(……うーん……)
やっちゃった、とブルーが眺める床の上。
ハーレイが来てくれなかった日の夜に、パジャマ姿で。
お風呂上がりにベッドにチョコンと腰掛けていたら、ふと思い立ったこと。
いつもは勉強机の引き出しに入れてある「それ」を、見てみたくなった。
下の学校で出来た何人もの友達、彼らと作った「思い出」の欠片。
旅行のお土産のキーホルダーやら、何かの記念メダルやら。
(…他の人が見たら、ガラクタだけど…)
ぼくには大事な思い出ばかり、と端から机の上に並べて。
並べないにしても、気まぐれに一つ、取り出してみては…。
(誰に貰ったヤツだったっけ、って…)
懐かしみたくて、引き出しの中から引っ張り出した。
「思い出」が詰めてある、大切な袋。
(…ポーチって言うかもしれないけれど…)
ファスナー付きの布製の袋、けれども「買った」物ではない。
「宝物入れ」を探していた時、母が何処かで貰って来たオマケ。
丁度いいサイズで、子供の目には「ピッタリ」に見えた。
(要らないんなら、ちょうだい、って…)
直ぐに貰って、早速、詰めたメダルなど。
こまごまとした物が「引き出しの中で」行方不明にならないように。
それから「使い続けた」袋。
他にも増えたし、これ一つだけではないけれど…。
(今日は、コレの気分で…)
中身を見よう、と開けようとしたら、ちょっぴり力が入りすぎた。
グイと引っ張ったファスナーの取っ手、それと一緒に…。
(……壊れちゃったよ……)
袋のファスナーそのものが。
まるで破れてしまったみたいに、パチンと弾けて。
床に散らばった「宝物」たち。
もう大慌てで拾い集めてゆくしかない。
(ファスナー、壊れちゃってるけど…)
とりあえず今は、袋の中へ。
ベッドの下なども覗き込んでは、「拾い忘れ」が無いように。
(…あんな所にも…)
落っこちてるし、とパジャマ姿で部屋をあちこち歩き回って、なんとか回収出来た「それ」。
袋の中身を指で持ち上げては、「これもあるね」と頷いたりして。
(……大失敗……)
宝物は回収出来たけれども、「宝物入れ」は壊れてしまった。
すっかり駄目になったファスナー、とても直るとは思えない。
弾けたはずみに、噛み合わせが変になったから。
何ヶ所か「歪んでしまった」それは、二度と閉まってくれたりはしない。
(…無理やり締めたら、開かなくなって…)
今度は袋がビリッと破れてしまいかねない。
それが嫌なら、ファスナーを新しく取り替えてつけるか、新しい袋を手に入れるか。
(……元がオマケの袋だから……)
新しいファスナーを買って来てまで、取り替える価値はあるのだろうか。
家に「たまたま」あるならともかく、手芸用品の店まで「買いに」出掛ける時間や手間。
(…オマケの袋…)
ファスナーの方が高いのかも、という気もする。
だったら、新しい袋を買って「入れ直す」方がいいかと言うと…。
(……中身、ガラクタ……)
自分にとっては「思い出の品」でも、他の人から見ればガラクタ。
父が見たって、母が見たって、ハーレイが見ることがあったって。
(…くれた友達が覗き込んでも…)
「くれた」ことすら、友達は忘れているかもしれない。
旅行のお土産も、メダルなんかも、気前よく配っていただけに。
何人に配って「誰に」あげたか、それさえ忘れ果ててしまって。
つまり「中身」は、「自分一人の」宝物。
わざわざ、お小遣いを使って「新しい袋」を買うよりは…。
ファスナーを買って「つけ直す」よりは、「チャンスを待った方」が良さそう。
(こういう袋が欲しいよね、って…)
思っていたなら、目に付くこともあるだろう。
また母がオマケを貰って来るとか、父が「欲しいか?」と差し出すだとか。
そうでなくても、家の中には「要らない袋」が、きっとある筈。
(…ママが仕舞っているだけで…)
「こんな感じの袋が欲しい」と言ったら、ヒョイと出て来そう。
それこそ幾つも、「どれがいいの?」と、ダイニングのテーブルの上なんかに。
「好きに選んで持って行きなさい」と、いろんな袋。
(…丁度いいのが無かったとしても…)
代わりの袋を貰っておいて、「今度、こういうのがあったら、ちょうだい」と母に注文。
見本に「駄目になった袋」を見せておいたら、母のことだから…。
(何処かで似たような袋に会ったら…)
オマケでなくても、「持って帰ってくれる」だろう。
「前にブルーが欲しがってたわ」と、お金を払って買ってでも。
(…そういうチャンスを待つのが、いいよね?)
