(どんな時でも、か…)
ふと、ハーレイの頭に浮かんだ言葉。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎に座っていたら。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それを傾けた時のこと。
「どんな時でも」と、本当に、不意に。
何かの歌の歌詞などではなくて、何処からかやって来た言葉。
けれども、直ぐに愛おしい人に結び付く。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
まだ十四歳にしかならないブルーへと、飛んでゆく想い。
「どんな時でも、忘れやしない」と。
どんな時でもブルーを想うし、想っている、と。
そう、今だって「そう」だった。
「どんな時でも」と思い付いたら、ブルーのことを想っていた。
どんな時でも忘れやしない、と青い地球の上で再び出会えた人を。
(……長いこと、忘れていたくせにな?)
三十七年ほど忘れていなかったか、と苦笑する。
「その人」のことを、すっかり忘れていなかったかと、自分に向かって。
今の自分は三十八歳だけれど、その誕生日を迎えるより前。
五月の三日に「ブルーのクラスで」再会するまで、何も覚えてはいなかった。
遠く遥かな時の彼方で、誰よりも愛した人のことを。
その人の名前も、面影でさえも。
(ソルジャー・ブルーの写真だったら…)
嫌というほど見たんだがな、と記憶は山ほど。
かの人の名前も、いったい何回、聞かされたことか。
入学式の挨拶などでは、名が挙がるのが定番だけに。
今の平和なミュウの時代を築く礎になった人。
「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」と、何処の学校でも説かれるもの。
こうして勉強できる学校、それがあるのもソルジャー・ブルーのお蔭なのだから、と。
下の学校に通った頃から、今の自分が教えるような学校まで。
もう何年もの長い年月、聞き続けて来た「ソルジャー・ブルー」の名前。
生徒として耳にしたのが最初で、今では教師の立場で聞く。
入学式などに出席する度、「ふむ…」と頷いて。
その挨拶を「生徒たち」は真面目に聞いているかと、見回しもして。
(…真面目に聞いてる生徒もいれば、居眠ってるのも…)
いるんだよな、と教師だからこそ分かること。
入学式では、流石に寝る子はいないけれども、始業式なら何人もいる。
「またか」と、長い挨拶に飽きて。
恐らくは前夜の夜更かしなどで、ウトウトと眠くなってしまって。
(俺は居眠ってはいなかったが…)
聞き飽きてはいたな、と思う、かの人の名前。
「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」と、校長が挨拶する度に。
(…この名前が出たら、挨拶はもう後半で…)
運が良ければ、あと一分もしない間に終わるもの。
話を短く切り上げるのが、好きな校長だった場合は。
長い話をするタイプならば、まだ「その先」があるのだけれど。
SD体制の時代がどうのと、ソルジャー・ブルーが生きた時代まで持ち出して。
今の時代は「如何に恵まれているか」を、滔々と話し続けたりして。
(それにしたって、もう後半だし…)
前半で十五分ほども話していたって、あと十五分ほどで終わる筈。
「もう少しだけの辛抱だ」と、生徒だった頃には考えていた。
校長の挨拶の内容なんかは、まるで気にさえ留めないままで。
(…教師になったら、そこの所は変わったんだが…)
たとえ定番の挨拶だろうが、校長の個性などは出る。
「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」と口にするまでに、何を語るか。
生徒たちに向けてのメッセージなどが、気にかかるもの。
「大いに遊べ」と語るタイプか、「まずは勉強」と言い出す方か。
教師の耳なら、そちらを聞く。
「この校長は、どっちなんだ?」と。
そんな具合だから、馴染み深かったブルーの名前。
前の生での、恋人の名前。
「ソルジャー」の尊称をつけて呼ばれていた「ブルー」。
けれど、覚えていなかった。
生徒だった頃から何回も聞いて、教師になってからも聞き続けても。
何度となく耳にしていても。
(ソルジャー・ブルーに感謝しましょう、とくればだな…)
挨拶も後半に入ったのだ、と思うだけ。
その名を聞いても、「ソルジャー・ブルー」の顔さえ浮かびはしなかった。
「ああ、コレが出たら後半だ」と感じただけで。
ソルジャー・ブルーが「どういう人か」は、少しも考えさえせずに。
(ミュウの時代の、始まりの英雄というヤツで…)
自分とは無縁の「大英雄」だと、頭の中で「理解していた」だけ。
印象的な筈の、その姿さえも思いはせずに。
「ソルジャー・ブルー」は単なる記号で、挨拶の決まり文句でしかない。
その名が出て来て、「感謝しましょう」と続いたならば、挨拶はもう後半だ、と。
(綺麗サッパリ、忘れちまってた…)
あいつのことを、と情けない気持ち。
前の生で深く愛し続けて、失った後も同じに愛した。
シャングリラで地球を目指す旅路で、魂は死んでしまっていても。
生ける屍のような日々でも、「ブルー」を忘れた日など無かった。
本当に、ただの一度でさえも。
(あいつの夢を見ちまって…)
それが「ブルーが生きている夢」で、そのままパチリと目が覚めた時。
「もういないのだ」と現実を知って、どれほどに涙したことか。
夢の中では、ブルーは生きていただけに。
