(…ソルジャー・ブルー…)
前のぼくには違いないけど、と小さなブルーが頭に浮かべた名前。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した恋人。
そのハーレイが、「チビの恋人」に出した条件は…。
(…前のぼくと同じ背丈になるまで、キスは駄目だ、って…)
一方的に押し付けられた決まりで、なんとも不満。
唇へのキスは貰えないまま、強請れば叱られてばかり。
だから憎いのが「ソルジャー・ブルー」で、言わば恋敵のようなもの。
あちらも同じ「自分」でも。
遠く遥かな時の彼方で、ソルジャー・ブルーとして「生きた」のだけれど。
(あっちはちゃんと育った姿で…)
ハーレイにキスを強請らなくても、幾らでもキスを貰っていた。
恋人同士が交わす唇へのキス、それを何度も。
(どっちも、同じぼくなんだけど…)
時の彼方には、「もっと育った」自分の姿。
今ではすっかり英雄扱い、それが「ソルジャー・ブルー」という人。
写真集だって山ほどあるから、もう本当に腹立たしい。
「どうせ、ぼくならチビだってば!」と、プンプンと怒りたくもなる。
ソルジャー・ブルーさえいなかったならば、チビの自分でも…。
(もうちょっと、ハーレイにマシな扱いをして貰えて…)
きちんと恋が出来るんだけど、と考えてみても、ソルジャー・ブルーがいなければ…。
(…前のハーレイとは恋をしてなくて、今のぼくだって…)
ただのチビ。
十四歳にしかならない子供で、きっと恋とは無縁な日々。
友達と遊ぶことに夢中な、年相応の無邪気な子供。
生まれつき身体が弱いものだから、駆け回ったりは出来なくても。
ソルジャー・ブルーは憎いけれども、「いてくれないと困る」存在。
彼がいないと、前のハーレイと恋は出来ない。
前のハーレイとの恋が無ければ、今のハーレイとの恋だって「無い」。
出会ったとしても、教師と教え子、たったそれだけ。
(…ずいぶん大きな先生だよね、って…)
今のハーレイの姿を眺めて、自己紹介を聞いて納得するのだろう。
「子供の頃から柔道と水泳で鍛えていたから、あんなに大きな身体なんだ」と。
古典の授業が始まった後も、ノートを取ったり、質問をしたり…。
(当てて貰って、答えたりしても…)
恋をしたりはしないのだろう。
「前の自分」がいないなら。
前のハーレイに恋をしていた、ソルジャー・ブルーの記憶を持っていないなら。
(ハーレイが生徒の人気者でも…)
そうなんだ、と思うだけ。
自分も「お気に入りの先生」の中に数えたとしても、それでおしまい。
ハーレイの時間を独占している「柔道部の生徒」を羨みもしない。
「ぼくとは縁が無い世界だよ」と考えるだけで。
朝一番から走り込みをして、朝練をしている柔道部員。
ハーレイも一緒にいるのだけれども、身体が弱い自分は「柔道など出来ない」。
やってみたいと思いもしないし、眺めて通り過ぎるだけ。
「今日もやってる」と、「みんなホントに元気だよね」と。
ハーレイとの接点が幾つあっても、きっと恋には落ちない自分。
毎日のように、質問に出掛けて行ったって。
他の生徒がやっているように、「ハーレイ先生!」と廊下で呼び止め、立ち話をしても。
なにしろハーレイは「先生」なのだし、自分は教え子の一人にすぎない。
特別なことなど何処にも無いから、恋の切っ掛けさえも無い。
どんなに仲良くなったとしても、家に遊びに出掛けたとしても…。
(それでおしまいになっちゃうってば…)
恋をする理由が無いのだから。「お気に入りのハーレイ先生」だから。
きっとそうなる、と自分でも分かる。
前の自分がいなかったならば、今のハーレイとの恋などは無いと。
(四年間、今の学校で教えて貰っても…)
担任して貰う年があっても、ハーレイは「お気に入りの先生」の一人。
楽しく四年間を過ごして、自分は卒業してゆくのだろう。
「ハーレイ先生、さようなら!」と、元気一杯に手を振って。
「また、学校にも遊びに来ますね」と、笑顔で別れの挨拶をして。
(…今のぼくだと、そうならないけど…)
卒業したなら、結婚できる年。十八歳の誕生日が直ぐにやって来る。
それを待ち焦がれて、ハーレイからのプロポーズを待って、胸を高鳴らせながらの卒業。
卒業式では、何食わぬ顔をしていても。
友達に「ハーレイ先生の所にも行こうぜ!」と誘われて、挨拶しに行っても。
みんなと一緒にハーレイと握手して、「ありがとうございました!」と頭を下げても…。
(心の中は、もう先のことで一杯で…)
早く学校から出たくてたまらないのだろう。
もう「生徒ではない」自分。
それになりたくて、ハーレイと堂々と「恋が出来る身」になりたくて。
(流石に、学校の門の前では待たないけれど…)
卒業式を終えて帰って行ったら、きっとハーレイを待ち侘びる。
「もう来るかな?」と、「まだ来ないかな?」と、首を長くして。
生徒でなくなった自分の立場は、もう「ハーレイの恋人」だから。
十八歳になれば結婚できるし、誰にも隠さなくていい、自分たちの恋。
「やっと堂々とデート出来るよ」と、嬉しくて嬉しくて、たまらない筈。
四年間も「生徒」を頑張ったのだし、もうこれからは「恋人だけ」と。
(…でも、前のぼくがいなかったら…)
そのワクワクも恋も、消えてなくなる。
最初から恋は生まれないまま、卒業したらハーレイとも「お別れ」。
「恋をしたかも」とは思いもしないで、「さようなら!」と元気に手を振って。
(そんなの、困る…)
困っちゃうよ、と悲しい気分。
ハーレイと恋が出来ないなんて、出来ずに終わってしまうだなんて。
それを思うと、「前の自分」は「いないと困る」。
憎い恋敵でも、大人だった姿が憎らしくても。
(会えたら、文句を言いそうだけど…)
「なんで、ハーレイを盗っちゃうの!」と。
今もハーレイは「ソルジャー・ブルー」を忘れていないし、そのせいでキスが貰えない。
「キスは駄目だと言ったよな?」と、「俺は子供にキスはしない」と。