なにしろ、相手は「ガラクタ入れ」。
元は「オマケの袋」なのだし、壊れたからには仕方ない。
(壊れちゃったら、もうコレは駄目で…)
次の出会いを期待するのが、うんと前向きな考え方。
「壊れちゃった…」と、しょげているより、「もっといいのが来てくれるよ」と。
家にある袋の中から「一つ選ぶ」にしたって、母に任せておくにしたって。
(…今より、宝物入れっぽくなるとか…)
その可能性だって、大いに有り得る。
今よりも「素敵な」袋が来たなら、中の「ガラクタ」の値打ちも上がる。
「新しい袋」になった分だけ、それが「素敵に見える」分だけ。
壊れたファスナーがくっついたままの、「元はオマケの袋」よりも、ずっと。
それがいいよね、と大きく頷く。
今夜の所は「壊れた袋」に仕舞い込んでおいて、明日になったら母に相談。
家に「ピッタリの袋」が無いか、無いようだったら「駄目になった袋」を見せもして。
(この袋は壊れちゃったけど…)
もっと素敵な袋になるなら、怪我の功名。
より素晴らしい「宝物入れ」が出来るし、クヨクヨするより、その方がいい。
「壊れちゃったよ」と嘆いていないで、「新しい出会い」を待つ方が。
きっと素敵な袋に会えるし、それが一番いい道でもある。
(壊れちゃったら、仕方ないしね…)
新しくて、うんといいのと交換、と夢を見る。
どんな袋がやって来るのか、もしかしたら、買って貰えもするかも、と。
(壊れちゃった方が、お得なのかも…)
とても素敵な袋に変わってくれるんなら、と捕らぬ狸の皮算用まで。
元はオマケの袋だったけれど、次の袋は「買って貰った袋」になるかもしれないだけに。
そう考えると、「壊れてしまう」のも悪くない。
壊れないと「新しい出会い」は無いから、きっと「壊れた」のも何かの縁。
神様が「新しい袋をあげよう」と、御褒美を下さるだとか。
(…それもいいよね…)
壊れちゃうのも素敵かも、と心が弾んだりもする。
「他にも何か壊れないかな?」と、部屋をキョロキョロ見回したりも。
わざと壊しはしないけれども、「壊れてしまった」なら新品になる。
机の上のペン立てだって、他の色々な物だって。
(……壊れちゃったら、新しくって素敵な物になるんだから…)
次に壊れるなら、何が一番嬉しいだろう、と考えた所で、不意に頭に浮かんだこと。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した人。
青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた恋人だけれど…。
(……ハーレイとの恋が壊れちゃったら?)
どうするの、と飲んでしまった息。
ある日、ハーレイが「去って行ったら」。
恋が壊れて、ハーレイが「いなくなった」なら。
(……今のぼくだと、大丈夫だけど……)
チビの間は、流石に「捨てられる」ことは無いのだと思う。
けれども、大きくなった時には、いきなり喧嘩になるかもしれない。
子供の間は「通った」我儘、それにハーレイがカチンと来て。
「やってられるか!」と眉を吊り上げて、「俺は知らん!」と頭に来て。
二人でデートに出掛けた先で、「ハーレイだけ」帰ってしまうとか。
「後は自分で帰れるだろう!」と、車で駅やバス停に連れてゆかれて、降ろされるとか。
ハーレイの愛車は、それきり走り去ってしまって。
一人で帰ってゆく他はなくて、一人きりで家に帰った後にも…。
(…デートの誘いなんかは来なくて、知らんぷりで…)
ハーレイの家に通信を入れても、無視されてしまっておしまいだとか。
そうやって恋が壊れた時には、どうすればいいと言うのだろう。
「新しい出会い」に期待すればいいと、「ハーレイを諦めて」別の誰かを待つのだろうか。
もうハーレイは戻らないから、「新しい」誰か。
そっちの方が「いい」だろうから、「その内に、誰かと出会えるよね?」と。
(……そんなのって……)
あんまりだよ、と見開いた瞳。
壊れた袋くらいだったら、「新しい出会い」が楽しみだけれど、恋だと「違う」。
諦めることなど、とても出来なくて、みっともなくても「食い下がる」だけ。
ハーレイの家まで出掛けて行っては、「ごめんなさい!」と土下座してでも。
お許しを出して貰える時まで、門扉の前に座り込んででも。
(…恋が壊れたら、新しい出会いどころじゃないんだから…!)
壊れちゃったら、うんと大変…、と反省しながら神様に祈る。
「ハーレイのケチ!」なんて、もう言いません、と。
だから絶対、この恋は「壊れないようにして下さい」と…。
壊れちゃったら・了
※ブルー君が壊してしまった袋。新しい袋との出会いがあるよ、と楽しみでしたけど…。
ハーレイ先生との恋が壊れてしまった時には、新しい出会いよりも関係修復らしいですv
(……うーむ……)
やっちまったか、とハーレイが見下ろす自分の手元。
ブルーの家には寄れなかった日、夜のキッチンで。
より正確に言うのだったら、キッチンのシンク。
夕食の後片付けをしていて、滑った手。
(何のはずみだか……)
シンクだったから良かったんだか、悪かったんだか…、と心で呟く。
割れてしまったガラス瓶。
硬いシンクに落とさなかったら、きっと割れてはいなかったろう。
今日までの間に、何度もあった「床に落とす」こと。
ダイニングの床でも、キッチンの床でも、割れてしまったことは無かった。
それが見事に真っ二つ。
ガチャンと音が聞こえた時には、とうに手遅れ。
(シンクの中だし、飛び散ったりはしていないから…)
そういう意味では「シンクで良かった」のだろう。
床だったならば、かなりの範囲を「掃除する」ことになったろうから。
ガラスの破片が落ちていたなら、怪我をする。
ほんの小さな欠片にしたって、鋭いものは侮れない。
(掃除の後にも、粘着テープで仕上げってトコで…)
手間暇かかったろう「掃除」。
シンクの方なら、こういう時には「流せばいい」。
目に見えないような細かな欠片は、強い水流で洗い流すだけ。
後は野菜クズなどの「流れたゴミ」と纏めて、専用のネットを取り替えて終わり。
