(…俺が教師でなかったら…)
どうなったんだろうな、とハーレイが、ふと考えたこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた熱いコーヒー、それを傾けて。
十四歳にしかならない恋人、前の生から愛したブルー。
そのブルーとは、五月の三日に「ブルーのクラスで」再会した。
転任して来た今の学校、其処での初めての授業の日に。
(…俺の前には、別の教師が担当してて…)
言わば場繋ぎ、「新しい担当教員」が赴任して来るまでの期間を乗り切るために。
四月から赴任して来る筈だった教師、その着任が遅れたせいで。
(前の学校で、急な欠員が出たもんだから…)
穴埋めのために残ってくれ、と来た要請。
転任してゆく先の学校、其処では教師が足りているけれど、離任する方では足りていない。
「暫く頼む」と請われて残った。
前の学校で教えてくれる、「古典の教師」が見付かるまで。
四月の末まで残って教えて、引継ぎをしてから移った学校。
(今の学校でも、引継ぎで…)
代わりに授業を担当していた教員たち。
彼らから「此処まで教えました」と伝えて貰って、幾つものクラスを引き継いだ。
その中の一つがブルーのクラスで、授業のための名簿を貰っても…。
(…何の感慨も無かったよなあ…)
名簿に「ブルー」の名を見付けても。
「ソルジャー・ブルーと同じ名前か」と思った程度で、顔さえ想像してみなかった。
其処に書かれていたブルーの成績、そちらの方も覚えていない。
「学年で一番、優秀な生徒」と「ブルーの名前」は、結び付いてもいなかった筈。
「優秀な生徒がいる」ことさえも、特に意識はしなかったろう。
単に授業をするだけだったら、ブルーの成績は必要ない。
何度もクラスで教える間に、自然と覚えてゆくことだから。
どの生徒が特に優れているのか、その逆の生徒は誰だろうか、と。
だから全く気にしないままで「入った」教室。
足を踏み入れたら、「ソルジャー・ブルーに、そっくりな生徒」と目が合って…。
(…あいつの右目から、血が流れ出して…)
何事なのかと思った途端に、血まみれになっていたブルー。
前の生の最後に撃たれた傷痕、その全てから血が溢れ出して。
身体には「本物の傷」は無いのに、まるで大怪我をしたかのように。
(聖痕だなんて、思わないしな?)
てっきり事故だとばかり思って、もう大慌てで駆け寄った。
「大丈夫か!?」とブルーを抱え起こして、そして記憶が戻ったけれど。
ブルーが誰かを、「本当の自分」は誰だったのかを、教室で思い出したのだけれど…。
(…俺が教師でなかった場合は、どうだったんだろうな?)
何処で出会って、どういう出会いになったのか。
ブルーとも何度か話したけれども、「もしも」の世界。
「教師ではないハーレイ」になっていたなら、きっと出会いも違っただろう、と。
(……学校という線は消えるんだ……)
教師でないなら、ブルーと「学校」で出会いはしない。
少なくとも「授業に出掛けた」教室、其処でブルーと出くわすことは。
(それ以外の形で、学校で会うことになったら…)
柔道や水泳、そちらの道でプロになっていたなら、あるいは出会っていたのだろうか。
プロの選手に講演を頼む、学校も少なくないだけに。
(特にスポーツが好きな生徒でなくても…)
目標を立てて「進んだ道」は、大いに将来の参考になる。
いつ頃から「それ」を志したか、夢を叶えるのに、どれほどの努力を積んだのか。
そういった話は、別の道にも充分、通用するものだから。
研究者の道に進みたい者でも、料理人を目指す者であっても。
(…なりたいものは特に無い、ってヤツらでも…)
いつかは「なりたいもの」が出来るし、その時に役に立ってくるのが「聞いた講演」。
スポーツ選手が語っていたって、他の分野にも応用出来て。
「こうすればいいのか」と目標を立てて、努力して。
そうした講演に出掛けた学校、其処でブルーと出会っていた可能性。
教室に入るか、演壇に立つ形になるのか、どちらにしても…。
(…やっぱり、ブルーが血まみれになって…)
大騒ぎになったことだろう。
駆け寄るのは「教師の仕事」だけれども、きっと「自分」も駆け出した筈。
ブルーが「ブルー」だとは気付かないままで、「事故ですか!?」などと叫びながら。
(そういう場合は、何処で記憶が戻るんだ?)
