(あいつの声か…)
ずいぶん変わっちまったもんだ、とハーレイがふと思ったこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
今日は学校でしか会っていないブルー。
休み時間に「ハーレイ先生!」と声を掛けられて、ほんの少しの立ち話。
恋人同士の会話などは無理で、他の生徒と話すのと何処も変わらないけれど。
(それでも、あいつは嬉しそうな顔で…)
自分の方も、同じに嬉しい。
ブルーの顔を見られるだけで、その声を聞いていられるだけで。
なんと言っても、遠い昔からの恋人同士。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
(学校じゃ、教師と教え子なんだが…)
そうして二人でいられることさえ、夢のような話なのだから。
遠く遥かな時の彼方で、メギドへと飛んでしまったブルー。
二度と戻らないと分かっていたのに、見送るしかなかったブルーの背中。
(なのに、あいつは戻って来たし…)
自分も同じに生まれ変わって、前の自分たちの恋の続きを生きている。
もっとも、何かと制約が多いのだけれど。
十四歳にしかならない恋人、すっかり子供になったのがブルー。
とてもキスなど交わせはしないし、二人一緒に暮らすことも無理。
(当分は待つしかないってわけで…)
ブルーが育って、前の自分が見送った時と同じ姿を手に入れるまで。
結婚できる年になるまで、待って、見守って、ブルーの家を訪ねてやって…。
まだまだ続くだろう日々。ブルーをこの家に迎えられるまでの待ち時間。
(なんたって、声もああだから…)
前のあいつとは違うんだよな、と耳に蘇るブルーの声。
「ハーレイ先生!」と呼び止められた時の、廊下で立ち話をしていた時の。
今のブルーは、前のブルーと違ってチビ。
背丈はもちろん、顔立ちだって少年のそれで、幼さが残るブルーの面差し。
(学年でも一番のチビらしいしな?)
女子を除けば、一番小さいのがブルー。
そんなわけだから、声だってそれに見合ったもの。
前のブルーが「ハーレイ?」と呼んだ、あの柔らかくて甘い声。
それをブルーは持ってはいない。…少年の姿の、今のブルーは。
(いわゆるボーイソプラノってヤツで…)
きっと歌わせたら、天使の歌声。そういう感じ。
音楽の授業中のブルーを、覗いたことは無いけれど…。
(そりゃあ綺麗で、透き通るような声で歌っているんだろうなあ…)
恥ずかしがらずに歌ったら。他の生徒と一緒に合唱していたら。
独唱となれば、ブルーは尻込みしそうだけれど。
(いい声なんだし、俺が音楽の担当だったら、指名するがな?)
ソロのパートがある曲だったら、「ブルー君」と。
「是非、この部分を歌って欲しい」と、「一度、歌ってみたらどうだ?」と。
そうやってブルーを指名したなら、慌てそうなのが今のブルー。
「そんなの無理です!」と悲鳴を上げるか、真っ赤になって俯くのか。
引っ込み思案ではないのだけれども、目立つのは苦手そうだから。
皆で合唱している途中に、一人だけ高らかに歌い上げるのは…。
(…今のあいつの性分じゃないぞ)
どうしても、と割り振られたなら、引き受けはしても、そうでなければ断るタイプ。
恥ずかしくて歌えそうにないから、詰まってしまいそうだから。
(はてさて、実際、どうなんだか…)
ブルーと二人で過ごす時間に、学校の話題は滅多に出ない。
出たとしたって、自分が受け持つ古典の話か、柔道部の活動に関することか。
音楽の授業の報告などは聞いていないし、知らない実態。
ブルーがソロで歌っているのか、ひたすらに逃げて断っているか。
(ソロで歌っちゃいなくても…)
音楽の時間には、きっとあるだろうテストの時間。
一人ずつ前に出て歌うだとか、「自分の席でもかまわないから」と指示されて…。
(あいつも歌っている筈だよな?)
優等生らしく、つかえもしないで歌い上げるか、途中で声が消えるのか。
今のブルーなら、どちらもありそうな可能性。
目立ちたがりたいタイプではないし、注目を浴びるのも好きではなさそうだから。
(…前のあいつも、そうだったがな…)
ソルジャー・ブルーと呼ばれた頃。
船の仲間たちに「ソルジャー」と仰がれ、白と銀の上着に紫のマント。
気高く美しかったブルーは、あの船でとても目立ったけれど。
何処へ行っても、何をしていても、周りの視線を惹き付けたけれど…。
(あいつにとっては、不本意なことで…)
他の仲間たちと同じ生活、それに憧れていたブルー。
白と銀の上着を脱いでしまって、紫のマントも外せたら、と。
黒が基調のアンダーウェアなら、仲間たちの制服とさほど変わりはしないから。
(ブリッジクルーの印の模様も…)
袖に入っていないわけだし、もう本当に「普通の制服」。
そんな具合に「皆と同じで」いたかったブルー、あれほどの美貌だったのに。
その整った顔立ちだけでも、並ぶ者などいなかったのに。