手間いらずではある、シンクの中で「割れた時」。
(…他の器がある場所だったら…)
厄介だがな、という面もシンクには「ある」のだけれど。
洗いたい器が浸けてある場所で「割れた」時には、床と同じに面倒だけれど。
幸いなことに、被害は瓶が一個だけ。
真っ二つなのを専用のシートにくるんで捨てて、シンクの中も洗い流した。
他の皿や鍋も洗い終わって、拭いた後には棚に片付け、コーヒーを淹れる。
愛用のマグカップにたっぷりと、いつものように。
それを書斎で飲むことにして、運んで行って腰掛けた。
机の前に座って一口、其処で「やっちまったよな…」と小さく溜息。
シンクで割ったガラス瓶。
仕方ないから捨てたけれども、あれがなかなか便利ではあった。
(元々はジャムの瓶なんだがな…)
イチゴだったか、ブルーベリーか何かだったか。
朝食の時には、隣町で暮らす母が作った、夏ミカンの実のマーマレードが気に入りの品。
庭のシンボルツリーとも言える、夏ミカンの実をもいで作られるもの。
ブルーの家にも届けるくらいに、母の自慢で評判もいい。
(しかし、たまには…)
違う味も、と思うものだから、市販のジャムを買う時もある。
食料品店で目に付いた時に、「おっ?」と手に取って。
コケモモなどの珍品だったら、ついつい買ってしまったりもする。
(あの瓶のジャムも、そういったジャムで…)
何のジャムかは忘れたものの、使い勝手が良かった瓶。
空になって直ぐに、ピンと来た。
「こいつは使える」と、その有能さに。
だから回収などには出さずに、洗って手許に残しておいた。
ジャムのラベルは剥がしてしまって、瓶だけを。
(ピクルスなんかを作るのに…)
少しだけなら、丁度良かった。
あの瓶に詰めて、出来上がるのを待ったりして。
余った果物をジャムにするにも、出来る量が少ないものだから…。
(あの瓶が大いに役立つってわけで…)
便利だったんだがな、と残念になる。
役に立った瓶は割れてしまって、もうゴミ箱の中だけに。
ジャムの瓶には色々あっても、「これは」と思う瓶は「無い」もの。
大きすぎたり、小さすぎたり、色々なことで。
(…大きさの方は良くてもだ…)
蓋の部分が「しっくりと来ない」。
もう少しばかり大きく開いていたならば、と見詰める瓶やら、その逆やら。
大抵の瓶は「そうした瓶」で、空になったら回収に出す。
「もう要らないな」と綺麗に洗って、専用の場所へ。
(さっき割っちまった瓶みたいなのは…)
そうそう無いぞ、と分かっているから、「やっちまった…」と額を押さえる。
「俺としたことが」と、「次にああいう瓶に会えるのは、いつになるやら」と。
(…瓶だけのために、ジャムを買うのも…)
馬鹿のようだし、ガラス瓶だけを買うつもりも無い。
一人暮らしで料理が好きでも、「わざわざ買った」瓶が大活躍するほどではない。
それだけに「次」は「偶然の出会い」を待つことになる。
たまたま「いいな」と買って来たジャム、その瓶が「優れもの」だと思うだろう時を。
「こいつは実に使えそうだ」と、洗って「取っておきたくなる日」を。
(…当分、来そうにないんだが…)
壊れちまったものは「もう無い」んだし、と傾けるコーヒー入りのマグカップ。
愛用の「これ」が割れるよりかは、遥かにマシだ、と。
たかがジャムの瓶が割れただけだし、「ちょっぴり惜しい」というだけのこと。
(壊れちまったら、其処までの縁で…)
次の機会に期待だよな、と切り替える気分。
「壊れたもの」は返って来ないし、執着するだけ無駄なもの。
ガラス瓶にしたって、それとは違う「何か」にしたって。
(…ガキの頃から、色々とだな…)
壊しちまって駄目になったモンだ、と覚えは山ほど。
オモチャが壊れたこともあったし、柔道着などを入れるバッグも…。
(気に入ったデザインのが、破れちまっても…)
同じものは「もう無い」ことが多かったのだし、気にしない。
新たな出会いを待った方が良くて、「もっといい物」に会えもするから。
(どんな物でも、壊れちまったら、それっきりなんだ)
ジャムの瓶だろうが、バッグだろうが。
「壊れちまった」としょげているより、次の出会いを楽しみに。
もっといい「何か」に出会えるだろうし、人生というのは「そうしたもの」。
(覆水盆に返らず、でだな…)
後悔先に立たずなのだし、「過ぎてしまった」ことは仕方ない。
クヨクヨするより、前向きに。
それでこそ「いい人生」を送れるのだし、後悔したって「気が沈む」だけ。
(どんな物だって、そうしたモンだ)
壊れちまった物に執着してたら、やっていられないぞ、と思ったけれど。
「壊れた時には、次の出会いだ」と考えたけれど、其処で浮かんだブルーの顔。
十四歳にしかならない恋人、前の生から愛したブルー。
(…あいつとの恋が…)
壊れてしまったら、どうするだろう。
まさか壊れるとも思えないけれど、ブルーが「怒って」去って行ったら。
「ハーレイの馬鹿!」と捨て台詞を残すか、平手打ちでもされるのか。
(……チビのあいつは、やらないだろうが……)
前とそっくり同じ姿に育ったブルー。
二人でデートに出掛けた先で、いきなり「壊れてしまう」恋。
ブルーが機嫌を損ねてしまって、「ハーレイの馬鹿!」と眉を吊り上げて。
其処まで二人で乗って来ただろう車、それにも、もはや乗ろうとせずに…。
(ぼくは帰る、と…)
一人でずんずん歩き出したら、どうなるだろう。
追い掛けて腕を掴もうとしても、「離して!」と思い切り、振り払われて。
「駅も、バス停も遠いんだぞ!」と声を上げても、「分かってるよ!」と返されて。
(…俺の車に乗って帰るよりは…)
駅やバス停までが片道どのくらいだろうと、「一人で帰りたい気分」のブルー。
もう「ハーレイ」には目もくれないで。
二度とデートに来てやるものかと、怒り狂って「行ってしまって」。
そうした「悲惨なデート」をした後、ブルーが「知らん顔」だったなら。
通信を入れても「出てはくれなくて」、家に行っても門前払い。
「ハーレイなんか、大嫌いだ!」と恋が壊れて、相手にされなくなったなら…。
(……俺は諦められるのか?)
