(……うーん……)
今、何時、と小さなブルーが打った寝返り。
ハーレイが来てくれなかった日の夜、自分のベッドで。
手を枕元に伸ばして取った、目覚まし時計。
コチコチと時を刻む秒針、レトロではないけれどアナログ式の置時計。
常夜灯だけが灯った部屋で眺めた文字盤。
(…半時間以上も経っちゃってる…)
ベッドにもぐり込むよりも前に、チラと目を遣って見た時刻。
いつもベッドに入る時間に、いつも通りに明かりを消したのに…。
(寝付けないよ…)
一向に訪れない眠気。
ベッドの中でコロンと右へと寝返りを打って、「これじゃ駄目だ」と次は左へ。
それでも眠くはなってくれないから、仰向けになったり、枕に顔を埋めてみたり。
(…色々、試してみたんだけどな…)
でも無理みたい、と零れる溜息。
寝付きは悪くない方なのに、今夜は眠くならないらしい。
夢の世界に入る代わりに、ベッドの上に留まったままで。
あっちへコロンと転がってみては、逆の方へコロンと転がったりもしているだけで。
(…今日は普通の日だったのに…)
寝られなくなるようなことは、無かったと思う。
腹が立つことなど一つも無くて、ごくごく平凡だった「今日」。
行き帰りの路線バスの中でもちゃんと座れて、お気に入りの席が空いていた。
「此処がいいな」と勝手に決めた指定席。
(ぼくが勝手に決めているだけで…)
通学に使う路線バスには、指定席なんか存在しない。
そういう切符を売りもしないし、座席番号だって無い。
けれども「好きな席」はあるから、その席を「ぼくの席」だと決めた。
空いていたなら、大喜びでストンと座る席。
それとは逆に塞がっていたら、ツイていない気分になったりもして。
その席は、今日は空いていたから、腰を下ろして短い旅。
行きは学校の近くのバス停までで、帰りは家の近所のバス停に路線バスが着くまで。
窓の外の景色を見ながら走って、楽しく往復できた学校。
旅先だった学校の方も、特に問題は無かった筈。
(…ハーレイの授業は無かったけれど…)
毎日あるというわけでもないから、古典の授業が無かったくらいは些細なこと。
「ハーレイ先生」には廊下で会ったし、挨拶だって出来たのだから。
(…家には来てくれなかったけどね)
来てくれるかと待っていたのに、今日は空振り。
けれど、それだって「よくあること」。
ハーレイが来ない日を数えていたなら、キリが無い。
(週末に予定が入って駄目な時だと…)
とてもガッカリするのだけれども、そうでないなら「来ない日」もある。
ハーレイが仕事をしている以上は、毎日が暇とは限らないから。
放課後は時間があると言っても、柔道部の指導もあるだけに。
(…柔道部の方で何かあったら、もう駄目だし…)
長引く会議があった日だって、ハーレイは訪ねて来てはくれない。
つまり「来てくれた」日の方がラッキー、「ツイている」のだと思える日。
それが逆でも、怒ってなんかはいられない。
ハーレイは「来ない」方が普通で、来てくれる方が幸運なのだから。
(…今日みたいな日は、幾つもあるから…)
仕方ないよね、と諦めるだけで、それ以上のことを望みはしない。
もちろん腹を立てもしないし、「ツイていない」と考えることも滅多に無い。
(…学校でも会えずにいた日だと…)
ツイていないと思うけれども、今日は廊下で会えたハーレイ。
「ハーレイ先生!」と呼び掛けてピョコンと頭を下げた。
それに応えて「おう!」と返った声。
大好きな声がちゃんと聞けたし、ハーレイの笑顔だって見られた。
どの教え子にも向ける顔でも、恋人向けの表情とはまるで違っていても。
ツイていないわけではなかった日。
腹が立つことも一つも無くて、苛立つ理由も見付からない。
こんな日だったら、ベッドに入れば直ぐに眠れるものだけれども…。
(…こういう時だって、たまにあるよね…)
どうしたわけだか、眠れないままでコロンコロンと転がる夜が。
右を向いたり、左を向いたり、仰向けになったり、うつ伏せたりとベッドの上で試す日が。
(……本当は寝てるらしいけど……)
寝られないよ、と思い続けた半時間以上もの間。
自分では「寝ていない」つもりだけれども、本当は「眠っている」のだと聞いた。
起きている夢を見ているだけで、実は眠っている身体。
なんとも疲れる夢だとはいえ、摂れているらしい睡眠時間。
(だから、寝付けなくても、ベッドに転がっているだけで…)
身体にとっては「充分」らしい。
ちゃんと「眠っている」だけに。
明日に備えて、睡眠は摂っているだけに。
(…でも、こういうの…)
疲れちゃうよね、と思うものだから、何とかしたい。
眠るのだったら、ちゃんとグッスリ眠りたい。
「起きている」ような夢は見ないで、夢らしい夢を見ながら眠るか、夢も見ないで深く眠るか。
(…そっちの方が、絶対いいよ…)
そうするためには気分転換、と考えてエイッと起き上がった。
「よし!」と自分に掛け声をかけて。
暫くの間、起きていようと。
「寝られない夢」を吹っ飛ばそうと、寝付ける気分に切り替えようと。
起きたからには、明かりもパチンと点ける。
常夜灯だけの暗い部屋だと、夢の続きのようだから。
今度は「起きたつもりでいる夢」、それを見ている気になりそうで。
起きるのだったら、寝られない夢には「さよなら」したい。
もちろん「起きているつもり」になる夢だって。
明るくなった部屋で起き上がったものの、これから何をすべきだろう。
ベッドの上に転がったままでは、さっきまでと何処も変わらない。
部屋が暗いか明るいかだけで、「寝られないよ」とコロンコロンと転がるのと。
(起きたんだったら、何かしなくちゃ…)
手っ取り早いのは本を読むこと。
眠くなった時には「此処でおしまい」と、スッパリとやめてしまえる本。