(声だって、顔に似合ってて…)
やはり誰もが聞き惚れる声で、ソルジャーとしての威厳もあった。
たった一言、「行こう」と言うだけで、皆が納得したほどに。
長い年月、隠れ住んでいた雲海の星を、ワープして後にしたほどに。
(前のあいつも、いい声を持ってたんだよなあ…)
今でも耳に残る声。
ふとしたはずみに、「ハーレイ?」と心に蘇る声。
あの声が懐かしくなる夜もある。今は聞けない、ブルーは持たない声だから。
チビのブルーが迎えてはいない声変わり。
今は立派なボーイソプラノ、きっと歌ったなら透き通るよう。
「ハーレイ?」と甘えた声を出す時も、もう本当に愛らしい。
子供の間だけしか持てない、今のブルーのボーイソプラノ。
(…前のあいつも、持ってた筈だが…)
同じ声だった筈なんだがな、と記憶を辿れば、ちゃんと覚えてはいるのだけれど。
燃えるアルタミラを脱出した後、ブルーはそういう声だったけれど…。
(いつの間に、変わっちまったんだか…)
残念なことに、覚えていない声変わりの時期。
前のブルーの高かった声が、いつの間に低くなったのか。
甘く柔らかな声に変わったか、生憎と記憶に残ってはいない。
そうなる前には、きっと前兆もあっただろうに。
(声が出にくくなっちまうとか、掠れちまうとか…)
声変わりの時期は、そうしたもの。
今の自分にも経験があるし、友人たちも通った道。
「風邪かな?」などと言いながら。「音楽の授業、困りそうだぞ」などとも言って。
いつかブルーの声もそうなる。
前の自分の記憶に無いから、どのくらいまで育った時に起こるかは分からないけれど。
けれど、必ずその時は来る。
今のブルーのボーイソプラノ、それが失われてしまう時。
(なんだか残念な気もするな…)
消える日が来ると思ったら。
前のブルーと同じ姿になる日を待ってはいても、あの声が消えると思ったら。
(子供らしい声で、チビの証拠で…)
どう比べても、前のブルーとは違う声。…ソルジャー・ブルーだった頃とは。
前のブルーと同じに育つ日、それを心待ちにしている自分。
待ち時間は長いと思ったけれども、待っている間に消えてしまうブルーのボーイソプラノ。
声変わりをして、前のブルーと同じ声へと変化して。
(うーむ…)
ちょいと残念になるじゃないか、と思った声。
前のブルーが持っていた声、甘く柔らかく「ハーレイ?」と呼んでくれた声。
(俺は、あの声が好きだったんだが…)
今でも思い出せるんだが、と耳に鮮やかに蘇るけれど、今のブルーの声も愛しい。
子供らしくて高いあの声、ボーイソプラノを持ったブルーも…。
(俺をしっかり捕まえちまった…)
愛らしい声で、「ハーレイ?」と呼んで。
何度もチビのブルーと話して、すっかり囚われの自分。今のブルーが持っている声に。
(前のあいつの声も好きだが…)
まだ暫くは聞いていたいな、と思うブルーのボーイソプラノ。
「前のあいつの声も好きだが」と、「好きな声だが、あれは一生モノだしな?」と。
いつかブルーが育った時には、もう変わらない甘い声。今の声から変化を遂げて。
そして一生そのままなのだし、貴重なのが今のボーイソプラノ。
今しか聞けない声なんだぞ、と思うと、まだまだ聞き続けたい。
待ち時間が少し長くなろうと、ブルーが少しも育たなくても。
前のブルーの声の方なら、一生、聞いていられるから。
声変わり前のブルーのボーイソプラノ、それはいつかは消えるのだから…。
好きな声だが・了
※ハーレイが好きな、前のブルーが持っていた声。甘くて柔らかな声だった、と。
けれど今のブルーのボーイソプラノ、そちらも貴重。聞き続けたいとも思いますよねv
(ハーレイのケチ…)
ホントのホントにケチなんだから、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は休日、午前中からハーレイが訪ねて来てくれた。
この部屋で二人、お茶とお菓子をお供に話して、昼食も。
「夕食の支度が出来たわよ」と母が来るまで、たっぷりとあった二人きりの時間。
母が部屋には来ない時間も、今では把握しているから…。
(ぼくにキスして、って…)
ハーレイの膝に座って頼んだ。
「おでこや頬っぺたは駄目だからね」と、恋人同士の唇へのキスを。
けれども、くれなかったハーレイ。
「俺は子供にキスはしない」と、お決まりの台詞。
眉間の皺まで少し深くなって、こちらを睨んでくるものだから…。
叫んでやった「ハーレイのケチ!」。
これは自分のお決まりの台詞、ハーレイにキスを断られた時にぶつける言葉。
もうプンプンと怒って膨れて、唇だって尖らせてやる。
あまりにもケチな酷い恋人、いつも断られる「本物のキス」。
遠く遥かな時の彼方で、何度もキスを交わしたのに。
恋人同士で長く暮らした白い船。
キスを交わして、愛を交わして、本当に幸せだったのに。
(それなのに、ケチになっちゃって…!)
