(今日のハーレイ、傑作だったよね)
一本取られちゃっていたよ、とクスクス笑う小さなブルー。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は学校で会っただけのハーレイ、家には来てくれなかったけれど…。
(だけど古典の授業があったし…)
ハーレイの姿をたっぷり見られて、大好きな声も沢山聞けた。
そんな授業の真っ最中に起こった事件が、笑いの原因。
(思い出しただけで、可笑しくなっちゃう…)
まさか、あんなことになるなんて、と今も可笑しくてたまらない。
クスクス笑いが零れるほどに。
部屋に一人でも、笑い転げたくなるくらいに。
(ハーレイの雑談、みんな大好きなんだけど…)
生徒の集中力が途切れないよう、絶妙のタイミングで繰り出される、それ。
今日の話題は、遠い昔の日本の習慣で…。
(どうして、そういうことをしたのか、分かるか、って…)
ハーレイが皆に投げた質問。「分からないだろうな?」という風に。
もちろん自分もピンと来なくて、「何故だろう?」と首を傾げたけれど。
サッと手を挙げた、クラスのムードメーカーの男子。「はいっ!」と元気一杯に。
そして指されもしない内から、彼が口にした回答は…。
(そういうことか、って思っちゃうほど…)
とても見事な正解のよう。…正解なのだ、と自分も信じた。疑いもせずに。
(だってホントに、正解みたいで…)
なるほど、と頷かされた回答。
確かにそういう答えだろうと、「手を挙げるだけのことはあるよね?」と。
ところが、違っていた正解。
ハーレイは可笑しそうに笑って、こう言った。
「お前たち、みんな間違ってるぞ」と、「こいつに騙されるんじゃない」と。
間違いだったらしい回答。とても正しく聞こえたのに。
(ハーレイ、正解を話したけれど…)
そちらの方は、今の時代にそぐわないもの。
「本当なの?」と首を捻ったくらいに、まるで想像がつかない世界。
(今の時代に生きてる人と、うんと昔の日本の人だと…)
考え方も違うだろうし、「正解はこうだ」と言われたならば、それが正しい答えだろう。
どうにも納得できなくても。
さっきの男子が言った答えが、正解のように聞こえても。
(そうなんだろう、って思ったんだけど…)
話は其処で終わらなかった。
あまりにも見事に聞こえた回答、間違っていた方の男子の答え。
そっちを支持したい生徒が多くて、男子の一人が投げた質問。
「何処に証拠があるんですか?」と、「歴史や古典が、全部正しいとは限りませんが」と。
「先生は、それを見て来たんですか?」とも、やったものだから、吹き出したハーレイ。
「それを言われると、敵わんな」と。
歴史も古典も、残っている記録だけが全てで、けれど正しいとは限らない。
古典だったら脚色されたり、後の時代に加筆されたり、色々と変わる。
舞台になった時代の風俗や習慣、そういったものを無視したりして。
(歴史の方だと、もっと酷くて…)
その時代に生きた、主役が歴史を作り出す。
自分に都合のいいことを書かせ、時には自分で書いたりもして。
都合の悪い記録があったら、悉く処分させたりもして。
(そうやって記録が残っていくから…)
後の時代の人間が見ても、本当のことは分からない。
歴史に残った記録の通りに、様々なことが起きたのか。
「反逆者」などと書かれた人々、彼らは真に「反逆者」の立場だったのか。
客観的な記録が何処からかヒョッコリ出ない限りは、分からないままの「本当のこと」。
権力とは無縁の人が記した日記があるとか、そんな幸運でも無い限り。
ハーレイも認めた、「証拠が無い」こと。
「間違いなくそうだ」と言い切れるだけの、確かな根拠は無いということ。
だから「間違いではないな」と笑ったハーレイ。
「珍回答でも、そう考えると、頭から否定は出来ないぞ」と。
それを聞くなり、ワッと湧いたのがクラスの生徒。
プロの教師のハーレイの説より、生徒の方が出した珍説、それに軍配が上がったから。
「そっちの方が正しそうだ」と皆が騙された、「誤った答え」が許されたから。
(いつもだったら、みんな感心して聞くだけなのに…)
ハーレイが持ち出す様々な雑談、それが蘊蓄だった時には。
「本当ですか?」と尋ねはしたって、「そういうものか」と誰もが頷く。
けれど流れが違っていた今日、先に珍説に騙されたから。
(正解だよね、って思い込んじゃって…)
自分も、クラスの他の生徒も、疑いさえもしなかった。
「はいっ!」と名乗りを上げた生徒が、自信満々で出した答えが「正しい」と。
間違いだとは思いもしないで、「そうなんだ…」と素直に信じて。
なのに「騙されてるぞ」と聞かされたわけで、皆がビックリしていた所へ…。
(何処に証拠があるんですか、って…)
尋ねた猛者が現れたから、まるで変わってしまった流れ。
ハーレイが間違っているかのように。
珍回答を述べた生徒が、本当の答えを言ったかのように。
(…ハーレイも、笑うしかなくて…)
降参するように認めた正解、実の所は「珍回答」。
「間違いだがな?」と苦笑しつつも、「それでいいか」と出たお許し。
お蔭でクラス中が笑って、珍回答を出した生徒は英雄扱い。
珍回答でも、「間違っている」という証拠は何処にも無いのだから。
ハーレイはそれを出せはしなくて、歴史に残った記録の方も…。
(正しいとは限らないものね?)