キリのいい所を見付けられる本、それが一番いいのだけれど…。
(……今の気分だと……)
その手の本より、じっくり読める本の方に惹かれる。
せっかく時間が出来たのだからと、長い物語や、腰を据えて読むのが似合いの一冊。
いつもだったら、この時間には「眠っている」のが普通だから。
(時間、ちょっぴり得した気分で…)
夜更かしが得意な友達の言葉が浮かんで来る。
「お前、弱いから損してるよな」と、何度言われたことだろう。
元気だったら、夜更かしも徹夜も「当たり前だぞ」と、口々に。
「読みかけの本」を放って寝るなど、とんでもない、というのが常識。
やり始めたことも「やり遂げる」もので、夜が白々と明けて来てしまっても…。
(一日くらいなら、寝ていなくても…)
「まるで平気なものなんだぜ」と、友達の誰もが言っている。
クラスの子だって夜更かしをするし、徹夜をしたという声もよく聞く。
(だけど、ぼくは身体が弱いから…)
徹夜どころか、夜更かしだって危険信号。
夜は早めにベッドに入って休むもの。
朝までグッスリしっかり眠って、疲れを癒しておくのが大切。
けれども、今夜は思いがけなく「遅い時間」に起きている。
そう考えたら、「今の時間」を有効に使いたい気分。
「此処でおしまい」と閉じる本より、もっと、もっとと読みたくなる本。
それを棚から取って来ようかと、欠伸が出るまで読み続けようかと。
「徹夜なんかは当たり前だ」と話す友達の真似をしてみて。
(えっと…)
どれがいいかな、と本棚の前に立って考える。
徹夜しないと読めないくらいの本なら、どれが似合いだろうかと。
(…新聞配達のバイクが走って来るくらい…)
遅いと言うか、早いと言うか、そんな時間まで読んでいたって終わらない本。
「まだ終わらないから」と読み進めるのがピッタリの本。
この辺かな、と手を伸ばしかけた所で、ふと蘇ったハーレイの声。
「元気そうだな」と、今日の昼間に聞いた。
廊下で出会って、「ハーレイ先生!」と頭をピョコンと下げた時に。
ハーレイが笑顔で応えてくれて、挨拶に返った言葉が「それ」。
(……元気そうだな、って……)
今日はそう言ってくれたけれども、明日も同じ言葉を貰えるだろうか。
新聞配達のバイクが来そうな頃まで、延々と本を読んでいたなら。
それでも「もっと読みたいから」と、夜が明けそうな頃まで読み続けたら。
(…明日の朝には、もう寝不足で…)
眠い目を擦りながら、学校に行くことになるかもしれない。
あるいは体調を崩してしまって、「なんだかだるい…」と感じながらの登校だとか。
(それだと、元気そうには見えなくて…)
きっとハーレイを心配させる。
下手をしたなら、「ハーレイに会えた」と安心して気が緩んだはずみに…。
(フラッと倒れて、うんと心配かけちゃって…)
そんなの駄目だよ、と本に伸ばした手を引っ込めた。
「徹夜も夜更かしも、ぼくは、しちゃ駄目」と。
そうして再び入ったベッド。
パチンと消してしまった明かり。
寝付けない夜でも、今なら眠れそうだから。
ハーレイに「元気そうだな」と言って貰うためなら、きっとグッスリ眠れるから…。
寝付けない夜は・了
※寝付けないなら「夜更かししちゃえ」と考えたのがブルー君。遅い時間まで本を読んで。
けれど、思い出したハーレイ先生の言葉。「元気そうだな」と言って貰うためなら眠れそうv
(……うーむ……)
今は何時だ、とハーレイが枕元へと伸ばした腕。
ブルーの家には寄れなかった日、とうにベッドに入った後で。
その手に触れた目覚まし時計。
コチコチと時を刻む秒針、アナログな所が気に入っている置時計。
(…やっぱりなあ…)
半時間も経っていやがるぞ、と時計を眺める。
ベッドに入って明かりを消す前、同じ時計を見た時よりも流れた時間。
寝付きは、いい方だと思う。
毎晩のように淹れるコーヒー、それさえも妨げにはならないほどに。
どんなに濃いめに淹れた夜でも、ベッドに入ればグッスリ眠れるのが自慢。
(そのコーヒーは、だ…)
今夜は普通に淹れていた上、量も普段と変わらなかった。
愛用のマグカップにたっぷり一杯、おかわりなどはしていない。
コーヒーのせいではないのは明らか、特に今夜は。
これが濃く淹れた夜であったら、「アレか?」と疑いもするのだけれど。
(…他に原因になりそうなものも…)
特に無いな、と言い切れる。
極めて平凡だった一日、ブルーの家には寄れなかったというだけで。
学校の仕事は至って順調、柔道部の方も問題は無し。
行き帰りの道も普通だったし、苛立つようなことは無かった一日。
(腹が立ったりしていても…)
俺の場合は、そいつを解消するのは得意で…、と自分の性格も掴んでいる。
「腹が立ったせいで眠れない」などは、まず有り得ない。
その日の間に気分転換、夜はグッスリ眠れるもの。
(だがなあ…)
こういう夜もあるってもんだ、とフウと溜息をつく。
寝付けない夜というものが。
心地よい眠りが訪れないまま、ベッドに入っているだけの夜が。
半時間も無駄に経っていたらしい、今夜の時間。
何もしないままでベッドの中で、「眠くならんな」と思う間に。
(…そういう時でも、寝てるらしいって話もあるが…)
寝付けないというのは「一種の夢」で、本当は眠っているとの話。
「寝ていない」夢を見ているだけで、身体の方はきちんと寝ているのだ、と。
(そうは言われても、半時間もだ…)
無駄にするのは性に合わないし、此処は気持ちを切り替えるべき。
起きるなら「起きる」、寝るなら「寝る」。
どちらにするのか暫し考え、「起きてみよう」と出した結論。
時刻の方は、まだ早いから。
起きて何かをやってからでも、睡眠は充分に摂れるから。
(よし…!)