酷いんだから、と思い出すだけで腹が立つから、またまたプウッと膨らませた頬。
此処にはいない恋人に向けて、「ハーレイのケチ!」と。
この時間ならば、きっとコーヒーを飲んでいるだろう。
昼間に叱ったチビの恋人、此処で膨れている自分。
その存在などすっかり忘れて、気に入りだと聞く夜のコーヒーブレイク。
休日なのだし、豆から挽いてみたりもして。
ぼくのことなんか忘れているよ、と思うと余計に膨らむ頬っぺた。
唇だって尖ってくるし、ハーレイが此処にいたならば…。
(昼間みたいに、ぼくの頬っぺた…)
両側からペシャンと潰すのだろう、褐色をした大きな手で。
前の自分にキスをくれる時は、同じ手が優しく頬を包んでくれたのに。
(頬っぺたの扱い方まで違うよ)
愛おしむように触れてくれたのが、前のハーレイの武骨な手。
その手は今も変わらないのに、潰されてしまう自分の頬っぺた。
挙句にプッと吹き出すハーレイ、「フグがハコフグになっちまったぞ」と。
頬っぺたを膨らませた時は「フグ」だし、その頬っぺたを潰された後は「ハコフグ」になる。
なんとも酷い渾名をつけて、クックッと笑い続ける恋人。
フグはともかく、ハコフグの方は、ハーレイがやったことなのに。
大きな両手で頬っぺたを潰してしまわなかったら、そんな顔にはならないのに。
(もう、本当に酷すぎるってば…)
それにケチだ、と嘆くしかないハーレイのこと。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
出会えた時には、どれほど嬉しかっただろう。
「ハーレイなんだ」と、「また会えたんだ」と、薄れゆく意識の中で思った。
聖痕からの酷い痛みと出血、それでも胸に溢れた喜び。
二度と会えないと思った人に、また会えたから。
絆は切れてしまったのだと、前の自分は泣きながら死んでいったのに。
(…ただいま、ハーレイ、って…)
見舞いに来てくれたハーレイに此処で告げた時には、また始まると信じた恋。
「帰って来たよ」と微笑んで、二人、抱き合った時は。
母がこの部屋を出ている間に、束の間の逢瀬を果たした時は。
(前のぼくたちの、恋の続きを…)
生きてゆける、と頭から信じて疑わなかった。
何もかもが元に戻ったのだと、またハーレイに会えたのだから、と。
そう思ったのに、こうして一人で膨れっ面。
「ハーレイのケチ!」とプンスカ怒っている自分。
前の自分の恋の続きは、まるで意のままにならないもの。
(ハーレイとキスも出来ないなんて…)
いったい誰が思うだろうか、気が遠くなるほどの時を飛び越えて出会った恋人同士なのに。
今だって好きでたまらないのに、キスの一つも交わせはしない。
ハーレイはケチになったから。
どんなにキスを強請ってみたって、「俺は子供にキスはしない」の一点張り。
「キスしてもいいよ?」と誘惑したって、いつもハーレイは笑うだけ。
そうでなければ叱られる。「子供は子供らしくしていろ」と。
今の自分はチビだから。
十四歳にしかならない子供で、前の自分と同じ姿を持たないから。
(だけど、そんなの、見た目だけだよ…)
ぼくの中身は前とおんなじ、と思うけれども、それに自信が無いのも事実。
前の自分は、膨れっ面などしなかったから。
今と同じにチビの頃にも、きちんと自分を律していた。
船の仲間たちに、要らぬ心配をさせぬよう。…皆の負担にならないよう。
(チビでも、頑張らなくちゃ、って…)
脱出したばかりの船の片付けに励みもしたし、食料だって奪いに出掛けた。
元から船にあった食料、それが尽きると分かった時に。
前のハーレイから聞かされて知って、「そんなの嫌だ」と思った時に。
食料が尽きてしまうのだったら、後は飢え死にするしかない。
しかも、ハーレイたちは優しい。ゼルもブラウも、ヒルマンたちも。
(…最後の食事は、ぼくに譲って…)
きっと自分たちは食べもしないで、「いいから、食べろ」と言いそうな感じ。
そうしたら皆は死んでしまって、チビの自分が最後に飢える。
もはや誰一人生きていない船で、一人きりで飢えて死ぬしかない。
それは嫌だ、と懸命に奪って来た食料。…今と同じにチビだったのに。
前の自分と比べてみたなら、今の自分は「ただのチビ」。
両親に守られて育つ子供で、なんの不自由もしていない。
暖かい家も、自分だけの部屋も、何もかも揃った幸せな子供。
(…前のぼくとは、環境ってヤツが違うから…)
我儘にだってなっちゃうよね、と自分に言い訳したくなる。
膨れっ面をしてしまうのも当然だよねと、「そんな風に育ったんだから」と。
おまけに正真正銘の子供、前の自分のように成長を止めてはいない。
生まれた時から十四年しか経っていないのだし、檻に閉じ込められてもいない。
人体実験をされる代わりに、優しい両親が育ててくれた。
熱を出したら「大変!」と面倒を見てくれる母と、「病院に行こう」と車を出す父。
甘やかされて育った自分は、前の自分と違って当然。
(ハーレイだって、前と違うじゃない…!)
隣町に住む、今のハーレイの父と母。
釣りの名人だと聞いている父と、夏ミカンの実のマーマレード作りが得意な母と。
そういう両親がハーレイを育てて、今もハーレイを見守っている。
ハーレイはこの町で一人暮らしをしているけれども、隣町の家に行ったら「大きな子供」。
(自分だって、子供扱いのくせに…)
どうして、ぼくだけチビって言うの、とプンプンと怒りたくもなる。
見た目は確かにチビだけれども、中身はちゃんと前の自分。
ちょっぴり自信が持てない部分は、今の自分の環境のせい。
(ぼくはぼくだし、ハーレイのことも思い出したし…)
前の自分の恋の続きを、生きられたって良さそうなのに。
抱き締めて貰ってキスを交わして、とても幸せな二人きりの時間。
両親と一緒に住んでいるから、愛を交わすのは難しそうだけれども。
(…ママがいきなり来ちゃったら…)
キスの方なら、サッと離れておしまいだけれど、そうはいかない「愛を交わしていた時」。
ベッドの中に二人でいたなら、もう言い訳は出来ないから。
二人とも服を着ていなかったら、絶望的な状況だから。
(そっちは駄目だ、って分かってるけど…)
キスくらいなら平気なのに、と胸一杯に膨らむ不満。
「ぼくにキスして」と強請る度に「駄目だ」と断られては、叱られる。
今日みたいに頬っぺたを潰されもするし、なんともケチになったハーレイ。
(なんでキスしてくれないの?)