ブルーを諦めて、「次の出会い」を待てるだろうか。
「壊れちまったら、仕方ないよな」と、ブルー以外の「誰か」と恋に落ちる日を。
新しい「誰か」が現れてくれて、その人と恋をしてゆける日を。
(…おいおいおい……)
冗談じゃないぞ、と青ざめる顔。
ブルーとの恋が壊れたならば、そのまま「諦めてしまう」だなんて。
「次の機会に期待しよう」と、新しい恋を待つなんて。
(…ガラス瓶だの、バッグだのなら、それでもいいが…)
ブルーの件は別件だよな、と浮かべてしまった苦笑い。
きっと「どんなに苦労しようとも」、「壊れた恋」を元に戻そうとするだろう。
毎日通って土下座してでも、家の前に座り込んででも。
ジャムの瓶なら「次があるさ」と考えられても、ブルーの場合は「そうはいかない」。
前の生から愛し続けた「愛おしい人」を、諦められる筈がないから。
「仕方ないよな」と「次の出会い」を待つなど、狂気の沙汰というものだから…。
壊れちまったら・了
※気に入りのジャムの空き瓶を割った、ハーレイ先生。次の出会いに期待ですけど…。
ブルー君との恋が壊れてしまった場合は、「次の出会い」どころじゃないみたいですねv
(忘れちゃってた…!)
とても大変、と小さなブルーは飛び上がった。
お風呂上がりにパジャマ姿で、チョコンと腰掛けていたベッドの端で。
(ホントのホントに、忘れてたってば…!)
大慌てで駆け寄った、通学鞄を置いてある場所。
カレンダーの方を睨んで、次は貼ってある時間割。
それからエイッと鞄を開けて、中のプリントを引っ張り出して…。
(…やっぱり、明日…)
明日の提出、と真っ青になる。
授業のノートや資料を纏めて、明日、提出という課題。
数日前に聞いた時には、まだまだ余裕がたっぷりとあった。
(一時間もあれば、出来ちゃうから…)
急がなくても大丈夫、と思った「それ」。
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれても、残り日数は充分にある。
(毎日、ハーレイが来てくれたって…)
少しずつやれば提出期限には間に合う筈だし、他の宿題を優先しよう、と。
「明日提出」という宿題もあれば、予習が必要な科目もある。
まずはそっちを片付けてから、毎日、少しずつ纏めてゆこうという計画。
いつもだったら、それで「出来上がった」。
そういう形で仕上げた宿題、それにレポートは幾つもあった。
だからこれも、と考えたのに…。
(なんで忘れたわけ…!?)
今日と違って、「あの日」はハーレイが来たからだろうか?
仕事帰りに、門扉の脇のチャイムを鳴らして。
今日は来てくれなかったけれども、あの日は確かに来てくれた。
(…でも……)
言い訳になっていないから、と自分でも分かる。
ハーレイが来る度に「忘れていた」なら、常習犯になっているだろうから。
普段なら、けして、しない失敗。
明日が提出期限だったら、この時間には出来上がって…。
(ちゃんと鞄に入ってて…)
後は出すだけ、そうなっている。
それなのに、「出来ていない」今。
ノートや資料を纏めるのならば、「丸写し」というわけにはいかない。
学校に着いて、友達のを「見せて」と覗き込んでの書き写し。
それは御法度、先生が見たら直ぐにバレること。
(あれって、どっちが写したヤツかも…)
不思議なことに、先生たちは、お見通し。
まるで全く同じ「宿題」が二つあったら、どちらが「丸写し」したのかを。
(ぼくが友達のを丸写ししたら…)
即座にバレて、こっぴどく叱られてしまうのだろう。
「いつもは写させている方なのに、これは何だね?」などと、呼び出されて。
言い訳したって、少しも聞いて貰えはせずに。
(うんと具合が悪かったんです、って…)
口にしてみても、「丸写ししていい」ことにはならない。
日を改めて再提出すればいいだろう、と正論が返って来ておしまい。
(急がなくっちゃ…!)
明日、学校を休むつもりが無いのなら。
授業に出るなら、今から「纏め」。
(一時間もあれば出来る筈だし…)
それさえやったら、堂々と学校に出掛けてゆける。
「ハーレイ先生」がいる学校に。
前の生から愛したハーレイ、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
学校では「先生」と「生徒」だけれども、行ったなら、会える日だって多い。
挨拶だけしか出来ない時でも、会えないよりかは、ずっといい。
だから学校は「休みたくない」し、行きたいのならば、まずは宿題。
一時間ほど頑張ったならば、立派に出来るだろうから。
風邪を引いてはたまらないから、羽織った上着。
それに膝掛け、万全の装備で勉強机の前に座った。
(えーっと…)
ノートを広げて、資料集の方も開いて置く。
後は確認用の教科書、そちらも見ながら纏めなくては。
ペン立てから出したペンを握って、もう早速に書き始めた文字。
右から左へ書き写すだけでは、いい点数は貰えないから…。
(ぼくの言葉で、きちんと纏めて…)
自分らしく仕上げるべき内容。
授業をしっかり聞いていたなら、「自分の言葉で」書ける筈。
黒板の文字を「丸ごと写して」おくのではなくて、噛み砕いて。
資料集の中身にしても同じで、理解出来ていれば「自分の知識」になっている。
そのまま「真面目に」写さなくても、もっと簡単に纏め上げて。
二行もあった文章の中から、ほんの数文字を選んで書き出し、「こう」と結論。
(…こっちの資料で、こうなっていて…)
ノートがこうで、教科書がこう、と目で追ってゆく。
どう纏めるのが一番いいかと、分かりやすくて簡潔かと。
(丸写ししちゃったら、早いんだけど…)
書き写す時間だけで済むのだけれども、評価は悪くなるだろう。
そんな「纏め」を出したことも無いし、呼び出しとまではいかないとしても…。
(返って来た時に、先生の字で…)
大きく「?」と書かれているかもしれない。
「ブルー君らしくありませんね」と、感想までが書き込まれて。
学年で一番の優等生が、いったい何をしているのかと。
(…サボッてました、って言うみたいなもの…)
そうなったならば、ハーレイの耳にも入りかねない。
先生同士の話のついでに、「こういうことがありましたよ」と話題になって。
(そんなの、最悪すぎるから…!)
