(……悪戯なあ……)
ガキの頃には、よくやったよな、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
どうしたはずみか、ふと浮かんだのが「悪戯」なる言葉。
子供時代は「悪ガキ」だったし、それに相応しく悪戯もした。
(もちろん、悪戯で通る程度のことなんだがな…)
叱られはしても、とんでもない迷惑をかけてはいない。
子供だったら「通る道」だから、世の大人たちも許してくれた。
「次からは気を付けるんだよ?」などと、叱って説教した後は。
「もう、しません!」と、こちらが頭を下げた後には。
(…また、やったりもしたんだが…)
それも「悪ガキ」な子供の特権、大人たちは「またか」と呆れただけ。
こうして自分が大人になったら、彼らの気持ちも良く分かる。
子供には、のびのび育っていって欲しいもの。
萎縮しないで、叱られたくらいで「めげないで」。
逞しく成長して欲しいから、悪戯されても「仕方ないな」と許してしまう。
成長の芽を摘まないように。
いつか「自分で」、きちんと反省するように。
(…そうやって、デカくなったのが俺で…)
この年では、もう悪戯はしない。
せいぜい、仲間内での「悪ふざけ」といった所だろうか。
かつての「悪ガキ」はすっかり大人で、今では子供を教える教師。
授業の合間の雑談の種に、悪戯について話しはしても…。
(お前たちは、真似をするんじゃないぞ、と…)
付け加えるのが決まり文句で、生徒たちの方も「はい!」と頷く。
もっとも、本当に「真似をしない」かどうかは、なんとも怪しい所だけれど。
(…ほんの数日も経たない内にだ…)
その悪戯をやった生徒もいるから、あまり信用はしていない。
やりたい生徒は「やる」だろうから、「言うだけ無駄だな」と思いもして。
そうなるのならば、悪戯の話は「しない」のが良さそうな感じだけれど。
(…そいつも、つまらん話でだ…)
子供の間は「大いに遊んで」、「大いに学んで」、悪戯だってした方がいい。
元気一杯に育つためには、時には「悪戯」だって必要。
(俺の年では、流石にしないが…)
そういえば、と思い出したのがブルーの顔。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
十四歳にしかならないブルーは、まだ充分に子供だけれど…。
(あいつが悪戯してる姿は…)
思い付かんな、と考えてみる。
今度も弱い身体のブルーは、およそ「悪ガキ」とは縁遠い子供。
友達と一緒に遊んではいても、悪戯などはしないことだろう。
(…悪戯したなら、一目散に逃げて行くのが悪ガキで…)
それを大人が追い掛けてくる。
「こら、待て!」だとか、「止まれ、悪ガキ!」だとか。
逃げ足が遅いと取っ捕まって、その場で説教。
上手く逃げ切ったつもりでいたって、所詮は子供のやることだけに…。
(向こうが追跡を諦めただけで、何処のガキかはバレちまってて…)
家に帰ったら、父や母が怖い顔をして、玄関先に立っていたりもした。
「今日は何処の辺りで遊んで来たのか」と、もう何もかもをお見通しで。
そうでなければ、次の日に、学校へ行った時。
担任の教師に食らった呼び出し。
「後で職員室に来なさい」といった具合で、やはり説教。
(…俺の逃げ足でも、悪戯の後は説教だったんだし…)
走って逃げることが出来ない、ブルーの場合は、きっと論外。
ブルーと一緒に遊ぶ時には、友人たちも控えるだろう悪戯。
(…足手まといと言うのもアレだが…)
逃げられないブルーを連れていたのでは、悪戯のリスクが高すぎる。
取っ捕まるのが確実なだけに、誰もが恐れて「悪戯は無し」。
やっちゃいないな、と確信できる「ブルーの悪戯」。
悪戯するなら、子供の間が一番なのに。
あれやこれやと悪戯をしては、元気に育ってゆくものなのに。
(…かと言ってだな…)
悪戯をしろ、とブルーを唆すわけにもゆかない。
自分は教師で、「悪戯は駄目だ」と諭す方の立場。
もしもブルーが悪戯したなら、怖い顔して説教する方。
(俺がブルーの担任だったら、そうなっちまうな…)
ブルーがやった悪戯のことで、学校に苦情が届いたら。
「お宅の学校の生徒に違いありません」と、通信が入ったりしたら。
(…あいつの場合は、友達と悪戯してたって…)
狙い撃ちだな、と思い浮かべたブルーの姿。
他に何人の仲間がいたって、苦情はブルーに集まるだろう。
五人や六人だったら当然、たとえ二十人もの仲間と一緒に悪戯だって。
(なんたって、見た目がソルジャー・ブルー…)
ちょっぴり小さすぎるんだがな、と「前のブルー」と頭の中で並べてみる。
遠く遥かな時の彼方で、前のブルーが生きていた姿。
今の時代は、知らない者など誰もいないのが、ソルジャー・ブルー。
ミュウの時代の礎になった偉大な英雄、それだけでも姿を覚えられるのに…。
(…珍しいアルビノと来たもんだ)
銀色の髪に赤い瞳で、抜けるように白い色素の無い肌。
「ソルジャー・ブルー」の写真を一目見たなら、忘れる者はいないだろう。
あまりに印象的な姿で、おまけに美しいのだから。
(今のあいつは、あれよりはずっとチビなんだが…)
それでも見た目は「小さなソルジャー・ブルー」でしかない。
中身が「本物のソルジャー・ブルー」の魂だとまでは、見抜けなくても。
生まれ変わりだとは気付かなくても、「ソルジャー・ブルーのようだ」と分かる。
だから大勢で悪戯したって、「学校に苦情を入れる」となったら、標的はブルー。
「こういう姿の子供がいました」と、ただ一人だけで目立ってしまって。
間違いないな、と思う「ブルー」のこと。
たとえ健康に生まれていたって、悪戯は難しかっただろうか。
何人で悪戯していたとしても、「叱られる」のは「ブルー」の係。
あの姿のせいで「覚えやすくて」、名指しで苦情が来そうなだけに。
「ブルー」という名を知らない人でも、「こういう姿形の子供」と覚えやすいだけに。
(……うーむ……)
逃げ足が速いガキでも無理か、と考えてしまう「ブルーの悪戯」。
走り去ってゆく後ろ姿しか見えていなくても、銀色の髪が特徴的すぎる。
(銀髪のガキは、そう珍しくもないんだが…)
ブルーの場合は、その髪型まで「ソルジャー・ブルー風」と来た。