そのせいで皆が笑って笑って、ハーレイも笑い続けていた。「やられたな」と可笑しそうに。
(ホントに可笑しすぎたってば…)
今日の事件は、と思い出すだけで可笑しくなる。
「ハーレイが一本取られるなんて」と、「ぼくも騙されちゃったけどね」と。
珍回答が正解なのだと、自分も思い込んだから。
ハーレイが「騙されてるぞ?」と正解を告げても、直ぐには信じられなかったほど。
(嘘じゃないの、って…)
自分でさえも思ったわけだし、他の生徒は尚更だろう。
みんな「今」しか生きていなくて、「他の時代」を生きてはいない。
(見て来た時代は、みんな今だけ…)
時代によって変わる価値観、そんなものなど実感しようとしても出来ない。
どう頑張っても、「今」の時代の人間だから。
今の時代を基準にしてしか、思考を組み立てられないから。
(想像するしか出来ないわけで…)
その想像さえ、「今」という枠から離れられない。
育った時代と生きている「今」、それが「自分」を作るのだから。
けれど、そうではない自分。
今の時代を生きる自分と、「前の自分」がいる自分。
(SD体制の時代だったら…)
ちゃんとこの目で見て来たんだよ、と言い切れる。
誰にも「そうだ」と言えはしなくても、前世を明かせはしなくても。
前の自分はソルジャー・ブルーで、遠く遥かな時の彼方で生きていた。
白いシャングリラで、ミュウの箱舟で。
前のハーレイと共に暮らして、三百年以上も「ソルジャー」だった。
(そんなぼくでも、今の時代だと…)
考え方はすっかり今風。
前の自分なら、今日の事件のような時には…。
(本当なのかな、って…)
きっと疑ってかかっただろうに、疑わなかった今の自分。珍回答を信じてしまって。
そう考えると、ハーレイが笑い続けた理由もよく分かる。
歴史や古典が全て正しいとは、ハーレイだって考えもしない。
自分と同じに、「違う時代」を知っているから。
機械が治めたSD体制の時代、其処で「異分子」として追われ続けたミュウの一人だから。
(前のぼくたちが生きた頃には、歴史は機械と人類のもので…)
ミュウは「人間」でさえもなかった。
端から殺され、処分されたし、存在さえも抹殺された。…歴史の表舞台から。
アルタミラが星ごと砕かれた惨劇、それは人類の世界では「アルタミラ事変」という扱い。
赤いナスカが滅ぼされた時も、「演習で崩壊した」と発表したのだという。
ミュウの存在には触れもしないで、あくまでも隠し通そうとして。
(そうやって隠し続けていたって…)
ミュウは進化の必然となって、表舞台に現れた。
時代はミュウのものへと変わって、歴史はきちんと書き換えられて…。
(前のぼくたち、異分子から英雄になっちゃった…)
おまけに今の自分となったらチビの子供で、「珍回答」を信じる有様。
ソルジャー・ブルーだった頃なら、頭から信じはしなかったろうに。
ああいう質問が投げられた時は、様々な考えを巡らせたりして。
(ぼくまで騙されちゃっていたから、ハーレイ、余計に笑うんだってば…)
その上、うんと平和な時代。
キャプテン・ハーレイだった頃なら、あんまり笑い転げていたら…。
(キャプテンの威厳が台無しになるし、船の航行にも差し支えるし…)
ブリッジの皆が笑っていたって、直ぐに切り替えさせただろう。
「しっかりしろ!」と檄を飛ばして、「仕事に戻れ!」と号令して。
(だけど今だと、可笑しい時には、珍回答も…)
許してしまって、ハーレイも笑い続けていられる。
「授業に戻るぞ」と言いもしないで、生徒と一緒に笑い転げて。授業は放り出してしまって。
そういうのも今だからだよね、と思うと零れてしまう笑み。
「可笑しい時には、今は好きなだけ笑えるんだよ」と、「今日はホントに可笑しかった」と…。
可笑しい時には・了
※ハーレイ先生の授業で起こった事件。正解よりも、珍回答の方が正しいという扱いに。
そうやって笑い転げられるのも、今ならでは。可笑しい時には、好きなだけ笑える時代ですv
(うーむ…)
この時間でも笑っちまうな、とハーレイが零してしまった笑い。
平日の夜に、いつもの書斎で。
愛用のマグカップに淹れたコーヒー、それを片手に。
(なんだって、ああいう愉快な答えになるんだか…)
全く予想もつかなかったぞ、と考えるのはブルーのことではなくて。
(真面目に答えたつもりなんだか、冗談なんだか…)
あの顔からして、本人は真面目だったのだろう、と思う生徒の一人。
ブルーのクラスのムードメーカー、何かと言えば「はいっ!」と名乗り出る男子。
彼が答えた「珍回答」。
授業の途中の雑談の時間、「こいつが分かるか?」と訊いた途端に。
質問したのは、遠い昔の地球の習慣。日本と呼ばれていた島国の。
「どうして、こういうことをしたのか、お前たちには分からんだろう」と言ったのに…。
(自信満々で手を挙げやがって…)
「よし」と名前を呼ぶよりも前に、飛んで来たのが「的外れな答え」。
けれど、理屈は通っていた。
今の時代の考え方なら、そうなるであろう「習慣」の理由。
(あまりに見事に、今の時代に似合いだったから…)
クラスの全員が、「なるほど」と納得したらしい。
「そういうことか」と、「今も昔も、人間は変わらないんだな」と。
(ブルーも感心した顔で…)
答えた生徒を眺めていたから、「あいつまでが」と、こみ上げた笑い。
今のブルーは優等生だし、深く考えそうなのに。
上っ面だけで「そうか」と思わず、「本当かな?」と疑いそうなのに。
見事に勘違いしたクラスの全員、それに原因を作った男子。
「こういう時もあるんだな」と可笑しかったから、もう盛大に吹き出した。
「お前たち、全員、間違ってるぞ」と、「こいつに騙されるんじゃない」と。
珍回答は訂正せねば、と「正しい答え」を述べたのに。