ハーレイのキスは、「前の自分」が持ったまま。
最後にキスを貰っていたのは前の自分で、今の自分は一度も貰っていないから…。
(ハーレイ、前のぼくに盗られて…)
盗られっ放しで、今も「返して貰えない」。
「渡して貰えない」と言うべきだろうか、ハーレイのキスは前の自分のものだから。
ソルジャー・ブルーがしっかりと持って、自分には譲ってくれないから。
(…手強すぎるよ、前のぼく…)
今の時代も大英雄なだけのことはある。
死の星だった地球が青く蘇るほどの時が流れても、称えられているソルジャー・ブルー。
それが恋敵で、「前の自分」。
チビの自分が逆立ちしたって敵わない相手。…色々な意味で。
(あんな立派な生き方は無理で、おまけにチビで…)
ホントにどうにもならないんだから、と怒ってみたって勝てない相手。
時の彼方には恋のライバル、どう頑張っても勝てない敵。
ハーレイのキスを譲ってくれない、渡してくれない「憎らしいヤツ」。
もう本当に腹が立つけれど、その恋敵がいないと困る。
ハーレイとの恋は生まれもしないで、「さよなら」になってしまうから。
仲良くなっても教師と生徒で、それっきり。
お互い、恋には落ちもしないで、卒業式でお別れだから。
それは困るし、「ソルジャー・ブルー」は必要なもの。
前の自分の「ハーレイとの恋」も、無いと困ってしまうもの。
けれど、そのせいで自分が困る。
生まれ変わって再び出会えた、ハーレイにキスを強請っても…。
(ぼくがチビだから、断られちゃって…)
ピンと額を弾かれたりして、叱られるだけ。
「何度言ったら分かるんだ?」と、鳶色の瞳で睨まれもして。
(…どうして、こうなっちゃったわけ…?)
前のぼくが自分の恋敵なんて、と頭を抱えてみたって、何も解決しはしない。
悔しかったら、早く育って「前の自分と同じ背丈」になる他はない。
ソルジャー・ブルーと同じ姿に、「ハーレイが恋をした人」に。
(…ハーレイは、ぼくに恋をしてくれてるけど…)
その恋は、きっと「子供向け」。
キスも出来ないチビの恋人、それに合わせた「子供向けの恋」。
本物の恋はキスと同じで、今もやっぱり「ソルジャー・ブルー」が持っていそう。
チビの自分には譲ってくれずに、遠く遥かな時の彼方で。
今はもう無い白いシャングリラで、あの船にあった青の間で。
(…うーん…)
それを返して欲しいんだけど、と怒鳴りたくても、前の自分は何処にもいない。
時の彼方にはいるのだけれども、今は「自分の中」だから。
自分の頬っぺたを引っぱたいても、「自分が痛い」だけのこと。
ソルジャー・ブルーは涼しい顔で、チビの自分を見ているのだろう。
「なんという馬鹿な子供だろう」と、「これじゃ、ハーレイも大変だ」と。
そう言う声が聞こえたように思うから…。
(前のぼくの馬鹿…!)
それに意地悪、とプウッと頬を膨らませる。
「出て来ないなんて、卑怯だよ」と、「ぼくに文句を言わせてよ!」と。
それは無理だと分かっていたって。とても敵わない敵で、最強の恋のライバルだって…。
時の彼方には・了
※前の自分が恋敵だというブルー君。考えるほどに、憎らしいのがソルジャー・ブルー。
けれど、ソルジャー・ブルーがいなかったら出来なかった恋。なんとも悩ましい所ですよねv
(…キャプテン・ハーレイ…)
前の俺か、とハーレイの頭に浮かんだ名前。
ブルーの家には寄れなかった日の夜、いつもの書斎で寛いでいたら。
どうしてそれを思い付いたか、その名を思い出したのか。
切っ掛けはまるで分からないけれど、それは確かに「自分の名前」。
遠く遥かな時の彼方で、この世界に生きていた時のもの。
(今じゃすっかり、雲の上の人になっちまったなあ…)
前の俺は、と苦笑する。
SD体制を崩壊させた英雄、ジョミーとキース。
彼らと同じに「英雄」とされて、記念墓地に立派な墓碑までがあるキャプテン・ハーレイ。
特に何をしたわけでもないと思うのに。
白いシャングリラを地球まで運んで、地球の地の底で死んだだけなのに。
(前のあいつが、ジョミーを頼むと言ったから…)
俺は頑張っただけなんだがな、と前のブルーの「遺言」を思う。
一人きりでメギドへ飛んでゆく前、思念波で伝えられたこと。
前の自分はそれを果たそうと、それだけを思って生き続けた。
ブルーを失くした深い孤独と絶望の中で、生ける屍のようになっても。
(あいつが、あれを言わなかったら…)
きっとブルーを追っていたろう。
地球に着く前に、孤独に負けて。「独りぼっち」に耐えかねて。
そうでなくとも、前のブルーに何度も誓っていたのだから。
ブルーの寿命が尽きた時には、「私も一緒に参りますから」と。
けしてブルーを一人にはさせず、死の国にまで一緒にゆくと、幾度も誓いを立てたのに…。
(その逆のことを頼まれちまった…)
とても辛くて、長かった生。
前のブルーがいなくなった船は、もはや「楽園」とは呼べない世界。
それでも生きて、ただ生き続けて、前の自分は「英雄」になった。
「地球まで行った」だけなのに。…しかも自分の意志ではなくて。
なんとも皮肉な話だけれども、キャプテン・ハーレイは今や「英雄」。
知らない人など誰もいなくて、幼い子供でも耳にする名前。
(写真を見たなら、怖そうな「おじちゃん」なんだがな…)
なんたって、この顔だから、とコーヒーのカップを傾ける。
今の自分の職業は教師、前とそっくり同じ顔でも全く違う「基本の表情」。
威厳に満ちた顔をしていては、生徒たちは寄って来てくれない。
「なんだか怖そうな先生だよな」と、質問さえもためらって。
(いつもニコニコ、どんな時でも笑顔とまでは言わないが…)
にこやかな顔をするように、と日頃から心掛けてはいる。
子供時代から柔道と水泳で鍛えたお蔭で、見掛けは前と同じに「いかつい」。
体格も顔も、何もかもが。
そういう自覚は持っているから、「怖がられないよう」愛想よく。
もっとも、自分でそうしなくても…。
(滲み出ている雰囲気からして、愛想が良さそうらしいがな?)