幼い頃からずっと同じで、一度も変えてはいないと聞く。
大英雄の「ソルジャー・ブルー」と同じアルビノ、名前も「彼」から貰ったもの。
ブルーの両親は、ごくごく自然に、一人息子を「ソルジャー・ブルー風」の髪型にした。
それが一番似合うだろうし、第一、覚えて貰いやすい。
(…そいつが裏目に出ちまって…)
悪戯したなら、もう一発で覚えられちまうな、と苦笑する。
今のブルーが虚弱でなければ、悪戯の度に槍玉に上がったことだろう。
何人もの仲間と一緒に逃げても、「ブルー」一人だけが「覚えられて」。
「アルビノの子供だったんです」と、動かぬ証拠を突き付けられて。
(…それだと、いわゆる悪戯小僧の悪ガキには…)
なれないかもな、と思わないでもない。
友達と一緒に悪戯したって、「叱られる」回数が「一人だけ」飛び抜けていたならば。
他の子たちは「バレていない」のに、毎回のように「一人だけ」説教だったなら。
(またか、と懲りて嫌になっちまって…)
他の子たちに誘われたって、「ぼくは、やらない」と言い出すだろうか。
「どうせ、ぼくだけ叱られるんだよ」と、「いつもホントに、ぼくだけだってば!」と。
頬っぺたをプウッと膨らませて。
「みんなはサッサと逃げて行けるけど、ぼくは逃げても無駄なんだから!」などと。
それが本当のことだけに。…逃げ足が速くても、意味が無いだけに。
(…なんだか可哀相になって来たな…)
悪戯するなら、今の内だと思うのに。
それは子供の特権なのに、どう転がっても無理そうなブルー。
弱い身体なら「逃げ足が遅くて」足手まといで、出来ない悪戯。
健康な身体に生まれていたなら、今度は「見た目」が邪魔をする。
ブルーだけが「一人で」叱られるのでは、悪戯をする気も失せるだろうから…。
(…悪戯なんかは出来ない分だ、と思ってやるかな)
いつも叱っているブルーのこと。
「ぼくにキスして」だの、「キスしてもいいよ」だのと言われる度に。
あれを悪戯だと思ってやろうか、「また悪戯をしていやがるな」と子供を見る目で。
恋人だけれど「悪ガキ」なんだと、悪戯するなら「今の内だ」と。
いつかブルーが育った時には、キスは山ほど贈るのだから。
「駄目だ」とブルーを叱り付けるのは、ブルーが子供の内だけだから…。
悪戯するなら・了
※悪戯は子供の特権なのに、していそうにないのがブルー君。健康な身体でも、やっぱり無理。
その分、「ぼくにキスして」が悪戯なんだと考えようか、と思うハーレイ先生ですv
(えっと…?)
どうだったかな、と小さなブルーの頭を掠めていったこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰掛けていたら。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した人。
その人のことを考えていたら、意識が向いた「学校」の方。
今のハーレイは「ハーレイ先生」、学校で会えば古典の教師。
(…古典のヤツじゃないけれど…)
明日の授業に持ってくるよう、言われたプリント。
それを鞄に入れただろうか、と気になって来た。
(教科書とノートは入れたんだけど…)
入れていた時、「明日はプリントも要るんだよ」と思ってはいた。
配られたのは先々週だったか、その時だけのつもりで見ていたプリントなのに…。
(明日の授業で、また使うから、って…)
「持って来なさい」と、前回の授業の最後に注意があった。
プリントを失くしてしまった生徒のためには、また配られるらしいけれども。
(失くしちゃうなんて、不名誉だしね?)
授業で使うのは一度きりでも、大切な資料だったプリント。
いつかテストに出るかもしれないし、「やる気があるなら」取っておくもの。
もちろん、家に持って帰って、きちんと引き出しに仕舞っておいた。
(あのプリントを入れたっけ…?)
どうにも自信がないのが今。
引き出しを開けて、プリントを見た覚えはある。
「うん、これだよ」と眺めたけれども、その瞬間に気が散った。
母に「食べる?」と呼ばれた試食。
それに「食べる!」と直ぐに返事して、部屋を飛び出して、階段を…。
(下りて、キッチンに行っちゃって…)
試食の後は、母とお喋り。
お茶まで飲んで話していたから、次の記憶は「部屋に戻った所から」。
キッチンに出掛けた記憶の続き。
二階に戻ると、部屋の扉を開けて中に入って、その後は本を読んでいた。
「明日の用意は、もう終わったから」と、勉強机の前に座って。
もしかしたらハーレイが来てくれるかも、と微かな期待を胸に抱いて。
(……それっきり……)
開けてはいない、通学鞄。
机の引き出しの方にしたって、「学校に持って行く物」を入れてある場所は…。
(開けてもいないし、覗いてないし…)
プリントは鞄に入れないままで、ポンと引き出しを閉めただろうか。
母に呼ばれた試食の方に気を取られて。
(…だって、コロッケ…)
今日の夕食はメインがコロッケ、そういう日には「ある」試食。
コロッケは「揚げ立て」が美味しいものだし、特別に。
(ぼく専用に、一口サイズで…)
小さくてコロンと丸いコロッケ、一足お先に揚げて貰える。
ホカホカと湯気を立てるのを。
まるで、おやつの続きみたいに、母が「食べる?」と声を掛けてくれて。
(コロッケの試食は、ハーレイにも頼んであるほどで…)
いつか二人で暮らし始めても、やっぱり「試食」がしたいから、と。
ハーレイがコロッケを揚げてくれるのなら、一口サイズの「試食用」が欲しい、という注文。
そんな注文までするくらいだから、「プリントのこと」などは吹っ飛んで消える。
鞄に入れたか、入れていないか、どちらだったかは。
(入れた筈だと思うんだけど…)
いくらコロッケが食べたいとはいえ、「明日の授業」は大切なもの。
授業で使う予定のプリント、それは「入れた」と思いたい。
(……だけど、覚えていないから……)
万一ということも、無いとは言えない。
すっかり忘れて引き出しに入れて、通学鞄を閉めたとか。
鞄の中を覗いてみたって、プリントは「入っていない」だとか。
それは困る、とベッドから立って、勉強机の所に行った。
通学鞄を机に置いて、中を順番に確かめて…。
(うん、入ってる!)