絶対嫌だ、と頑張るしかない。丸写しだけは避けなくては、と。
ウッカリ忘れていたばっかりに、こんな時間に始める宿題。
夜更かしばかりの友達だったら、当たり前かもしれないけれど…。
(…ぼくは早めに済ませるタイプで…)
宿題は、学校から帰って直ぐに済ませておくタイプ。
いつハーレイが訪ねて来たって、ゆっくりと話が出来るようにと。
夕食の後のお茶の時間も、宿題なんかは気にせずに過ごしていられるように。
(その筈で、いつもそうしてるのに…!)
どうして、これを忘れただろう。
思い出しただけマシだとはいえ、提出は明日で、もうギリギリ。
夜は早くに寝るタイプだけに、この時間ならば「夜更かし」と言える。
けれど、終わってくれない宿題。
丸写しすれば早いとはいえ、それは出来なくて、明日、学校で…。
(…友達のを見せて貰って写すのも…)
酷い結果を招くだけだし、資料を、ノートを睨み付けるだけ。
教科書のページもパラパラめくって、「忙しいってば!」と叫んだりもして。
もう本当に「忙しい」から。
後はベッドに入るだけだと思っていたのに、とんでもない「用事」が出来たから。
これをやらずに学校に行けば、赤っ恥をかくか、叱られるか。
それが嫌なら「片付ける」しかない、ノートや資料を纏める作業。
時間に余裕がある時だったら、焦らないのに。
もっとスラスラと色んな言葉が、次々に浮かんで来てくれるのに。
(……うー……)
上手く纏まらない、と握り締めるペン。
どう書けばいいか分からないのが、「切羽詰まっている」証拠。
気持ちに全く余裕が無いから、頭の中にも無い余裕。
冴えていたなら「ピンと来ること」が、まるで出て来ない状態で。
授業中に聞いた筈のことさえ、簡単に出ては来てくれなくて。
そのせいで苛立ってゆけばゆくほど、作業は上手くいかなくなる。
「忙しいんだから!」と叫ぶ言葉が、そのまま「呪い」であるかのように。
いったい何度、「忙しいのに!」と、教科書をバンと叩いただろう。
纏まってくれないノートを、資料を叩いて当たり散らしただろう。
時間はどんどん経ってしまって、もうすぐ一時間になるというのに…。
(終わらないってば…!)
どうなってるの、とイライラしたって、それで解決しはしない。
いつまで経っても片付かないノート、資料も教科書も閉じられはしない。
「宿題を忘れてゆく」のだったら、「これでいいや」と投げ出せるのに。
ポンと放って知らんぷりして、全部鞄に突っ込むのに。
(だけど、そんなの…!)
此処までやって放り出すなんて、と歯を食いしばって、仕上げた宿題。
きっと何とか、形になってはいるだろう。
普段ほどには冴えていなくても、「夜更かし」の結果が出ていたとしても。
(明日、学校で読み返してみて…)
何処か可笑しい部分があったら、手を加えればいいだろう。
ちょっとだけ消して書き直すだとか、二言、三言、付け加えるとか。
(…それでいいよね?)
もうこれ以上は無理だから、とパタンと閉じた、ノートや教科書。それから資料。
夜更かしした上、今の気分で読み直したって、ロクな結果にならないだけに。
(……やっと出来たよ……)
これでハーレイの耳に変な評判が届くことも…、と思ったはずみに気が付いた。
そのハーレイのことを、どの辺で忘れてしまったろうか、と。
(途中までは、凄く気にしてて…)
学校へ行くのも、宿題を忘れないようにするのも、全てハーレイに繋がっていた。
なのに何処かで忘れてしまって、宿題のことで苛立っていた。
「忙しいんだから!」と、「終わらないってば!」と、「自分のこと」だけで。
ハーレイの顔さえ思い出さずに、ただイライラと。
(…忙しい時には、忘れちゃうわけ?)
それは悲しい、と心が痛くて、胸だって痛い。
誰よりも好きな恋人のことを「忘れる」なんて。
その人のためにと頑張ったことさえ、途中で「落として」いたなんて。
(…そんなの、酷い…)
あんまりだよ、と悲しくなるから、こんな目には二度と遭いたくない。
忙しい時には忘れるのなら、そうならないよう気を付けたい。
いつも心に余裕を持って。
「忙しいってば!」と、心の中から「ハーレイ」を追い出してしまわないように…。
忙しい時には・了
※宿題で切羽詰まった挙句に、ハーレイ先生のことを忘れてしまったブルー君。
忙しい時には忘れるのならば、そうならないよう、次からは心に余裕をたっぷり持たないとv
(切羽詰まった状態でだ…)
仕事はしない主義なんだが、とハーレイが眉間に寄せた皺。
ブルーの家には寄れなかった日に、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それは机にあるけれど。
コーヒーの香りもするのだけれども、ゆったりと飲むわけにはいかない。
(なんたって、非常事態だからな…!)