自分に掛け声、ベッドの上に起き上がる。
部屋の明かりもパチンと点けて、「俺は起きるぞ」と自分に宣言。
そうしてベッドから出てみたけれども、この後、何をするべきか。
此処で過ごすか、書斎に行くか。
それともリビングに行くのがいいか、ダイニングにでも移ってみるか。
(…本格的に起きるなら…)
寝室を出るべきだけれども、そうした場合は増える誘惑。
書斎に行ったら、本が山ほど。
(せっかく時間が出来たんだから、と一冊、出して…)
読み始めたら、今度は「やめる」のが難しい。
もう少しだけ、あと一章、といった具合に「続き」を読みたくなるものだけに。
(此処で終わろう、と思っていても…)
先の展開を知っているなら、ついつい繰ってゆくページ。
何十ページもすっ飛ばしてでも、クライマックスを読もうとして。
リビングの場合も、ダイニングの場合も、やはり同じにある誘惑。
其処にある本を読みたくなったり、新聞を熟読してみたり。
そうでなければ「何か食おう」と、キッチンに足を向けたりも。
寝室を出れば、待っているのが誘惑の山。
読みたくなる本や、急に作りたくなる夜食など。
(…夜食の方に行っちまったら…)
きっと凝りたくなるのだろう。
簡単なものを、とキッチンに行っても、やりたくなるのが一工夫。
せっかく時間が出来たのだからと、夜の夜中に。
そして美味しく完成したなら、悦に入ってゆっくり、のんびり食べる。
またコーヒーを淹れたりもして。
ひょっとしたら、秘蔵の酒なども出して。
(…いかん、いかん…)
それじゃしっかり起きてしまうぞ、とコツンと叩いた自分の頭。
夜食を作って、それを書斎に運んだりしたら最悪のパターン。
(次に時計を眺めた時には…)
唖然とするほど、時間が経ってしまっているのに違いない。
一時間だったら、まだマシな方で、下手をしたなら何時間だって。
外は暗くても、新聞配達のバイクの音が聞こえるくらいに…。
(夜明けが近いというヤツで…)
そいつは駄目だ、と分かっている。
身体は頑丈に出来ているから、徹夜でも平気なのだけれども、しない主義。
「眠れる時間は、きちんと眠る」ことが習慣。
頭脳をクリアに保っておくには、そうすることが必要だから。
(人間の身体は、不思議なモンで…)
何処かで「頭」を眠らせないと、落ちてゆくのが作業効率。
睡眠不足で放っておいたら、とんでもないミスを引き起こすもの。
仕事だろうが、咄嗟の判断だろうが。
(俺の場合は、教師だしな?)
そういったミスが許されない仕事。
採点ミスならご愛嬌でも、柔道部の方はそうはいかない。
生徒に怪我をさせた後では、もう取り返しがつかないだけに。
職業柄、頭は常にクリアに保っておくもの。
寝付けなくても「眠れる」ように、きちんと気持ちを切り替えて。
(…なにしろ失敗は出来んわけだし…)
大勢の生徒を俺が預かっているんだからな、と大きく頷く。
今は担任のクラスは無いのだけれども、責任の方は他の教師と変わらない。
(採点ミスなら、そいつをやられた生徒と笑っておしまいで…)
申し訳ないことをした、と丸を付け直してやればいいだけのこと。
それから「ミスして引かれた」点数、そっちも足して書き換えてやって。
「すまんな」と詫びて、それでおしまい。
それとは逆の採点ミスなら、生徒に「笑われて」終わりになる。
本来、引かれる筈の点数、間違った答えに付けられた丸と得点。
(生徒にしてみりゃ、丸儲けで…)
申告しに来る筈もないな、と可笑しくなるのが逆のミス。
どんなに正直な生徒だろうと、こればっかりは言いには来ない。
自分の点数が下がるだけだし、「そんな目に遭うのは、絶対に嫌だ」と。
(…ブルーにしたって、そうなるだろうな…)
今は教え子になっているブルー。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ブルーは優等生だけれども、自分のテストに「点数が下がる」採点ミスを見付けたら…。
(…俺には言いに来たりしないで…)
無かったことにしておくのだろう、と容易に想像がつく。
「ハーレイ先生!」と手を挙げはしないで、「黙っておこう」と。
休み時間に、「間違ってます」と持って来ることも無いだろう。
(…憧れのハーレイ先生だしな?)
ついでに恋人、その人の前では「いい顔」をしたくなるのに決まっている。
わざわざ自分で「評価を下げる」ような真似はしないで、優等生で。
正直に申告しに来る代わりに、「儲けちゃった」と採点ミスを有難がって。
もっとも優等生のブルーは、滅多に間違わないけれど。
ケアレスミスなどゼロに等しくて、難問でもスラスラ解くのだけれど。
(…あいつに点数をくれてやったことは…)
あるんだろうか、と顎に手を当て、考えてみる。
いくら頭をクリアに保って頑張っていても、自分も人間なのだから…。
(ついついウッカリ…)
ミスをすることだってある。
それを防ごうと、今夜も「眠る」努力をしている。
(あいつに点数をプレゼントしたら…)
どうなるんだろう、とブルーの顔を思い浮かべて、「直ぐに分かるな」と吹き出した。
今のブルーは、サイオンがとても不器用だから。
隠し事など何も出来ずに、心の中身が欠片になって零れ出す。
嬉しいことがあった時には、もうキラキラと光の滴が弾けるように。
(…学校では隠していたとしてもだ…)
ブルーの家で会った途端に、心が溢れ出すのだろう。
「ハーレイに点数を貰っちゃった」と、「テストの点数、間違ってたよ」と。
(……ということは、今までに……)
くれてやってはいないんだろうな、と思う点数。
ブルーのテストの間違った箇所に、うっかりミスで丸を付けたことは無いのだろう。
(…しかし、眠っておかないとな?)