倒れたブルーを抱え起こすのが、「自分」ではなくて他の誰かだったら。
ブルーの担任の教師だったり、講演の場に居合わせた教師だったりと。
(……ブルーは、ブルーなんだから……)
聖痕が身体に現れたのなら、それは「記憶が戻る」時。
ブルーに「ソルジャー・ブルー」の記憶が戻って来るなら、「ハーレイ」のも戻る。
遠く遥かな時の彼方で、「キャプテン・ハーレイ」だった頃の記憶。
白いシャングリラの舵を握って、前のブルーと暮らした頃の。
(…俺の記憶が戻って来たって、ブルーは学校の先生たちが…)
運んで行ってしまうのかもな、という気がする。
「今の自分」は教師だったから、ブルーのクラスの生徒に助けを呼びに行かせた。
保健委員の生徒だったろうか、「他の先生に、救急車を呼んで貰ってくれ!」と指示して。
気を失ったブルーを抱えている間に、遠くから聞こえて来たサイレン。
直ぐに「救急車が来た」と分かったし、とても頼もしく思えたもの。
救急隊員たちが駆け込んで来てくれた時は、「これで大丈夫だ」と安心もした。
ブルーの傷は酷いけれども、病院に行けば手当てが出来る。
命を落としはしないだろうし、「もう安心だ」と。
そして一緒に乗り込んで行った救急車。
「大出血を起こした生徒」を「最初から見ていた」大人は、自分一人だけ。
生徒では話になりはしないし、こうした時には教師が行くべき。
赴任して来たばかりの教師であっても、生徒よりかは頼りになる。
「当然のように」ブルーに付き添い、救急隊員たちと一緒に駆けた。
救急車が待っている所まで。
担架に乗せられたブルーが運び込まれて、「先生も!」と中に呼び込まれるまで。
(教師だったから、俺が付き添いで乗ってったんだが…)
そうでなかったら、あの役目は別の誰かだろうな、と簡単に分かる。
講演にやって来た「プロのスポーツ選手」は、行かずに「其処に残る」もの。
ブルーが搬送されて行っても、他の生徒は「そのまま残っている」のだから。
彼らの目的は「講演を聞くこと」、騒ぎが落ち着いたら「そちらに戻る」。
担任の教師が、ブルーと一緒に救急車で行ってしまっても。
「ブルーのヤツ、いったいどうなったんだよ!?」と上を下への大騒ぎでも。
講演に来た「プロの選手」だったら、「落ち着きなさい」と諭すべきなのだろう。
「君たちのクラスメイトなら、きっと大丈夫だから」と騒ぎを鎮めて。
ぐるりと見渡し、「さっきは何処まで話してたかな?」と彼らの心を掴み直して。
(……ブルーと一緒に行けはしなくて……)
留守番なのか、と気付かされた「プロのスポーツ選手」の役割。
どんなにブルーの身が心配でも、どうなったのかと気がかりでも。
救急車に一緒に乗って行きたくても、その資格は「持っていない」らしい。
(…後から話を聞きたくてもだ…)
いったい何処まで聞けるものやら、心許ない。
「あの生徒だったら大丈夫ですよ」で済んでしまって、学校でお茶でもご馳走になって…。
(今日は、ありがとうございました、と…)
送り出されて「おしまい」だろうか。
せっかくブルーに会えたというのに、その後も「一人で講演の続き」。
講演が終われば学校を離れて、さっき再会を遂げたばかりの「ブルー」のことは…。
(…病院へ見舞いに行くにしたって、大げさなことになっちまって…)
下手をしたなら、「何も其処までなさらなくても」と、止められてしまうのだろうか。
ブルーの家を訪ねて行こうとしたって、「お気になさらず」と気を回されて。
(プロのスポーツ選手ってヤツは、忙しいから…)
そんなことまでさせられない、と止められそうな感じもする。
「今すぐ、ブルーに会いたいのに」と思っても。
講演を終えた足でそのまま、病院を、家を訪ねたくても。
(そいつは困るし…)
やっぱり俺は教師でなくちゃな、と改めて思う「ブルーとの出会い」。
もしも教師でなかったら「狂う」様々なこと。
きっと、「教師と生徒」が一番ピッタリだったのだろう。
ブルーと無事に再会を遂げて、その後も付き合い続けるには。
今は「教師と生徒」だけれども、いつか一緒に生きてゆくにも、あの出会いが、きっと…。
教師でなかったら・了
※ハーレイ先生が教師でなかった場合は、ブルー君との再会からして違って来そう。
救急車にも一緒に乗ってゆけないどころか、お見舞いまで遅くなりそうな感じ。教師が一番v
(…記憶喪失っていうのが…)
あるんだよね、と小さなブルーが思ったこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した恋人。
そのハーレイのことを「覚えている」から、今の自分には二人分の記憶。
遠く遥かな時の彼方で、「ソルジャー・ブルー」と呼ばれた自分と、今の自分と。
(今のぼくだと、チビで弱虫…)
おまけにサイオンは、とても不器用。
今の時代まで語り継がれる、大英雄の「ソルジャー・ブルー」は凄かったのに。
生身で宇宙を駆けてゆけたし、巨大な惑星破壊兵器のメギドでさえも沈めたのに。
ところがどっこい、今の自分は、思念波さえもロクに紡げないレベル。
前の自分と全く同じに、タイプ・ブルーに生まれて来ても。
アルビノだった姿形まで、そっくりそのまま受け継いでいても。
(…だけど、前のぼくの記憶が戻って来るまでは…)
まるで無かった「ソルジャー・ブルーだ」という自覚。
他人の空似で似ているだけの、大英雄のソルジャー・ブルー。
出会った人たちが「小さなソルジャー・ブルー」だと言ってくれても、可愛がられても。
「やっぱり似てる?」と思っただけで、鏡を覗いては「似てるよね…」と眺めた程度。
同じアルビノだし、髪型までも「ソルジャー・ブルー風」だから、と。
そっくりに見えるのも当然だろうと、疑いもせずに。
(…生まれ変わりだなんて、思わないものね?)