明日の会議に必要な資料、それを作ってゆかなければ。
それも「今夜の間」に、という本当に切羽詰まった状況。
明日、学校に着いてからでは、足りない時間。
朝は柔道部の朝練があるし、それが終われば授業が始まる。
(授業の合間に作りたくても…)
そういう時に限って「やって来る」のが、質問などがある生徒。
彼らの相手をしていたならば、休み時間は無いも同然。
空き時間の方にしても同じで、何かと入りがちな雑用。
(資料作りで忙しいから、と言えば断れるんだが…)
それは自分の信条に反する。
「放課後の会議」のための資料を、「ギリギリで」作っているなどは。
どんな理由があるにしたって、誰もが納得してくれたって。
(…この俺に任せられたからには…)
何が何でも今日中なんだ、と学校で渡された文書の山を繰ってゆく。
それを纏めて資料を作って、明日の会議に間に合わせる。
この仕事のために、ブルーの家にも寄らずに真っ直ぐ帰ったほど。
(もっとも、ギリギリではあったがな…)
そっちの方も、と思いもする。
資料作りを引き受けた後に、学校でやった打ち合わせ。
ついでに文書なども受け取り、遅い時間になってはいた。
ブルーの家へと出掛けてゆくには、もうギリギリだと言える時間に。
だから、そちらは「諦めた」。
ギリギリの時間に出掛けて行って、夕食を食べてくるような暇があるなら…。
(このギリギリの仕事の方を、だ…)
一刻も早く仕上げてこそだ、と考えたから。
急いで帰宅し、手早く作った今夜の食事。
後片付けもサッサと済ませて、コーヒーを淹れて、取り掛かる作業。
(俺の名誉のために言うなら…)
ギリギリになったのは、俺のせいではないからな、と誰にともなく言い訳する。
自分が「引き受けた」仕事だったら、資料はとっくに出来ている筈。
余裕を持たせて、遅くとも三日ほど前までには。
早い話が、「自分のもの」ではなかった仕事。
少なくとも、「今日の」昼休みまでは。
其処で「お鉢が回って来る」までは、他の教師の担当だった「それ」。
(……急病じゃ、仕方ないんだが……)
それにしても、と零れる溜息。
自分が「その教師」の立場だったら、資料はとっくに出来ていた。
今日の朝になって具合が悪くて、「休みます」と連絡をするよりも前に。
(…資料さえ、出来ていたんなら…)
欠勤の連絡を寄越すついでに、「取りに来て下さい」と言えば済むこと。
誰でもいいから、手の空いた先生を家に寄越して下さい、と。
(酷い風邪とかで、移る恐れがあるにしたって…)
受け渡しの方法は幾らでもある。
本人が律儀に渡さなくても、家族の誰かに託すとか。
妻だの、それこそ幼稚園に出掛ける前の子供にだって。
「これを頼む」と言いさえすれば、「どうぞ」と使いの誰かに届く。
妻であろうが、幼稚園の制服を着た子供だろうが、資料を持って家の表まで出て。
そうしないのなら、ポストが使える。
資料の束を突っ込んでおいて、「持って帰って下さい」と連絡しておけば。
取りに出掛けた使いの者が、ポストから「それ」を引っ張り出せば。
(俺の場合は、そうなったろうな…)
急病など、まず有り得ないけれど、万一、罹ってしまったら。
今朝、起きた時に「これはマズイ」と欠勤を決めて、病院に行くことにしたのなら。
(手渡してくれる家族はいないし…)
資料をポストに押し込んでおいて、病院に出掛けたことだろう。
そうすれば「誰も困らない」のだし、迷惑をかけるのは一人だけ。
「資料を取りに来る」羽目になった誰か、その一人にだけ、後で詫びればいい話。
(それにしたって、お互い様だし…)
取りに来た者も「お気になさらず」と笑っておしまい。
「次は、私かもしれませんしね」などと、「急な病気で」休んだ件は責めないで。
(…今日、休んじまったヤツにしてもだ…)
お互い様には違いない。
明日は「自分」がそうならないとは、誰にも言えはしないのだから。
(しかしだな…)
資料は「早めに」作っておいて欲しかったんだが…、と思う気持ちは止められない。
「彼」には「彼の事情」があって、そうなったとは分かっていても。
休日ともなれば家族サービス、資料作りよりも遊園地だとか、ショッピングだとか。
(家族がいるなら、そっちが優先…)
分かっちゃいるが、と百も承知でも、納得できない「自分」の現状。
切羽詰まった仕事なんかは「やりたくない」から、何事も「早め」。
引き受けた仕事は責任を持って、早め、早めに仕上げるもの。
「急病で欠勤」になってしまったなら、「資料はポストに入れておきます」と言えるように。
自分は病院に出掛けるけれども、「その間に取りに来て下さい」と。
ところが、そうではなかった同僚。
資料作りは「ギリギリでいい」と思っていたのか、自分に自信があったのか。
(今日、帰ってから取り掛かっても…)
充分だろうと決めてかかって、まるで手を付けていなかったとか。
それの結果が「急な欠勤」、ついでに「全く出来ていない」資料。
明日の会議には「それ」が要るのに、会議は明日の放課後に迫っているというのに。
そんなこんなで、大騒ぎになった昼休み。
明日までに「資料を作れる」教師が、誰かいないかと。
(そういった時に、真っ先に外されちまうのが…)
既に仕事を山と抱えている教師。
テストを控えて、問題を作成中だとか。
終わったテストの山を採点している途中で、どう見ても忙しそうだとか。
レポートなどの課題を課したばかりの者も免除で、他にも色々。
(…俺は、どれにも当て嵌まらないし…)
その上、気ままな独身生活。
当然のように打診されたから、「断る」わけにはいかなかった仕事。
此処で断ったら、他の誰かが代わりに苦労することになる。
ギリギリに迫った仕事を引き受け、「今の自分」がそうであるように。
(そいつは、些か気の毒ってモンで…)
そう思ったから、「私で良ければ」と名乗りを上げた。
「なんとかします」と文書を貰って、作るべき資料の内容なども詳しく聞いて…。
(もう文字通りに、切羽詰まって、ギリギリで…)
仕事中だ、と手に取るマグカップ。
気分転換にコーヒーをゴクリ、カップを置いたら作業の続き。
文書の山を端からめくって、「こうだったか?」と照らし合わせてみて。
間違ったことを書いていないか、指でなぞるように確認もして。
(此処まで出来たら…)
後は仕上げだ、と残りを急いで、なんとか形になったとは思う。
ギリギリで作業をしていたものとは、思えない出来に。
数日前には「ちゃんと出来上がって」、何度も読み返しをしたかのように。
(よーし…)
これでいいな、と肩をトントンと叩き、眉間の皺も揉みほぐしてやる。
資料は無事に出来上がったから、明日の会議に立派に間に合う。
ブルーの家にも寄らずに帰って、懸命に作業したのだけれど…。
(……うーむ……)
忘れちまっていた、と思う「恋人」。
前の生から愛し続けて、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
(…あいつの家にも寄れなかった、と…)
残念に思いつつ作業を始めて、どの辺りで「忘れてしまった」のだろう。
片時さえも「忘れない」人を、いつも心に住んでいる人を。
(……忙しい時は、それどころではないってか?)
