淵へと引き込まれる。ハーレイを思い浮かべたままで。
このまま寝たならハーレイの夢が見られるだろうか、とても優しいハーレイの夢。
前の自分が眠れない夜は、いつでも側にいてくれたから。
「ハーレイ?」と呼んだら、「起きているかい?」と小声でそっと呼び掛けたなら…。
眠れない夜は・了
※ベッドに入ったのに、眠れなくなったブルー君。右に左に寝返りを打っても、まるで駄目。
前の生ならハーレイがいてくれたのに、と思う間にやって来た眠気。きっと夢では幸せですv
(うーむ…)
今日は運動が足りなかったかもな、とハーレイが開けてみた瞼。
ブルーの家には寄れなかった日、「さて、眠るか」と入ったベッドの中で。
いつもだったら直ぐに訪れる筈の眠気が来ない。
待ってみても欠伸の一つも出なくて、もうどのくらい経ったろう?
枕元の目覚まし時計を眺めて、「十五分か…」と呟いた。
なんとも珍しい「眠れない夜」。寝付けないとも言えそうな夜。
(はてさて、こうなった原因は…)
コーヒーのせいではない筈なんだ、と好きなコーヒーを思い返してみる。
書斎で飲んだ夜の一杯、あれは普段と同じに淹れた。豆も、その後の手順なども。
(濃く淹れすぎちまったってことは…)
今夜に限って言えば「無い」。
飲んだ時にも、違和感は何も無かったから。いつもの味わい、寛ぎのひと時。
夜にコーヒーを飲むと言ったら、人によっては驚くけれど。「眠れますか?」と。
カフェインが苦手な人が飲んだら、まるで眠れなくなるらしい。
夕食の後にデミタスカップに一杯だけでも、もう眠れないというタイプの人。
(前のあいつも、コーヒーは駄目で…)
味も苦手な上、眠れなくなっていたのがブルー。遠く遥かな時の彼方で何回も。
今のブルーも同じ目に遭って、散々文句を言っていた。「昨夜は眠れなかったよ!」と。
けれど自分はそうではないし、夜のコーヒーは「いつもの一杯」。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れて、ゆっくりと傾けるのが習慣。
前の自分の記憶が戻る前から、もうずっと長く。
(俺にとっては、ごくごく普通の一杯で…)
眠れなくなることなどは無い。たまにウッカリ、濃くなっても。
「少し濃すぎたか?」と思った時でも、ベッドに入れば直ぐに眠れる。
今夜のように瞼を開けはしないで、ぐっすりと。
だからコーヒーのせいではないな、とハッキリ言える。
他に原因があるとしたなら、さっき思った運動不足。
身体が疲れていないのだったら、きっと眠気は来ないだろう。ベッドに入って目を閉じても。
(まだまだ起きていられるってわけで…)
起きていたいのかもしれない身体。今夜はまだまだ動けるから、と。
もっと本でも読んでいようと訴えているか、「軽く走りに行きたかった」と訴えるのか。
夜にジョギングする日もあるから、少し走りに行けば良かった。
今になって寝付けないのなら。直ぐに眠気が来ないのならば。
(俺としたことが…)
失敗だな、と指でコツンと叩いた額。
運動不足を今頃になって自覚するなど、なんとも間抜けな話だから。
パジャマに着替えた今となっては、もうジョギングには出られない。
なにしろ風呂にもゆったり入って、バスタブに張った湯はすっかり流してしまったから。
起きて着替えて走りに行ったら、戻った後にはシャワーだけ。
夜はゆっくり入浴するのが好きなのに。シャワーよりかは、浸かりたいバスタブ。
まったくもって失敗だった、と嘆きたい気分の運動不足。
何処かで気付けば、夜に走りに行ったのに。夕食前でも、夕食を食べた後にでも。
(……まったく……)
朝に動いていないんだよな、と直接の原因は分かっている。
いつもだったら柔道部員の生徒と一緒に走り込み。
それが済んだら皆に稽古をつける時間で、「かかってこい!」と大勢を一度に相手にもする。
朝一番には学校で運動、そういう毎日なのだけれども…。
(今朝は用事があったもんだから…)
何処かでかかるだろう招集。
職員室まで来て下さい、と同僚の誰かが呼びにやって来て。
行くならきちんとした格好で出掛けたいから、今朝は脱がずにいたスーツ。
それでは運動出来はしないし、走り込みだって出来るわけがない。
ただ腕組みをして立っていただけ、皆に号令を飛ばしただけ。「しっかりやれよ!」と。
アレのせいだな、と浮かべた苦笑。「朝の運動が足りなかった」と。
朝から身体を動かしていたら、運動不足に陥りはしない。
(とはいえ、他にも何か原因はあるんだろうが…)
思い付かんな、と考えてみても分からない。
今日という日を思い返して、順にあれこれ数えてみても。
起きた所から頭に浮かべて、ベッドに入るまでの時間をズラリと並べてみても。
(まさか、あいつに会えなかったくらいで…)
眠れなくなりはしないよな、と思う小さなブルー。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
学校では姿を見られたのだし、「会えなかった」とは言わないだろう。
家を訪ねてゆけなかっただけで、二人きりで会えはしなかっただけ。
(二人きりどころか、まるで会えずに終わる日だって…)
たまにあるから、それが原因ではなさそうな感じ。
きっと自分でも気付かない何処か、ほんの小さな何かが原因。
運動不足で疲れていない身体にとっては、「起きていられる」と思わせる何か。
(特に嬉しいことも無かった筈だがなあ…)
遠足前の子供じゃあるまいし、と挙げてみる例。はしゃぎすぎたら眠れない子供。
今日は普通の一日だったし、明日もこれという予定は無い。
心が躍って眠れないのではないらしい。「楽しかった」とか、「楽しみだ」と。
(その逆ってヤツもあるわけだが…)
何か気にかかることがあるなら、人は眠れなくなったりもする。
心配事とか、気乗りしない何かをやらねばならない時だとか。
(そっちの方も、まるで無くてだ…)
いったい何が悪いんだか、と考えるほどに分からない。全く思い付かない原因。
直接の理由になっているだろう、運動不足を除いては。
心地よい眠りが訪れるほどには、動かさなかった身体のせいではあるけれど…。
(何が原因なんだかな?)