「今の時代じゃ、そういうことにもなるんだろうが…」と時代背景も説明したのに。
(断然、そっちの方がいいです、と…)
支持されたのが珍回答。
「証拠は何処にあるんですか」と訊く猛者までが現れた。
珍回答を寄越した男子ではなくて、他の男子生徒。
「先生は、それを見て来たわけではないですよね?」というのが彼の言い分。
「記録が全てじゃないと思いますが」と、「歴史も古典も、真実だとは限りません」と。
(ああいう風に言われちまうと…)
頭から否定できないもの。
彼も「間違ってはいない」から。
今の時代まで残された記録、それが「正しい」とは誰にも言えない。
(人間が文字を持たない頃なら、口伝で残していたんだし…)
文字を持つようになった後でも、歴史を記録したのは「勝者」。
時代の主役が書き残させたり、自ら書いたり。
(自分に都合のいいように書いて、そうでない記録は消したりもして…)
残ったものは「勝者の歴史」で、「勝者の言い分」。
実際の所はどうだったのかは、後の人間には分からない。
何処からか「真実」を記した文章、それがヒョッコリ出ない限りは。
時の権力者とは無縁の誰かが、淡々と記した日記だとか。
(古典の世界も、似たようなモンで…)
脚色されたり、時代の好みで加筆されたり、訂正されたり。
だから突っ込み所は山ほど、「この時代にコレは有り得ないぞ」などと。
古典の本を読んでいたって、注釈が山とついているもの。
(時代的には誤りなんだが、これで定着しているから、と…)
良しとされている風俗や習慣、作品の舞台になった時代に「それ」が無くても。
研究者たちが読み込んだならば、「間違いだな」と思うことでも、そのまま残る。
さも真実のような顔をして、紛れ込んで。…その時代に「それ」があったかのように。
(だから、反論できなくてだな…)
「それでもいいか」と浮かべた苦笑。
「本当の答えはコレになるんだが、正しいとは限らんようだしな?」と。
ワッと湧いたのがブルーのクラスで、珍回答が正解扱い。
「おいおい、こっちが本当だぞ?」と話してみたって、「こっちがいいです!」と。
なにしろ雑談の時間のことだし、生徒も「楽しい」方がいい。
「歴史ではこうなっていたって、本当のことは違うんだ」などと笑うのが。
ワイワイ騒いで、珍回答をした生徒を祭り上げるのが。
(それで、あいつが英雄で…)
識者ってことになっちまったぞ、と今も笑わずにはいられない。
プロの教師の自分を尻目に、珍説を述べて勝利した「勇者」。
クラスの生徒の支持を集めて、笑いの渦を巻き起こしながら。
(俺まで一緒に笑っちまって…)
こんな時間に思い出しても、やはり同じに可笑しくなる。
「なんて答えだ」と、「あいつに一本取られたな」と。
ついでに、横から「証拠は何処にあるんですか?」と質問した生徒にも。
(…そうさ、確かに間違ってなんかいないんだ…)
珍回答の方はともかく、と自分だからこそ頷ける。
「歴史も古典も、それが正しいとは限りません」という言い分に。
「先生は、それを見て来たんですか?」と、勝ち誇った顔で言われたことに。
(…見て来たヤツにしか分からんことは…)
本当にある、と今の自分は知っている。
今は本当に平和な時代で、今日の授業でも皆と笑っていたけれど。
ブルーも笑い転げたけれども、それが出来るのは今だから。
(可笑しい時は、いくらでも笑って笑い続けて…)
授業が脱線したままになっても、誰も困りはしない時代。
後で取り返せばいいだけのことで、今日は大いに笑い続けた。
いつもの雑談よりも長めに、「いい加減にしろよ?」と、笑いを懸命に噛み殺しながら。
けれども、そうではなかった時代。
前の自分が生きた時代は、いくら可笑しくても、そういつまでも…。
(笑ってなんかはいられなくて…)
「しっかりしろ!」と檄を飛ばしたもの。
ブリッジが笑いに包まれていたら、誰もが笑い転げていたら。
(少しくらいなら、それもいいんだが…)
笑いも一つの気分転換、緊張をほぐすには丁度いい。
今の自分が授業の途中に挟む雑談、それで生徒の集中力を取り戻そうとするのと同じで。
ただ、シャングリラと教室は違う。
教室だったら、皆が笑って笑い続けたまま、時間が経ってもいいけれど…。
(俺まで笑い続けていたって、何の問題も無いわけなんだが…)
シャングリラの方は、そうはいかない。
ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、皆の命を預かる船。
ブリッジは船の中心なのだし、笑いながらの航行などは言語道断。
常に真剣勝負の航路で、遊覧飛行やドライブとはわけが違うのだから。
(これじゃいかん、と俺が叱って…)
直ぐに終わってしまった笑い。
どんなに可笑しいことが起きても、愉快なことが起こっても。
今の時代に白いシャングリラが飛んでいたなら、船中が笑いに包まれそうな時だって。
(…だから、あいつは間違っちゃいない…)
勝者の歴史が刻まれた時代を、前の自分は生きたから。
「ミュウは抹殺すべき異分子」、そう決められて追われた時代。
機械がそういう風に定めて、人類軍や保安部隊を繰り出して。
(ミュウは進化の必然だったというのにな?)
機械がそれを認めないから、人類は夢にも思わなかった。
「ミュウも人間なのだ」とは。
そして端から殺し続けて、勝者の歴史を綴り続けた。
アルタミラの惨劇は「アルタミラ事変」、ナスカの悲劇も「演習」だなどと。
(あの時代の記録は、今も残っているんだが…)
ミュウの時代がやって来たから、「勝者の歴史」は訂正された。
アルタミラ事変は「アルタミラの惨劇」、赤いナスカが崩壊したのも「人類軍の攻撃」だと。
今の自分は、歴史がそうして書き換えられる所は、この目で見損なったのだけれど…。
(本当のことを、ちゃんと現場で見て来たからな?)