他愛ない話をして笑い合って、その続きに目が覚めたなら。
そうした夢を見ない時でも、朝、目覚める度、ただ悲しかった。
いつも隣で眠っていた人、その人は二度と戻らないのだと。
(あいつが深く眠っちまってからは…)
一緒に眠りはしなかったけれど、心はいつでも追い掛けていた。
どんな時でも、かの人のことを。
いつか目覚めてくれた時には、何から話せばいいだろう、などと。
(なのに、あいつは逝っちまって…)
一人きりで白い船に残され、それでも想い続けていた。
けして忘れる時などは無くて、本当に「どんな時」であっても。
(前の俺は、そうやって生きて、地球まで行って…)
其処でも「ブルー」を想い続けながら、長すぎた生を終えた筈。
「これでブルーの許へ行ける」と、地球の地の底で、笑みさえ浮かべて。
そうして全ては終わってしまって、「ブルーと二人で」飛び越えた「時」。
遥かな後の時代の地球まで、青く蘇った水の星まで。
(今度こそ、あいつと生きてゆくために…)
地球に来たんだと思うんだがな、と確信してはいても、「忘れていた」名前。
「ソルジャー・ブルー」の名前を何度聞いても、全くピンと来なかった。
胸がドキリと跳ねはしないし、鼓動が速くなることも無し。
ただ淡々と聞いていただけで、顔さえも思い浮かべなかった。
「それ」は「かの人」の名前なのに。
前の自分が愛し続けた、「ソルジャー・ブルー」の名前だったのに。
(……うーむ……)
ものの見事に忘れちまって、それっきりか、と呻きたくなる。
最愛の人の名を忘れ果てたかと、それだと気付きもしなかったかと。
(薄情だと言うか、何と言うべきか…)
たとえ記憶が戻らなくても、何かがあれば良かったのに。
「ソルジャー・ブルー」と耳にしたなら、心臓がドクンと跳ねるとか。
理由もないのに、耳について離れないだとか。
(そういったことが、一つだけでもあったなら…)
今のあいつに語れもするが…、と思いはしても「無かった」兆し。
ブルーへの想いも、時を飛び越えるほどの恋さえも。
考えるほどに、悔しい「それ」。
「なんだって、俺は忘れたんだ」と、嘆きたいほど。
こうして思い出した今では、どんな時でも忘れないのに。
前の自分がそうだったように、「ブルー」を想い続けているのに。
(忘れちまったものは、仕方ないんだが…)
それにお互い様でもあるし、と「今のブルー」を思ってみる。
ブルーの方でも、「ハーレイ」を覚えていなかった。
五月の三日に「出会って」、記憶を取り戻すまで。
聖痕がブルーの身体に現れ、互いの記憶が戻った時まで。
(つまりは、おあいこ…)
お互い「忘れ去っていた」ことを責めはしないし、責められもしない。
これからの日々で忘れなければ、それで済むこと。
だから「忘れまい」と、自分に誓う。
誓わなくても、ブルーを忘れはしないけれども。
それこそ頭に浮かんだ通りに、「どんな時でも」。
ブルーに会えずに終わった時でも、会えない日ばかり続いたとしても…。
どんな時でも・了
※どんな時でも、ブルー君を「忘れはしない」のがハーレイ先生。会えない日でも。
けれど、記憶が戻る前には、「忘れていた人」。それはちょっぴり悔しいですよねv
(…あれっ…?)
今の…、と小さなブルーが眺め回した部屋の中。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろしていたのだけれど。
耳に届いた微かな羽音。
もちろん、鳥の羽音ではなくて…。
(…今の音って…)
カメムシだよね、とキョロキョロと見回す天井や壁。
「プーン…」と聞こえた独特の羽音、アレは「そうだ」と思うから。
触ったらとても「臭い」カメムシ、それが「この部屋にいる」ようだから。
(……どうしよう……)
放っておいたら大変だよね、と分かる「ソレ」。
飛んでいるだけなら害は無くても、ウッカリ触れば悲劇になる。
カメムシが放つ最後っ屁。
部屋も、最後っ屁がついた所も、とんでもない臭いに覆われて。
通学鞄に臭いがついたら、学校に行くのも恥ずかしい気分になることだろう。
友達は直ぐに気付くだろうし、学校に行く路線バスの中でも…。
(…何処かからカメムシの臭いがする、って…)
他の乗客が視線と鼻で捜して、「あの子の鞄だ」と見詰めてくるのに違いない。
なんて臭いをさせているのだと、呆れ顔で。
(…鞄からだ、って分かってくれれば、まだいいけれど…)
勘違いする人もいるかもしれない。
臭いは通学鞄からではなくて、制服からだとか。
もっと酷ければ、「あの子の髪の毛にカメムシがいる」といった具合に。
(…髪の毛にくっついてるんなら…)
不幸な事故だと思ってくれもするだろうけれど、家を出る前に「ついた」と思う人だって。
こちらの方をチラチラ見ながら、「洗って来ればいいのに」と。
カメムシの臭いがちゃんと取れるまで、シャンプーで髪を洗って来れば、と。
そういうのは御免蒙りたい。
通学鞄に臭いがつくのも、明日、着て行こうと置いてある制服なんかにくっつくのも。
(…制服は替えがあるけれど…)
朝、「着てしまってから」カメムシが来たら、手遅れになるということもある。
そういう朝に限って寝坊で、着替える時間は「もう、無い」とかで。
(…制服の中に隠れちゃうことも…)
ありそうだよね、と分かっているから恐ろしい。
カメムシの身体は、とても薄いもの。
制服の中に「よいしょ」と潜って入っていたって、「着てしまうまで」気付かない。
袖を通して、それから臭いがしてくるまで。
「制服の中に入ってたんだ…!」と、カメムシの臭いで悟るまで。
(…そんなの、嫌だよ…!)