ブルーのことさえ忘れちまうのか、とショックな気分。
これが小さなブルーに知れたら、間違いなく膨れっ面になる。
「ハーレイ、酷い!」と、「ぼくのことを忘れてしまうだなんて!」と、プンプン怒って。
キスを断られた時と同じに、まるでフグみたいに頬を膨らませて。
(…あいつも怒るし、俺だって大いに不本意でだな…)
こんなのは好かん、と思うものだから、「ギリギリの仕事」は御免蒙りたい。
自分が仕事を引き受けた時は、余裕を持たせて早めがいい。
(…あいつのことさえ、忘れちまうなんて…)
忙しい時は、そうなるのならば、いつでも余裕たっぷりでいたい。
愛おしい人を、忘れないように。
いつも心に住んでいる人を、「ウッカリ」忘れたりはしないで、愛おしめるように…。
忙しい時は・了
※切羽詰まった仕事をしている間に、ブルー君のことを忘れてしまったハーレイ先生。
これはショックだ、と思ったようです。同じことが二度と起こらないよう、仕事は早めにv
(どんな時だって…)
ふと、小さなブルーの頭に浮かんだ言葉。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰掛けていたら。
流行りの歌の歌詞などではなくて、本で読んだというわけでもない。
けれども、何故だか、そう思った。
「どんな時だって」と、突然に。
今日は来てくれなかった、ハーレイ。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
その人のことを、忘れはしない。
どんな時だって、何処にいたって。
(絶対に、忘れないんだから…)
忘れたりなんかしないんだから、と心の底から強く思うし、忘れもしない。
そう、今だって「そう」考えたように。
「どんな時だって、忘れないんだから」と、ハーレイのことを。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が愛した人。
白いシャングリラで恋をした人を、けして忘れるわけがない。
何があろうと、何処へゆこうと。
どんな時だって、片時さえも。
(ハーレイのことを、忘れる筈がないじゃない…!)
今日みたいに来てくれなかった日でも、と思うけれども、その人のこと。
「忘れない」と思ったハーレイのことを、「自分」は忘れていなかったろうか。
十四年ほど…、と指を折ってみる。
「今の自分」が生まれた時から、この年になるまでの間に流れた歳月。
十四歳になって一ヶ月と少し、今の学校に入って暫く経った頃。
五月の三日に、自分のクラスで「今のハーレイ」と再会を果たす前までは…。
(……ハーレイのことは、何も覚えていなくって……)
思い出しさえしなかった。
キャプテン・ハーレイの名前を聞いても、教科書などで写真を見ても。
SD体制を倒した英雄、ジョミー・マーキス・シンと、キース・アニアン。
その二人にこそ及ばないけれど、キャプテン・ハーレイも英雄の一人。
(記念墓地に、立派な墓碑だってあるし…)
何よりも、「シャングリラ」の初代のキャプテン。
白い鯨にも似たシャングリラは、今の時代も人気の高い宇宙船。
遊園地に行けば、それを象った遊具が幾つも。
(小さかった頃に見た、海に浮かんでいたシャングリラだって…)
海水浴場に来た客に人気の、変わり種のバナナボートだったというくらい。
その「シャングリラ」の舵を握っていた、キャプテン・ハーレイ。
ミュウの箱舟を地球まで運んだ英雄。
(前のぼくみたいな、写真集は出ていないけど…)
パイロットの卵たちにとっては、キャプテン・ハーレイは「憧れの人」。
同じ英雄のゼルやヒルマンよりも、遥かに知られているだろう。
その名も、どういう姿だったかも。
(今のぼくだって、ちゃんと知ってて…)
幼稚園時代はともかく、下の学校に入った後には、ごくごく自然に覚えたもの。
「この人がキャプテン・ハーレイなんだ」と、顔も名前も。
ちょっぴり怖そうな顔の「おじさん」だけれど、ミュウの箱舟のキャプテンだった人。
きっと「優しいおじさん」なんだ、と思いもして。
ミュウの子供が泣いていたなら、肩車で歩いてくれるような。
(…それで間違いなかったんだけど…)
前のハーレイは、実際、そういうキャプテンだった。
白いシャングリラで雲海の星に辿り着いた後、船に初めて迎えた子供。
養父母から離され、怖い思いまでした小さな子供を、ハーレイは放っておかなかった。
「これもキャプテンの仕事だろう」と、船に馴染めるよう、心を砕いた。
新しい子供を迎え入れる度、多忙であっても相手をして。
広い船の中を、あちこち連れて歩きもして。
それを目にした「前の自分」が、「子供に嫉妬した」ほどに。
そのせいで、「ハーレイのことが好きだ」と、恋にさえ気付いてしまったほどに。
子供たちにも優しかったのが、キャプテン・ハーレイ。
今の自分も「きっと、そうだよ」と考えたけれど、「思い出した」わけではなかったろう。