明日は大丈夫でも、その内にやってしまいかねん、と考えてベッドにもぐり込む。
今の気分なら、どうやら寝付けそうだから。
ブルーの笑顔が心に浮かんでいる今は。
寝付けない夜は「ある」のだけれども、今夜はこれで眠れるだろう。
思考は「楽しい方」へと転がり、夢でブルーに会えそうだから。
「ハーレイ、点数、間違えてたよ」と、心の欠片がキラキラ零れる愛おしい人に…。
寝付けない夜に・了
※寝付けなかったハーレイ先生、ベッドから起きたわけですけれど。何をしようかと考え事。
その最中に浮かんで来たのがブルー君。それだけで「眠れる」みたいですねv
(……今日はツイてなかったよね……)
ホントに駄目な一日だっけ、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は来てくれなかったハーレイ。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
(…来てくれるかと思ってたのに…)
駄目だったよね、と悲しくなる。
家に帰ってからの時間は、おやつを食べていた間を除いて、「待ち時間」。
ハーレイが鳴らすチャイムの音が聞こえないかと、聞き耳を立てて。
(あんまり早い時間は、ハーレイ、来ないから…)
早すぎるチャイムは他の来客、窓の所へ行くだけ無駄。
ハーレイの「放課後」は、まずは柔道部の指導。
それが終わった後の時間しか、「ブルー」のために割いてはくれない。
今のハーレイは教師なのだし、そちらの仕事が最優先。
(…チャイムの音は聞いたんだけど…)
残念なことに、「早い時間」のものばかり。
今日に限って何回も鳴った。来客が多い日だったらしくて。
それがパタリと途絶えた後には、「鳴らす人」はハーレイくらいの時間が来るのに…。
(一度も鳴ってくれなくて…)
それっきりだよ、と残念な気分。
あれだけチャイムが鳴っていたのに、「ハーレイ」の分は無かったなんて。
一番、鳴って欲しいチャイムが「鳴らないまま」で終わったなんて。
(これじゃ、学校とおんなじだってば…)
学校だってツイてなかった、と今日の昼間を思い出す。
ハーレイを何度も見掛けていたのに、悉くハズレだったから。
「あっ!」と気付いても、それだけのこと。
いつも以上に、「ハーレイを見た」と思うのに。
普段だったら、もっと「少なめ」な「会える」回数。
同じ学校の中で過ごしていたって、登校してから放課後までの時間を共有してたって。
学校でハーレイに会った時には、「ハーレイ」と呼ぶことは出来ない。
呼ぶなら、あくまで「ハーレイ先生」。
いくら「守り役」をしてくれていても、「先生」には違いないだけに。
けれど、会えたら話は出来る。
「ハーレイ先生!」と呼び止めて、ペコリと頭を下げて挨拶したら。
ハーレイが急いでいなかったならば、廊下などで出来る立ち話。
敬語で話さなくては駄目でも、「ハーレイ先生」としか呼べなくても。
(だけど、会えたら喋れるしね?)
教師と生徒の間柄でしか「話が出来ない」時間でも。
恋人同士の会話などは無理で、甘えることさえ出来なくても。
それでも「会えれば」幸せな時間、「ハーレイ先生」と暫く過ごせるのに…。
(…今日はホントに、見掛けただけ…)
声も届かないほど遠くだったり、廊下を曲がって去ってしまったり。
そうでなければ、階段を上って行ってしまったりといった感じで…。
(ハーレイは何度も見たんだけどな…)
立ち話どころか、挨拶さえも出来てはいない。
きっとハーレイは「ブルーがいた」という事実にさえも…。
(気付いてないよね?)
もしも気付いてくれていたなら、振り返ったと思うから。
どれほど遠く離れていたって、ヒョイと振り向いて片手を上げてくれたろう。
こちらがペコリと頭を下げたら、「分かっているさ」という風に。
それをしないで「行ってしまった」今日のハーレイ。
何度見掛けても、何処で目にしても。
(…家のチャイムが何回鳴っても、全部、ハーレイじゃなかったし…)
今日はそういう日なんだよね、と零れる溜息。
なんとも「ツイていない日」なのだ、と思うから。
(…学校であれだけ見掛けていたから、来てくれるかな、って…)
縁があるかと考えたのに、縁は無かった方らしい。
ハーレイは「来ずに」終わってしまって、鳴らなかったチャイム。
学校でもハーレイを「目にした」だけだし、立ち話さえも出来なかったから。
本当に「ツイていなかった」日。
ハーレイを何回見掛けても無駄で、家のチャイムが何度鳴っても、ハーレイではなくて。
(…此処まで酷い日、そんなに無いよね?)
あんまりだってば、と溜息が口から零れるばかり。
どうしてこんなにツイていないのか、今日はよっぽど運が無いのか。
「ハーレイを見掛けた」回数だけは多くても。
家のチャイムを「鳴らす人」の数は、いつもよりずっと多くても。
(それって、ぼくには意味が無いから…!)