行きのバスでも、学校に着いて教室に行っても、注目を浴びるだろう自分。
「カメムシ臭い」と、誰もが気付いて。
友達だったら、きっと容赦なく肩を叩いてくれるだろう。
「今日のお前は、凄く臭うぜ?」などと、カメムシの臭いを指摘して。
(…廊下でハーレイに会っちゃっても…)
「ハーレイ先生」は、笑顔で挨拶してゆくのだろう。
「おっ、新作の香水か?」と可笑しそうに。
カメムシは香水などではないのに、「香水」は校則で禁止されていると思うのに。
「その香水は何処のなんだ?」とでも訊くかもしれない。
「俺は使いたいとは思わないんだが、お前の趣味はソレなんだな?」と。
(……ハーレイに、そう言われちゃったら……)
「ハーレイ先生」ではなくなった時に、「香水」の話が出てきそう。
仕事の帰りに寄ってくれた日や、休日に訪ねて来てくれた時に。
「今のお前が好きな匂いは、変わってるよな」と、「例の香水」の臭いを挙げて。
カメムシなんだと知っているくせに、それを香水扱いで。
(…そんなに好きなら、いつかプレゼントしてやろう、って…)
からかいだってするのだろう。
「チビのブルー」が前と同じに育った時には、カメムシの香水を贈ってやる、と。
欲しいと思わないプレゼント。
ハーレイが「くれる」ものなら何でも欲しいけれども、「ソレ」は要らない。
カメムシの臭いの香水なんかは、貰っても困る。
(…まさか無いとは思うけど…)
ハーレイだったら、「冗談だ」と言いながらも、「持って来そう」ではある。
「育ったブルー」ではない、「チビのブルー」に。
カメムシを香水の空き瓶に詰めて、恩着せがましく「お前の好きな香水だ」と。
(それって、断ったら駄目なんだよね…?)
どんなに迷惑な臭いがしたって、ハーレイからのプレゼント。
それも「香水」、「チビのブルー」には、まだ「早すぎる」だろう洒落た品物。
たとえ冗談の贈り物でも、香水瓶の中身は「カメムシの臭い」でも。
(ありがとう、って受け取って…)
早速、つけるべきなのだろうか。
香水瓶の蓋を外して、中身のカメムシが放つ臭いを。
なんと言っても「香水」なのだし、それっぽく「香る」だろう場所に。
(…ママの香水……)
耳の後ろや、手首につけているのを知っている。
それと同じに、「ハーレイに貰った」カメムシ入りの香水瓶の「臭い」を纏うのだろうか。
「プレゼントして貰った」からには、その場で、笑顔で。
心の中では泣いていたって、「とても嬉しい!」と感激して。
(……カメムシの臭い……)
嫌だよ、と思う「酷い香水」。
けれどハーレイからのプレゼントならば、冗談が詰まった香水瓶でも…。
(うんと喜んでおかないと…)
いつか大きく育った未来に、プレゼントを貰えないかもしれない。
「お前、喜ばなかったからな?」と、「カメムシ入りの香水瓶」の話をされて。
誕生日などの記念日だったら「何か貰えても」、普段は「何も貰えない」とか。
いわゆる、サプライズというヤツは。
思いがけないプレゼントの類は、「お前は、喜ばなかったから」と。
(それは困るよ…!)
サプライズのプレゼントが「貰えない」未来も、カメムシ入りの香水瓶も。
どちらも嫌だし、避けたいもの。
カメムシの臭いを「させていた」せいで、そんな運命を辿るのは。
(……退治しなくちゃ……)
そうなる前に、と引き出しから出した粘着テープ。
カメムシ退治にはコレが一番、と母が教えてくれたのだったか。
幼かった頃に「掴んでしまって」、大泣きした日に。
「こうして捕まえればいいの」と、最後っ屁を「放ってしまった」虫の背中に貼って。
(…先に粘着テープを貼ったら…)
もう最後っ屁は放てない。
次に羽音が聞こえて来たなら、コレを使って捕まえないと。
通学鞄や制服に「臭い」がついてしまって、悲しい思いをしたくなければ。
ハーレイが「カメムシ入りの香水瓶」を持って来るとか、サプライズは無しの未来とか。
(…絶対、嫌だよ…!)
徹夜してでも捕まえてやる、と粘着テープを手にして待った。
独特の羽音が聞こえて来るのを、カメムシが動き始める時を。
漏れそうになる欠伸を噛み殺しては、「カメムシ退治…」と心で繰り返して。
(来た…!)
あそこ、と見付けた羽音の持ち主。
天井の近くを飛んでいるから、まだ届かない。
(見失ったら、おしまいだから…)
しっかり見据えて、チャンスを待った。
粘着テープで捕まえられる場所に止まるのを。
チビの自分の手でも充分、届く所にやって来るのを。
(…今だ…!)
クローゼットの扉に止まった所を、そっと近づいて、ペタリと貼った粘着テープ。
カメムシが最後っ屁を放たないよう、背中にペタンと。
嫌な臭いが、部屋中に満ちてしまわないように。
(やった…!)
もう大丈夫、と粘着テープに「くっついた」虫を包んで捨てた。
ゴミ箱にポイと、テープごと。
これで「カメムシ入りの香水瓶」を、ハーレイからプレゼントされないで済む。
「お前、喜ばなかったからなあ…」と、「サプライズが貰えない」未来が来るのも回避した。
(…良かったよね……)
そんな悲劇にならなくて…、と笑みを浮かべた所で気が付いた。
今のハーレイなら「香水か?」と、酷い冗談を言いそうだけれど。
カメムシ入りの香水瓶まで「好きな香水だろ?」と「持って来そう」なほどなのだけど…。
(…前のハーレイだと、カメムシなんか…)
きっと臭いさえ知らなかったろう。
シャングリラにいた虫はミツバチだけで、蝶さえもいない船だったから。
「役に立たない」生き物なんかは、白い箱舟にはいなかったから。
(……ぼくに冗談で贈りたくても……)
前のハーレイは、香水の空き瓶に「カメムシを詰める」ことは無理だった。
そういう香水瓶が無いなら、前の自分も「貰えなかった」。
迷惑そうな顔をしつつも、「カメムシ入りの香水」を纏うべきかどうかも「悩めない」。
前のハーレイが「くれない」のならば、悩むことさえ出来ないから。
(……うーん……)
今だから貰えるんだよね、と気付かされた「カメムシ入りの香水」。
ハーレイが「酷い冗談」を思い付きそうなのも、「今だからこそ」。
カメムシは嫌われ者の虫でも、白いシャングリラには「いなかった」虫。
青い地球の上に二人で来たから、「カメムシ入りの香水瓶」の出番なんかもあるのだろう。
(…そんなプレゼントは欲しくないけど…)
嫌われ者でも、可哀相なことをしちゃったかな…、という気がする。
前の自分は、カメムシ入りの香水瓶などは「貰うことさえ」出来なかった、と分かったら。
平和な青い地球の上でしか、貰えないのだと気付いたら。
とはいえ、欲しくはないけれど。
同じプレゼントを貰うのだったら、「もっと素敵な何か」が欲しいと思うけれども…。
嫌われ者でも・了
※ブルー君が避けたい、カメムシ入りの香水瓶を「ハーレイ先生から、貰う」こと。
けれど、前のブルーだと「貰えなかった」香水瓶。地球ならではの迷惑なプレゼントですv
(……ん……?)
