(……ハーレイのケチ!)
今日も酷い目に遭っちゃった、と小さなブルーが尖らせた唇。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は休日、午前中からハーレイが訪ねて来てくれた。
いい天気だから車に乗らずに、運動を兼ねて歩いて来て。
そうして二人で過ごしたけれども、今日も貰えなかったキス。
「ぼくにキスして」と注文したのに、貰えたキスは頬へのもの。
唇にキスが欲しいのに。
恋人同士のキスが欲しいというのに、キスはいつでも額と頬に貰えるだけ。
「キスは駄目だ」と、「俺は子供にキスはしない」と断られて。
(…ハーレイ、ホントにケチなんだから…!)
前の自分と同じ背丈に育たない限りは、貰えないのが唇へのキス。
あの手この手で頑張ってみても、まるで取り合っては貰えない。
それに叱られたりもする。
鳶色の瞳で睨み付けられて、「キスは駄目だと言ったよな?」と。
今日もハーレイは睨んで来たから、負けじとプウッと膨れてやった。
両方の頬っぺたに空気を詰めて。
不満たらたらの顔で見詰めて、「ハーレイのケチ!」とプンスカ怒って。
けれど、ハーレイには無かった効き目。
「おっ、フグか?」と言われた頬っぺた。
大きな両手が伸びて来たかと思うと、もうペッシャンと潰されていた。
膨らませた頬を、ハーレイの手で。
「フグがハコフグになっちまったぞ」と、それは可笑しそうに。
(…ハコフグだなんて…)
酷すぎるってば、と思うけれども、ハーレイはそう決め付けている。
唇を尖らせて膨れているのを、押し潰したらハコフグだと。
海に棲んでいるハコフグの顔と、恋人の顔を重ね合わせて。
(…あんまりだよね…)
普通は言わないと思う、と溜息が零れるハコフグ呼ばわり。
恋人に向かって言いはしないと、「ぼくはホントに子供扱い」と。
今のハーレイは三十八歳、今の自分は十四歳。
親子と言っても通るくらいに年が違うし、子供扱いも仕方ないとは思う。
でも「ハコフグ」はあんまりだろう。
「フグ」と呼ばれるのも、「ハコフグ」の方も、とても恋人につける渾名ではない感じ。
ハーレイは、そう呼ぶけれど。
頬っぺたをプウッと膨らませる度に、フグと呼ばれて、ハコフグにされることもしばしば。
なんとも酷い今のハーレイ、前のハーレイとは、まるで違って。
前のハーレイは優しかったのに。
けして苛めはしなかった上に、睨み付けたりもしなかったのに。
(…今だと、ぼくがキスを強請ったら…)
たちまち険しくなる眼光。
「キスは駄目だと言ってるよな?」と、ギロリと睨み付けられる。
チビのくせに、と腕組みまでして叱る日だって。
(…だけど、ハーレイが睨んでたって…)
ちっとも怖くないんだから、と勇ましい気分。
これが学校だと、ハーレイにジロリと睨まれた生徒は大慌てだけれど。
授業中にしていた居眠りだとか、宿題を忘れて来ただとか。
睨まれる原因は実に色々、誰もが「すみません!」と頭を下げる。
より酷いことにならないように。
「居眠りしていた」罰で、とんでもない難問を解かされたりしたら大変だから。
宿題を忘れてしまった罰で、宿題のオマケを貰うのも。
(…みんな真っ青なんだけど…)
ぼくは少しも怖くないよ、と皆の前で威張りたいくらい。
どんなにハーレイが睨んでいたって、負けて逃げ出したりしない。
尻尾を巻いて逃げる代わりに、いつも正面から受け止める。
「ハーレイのケチ!」と、唇を尖らせて。
頬っぺたに不満を一杯に詰めて、はち切れそうなほどに膨らませて。
(…頬っぺた、潰されちゃったって…)
負けないもんね、と自負している。
ハーレイなんかに負けはしないと、けして白旗を揚げはしないと。
なんとも酷い恋人だけれど、睨み付けられたら、膨れてやるだけ。
「ごめんなさい」と言いはしないし、謝りもしない。
悪いのは、ハーレイの方だから。
恋人がキスを強請っているのに、知らんぷりをするケチだから。
(…それに、怖い目で睨んでたって…)
ハーレイなんか怖くないから、と自信を持って言い切れる。
鳶色の瞳が鋭い時でも、せいぜい「ハコフグにされる」だけ。
頬っぺたを両手でペシャンコにされて、ハーレイに散々笑われるだけ。
それ以上のことは起こりはしなくて、こうして怒っているだけで済む。
「ハーレイのケチ!」と、もうハーレイは帰った部屋で。
(睨み付けたら、ぼくが怖がると思ってるわけ…?)