前の俺がな、と自信を持って言えること。
「俺はキャプテン・ハーレイだった」とは、誰にも明かしていなくても。
明かす予定など全く無くても、「歴史」というものの「からくり」は分かる。
「歴史も古典も、それが真実とは限らない」と。
「見て来たヤツにしか分からないんだ」と、「だから、あいつも間違っちゃいない」と。
(…珍回答は、流石にな…)
間違いなんだが、と思ってはいても、可笑しかったから否定はしない。
可笑しい時は笑い続けていてもいいのが、今の平和な時代だから。
ブルーもコロコロ笑っていたから、今日の所は良しとしておこう。
(やっぱり人間、可笑しい時は…)
好きなだけ笑っていられる時代が最高だしな、とコーヒーのカップを傾ける。
「笑える時代がいいじゃないか」と、「前の俺だと、そうそう笑えなかったんだから」と…。
可笑しい時は・了
※ハーレイ先生の授業で起こった、ちょっとした事件。珍回答が人気で、笑いの渦。
可笑しい時には笑える時代で、今だからこそ。キャプテン・ハーレイには無理ですものねv
(またハーレイに叱られちゃった…)
ケチなんだから、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日はハーレイが訪ねて来てくれて、二人きりで過ごせたのだけど。
とても幸せな時間だったけれど、その最中に叱られた。
「ぼくにキスして」と強請ったら。
恋人同士が交わす唇へのキス、それが欲しくて頼んだら。
「俺は子供にキスはしない」と睨んだハーレイ。鳶色の瞳に宿った、厳しい光。
指先で額を弾かれもした。軽くだけれども、あの指でピンと。
(ハーレイのケチ…)
いつも叱ってばかりじゃない、と悔しい気持ちで一杯になる。
昼間の出来事を思い出したら、叱られた時の気分が胸に蘇ったら。
(ぼくはハーレイの恋人なのに…)
ずっと昔から恋人なのに、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。
前の自分が暮らしていた船、前のハーレイと生きていた船に。
白い鯨を思わせるようなミュウの箱舟、「シャングリラ」の名で呼ばれた船。
あの船で共に生きた頃には、叱られたりはしなかった。
ハーレイにキスを強請っても。…「ぼくにキスを」と、誘っても。
(…あの頃のぼくは、チビじゃないけど…)
もっと育った姿だったけれど、今の自分は、その生まれ変わり。
ちょっぴりチビになったというだけ、青い地球の上に新しく生まれてくる時に。
十四歳にしかならないけれども、前の自分の記憶はきちんと引き継いでいる。
どれほどハーレイを愛していたのか、別れがどんなに辛かったかも。
(離れてしまって、また会えたのに…)
二人で地球に生まれ変わって、巡り会うことが出来たのに。
ハーレイはチビの自分を子供扱い、キスの一つもしてくれない。
「キスは駄目だと言ったよな?」と叱るばかりで、睨み付けるだけで。
それが不満でたまらないから、今日もプンスカ怒ってやった。
「ハーレイのケチ!」と頬を膨らませて、唇だって尖らせて。
もうプンプンと怒っているのに、ハーレイときたら、詫びるどころか…。
(ぼくの頬っぺた、両手で潰して…)
大きな両手でペシャンと見事に潰してくれて、こう言った。
「ハコフグだな」と。
頬っぺたをプウッと膨らませたら、ハーレイの目には「フグ」に映るらしい。
その頬っぺたを潰したならば、今度はフグから「ハコフグ」になる。
尖った唇が特徴的な姿のハコフグ。
それに例えて笑う恋人、「フグがハコフグになっちまった」と。
「キスは駄目だ」と叱った挙句に、顔まで好きにするのがハーレイ。
子供だからと馬鹿にして。
前の自分が相手だったなら、そんなことなどしないだろうに。
(いつも叱られてばかりなんだよ…)
ぼくがチビだから、と悲しい気分。
前の自分と同じ姿をしていたのならば、きっと叱られはしないのに。
「ぼくにキスして」と頼まなくても、唇へのキスは貰い放題。
(…キスのその先のことだって…)
出来る筈だし、デートにも行ける。ハーレイの車で、ドライブにだって。
そしてハーレイは叱りはしないで、甘やかしてくれることだろう。
「あれも食うか?」と美味しそうな何かを指差してみたり、頼まない内から買ってくれたり。
デートの誘いも、きっと幾つも。
二人で過ごす時間が終わって、家まで送って来てくれたなら…。
(次のデートの約束で…)
ハーレイは笑顔を見せるのだろう。
「約束だぞ?」と、「また迎えに来てやるからな」と。
もちろんキスもしてくれる。
次に会えるまで忘れないように、寂しい思いをしないようにと。
自分が大きく育っていたならば、そう。
叱られはしないで、甘やかされて、我儘だって言いたい放題。
子供みたいに駄々をこねても、ハーレイは嬉しそうな顔をするのだろう。
「よし、分かった」と、断らないで、どんな我儘でも聞き入れてくれて。
「ホントに子供みたいだよな」と言いはしたって、今みたいに叱ったりはしないで。
(…今のぼくが言ったら、叱られるのに…)
ちゃんと育った姿だったら、同じことでも叱られない。
「ぼくにキスして」と甘えたならば、幾らでも貰えるだろうキス。
今の自分は「駄目だ」と叱られてしまうのに。
「俺は子供にキスはしない」と、睨まれて、叱られておしまいなのに。
(ぼくが育った姿だったら…)
けしてハーレイは叱りはしない。
キスを強請っても、「デートに行きたい」と欲張りな駄々をこねたって。
急に何処かへ出掛けたくなって、「車で行こうよ」と言い出したって。
(帰るの、遅くなりそうな場所でも…)
ハーレイならきっと、「疲れないか?」と心配はしても、「駄目だ」と言いはしないだろう。