この音は…、とハーレイが見回した、自分の周り。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた、熱いコーヒー。
それを傾けていたのだけれども、耳に届いた微かな羽音。
(…何処だ?)
音が止んだら分からんぞ、と順に部屋の中を目で追ってゆく。
まずは天井、お次は本棚が無い部分の壁、といった具合に。
(…うーむ……)
厄介な、と思いもする。
なにしろ、羽音が羽音だったから。
もちろん鳥の羽音ではない。第一、鳥なら直ぐに見付かる。
(あんなに小さな鳥はいないぞ…)
とても小さい鳥のハチドリでさえも、今の羽音の主より大きい。
部屋の何処かに止まっていたなら、「あそこだ」と分かることだろう。
つまり、羽音の持ち主は「虫」。
しかも厄介なことに「平たくて」、何処にでも入り込める虫。
自慢の書斎の本の間でも、アレならば「入ってしまう」ことが出来る。
入ってそのまま「冬越し」でもして、出てゆくのならばいいけれど…。
(俺が本を出そうとした時に、だ…)
知らずに一緒に掴もうものなら、本が台無しになるのは確実。
「プーン…」と独特の羽音がした虫、あの音は「カメムシ」で間違いはない。
平たくて、四角いような身体をしたカメムシ。
ただ「いる」分には害はなくても、触った途端に「酷いことになる」。
それはとんでもない臭いを放つものだから。
一度、臭いがついてしまったら、そう簡単に消えはしないから。
手ならば「洗い続ければ」いいし、服でも「洗えば」いつかは消える。
けれども、本を洗えはしなくて、「臭い」がついたら、それでおしまい。
本を開く度、カメムシの臭いが立ち昇って。
そいつは御免蒙りたいぞ、とサイオンで部屋を探ってみても分からない。
相手はカメムシ、思念波なんぞは持っていないから。
(…どの辺りだった?)
音がしたのは…、と自分の耳に尋ねるけれども、「さて…?」という返事。
机に向かって、ゆったりと傾けていたマグカップ。
その時に「何処かで」音がした、としか「耳」は覚えていなかった。
強いて言うなら「背中の方」で、どちらかと言えば「上」だろう、としか。
(……天井に止まっていたんなら……)
直ぐに解決するんだがな、と端から端まで眺めても、「いない」。
書斎の天井の何処を見詰めても、カメムシの四角い姿は「見えない」。
壁にもいないし、こうなってくると、「本棚の何処か」しかない居場所。
本の間に潜り込んだか、背表紙にでも止まっているか。
(…ページの上ってこともあるよな…)
閉じて本棚に入れてある本、それのページは「ぎっしり詰まって」板のよう。
その上にならば、カメムシも乗れる。
たった一枚きりの紙では、薄すぎて乗っていられなくても。
しがみつくのが精一杯でも、閉じた本なら悠々と「ページの上に」止まれるもの。
場合によっては「其処で」冬越しするつもりで。
そうとも知らずに本を掴んだら、たちまち目覚めて、最後っ屁で。
(…また、そういった本に限って…)
大切な本に決まってるんだ、と溜息までが零れてしまう。
とても気に入っている愛読書だとか、重宝している資料だとか。
(……いっそ、その手の本を端から……)
調査するのがいいだろうか、と顔を顰めてコーヒーを一口。
「カメムシがいる」とハッキリしている間に、本を相手に始める家捜し。
何処にカメムシが潜んでいるのか、「大切な本」を最優先で。
「いたら困る」場所から捜し始めて、「まだマシ」な場所は後回しで。
(…その方がマシというものか…)
やられてからでは遅いからな、と立ち上がる。
まずは道具を…、と引き出しに「ソレ」があったかどうかを、考えながら。
(……無いな……)
書斎に置いているわけもないか、と取りに出掛けた道具。
カメムシが「他の部屋へ移ってくれる」ことを祈って、扉を大きく開け放って。
(…虫ってヤツは、明るい方へと行くもんだが…)
カメムシもソレと同じだろうか、と「消して」出て行った書斎の明かり。
運が良ければ、明るい廊下に行くだろう、と。
(…出て行った所で、出て行く姿を見ないと「出た」とは分からんし…)
とにかく道具だ、と持って戻った粘着テープ。
カメムシを退治するのだったら、それに限ると父が教えてくれたのだったか。
四角い背中にテープをペタリと貼ってやったら、もう「最後っ屁」は放たない。
テープにくっついて、足をバタバタさせていようとも、臭いはしない。
「包んで」捨ててしまえば終わりで、「本に臭いがつく」被害は防げる。
ただし「本ごと」くっつけないよう、注意しないと駄目なのだけれど。
(なんたって、本は紙だから…)
粘着テープがくっついたならば、剥がす時に本は傷んでしまう。
背表紙の一部が剥げてしまうだとか、ページの端が破れるだとか。
(…退治するのも、厄介だってな)
出て行ってくれたなら、いいんだが…、とパチンと書斎の明かりを点けた。
そして椅子へと座り直して、少し温くなったコーヒーを飲む。
「ヤツは何処だ?」と、警戒心を保ったままで。
今度「プーン…」と羽音がしたなら、逃さないぞ、と。
それが聞こえて来ないようなら、計画通りに家捜しだけれど…。
(……来たか!)