前のぼくたちの恋の続きはどうなってるの、と責めたいけれど。
ハーレイに文句を言いたいけれども、それで喧嘩になったなら…。
(…もう来てやらん、って言われちゃうとか…)
今のハーレイなら言いかねないから、本気で喧嘩はとても出来ない。
「当分、俺は来ないからな」と言い放ったなら、ハーレイはきっと実行する。
学校で会ったら「元気そうだな」と笑顔を見せても、家には訪ねて来てくれないで。
(ホントにやりかねないんだから…)
それは困る、と売らない喧嘩。せいぜい頬っぺたを膨らませるだけ。
ハコフグにされてしまった時にも、プンスカ怒りはするけれど…。
(…ハーレイが怒って、来なくなったら悲しいもの…)
キスが貰えないだけの今より、もっと悲惨になる毎日。
いくら待っても、ハーレイが来てくれなかったら。
門扉の脇のチャイムは鳴らずに、どんどん月日が経っていったら。
それは嫌だし、ハーレイに会えない毎日だなんて、考えただけでも悲しくて辛い。
頬っぺたをペシャンと潰されるよりも、「ハコフグだよな」と笑われるよりも。
(…どっちもホントに許せちゃうよね…)
ハーレイが来てくれるからこそ、潰されてしまう両の頬っぺた。
「ハコフグだな」と笑う姿も、ハーレイが来てくれなかったら見られない。
それを思うと許せちゃうよね、と許すしかないケチな恋人。
前の自分の恋の続きは、ハーレイ無しでは無理だから。
キスも貰えない日々が続いても、恋が壊れてしまうよりかは、ずっと幸せでマシなのだから…。
許せちゃうよね・了
※「ハーレイのケチ!」と頬を膨らませるブルー君。夜になっても、昼間のことを思い出して。
けれど怒っても、許してしまう「ケチなハーレイ」。ハーレイ無しでは辛いですものねv
(ハーレイのケチ、なあ…)
俺はケチではないんだがな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
ブルーの家へと出掛けて来た日に、夜の書斎でコーヒー片手に。
今日は休日、午前中からブルーと過ごした。
お茶とお菓子や、二人きりでの昼食や。
ブルーの部屋だから、両親の目は届かない。母がやってくる時を除けば。
そういう時には甘えるブルー。
膝の上にチョコンと座りたがったり、抱き付いてみたり。
(そのくらいなら、可愛いんだが…)
どんどんエスカレートするのがブルーで、やがて言い出す困った言葉。
「ぼくにキスして」と、「おでこや頬っぺたは駄目だからね!」と。
唇へのキスが欲しいのがブルー、恋人同士が交わすキスなら、そうだから。
遠く遥かな時の彼方で、前のブルーとは何度もキスしたものだから。
(しかしだな…)
今は全く事情が違う。
相手は同じブルーでも。前の自分の記憶そのまま、そういうブルーなのだけど。
(あいつ、忘れちゃいない筈だが…?)
前のブルーが、今の姿をしていた時期を。
成人検査を受けた日のまま、心も身体もまるで育っていなかった頃を。
燃えるアルタミラで出会った時には、今と同じにチビだったブルー。
(てっきり子供なんだと思って…)
何かと面倒を見てやったもの。自分よりも遥かに幼かったから。
年上なのだと分かった後にも、やはり中身は「本当にチビ」だったものだから…。
(俺たちが育ててやらないと、と俺もブラウやエラたちも…)
せっせとブルーに話し掛けたり、船の中を散歩に連れ出したり。
そうやってブルーを育てていた時期、それが今のブルーが持っている姿。
十四歳にしかならない子供で、心も同じに見た目通りのチビのブルーが。
前の自分は、ブルーに恋をしたけれど。
恋人同士のキスを交わして、愛も交わしていたけれど…。
(今のああいうチビじゃなくって…)
育った姿だったからな、と断言できる。
前のブルーが大きく育って、その成長を止めた後。
若々しい姿だったけれども、強いサイオンを保つためには丁度いい器だったのだろう。
チビの姿を卒業したのは、脱出してから何年経った頃だったか。
けれど、ブルーが美しい姿に育った後にも、前の自分は恋してはいない。
もちろん、ブルーの方だって。
(俺の一番古い友達で、船で一番の親友で…)
互いにそうだと思っていたから、親しく行き来していた部屋。
ブルーがソルジャーを名乗るようになって、前の自分の言葉遣いは変わったけれど。
「ソルジャーには敬語で話すように」と、皆に徹底させたのがエラ。
だから敬語に切り替えた。
ヒルマンやゼルや、ブラウ辺りは「それまで通りに」ブルーと話していたけれど。
敬語など使いはしなかったけれど、前の自分の立場はキャプテン。
船の仲間たちの手本でもあるし、ソルジャーと話すなら、必ず敬語で。
(二人きりの時にも、きちんとしないと…)
それがけじめだ、と貫いた敬語。
初めの内こそ寂しがったブルーも、その内に慣れてしまっていた。
「ハーレイの言葉遣いは、こう」と。
それでも壊れなかった友情。
敬語で話すのが常になっても、ブルーを「ソルジャー」と呼び始めても。
(もっとも、二人きりの時には…)
前と同じに「ブルー」と呼んでいたけれど。
ただし、あくまでブルーは「友達」。
ブルーにとっても、前の自分は一番の友達、そういう関係。
恋などは無くて、友情だけ。互いを誰よりも大切に思っていたというだけ。
それが恋だと気付くまでには、気が遠くなるほどかかった時間。
元はコンスティテューション号だった船、名前だけが「シャングリラ」だった船。
人類の船を失敬しただけで、武装さえもしてはいなかった船。
(あれを改造することになって…)
長い時間をかけて準備し、白いシャングリラを造り上げた。
新造船とも呼べるくらいに、何もかもが姿を変えた船。白い鯨を思わせた船。
(前のあいつの部屋も出来たし…)
とんでもなく大きかった部屋。