疲れるくらいに遠い場所なら、その分、余計に…。
(普段のデートより、うんと気配り…)
早め、早めに休憩するとか、「寝てていいぞ?」と言ってくれるとか。
助手席の自分が眠っていたなら、ハーレイは一人で運転なのに。話し相手は寝ているから。
それでも少しも気にはしないで、甘やかしてくれるのだろうハーレイ。
目的地までに何度も起こして、「ほら、降りろよ?」と。
「此処で少しだけ休んで行こう」と、「何か食いたいものでもあるか?」と。
まるで壊れ物みたいな扱い、とても過保護になりそうな恋人。
「疲れてないか?」と何回も訊いて、「もう少ししたら着くからな」などと。
疲れてしまうほどの所へ「行きたい」と強請った、我儘な恋人を気遣って。
「そんな所まで連れて行けるか」と言いはしないで、それは優しく。
「駄目だ」と叱って断る代わりに、「お安い御用だ」と引き受けてくれて。
(…絶対、そっちの方だよね…)
ぼくが大きく育っていたら、と零れる溜息。
チビの自分なら叱られることも、育った姿の自分だったら許される。
キスはもちろん、我儘だって。
小さな子供が駄々をこねるように、「デートに連れて行ってってば!」と注文しても。
(…やってることは、同じなんだと思うんだけど…)
キスを強請るのも、「デートに行きたい」と頼むのも。
どちらも今の自分がやったら、叱られてしまっておしまいだけど。
「俺は子供にキスはしない」と睨まれるだとか、「デートは駄目だ」と断られるとか。
その辺りを散歩したいと言っても、ハーレイは断ってくれたから。
(…そいつは立派にデートだよな、って…)
家の近所の散歩でさえも、断られるのがチビの自分。
夏休みの間に公園でやっていた朝の体操だったら、「行くか?」と誘われたのだけど。
(…ぼくには無理、って知ってるから…)
誘って来たのか、体力作りをさせるつもりだったか。
デートなら駄目で、「朝の体操」に行くのだったら出るお許し。
もう本当に子供扱い、姿がチビなだけなのに。
十四歳にしかならない子供の姿は、きっと外見だけなのに。
(ぼくの中身は、前とおんなじ…)
前の自分の記憶もあるから、少しも変わっていないと思う。
キャプテン・ハーレイと恋をしていたソルジャー・ブルーで、中身はそのまま。
(ホントに外見だけだってば…)
チビなのは、と言ってみたって、ハーレイは聞く耳を持ってくれない。
「そいつが子供の証拠だよな」と、「お前はチビだ」と。
そして、そのように扱われる。
「キスは駄目だ」と叱られるよりかは、優しいキスが欲しいのに。
抱き締めて貰って、唇にキスが欲しいのに。
また巡り会えた恋人同士で、前の自分たちの恋の続きを二人で生きているのだから。
そうは思っても、何度強請っても、ハーレイはまるで変わりはしない。
いつも「駄目だ」と叱ってばかりで、甘い顔などしてくれない。
(叱った後には、ぼくの頬っぺた…)
潰してしまって「ハコフグ」にもする。
褐色をした大きな両手で、ペシャンと潰されてしまう頬っぺた。
(…ハーレイ、意地悪なんだから…)
ケチで意地悪、と唇を尖らせたくもなる。
もしもハーレイが此処にいたなら、「おっ、フグか?」と言いそうだけれど。
「またハコフグになりたいのか?」などと、意地悪な言葉も遠慮なく。
(…ホントのホントに、酷いってば…)
あんな風に叱られてばかりだなんて、あんまりだから。
チビの姿をしていなかったら、ハーレイは甘い筈なのだから。
(ぼくにキスして、って言わなくてもキスで…)
デートにだって誘って貰えて、我儘だって幾らでも聞いて貰える。
「あそこに行きたい」と頼みさえすれば、何処にだって連れて行って貰えて。
(…叱られるよりかは、甘やかされる方…)
おんなじことを言っていたって、絶対、そっち、と見当がつく。
自分が育っていたならば。
チビの子供の姿の代わりに、前の自分と同じ姿をしていたならば。
(…ハーレイのケチ…)
ぼくの中身は同じだってば、と膨れてみたって、まるで無駄。
ハーレイはいつも言うのだから。「お前は、まだまだ子供だしな?」と。
「俺は子供にキスはしない」と、「何度言ったら分かるんだ?」と。
(……ホントに、ぼくの中身はおんなじ……)
叱られるよりかは、甘やかされる方がいいんだけれど、と悲しい気持ち。
今の姿では、それは叶わないことだから。
どんなに強請って駄々をこねても、ハーレイは子供扱いだから。
それが悔しくて、今日も頬っぺたを膨らませる。「ホントにケチだ」と、夜に一人で…。
叱られるよりかは・了
※「キスは駄目だ」と、叱られてしまったブルー君。けれど育った姿だったら違う筈。
甘やかして貰えそうな感じですけど、生憎と今は子供の姿。膨れっ面が似合う姿ですv
(…またまた叱っちまったな…)
全部あいつが悪いんだがな、とハーレイがフウと零した溜息。
ブルーの家へと出掛けた日の夜、いつもの書斎でコーヒー片手に。
今日も叱ってしまったブルー。
「ぼくにキスして」と強請って来たから、額を指で軽く弾いてやって。
赤い瞳をじっと睨んで、「俺は子供にキスはしない」と。
「何度言ったら分かるんだ」と叱ったわけで、悪いのはブルー。
自分は何処も悪くはなくて、我儘なブルーが悪いだけ。
(そういう決まりになってるんだぞ)
ずっと前からそうなんだ、と小さなブルーを思い浮かべる。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
確かにブルーなのだけれども、小さくなったその姿。
十四歳にしかならない今のブルーは、何処から見たって立派に子供。
チビでしかなくて、自分が教える学校に通っている生徒。それも一番下の学年。
(あんな子供にキスが出来るか!)