ジョギングで走っていたりする時、小さな子供がよく手を振ってくれるから。
「頑張ってね!」と、「見知らぬおじちゃん」に。
公園などを歩いていたなら、散歩中の犬が来たりもする。
「遊んでくれる?」と尻尾をパタパタ、立ち上がってズボンに足を掛けたりも。
(…動物には好かれるんだよなあ…)
犬でも猫でも、怖がらないで近付いて来る。
「遊ぼう」と、「一緒に遊んでよ」と。
(前の俺だと、どうなったのやら…)
サッパリ謎だ、と自分でも出せない「その答え」。
白いシャングリラに、犬や猫などはいなかったから。
辛うじて「ペット」がいたとしたなら、青い毛皮のナキネズミ。
思念波を上手く使えない子のサポート役で、船の中を自由に歩いていたけれど…。
(ヤツらと遊んだことは無いなあ…)
今みたいにはな、と考える。怖がられることはなかったけれど。
同じ自分でもずいぶん違う、と思わないではいられない。
英雄になったキャプテン・ハーレイ、時の彼方で「生きていた」自分。
(あの頃の俺には、今の暮らしは…)
想像も出来ないものだった。
前のブルーと何度も夢見た、「いつか地球へと辿り着く」こと。
青く輝く母なる地球。
全ての命の故郷でもある、青い水の星。
其処に着いたら、あれをしようと、これもしたいと、幾つもの夢を描いたけれど。
白いシャングリラに別れを告げて、ブルーと二人で暮らす夢まで見たけれど。
(…所詮は夢物語でだ…)
リアリティってヤツに欠けていたな、と今だからこそ言えること。
「前のブルーと一緒に、地球に着けなかった」ことは抜きでも。
ようやくのことで辿り着いた地球が、何も棲めない死の星だったことも「抜き」でも。
(こうやって、青い地球に着いてみるとだ…)
着いたんじゃなくて「生まれた」んだが、と今の自分が「此処にいる」理由に苦笑い。
宇宙船でやって来たのではなくて、生まれた時から「地球の住人」。
地球が故郷で、正真正銘、地球育ち。
この星で育って大きくなって、今では教師で「一人暮らし」をしている自分。
仕事のある日は仕事に出掛けて、その帰りには…。
(時間があったらブルーの家で、無かった時には買い出しだとか…)
今日だって行って来たんだが、と思い出す近所の食料品店。
「今夜は何を食うとするかな」と、あちこちの棚を覗いて回った。
メニューが決まれば、「これと、これに…」と、レジに運ぶための籠に詰め込んで。
その店を出たら、お次はパン屋。
パンは自分で焼けるけれども、やはり買うのが手っ取り早い。
其処でも暫し考えていた。
食パンを買うか、田舎パンにするか、バゲットなんかもいいだろうか、と。
そうやって買って、乗り込んだ車。「さて、帰るか」と。
たったそれだけ、「仕事の帰りに」食料品を買うということ。
今の自分には馴染みのことでも、前の自分は「思い付きさえしなかった」。
白いシャングリラに「店」などは無くて、外の世界ではミュウは異分子。
買い物に行くなど夢のまた夢、「そういう世界もある」と知識を持っていただけ。
ジョミーがアルテメシアを落として、地球への道が開けるまでは。
船の仲間たちが自由時間に「星の上」に降り、店で買い物を始めるまでは。
(…前の俺は、行っちゃいないがな…)
皆に「小遣い」を用立てただけで、買い物に出掛けてはいない。
魂はとうに死んでいたから、ブルーを失くして「独りぼっち」の日々だったから。
(前のあいつと、地球に行こうと夢を見た頃は…)
地球での日々に思いを馳せても、「生活のための買い物」などは考えもしない。
生きてゆくには「食事」なのだと分かっていても。
「地球に着いたら、あれを食べよう」などと、ブルーと夢を描いていても。
(あいつの夢だった、ホットケーキの朝飯ってヤツ…)
本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクのバター。
それを添えて、とブルーは夢見て、前の自分も共に夢見た。
「いつか二人で食べましょう」と。
地球に着いたら、きっと食べられるだろうから。
(ホットケーキは、前の俺が焼くとしてもだな…)
元は厨房出身なのだし、ホットケーキを焼くくらいならば「お安い御用」。
けれど材料を調達するには、「買い物から」。
前のブルーと二人で「地球で暮らす」のだったら、食事係はもういない。
毎朝、青の間で朝食を作った厨房の係は、お役御免の筈だから。
(食事係は何処にもいないし、船の仲間もいないってわけで…)
食材が届くわけがないから、買いにゆかねばならないだろう。
「ブルーと食べたい」ホットケーキの材料を。
小麦粉に卵に、砂糖や牛乳。
ホットケーキの上に乗っける、バターやメープルシロップなども。
(…うーむ…)
前の俺は今じゃ英雄なんだが、と思ってはみても、まるで欠けていた想像力。
「地球での暮らし」は夢物語で、買い物にさえも行けない始末。
(それじゃ駄目だぞ、お前さん)
夢がデカイのはいいことだがな、と前の自分に呼び掛けてみる。
時の彼方にいた人に。
今は「英雄」と呼ばれる人に。
(余計なお世話だ、と言われそうだが…)
英雄の俺より、凡人の俺の方が「地球で生きるには、有利だよな」と浮かべた笑み。
買い物ならば慣れたものだし、地に足がついている生活。
それを続けて長いのだから、「キャプテン・ハーレイ」には負けない。
「地球の上で」生きてゆくのなら。
前のブルーと夢見た暮らしを、「現実のもの」にするのなら。
(チビのあいつが大きくなったら…)
俺はお前の夢を実現させてみせるぞ、と時の彼方に向かって笑む。
「其処で見てろよ」と、「俺は凡人だが、負けやしない」と。
前の自分は英雄だけれど、「ただのハーレイ」でも負けたりしない。
夢物語の世界ではなく、現実に生きているのだから。
青い地球は、今や自分の故郷。
ブルーと二人で其処に生まれて、その上で生きてゆくのだから…。
時の彼方に・了
※今は英雄になったキャプテン・ハーレイ。それに比べて、凡人なのがハーレイ先生。
けれど「地球での暮らし」だったら、負けない自信があるようです。頼もしいですよねv
(怖いものかあ…)
ハーレイの場合はコーヒーなんだよね、とブルーがクスッと零した笑い。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は訪ねて来てくれなかった、愛おしい人。
けれど古典の授業で会えた。学校の、自分の教室で。
その時にハーレイが始めた雑談、クラスの生徒の集中力を取り戻すために。
いつもながら見事な技だけれども、今日の雑談の中身は落語。
(まんじゅうこわい…)
人間が地球しか知らなかった頃に、日本で生まれた落語の一つ。
怖い話だと聞いて「怪談なの?」と思ったけれども、全く違っていた話。
(怖いものは何か、って話になって…)
蜘蛛だ、ムカデだ、と話に花を咲かせていた男たち。
その中に一人、「怖いものなど一つも無い」と威張る男がいたものだから…。
(誰だってムッと来ちゃうよね?)