友達にそう言われた時にも、「違うよ」と直ぐに答えたくらい。
ソルジャー・ブルーの記憶など無いし、サイオンだって不器用だから。
(こんなのが、ソルジャー・ブルーなわけがなくって…)
本当に見た目だけだよね、と何度思ったか分からない。
もっとも、「ソルジャー・ブルーのようになりたい」と考えたことは無かったけれど。
チビで弱虫、身体も虚弱に生まれた自分には、とても真似られそうにない。
伝説の人とも言えるくらいに、偉大な英雄がソルジャー・ブルー。
それと同じに立派な生き方、そんな「凄いこと」は出来はしない、と。
雲の上の人だった「ソルジャー・ブルー」。
顔立ちと姿が似ているだけで、赤の他人だと思っていた人。
けれど、「その人」が今では「自分」。
もっとも、記憶が戻って来たって、ソルジャー・ブルーになったって…。
(ぼくの中身は、チビで弱虫…)
其処の所は変わらないままで、サイオンが不器用な所まで同じ。
変わった所があるとしたなら、恋をしたこと。
より正確に言うなら「思い出した」こと。
前の自分が、ソルジャー・ブルーが愛した人を。
青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた恋人を。
(…今じゃ、ハーレイが大好きだけど…)
今日のように「家に来てくれなかった日」を残念に思うけれども、記憶が戻って来るよりも前。
何も覚えていなかった頃は、「誰も来ない」のが当たり前。
友達を家に招いたのなら、別だけど。
「遊びに来てよ」と約束をして、待っていたなら「誰か来る」けれど…。
(…そうでなければ、ぼくを訪ねて来る人なんて…)
誰もいないし、門扉の脇にあるチャイムが鳴っても、ただの来客。
父や母を訪ねて来た「お客さん」か、近所の誰かが用事があって鳴らしたか。
どちらにしたって、自分とは関係ないだけに…。
(窓から覗いてみたりもしないし、気にもしないし…)
チャイムが鳴った、と思うだけ。
お客さんなら、何か「お土産」があるだろうか、と考える程度。
近所の人がやって来たなら、お裾分けのお菓子を貰うこともあるから、そういったことも。
(ぼくも貰えるケーキとか…)
珍しいお菓子や、何処かの名物の美味しいお菓子。
そういう期待を抱くくらいで、それ以上のことは夢見なかった。
けれど今では、チャイムが鳴るのを待つ毎日。
ハーレイが「それ」を鳴らすのを。
仕事の帰りに寄ってくれるのを、休日に訪ねて来てくれるのを。
すっかり変わってしまった「今」。
前の自分と今の自分と、二人分の記憶を持っているせいで。
「ソルジャー・ブルー」だったことは大して意味が無いけれど、その恋人には意味がある。
今の自分も、ハーレイのことが大好きだから。
ハーレイに恋して、いつでも一緒にいたいのだから。
(…そのハーレイを忘れてたなんて…)
思い出しさえしなかったなんて、本当に信じられないこと。
「ハーレイが来てくれなかった」だけでガッカリ、そんな自分が普通なだけに。
来てくれた日には、とても嬉しくてたまらないだけに。
(俺は子供にキスはしない、って…)
キスをくれないケチな恋人、なんとも意地悪で酷いハーレイ。
けれども会えれば胸が弾むし、会えなかったらシュンと気持ちが萎んでしまう。
「今日はハーレイ、来なかったよ」と、部屋で一人で項垂れたりも。
その大切な恋人のことを「忘れていた」自分。
赤ん坊だった頃はともかく、物心ついてからだって。
十四歳になって、ハーレイと再会した日まで。
学校の教室で現れた聖痕、それが記憶を取り戻させてくれるまで。
(それまでのぼくは、記憶喪失みたいなもので…)
ハーレイのことをすっかり忘れて、別人として生きていた。
見た目は「小さなソルジャー・ブルー」でも、誰が見たって「そう見えても」。
ソルジャー・ブルーの記憶が無いなら、似ているだけの「他人」に過ぎない。
とはいえ中身は「本物」なのだし、あれだって記憶喪失だろう。
何かのはずみに記憶を失くしてしまう病気が記憶喪失。
自分が誰かも分からなければ、家族の顔も忘れてしまう。
(まるで違う人になっちゃって…)
何一つとして思い出せないまま、別人として生きた人さえもいたのだと聞く。
今の時代は医学が進んで、記憶喪失も直ぐに治るけれども、ずっと昔の地球の上では。
失くした記憶が「自然に」戻って来ない限りは、別人のまま。
時には新しい家族まで出来て、人によっては違う国の言葉を覚えもして。
(今のぼくだって、それみたい…)
ハーレイのことを思い出す前は、一種の記憶喪失状態。
自分が誰かも知らない上に、恋人さえも忘れてしまってそれっきり。
町でハーレイとすれ違っていても、きっと気付きもしなかったろう。
ジョギング中のハーレイを何処かで目にしていたって、恋人だとは思いもしない。
「知らない誰か」が頑張ってるな、と応援に手を振るくらいのことで。
胸がドキンと弾むことも無くて、「呼び止めなくちゃ」とも考えないで。
(……なんだか悲しい……)
そういうことがあったのかも、と想像するだけで胸が痛くなる。
前の生でも、今の生でも、ハーレイが誰よりも大切なのに。
ハーレイさえいれば、それで充分だと思いもするのに、その人を「忘れていた」なんて。
キャプテン・ハーレイの写真を見たって、ただの「知らないおじさん」だった。
歴史の授業で習った時にも、教科書や本で目にした時も。
今なら忘れはしないのに。
記憶喪失にでもならない限りは、けしてハーレイを忘れないのに。
(…記憶喪失になる人は…)
何処かで頭を酷く打ったとか、激しいショックを受けた人。
すっかり記憶を失くすくらいの事故などに遭った人だけれども…。
(…今のぼくなら、そういう事故も…)
遭わないとは言い切れないのだった、と気が付いた。
ソルジャー・ブルーだった頃なら、軽々と避けられた様々な危機。
最強のサイオンを誇っていたから、頭を打つような事故には遭わない。
「そうなる」前にシールドを張るし、落ちたのだったら「落下を止める」。
サイオンを自由自在に使って、自分の身体を守り抜いて。
それに比べて、今の自分はどうだろう。
学校の階段や家の階段、それを踏み外すようなことがあったら…。
(アッと思ったら、もうバランスを崩してて…)
コロンコロンと落ちてゆくだけ、サイオンで止めることは出来ずに。
頭を打つと分かっていたって、危険を充分に知っていたって、コロンコロンと。
そうやって落ちて頭を打ったら、またハーレイを忘れるだろうか。
助け起こしに来てくれたのに、キョトンと見上げてしまうのだろうか。
「誰なの?」と、自分が恋した人を。
前の生から愛し続けた愛おしい人を、「まるで知らない人」を見る目で。
(おじさん、誰、って言っちゃうとか…?)