キスは額と頬だけなんだ、と決めてある。
子供向けのキスはそういうものだし、ブルーも幾つも貰っている筈。
両親や、親戚の誰かなどから。遠くに住んでいるという祖父母、その人たちからも。
(前のあいつと、同じ背丈に育つまでは、だ…)
キスを贈るなら頬と額だけ、唇へのキスは贈らない。
そう決めて何度も叱っているのに、一向に懲りないのがブルー。
何かと言えば「ぼくにキスして」だの、「キスしてもいいよ?」だのと恋人気取り。
実際、恋人には違いなくても…。
(チビのあいつと、前のあいつじゃ…)
扱い方も変わるってもんだ、とコーヒーのカップを傾ける。
「それにしても、また叱っちまった」と、「たまには褒めてやりたいんだがな?」と。
「キスは駄目だ」と叱られる度に、ブルーはプウッと膨れてしまう。
まるでフグみたいに頬を膨らませて、桜色の唇を尖らせて。
(ああいう顔も可愛いんだが…)
今ではすっかり慣れてしまった、膨れっ面。
小さなブルーは怒るけれども、からかってやるのも楽しみの一つ。
膨らんだ頬を両手で潰して、「ハコフグだな」と笑い飛ばしたりして。
「フグがハコフグになっちまった」と、「本当によく似ているよな」などと。
今日も潰してしまった頬っぺた。
あんまりプンプン膨れているから、頭を擡げた悪戯心。
それでペシャンと潰した頬っぺた、ブルーはすっかりおかんむり。
もっとも、いつまでも膨れたままではないけれど。
「酷いよ、ハーレイ!」と怒った後には、機嫌を直して元の笑顔に戻るのだけれど。
キスを強請られた時のお決まりのコースが、小さなブルーを「叱る」こと。
何度叱ったのか、何度ブルーが膨れっ面で怒ったのかは、とても数えていられない。
(そうやって、あいつを叱ってばかりで…)
褒めた覚えが無いんだよな、と考えたから零れた溜息。
小さなブルーは「叱る」相手で、「褒める」相手ではないようだから。
いくら記憶を探ってみたって、思い出すのは膨れっ面ばかり。
それとブルーを叱る自分と、そんな記憶が文字通りに…。
(山のようにあって、山積みで…)
今日だって叱っちまったんだ、と頭に蘇る膨れっ面。チビのブルーの。
「ハーレイのケチ!」と怒って膨れて、挙句の果てに「ハコフグ」だった。
ハコフグにしたのは自分だけれども、そうなる前の膨れっ面も…。
(俺が叱ったからでだな…)
叱らなかったら、見られはしない膨れっ面。
小さなブルーは怒りはしないし、ニコニコと笑顔だろうから。
ご機嫌でお菓子を頬張っているか、紅茶のカップを傾けているか。
ブルーの部屋で二人きりだと、本当に機嫌がいいものだから。…叱らなければ。
もちろん、ブルーが悲しげな顔をする時もある。
前の生での思い出話が切っ掛けだったり、理由は色々。
けれど基本は御機嫌なブルー、家を訪ねて行ったなら。
ブルーの部屋へと案内されて、窓辺のテーブルで向かい合わせに座ったら。
(俺の膝の上にチョコンと座ってる時も…)
小さなブルーは上機嫌だし、けして見せない膨れっ面。
「キスは駄目だ」と叱られるまでは、「ハーレイのケチ!」と機嫌を損ねるまでは。
(…今日も叱ったから、膨れちまって…)
フグでハコフグ、と微笑ましくても、少し心に引っ掛かること。
「たまには褒めてやりたいもんだ」と、「叱った記憶ばかりじゃないか」と。
同じブルーを相手にするなら、叱るよりかは褒めてやりたい。
その方がブルーも嬉しいだろうし、機嫌を損ねてしまいもしない。
(褒めてやったら、大喜びで…)
年相応の笑顔が弾けることだろう。
それは得意そうに、誇らしそうに。
「ハーレイが、ぼくを褒めてくれた」と、「ぼくだって、やれば出来るんだから」と。
褒められて喜ぶブルーの姿を見たいし、自分も褒めたい。
「キスは駄目だ」と叱っているより、「よくやったな」と、色々なことで。
「流石は俺のブルーだよな」と、「チビでも、お前は実に立派だ」と。
そう思うけれど、本当に殆ど無い覚え。
小さなブルーを「褒めた」こと。
(…褒めたようなこと、何かあったか?)
今のあいつを…、と記憶の中を探ってみたって、出て来ない。
褒めていないことは無い筈だけれど、何度も褒めたのだろうけれども。
(…学校だったら…)
他の生徒と同じに褒めてやってはいる。
ブルーがスラスラ答えた時やら、音読を見事にこなした時や。
そちらの方なら覚えは沢山、最近だけでも何度褒めたか分からないけれど…。
(…学校以外で、今のあいつを褒めた覚えが…)
まるで無いぞ、と思うくらいに、記憶にあるのは「ブルーを叱る」自分の姿。
「キスは駄目だ」と叱って睨んで、額をピンと弾いたり。
時には頭をコツンと小突いて、「何度言ったら分かるんだ?」とも。
叱ってブルーが膨れた時には、頬を潰して遊びもする。
「ハコフグだよな」と眺めて笑って、もうプンプンと怒るブルーをからかって。
今日も同じに叱ってしまって、両手で潰したブルーの頬っぺた。
(…俺は叱るの専門なのか?)