このプリント、と確認してから、大満足で鞄を閉める。
コロッケの試食に夢中で「忘れてしまった」けれども、プリントは忘れていなかった。
きちんと鞄に突っ込んだ後で、「入れた」ことを忘れていただけで。
(ふふっ、優等生…)
ぼくはプリントを失くさないよ、とエヘンと胸を張りたい気分。
明日の授業では「失くしてしまった生徒」が、きっと大勢いるのだろう。
先生が「持っていない人は?」と訊いた途端に、「はいっ!」と幾つも手が挙がって。
(…ぼくもプリント、持って行くのを忘れたら…)
そっちの仲間入りだったけれど、鞄に入れてあったプリント。
明日の授業では、ちゃんと机の上に広げておけるだろう。
「持って来てます」と、教科書やノートと一緒に並べて。
(…これで良し、っと…)
もう大丈夫、とベッドの方に戻ろうとしたら、受けた衝撃。
いきなり星が飛び散った。
(…………!!?)
痛い、と声が出たのかどうか。
とんでもない痛みが足を襲って、思わず座り込んでいた。
「いたたたた…」と両手で足を押さえて、勉強机の直ぐ側に。
ペタンと座ってしまったけれども、それどころではなく痛む右足。
正確に言うなら、右足の小指。
「……うー……」
ホントに痛い、と背中まで丸くなるほどの痛み。
歩き出そうと前に出した足、その足が机にぶつかった。
よりにもよって、右足の小指がゴッツンと。
足の小指は、ぶつけると「とても痛い」のに。
こうして床に座り込むほどに、目から星さえ飛び散ったような気がするほどに。
とっても痛い、と両手で包み込む小指。
もうズキズキと激しく痛んで、今にもプックリ腫れそうだけれど…。
(…ぶつけただけだし…)
腫れないんだよね、と分かってはいる。
変な方に曲がるような「ぶつけ方」をしたなら、腫れてくることもあるけれど。
重たい何かが「落ちて当たった」なら、やっぱり腫れもするのだけれど。
(……でも、痛いから……!)
なんで小指、と泣きそうな気持ちになる痛さ。
同じに足をぶつけたとしても、小指でなければ、ここまで痛くはならない。
どうしたわけだか、小指というのは「酷く痛む」場所。
何処かに、こうして「ぶつけた時には」、とんでもなく。
骨が折れたり、後で腫れたりするのでは、と思うくらいに。
(……ホントのホントに、痛いんだから……!)
ツイてないよ、と指をさすって、やっとの思いで立ってベッドへ。
端っこにストンと腰を下ろして、「ぶつけた小指」をまじまじと見る。
これが小指でなかったならば、今頃は「痛くない」のだろうに。
とうに痛みは引いているとか、痛くてもズキズキしていないとか。
(…小指って、弱く出来ているよね…)
他の場所より、と「少しだけ赤い」指を眺めて考える。
今はちょっぴり赤いけれども、じきに白い肌に戻るだろう。
きっと明日には痕さえも無くて、青い痣さえ残ってはいない。
同じ足でも他の場所なら、これほど酷く痛む勢いで「ぶつけた時」には…。
(明日には青い痣になっちゃって…)
内出血の赤い斑点も、セットで出来ているのだろう。
少し腫れたりするかもしれない。
痕がすっかり消えるまでには、何日もかかると思うのに…。
(足の小指は、うんと痛くても…)
そんな痕など残らないから、「運が悪かった」と悲しい気持ち。
飛び上がりたいほどの痛みを食らうような場所を、ゴツンとぶつけてしまうなんて、と。
悪いのは自分だったのだけれど、ツイていないと思う場所。
足の小指をぶつけた時には、それは「とんでもなく」痛いのだから。
(…ハーレイは来てくれなかったし、足の小指はぶつけるし…)
酷い日だよね、と涙が出そう。
ぶつけた小指は、今もズキズキするものだから。
目から星が出るほど痛かったのだし、きっと泣いてもいいだろう。
(……一人で泣いても、馬鹿みたいだから……)
我慢するだけで、ハーレイがいたら「痛い!」と悲鳴を上げていた筈。
床にうずくまって我慢しないで、大袈裟に顔を歪めてみせて。
「痛いよ」と涙を零したりして、「大丈夫か?」と心配して貰って。
(…絶対、そっち…)
我慢するわけないんだから、と思ったけれども、ふと気付いたこと。
足の小指を「ぶつけた時には」、泣きたいくらいに痛むもの。
けれども、前の自分の頃にはどうだったろう、と。
(…前のぼくだと、ソルジャーのブーツ…)
あれがあったし、そう簡単には「ぶつけない」筈。
とはいえ、ソルジャーになるよりも前は、船に乗る前にはどうだったろう。
アルタミラの檻で暮らした頃には、足の小指をぶつけるなどは…。
(少しも大したことじゃなくって…)
もっと酷い目に遭わされていた。
超高温だとか、絶対零度だとか、過酷な環境のガラスケースに何度入れられたか。
どれほどの薬物などを試され、それでも死ねずに治療をされて生かされたのか。
(…あんな経験をしていたら…)
逃げ出した後に、船で「小指をぶつけた」くらいのことでは、痛いと思わなかったろう。
仮に「痛い」と思ったとしても、じきに忘れてしまったのだろう。
こうして「生まれ変わった後」まで、それは記憶に残りはせずに。
「痛い!」と悲鳴を上げていたって、その場限りで忘れ去って。
足の小指をぶつけたくらいで、死んでしまいはしないのだから。
「死ぬかもしれない」と思うことさえ、一度も無かった筈なのだから。
それを思うと、今の自分は、なんと幸せなのだろう。
たかが小指をぶつけたくらいで、「痛い!」と叫んで、「ツイていない」と考えて。
前の自分が同じ目に遭っても、すぐに忘れてしまったろうに。
(…ぶつけた時には、うんと痛くて…)
とても痛いから、ハーレイがいたら悲鳴を上げてしまいそうなのが、今の自分。
涙を零して「痛いよ」と言って、心配だってして貰って。
そう出来る今が、小指をぶつけた時には「痛い」と思える今が、とても幸せ。
ぶつけた時には「痛いよ」と泣いてしまってもいい、平和な時代にいるのだから…。
ぶつけた時には・了
※足の小指をぶつけてしまったブルー君。とても痛かったみたいですけど…。
それを「痛い」とも思わなかったらしいのが、前の生。痛いと思える今は幸せですよねv
(…ありゃ…?)