「ミュウの箱舟のキャプテン」だから、そういう人だと、勝手に想像しただけで。
「そうじゃないかな」と感じただけで。
本物のハーレイの人となりは、何も知らないままで。
欠片さえも思い出しはしないで、忘れたままで。
(……うーん……)
本当に忘れてしまっていたし…、と「今のハーレイ」の姿を頭に描く。
今では当たり前に恋して、「どんな時だって」忘れないのに、すっかり忘れ果てていた。
前の自分は、「ハーレイ」を忘れはしなかったのに。
それこそ「どんな時だって」。
アルテメシアを後にしてからの、十五年間もの、長い長い眠り。
深い眠りの底にいてさえ、きっと忘れてはいなかった。
目覚めた時には記憶が無くても、「ハーレイの夢」を見ていたことだろう。
星の瞬きにも思えたくらいの、一瞬の眠りのようであっても。
「夢さえも見てはいなかった」と、あの時の「自分」は思っていても。
(……夢の中では、きっとハーレイと一緒だったよ……)
まるで目覚めているかのように、幸せな夢を見ていただろう。
青の間で二人で過ごす夢やら、船の通路を歩く夢やら。
あるいは「地球」へも行っただろうか。
夢の中なら、青い地球にも辿り着けたと思うから。
(…ハーレイと二人で青い地球を見て、二人で降りて…)
幾つもの夢を端から叶える、夢さえも見ていたかもしれない。
「地球に着いたら」と、前の自分が夢見たこと。
寿命の残りが少ないと悟って、描くのを諦めた夢の数々。
それを「夢の中で」叶えていたのだろうか、「前のハーレイ」と青い地球に降りて。
二人で青い地球で暮らして、スズランの花束を贈り合ったりもして。
五月一日には、恋人同士の二人が贈り合う、とても小さな花束。
「いつの日か、地球で」と、前のハーレイと約束を交わした日もあったから。
前の自分は、夢の中でも、ハーレイを忘れていなかっただろう。
だから夢から覚めた時にも、ただハーレイを想っていた。
「ミュウの未来」を守るためには、「別れしかない」と分かっていても。
ただ一人きりで船を離れて、死んでゆくのだと「自分の未来」に気付いていても。
(…あの時だって、忘れていないし…)
メギドでも忘れはしなかった。
右手に持っていた「ハーレイの温もり」、それを落として失くした後も。
撃たれた痛みで消えてしまって、右手が冷たく凍えた時も。
(もうハーレイには、二度と会えない、って…)
泣きじゃくりながら死んだ、前の自分。
あまりにも悲しい最期だったけれど、「ハーレイ」を忘れることはなかった。
「もう会えない」という、とても辛くて痛みしかない「想い」でも。
会うことは二度と叶わなくても、「ハーレイ」のことが「好き」だったから。
諦めて忘れることは出来なくて、最後まで想い続けていた。
もう会えなくても、「ハーレイが好きだ」と、命が潰える瞬間まで。
いつ死んだのかは分からないけれど、息が絶えただろう、その時まで。
(どんな時だって、ホントに忘れなかったんだよ…)
前のぼくは…、と今も鮮やかに思い出せること。
十五年もの深い眠りの中でも、「夢で」ハーレイを追っていただろう。
二人で地球に降りる夢さえ、前の自分は見ていただろう。
そうして長く眠り続けて、「終わり」がやって来た時でさえも…。
(やっぱり、ハーレイを忘れられなくて…)
前の自分は、泣きながら死んだ。
二度と会えない人を想って、その人を忘れられなくて。
もしも「忘れてしまえた」ならば、あの時の辛さは無かったろうに。
ミュウの未来と、シャングリラの無事とを祈り続けて、ソルジャーとして死んだだろうに。
(でも、そんなこと…)
出来る筈もないし、したくもなかった。
「ハーレイ」を忘れてしまうなど。
恋をした人を記憶から消して、安らかな最期を迎えるなどは。
(どんな時だって、忘れなくって…)
忘れないまま、前の自分は遥かな時の彼方に消えた。
それから流れた、気が遠くなるほどの長い時。
死の星だった地球が青く蘇り、こうして人が住める星に戻るくらいに。
(ハーレイと二人で、地球に来たのは…)
きっと今度こそ、一緒に生きてゆくためなのだ、と分かっている。
この身に神が刻んだ聖痕、それは祝福の証だろうと。
(…それなのに、ぼくはハーレイのことを…)
思い出しもせずに、十四年間も生きてしまっていた。
キャプテン・ハーレイの名前を聞いても、写真を見ても思い出さないままで。
なんとも酷い話だけれども、これに関しては「お互い様」。
ハーレイだって、「ソルジャー・ブルー」を、忘れ果てたままでいたのだから。
(…これから先に、忘れなかったら…)
それでいいよね、と浮かべた笑み。
もう一度、巡り会えたからには、二度と忘れはしないから。
どんな時だって、ハーレイのことを忘れはしない。
前の自分が、そうだったように。
最後の息が絶える時まで、ハーレイを想い続けたように…。
どんな時だって・了
※どんな時だって、ハーレイのことは忘れない、と思ったブルー君ですけれど…。
実は忘れていたのが、生まれ変わってから後のこと。でも、これからは忘れなければ大丈夫v