カメムシは書斎に「居残っていた」。
独特の羽音がする方を見れば、天井の近くを飛んでいる姿。
(焦ったら駄目だ…)
飛んでいる間は、粘着テープを振り回しても無駄。
当たり所が悪かったならば、たちまち「臭い」が満ちるだけ。
本にも服にも移りかねない、あのカメムシの「酷い臭い」が部屋中に。
まだ飛んでいるカメムシを睨んで、待ち続けたチャンス。
止まってくれても、「其処はマズイ」と思う場所にしか「止まらない」だけに。
(もう少し場所を選んでくれ…!)
本の無い場所にしてくれないか、と粘着テープを握って、ひたすら待って。
ようやく止まってくれたカメムシ、本棚の端っこの方に。
(よし、今だ…!)
逃がさん、と立って、そっと足音を忍ばせて行って、ペタリと貼った粘着テープ。
本棚の隅にいたカメムシの背中に、くっつけて。
(…取れた!)
被害はゼロだ、と粘着テープに「くっついた」虫の腹を見据える。
足は動いているのだけれども、もう「臭い」などは出せない虫を。
(…俺の書斎に来るからだ!)
家の外にいればいいものを…、と粘着テープを畳むようにして、包んだカメムシ。
二度と中から出られないよう、ピッタリと。
そうしてペシャリと潰してトドメで、ゴミ箱にポイと捨てたのだけれど。
「厄介な虫を退治できた」と、大満足で、冷めたコーヒーを傾けたのだけれども…。
(……待てよ?)
あんな虫などいなかったぞ、と蘇って来た、遠い昔の記憶。
ずっと遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた頃。
(…シャングリラの中で、虫と言ったら…)
ミツバチだけしか、いなかった。
花粉を運んでくれる働き者で、蜂蜜まで作る虫がミツバチ。
「役に立つから」と巣箱が置かれていた農場。それに公園といった場所にも。
けれど、他には「いなかった」虫。
花から花へと舞う蝶でさえも、シャングリラでは見られなかった。
役に立たない生き物までもを「飼う」余裕などは無かったから。
前のブルーが「欲しい」と願った青い鳥さえ、船では飼えなかったから。
そういう船では、カメムシがいるわけもない。
役に立たないどころではなくて、「嫌われ者」の虫なのだから。
(……ふうむ……)
捨てちまったが、と眺めるゴミ箱。
その中で「死んでいる」だろうカメムシ、とても嫌われ者の虫。
とはいえ、「今だからこそ」なんだ、と感慨深く。
ミュウが生きるだけで精一杯だった白い箱舟、あの船では「会えなかった」虫。
(…カメムシは臭いということさえも…)
意識して生きちゃいなかったよな、と顎に手を当てて考えてみる。
「いない」虫など意識しないし、「嫌う」ことだって無かっただろう。
船の何処にも「いない」のでは。
「俺の大事な持ち物に、あんな臭いは困る」とさえも思わないのでは。
(……カメムシなあ……)
嫌われ者だが、ちと可哀相なことをしちまったかもな、とコーヒーのカップを傾ける。
前の自分が出会っていたら、しげしげと見詰めそうだから。
ウッカリ触って臭いがしたって、「地球の虫か」と喜びそうにも思うから。
嫌われ者の虫が放った、最後っ屁でも。
キャプテンの制服に臭いがついても、嫌いはせずに。
(価値観の違いというヤツか…)
嫌われ者でも愛されるのか、と可笑しくなる。
前の自分が出会っていたなら、カメムシはきっと、「地球の珍しい虫」だろうから…。
嫌われ者だが・了
※ハーレイ先生の書斎に「入った」カメムシ。困る、と退治したわけですけど…。
今は「臭い」と嫌われ者でも、前のハーレイにとっては「珍しい虫」。価値観の違いv
(ハーレイ、来てくれなかったよ…)
今日は来るかと思ってたのに、と小さなブルーが漏らした溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
(…昨日も来てくれなかったし…)
会いたかったのに、と思うけれども、ハーレイにも事情があるのだろう。
放課後に長引く会議があったとか、柔道部の方で指導が長引いたとか。
(…ハーレイだって、忙しいんだし…)
学校がある日は仕事だもんね、と分かってはいる。
毎日のように、この家を訪ねて来ることは出来ないのだ、と。
時にはとても遅い時間に、疲れ果てて「ハーレイの家」に帰る日もあるかもしれない。
でも…、と思い浮かべる「他の原因」。
この家を訪ねて来られない日は、仕事だけが「理由」とは限らない。
(学校の先生たちと食事に行っちゃう日だって、あって…)
そうした時には、もちろん来てはくれない。
ハーレイは「他の先生たち」と楽しく食事で、酒は飲まないらしいけれども…。
(車で行ってるからだよね?)
前のハーレイのマントの色をした愛車。
濃い緑色の車で通勤するから、学校の帰りに食事に行くなら「運転手」。
他の先生たちを乗せて走って、食事が済んだら順に家まで送ってゆく。
車に乗せられる定員一杯、それだけの数の先生たちを。
飲酒運転は禁止なのだし、ハーレイは「酒を飲まない」だけ。
それを承知で「車に乗って出掛ける」のだから、「酒を飲めない」のは自分で決めたこと。
「飲みたい」のならば、「車を置いて」出掛けてゆくという道もある。
学校の駐車場に置いておくなら、まるで要らない駐車料金。
次の日の帰りまで置いておこうと、追加料金なんかを取られはしない。
それを知らないわけもないのに、車で行くなら「飲めない」ことは百も千も承知。
(ちっとも可哀相じゃないから!)