ブルーのサイオンは水と相性がいいのだから、と巨大な貯水槽まで備えた青の間。
其処でブルーが暮らし始めても、やはり恋人ではなかった自分。
(俺がブルーの恋人だったら、もういそいそと…)
夜ごと通って、青の間に泊まっていたことだろう。
キャプテンの部屋も立派になったし、ブルーが泊まりに来ることだって。
けれども、そうではなかった二人。
互いの部屋を行き来したって、話す間に遅い時間になったって…。
(あいつが「おやすみ」と帰っちまうか、俺が「失礼します」と帰るか…)
そんな具合で、友達同士。
やっと恋だと気付いた頃には、かなりの時が経っていた。
つまりは本当に「遅咲き」の恋で、それを思うと今のブルーは…。
(遅咲きどころか、早咲きにも程があるってな)
あの姿の頃は文字通りに子供だったんだぞ、と前の自分が知っている。
育った後にも「友達」だったと、「恋人になるまでに、何年かかった?」と。
(あいつも覚えている筈なんだが…)
そういう過程を全部すっ飛ばして、「ぼくにキスして」と強請るのがブルー。
「俺は子供にキスはしない」と叱ってみたって、懲りさえしない。
そして膨れて、「ハーレイのケチ!」と、ケチ呼ばわり。
「恋人なのにキスもくれない」と、「ハーレイはケチになっちゃった」と。
もうプンプンと怒って膨れてしまう恋人。…今日も言われた「ハーレイのケチ!」。
いくらブルーが膨れてみたって、そうなることが子供の証拠。
前のブルーは膨れっ面などしてはいないし、プンプン怒りもしなかった。
(そりゃ、怒ることもあったんだが…)
どちらかと言えば拗ねた方だ、と今の自分も忘れてはいない。
前のブルーは大人だったし、頬っぺたを膨らませて怒るよりかは、拗ねてしまって…。
(話し掛けても返事が無いとか、そっぽを向いているだとか…)
もっと大人びた「怒り方」。
そういう「育った」ブルーだったから、恋に落ちたらキスを交わした。
今のブルーには贈りはしない、唇へのキス。
それに相応しいブルーにだったら、今だってキスを贈るだろう。
ブルーに「ケチ!」と言わせはしないで、腕の中に強く抱き込んで。
(なのに、あいつは分かっちゃいなくて…)
ケチ呼ばわりだ、と些か不本意ではある。
ブルーのためを思っているのに、まるで通じていないから。
心も身体も幼いブルーは、恋人同士のキスをするには早すぎる。
頬と額へのキスが似合いで、まだまだ幼いチビの恋人。
(唇にキスをしようものなら、固まっちまうと思うんだがな…?)
こんな気味悪いキスは知らない、と震え上がって、泣きそうになって。
そうならないよう、「キスはしない」と言っているのに、通じないブルー。
(駄目だと言ったら、ケチだと怒って膨れるんだから…)
堪忍袋の緒が切れるとは思わないのか、とフウと溜息。
並みの恋人なら、喧嘩別れになりそうな「ケチ!」と、膨れっ面と。
「其処まで言うなら、好きにしろ」と、椅子を蹴るように立ち上がってもいいくらい。
「二度と此処には来てやらん!」と怒鳴って怒って、足音も荒く出て行ったって。
無理ばかりを言う恋人なのだし、こちらの心も分かってくれずに「ケチ」呼ばわり。
いつでもプンスカ怒るのはブルー、悪口を言ってくるのもブルー。
「ハーレイのケチ!」と何度言われたか、膨れっ面を何度見たことか。
「キスは駄目だ」と睨み付ける度に、断る度に。
今日もやっぱり膨れたブルー。
「ハーレイのケチ!」と怒って膨れていたものだから…。
(そういう時には、俺だって…)
少しばかりは仕返ししたくもなるもんだ、と潰してやったブルーの頬っぺた。
フグみたいに見事に膨れているのを、大きな両手で包んでペシャンと。
そして笑った、「ハコフグだな」と。
「フグがハコフグになっちまったぞ」と、尖った唇を眺めながら。
それをやるとブルーは「酷い!」と叫んで、「ぼくはハーレイの恋人なのに」と文句たらたら。
機嫌が元に戻るまでには、暫くかかるのだけれど…。
(それでも許せちまうんだ…)
膨れっ面になったブルーも、ケチ呼ばわりも。
頬っぺたを潰された後の文句も、何もかも全て。
(なんたって、あいつがいてくれるだけで…)
俺は幸せ者なんだから、と自然と笑みが浮かんでくる。
「何を言われても許せちまうな」と、「俺としては不本意なことだって」と。
ブルーと二人で過ごせる時間を、また持てるとは夢にも思いはしなかったから。
前の自分が失くしたブルーが、生きて戻って来てくれたから。
だから許せる、「ケチ」と言われても。
ブルーが怒って膨れっ面でも、愛おしい人がいてくれるだけで幸せだから…。
許せちまうな・了
※ブルー君の膨れっ面と、「ハーレイのケチ!」と。並みの恋人なら、確かに怒るかも。
けれど怒らないハーレイ先生、何を言われても許せるようです。ブルー君ならばv
(地球なんだよね…)
ぼくが暮らしている星は、と小さなブルーが思ったこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した恋人。
そのハーレイと二人、生まれ変わって青い地球の上にやって来た。
気が遠くなるほどの長い時を飛び越え、前と同じに育つ身体を手に入れて。
(ぼくはちょっぴりチビなんだけど…)
子供になってしまったけれど、と眺めた自分の細っこい手足。
十四歳にしかならない子供の身体で、ハーレイはキスもしてくれない。
「俺は子供にキスはしない」と、「前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だ」と。
ハーレイが決めた酷すぎる決まり、恋人同士でも交わせないキス。
貰えるキスは頬と額にだけ、本当に子供向けのキス。
(あれは酷いと思うんだけど…)
いくら膨れても、「ハーレイのケチ!」と文句を言っても、変わらない決まり。