甘いよね、とフンと鼻を鳴らした。
睨み付けられたら怖い人なら、他にいるから。
もう大慌てで「ごめんなさい!」と謝らなければ、大変なことになる人が。
(…パパに叱られちゃった時…)
父は滅多に叱らないけれど、叱る時は理由があるけれど…。
(……睨み付けられたら、謝らないと……)
それなりの罰が待っている。
優しい父が寄越す罰だし、それほど酷いものではなくても。
「明日のおやつは半分だな」とか、「おやつは抜きで、食事を多めに食べろ」とか。
そんな具合の罰だけれども、チビの自分には、充分、怖い。
いつも楽しみにしているおやつが、半分だけになるなんて。
半分どころか、おやつが抜きになるなんて。
(…パパの罰は、ホントに怖いから…)
叱られたら、きちんと謝らないと、と心得ている。
父に向って膨れはしない。
「パパのケチ!」などと言おうものなら、おやつは当分、抜きだろう。
来る日も来る日も食事ばかりで、母のケーキは食べられないで。
ケーキはもちろん、プリンもクッキーも、ほんの小さなキャンディーだって。
だから父には膨れたりしない。
母に叱られた時も同じで、「ごめんなさい!」と直ぐに謝る。
そうそう叱られはしないけれども、叱られるからには、悪いのは自分。
ちゃんと反省、そして謝る。
間違っても、頬っぺたは膨らませないで。
唇を尖らせることもしないで、その場で素直に。
(でも、ハーレイは怖くないしね?)
それに悪いのはハーレイだから、と頭の中で繰り返す。
キスをくれない方が悪いと、「恋人を放っておくなんて」と。
どんなにキスを強請ってみたって、ハーレイは睨み付けるだけ。
「俺は子供にキスはしない」の一点張りで。
それでこちらが膨れてみたって、「おっ、フグか?」などと、からかうだけで。
(…あんなに酷い恋人なんて…)
きっと何処にもいないよね、と思うものだから、余計に頬を膨らませたくなる。
もうハーレイは、此処にいなくても。
家に帰ってしまった後でも、腹が立つから。
睨み付けられて怖がる代わりに、プンプン怒りたくなるから。
(…ぼくは絶対、負けないんだから…)
睨まれたくらいで負けやしない、とプウッと頬っぺたを膨らませる。
「潰せるものなら潰してみたら?」と、此処にはいないハーレイに向けて。
今頃は書斎でコーヒーだろうか、そういう恋人に向けて。
(睨んだって、怖くないからね?)
ぼくには効果は無いんだから、と大声で言ってやりたいくらい。
「ハーレイの目なんか怖くないよ」と、「睨み殺せもしないでしょ?」と。
今の自分はチビだけれども、大きなハーレイに負けたりはしない。
勇気はたっぷり、自信もたっぷり。
ハーレイに睨まれたクラスメイトは、誰でも震え上がるのに。
柔道部員も同じだろうに、チビの自分は怖くない。
もっと怖い人を知っているから、父にジロリと睨まれた時は、謝らないと駄目だから。
(…ハーレイ、まるで分かってないよね…)
ぼくは怖がらないってことを、とクスクスと笑う。
いくら睨まれても怖くなどないし、懲りることだって有り得ないのに。
「ハーレイ」が怖くない以上。
ハーレイなどより、父の方が余程怖いのだから。
(…ぼくって、勇敢…)
元がソルジャー・ブルーだもんね、と時の彼方の自分を思う。
今の時代も大英雄として、称え続けられる偉大な初代のソルジャー。
たった一人でメギドを沈めて、ミュウの未来を守った自分。
その魂を継いでいる分、チビでも勇敢なんだから、と。
(ハーレイの中身は、前のハーレイなんだしね?)
ソルジャーに敵うわけないよ、と思った所で気が付いた。
前の自分も同じだったと。
(無茶をして、前のハーレイに睨み付けられたら…)
首を竦めて「分かったよ」とだけ言っていた。
たまに謝ることがあっても、口先ばかり。
また同じことを繰り返してみては、前のハーレイを嘆かせていた。
「何度申し上げたら、あなたはお分かりになるのです?」と。
ソルジャーのために言っているのだと、いつも睨んで来た恋人を。
(…前のぼくの無茶でも、ハーレイは止められなかったものね?)