自分たちは「怖いもの」を披露したのに、「俺には無い」などと言われたら。
それで問い詰めたら、「実は…」と男が白状したのが饅頭。
他の者たちは怒っていたから、その男を饅頭攻めにした。
男の部屋に次から次へと、饅頭を山ほど投げ込んで。
(そしたら、怖いから食べちゃおう、って…)
男は端から平らげたわけで、「騙された」と気付いた、様子を見ていた男たち。
腹を立てながら「本当は何が怖いんだ」と尋ねたけれども、男の答えは…。
(今だと、一杯のお茶が怖いって…)
お茶は饅頭にピッタリの飲み物。
SD体制が崩壊した今は、饅頭だって売られている。緑茶も、それにほうじ茶なども。
「饅頭が怖い」と言って山ほど食べた後には、「一杯のお茶」を怖がった男。
教室中の生徒が笑って、雑談はそれで終わりの筈が…。
「授業に戻る」とやったハーレイ、其処で「はいっ!」と手を挙げた生徒。
クラスのムードメーカーの男子、彼の質問はこうだった。
「ハーレイ先生の怖いものは何ですか?」と。
柔道で鍛えたハーレイの強さ、それは誰でも知っている。水泳の腕がプロ級なのも。
その上、飛び抜けて立派な体格、頑丈そうなその身体。
(怖いものなんか無さそうだから…)
聞きたくだってなるだろう。
「ハーレイ先生にも怖い何かがあるのだろうか」と、「是非、知りたい」と。
もちろん自分も例外ではなくて、ワクワクと待ったハーレイの答え。
(ハーレイは何が怖いのかな、って…)
興味津々で瞳を煌めかせたけれど、返った答えは…。
(……コーヒーだなんて……)
ドッと沸き立ったクラスの生徒。
「先生、それは反則です!」と、さっきの落語の話と絡めて。
ハーレイがコーヒーが大好きなことは、生徒たちもよく知る周知の事実。
休み時間や放課後に質問などで出掛けて行ったら、ハーレイが飲んでいるコーヒー。
怖いどころか大好きなわけで、「饅頭が怖い」と言った男と同じこと。
けれどハーレイは「コーヒーだな」の一点張り。
上等なものほど怖いらしくて、コーヒー豆でも駄目らしい。
(…本当に怖いものが何かは…)
聞けないままで、終わりになってしまった雑談。
ハーレイは再び授業に戻って、それっきり。
「本当に怖いものが何か」は話しもしないで、「コーヒーが怖い」と言い切ったままで。
もっとも、相手はハーレイだから…。
(きっとホントに、怖いものなんか無いんだよ…)
ハーレイだものね、と顔を綻ばせる。
誰よりも強くて優しい恋人、それがハーレイ。
怖いものなどあるわけがないし、「怖いものはコーヒーだけなんだよ」と。
それに比べて、自分の方はどうだろう?