どうだったやら、とハーレイの頭を掠めたこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で腰掛けていて。
机の前の椅子に座って、コーヒー片手に過ごす、ひと時。
熱いコーヒーをコクリと飲んだら、そのコーヒーを淹れたキッチンが気にかかる。
(ダイニングの明かりは、ちょいと暗めにして来たんだが…)
そうした覚えは確かにあった。
書斎でゆったり過ごすからには、ダイニングを煌々と照らす明かりは必要ない。
かと言って、消せば真っ暗になる。
それも何だか寂しいものだし、ごく控えめに落としておく照明。
常夜灯よりは明るめに。新聞を読むのに困らない程度に。
その調節は「した」覚えがある。
けれど「ない」のが、キッチンの方。
コーヒーを淹れる間は、もちろん点けていた明かり。
淹れ終わったら、キッチンの明かりは「出てゆくついでに」消すのだけれど…。
(……消した覚えが全く無いぞ?)
スイッチに触れた記憶さえも無いし、点けっぱなしのままかもしれない。
食事などをするダイニングはともかく、キッチンで使う照明は今は「要らない」のに。
後でカップを洗いに行くまで、「消したまま」の暗い部屋でいいのに。
(…エネルギーの無駄というヤツだしな?)
さて…、と考えても分からない。
消して来たのか、今もって点いたままなのか。
(サイオンを使えば、此処からだって…)
キッチンの様子が見えるけれども、そういったことは好みではない。
日常生活で「サイオンを使わない」のが、今の社会のマナーで、ルール。
それが無くても、「自分の身体を動かして」見に行く方がいい。
ちょっとした動作も「運動の内」で、積み重ねてゆけば…。
(かなりの運動になるってもんだ)
立ったり座ったりするだけでも。…たかが廊下を歩くだけでも。
よし、と立ち上がって向かったキッチン。
書斎の扉を開けて廊下へ、それからスタスタ歩いて行って。
(…やっぱりなあ…)
忘れていたか、とキッチンの扉を開けて苦笑する。
要りもしない明かりが点いていたから。
(ウッカリしてたが、忘れたままでいるよりは…)
まだマシだよな、とパチンと消せば、たちまち真っ暗。
じきに目が慣れて、扉の方から差し込む明かりで、ちゃんと全てが見えるけれども。
(これでゆっくりコーヒーが飲めるぞ)
気になることは片付けたから、と戻った書斎。
廊下を大股で逆に辿って、コーヒーのカップを置いて来た場所へ。
書斎に着いたら、机の上にまだ湯気の立つマグカップ。
椅子を引いて、其処に座ろうとして…。
(…………!!?)
いきなり足に受けた衝撃。
正確に言うなら右足の小指、ガツンと星が飛び散ったよう。
「いたっ!」と声が出たのかどうか、まるで自覚は無いけれど…。
(……いたたたた……)
これは痛い、と歪んだ唇。
癖になっている眉間の皺も、深くなったに違いない。
今のは、なんとも「痛かった」だけに。
まだ右足の小指が痛くて、「腫れるのでは」とさえ思うくらいに。
(…やっちまったな…)
俺としたことが、と眺める右足。
それから机の下の方。
座ろうと椅子を引いたまでは良くても、その後の動きを誤った。
何も考えずにスイと動いて、衝突してしまった右足と机。
(よりにもよって、小指と来たか…)
一番痛い場所をやられちまった、と椅子に腰掛けて右足を見る。
「とても痛い」と訴える指を、ぶつけてしまった「小指」という場所を。
柔道や水泳で鍛えていたって、それと「痛み」とは、また違うもの。
どんなに我慢強くなっても、「鍛えられない場所」はある。
(……弁慶の泣き所ってヤツが有名なんだが……)
今ではな、と思う「向う脛」。
SD体制が始まるよりも、遥かな遠い昔の「日本」。
今の、この辺りにあった島国。
其処で「強い男」の代名詞だった「武蔵坊弁慶」、彼の名前がついている「部分」。
弁慶と言えば、最後は「立ったまま死んだ」という伝説があるほど。
武勇に優れて力持ちでもあったのだけれど、その弁慶でさえも…。
(ぶつけた時は、泣いただろうというのがだな…)
いわゆる「弁慶の泣き所」、「向う脛」の異名。
前の自分が生きた頃には、そんな呼び名は無かったけれど。
今の時代も、他の地域では、多分、通じはしないのだけれど。
(…あそこを打ったら、痛くてだな…)
俺だって目から星が出そうだ、と充分なほどにある自覚。
向う脛など、鍛える方法は「ない」だけに。
「痛みに強くなろう」と思った所で、相手は「弁慶の泣き所」。
ぶつけた時は「誰でも痛い」し、そう呼ばれる場所は「どうにもならない」。
(未だに、ぶつけた時は痛くて…)
平気な顔などしていられんな、と「向う脛」の方も眺めてみる。
「こいつも痛い」と、ぶつけた痛みを思い出してみて。
柔道の道場で教えられるほどの立場になっても、何度、泣かされたか分からない。
実際に「泣いてはいない」だけのことで、「痛い!」と思ったことは何度も。
それと同じに「とても痛い」場所、そこを「ぶつけてしまった」のが今。
足の小指は、ぶつけると「とても痛い」もの。
たった今、目から星が飛び散ったかと思ったほどに。
声が出たかは謎だけれども、右足は「とても痛かった」。
腫れてしまうのでは、と思うくらいに酷かった痛み。
ガツンと机にぶつけた途端に、小指が「ギャッ!」と悲鳴を上げて。
(…腫れるほどではないんだが…)
単にぶつけただけだからな、と分かってはいる。
捻ったというわけではないし、重い物を指の上に落としたわけでもない。
ほんの一瞬、机との間で起こってしまった衝突事故。
(…衝突と言うより、接触の方か?)