それだけで済めばまだマシな方で、怯えてしまうのかもしれない。
ハーレイが眉間に皺を寄せていたら、「大丈夫か!?」と慌てる顔が怖そうだったら。
(大丈夫だから、手を離して、って…)
手を振り払ってしまったりしたら、ハーレイはどれほどショックだろう。
それに治療して「記憶が戻った」自分も、とても悲しいだろうと思う。
「またハーレイを忘れた」なんて。
忘れたばかりか、ハーレイに向かって「離して」なんて。
(…忘れちゃったら、そうなっちゃうから…)
気を付けなくちゃ、と自分自身に言い聞かせる。
記憶喪失になっていたのは、「記憶が戻るまで」の間だけで充分。
直ぐに治っても二度目は駄目だと、「忘れちゃったら、悲しいから」と…。
忘れちゃったら・了
※記憶が戻るまでの自分は記憶喪失みたいなものかも、と考えたのがブルー君。
今だと本物の記憶喪失も「起こしそう」だけに…。ハーレイを忘れたらショックですよねv
(……記憶喪失なあ……)
そういう病気もあったんだっけな、とハーレイがふと考えたこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
今の自分は記憶喪失どころか、二人分も持っているのだけれど。
キャプテン・ハーレイだった頃の記憶と、古典の教師のハーレイの分と。
(なんとも贅沢な話ってモンで…)
何をするにも二人分だ、と嬉しくもなる。
「古典の教師のハーレイ」だけなら、半分以下に減る感動。
こうしてコーヒーを傾けるにしても、書斎にのんびり座るにしても。
(前の俺だと、コーヒーなんぞは代用品しか無かったからな?)
白いシャングリラで飲んだコーヒー、それはキャロブから作られたもの。
イナゴ豆とも呼ばれたキャロブ、その豆を挽いて作ったチョコレートやら、コーヒーやら。
自給自足の船になる前は、本物のコーヒーだったのに。
人類の船から奪いさえすれば、香り高いコーヒーがあったのに。
(しかし、そいつは前のブルーにしか出来なくて…)
ブルーの強いサイオンがあれば、リスクは皆無だったけれども、それではいけない。
ミュウが「一つの種族」として生きてゆくには、自分の力で歩かなければ。
(そのために船を改造したわけで、自給自足が前提だから…)
コーヒーは代用品に変わって、酒の類は合成品。
前の自分は其処で暮らして、キャプテンの任に就いていた。
肩書きに相応しく広い部屋まで貰ってはいても、「今の自分」とは違った人生。
壁の棚には、同じように本が並んでいても。
木で出来ていた机、その趣が今の机とよく似ていても。
(…所詮は、宙に浮いていた船で…)
おまけに明日さえ知れない毎日、夜が明ける度にホッとしていた日々。
今では当たり前に朝が来るのに、それさえ無かった遠い時の彼方。
(前の俺の記憶を持ってるってことは、今の人生の有難味が…)
よく分かるのだし、素晴らしいこと。
二人分の記憶を「一人で持つ」ということは。
けれど、その記憶が戻るより前。
「ただの古典の教師」だった頃は、何も覚えてはいなかった。
白いシャングリラも、愛おしい人がいたことさえも。
生まれ変わったブルーと出会って、その聖痕を目にするまでは。
「ブルーなんだ」と気付いて、記憶が蘇るまでは。
(…あれも一種の記憶喪失というヤツかもな?)
ある筈の記憶が無かったのなら、そうだとも言えるかもしれない。
「本当の自分」が誰か分からず、困り果てるのが記憶喪失。
今の時代は、もう無いけれど。
医学がとても進んだ今では、記憶喪失に罹った患者も、直ぐに回復するのだけれど。
(一時的には、あるらしいよなあ…)
治療を始めて、それの結果が出るまでは。
自分が何者なのかも掴めず、家族の顔さえ分からないと聞く記憶喪失。
(ずっと昔だと、治らないままで…)
何十年も「別人」として生きていた例も多かったらしい。
ある日、突然、記憶が戻ってみたら「新しい家族」の家にいたとか。
(…俺たちは、思い出したんだが…)
そして忘れやしないんだが、と改めて思う「ブルーとの絆」。
今の自分も、子供になった今のブルーも、もう忘れない。
「記憶喪失だった時代」は終わって、お互い、記憶が二人分。
前の生で目指した青い地球の上で、二人分の記憶を大切に持って生きている。
色々なことに、「二人分の感動」を覚えながら。
「此処は地球だ」とか、「なんて平和な世界なんだ」といった具合に。
のんびりと傾ける愛用のマグカップ、中身は本物の地球のコーヒー。
この書斎だって、「今の自分」の好みの本がズラリと並ぶ。
キャプテン・ハーレイだった頃の本棚、其処に並べられていた本と違って。
毎日綴った航宙日誌も、航宙学などの本さえ一冊も無くて。
これほど素晴らしい世界に来たなら、もう忘れない。
何があろうと、「取り戻した」前の自分だった頃の懐かしい記憶たちを。
(…今の俺だと、もう柔道も達人だしな?)