まるで分らん、とベッドの中で指を折る。あれか、それともこれだったか、と。
そうして指を折ってみたって、出てこない答え。
眠れなくなるような原因は無くて、ただただ「運動不足」とだけ。
(…まあ、いいが…)
その内に眠くなるだろうさ、と結論付けた。
身体が眠くならないのならば、暫く放っておけばいい。ベッドの上に転がして。
それでも眠気が訪れないなら、起き出して本を読むのもいい。
(寝酒なんぞをしなくても…)
今日の俺なら眠くなるさ、と分かっている。心配事など抱えていないし、仕事も順調。
こういう時には、眠気が来るまで待つだけでいい、と。
(何か悲しいことでもあったら、酒を飲みたい気分にもなるが…)
生憎と今日はそうじゃない、と思った所で掠めた思い。「前は何度もあったんだ」と。
今と同じに眠れない夜、それを幾つも過ごしたと。
時の彼方で、キャプテン・ハーレイと呼ばれた自分。前の自分が生きていた頃。
(…あいつと二人だった時には…)
眠れない夜など、まるで無かった。
ブルーが眠りに落ちてゆくのを見守りながら、前の自分も同じに眠った。明日に備えて。
白いシャングリラを導くソルジャー、その船の舵を握るキャプテン。
誰にも言えない秘密の恋でも、夜には一緒だったから。同じベッドで眠ったから。
(なのに、あいつが長い眠りに就いちまって…)
十五年間もブルーは目覚めないままで、とても気にかかったブルーの命。
眠ったまま逝ってしまうのでは、と。
深い眠りに就いた身体は、いつどうなるかも知れないから。
今日は静かに眠っていたって、明日になったら二度と目覚めない眠りになるかもしれない。
眠ったまま死の国に行ってしまって、身体だけがベッドに残される時。
その日が来たなら、ブルーを追ってゆくけれど…。
(あいつの葬儀を済ませない内は…)
放棄できないキャプテンの任務。
愛おしい人を失った後も、冷静でなければいけないキャプテン。皆を指揮して。
その日が怖くて、何度も眠れない夜を過ごした。
「まさか」と自分の考えを打ち消し、「いつかブルーは目覚めるから」と。
眠ったままで逝きはしないと、きっと目覚めてくれる筈だと。
(そして実際、起きてくれたんだが…)
ブルーの目覚めは死へのカウントダウンで、前の自分は気付かなかった。その真実に。
二人きりで会える時間も無いまま、ブルーはメギドへ飛んでしまって…。
(俺は一人で残されちまって…)
追ってもゆけずに、眠れない夜を幾つ過ごしたことだろう。
いつになったら地球に着けるかと、ブルーを追ってゆけるのかと。
どうして今も生きているのかと、愛おしい人はもういないのに、と。
(…あれに比べりゃ、今の俺なんか…)
ただの運動不足ってだけで、とクシャリと掻き混ぜた短い金髪。
「どうってこともありやしない」と、「ブルーは帰って来てくれたしな?」と。
きっと明日にも会えるだろうから、眠れないならブルーを想おう。
その内に眠くなる筈だから。
小さなブルーも今頃はきっと、ベッドで眠っているだろうから…。
眠れない夜に・了
※眠れなくなったハーレイ先生。原因は多分、運動不足。ジョギングでもすれば良かった、と。
そして思い出した前の生での「眠れない夜」。それに比べれば、今は遥かに幸せですv