当分はキスは貰えそうもなくて、今の自分は子供扱い。「チビ」と言われて。
なんとも不幸な話だけれども、キスさえ貰えないチビの自分は…。
(地球に生まれて、地球で育って…)
宇宙から地球を見ていないだけ、と不思議な気分。
前の自分が焦がれ続けた、青い地球。憧れだった水の星が今の自分の故郷。
(地球から外に出たことが無いから…)
故郷なのだ、と実感したことは無いけれど。
地球はいつでも足の下にあって、外からは見ていないから。
(前のぼくだと、地球は夢の星…)
いつか行きたくて、幾つもの夢を描いていた星。
フィシスが抱いていた地球の映像、それが欲しくて彼女を攫って来たほどに。
白いシャングリラの仲間を欺き、「ミュウの女神だ」と嘘をついてまで。
機械が無から作ったフィシスに、自分のサイオンを分け与えてまで。
前の自分が憧れた地球。何度も夢に見ていた星。
(ハーレイと一緒に辿り着いたら…)
自由になれる筈だった。
白いシャングリラが地球に着いたら、ミュウが殺される時代は終わる。
そうなれば、もう要らないソルジャー。箱舟だって要らなくなるから、キャプテンだって。
(前のぼくたち、ソルジャーとキャプテンだったから…)
恋に落ちても誰にも言えずに、隠し続けるしかなかった二人。
皆を導く立場のソルジャー、船の舵を握っていたキャプテン。
そんな二人が恋人同士だと皆に知れたら、船はたちまち大混乱に陥ってしまう。
(だけど、地球まで辿り着けたら…)
ソルジャーもキャプテンも、シャングリラも必要とされない時代がやって来る。
その日を夢見て、ハーレイと生きた。
地球に着いたら恋を明かして、船を降りて二人で暮らそうと。
青い地球の上でやってみたいことも、幾つも幾つも夢を描いて。
(…夢の朝御飯…)
前の自分が食べたいと思った、地球ならではのホットケーキの朝食。
本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクで作ったバター。
熱でとろける金色のバターと、砂糖カエデの木から採れたシロップ。
それを絡めてホットケーキを食べてみたいと、きっと素敵な朝食だからと。
(ヒマラヤの青いケシも見たくて…)
地球の青さを写し取ったような、青い花びらを持ったケシ。
人を寄せ付けない高峰に咲く、天上の青を湛えた花。
蘇った地球なら、青いケシだって咲くのだろうから、見に行きたかった。
真っ青な地球の空の上を飛んで、白い雲の峰を幾つも越えて。
(ハーレイは空を飛べないから…)
抱えて飛ぼうと考えていた、前の自分。
強いサイオンを自在に操ることが出来たし、ハーレイを連れて飛ぶのも簡単。
ハーレイと一緒にケシを見ようと、ヒマラヤまでも飛んでゆこうと。
他にも幾つもあった夢。
五月の一日に恋人たちが贈り合っていた、白いシャングリラで咲いたスズランの花束。
それをハーレイに贈ろうと夢見て、「地球に着いたら」と心に決めた。
花壇に咲いた花とは違って、希少価値の高い森のスズラン。
栽培種よりも香り高いとヒルマンから聞いた、野生のスズランを見付け出そうと。
スズランは小さい花だけれども、心のこもった花束を作ってハーレイに、と。
(もっと他にも、夢は一杯…)
ハーレイと一緒に地球で暮らせる時が来たら、と描いた夢たち。
いつかシャングリラで辿り着こうと、ハーレイと二人で夢を叶えようと。
けれど、叶わなかった夢。
地球の座標さえも掴めない内に、思い知らされた命の終わり。
誰よりも長く生きたがゆえに、誰よりも早く迎えた寿命。
(地球に着くまでは、生きられないって…)
もう駄目なのだと分かった時から、夢は夢でしかなくなった。
どんなに焦がれて憧れようと、青い星には辿り着けない。自分の命は其処まで持たない。
諦めざるを得なかった地球。
憧れだった星は夢で終わると、けして其処には行けないのだと。
(それでもやっぱり、地球が見たくて…)
前のハーレイと寄り添い合っては、もう叶わない夢を語った。
地球に着いたら行きたかった場所や、やってみたかったことなどを。
叶いはしないと分かっていたって、夢を見るのは自由だから。
命尽きたら、魂だけでも地球へと飛んでゆけそうだから。
(…青い地球を見ることが出来たなら、って…)
夢見るように話した前の自分を、ハーレイは笑いはしなかった。
いつも笑顔で頷いてくれた、「いつか行けるといいですね」と。
「その時は私も一緒ですよ」と、「二人で青い地球を見ましょう」と。
たとえ身体は消えてしまって、命も持っていなくても。
魂だけになっていようと、何処までも二人一緒なのだと。
(ハーレイと行けると思ったのにね…)
前の自分が焦がれた地球。憧れだった、青い水の星。
ハーレイと行こうと思っていたのに、寿命が尽きても二人で見ようと思ったのに。
(…前のぼく、メギドで独りぼっちで…)
死んでしまって、それきりになった。
最後まで持っていたいと願った、ハーレイの温もりを失くした右手。
冷たく凍えてしまったその手は、もうハーレイとは繋がっていない。
ハーレイとの絆は切れてしまって、二度と会うことは叶わないのだと溢れた涙。
死よりも恐ろしい絶望と孤独、泣きじゃくりながら死んだ前の自分。
地球への夢も、ハーレイへの想いも、何もかもが全部、儚く消えて迎える終わり。
このまま闇へと落ちてゆくのだと、独りぼっちになってしまったと。
(…おしまいになった筈だったのに…)
ふと気が付いたら、地球に来ていた。
ハーレイと二人で時を飛び越えて、前の自分が焦がれた星に。
憧れだった星に生まれ変わって、今の自分は地球で生まれた地球育ちの子。
地球しか知らずに育った子供で、宇宙から見た地球を知らない子供。
青い水の星に住んでいるのに、その星を外から見てはいなくて…。