入門したての頃と違って、試合で負けることなどは無い。
もちろん練習の真っ最中に「頭を打つ」ような目にも遭わない。
(…柔道の稽古で頭を打つなど、論外なんだが…)
あってはならないことなんだがな、と思いはしても、たまにそういう事故もある。
投げられたはずみに、上手く受け身を取れなかったり、仕掛けられた技が未熟だったりして。
(そういった時に、記憶喪失ってのも…)
昔だったらあっただろうか、と考えてみる。
遠い昔の「日本」の柔道、その道場では記憶喪失になった人間もいただろうか、と。
昔は治療法も無いから、さぞや困ったことだろう。
記憶喪失になった人間も、周りの者も。
(そう簡単には、記憶は戻らなかったようだし…)
年単位だったりしたかもしれん、と昔の人たちに思いを馳せる。
どんなに困ったことだろうかと、記憶喪失なるものを。
(まるで覚えていないんだから、今の俺の場合と変わらないよな…)
ソルジャー・ブルーの写真を見ようと、名前を聞こうと、何も反応しなかった頃。
それが愛おしい人だとさえも気付かないまま、ただ漫然と写真を眺めて、名を聞いただけ。
ミュウの時代の礎になった人だと、英雄の中の英雄なのだと。
(あんな具合に、記憶がスッパリ消えちまうとなると…)
記憶喪失というのは、なんとも悲しい。
自分が誰かも分からない上、愛した人さえ思い出せないままなのだから。
(もう一度、アレになっちまったら…)
大変だから、柔道の達人で良かったと思う。
頭を打ってしまったはずみに、ブルーを忘れはしないから。
治療を受けるまで「ブルーを忘れてしまう」ことなど、絶対にありはしないから。
大丈夫だな、と考えたけれど、これが逆だったらどうなるのだろう。
ブルーは柔道をしないけれども、事故に遭うことはあるかもしれない。
学校の階段を踏み外すだとか、家の階段から落ちるとか。
サイオンが不器用な今のブルーは、落下する身体を止められない。
落ちたら危険だと分かっていたって、コロンコロンと落ちてゆくだけ。
(…あいつが頭を打つってか?)
学校や家の階段から落ちて…、と気付いた危険。
チビだから身は軽いだろうけれど、上手く受け身を取ることなどは…。
(あいつには、出来やしないんだから…)
落っこちた時に頭を打つような不幸な事故も、ブルーの場合は起こり得ること。
サイオンがとことん不器用なだけに、「身を守る」ことさえ出来はしなくて。
(…家で落ちても、学校で落ちても…)
直ぐに病院、治療の方も安心だけれど、肝心の治療を始める前。
ブルーの中から「ハーレイ」の記憶が抜け落ちていたら、どうだろう。
「大丈夫か!?」と抱え起こしてやったら、キョトンとした瞳が見上げてくるとか。
そうでなければ、酷く怯えた瞳。
「…誰ですか?」と、とても他人行儀に口にしながら。
まるで知らない人を見る目で、それは不安そうに。
(俺を見たって、俺だと分かってくれなくて…)
安心して身を任せるどころか、後ずさりさえしそうなブルー。
「知らない誰かが、ぼくを見てる」と、「大きくて、とても怖そうな人」と。
ブルーの記憶が無かったならば、「大きな人」でしかない「ハーレイ」。
しかも眉間に皺まであるから、その人となりを知らなかったら…。
(大丈夫だからな、と俺が微笑み掛けない限りは…)
きっと「怖い人」でしかないのだろう。
ブルーが頭を打ったことで慌てて、「大丈夫か!?」と焦っていたら。
記憶喪失になってしまったと知って、険しい顔になったなら。
(……うーむ……)
忘れちまったら、そうなるのか、と気付かされた「ブルーから見た」自分。
ブルーの記憶がストンと抜けたら、それが戻って来るまでは。
病院できちんと治療を済ませて、「元通りのブルー」になるまでは。
(……怖い人なあ……)
そいつは困る、と思うものだから、ブルーには忘れて欲しくない。
自分は決して忘れないから、ブルーにも覚えていて欲しい。
頭なんかを打ったりしないで、記憶喪失にならないで。
今の時代は「直ぐに治る」けれど、忘れられたらショックだから。
「怖い人だ」と思われるのも、「ハーレイ」を覚えていないブルーも悲しいから。
二人分の記憶を手放すことなく、今のブルーのままがいい。
我儘なチビの子供だろうと、「ぼくにキスして」ばかり言われて困ろうとも…。
忘れちまったら・了
※記憶喪失について考えるハーレイ先生。今は二人分の記憶を持っていて、お得ですけど…。
「忘れていた頃」もあっただけに、怖いのが記憶喪失。ブルー君に忘れられたら、ショック。
(……うーん……)
今、何時、と小さなブルーが打った寝返り。
ハーレイが来てくれなかった日の夜、自分のベッドで。
手を枕元に伸ばして取った、目覚まし時計。
コチコチと時を刻む秒針、レトロではないけれどアナログ式の置時計。
常夜灯だけが灯った部屋で眺めた文字盤。
(…半時間以上も経っちゃってる…)
ベッドにもぐり込むよりも前に、チラと目を遣って見た時刻。
いつもベッドに入る時間に、いつも通りに明かりを消したのに…。
(寝付けないよ…)
一向に訪れない眠気。
ベッドの中でコロンと右へと寝返りを打って、「これじゃ駄目だ」と次は左へ。
それでも眠くはなってくれないから、仰向けになったり、枕に顔を埋めてみたり。
(…色々、試してみたんだけどな…)
でも無理みたい、と零れる溜息。