ハーレイだけが、酒を飲めなくても。
他の先生たちは飲んで騒いで、とても賑やかな食事でも。
今日は「そっち」の日だったろうか、と考えが「食事」の方に向く。
会議や部活で忙しかったせいで「来られなかった」日とは、違ったろうか、と。
(ぼくがパパやママと食事をしてた時間に…)
ハーレイは何処かの店で食事をしていたろうか。
他の先生たちと出掛けて、美味しいと評判の店などで。
(…それで来られなかったなら…)
ちょっと酷い、と思わないでもない。
付き合いは大切なのだけれども、「恋人」だって大切なもの。
どんなに「チビ」の恋人でも。
「キスは駄目だ」と言われるくらいに子供扱いされていたって、恋人には違いない自分。
しかも「普通の恋人」とは違う。
前の生から恋人同士で、生まれ変わって再び巡り会えたほどの「特別な」人。
それを放って、食事に行くのは「酷くない?」と。
(…今日は出掛ける所があるから、って…)
言えば誘いは断れるだろう。
食事は「楽しく」出掛けるものだし、一種の娯楽。
それよりも優先すべきことなら、誰にだって幾つもあるというもの。
(うんと昔の友達と約束してるとか…)
隣町に住むハーレイの両親、そちらの家に用があるだとか。
「今日は、ちょっと…」と断ったならば、理由まで詳しく訊かれはしない。
仕事を休むわけではなくて、欠席するのは「食事」なのだから。
それも大事な「会食」とは違う、ただの「お楽しみ」。
いくらでも断りようがあるから、なんだか腹が立ってくる。
「ぼくを放って行っちゃった?」と。
(…今日は違うかもしれないけれど…)
だけど、と拭えない「疑惑」。
ハーレイは食事に行ったのでは、と思い始めたら、そんな気がして。
「今日は違っていた」としたって、今日までに何度もあったのが「食事」。
放っておかれたことがあるから、「もしかして、今日も?」と。
(ぼくを放って行っちゃうなんて…!)
酷いんだから、とプウッと膨らませた頬。
「チビだと思って、馬鹿にしちゃって!」と。
これが「育ったブルー」だったら、こんなことには、きっと「ならない」。
前の自分と同じ背丈に育った「ブルー」だったのなら。
(…他の先生たちと、食事に行くような暇があったら…)
ぼくを誘ってくれる筈だよ、と溢れる絶大な自信。
夕食を食べに二人で出掛ける、そういうデート。
「今日は飯でも食いに行こう」と、ハーレイが何処かへ誘ってくれて。
濃い緑色をしている愛車の、助手席に乗せて貰ってドライブもして。
(食事の後にはドライブだよね?)
他の先生たちを「順に送ってゆく」のだったら、恋人の場合は軽くドライブ。
それから家まで送って貰って、「またな」とキスを貰って別れる。
今日は「そういう日」になった筈で、ハーレイと夕食を食べられた。
二人きりで出掛けて、ゆっくりと。
(美味しいね、って食べて、それからドライブ…)
ぼくが子供でなかったら…、と分かっているから、悔しくなる。
どんどんと腹が立ってくる。
「どうせチビだよ!」と、「ハーレイのケチ!」と。
此処にハーレイがいるのだったら、怒鳴るのに。
思った通りに、心の中身をぶつけてやるのに、「いない」ハーレイ。
「ケチ!」と叫べたら、スッとするのに。
「どうせチビだよ!」とプンスカ怒ってやれたら、このイライラは無くなるのに。
けれども、ハーレイは「此処にはいない」。
どんなに腹が立っていたって、いない相手に怒鳴れはしない。
(…ハーレイのバカ…!)
それに酷い、と怒りは増してゆくばかり。
ぶつける相手が「此処に」いなくて、行き場所がないものだから。
胸の中でぐんぐん膨らむばかりで、膨らんだ「それ」を放り出してやれはしないから。
(…ハーレイのケチ!)
ホントに酷い、と足で床を「ドン!」と蹴りたいけれども、それは出来ない。
この時間ならば、まだ両親がリビング辺りにいるだろうから。
上から「ドンッ!」と音がしたなら、きっと慌てて見にやって来る。
「どうしたの?」と母が駆けて来るとか、「どうした!?」と父がドアを開けるとか。
(うー……)
腹が立つのに床も蹴れない、と思ったはずみに、目に付いたモノ。
ベッドの上にある枕。
フカフカで大きな、寝心地のいい枕だけれど…。
(…枕は悪くないんだけれど…!)
これなら殴れる、と拳を握って、ボスッ! と思い切り殴ってやった。
ハーレイを殴ったことは一度も無いのだけれども、「そのつもり」で。
前の自分でさえも「殴らなかった」ハーレイを、「殴ってやる」気になって。
(ハーレイのバカッ!)