今のぼくだって、おんなじだよ、と誇らしく思う自分の勇気。
睨み付けられても屈しはしないと、けして怖がったりもしないと。
(……ソルジャー・ブルーだった頃には、パパがいなかった分……)
今の方がちょっぴり弱いかもね、と浮かべた笑み。
睨み付けられたら怖い人なら、今では「父」がいるのだから。
ハーレイは怖いと思わなくても、父に睨まれたら「ごめんなさい!」と謝るから…。
睨み付けられたら・了
※ハーレイ先生に睨み付けられても、怖くないのがブルー君。学校の生徒は慌てるのに。
睨み付けられたら怖い相手は、パパらしいです。おやつ抜きの刑は怖いですよねv
(今日も膨れていやがったな…)
実に見事なフグだった、とハーレイが思い浮かべた恋人の顔。
夜の書斎で、コーヒー片手に。
今日は休日、午前中からブルーの家まで出掛けて来た。
いい天気だから、車は無しで。
軽い運動には丁度いい距離を、二本の足でのんびり歩いて。
そうして着いたら、待ち焦がれていたチビの恋人。
門扉の脇のチャイムを鳴らすと、二階の窓から手を振って。
「ぼくは此処だよ」と、「早く部屋まで上がって来てよ」と。
週末に何も用事が無ければ、ブルーの家に出掛けて過ごす。
午前中から二人でお茶の時間で、昼食も二人。
両親も交えた夕食のテーブルに着く時までは、二人きりだと言ってもいい。
ブルーの母が、お茶や食事を届けに来る時の他は。
「お茶のおかわりは如何?」と、階段を上がって来ない時には。
恋人同士で二人きりだから、我儘になるのが小さなブルー。
何度も駄目だと叱っているのに、今日もやっぱり強請られた。
「ぼくにキスして」と、赤い瞳を瞬かせて。
それに応えてキスしてやったら、「こうじゃないよ!」と不満顔。
キスを落としてやった所は、頬だったから。
(…前のあいつと、同じ背丈に育つまではだ…)
キスをする場所は、頬と額だけ。
そういう決まりで、何度言ったか分からない。
「キスは駄目だ」と、「俺は子供にキスはしない」と繰り返して。
けれど、聞かないのがブルー。
唇へのキスが欲しくてたまらず、貰えなかったら、たちまち膨れる。
それが子供の証拠なのに。
頬っぺたをプウッと膨らませるなど、中身が子供だという立派な証。
前のブルーの記憶があろうと、チビのブルーは子供でしかない。
見た目通りに十四歳にしかならない子供で、何かと言えば膨れるような。
今日もブルーは膨れていたから、思い出す顔は「フグ」になる。
海に棲むフグが驚いた時は、ああいう姿になるものだから。
餌に食い付いて釣り上げられたら、真ん丸に膨れるフグという魚。
小さいフグでも、ピンポン玉かと思うくらいに一人前に。
それと同じに膨れるブルー。
「ハーレイのケチ!」と、フグそっくりに。
(あいつがフグになるもんだから…)
こちらも、ついつい、からかいたくなる。
不満たらたらの顔のブルーが、精一杯に膨らませている頬っぺた。
それを両手で、一気にペシャンと押し潰して。
尖った唇だけを残して、見事に潰してやったなら…。
(フグがハコフグになっちまうんだ)
面白いよな、とクックッと笑う。
今日もブルーに「ハコフグの刑」をお見舞いした。
プンスカ怒っていたのだけれども、チビのブルーにはお似合いだから。
(…そもそも、俺が「キスは駄目だ」と叱った時にだ…)
シュンと項垂れないブルーが悪い、と今だって思う。
この目でギロリと睨み付けても、小さなブルーは怖がりもしない。
「何度言ったら分かるんだ?」と、目だけで叱って脅してみても。
これが柔道部員だったら、睨み付けたら黙るのに。
黙るどころか、「すみませんでした!」と、必死になって謝るのに。
(…それくらい怖い筈なんだがな?)