コーヒーは苦手でまるで飲めないから、もちろん怖い。
(そのままで飲めって言われたら…)
たちまち降参、一口だけでも口の中が苦くてたまらない。
どうしてもコーヒーを飲みたいのならば、まずは砂糖をたっぷりと。
それからミルクもたっぷりと入れて、仕上げにホイップクリームをこんもり。
(…そうしたら、うんと甘くなるから…)
やっと飲めるのが今の自分で、前の自分もそうだった。
キャロブで作った代用品のコーヒーだろうが、本物の豆のコーヒーだろうが。
(ぼくだとコーヒー、ホントに怖くて…)
他にも怖いものはある。
メギドの悪夢が何より怖くて、それを連れて来る夜の闇だって…。
(怖い時には怖いよね…)
こんなに暗いとメギドの夢を見てしまいそう、と明かりを点けておく夜もある。
常夜灯だけでは心細いから、他にも控えめに明かり。
(…それに、ハーレイのお蔭で怖くなくなったけど…)
フクロウの声も怖かった。
愛嬌のある姿はともかく、あの声が。
幼かった頃に庭の木に来て、「ゴッホウ、ゴロッケ、ゴウホウ」と鳴いていたフクロウ。
てっきりオバケの声だと思って、両親を起こして泣き叫んだ。
「オバケが来た」と、「庭でオバケが鳴いてるよ」と。
母は「フクロウだから大丈夫よ」と教えてくれたけれども、怖いものは怖い。
フクロウは「オバケの鳥」になってしまって、長く自分を悩ませた。
夜に庭から響く鳴き声は「オバケの声」。
とても怖くて、聞きたくもなくて…。
(あれが聞こえたから、メギドの夢まで見ちゃったんだよ)
恐ろしい悪夢を連れて来たのがフクロウの声。
あの声も「怖いもの」の一つで、なんとか克服できただけのこと。
こうして順に数えてみると、「怖いもの」が幾つもある自分。
ハーレイのように、「コーヒーだ」などと余裕たっぷりの答えは無理。
(…やっぱりハーレイはホントに強いよ…)
柔道と水泳で鍛えた心身、それはダテではないらしい。
前のハーレイにも負けない強さを持っているのが、今のハーレイ。
(…前のハーレイも強かったけど…)
柔道などはしていなかったけれど、精神はとても強かった。
キャプテンの激務に追われた時でも、けして弱音を吐いてはいない。
(…前のぼくがいなくなった後にも…)
ハーレイは「逃げはしなかった」。
誰よりも大切に想った恋人、それを失くしてしまっても。
白いシャングリラに独りぼっちで、生ける屍のようになっても。
(ちゃんとシャングリラを地球まで運んで、ジョミーを支えて…)
ソルジャー・ブルーが遺した言葉を守り続けた。
途中で投げ出してしまわずに。…恋人を追って、死の国に逃げてしまわずに。
(今も昔も、ハーレイには怖いものなんか…)
きっと無いのだ、と心から思う。
「ハーレイは、とても強いから」と。
前は心がとても強くて、今は心も身体も強い、と。
(だけど、ぼくだと…)
今では「怖いもの」が幾つも、「怖いものなんか無い」とは言えない。
前の自分だった頃にしたって、怖いものなら幾つもあった。
(…アルタミラの檻では、研究者たちや実験が怖くて…)
燃えるアルタミラを脱出した後も、「怖くない」とは言い切れなかった人類軍。
マザー・システムも、テラズ・ナンバー・ファイブも、それを相手にしてはいたものの…。
(怖くない、なんて思ったことは…)
多分、一度も無かったと思う。
怖くないなら、シャングリラごと雲海の中に潜む必要など無いのだから。
どうやら自分は弱虫らしい、と今日のハーレイの言葉を思い出す。
涼しい顔で「コーヒーが怖い」と言ったハーレイ。
あんな風には自分は言えない、好物が幾つあったとしても。
怖いものなら沢山あるから、余裕たっぷりに好物の名前を挙げられはしない。
「ホットケーキが怖いんだよ」とか、「パウンドケーキが怖くって…」だとか。
(…うーん…)
ホントにハーレイに比べて弱い、と思う自分の弱虫っぷり。
「怖いものなんか無いよ」と言ってみたいのに。
ハーレイみたいに「反則です!」と皆に抗議されても、「怖いもの」に好物を挙げたいのに。
(ぼくがやったら、嘘っぱちで…)
誰も笑ってくれないよ、と考えたけれど。
怖いものなら山ほどあるから、ハーレイの真似は無理そうだけれど…。
(…ちょっと待ってよ?)
そのハーレイと一緒に、青い地球に生まれて来た自分。
キスも貰えないチビだけれども、ハーレイは今でも自分の恋人。
遠く遥かな時の彼方で、一度は失くしてしまったのに。
右手に持っていたハーレイの温もり、それさえ失くして泣きじゃくりながら死んだのに。
(…だけど、ハーレイと、ちゃんと出会えて…)
前の自分と同じ背丈に育った時には、キスが貰える。
十八歳になれば結婚できるし、その時はもう離れない。
ハーレイが仕事に行っている間は、家で留守番するにしたって…。
(待ってる間に、ハーレイ、帰って来てくれるしね?)
誰よりも強いハーレイが。
「怖いものなど何も無いが」と言ってしまえるハーレイが。
そのハーレイと一緒だったら、怖いものなんか…。
(あるわけないよね、何処を探しても…?)
絶対に無いよ、と自信を持って言えること。
「怖いものなんか、何処にも無い」と。
ハーレイが側にいてくれるのなら、二人で生きてゆけるのならば。
(…コーヒーは、ちょっぴり怖いんだけど…)
苦いから苦手で怖いんだけど、と思いはしたって、大丈夫。
「コーヒーが怖い」と笑ったハーレイ、そのハーレイが一緒なら。
誰よりも強いハーレイの側なら、怖いものなんか、きっと一つも無いだろうから…。
怖いものなんか・了
※「コーヒーが怖い」と言ったハーレイ先生とは逆に、怖いものが沢山のブルー君。
けれど、ハーレイ先生と一緒だったら、怖いものなんか無いようです。頑張れ、ブルー君v
(怖いものなあ…)
俺には無いな、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
夜の書斎でコーヒー片手に、今日の出来事を思い返して。
ブルーの家には寄れなかったけれど、古典の授業をしに出掛けた。
もちろん、ブルーのクラスへと。
ブルーは熱心に聞いていたって、他の生徒たちはそうはいかない。
いくら「ハーレイ先生」の人気が高くても…。
(授業ってヤツをしてる限りは、俺は嫌われちまうんだ)
テストが好きな生徒が一人もいないのと同じ。
授業が好きな生徒というのは、「いない」と言ってもいいだろう。
どんなに好きな科目であっても、自分のペースで学べるわけではない授業。
あまり好きではない科目となったら、嫌になる生徒だって出てくる。
(もう駄目だ、と投げ出すヤツとか、退屈になるヤツだとか…)
そうなると途切れる集中力。
余所見をしたり、欠伸をしたり、今にも寝そうな顔の生徒も。
それでは教師の自分も困るし、授業は其処で一休み。