そんなトコか、と思いもする。
小指はゴツンと「ぶつかった」だけで、痛みの割には「掠っただけ」とも言うだろう。
衝突と言うのは、もっと激しく「ぶつかる」こと。
今の程度なら、きっと「接触」。
(…うんと痛い、と思っちまうのは…)
鍛えられない場所を「ぶつけた」からで、「弁慶の泣き所」にも匹敵する「小指」。
足の小指は、どうしたわけだか「とても痛い」場所。
大怪我などはしなくても。
さっきのような「接触事故」でも、星が飛び散りそうなくらいに。
(…前の俺でも、きっと痛いと思っただろうが…)
生憎と記憶に残ってないな、と遠い記憶を探ってみる。
三百年以上も生きていたのだし、きっと何度も「ぶつけた」だろう場所。
「弁慶の泣き所」と呼ばれる「向う脛」の方も、同じくらいに痛い「足の小指」も。
なのに、記憶は残っていない。
何百回と「ぶつけた」だろうに、「何千回」かもしれないのに。
(…とんでもない人生だったしな?)
成人検査でミュウと判断され、送り込まれた研究施設。
小さな檻に押し込められて、繰り返された人体実験。
(俺の場合は、せっせと負荷をかけるのがメインで…)
ブルーよりかはマシだったけれど、過酷だったことは間違いない。
肉体の苦痛も、精神的な苦痛の方も。
(…あれに比べりゃ…)
ぶつけた痛みは、「記憶する」ほどでも無かっただろう。
生まれ変わってまで「覚えている」ような、そこまでの酷い痛みではなくて。
それを思うと、なんという平和な時代だろう。
「鍛えられない場所は痛い」と、ぶつけた足の小指を眺めているなんて。
同じに「痛い」と称される場所の、「弁慶の泣き所」まで考えていられるなんて。
(ぶつけた時は、とても痛くて…)
星が飛び散るとまで思ったけれども、前の自分なら「どうだった」のか。
この程度で「星が飛び散っていたら」、前の自分の場合は、きっと…。
(…アルタミラの檻で、死んじまっていたんだろうな…)
苦痛に耐えて「生き残る」ことは出来なくて。
前のブルーとも出会えないまま、死体になって廃棄されて。
(……前の俺は、鍛えていたってか?)
鍛えられない場所であろうと、激しい痛みに耐えられるように。
どれほどの苦痛を与えられようとも、それに屈せず、生きてゆけるように。
(…どうだったんだかな?)
そこは分からん、と定かではない、遠い遠い記憶。
「弁慶の泣き所」などは知らなかったし、「足の小指」をぶつけた記憶も無い前の生。
けれども、今は「痛い」それ。
さっきも星が飛び散っただけに、今の自分は「痛い」と感じる。
(でもって、ブルーの場合はだ…)
大騒ぎだぞ、と思い浮かべる小さなブルー。
メギドで「遥かに痛い目に遭って」死んでいたって、アルタミラの記憶があったって。
生まれ変わった今のブルーは、自分と同じで「平和な時代」に生きているから。
(ぶつけた時は、痛くて当たり前だってな)
俺だって目から星が出るんだ、と傾けるカップ。
「実に平和な時代だよな」と、「今だって、ちょいと、ぶつけた小指が痛むんだが」と…。
ぶつけた時は・了
※柔道で鍛えたハーレイ先生でさえも、ぶつけた時は「痛い」と目から星が飛び散る場所。
けれども、前の生では「痛かった」記憶さえも無い場所。今は、とっても平和らしいですv
(……うーん……)
やっちゃった、とブルーが眺める床の上。
ハーレイが来てくれなかった日の夜に、パジャマ姿で。
お風呂上がりにベッドにチョコンと腰掛けていたら、ふと思い立ったこと。
いつもは勉強机の引き出しに入れてある「それ」を、見てみたくなった。
下の学校で出来た何人もの友達、彼らと作った「思い出」の欠片。
旅行のお土産のキーホルダーやら、何かの記念メダルやら。
(…他の人が見たら、ガラクタだけど…)
ぼくには大事な思い出ばかり、と端から机の上に並べて。
並べないにしても、気まぐれに一つ、取り出してみては…。
(誰に貰ったヤツだったっけ、って…)
懐かしみたくて、引き出しの中から引っ張り出した。
「思い出」が詰めてある、大切な袋。
(…ポーチって言うかもしれないけれど…)
ファスナー付きの布製の袋、けれども「買った」物ではない。
「宝物入れ」を探していた時、母が何処かで貰って来たオマケ。
丁度いいサイズで、子供の目には「ピッタリ」に見えた。
(要らないんなら、ちょうだい、って…)
直ぐに貰って、早速、詰めたメダルなど。
こまごまとした物が「引き出しの中で」行方不明にならないように。
それから「使い続けた」袋。
他にも増えたし、これ一つだけではないけれど…。
(今日は、コレの気分で…)
中身を見よう、と開けようとしたら、ちょっぴり力が入りすぎた。
グイと引っ張ったファスナーの取っ手、それと一緒に…。
(……壊れちゃったよ……)
袋のファスナーそのものが。
まるで破れてしまったみたいに、パチンと弾けて。
床に散らばった「宝物」たち。
もう大慌てで拾い集めてゆくしかない。
(ファスナー、壊れちゃってるけど…)
とりあえず今は、袋の中へ。
ベッドの下なども覗き込んでは、「拾い忘れ」が無いように。
(…あんな所にも…)
落っこちてるし、とパジャマ姿で部屋をあちこち歩き回って、なんとか回収出来た「それ」。