学校でハーレイに「会う」のだったら、立ち話は無理でも、せめて挨拶くらいはしたい。
遠すぎて声が届かなくても、ハーレイが片手を上げてくれる程度に。
今日みたいに「ハーレイの背中」ばかりを見るよりは。
階段を上がって行ってしまって、横顔は一瞬だけよりかは。
(家のチャイムだって…)
同じ鳴るなら、ハーレイが鳴らすチャイムがいい。
近所の誰かが鳴らした目的、それがどういうものであっても。
(…珍しいお菓子のお裾分けでも…)
普段だったら、とても嬉しくても、今日に限っては「嬉しくない」。
ハーレイは来てくれなかったのだし、珍しいお菓子を貰うよりかは、待ち人の方。
同じにチャイムが鳴るのなら。
チャイムを鳴らして、誰かがやって来るのなら。
(なんで、こういう日だったわけ…?)
ぼくの今日の運は、よっぽど悪いの…、と尽きない溜息。
もう幾つ目かも分からないほど、唇から「それ」を零したと思う。
溜息の数が多くなっても、いいことは何も起こらないのに。
(…これじゃ駄目だと思うけど…)
ガッカリした気分で零す溜息、それをつく度、落ち込む感じ。
「ツイていない」と実感して。
今日は溜息をついてばかり、と自覚する度に。
(……溜息の数だけ、幸せは逃げて行っちゃうんだ、って……)
その言い回しを何処で聞いたろう。
前の生でも知っていたのか、今の生で覚えた言葉なのか。
きっと今だ、という気がする。
遠く遥かな時の彼方では、幸せは「今ほど」無かったから。
白いシャングリラでも、そうなる前の「人類のものだった船のまま」だった時代でも。
(…船の一日が無事に終わって、次の日の朝がやって来て…)
新しい一日が「何事もなく」過ぎていったら、それが一番の幸せだった。
「ソルジャー・ブルー」だった前の自分にとっては、船と仲間たちの「無事」が何より。
皆が無事なら幸せな日々で、「ソルジャー」ではない「ブルー」には…。
(…ハーレイだよね?)
幸せを感じられた時には、いつもハーレイがいたように思う。
恋人同士になる前から。
ハーレイが厨房で働いていて、其処を覗きに行った頃から。
(あの頃よりかは、今の方がずっと幸せなのに…)
それでも溜息を零すだなんて、自分は我儘になっただろうか。
「ハーレイが来てくれなかった」だとか、「ツイてない」だとか。
前の自分がついた溜息、そちらは遥かに「重かった」のに。
(……ぼくの寿命は、地球に着くまで持たない、って……)
そう悟ってから、何度溜息を零しただろう。
あの白い船の行く末を思って、ミュウの未来を憂い続けて。
今とは比べ物にならない「重さ」の、つくだけで辛い溜息を。
(…溜息の数だけ、幸せが逃げて行っちゃうんなら…)
前の自分は、その言い回しを「知らずに」生きていたのだろうか。
皆の幸せを願うのだったら、ソルジャーは溜息を零すより…。
(…幸せが逃げてしまわないように…)
溜息を飲み込むべきだったろう。
「ソルジャーがついた溜息」のせいで、皆の幸せが逃げないように。
白いシャングリラとミュウの未来に、幸せが幾つもやって来るように。
そういうことなら、溜息をグッと飲み込んだだろう「ソルジャー・ブルー」。
けれども、チビの自分には無理で、ツイていないというだけで溜息。
溜息の数だけ、幸せを逃しそうなのに。
幸せは逃げて行ってしまうと、たった今、自分で考えたのに。
(…だけど、ついちゃう…)
溜息だもの、と思ったはずみに気が付いた。
その「溜息」にも、色々なものが無かったろうか、と。
(えーっと…?)
ホッと安心した時に零れる、安堵の息。
あれも「溜息」の一つだったと思う。同じように息をつくのだから。
(…とても綺麗な景色とかを見て…)
凄い、と漏らす感嘆の息も、「溜息」の内ではなかったろうか。
思わず知らず息が零れて、仕組みは「溜息」と同じだから。
(どっちも同じ溜息だったら…)
ツイていない、と零す溜息よりかは、ずっと素敵なものだと思う。
ホッとしたなら、心がじんわり温かくなるし、感動したなら、弾みもする。
そういう溜息をつくのだったら、幸せも逃げて行かないだろう。
(逆に幸せが来てくれそうだよね?)
溜息の数だけ、幸せなこと。
安堵の息とか、感嘆の息をついたなら。
(そっちも溜息なんだけど…)
さっきから繰り返す溜息よりかは、そういった息をつく方がいい。
ついた数だけ、幸せがやって来そうな息を。
今よりも、もっと幸せになれる気がするから。
今でも充分、幸せだけれど、もっと幸せになりたいから。
(…溜息よりかは、そっちの息…)
つけるといいな、と明日に期待する。
平和な今の時代の地球では、明日は必ずやって来るから。
溜息ばかりをついていなくても、もっと素敵な息を幾つもつけるのだから…。
溜息よりかは・了
※今日は溜息をついてばかりのブルー君。「ツイてないよ」と、何回となく。
けれど、溜息の種類も色々。幸せが逃げて行かない息をつく方が、ずっといいですよねv
(……まったく……)
とんだ日だった、とハーレイがフウとついた溜息。
ブルーの家には寄れなかった日に、夜の書斎で。
机の上には熱いコーヒー、愛用のマグカップにたっぷりと。
ついた溜息で吐いた空気の分、コーヒーを喉に流し込む。
独特の苦味や、香りなどを。
(…これで気分は直るんだがな…)
それに切り替えも早い方だが、と思ってはいても、零れる溜息。
今日の出来事を思い出したら。
「とんだ日だった」と、放課後の方へと目を向けたら。
その「放課後」は、学校に置いて来たけれど。
とっくの昔に別れた放課後、「教師としての仕事」は終わり。
けれども、最後の最後に「放課後に」起こってくれたこと。
溜息の原因で、「とんだ日になった」理由というヤツ。
(まったく、あいつらと来たら…)
あれだけ何度も言っているのに、と溜息しか出ない「柔道部員」。
それも一人や二人ではなくて、今日の問題は全員分だと言えるほど。
(…会議があるから、少し遅れるとは言ってあったんだが…)
朝練の時に、そう伝えておいた。
「放課後は来るのが遅くなるから、先に稽古を始めるように」と。
ただし、柔道は「危険と背中合わせ」な部分もある。
気を抜いていたり、気が散ったりすれば、「慣れた者」でも怪我をすることも多い武道。
そうならないよう、重々、注意をしておいた。
「俺が来るまでの間は、自分の力量以上のことはするな」と、皆に向かって。
自信が無いなら、「ストレッチでもしていろ」とまで。
個々の力量には差があるものだし、主将でさえも「全体を」把握出来てはいない。
稽古をするなら「誰と組ませるか」、彼自身の目で分かる範囲は狭い。
いつもの部活の内容からして、「この辺りだ」と思う程度で。
後は、それぞれの資格などを参考に決めるだけ。
そんなトコだ、と分かっているから、「力量以上のことはするな」と刺しておいた釘。
怪我をしてからでは遅いのだから、下手な部員はストレッチだ、とも。
(……なのにだな……)
会議が終わって、急いだ着替え。
柔道着を着て、有段者の証の黒帯を締めて、体育館へと出掛けたら…。
(あの馬鹿どもが…!)