あいつを叱ってばかりじゃないか、と懸命に記憶を探ってみる。
学校以外でブルーを褒めた覚えは無いかと、「まるで無い筈がないんだが」と。
なにしろブルーは恋人なのだし、誰よりも愛おしい大切な人。
(前の俺は、あいつを失くしちまって…)
悲しみと孤独の中で生きたし、ブルーの値打ちは分かっている。
どんなに大事で、今のブルーが「生きている」ことが、どれほど素晴らしいことなのか。
まさに奇跡と言うべきもので、どれほどの価値があることなのか。
(…なのにだな…)
俺は叱ってばかりなんだ、と小さなブルーの膨れっ面を思い出す。
今日もブルーは「ハーレイのケチ!」と怒って膨れて、その後はハコフグ。
頬っぺたをペシャンと押し潰されて、唇だけを尖らせて。
(あいつがキスを強請らなかったら…)
俺も叱りはしないんだがな、と思ってはみても、懲りないブルー。
いくら叱っても、何度頬っぺたを両手で潰してからかってみても、ブルーは懲りない。
「俺は子供にキスはしない」と繰り返すのに。
そう決めた言葉を覆す気など、まるで持ってはいないのに。
(あいつ、本当に子供だからな…)
分かっちゃいない、と思う約束のこと。
どうして自分がキスをしないのか、「キスは駄目だ」と叱るのか。
考えがあってのことだというのに、今のブルーは子供だから。
なんとも困った、と溜息しか出ないブルーの我儘。
「駄目だ」と言ってもキスを強請って、少しも懲りない小さなブルー。
(あいつを褒めた覚えが無いほど…)
俺は叱ってばかりじゃないか、と残念な気分。
褒めてやったら、きっとブルーは喜ぶだろうに。
自分の方でも素敵な気分で、「流石は俺のブルーだよな」と言えるのに。
(叱るよりかは、褒めてやりたいと思うんだがなあ…)
なんだって、ああなっちまうんだ、と今日の光景が蘇る。
今日でなくても、いつも自分は叱ってばかりで、小さなブルーは膨れっ面。
(あいつがチビの子供の間は…)
褒める種など無いのだろうか、と思うくらいに、「叱った」記憶しか無い自分。
それでもブルーが愛おしいから、「仕方ないな」と浮かべた苦笑。
(褒めてやりたくても、あいつがだな…)
悪いんだから、と愛おしい人を心に描いて。
「叱るよりかは褒めてやりたいのに、お前、悪さしかしないからな?」と…。
叱るよりかは・了
※ブルー君を褒めた覚えが無いらしいのが、ハーレイ先生。咄嗟には何も出て来ないほど。
今日も叱ったわけですけれども、たまには褒めてあげたい気分。無理そうですけどねv
(ハーレイの家、近ければいいのにね…)
近所だったら良かったのに、と小さなブルーが思ったこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は平日、学校で授業を受けて来た日。
けれどハーレイが訪ねて来てくれて、夕食までの時間を二人で過ごした。
この部屋で色々な話をして。
休日のようにはいかないけれども、充実の時間。
母が「夕食をどうぞ」と呼びに来るまでは。
部屋の扉を軽くノックし、支度が出来たと知らせるまでは。
夕食は両親も一緒に摂るから、二人きりとはいかないけれど。
食後のお茶も、今日は両親も一緒だったし、この部屋では飲めなかったのだけれど。
(でも、ハーレイが来てくれたから…)
来てくれない日よりは、ずっといい。
食後のお茶を飲んだ後には、「またな」と帰ってしまっても。
ガレージに停めてあった車に乗り込み、軽く手を振って走り去っても。
(近いけど、ぼくには遠すぎるんだよ…)
ハーレイが帰って行った家。
前のハーレイのマントと同じ濃い緑色の車、その車のためのガレージがある家。
何ブロックも離れているから、窓から見たって屋根さえ見えない。
「ハーレイの家は、あっちの方」と眺めてみても。
間に幾つも家があるから、家の庭にある木々たちも何本も挟まるから。
(ハーレイには近いらしいけど…)
この家と、ハーレイの家との間。
晴れた週末には歩いて来るのがハーレイなのだし、実際、とても近いのだろう。
柔道と水泳で鍛えた身体にとっては、大した距離ではないという。
此処まで歩いて来る途中には、回り道までしているハーレイ。
「ちょっと早いな」と思った時には、道を外れて。
その日の気分で遠回りをして、顔馴染みになった猫に会いに行ったり。
ジョギングも趣味にしているハーレイ、もっと長い距離でも平気で走る。
歩くどころか、普通の人なら直ぐに疲れるような速さで。
ジョギング中のハーレイを見たことは無いけれど…。
(柔道部の生徒たちと一緒に、朝の走り込み…)
それをするのを何度も見たから、かなり速いと想像がつく。
グラウンドを何周も走ってゆくのに、ハーレイはとても速いから。
「遅いぞ!」と柔道部員たちを叱って、軽々と走ってゆくのだから。
あの足だったら、この家までの距離も短いことだろう。
ジョギングのコースに、此処を入れてはいないだけのことで。
(元から、こっちに走って来てたら別だけど…)
そうではなかった、お決まりのコース。
此処は普通の住宅街だし、近所の人しか走ってはいない。
それも何処かへ走って行く時と、其処から帰って来た時と。
(…広い公園の方まで走りに行くとか、もっと遠くの方まで行くとか…)
目標地点も、選ぶコースも、走る人次第。
けれど普通は住宅街の中を選びはしなくて、あまり見かけないジョギング中の人。
この家の庭や、窓からは。
前の通りを歩いていたって、走ってゆく人は顔馴染み。
(みんな、近所の人ばかりだし…)
ハーレイにしても、同じこと。
一度だけ遊びに行ったあの家、あそこを拠点に走り始める。
住宅街の中を走って、其処から表通りなどに出て。
(帰る時には、その逆になって…)
行った先から走って戻って、また入ってくる住宅街。
違うコースを通るにしたって、何処かで家への道と重なる。
その道沿いに住んでいたなら、走るハーレイに出会えるのだろう。
朝なら「おはようございます!」と。
昼間だったら「こんにちは!」で、夕方だったら何と言うのだろう…?