寝付きは悪くない方なのに、今夜は眠くならないらしい。
夢の世界に入る代わりに、ベッドの上に留まったままで。
あっちへコロンと転がってみては、逆の方へコロンと転がったりもしているだけで。
(…今日は普通の日だったのに…)
寝られなくなるようなことは、無かったと思う。
腹が立つことなど一つも無くて、ごくごく平凡だった「今日」。
行き帰りの路線バスの中でもちゃんと座れて、お気に入りの席が空いていた。
「此処がいいな」と勝手に決めた指定席。
(ぼくが勝手に決めているだけで…)
通学に使う路線バスには、指定席なんか存在しない。
そういう切符を売りもしないし、座席番号だって無い。
けれども「好きな席」はあるから、その席を「ぼくの席」だと決めた。
空いていたなら、大喜びでストンと座る席。
それとは逆に塞がっていたら、ツイていない気分になったりもして。
その席は、今日は空いていたから、腰を下ろして短い旅。
行きは学校の近くのバス停までで、帰りは家の近所のバス停に路線バスが着くまで。
窓の外の景色を見ながら走って、楽しく往復できた学校。
旅先だった学校の方も、特に問題は無かった筈。
(…ハーレイの授業は無かったけれど…)
毎日あるというわけでもないから、古典の授業が無かったくらいは些細なこと。
「ハーレイ先生」には廊下で会ったし、挨拶だって出来たのだから。
(…家には来てくれなかったけどね)
来てくれるかと待っていたのに、今日は空振り。
けれど、それだって「よくあること」。
ハーレイが来ない日を数えていたなら、キリが無い。
(週末に予定が入って駄目な時だと…)
とてもガッカリするのだけれども、そうでないなら「来ない日」もある。
ハーレイが仕事をしている以上は、毎日が暇とは限らないから。
放課後は時間があると言っても、柔道部の指導もあるだけに。
(…柔道部の方で何かあったら、もう駄目だし…)
長引く会議があった日だって、ハーレイは訪ねて来てはくれない。
つまり「来てくれた」日の方がラッキー、「ツイている」のだと思える日。
それが逆でも、怒ってなんかはいられない。
ハーレイは「来ない」方が普通で、来てくれる方が幸運なのだから。
(…今日みたいな日は、幾つもあるから…)
仕方ないよね、と諦めるだけで、それ以上のことを望みはしない。
もちろん腹を立てもしないし、「ツイていない」と考えることも滅多に無い。
(…学校でも会えずにいた日だと…)
ツイていないと思うけれども、今日は廊下で会えたハーレイ。
「ハーレイ先生!」と呼び掛けてピョコンと頭を下げた。
それに応えて「おう!」と返った声。
大好きな声がちゃんと聞けたし、ハーレイの笑顔だって見られた。
どの教え子にも向ける顔でも、恋人向けの表情とはまるで違っていても。
ツイていないわけではなかった日。
腹が立つことも一つも無くて、苛立つ理由も見付からない。
こんな日だったら、ベッドに入れば直ぐに眠れるものだけれども…。
(…こういう時だって、たまにあるよね…)
どうしたわけだか、眠れないままでコロンコロンと転がる夜が。
右を向いたり、左を向いたり、仰向けになったり、うつ伏せたりとベッドの上で試す日が。
(……本当は寝てるらしいけど……)
寝られないよ、と思い続けた半時間以上もの間。
自分では「寝ていない」つもりだけれども、本当は「眠っている」のだと聞いた。
起きている夢を見ているだけで、実は眠っている身体。
なんとも疲れる夢だとはいえ、摂れているらしい睡眠時間。
(だから、寝付けなくても、ベッドに転がっているだけで…)
身体にとっては「充分」らしい。
ちゃんと「眠っている」だけに。
明日に備えて、睡眠は摂っているだけに。
(…でも、こういうの…)
疲れちゃうよね、と思うものだから、何とかしたい。
眠るのだったら、ちゃんとグッスリ眠りたい。
「起きている」ような夢は見ないで、夢らしい夢を見ながら眠るか、夢も見ないで深く眠るか。
(…そっちの方が、絶対いいよ…)
そうするためには気分転換、と考えてエイッと起き上がった。
「よし!」と自分に掛け声をかけて。
暫くの間、起きていようと。
「寝られない夢」を吹っ飛ばそうと、寝付ける気分に切り替えようと。
起きたからには、明かりもパチンと点ける。
常夜灯だけの暗い部屋だと、夢の続きのようだから。
今度は「起きたつもりでいる夢」、それを見ている気になりそうで。
起きるのだったら、寝られない夢には「さよなら」したい。
もちろん「起きているつもり」になる夢だって。
明るくなった部屋で起き上がったものの、これから何をすべきだろう。
ベッドの上に転がったままでは、さっきまでと何処も変わらない。
部屋が暗いか明るいかだけで、「寝られないよ」とコロンコロンと転がるのと。
(起きたんだったら、何かしなくちゃ…)
手っ取り早いのは本を読むこと。
眠くなった時には「此処でおしまい」と、スッパリとやめてしまえる本。
キリのいい所を見付けられる本、それが一番いいのだけれど…。
(……今の気分だと……)
その手の本より、じっくり読める本の方に惹かれる。
せっかく時間が出来たのだからと、長い物語や、腰を据えて読むのが似合いの一冊。
いつもだったら、この時間には「眠っている」のが普通だから。
(時間、ちょっぴり得した気分で…)