「下手な部員はストレッチ」どころか、皆がやっていた乱取りの稽古。
「顧問の自分」がいない時には、「やるな」と前から言ってあるのに。
直接指導をしている時でも、乱取りをしてもいい者は…。
(普段の腕やら、その日の調子を見極めてだな…)
選び出しては、「この中でやれ」と決めてゆく。
上手い者なら、上手い者ばかりをメンバーに決めて。
下手な者だと出来はしないし、「やりたい」者には「自分が」相手。
ダテに道場で「教えられる」資格を持ってはいなくて、プロへの道さえあったほど。
(そこまでの腕があって、初めて…)
自分よりも遥かに下の者でも、怪我をさせずに試合が出来る。
「かかって来い!」と一度に大勢を相手にしたって、何の問題も無いほどに。
(…それに憧れるのは分かるんだが…!)
まずは自分の腕を磨け、と口を酸っぱくして指導して来た。
充分に分かってくれているのだと思っていたのに、現に「分かっている」筈なのに…。
(…相手は所詮、悪ガキと言ってもいい年で…)
顧問の教師が「いない」となったら、羽目を外しもするだろう。
普段は出来ないことをやろうと、悪戯と「さほど変わらない」気分で。
(俺が入って行った途端に…)
マズイ、とばかりに蜘蛛の子を散らすように「散った」のが、柔道部員の生徒たち。
乱取りは中断、「普通の稽古」をしていた風に見せかけようと。
(悪戯だったら、逃げておしまいでもいいんだが…)
そうじゃないんだ、と承知なだけに、彼らを集めて怒鳴り付けた。
「大馬鹿者が!」と、「俺の言葉の意味も分かっていなかったのか!?」と。
シュンとしてしまった部員たち。
「すみませんでした」と皆が素直に謝ったけれど、その場で零してしまった溜息。
彼らが「分かっていない」というのが、自分の力量不足に思えて。
(そうじゃないとは、分かっていても、だ…)
あの年頃だと、目を離したなら「ああなる」ものだと思ってはいても、こたえるもの。
現場を目にしてしまったら。
「先生が来たぞ!」と言わんばかりに、「約束を守っている」ふりをされたら。
だから彼らを叱り飛ばして、散々、垂れておいた説教。
「怪我をしたなら、困るのは、お前たちなんだぞ!」と睨み付けて。
「俺も困るが、それ以上に自分が困るってことを、きちんと肝に銘じておけ!」と。
そうして部活は終わったけれども、「とんだ日だった」と残った溜息。
夜の書斎まで「持ち込む」くらいに、珍しく尾を引いている。
(…この所、調子が良かったからなあ…)
柔道部のヤツら、と「教え子たち」の顔を思い浮かべて、また溜息。
彼らの目覚ましい成長ぶりに、目を細めることが多かった。
それを「裏切られてしまった」気分で、余計に溜息が出るのだろう。
「なんてこった」と、「俺がいなかっただけで、あそこまで弛んでしまうとは」などと。
放課後は「学校に置いて帰って来た」のに、この始末。
未だに消えてくれない溜息、コーヒーを淹れて飲むような時間を迎えても。
(……うーむ……)
これじゃいかんぞ、と分かってはいる。
気分の切り替えは早い方なのに、今日に限って引き摺るだなんて。
(溜息ってヤツは、良くはなくてだ…)
ついた分だけ、不思議に気分が沈むもの。
落ち込んでゆくと言うべきだろうか、「それ」をつく理由に捕まって。
(溜息の数だけ、幸せが逃げてゆく、っていう話も…)
あるんだよなあ、と思う言い回し。
前の生でも聞いたのだろうか、それとも「今の生」で覚えた言葉だろうか。
白いシャングリラで暮らした頃には、幸せは今より遥かに少ないものだったから。
(…あの船で幸せなことと言ったら…)
無事に夜が明けて、その一日を無事に終えられること。
それがキャプテンとしての幸せ、「ハーレイ」としての幸せならばブルーのこと。
前のブルーと過ごす時間は、「友達同士」だった頃から「幸せ」だった。
それこそ、厨房でフライパンを使っていた時代から。
(…あいつのことなら、何でも幸せだったっけなあ…)
今もだがな、と頭に浮かんだ小さなブルー。
青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた愛おしい人。
(今日だって、あいつの家に寄れていたら…)
もう溜息など引き摺ってはいない。
小さなブルーと二人で過ごして、夕食はブルーの両親も一緒。
それから食後のお茶を済ませて、愛車に乗り込む頃になったら…。
(溜息なんぞは忘れちまって、綺麗サッパリ…)
洗い流していたんだろうな、と「とんだ日だった」と、またも溜息。
「ツイてないな、というように。
確かにツイてはいないのだろうし、溜息が出るのは「そのせい」だけれど。
(…そういや、溜息って言葉は、だ…)
ガッカリした時とは限らなかった、と気付いた「意味」。
同じ溜息にも「色々な種類があったんだ」と、古典を教える「教師」らしく。
(溜息は、古語っていうわけじゃないんだが…)
その「溜息」を含んだ文には、ガッカリとは違うものもある。
ホッとした時に零れる安堵の吐息も、「溜息」の一つと言っていい。
素晴らしい何かに出会った時に、思わず漏らす感嘆の息も。
(溜息ってヤツにも、色々か…)
どうせだったら、そっちの溜息が良かったんだが、と考える。
小さなブルーの家に寄れていたら、そっちの溜息だっただろうか、と。
好物のパウンドケーキが出たなら、「おっ?」と喜んで「美味い!」となって…。
(満足の息をつくってことも…)
あっただろうし、前の生での何かを思い出したはずみに、今の平和を実感するとか。
「なんて平和になったんだろう」と、今、生きていることに安堵の息。
溜息よりは、安堵の吐息。
感嘆の息の方でもいい。
そっちを口から吐き出していたら、今日は「いい日」になったろう。
同じつくなら、そういった息。
それがつけたら、今日は「素晴らしい日」になるのだけれど…。
(…また、明日だってあるんだしな?)