ハーレイの家が近かったならば、この家の近所だったなら。
家の前の道が、ジョギングコースになっていた可能性はある。
何処かへ向かって走ってゆく時、住宅街を抜ける間に通るコースに。
(そしたら、早起きするのにな…)
今よりもずっと、それこそ暗い内からでも。
ハーレイが通りそうな時間に、表の庭にいられるのなら。
(寝ぼけた顔とか、パジャマだと…)
とても外には出られないから、身支度を整えるための時間も、充分に取れる時間に早起き。
それから庭に出て行って待つ。
「ハーレイ、通ってくれないかな?」と。
一度、そうして見付けて貰えば、次からは通ってくれそうな感じ。
他のコースを取りはしないで、この家の前を通るコースを。
(もう起きたのか、って…)
声だって掛けて貰えるだろう。
「元気そうだな」とか、「睡眠時間、ちゃんと取ってるか?」だとか。
走りながらか、ほんの少し足を止めてくれるか、その辺りはよく分からないけれど。
(止まっちゃったら駄目なのかな…?)
走るペースが乱れてしまうし、止まらない方がいいのかもしれない。
それならばきっと、走りながら手を振ってくれるのだろう。
「走ってくるぞ」と、「帰ってくるまで待っていなくていいからな」と。
言われなくても、待たないけれど。
走るコースは色々なのだし、帰って来る時間は分からない。
それでも、きっと何回か…。
(朝御飯の後で、時計を眺めて…)
そろそろかな、と思った時間に庭に出たりもするのだろう。
運良くハーレイが戻って来たなら、「おかえりなさい!」と手を振りたいから。
長い距離をジョギングして来た後にも、疲れ知らずだろうハーレイ。
そのハーレイが走って来るのを、待ってみたい気もするものだから。
近所だったら出来るのにね、と思う見送り、それに出迎え。
家の前の道が、ハーレイのジョギングコースだったなら。
(だけど、ハーレイの家は遠くて…)
走ってくれない、家の前の道。
ハーレイがいつも走ってゆくのは、ハーレイの家から近い場所にある家の前だけ。
その家の一つに住んでいたなら、どんなに素敵だったろう。
ジョギングに出掛けるハーレイに手を振り、出迎えだって出来たなら。
(それに、家から近かったら…)
自分にとっても、ハーレイの家の辺りは通り道になる。
学校の行き帰りには通らないとしても、母に頼まれてお使いに行く時だとか。
(ちょっと散歩、って歩く所にあるだとか…)
そういう所に家があるなら、ハーレイも「通るな」とは言わない。
ハーレイの家に遊びに行くのは、今は「駄目だ」と禁止になっているけれど…。
(ぼくの通り道で、前を通って行くだけなら…)
きっと「駄目だ」とは言われない。「俺の家の前を通るな」とも。
中に入りさえしないのだったら、家の前は「ただの道」だから。
人も車も通る道路で、公共の道という所。
(歩いてる時に、ハーレイが庭に出ていたら…)
声を掛けても叱られはしない。
むしろ黙って通り過ぎる方が変で、失礼というものだから。
(…「ハーレイ先生」じゃなくてもいいよね…?)
学校ではなくて、家の近所でのこと。
親しげに話し掛けたとしたって、敬語は抜きでの会話だって。
顔馴染みのご近所さんたちだったら、そんな風にも話すから。
お孫さんがいるような年の人にでも、「その花の名前、なんて言うの?」という風に。
だからハーレイが「ご近所さん」なら、要らない敬語。
「ハーレイ先生」と呼ばなくても良くて、ただの「ハーレイ」。
歩いている時に見掛けたら。生垣の向こうで、ハーレイが何かしていたなら。
(声を掛けたら、来てくれるしね?)
庭仕事などの手を止めて。
「散歩中か?」だとか、「お使いに行く途中か?」とか。
そして始まる立ち話。
生垣を間に挟んでいたって、二人とも立ったままだって。
そうやって楽しく話していたなら、もっといいこともあるかもしれない。
(さっき作ったから、食べてみるか、って…)
ハーレイが家の中に入って、持って来てくれる試食用の何か。
お菓子を作っている日もあるらしいから、クッキーとか、ケーキの端っこだとか。
(ハーレイの手料理、持って来てなんかくれないけれど…)
「お母さんに気を遣わせちまう」と、何も持っては来ないのだけれど。
近所に住んでいて、たまたま通り掛かった自分だったなら…。
(きっと味見させて貰えるんだよ)
家の中には入れないから、生垣越しとか、門扉の前で。
楊枝に刺して持ってくるのか、小さなお皿に乗っけて「ほら」と差し出されるか。
ほんの一口、それで終わりな試食用。
けれどハーレイが作った何かで、お菓子や、時によっては美味しい料理。
(美味しいね、って味見させて貰って…)
感想を話して、リクエストだって出来そうな感じ。
「今度はこんなのが食べたいな」と、「次に通った時は、ちょうだい」と。
ハーレイは苦笑しそうだけれども、約束してくれるかもしれない。
「お前の運が良かったらな」と、「次はそういうのも作ってみよう」と。
「その日に上手く通り掛かれよ」と、日付は言ってくれないで。
(…ぼくの運次第で、それを作った日に通らなかったら…)
食べることなど出来ないけれども、それも楽しい。
「今度はあれが食べられるかも」と、胸を躍らせて歩くのは。
ハーレイが住んでいる家の前の通りを、お使いや散歩で通るのは。
なんて素敵な毎日だろう、と広がる夢。
ハーレイの家から近かったならば、あの家が近所だったなら。
(だけど、ハーレイの足なら近いってだけで…)
自分の足では、とても歩いて行けない距離。何ブロックも離れた場所。
神様はなんて意地悪だろう、と溜息を零したりもする。
近所だったら幸せなのに、ハーレイの家は遠いから。
今日もやっぱり見送っただけで、ハーレイの家の前を散歩は出来ないから…。
近所だったなら・了
※ハーレイ先生の家が近所だったなら、と思うブルー君。出会えるチャンスは沢山ありそう。
手作りのお菓子や料理も食べられるかも、と夢は大きいですけれど…。近所じゃなくて残念v