生徒が食い付きそうな雑談の時間で、「よく聞けよ?」と始めてやったら…。
(現金なモンで、パッと教室の雰囲気が…)
変わってしまうから面白い。
居眠りしかけていた生徒までが、興味津々でこちらを見てくる。
「今日の話は何だろう?」と、好奇心に瞳を煌めかせて。
(…ああいう調子で、授業も聞いてくれればだな…)
いいんだがな、と思ってはみても、それが無理なことは百も千も承知。
仕方ないな、と始める雑談。
集中力は戻ったわけだし、そういう意味では大成功だ、と。
今日の話は「怖いもの」。
「怪談ですか?」と震え上がった生徒や、「怖い話」に期待する生徒もいたけれど。
(残念ながら、そうじゃなくてだ…)
聞かせてやったのは昔の落語。
ただし「あらすじ」、落語を全部話していたなら、もはや雑談とは呼べないから。
それの中身が「まんじゅうこわい」。
人間が地球しか知らなかった時代の日本で生まれた、有名な落語。
男たちが集まり、「お前の怖いものはなんだ」という話題に花を咲かせた。
蜘蛛だのムカデだの、色々なものが挙げられる中で、「無い」と答えた男が一人。
この世に怖いものなどは無いとうそぶいたから、周りの誰もがムッと来た。
「なんてヤツだ」と。
皆に睨まれた男の方では、もう渋々といった具合で…。
(本当は、一つだけあると…)
白状したのが「まんじゅう」だった。
SD体制が崩壊した今は、ちゃんと売られている「饅頭」。
中に餡子が詰まった食べ物、緑茶やほうじ茶が似合いの和菓子。
遠い昔も、やはり同じにあった「饅頭」、それが男の「怖いもの」。
そういうことなら、と他の輩は考えたわけで、「怖いものは無い」と言った男を…。
(饅頭攻めにしてやろう、と…)
男がいる部屋に次から次へと、「怖い」饅頭を投げ込んだ。
悲鳴を上げて騒ぐだろうと思っていたのに、男の方は…。
(とても怖いから、食ってしまえば無くなるだろうと…)
そう言いながらパクパクと食べて、平らげてしまった饅頭の山。
流石に「騙された」と誰でも気付くし、「本当に怖いものはなんだ」と詰ったら…。
(今だと、一杯のお茶が怖いと…)
饅頭にピッタリのお茶を挙げたから、お手上げとなって落語はおしまい。
生徒たちは「へえ…」と聞き入っていた。
「饅頭が怖い」と答えた男の頓智と、騙された他の男たちの話に笑い転げて。
一気に戻った集中力。
「お前たちも、こういう具合にだな…」
上手く切り抜ける頭を持てよ、とクラスを見回し、「授業に戻る」と言おうとしたら。
「先生!」と男子の一人が手を挙げた。
ブルーのクラスのムードメーカー、何かと言えば出てくる彼。
そうしてぶつけられた質問、「先生の場合は何ですか!?」と。
「…俺だって?」
「はい! 先生の怖いものは何なんですか?」
一つくらいはありますよね、という質問に沸き立った教室。
柔道の強さは知られているし、水泳の腕が立つというのも学校中に広まっている。
その上、身体も飛び抜けて大きく、頑丈に出来ているものだから…。
(俺の怖いものを知りたいというのは…)
分からないでもないんだがな、と今だって思う。
「ハーレイ先生にも怖い何かがあるのだろうか」と、生徒たちが興味を抱くのも。
けれども、怖いものなどは無い。…本当に。
そうは言っても知りたがるのが生徒たちだし、話題は「まんじゅうこわい」だったし…。
「ふむ…」と腕組みをして、暫し、考えるふり。
そして、重々しく答えてやった。眉間に深い皺まで刻んで。
「実はな…。俺は、コーヒーが怖いんだ」と。
途端にドッと起こった笑い。
コーヒー好きなのは、誰でも知っていることだから。
「先生、それは反則です!」と声が幾つも上がったけれど。
「いや、コーヒーが怖いんだ。…あえて言うなら、上等なヤツほど怖くてたまらん」
時間をかけて丁寧に淹れたヤツほど怖い、と震えてみせた。
「俺を怖がらせるなら、コーヒーだろう」と。
コーヒー豆など見ただけで怖いし、淹れたコーヒーなら尚更だな、と。
生徒たちは「嘘は駄目です!」と食い下がったけれど、サラリと無視した。
「授業に戻る」と背中を向けて。
(…コーヒーなあ…)
これが怖い、と愛用のカップを傾ける。
マグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、実の所はお気に入り。
(怖いものは何ですか、と訊かれてもだ…)
本当に「無い」から、そう答えたまで。
それで納得してくれないから、「まんじゅうこわい」の落語よろしく「コーヒーだ」とも。
今の時代はとても平和で、悪ガキとして育った自分のようなタイプは…。
(蛇が出ようが、ムカデだろうが…)
少しも怖いと思いはしないし、とても敵わない猛獣などは動物園の檻の中。
猛獣と戦うわけではないなら、「怖い」と思うわけがない。
「ほほう…」と鋭い牙や爪を眺めて、「いくら俺でも勝てないな」と思う程度で。
(こんな平和な時代じゃなあ…)
いったい何を怖がれと言うんだ、と生徒たちの顔を思い浮かべて苦笑する。
幼い子供だったらともかく、「いい年をした大人」たちには、「怖いもの」など無いだろうと。
(俺だけじゃなくて、誰だって…)
そういうモンだ、と思った所で気が付いた。
今の自分は「怖いものなど無い」のだけれども、前の自分はどうだったか、と。
遠く遥かな時の彼方で生きたキャプテン・ハーレイ、あちらの方は、と。
(…前の俺だと…)
まず挙げるのなら、人類軍。
シャングリラがあれば大丈夫だ、と思ってはいても強敵ではあった。
思考機雷の群れに追われて、三連恒星の藻屑になりかけたこともあったほど。
その人類軍にいた「人類」の方も、色々な意味で怖かった。
ミュウの敵だし、アルタミラでは酷い人体実験をされて生き地獄。
(…あれは確かに怖かったが…)
しかし今だと、どれもいないな、と考えるまでもない時代。
人間は誰もがミュウになったし、平和な宇宙に軍などは無い。
それに兵器も武器も無いから、怖いものなど「無い」と答えて当然だろう。
前の自分が時を飛び越えて来ても、「怖いものは無い」と言う時代。
そんな時代に生まれた自分に、「怖いもの」などある筈もない。
(うんと平和で、おまけにブルーも…)
ちゃんといるしな、と思い浮かべた小さなブルー。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ブルーは帰って来てくれたのだし、もう充分だ、と思う今の生。
けれど…。
(…あいつが俺に惚れていなかったら…)
もしもブルーが新しい身体と命に相応しく、まるで別の恋をしていたら。
自分の方など向いてもくれずに、他の誰かに恋をして去ってしまったならば…。
(…俺の人生は真っ暗じゃないか…!)