(地球はこんなの、っていう写真とか…)
映像しか知らない、今の自分。
あまりにも身近になりすぎた地球。
宇宙から見たら、どんな具合か知らないほどに。
地球を離れて宇宙に出る旅、それを一度もしていないほどに。
(前のぼくが聞いたら、ビックリ仰天…)
憧れの地球で暮らすどころか、その上に生まれて来るなんて。
生まれた時から地球の子供で、他の星など一つも知らずに育つだなんて。
その上、持っている「本物の家族」。
養父母とは違って、血の繋がった父と母。
今の世界では当たり前だけれど、前の自分が生きた頃には無かった血縁。
なんだか凄い、と考えてしまう今の地球。
人工子宮から生まれた子供は一人もいなくて、皆が持っている本物の両親。
おまけに人間は誰もがミュウだし、もう人類に追われはしない。
第一、今の自分とハーレイが暮らす、この青い地球は…。
(…前のぼくたちが生きてた頃には、何処を探しても…)
無かったんだよ、と目をパチパチと瞬かせる。
前の自分は知らないままで終わったけれども、ハーレイは見た。
白いシャングリラで辿り着いた地球で、青い地球が浮かんでいる筈の座標で、死の星を。
赤茶けた砂漠と、毒素を含んだ海しか無かった本物の地球。
前の自分が辿り着けていても、青い地球を見られはしなかった。
そんな星は何処にも無いのだから。…無残に朽ちた地球しか無かったのだから。
(前のぼくが頑張って辿り着いても…)
憧れだった星を見ることも叶わず、泣き崩れるしかなかっただろう。
描いていた夢は全て砕けて、それでも地球に降りねばならない。
そうしない限り、機械の時代は終わらないから。ミュウの時代は来はしないから。
(うんと頑張って、戦ったって…)
御褒美の青い星などは無くて、また宇宙へと去ってゆくだけ。
地球よりはマシな星を求めて、人が暮らせる星を探して。
ノアに行くのか、アルテメシアに戻ることになるか、はたまた別の星なのか。
せっかく地球まで辿り着いても、約束の場所が無いのでは。
青く輝く水の星が宇宙に無かったのでは。
(…そうなるよりかは、今の方がずっと…)
素敵だよね、と思う地球。
青い水の星の上に生まれて、本物の両親だっている。…それにハーレイも、前と同じに。
ちょっぴりチビになった自分は、ハーレイとキスも出来ないけれど。
(だけど、憧れだった星…)
チビの身体は残念だけれど、ハーレイと二人で生まれて来られた憧れの星。
幸せだよね、と噛みしめる今の自分の幸福。
憧れの地球が自分の故郷で、地球で育った子供だから。今の自分は地球育ちだから…。
憧れだった星・了
※前のブルーが焦がれた地球。其処に生まれたのがブルー君。ちょっぴりチビの姿になって。
チビに生まれたのは残念ですけど、地球が故郷で地球育ちの子。それを思うと幸せですよねv
(地球なあ…)
そういや此処は地球だっけな、とハーレイがふと思ったこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
今の自分は地球にいるのだと、ブルーと地球までやって来たと。
十四歳にしかならない恋人、前の自分が愛したブルー。
今の自分の教え子になって、また巡り会えた愛おしい人。
ブルーがいるのが当たり前になって、すっかり忘れていたけれど。
此処での暮らしも長いものだから、ついつい忘れがちなのだけれど。
(…俺たちは地球に来たんだなあ…)
身体は別物になっちまったが、と視線を落とした自分の手。
愛用のマグカップを持っている手は、前の自分の記憶と寸分違わないもの。
大きさも、それに褐色の肌も。
(しかしだな…)
俺がいる場所からして、まるで違うんだ、と今度は部屋を見回した。
気に入りの本を並べた本棚、部屋をぐるりと取り囲むそれ。
机も椅子も自分の好みで、落ち着くからと夜は大抵、此処でコーヒー。
(この部屋は俺の部屋なんだが…)
前の俺のとは全く違う、と思い浮かべたキャプテンの部屋。前の自分が暮らした場所。
白いシャングリラの中にあった部屋は、これよりもずっと広かったけれど。
(今のようにはいかなかったな…)
色々と制約があったからな、とキャプテンの役目を思い出す。
ブリッジでの勤務を終えた後にも、しなくてはいけないことが色々。
航宙日誌をつけることとか、前のブルーに一日の報告をしに行くだとか。
(報告が済んだら、あいつと二人きりだったが…)
それまでは何かと忙しかった、と思うキャプテンの部屋での時間。
今のように寛ぐわけにはいかずに、仕事が山積みの日だってあった。
早く終わらせてブルーの所へ、と自分を急かしていた夜も。
とにかく忙しかったんだ、と前の自分と今の自分を重ねてみる。
「あの頃に比べりゃ天国だよな」と、「流石は地球だ」と。
前のブルーが焦がれた星。行きたいと夢を描いた地球。
ブルーの夢の星だったから、前の自分も憧れた。「いつか行こう」と。
いつかシャングリラで地球に行こうと、そしてブルーと二人で地球で暮らすのだと。
(あいつの夢は、俺の夢でもあったから…)
地球に幾つもの夢を抱いて、それが叶う日をブルーと夢見た。
白いシャングリラが地球に着く日を、展望室の窓の向こうに青い水の星が輝く時を。
あれもこれもと、ブルーが地球でやりたがったこと。
ミュウが殺されない時代が来たなら、シャングリラを降りて二人きりで…。
(地球で暮らそう、と約束したっけなあ…)
もうソルジャーでもキャプテンでもない、ただの二人のミュウとして。
秘密にしていた恋を明かして、シャングリラの仲間に別れを告げて。
(そういう風に生きる筈だったのに…)
ブルーの寿命が尽きると分かって、潰えてしまった地球への夢。
辿り着けない星に夢など見られない。
どんなに素晴らしい星であろうと、憧れた星であろうとも。
(あいつも、俺も、地球への夢を口にする時は…)