夜更かしが得意な友達の言葉が浮かんで来る。
「お前、弱いから損してるよな」と、何度言われたことだろう。
元気だったら、夜更かしも徹夜も「当たり前だぞ」と、口々に。
「読みかけの本」を放って寝るなど、とんでもない、というのが常識。
やり始めたことも「やり遂げる」もので、夜が白々と明けて来てしまっても…。
(一日くらいなら、寝ていなくても…)
「まるで平気なものなんだぜ」と、友達の誰もが言っている。
クラスの子だって夜更かしをするし、徹夜をしたという声もよく聞く。
(だけど、ぼくは身体が弱いから…)
徹夜どころか、夜更かしだって危険信号。
夜は早めにベッドに入って休むもの。
朝までグッスリしっかり眠って、疲れを癒しておくのが大切。
けれども、今夜は思いがけなく「遅い時間」に起きている。
そう考えたら、「今の時間」を有効に使いたい気分。
「此処でおしまい」と閉じる本より、もっと、もっとと読みたくなる本。
それを棚から取って来ようかと、欠伸が出るまで読み続けようかと。
「徹夜なんかは当たり前だ」と話す友達の真似をしてみて。
(えっと…)
どれがいいかな、と本棚の前に立って考える。
徹夜しないと読めないくらいの本なら、どれが似合いだろうかと。
(…新聞配達のバイクが走って来るくらい…)
遅いと言うか、早いと言うか、そんな時間まで読んでいたって終わらない本。
「まだ終わらないから」と読み進めるのがピッタリの本。
この辺かな、と手を伸ばしかけた所で、ふと蘇ったハーレイの声。
「元気そうだな」と、今日の昼間に聞いた。
廊下で出会って、「ハーレイ先生!」と頭をピョコンと下げた時に。
ハーレイが笑顔で応えてくれて、挨拶に返った言葉が「それ」。
(……元気そうだな、って……)
今日はそう言ってくれたけれども、明日も同じ言葉を貰えるだろうか。
新聞配達のバイクが来そうな頃まで、延々と本を読んでいたなら。
それでも「もっと読みたいから」と、夜が明けそうな頃まで読み続けたら。
(…明日の朝には、もう寝不足で…)
眠い目を擦りながら、学校に行くことになるかもしれない。
あるいは体調を崩してしまって、「なんだかだるい…」と感じながらの登校だとか。
(それだと、元気そうには見えなくて…)
きっとハーレイを心配させる。
下手をしたなら、「ハーレイに会えた」と安心して気が緩んだはずみに…。
(フラッと倒れて、うんと心配かけちゃって…)
そんなの駄目だよ、と本に伸ばした手を引っ込めた。
「徹夜も夜更かしも、ぼくは、しちゃ駄目」と。
そうして再び入ったベッド。
パチンと消してしまった明かり。
寝付けない夜でも、今なら眠れそうだから。
ハーレイに「元気そうだな」と言って貰うためなら、きっとグッスリ眠れるから…。
寝付けない夜は・了
※寝付けないなら「夜更かししちゃえ」と考えたのがブルー君。遅い時間まで本を読んで。
けれど、思い出したハーレイ先生の言葉。「元気そうだな」と言って貰うためなら眠れそうv
(……うーむ……)
今は何時だ、とハーレイが枕元へと伸ばした腕。
ブルーの家には寄れなかった日、とうにベッドに入った後で。
その手に触れた目覚まし時計。
コチコチと時を刻む秒針、アナログな所が気に入っている置時計。
(…やっぱりなあ…)
半時間も経っていやがるぞ、と時計を眺める。
ベッドに入って明かりを消す前、同じ時計を見た時よりも流れた時間。
寝付きは、いい方だと思う。
毎晩のように淹れるコーヒー、それさえも妨げにはならないほどに。
どんなに濃いめに淹れた夜でも、ベッドに入ればグッスリ眠れるのが自慢。
(そのコーヒーは、だ…)
今夜は普通に淹れていた上、量も普段と変わらなかった。
愛用のマグカップにたっぷり一杯、おかわりなどはしていない。
コーヒーのせいではないのは明らか、特に今夜は。
これが濃く淹れた夜であったら、「アレか?」と疑いもするのだけれど。
(…他に原因になりそうなものも…)
特に無いな、と言い切れる。
極めて平凡だった一日、ブルーの家には寄れなかったというだけで。
学校の仕事は至って順調、柔道部の方も問題は無し。
行き帰りの道も普通だったし、苛立つようなことは無かった一日。
(腹が立ったりしていても…)
俺の場合は、そいつを解消するのは得意で…、と自分の性格も掴んでいる。
「腹が立ったせいで眠れない」などは、まず有り得ない。
その日の間に気分転換、夜はグッスリ眠れるもの。
(だがなあ…)
こういう夜もあるってもんだ、とフウと溜息をつく。
寝付けない夜というものが。
心地よい眠りが訪れないまま、ベッドに入っているだけの夜が。
半時間も無駄に経っていたらしい、今夜の時間。
何もしないままでベッドの中で、「眠くならんな」と思う間に。
(…そういう時でも、寝てるらしいって話もあるが…)
寝付けないというのは「一種の夢」で、本当は眠っているとの話。
「寝ていない」夢を見ているだけで、身体の方はきちんと寝ているのだ、と。
(そうは言われても、半時間もだ…)
無駄にするのは性に合わないし、此処は気持ちを切り替えるべき。
起きるなら「起きる」、寝るなら「寝る」。
どちらにするのか暫し考え、「起きてみよう」と出した結論。
時刻の方は、まだ早いから。
起きて何かをやってからでも、睡眠は充分に摂れるから。
(よし…!)