それだ、と気付いた「怖いもの」。
前の自分はブルーをメギドで失くしたけれども、そうやって「ブルーを失くす」こと。
どんな形であれ、「それが怖い」と、「ブルーがいない人生なんて」と。
ブルーが他の誰かに恋して、幸せに生きていたならば…。
(俺も温かく見守ってやれるが、それでもだな…)
日々、悲しくてやりきれない。辛くて、とても寂しくて。
つまり自分の「怖いもの」とは…。
(…ブルーがいない人生なんだ…)
ブルーだらけの人生だったら歓迎だが、と幸せな未来を頭に描く。
いつかそういう時が来るから、結婚して一緒に暮らすのだから。
(あいつと一緒の人生だったら、怖いものなど…)
一つも無いさ、と自信をもって言えること。
平和な今でも「怖いもの」が一つあるとしたなら、それは「ブルーがいない人生」。
けれどブルーと一緒だったら満足なのだし、怖いものなど全く無いな、と…。
怖いものなど・了
※「怖いものはコーヒー」だと答えたハーレイ先生。怖いものなど一つも無いな、と。
けれど怖いのが「ブルーのいない人生」。ブルー君さえ一緒だったら、「怖いもの」無しv
(今日は、いい日で…)
とっても充実してたよね、と小さなブルーが浮かべた笑み。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は休日、午前中からハーレイが訪ねて来てくれた。
夕食前まで二人きりの時間、両親を交えた夕食の後も…。
(コーヒー、出て来なかったから…)
食後のお茶も、この部屋だった。ハーレイと二人、のんびりと。
コーヒーが似合いの夕食の時は、そうはいかない。
(ぼくはコーヒーが苦手だけれど…)
両親はまるで平気な上に、ハーレイは大のコーヒー好き。
そのことは両親も知っているから、「ハーレイ先生もどうぞ」と出されるコーヒー。
和やかな会話がそのまま続いて、やがてハーレイが立ち上がる。
「そろそろ失礼させて頂きます」と、壁の時計に目を遣って。
そうなった日には、残念な気分。
「パパたちにハーレイを盗られちゃった」と、「もう、お別れなの?」と。
けれど顔には出せない、それ。
ハーレイへの恋はまだ秘密だから、目だけでハーレイに訴える。
「帰っちゃうの?」と。
そうしてみたって、ハーレイを引き止めたりは出来ない。
此処はハーレイの家ではないし、家族同然の付き合いとはいえ、「お客様」には違いない。
遅くまで長居は出来ないものだし、ハーレイは「帰らなければならない」。
頃合いの時間に、「では」と立ち上がって。
仕方ないから、チビの自分はハーレイを外まで送ってゆくだけ。
「ぼく、ハーレイを送って来るね」と、玄関を出て。
ハーレイと一緒に庭を横切り、生垣にある門扉まで歩いて行って。
其処で「またな」と手を振るハーレイ、こちらも「またね」と手を振り返す。
大きな影が見えなくなるまで、「早く家に入れ」とハーレイが身振りで促すまで。
今日もそうして見送ったけれど、素敵な一日ではあった。
朝、目が覚めたら、カーテンの隙間から射し込む朝日。
いい天気だと分かる光で、しかも休日。
(今日はハーレイ、歩いて来るよ、って…)
胸が躍って、ワクワクしながら洗った顔。
「早くハーレイが来ないかな?」と。
パジャマを脱いで着替える間も、頭の中はハーレイのことで一杯。
会ったら何を話そうかと。「訊きたいこと、何かあったっけ?」などと。
ダイニングで朝食を食べる時にも、もう嬉しくてたまらなかった。
(もうじきだよね、って…)
朝食を済ませて待っていたなら、ハーレイが家に来てくれる。
早起きなのだし、今頃はとうに朝食を終えて、出掛けるまでの時間潰しに…。
(庭の手入れとか、新聞を読んでいるだとか…)
ハーレイは何をしているのだろう、と思うだけでも高鳴る鼓動。
もう少ししたら会える恋人、今日は一日、一緒に過ごせる。
午前中のお茶も、二人きりでの昼食も。…それに午後のお茶も。
(ハーレイが来るのが楽しみで…)
頑張って部屋の掃除もした。いつもより、ずっと念入りに。
二人で使うテーブルと椅子も、場所を整え、テーブルを綺麗にキュキュッと拭いて。
それが済んだら、「まだ来ないかな?」と覗いた窓の向こう側。
二階からだと、表の通りもよく見える。
ハーレイが歩いて来たら分かるし、姿が見えたら手を振ろうと。
(でも、ハーレイ…)
早めに来るということは無い。
「お母さんに迷惑だろうが」と、朝食の誘いも断るほど。
だから読めない、到着の時間。
「このくらいの時間」というのはあっても、時計のようにピッタリではない。
少し早かったり、遅かったり。ごくごく自然に幅があるもの。
それもハーレイの主義なのだろう。
時間ピッタリの到着だったら、迎える側も気を遣う。
「準備が出来ていないと駄目だ」と急ぎもするし、遅かったならば心配だって。
そうならないよう、ハーレイはフラリとやって来る。
早すぎもしない、遅すぎもしない、そういう時間の何処かを選んで。
(今日はどっちの方なんだろう、って…)
分からないから、こちらもちょっぴり一休み。
掃除はすっかり済ませたのだし、勉強机の前に座って、読みかけの本を開いていたら…。
(チャイムが鳴って、窓から覗いて…)
ハーレイの姿を其処に見付けた。門扉の向こうで、笑顔で大きく手を振る人に。
こちらも負けずに手を振り返して、じきにハーレイが部屋に来て…。
(ママがお茶とお菓子を運んでくれて…)
其処からは二人きりの時間の始まり。
母が作ったケーキを頬張り、紅茶のカップを傾けながら色々な話。
(ハーレイが歩いて来る途中で…)
見て来た花の話も聞いたし、出会った犬や猫の話も。