袋の中身を指で持ち上げては、「これもあるね」と頷いたりして。
(……大失敗……)
宝物は回収出来たけれども、「宝物入れ」は壊れてしまった。
すっかり駄目になったファスナー、とても直るとは思えない。
弾けたはずみに、噛み合わせが変になったから。
何ヶ所か「歪んでしまった」それは、二度と閉まってくれたりはしない。
(…無理やり締めたら、開かなくなって…)
今度は袋がビリッと破れてしまいかねない。
それが嫌なら、ファスナーを新しく取り替えてつけるか、新しい袋を手に入れるか。
(……元がオマケの袋だから……)
新しいファスナーを買って来てまで、取り替える価値はあるのだろうか。
家に「たまたま」あるならともかく、手芸用品の店まで「買いに」出掛ける時間や手間。
(…オマケの袋…)
ファスナーの方が高いのかも、という気もする。
だったら、新しい袋を買って「入れ直す」方がいいかと言うと…。
(……中身、ガラクタ……)
自分にとっては「思い出の品」でも、他の人から見ればガラクタ。
父が見たって、母が見たって、ハーレイが見ることがあったって。
(…くれた友達が覗き込んでも…)
「くれた」ことすら、友達は忘れているかもしれない。
旅行のお土産も、メダルなんかも、気前よく配っていただけに。
何人に配って「誰に」あげたか、それさえ忘れ果ててしまって。
つまり「中身」は、「自分一人の」宝物。
わざわざ、お小遣いを使って「新しい袋」を買うよりは…。
ファスナーを買って「つけ直す」よりは、「チャンスを待った方」が良さそう。
(こういう袋が欲しいよね、って…)
思っていたなら、目に付くこともあるだろう。
また母がオマケを貰って来るとか、父が「欲しいか?」と差し出すだとか。
そうでなくても、家の中には「要らない袋」が、きっとある筈。
(…ママが仕舞っているだけで…)
「こんな感じの袋が欲しい」と言ったら、ヒョイと出て来そう。
それこそ幾つも、「どれがいいの?」と、ダイニングのテーブルの上なんかに。
「好きに選んで持って行きなさい」と、いろんな袋。
(…丁度いいのが無かったとしても…)
代わりの袋を貰っておいて、「今度、こういうのがあったら、ちょうだい」と母に注文。
見本に「駄目になった袋」を見せておいたら、母のことだから…。
(何処かで似たような袋に会ったら…)
オマケでなくても、「持って帰ってくれる」だろう。
「前にブルーが欲しがってたわ」と、お金を払って買ってでも。
(…そういうチャンスを待つのが、いいよね?)
なにしろ、相手は「ガラクタ入れ」。
元は「オマケの袋」なのだし、壊れたからには仕方ない。
(壊れちゃったら、もうコレは駄目で…)
次の出会いを期待するのが、うんと前向きな考え方。
「壊れちゃった…」と、しょげているより、「もっといいのが来てくれるよ」と。
家にある袋の中から「一つ選ぶ」にしたって、母に任せておくにしたって。
(…今より、宝物入れっぽくなるとか…)
その可能性だって、大いに有り得る。
今よりも「素敵な」袋が来たなら、中の「ガラクタ」の値打ちも上がる。
「新しい袋」になった分だけ、それが「素敵に見える」分だけ。
壊れたファスナーがくっついたままの、「元はオマケの袋」よりも、ずっと。
それがいいよね、と大きく頷く。
今夜の所は「壊れた袋」に仕舞い込んでおいて、明日になったら母に相談。
家に「ピッタリの袋」が無いか、無いようだったら「駄目になった袋」を見せもして。
(この袋は壊れちゃったけど…)
もっと素敵な袋になるなら、怪我の功名。
より素晴らしい「宝物入れ」が出来るし、クヨクヨするより、その方がいい。
「壊れちゃったよ」と嘆いていないで、「新しい出会い」を待つ方が。
きっと素敵な袋に会えるし、それが一番いい道でもある。
(壊れちゃったら、仕方ないしね…)
新しくて、うんといいのと交換、と夢を見る。
どんな袋がやって来るのか、もしかしたら、買って貰えもするかも、と。
(壊れちゃった方が、お得なのかも…)
とても素敵な袋に変わってくれるんなら、と捕らぬ狸の皮算用まで。
元はオマケの袋だったけれど、次の袋は「買って貰った袋」になるかもしれないだけに。
そう考えると、「壊れてしまう」のも悪くない。
壊れないと「新しい出会い」は無いから、きっと「壊れた」のも何かの縁。
神様が「新しい袋をあげよう」と、御褒美を下さるだとか。
(…それもいいよね…)
壊れちゃうのも素敵かも、と心が弾んだりもする。
「他にも何か壊れないかな?」と、部屋をキョロキョロ見回したりも。
わざと壊しはしないけれども、「壊れてしまった」なら新品になる。
机の上のペン立てだって、他の色々な物だって。
(……壊れちゃったら、新しくって素敵な物になるんだから…)
次に壊れるなら、何が一番嬉しいだろう、と考えた所で、不意に頭に浮かんだこと。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した人。
青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた恋人だけれど…。
(……ハーレイとの恋が壊れちゃったら?)