今はいくらでも「明日」があるから、その「明日」に期待することにしよう。
溜息よりは、安堵の息の方が「多い」のが今の自分の生。
感嘆の息も「ずっと多い」から、そういった息をつけたらいい。
今日は「溜息」に捕まったけれど、溜息よりは、嬉しくなる息をつきたいから…。
溜息よりは・了
※ハーレイ先生が、ついつい零してしまう溜息。原因は柔道部員なんですけれど。
そういった息を引き摺るよりは、嬉しくなる息の方がいい、というのは間違いないですよねv
(…ハーレイ、来てくれなかったよ…)
ちょっぴり残念、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は来てくれなかったハーレイ。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
学校では挨拶出来たのだけれど、たったそれだけ。
立ち話さえもせずに終わって、今日という日も、もうすぐおしまい。
「ハーレイ先生!」と呼び掛けただけで、終わる一日。
恋人同士なのに、「ハーレイ」と呼ぶことは出来ないままで。
(…前のぼくだと、そんな日、一度も無かったのにね…)
ハーレイは「ハーレイ」だったんだよ、と思い浮かべた恋人の顔。
遠く遥かな時の彼方で、「キャプテン・ハーレイ」の名で呼ばれたハーレイ。
皆が「キャプテン」と呼んでいたって、前の自分は「ハーレイ」と呼べた。
恋人同士なことは秘密でも、前のハーレイは「ソルジャー・ブルー」の右腕。
(キャプテン、って呼ぶ時の方が珍しくって…)
余程でなければ、「ハーレイ」とだけ呼んでいた。
ハーレイの方でも、普段は「ソルジャー」が基本とはいえ、「ブルー」とも呼んだ。
アルタミラの地獄で初めて出会った時から、お互い、一番の友達同士。
(…俺の一番古い友達だ、って…)
前のハーレイは、船の仲間たちに、そう言って紹介してくれた。
ハーレイの知り合いが増えてゆく度、前の自分を連れて行ってくれて。
「俺の一番古い友達だから、よろしくな」と。
(…お蔭で、ぼくを怖がる人がいなくなって…)
最強のタイプ・ブルーといえども、あの船で平和に暮らしてゆけた。
皆から、恐れられたりせずに。
強いサイオンを持ったチビでも、「ハーレイの一番古い友達なら」と。
そうして友達同士だったから、ソルジャーになっても「ブルー」と呼ばれたことも。
誰も咎めはしていなかったし、エラも文句は言わなかった。
ハーレイが「ブルー」と呼んでいたって、「ソルジャー」と呼ばずに「ブルー」だって。
そう考えると、前のハーレイと、前の自分は「いい関係」だったと言えるだろう。
ソルジャーとキャプテンの間柄でも、お互い、普通に呼び合えて。
キャプテンを「ハーレイ」と呼んでも良くて、ソルジャーが「ブルー」でも良くて。
それに比べて、今の自分はどうだろう。
学校に行けば「ハーレイ先生」、「ハーレイ」と呼べるのは「家で」だけ。
ハーレイの方は、いつも「ブルー」と、前と同じに呼ぶのだけれど。
(…ハーレイは、前と変わらないよね…)
言葉遣いは違うんだけど、と「前のハーレイ」の口調を思う。
「ブルー」と名前を呼んだ時でも、言葉は敬語だったハーレイ。
どんな時でも、何処であっても、けして敬語を崩さなかった。
前の自分が「ソルジャー・ブルー」になった時から、船の仲間たちの手本として。
船を纏めるキャプテンなのだし、誰よりも「きちんと」していなければ、と。
(…ソルジャーと話す時には、必ず敬語で、って…)
そう決めて徹底させていたエラ。
礼儀作法に厳しかったから、前のハーレイも、それに従った。
ゼルやヒルマンや、ブラウは守らなかったのに。
以前からの口調を変えはしないで、普通に話していたというのに。
(ハーレイとエラだけが、いつも敬語で…)
船での作法を守り続けて、ハーレイは「ブルー」と呼んでも敬語。
恋人同士になった二人でも、やはり敬語のままだった。
二人きりで過ごしていた時でさえも。
(…普通の言葉遣いにしちゃうと、失敗した時に大変だから、って…)
ハーレイは頑として敬語を崩さず、その辺りは「今の自分」と似ている。
学校で「ハーレイ先生」と話す時には、いつも敬語を使うから。
「ハーレイ先生!」と呼んだ途端に、頭の中身が切り替わる。
今は敬語で話す時だと、キッチリと。
ついでに話題も、それに合わせてすっかり変わる。
学校でハーレイに甘えはしないし、恋人らしい話もしない。
あくまで「教え子」、そういう立場の「ブルー」になって。
(案外、簡単に切り替わるけど…)
前のハーレイは、そうしなかった。
チビの自分でも「切り替えられる」のに、切り替えはしないで敬語のまま。
自信が無かったとも思えないから、キャプテンらしく律儀に「決まり」を守ったのだろう。