自分に掛け声、ベッドの上に起き上がる。
部屋の明かりもパチンと点けて、「俺は起きるぞ」と自分に宣言。
そうしてベッドから出てみたけれども、この後、何をするべきか。
此処で過ごすか、書斎に行くか。
それともリビングに行くのがいいか、ダイニングにでも移ってみるか。
(…本格的に起きるなら…)
寝室を出るべきだけれども、そうした場合は増える誘惑。
書斎に行ったら、本が山ほど。
(せっかく時間が出来たんだから、と一冊、出して…)
読み始めたら、今度は「やめる」のが難しい。
もう少しだけ、あと一章、といった具合に「続き」を読みたくなるものだけに。
(此処で終わろう、と思っていても…)
先の展開を知っているなら、ついつい繰ってゆくページ。
何十ページもすっ飛ばしてでも、クライマックスを読もうとして。
リビングの場合も、ダイニングの場合も、やはり同じにある誘惑。
其処にある本を読みたくなったり、新聞を熟読してみたり。
そうでなければ「何か食おう」と、キッチンに足を向けたりも。
寝室を出れば、待っているのが誘惑の山。
読みたくなる本や、急に作りたくなる夜食など。
(…夜食の方に行っちまったら…)
きっと凝りたくなるのだろう。
簡単なものを、とキッチンに行っても、やりたくなるのが一工夫。
せっかく時間が出来たのだからと、夜の夜中に。
そして美味しく完成したなら、悦に入ってゆっくり、のんびり食べる。
またコーヒーを淹れたりもして。
ひょっとしたら、秘蔵の酒なども出して。
(…いかん、いかん…)
それじゃしっかり起きてしまうぞ、とコツンと叩いた自分の頭。
夜食を作って、それを書斎に運んだりしたら最悪のパターン。
(次に時計を眺めた時には…)
唖然とするほど、時間が経ってしまっているのに違いない。
一時間だったら、まだマシな方で、下手をしたなら何時間だって。
外は暗くても、新聞配達のバイクの音が聞こえるくらいに…。
(夜明けが近いというヤツで…)
そいつは駄目だ、と分かっている。
身体は頑丈に出来ているから、徹夜でも平気なのだけれども、しない主義。
「眠れる時間は、きちんと眠る」ことが習慣。
頭脳をクリアに保っておくには、そうすることが必要だから。
(人間の身体は、不思議なモンで…)
何処かで「頭」を眠らせないと、落ちてゆくのが作業効率。
睡眠不足で放っておいたら、とんでもないミスを引き起こすもの。
仕事だろうが、咄嗟の判断だろうが。
(俺の場合は、教師だしな?)
そういったミスが許されない仕事。
採点ミスならご愛嬌でも、柔道部の方はそうはいかない。
生徒に怪我をさせた後では、もう取り返しがつかないだけに。
職業柄、頭は常にクリアに保っておくもの。
寝付けなくても「眠れる」ように、きちんと気持ちを切り替えて。
(…なにしろ失敗は出来んわけだし…)
大勢の生徒を俺が預かっているんだからな、と大きく頷く。
今は担任のクラスは無いのだけれども、責任の方は他の教師と変わらない。
(採点ミスなら、そいつをやられた生徒と笑っておしまいで…)
申し訳ないことをした、と丸を付け直してやればいいだけのこと。
それから「ミスして引かれた」点数、そっちも足して書き換えてやって。
「すまんな」と詫びて、それでおしまい。
それとは逆の採点ミスなら、生徒に「笑われて」終わりになる。
本来、引かれる筈の点数、間違った答えに付けられた丸と得点。
(生徒にしてみりゃ、丸儲けで…)
申告しに来る筈もないな、と可笑しくなるのが逆のミス。
どんなに正直な生徒だろうと、こればっかりは言いには来ない。
自分の点数が下がるだけだし、「そんな目に遭うのは、絶対に嫌だ」と。
(…ブルーにしたって、そうなるだろうな…)
今は教え子になっているブルー。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ブルーは優等生だけれども、自分のテストに「点数が下がる」採点ミスを見付けたら…。
(…俺には言いに来たりしないで…)
無かったことにしておくのだろう、と容易に想像がつく。
「ハーレイ先生!」と手を挙げはしないで、「黙っておこう」と。
休み時間に、「間違ってます」と持って来ることも無いだろう。
(…憧れのハーレイ先生だしな?)
ついでに恋人、その人の前では「いい顔」をしたくなるのに決まっている。
わざわざ自分で「評価を下げる」ような真似はしないで、優等生で。
正直に申告しに来る代わりに、「儲けちゃった」と採点ミスを有難がって。
もっとも優等生のブルーは、滅多に間違わないけれど。
ケアレスミスなどゼロに等しくて、難問でもスラスラ解くのだけれど。
(…あいつに点数をくれてやったことは…)
あるんだろうか、と顎に手を当て、考えてみる。
いくら頭をクリアに保って頑張っていても、自分も人間なのだから…。
(ついついウッカリ…)
ミスをすることだってある。
それを防ごうと、今夜も「眠る」努力をしている。
(あいつに点数をプレゼントしたら…)
どうなるんだろう、とブルーの顔を思い浮かべて、「直ぐに分かるな」と吹き出した。
今のブルーは、サイオンがとても不器用だから。
隠し事など何も出来ずに、心の中身が欠片になって零れ出す。
嬉しいことがあった時には、もうキラキラと光の滴が弾けるように。
(…学校では隠していたとしてもだ…)
ブルーの家で会った途端に、心が溢れ出すのだろう。
「ハーレイに点数を貰っちゃった」と、「テストの点数、間違ってたよ」と。
(……ということは、今までに……)
くれてやってはいないんだろうな、と思う点数。
ブルーのテストの間違った箇所に、うっかりミスで丸を付けたことは無いのだろう。
(…しかし、眠っておかないとな?)
明日は大丈夫でも、その内にやってしまいかねん、と考えてベッドにもぐり込む。
今の気分なら、どうやら寝付けそうだから。
ブルーの笑顔が心に浮かんでいる今は。
寝付けない夜は「ある」のだけれども、今夜はこれで眠れるだろう。
思考は「楽しい方」へと転がり、夢でブルーに会えそうだから。
「ハーレイ、点数、間違えてたよ」と、心の欠片がキラキラ零れる愛おしい人に…。
寝付けない夜に・了
※寝付けなかったハーレイ先生、ベッドから起きたわけですけれど。何をしようかと考え事。
その最中に浮かんで来たのがブルー君。それだけで「眠れる」みたいですねv