えいっ、と殴り付けた枕は、床と違って、音なんか、まるでしなかった。
柔らかいだけに、パフッと「柔らかな音」が沈んでいっただけ。
ちゃんと「手ごたえ」は、あったのに。
「殴ってやった」と、拳は枕に沈み込んだのに。
(……よーし……)
サンドバッグと言うのだったか、ボクシングの選手が「殴る」アレ。
それのつもりで「枕」を殴ってやればいい。
本物のハーレイは殴れないから、「殴ったつもり」で、この枕を。
「ハーレイのケチ!」と、「酷いんだから!」と、怒りをこめて。
力一杯に殴り付けても、枕は「痛い!」と叫びはしない。
その分、罪の意識も無いから、もう何発でも殴ってやれる。
「ハーレイのバカ!」と、右手で力の限りに。
まだ足りないと、左手までもブチ込んで。
ベッドの上でボカスカ殴って、「ハーレイのバカッ!」。
バンバン拳で殴り続けて、「ハーレイのケチ!」。
せっせと殴って、殴りまくって、お次は枕を引っ掴んだ。
ハーレイを「投げ飛ばす」ことは出来ないけれども、枕だったら「投げられる」。
ベッドにバスッ! と叩き付けてやって、気分爽快。
「やってやった」と、「ハーレイにお見舞いしたんだから」と。
ケチなハーレイにはお似合いの刑で、殴って殴って、投げ飛ばしたい。
「チビの自分」を放って行ったハーレイなんかは。
「育ったブルー」ならデートに連れて行っても、「チビ」は放っておく恋人は。
(ハーレイのケチ!)
でもって、バカッ! と殴り続けて、投げ続けて。
枕はパンパンに空気を吸い込み、ふと気が付いたら、驚くほどにフカフカだった。
いつも以上に、ふんわりとして。
「どうぞ、ゆっくり寝て下さい」と言わんばかりに、膨らんで。
(…えーっと…?)
思いっ切り当たり散らしたのに、と目を丸くして眺めた枕。
あんなに酷い目に遭わせていたのに、「いい眠り」を約束してくれそうな「それ」。
(……ハーレイみたいだ……)
ふと、囚われた、そういう気持ち。
本物のハーレイに、当たり散らして殴りまくっても、こうだろうか、と。
(…気が済むまで、殴らせてくれて…)
それから「もういいか?」と優しく微笑むだろうか。
「それなら、いいな」と、「今夜は、いい夢を見るんだぞ」と。
腹が立っていたことなど忘れて、「うんとゆっくり眠るといい」と。
(……そうなのかも……)
ごめんね、と枕を拾い上げて、キュッと抱き締める。
腹が立っても、あれほどバンバン殴り付けても、枕は「怒らなかった」から。
怒るどころか、逆に優しくしてくれたから。
まるで「ハーレイが」そうするように。
ハーレイだったら、「きっとそうだ」と、怒りなんかは何処かへ消えてしまったから…。
腹が立っても・了
※ハーレイ先生への怒りをこめて、枕に向かって当たり散らしたブルー君。殴って、投げて。
けれど枕はフカフカになって、まるでハーレイ先生のよう。怒る気持ちも消えますよねv
(…やってられるか!)
あの馬鹿野郎、とハーレイがバン! と叩いたテーブル。
ブルーの家には寄れなかった日、自分の家へと帰って来るなり。
正確に言えば、「寄り損なった」のがブルーの家。
今日は行けると思っていたのに、「あの馬鹿野郎」というヤツのせいで。
もうイライラと腹が立ってくるから、苛立たしい。
こうして家まで帰って来たって、一向に収まらない「怒り」。
「やってられるか!」とばかりに、帰る途中で食料品店に寄って来たって。
「こんな気分で、美味い飯など作れるもんか」と、総菜を山と買い込んだって。
(……まったく……)
俺の時間をパアにしやがって、とリビングのテーブルに並べてゆく総菜。
食料品店の袋から出して、次から次へと。
唐揚げにコロッケ、その辺は量をドカンと多めに。
ヤケ食いしないと「やっていられない」気分なだけに。
けれど栄養が偏らないよう、律儀にサラダなんかも買った。これも山ほど。
ポテトサラダに、生野菜がメインなシーザーサラダ、といった具合に。
(…これだけ自分で作るとなったら…)
一仕事だからな、と思えるものを端から買い込み、帰って来た家。
それでも腹立ちが収まらなくて、テーブルを「バン!」と叩いた次第。
食料品店の袋を置いた所で、平手で、強く。
(だが、収まらん…!)
もう一発、と今度は拳を握って殴った。
「あの馬鹿野郎」を殴る代わりに、テーブルを。
テーブルだったら、どんなに強く殴り付けても痛がらない。
悲鳴を上げることだって無いし、怪我だって…。
(その怪我ってヤツが問題なんだ!)
大馬鹿野郎、とこみ上げてくる怒りの感情。
「やってられるか!」と、怒鳴り付けたくなるほどに。
此処にはいない、「あの馬鹿野郎」。
「大馬鹿野郎」とも言ってもいい。
柔道部員の生徒だけれども、今日の放課後、部活の途中で怪我をした。
それも「自分が悪い」ケースで、相手の生徒は悪くない。
「大馬鹿野郎」を投げたというだけ、「正しい技を、正しく使って」。
ところが、今日は「弛んでいた」のが「大馬鹿野郎」。
きちんと気合が入っていたなら、直ぐに受け身を取れる筈。
怪我をしないよう、「正しい姿勢で」、「正しく受け身」。
(何が、今日発売の雑誌なんだ…!)
帰りに買おうと思ったらしい、何かの雑誌。
豪華な付録がつくという予告、それを楽しみにしていた「大馬鹿野郎」。
放課後ともなれば、「部活が終われば」買いに出掛けてゆけるから…。
(…雑誌と付録と、それに本屋と…)
気が散る要素がドッサリとあって、要は「お留守だった」頭の中身。
そういう時でも、普段に鍛えてあったなら…。
(身体だけでも勝手に動いて、ちゃんと受け身が取れるんだ!)