もう前のように語れはしないで、「行きたかった」と言葉は過去形。
二人で地球に行けはしないし、見ていた夢も叶いはしない。
だから二人で寄り添い合っては、辿り着けない地球を想った。
銀河の海に浮かぶ一粒の真珠、地表の七割が水に覆われた星。
それはどれほど美しいかと、いつかこの目で見てみたかったと。
未だ座標も掴めない地球、シャングリラが其処へ辿り着く前にブルーの命は燃え尽きる。
ブルーが逝ってしまった時には、後を追うのだと決めていた自分。
キャプテンとして船の今後を指示して、それが済んだらブルーの許へ、と。
二人揃って、見ることは叶わない青い星。
いつかシャングリラが辿り着いても、もう二人ともいないのだから。
(そうするつもりでいたんだが…)
狂った予定。思い描いたのとは違った未来。
前のブルーは一人きりでメギドに飛んでしまって、一人残された前の自分。
ブルーの望みを果たすためにと、白いシャングリラを地球へ運んで…。
(…とんでもない地球を見ちまった…)
何処も青くはなかったんだ、と今でも忘れられない衝撃。
やっとの思いで辿り着いた地球は、赤茶けた死の星だった。砂漠と、毒素を含んだ海と。
(あいつへの土産話にも…)
出来やしない、と思った地球。
ブルーが焦がれた青い星など、欠片もありはしなかったから。
地球に降りたら、一層それを見せ付けられて、ただ悲しみに囚われた。
人類はなんと愚かしいのかと、何のためにミュウは殺されたのかと。
SD体制は地球を蘇らせるためのシステム、そのシステムに排除されたミュウ。
(…地球が少しでも青かったなら…)
少しばかりは救われたろうに、何一つ蘇ってはいなかった地球。
六百年近く経っているのに、朽ち果てた高層ビル群さえもが放置されたまま。
地球再生機構の「リボーン」が入ったユグドラシルの周りですらも。
(ゼルが毒キノコと呼んだっけな…)
ユグドラシルを、と今も覚えている毒舌。言い得て妙だと思ったそれ。
死に絶えた地球に一つだけ生えた毒キノコ。
地球を再生させる代わりに、毒を吸って成長してゆくだけ。
(そんな毒キノコがあったわけだが…)
今の地球だと、毒キノコだって本物なんだ、と愉快な気分になってくる。
キノコの季節に山に入れば、あちこちに生えているキノコたち。
(食ったら美味いキノコもあるが、だ…)
毒キノコだってあるからな、と知っているのが今の自分。
父に教えられた、「食べられるキノコ」と「食べられないキノコ」。
青い地球に生まれた自分ならではの知識で、今の地球だから出来るキノコ狩り。
毒キノコさえも無かったっけな、と溜息しか出ない、前の自分が目にした地球。
憧れた星は無残な姿で宇宙に転がり、前のブルーの夢も砕けた。
もっとも、ブルーはいなかったけれど。…とうに死の国に行ってしまって。
(でもって、俺も地球の地の底で…)
死んだけれども、気付けば今や地球の住人。
前の自分が憧れた星は、今の自分が生まれて来た場所。新しい命と身体を貰って。
(上手い具合に、前の俺の身体とそっくりなんだ)
何処も変わっちゃいないよな、と改めて手を眺めてみる。
キャプテン・ハーレイだった自分と、まるで変わらない手なのだけれど。
(俺の周りが変わっちまった…)
憧れの地球に来ただけあって、と書斎の本たちを目で追ってゆく。
どれも好みで揃えた本で、キャプテンだった頃とは違う。航宙日誌も並んではいない。
ついでに、愛用のマグカップだって…。
(中身は本物のコーヒーだぞ?)
代用品のキャロブじゃなくて、と指先で軽く弾いたカップ。「幸せ者め」と。
前の自分が白いシャングリラで飲んだコーヒー、それはいつでも代用品。
キャロブと呼ばれたイナゴ豆の粉、カフェインは後から加えたもの。
けれど今では本物のコーヒー、青い地球で採れたコーヒー豆から淹れて飲む。
(これ一つ取っても、流石は俺たちが憧れた星で…)
思った以上に素晴らしいんだ、と気付かされる地球の「本当の姿」。
前の自分たちが辿り着けていても、青い地球が其処にあったとしても…。
(所詮はSD体制が生み出した地球で…)
不自然なんだ、と今だから分かる。
青い地球の上に暮らしているのは、人工子宮から生まれた者ばかり。
血の繋がった本物の家族は何処にもいないし、きっと子供の姿さえ無い。
子供は育英都市で育って、成人検査を受けて地球へと旅立つもの。
あの時代に青い地球があっても、地球の上で生まれ育った子たちは…。
(きっと一人もいやしないってな)
カナリヤの子たちだっていないぞ、と思い返す、地の底にいた人類の子供。
地球が青いなら、カナリヤの子たちは不要な存在。
優秀な大人たちだけが地球で暮らして、ミュウが殺されない時代が来ても…。
(子供たちの姿を地球で見られる時代ってヤツは…)
ずっと先のことになっただろうな、と噛みしめる今の自分の幸せ。
正真正銘、地球で生まれて地球育ち。
自分もブルーも、本物の両親の許で育って、地球の上には本物の家族たちしかいない。
こんな地球など、前の自分たちは夢にも思いはしなかった。
SD体制の時代に生まれて、時代に振り回されたから。
(前の俺たちが思った以上に…)
素晴らしい星に来られたよな、と零れた笑み。
前の自分たちが憧れた星は、今は自分たちの生まれ故郷。
此処でブルーと生きてゆけるから、この星に来られて良かったと思う。
生まれ変わって別の身体でも、新しい別の命でも。
憧れた星よりも素晴らしい地球、それを自分は手に入れたから。
ブルーと二人で其処に生まれて、その上で生きてゆけるのだから…。
憧れた星・了
※前のハーレイが憧れた地球。ブルーと一緒に「いつか行こう」と。けれど叶わなかった星。
そして本物の地球に着いてみたら…。死の星だった地球が、今は青い星。幸せですよねv