万一を恐れて、「船の仲間の手本」の立場を、けして裏切ったりしないようにと。
(…うんと真面目で、前のぼくを大事にしてくれて…)
今のハーレイよりも優しかったかも、と思う「キャプテン・ハーレイ」。
どんな時でも「前の自分」の味方だったし、誰よりも側にいてくれた。
けれども、今のハーレイの場合は、「今の自分」がチビの子供なせいで…。
(…キスは駄目だ、って叱ってばかりで…)
おまけに苛めるんだから、と膨らませた頬。
思い出したら腹が立ったから、唇だって尖らせて。
不満を頬っぺた一杯に詰めて、「ハーレイのケチ!」と、此処にはいない人に向かって。
(この顔をしたら、ぼくの頬っぺた…)
両手でペシャンと潰すのがハーレイ、それは楽しそうに、面白そうに。
「おっ、フグか?」と手を伸ばして来て、潰した後には「ハコフグだな」と。
何処の世界に、恋人の顔を「フグ」呼ばわりする酷い人間がいるだろう。
フグで済ませずに、「ハコフグ」にまでしてしまうだろう。
(…前のハーレイなら、絶対、しないよ…)
ホントにしない、と思ったはずみに、ポンと頭に浮かんだこと。
「取り替えちゃったら、どうなるのかな?」と。
前のハーレイと今のハーレイ、そっくりな二人を取り替えたならば、と。
(…前のハーレイが、来てくれたなら…)
きっと優しくしてくれるだろう。
今みたいな「チビ」の「ブルー」にだって。
キスは駄目かもしれないけれど。
(…前に、そういう夢を見たしね?)
あの夢の中では、「ソルジャー・ブルー」と「チビの自分」が入れ替わったけれど。
白いシャングリラに行ってしまう夢で、とても困った夢だったけれど。
前に見てしまった「入れ替わった」夢。
サイオンが全く使えないのに、青の間へ行ってしまった夢。
(あの夢のハーレイ、優しかったし…)
もしもハーレイを「前のハーレイ」と取り替えたならば、色々とお得になるのだろうか。
夢の世界の「前のハーレイ」も、キスは許してくれなかったけれど。
(…未来の私も、キスは駄目だと言うのでしょう、って…)
お見通しだったから、キスの件は期待していない。
けれども、他の様々なことは、「前のハーレイ」だと変わって来そう。
(ぼくがプウッと膨れてたって…)
頬っぺたを潰しにかかる代わりに、「どうなさいました?」と心配するかもしれない。
「私が何か致しましたか?」と、慌てて謝ったりもして。
(…キスを断ったからじゃない、って膨れてやったら…)
キスは贈ってくれないにしても、機嫌を取ろうとしそうなハーレイ。
「私のケーキでよろしかったら、どうぞお召し上がりになって下さい」と言うだとか。
お皿が空になった後なら、「では、どうすれば機嫌を直して頂けますか?」と尋ねるだとか。
(そんな風にして貰えたら…)
同じにキスは貰えなくても、きっと幸せな気分だろう。
「フグだな」と頬っぺたを潰されるよりは、ハコフグにされてしまうよりかは。
ハーレイの言葉は、敬語でも。
チビの自分に向かって喋るのも、敬語のままで変わらなくても。
(取り替えた方が、お得かも…)
今の意地悪なハーレイよりは、と思ってしまう。
取り替える方法は分からないけれど、「今のハーレイ」ならシャングリラでも…。
(…立派にやって行けそうだもんね?)
キャプテンの制服を着て、ブリッジに立って。
皆を指揮して、前のハーレイがやったように「地球へ」。
きっと立派に進んでゆけるし、こちらの世界には「前のハーレイ」。
何かとお得で優しい人が来てくれて、学校に行ったら「古典の先生」。
それも何とかなりそうだよね、と「前のハーレイ」のことを思ったけれど…。
(…ちょっと待ってよ?)
前のハーレイは「此処で」幸せでも、「今のハーレイ」はどうなるのだろう。
遠く遥かな時の彼方にも、「前のブルー」がいるのだけれど…。
(…そのぼくは、メギドで死んじゃって…)
ハーレイは独りぼっちで残って、シャングリラを地球まで運んでゆく。
何の望みも、生きる夢さえも失くしてしまって、ただ一人きりで。
船には仲間たちがいたって、恋人の「ブルー」を失って。
(…それは、ハーレイが可哀相すぎるかも…)
いくら酷くてケチのハーレイでも、「もう一度」辛い目に遭わせるのはどうか。
ハーレイが「そうなる」と分かっているのに、前のハーレイと取り替えられるのか。
(……出来ないよね?)
フグ呼ばわりする酷い恋人でも、酷い目に遭わせたくはない。
だから我慢、と「前のハーレイ」は諦めた。
そっちの方が、優しくて何かとお得そうでも。
幸せな毎日を過ごせそうでも、「今のハーレイ」にも、幸せに過ごして貰いたいから…。
取り替えたならば・了
※前のハーレイは優しかったのに、と思ったブルー君。取り替えたならば、お得かも、と。
けれど、取り替えたら、辛い目に遭うのが今のハーレイ。可哀相すぎるよ、と此処は我慢v