「それで?」と何度も先を促しては、「他には?」と質問したりもして。
そうして二人で話していたなら、話題はどんどん広がってゆく。
学校のこととか、普段のこととか、ハーレイの両親のことだとか。
(他にも話すことは一杯…)
何かのはずみにヒョイと飛び出す、前の自分たちが生きた時代のこと。
「あの時はゼルが…」とか、「それはブラウだ」とか、思い出話。
遠い昔のことだけれども、今も鮮やかに覚えているもの。
白いシャングリラで過ごした時間を、其処で起こった出来事を。
(今日も話をしてたっけ…)
懐かしい白い鯨での日々。
苦労話もしたのだけれども、どれも今では「いい思い出」。
あんなこともあった、と思い出しては、二人で懐かしんだりもして。
そうやって二人で話している間に、いつの間にやら日が暮れていた。
午前のお茶が済んだら昼食、二人きりでこの部屋のテーブルで食べて…。
(美味しかったね、って…)
ハーレイと「御馳走様」をしたのが、ついさっきのよう。
空になったお皿を母が下げに来て、三時になったらお茶とお菓子が届いたのも。
(まだまだ時間はたっぷりあるよ、って…)
時計を眺めて満足した。「まだ三時だもの」と。
夕食が出来たと呼ばれるまでには、まだ何時間もあるんだから、と。
そしてハーレイと楽しくお喋り、時間はたっぷりあった筈なのに…。
(日が暮れちゃった、ってカーテンを閉めて…)
暫く経ったら、母が扉を軽くノックした。
「夕食の支度が出来たわよ?」と。
ダイニングにどうぞ、と呼ばれたからには、其処で二人きりの時間はおしまい。
両親も一緒の夕食の席で、恋人同士の話は出来ない。
(…コーヒーが出て来ませんように、って…)
祈るような気持ちで降りて行ったら、コーヒーは合いそうにない料理。
ホッとしながら夕食を食べて、食後のお茶は部屋に戻れて…。
(時間はあると思ったんだけどな…)
まだ大丈夫、とハーレイとお茶を飲んでいる間に、アッと言う間に流れ去った時間。
ハーレイが「またな」と立ち上がったから、驚いた。
「もう、そんな時間?」と。
けれども、壁の時計を見たなら、嫌でも分かる。
「ハーレイが帰る時間なんだ」と、「いつの間に時間が経っちゃったの?」と。
そうは思っても、過ぎた時間は戻せない。…どうにもならない。
ハーレイを引き止められもしないし、外まで送ってゆくしか無かった。
階段を降りて、玄関を出て。
庭を横切って門扉を開けたら、「さよなら」の時間。
ハーレイは帰って行ってしまって、終わってしまった「今日という一日」。
終わっちゃった、と寂しい気分。
朝にはあんなに胸が躍っていたというのに、今の自分は一人きり。
ハーレイは家に帰ってしまって、窓辺のテーブルと椅子は空っぽ。
(…ハーレイの指定席だって…)
空っぽだよね、と眺める椅子。
ハーレイの体重で、ほんの少しだけ座面がへこんでいる方の椅子。
朝に掃除して、「この椅子は此処」と置き場を整えた時は、たっぷりあると思った時間。
「今日は一日、ハーレイと一緒」と、「学校のある日とは違うんだから」と。
何を話そうかとドキドキしながら、ハーレイが来るのを待ったのに。
とても素敵な時間が山ほど、幸せな日だと喜んだのに…。
(…うんと幸せだったけど…)
終わっちゃったら一瞬だよね、と思うくらいに短かった日。
さっきハーレイが来たと思ったら、もう空っぽになっている部屋。
外はとっくに真っ暗なのだし、時間が沢山流れたことは本当だけれど…。
(楽しい時間って、どうして早く過ぎちゃうんだろう…)
そうでない時間は、ゆっくり流れるものなのに。
ベッドの端にチョコンと座って、考え事を始めてからの時間だったら…。
(ほんのちょっぴり…)
まだ身体から、ホカホカと湯気が立っているように思えるくらい。
そのくらいしか経っていなくて、それなのに長く感じる時間。
ハーレイと二人で話していた時は、半時間など、直ぐだったのに。
一時間だって一瞬のことで、気が付いたら日が暮れていたのに。
(…前のぼくだって、そうだったけどね…)
いつだって、アッと言う間だっけ、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。
前のハーレイと生きていた頃に。
白いシャングリラに、恋人同士で長く暮らしていた船に。
キャプテンだった前のハーレイはとても多忙で、恋人同士で会えたのは夜。
青の間でのキャプテンとしての報告、それが終われば二人の時間。
(お茶を飲んだり、ちょっと夜食をつまんだり…)
二人で話して、笑ったりもして、楽しく過ぎていった時。
まだ大丈夫と思っていたのに、いつもハーレイに遮られた。
「もう遅いですから、休みましょう」と。
(それで時計を眺めたら…)
思った以上に遅かった時刻、「まだ早いよ」とは返せなかった。
楽しい時間は其処で終わって、何度ガッカリしたことだろう。
同じベッドで眠るとはいえ、もっと話していたかったのに、と肩を落として。
(あの頃も、今も、おんなじだよね…)
楽しい時には、時間が早く経つということ。アッと言う間に流れ去ること。
そうは思っても、前の自分とハーレイだったら、今日のようには…。
(あれだけの時間を二人きりなんて、絶対に無理…)
無理だったよね、と分かっているから、今の自分の幸せを思う。
「楽しい時間は直ぐに終わるけど、前よりも、ずっと沢山だから」と。
これからもたっぷり取れるんだから、それを楽しみにすればいいよね、と…。
楽しい時には・了
※楽しい時には、時間は直ぐに過ぎてしまう、と考えているブルー君。「今日も、そう」と。
前の生でも同じだった、と思ったものの、今はたっぷりある時間。次の機会を待てるのですv