どうするの、と飲んでしまった息。
ある日、ハーレイが「去って行ったら」。
恋が壊れて、ハーレイが「いなくなった」なら。
(……今のぼくだと、大丈夫だけど……)
チビの間は、流石に「捨てられる」ことは無いのだと思う。
けれども、大きくなった時には、いきなり喧嘩になるかもしれない。
子供の間は「通った」我儘、それにハーレイがカチンと来て。
「やってられるか!」と眉を吊り上げて、「俺は知らん!」と頭に来て。
二人でデートに出掛けた先で、「ハーレイだけ」帰ってしまうとか。
「後は自分で帰れるだろう!」と、車で駅やバス停に連れてゆかれて、降ろされるとか。
ハーレイの愛車は、それきり走り去ってしまって。
一人で帰ってゆく他はなくて、一人きりで家に帰った後にも…。
(…デートの誘いなんかは来なくて、知らんぷりで…)
ハーレイの家に通信を入れても、無視されてしまっておしまいだとか。
そうやって恋が壊れた時には、どうすればいいと言うのだろう。
「新しい出会い」に期待すればいいと、「ハーレイを諦めて」別の誰かを待つのだろうか。
もうハーレイは戻らないから、「新しい」誰か。
そっちの方が「いい」だろうから、「その内に、誰かと出会えるよね?」と。
(……そんなのって……)
あんまりだよ、と見開いた瞳。
壊れた袋くらいだったら、「新しい出会い」が楽しみだけれど、恋だと「違う」。
諦めることなど、とても出来なくて、みっともなくても「食い下がる」だけ。
ハーレイの家まで出掛けて行っては、「ごめんなさい!」と土下座してでも。
お許しを出して貰える時まで、門扉の前に座り込んででも。
(…恋が壊れたら、新しい出会いどころじゃないんだから…!)
壊れちゃったら、うんと大変…、と反省しながら神様に祈る。
「ハーレイのケチ!」なんて、もう言いません、と。
だから絶対、この恋は「壊れないようにして下さい」と…。
壊れちゃったら・了
※ブルー君が壊してしまった袋。新しい袋との出会いがあるよ、と楽しみでしたけど…。
ハーレイ先生との恋が壊れてしまった時には、新しい出会いよりも関係修復らしいですv
(……うーむ……)
やっちまったか、とハーレイが見下ろす自分の手元。
ブルーの家には寄れなかった日、夜のキッチンで。
より正確に言うのだったら、キッチンのシンク。
夕食の後片付けをしていて、滑った手。
(何のはずみだか……)
シンクだったから良かったんだか、悪かったんだか…、と心で呟く。
割れてしまったガラス瓶。
硬いシンクに落とさなかったら、きっと割れてはいなかったろう。
今日までの間に、何度もあった「床に落とす」こと。
ダイニングの床でも、キッチンの床でも、割れてしまったことは無かった。
それが見事に真っ二つ。
ガチャンと音が聞こえた時には、とうに手遅れ。
(シンクの中だし、飛び散ったりはしていないから…)
そういう意味では「シンクで良かった」のだろう。
床だったならば、かなりの範囲を「掃除する」ことになったろうから。
ガラスの破片が落ちていたなら、怪我をする。
ほんの小さな欠片にしたって、鋭いものは侮れない。
(掃除の後にも、粘着テープで仕上げってトコで…)
手間暇かかったろう「掃除」。
シンクの方なら、こういう時には「流せばいい」。
目に見えないような細かな欠片は、強い水流で洗い流すだけ。
後は野菜クズなどの「流れたゴミ」と纏めて、専用のネットを取り替えて終わり。
手間いらずではある、シンクの中で「割れた時」。
(…他の器がある場所だったら…)
厄介だがな、という面もシンクには「ある」のだけれど。
洗いたい器が浸けてある場所で「割れた」時には、床と同じに面倒だけれど。
幸いなことに、被害は瓶が一個だけ。
真っ二つなのを専用のシートにくるんで捨てて、シンクの中も洗い流した。
他の皿や鍋も洗い終わって、拭いた後には棚に片付け、コーヒーを淹れる。
愛用のマグカップにたっぷりと、いつものように。
それを書斎で飲むことにして、運んで行って腰掛けた。
机の前に座って一口、其処で「やっちまったよな…」と小さく溜息。
シンクで割ったガラス瓶。
仕方ないから捨てたけれども、あれがなかなか便利ではあった。
(元々はジャムの瓶なんだがな…)
イチゴだったか、ブルーベリーか何かだったか。
朝食の時には、隣町で暮らす母が作った、夏ミカンの実のマーマレードが気に入りの品。
庭のシンボルツリーとも言える、夏ミカンの実をもいで作られるもの。
ブルーの家にも届けるくらいに、母の自慢で評判もいい。
(しかし、たまには…)
違う味も、と思うものだから、市販のジャムを買う時もある。
食料品店で目に付いた時に、「おっ?」と手に取って。
コケモモなどの珍品だったら、ついつい買ってしまったりもする。
(あの瓶のジャムも、そういったジャムで…)
何のジャムかは忘れたものの、使い勝手が良かった瓶。
空になって直ぐに、ピンと来た。
「こいつは使える」と、その有能さに。
だから回収などには出さずに、洗って手許に残しておいた。
ジャムのラベルは剥がしてしまって、瓶だけを。
(ピクルスなんかを作るのに…)
少しだけなら、丁度良かった。
あの瓶に詰めて、出来上がるのを待ったりして。
余った果物をジャムにするにも、出来る量が少ないものだから…。
(あの瓶が大いに役立つってわけで…)
便利だったんだがな、と残念になる。