そのレベルまで練習してから、ボーッとしてくれ、と、もう本当に腹が立つ。
受け身を取れなかった「大馬鹿野郎」は怪我をした。
怪我をさせてしまった生徒は、自分は少しも悪くないのに「すみません!」と平謝り。
そして「大馬鹿野郎」の方は、顧問の自分が「病院に連れてゆく」羽目に陥った。
他の生徒には、「後は各自で運動しておけ」と指示をして。
目を配れない以上、もう「対戦」はさせられない。
それぞれの思う「鍛え方」で身体を作っておくよう、言い置いて真っ直ぐ駐車場へと。
「大馬鹿野郎」を腕に抱えて、大股でズンズン歩いて行って。
いわゆる「お姫様抱っこ」。
柔道部員がコレで「運ばれてゆく」のは、「カッコ悪くて」たまらないと知っているだけに。
「下ろして下さい!」という悲鳴も聞かずに、「お前が悪い!」と容赦なく。
他の部活で残った生徒が、目を丸くして見ていたけれど。
「すげー…」と感嘆の声を上げた生徒も、一人や二人ではなかったけれど。
「大馬鹿野郎」を連れて病院に行って、待合室で待つ間。
「なんだって、気を抜いていたんだ?」と尋ねてみたら、蚊の鳴くような声が返った。
今日、発売の雑誌が気になっていたのだと。
かてて加えて、大馬鹿野郎は、こう言った。
「家まで送って貰う途中で、本屋に寄って貰えませんか?」と。
でないと雑誌を買いそびれてしまうかもしれないから、と困り顔で。
付録が目当てで「その号だけは欲しい」者がとても多そうだから、と「本屋」を希望。
こちらは「送ってゆかなければいけない」立場だというのに、寄り道なんぞを。
(その雑誌が諸悪の根源だろうが…!)
知るか、と叫びたかったけれども、生徒の気持ちもよく分かる。
稽古がおろそかになったくらいに「欲しかった」雑誌。
(買いそびれちまったら、きっとガッカリで…)
次に似たようなことがあったら、同じ結果を招きかねない。
「今度こそ買いに行かなければ」と、頭の中身が「お留守」になって。
またまた怪我して、病院に連れてゆくことになって。
(その方が、遥かに迷惑ってもんだ…!)
俺としてはな、と思うものだから、生徒の希望を聞き入れてやった。
病院の診察が済んだ後には、愛車に乗せて。
本当だったら、生徒の家へと直行なのに、わざわざ本屋に回ってやって。
(何軒も梯子させられたんでは、たまらないしな…)
確実に「沢山置いている」書店、其処へと車を走らせた。
売り切れていない、と確信できる大きな書店まで。
(…怪我してるくせに、本屋の中に入った途端に…)
顔を輝かせて、お目当てのコーナーへと、まっしぐらだった「大馬鹿野郎」。
もうウキウキと雑誌を抱えて、レジの前に立って。
(…あれで、この次の怪我が防げるなら…)
いいんだがな、と思いはしたって、「馬鹿野郎めが!」と腹は立つ。
たかが雑誌の発売日。
それで怪我などされた挙句に、「家に送る途中で」運転手よろしく「書店行き」だけに。
(…あの馬鹿野郎が、怪我しなければ…)
ブルーの家に寄れる筈だった。
けれどブルーの家には行けずに、「大馬鹿野郎」を家まで車で送り届けた。
大馬鹿野郎の母は「申し訳ありません!」と詫びたけれども、今もって腹が立ったまま。
(あいつのお母さんは悪くないんだ、何処も全く…!)
だから「雑誌を買いに行かされた」件は、グッと堪えて黙っておいた。
そういったことは、じきに「バレる」だろうから。
「家まで送ってくれた先生」が、お茶を御馳走になって「では」と帰った後で。
なんと言っても、大きな書店の紙袋などが「動かぬ証拠」。
大馬鹿野郎は、雑誌を袋から出すよりも前に大目玉を食らうことだろう。
「ハーレイ先生に、そんな御迷惑まで!?」などと。
(…あいつは、それで片が付くんだが…!)
ブルーの家に寄れなかった件をどうしてくれる、と収まらない怒り。
部活での怪我は「少なくない」とは分かっていても、今日のは原因が原因だけに。
しかも「原因になった」雑誌を、「買いに寄らされる」オマケつき。
(やってられるか…!)
こういう時にはヤケ食いなんだ、と着替えを済ませて、テーブルに着いた。
「自分で作る」には「時間がかかる」ものを山ほど、端から食べまくるのがいい。
揚げたてのコロッケや唐揚げなどを、ガツガツと。
サラダも皿に移しもしないで、店で入っていた器から…。
(行儀悪く食ってこそなんだ…!)
ラーメンを作った鍋から食べるような気分でな、と頬張るサラダ。
いつもは「絶対にしない」ようなことを、腹立ちまぎれに「やらかす」のがいい。
テーブルを平手や拳で殴って、こうしてヤケ食い。
小さなブルーが目にしたならば、「どうしたの!?」と仰天するようなことを。
(腹が立ったら、こいつが一番…)
誰かに当たり散らすよりかは、テーブルに当たって、ヤケ食いに走る。
それが一番「少ない」被害。
ガツガツ食べれば、栄養にもなって一石二鳥。
食べて食べまくって、「食った、食った」と思う頃には、許せる気分になっていた。
大馬鹿野郎も、「雑誌を買いに寄らされた」ことも。
(…あいつも、まだまだ子供なんだし…)
そういったこともあるだろう、と頷きながら、フウと溜息をつく。
「次は勘弁してくれよ?」と、「大馬鹿野郎」の顔を思い浮かべて。
またもブルーに「会い損ねる」のは、御免だから。
腹が立ったのが落ち着いた後は、ただ残念に思うだけだから。
「あいつに会いたかったよな」と。
ヤケ食いするより、テーブルに当たり散らしているより、ブルーと過ごしたかったから…。
腹が立ったら・了
※ブルー君の家に寄り損なった、と腹が立っているハーレイ先生。柔道部員の生徒のせいで。
そしてヤケ食いに走る所が、温和なハーレイ先生らしい「腹が立った」気分の解消法v