役に立った瓶は割れてしまって、もうゴミ箱の中だけに。
ジャムの瓶には色々あっても、「これは」と思う瓶は「無い」もの。
大きすぎたり、小さすぎたり、色々なことで。
(…大きさの方は良くてもだ…)
蓋の部分が「しっくりと来ない」。
もう少しばかり大きく開いていたならば、と見詰める瓶やら、その逆やら。
大抵の瓶は「そうした瓶」で、空になったら回収に出す。
「もう要らないな」と綺麗に洗って、専用の場所へ。
(さっき割っちまった瓶みたいなのは…)
そうそう無いぞ、と分かっているから、「やっちまった…」と額を押さえる。
「俺としたことが」と、「次にああいう瓶に会えるのは、いつになるやら」と。
(…瓶だけのために、ジャムを買うのも…)
馬鹿のようだし、ガラス瓶だけを買うつもりも無い。
一人暮らしで料理が好きでも、「わざわざ買った」瓶が大活躍するほどではない。
それだけに「次」は「偶然の出会い」を待つことになる。
たまたま「いいな」と買って来たジャム、その瓶が「優れもの」だと思うだろう時を。
「こいつは実に使えそうだ」と、洗って「取っておきたくなる日」を。
(…当分、来そうにないんだが…)
壊れちまったものは「もう無い」んだし、と傾けるコーヒー入りのマグカップ。
愛用の「これ」が割れるよりかは、遥かにマシだ、と。
たかがジャムの瓶が割れただけだし、「ちょっぴり惜しい」というだけのこと。
(壊れちまったら、其処までの縁で…)
次の機会に期待だよな、と切り替える気分。
「壊れたもの」は返って来ないし、執着するだけ無駄なもの。
ガラス瓶にしたって、それとは違う「何か」にしたって。
(…ガキの頃から、色々とだな…)
壊しちまって駄目になったモンだ、と覚えは山ほど。
オモチャが壊れたこともあったし、柔道着などを入れるバッグも…。
(気に入ったデザインのが、破れちまっても…)
同じものは「もう無い」ことが多かったのだし、気にしない。
新たな出会いを待った方が良くて、「もっといい物」に会えもするから。
(どんな物でも、壊れちまったら、それっきりなんだ)
ジャムの瓶だろうが、バッグだろうが。
「壊れちまった」としょげているより、次の出会いを楽しみに。
もっといい「何か」に出会えるだろうし、人生というのは「そうしたもの」。
(覆水盆に返らず、でだな…)
後悔先に立たずなのだし、「過ぎてしまった」ことは仕方ない。
クヨクヨするより、前向きに。
それでこそ「いい人生」を送れるのだし、後悔したって「気が沈む」だけ。
(どんな物だって、そうしたモンだ)
壊れちまった物に執着してたら、やっていられないぞ、と思ったけれど。
「壊れた時には、次の出会いだ」と考えたけれど、其処で浮かんだブルーの顔。
十四歳にしかならない恋人、前の生から愛したブルー。
(…あいつとの恋が…)
壊れてしまったら、どうするだろう。
まさか壊れるとも思えないけれど、ブルーが「怒って」去って行ったら。
「ハーレイの馬鹿!」と捨て台詞を残すか、平手打ちでもされるのか。
(……チビのあいつは、やらないだろうが……)
前とそっくり同じ姿に育ったブルー。
二人でデートに出掛けた先で、いきなり「壊れてしまう」恋。
ブルーが機嫌を損ねてしまって、「ハーレイの馬鹿!」と眉を吊り上げて。
其処まで二人で乗って来ただろう車、それにも、もはや乗ろうとせずに…。
(ぼくは帰る、と…)
一人でずんずん歩き出したら、どうなるだろう。
追い掛けて腕を掴もうとしても、「離して!」と思い切り、振り払われて。
「駅も、バス停も遠いんだぞ!」と声を上げても、「分かってるよ!」と返されて。
(…俺の車に乗って帰るよりは…)
駅やバス停までが片道どのくらいだろうと、「一人で帰りたい気分」のブルー。
もう「ハーレイ」には目もくれないで。
二度とデートに来てやるものかと、怒り狂って「行ってしまって」。
そうした「悲惨なデート」をした後、ブルーが「知らん顔」だったなら。
通信を入れても「出てはくれなくて」、家に行っても門前払い。
「ハーレイなんか、大嫌いだ!」と恋が壊れて、相手にされなくなったなら…。
(……俺は諦められるのか?)
ブルーを諦めて、「次の出会い」を待てるだろうか。
「壊れちまったら、仕方ないよな」と、ブルー以外の「誰か」と恋に落ちる日を。
新しい「誰か」が現れてくれて、その人と恋をしてゆける日を。
(…おいおいおい……)
冗談じゃないぞ、と青ざめる顔。
ブルーとの恋が壊れたならば、そのまま「諦めてしまう」だなんて。
「次の機会に期待しよう」と、新しい恋を待つなんて。
(…ガラス瓶だの、バッグだのなら、それでもいいが…)
ブルーの件は別件だよな、と浮かべてしまった苦笑い。
きっと「どんなに苦労しようとも」、「壊れた恋」を元に戻そうとするだろう。
毎日通って土下座してでも、家の前に座り込んででも。
ジャムの瓶なら「次があるさ」と考えられても、ブルーの場合は「そうはいかない」。
前の生から愛し続けた「愛おしい人」を、諦められる筈がないから。
「仕方ないよな」と「次の出会い」を待つなど、狂気の沙汰というものだから…。
壊れちまったら・了
※気に入りのジャムの空き瓶を割った、ハーレイ先生。次の出会いに期待ですけど…。
ブルー君との恋が壊れてしまった場合は、「次の出会い」どころじゃないみたいですねv