俺が誰かを睨んだ時は…、と自分でも充分に自覚している。
柔道で試合をするとなったら、眼光も武器の一つになる。
対戦相手を威嚇出来たら、もうそれだけで見えて来る勝利。
「この相手には敵わない」と感じた時には、自ずと力が削がれるもの。
どんなに全力をぶつけてみたって、何処かで腰が引けていて。
本当の実力を発揮出来ずに、自ら自滅して行って。
柔道を始めて長いけれども、やはり最初が勝負だと思う。
向かい合って試合を始める前に、どれだけ相手の気力を削ぐか。
(こう、礼をした瞬間にだ…)
互いの間に飛び散る火花。
より眼光が鋭い者に、勝利の女神が微笑む試合。
だから自分が「睨み付けたら」、大抵の者は恐れて竦み上がるのに…。
(…あいつは一向に、懲りもしないで…)
まるで平気でいやがるんだ、と恐れ入るのがチビのブルー。
何度睨まれたか分からないのに、今日も懲りてはいなかった。
「ぼくにキスして」と無理な注文、断られたら、怒って膨れた。
両方の頬っぺたに空気を含んで、フグそっくりに。
「ハーレイのケチ!」と唇を尖らせ、挙句の果てには、お決まりのコース。
その頬っぺたを押し潰されて。
「フグがハコフグになっちまったぞ」と、いつものように笑われて。
(…それでもプンプン怒り続けているのがなあ…)
大物というヤツだよな、と改めて感心させられる。
下手な柔道部員などより、よっぽど肝が据わっていると。
睨み付けられても怖がるどころか、逆襲して来るくらいだから。
(柔道と違って、俺を投げ飛ばすわけじゃないんだが…)
あれだけ「駄目だ」と言ってあるキス、それを強請るのは逆襲だろう。
欲しがったキスを貰い損ねて、フグみたいにプウッと膨れるのも。
(柔道部のヤツらにも、あの肝っ玉があったなら…)
もっといい試合が出来そうなのに、と惜しい気持ちがこみ上げもする。
どうして「ブルー」だったのかと。
睨み付けても怖がらないのが、柔道部員になれもしない「虚弱なブルー」なのかと。
(……惜しいと言うか、宝の持ち腐れと言うか……)
もったいない、と思わないでもない。
ブルーが柔道部員だったら、きっといい線を行くのだろうに。
試合を始める前の気合の勝負で、大抵の者の睨みをサラリと受け流して。
(…本当に惜しい才能だよな…)
流石はチビでも「ブルー」だけはある、と考える。
遠く遥かな時の彼方で、「ソルジャー・ブルー」と呼ばれたブルー。
今の時代まで伝わる英雄、ミュウの時代の礎になった初代のソルジャー。
(名前そのままに、あいつは戦士だったんだ…)
命まで捨てて、ただ一人きりで巨大なメギドを沈めたほどに。
何発もの弾を浴びていてなお、倒れはせずに。
(…そういう所は、前のブルーを引き継いでるな)
見た目は弱っちいチビなんだが…、と思う今のブルーの強さと逞しさ。
睨み付けられても引きはしなくて、怖がりも懲りもしないから。
「ハーレイのケチ!」と怒って逆襲、フグみたいにプウッと膨れるから。
(ああ見えても、ちゃんとソルジャーで…)
俺を相手に戦ってるな、と思った所でハタと気付いた。
今のブルーが相手だったら、何度睨んだか数えることさえ出来ないけれど…。
(…前のあいつを睨んだことがあったのか?)
前の俺は…、と遠い記憶を探ってみる。
「ソルジャー・ブルー」を睨んだろうかと、その時、ブルーはどうしたのかと。
(…あいつを睨むということは…)
ブルーを相手に「怒る」こと。
あるいは叱るということだけれど、そんな機会はあっただろうか。
偉大なミュウの長を相手に、たかがキャプテンの分際で。
(……おいおいおい……)
出来やしないぞ、と前の自分の立ち位置などを考える。
キャプテンとしてブルーに意見は出来ても、頭ごなしに叱れはしない。
怒ることなど出来もしないし、睨み付けたりすることも無理。
船の頂点に立つ「ソルジャー」相手に、無礼な真似をしようものなら…。
(…エラが怒って、前の俺の方が叱られるんだ)
その光景が目に浮かぶよう。
「ソルジャーに無礼は許されませんよ」と、眉を吊り上げるエラの姿が。
つまりは「睨み付けてはいない」。
前の自分は、前のブルーを叱ってはいない。
(…そりゃあ、懲りない筈だよなあ…)
俺の怖さを知らないんじゃな、と零れる溜息。
「怖いもの知らず」なのが今のブルーで、だからプンスカ膨れもする。
睨み付けてみても、その恐ろしさを知らないから。
「ハーレイ」が睨み付けたら何が起こるか、少しも知りはしないから。
前のハーレイも、今のハーレイの方も、ブルーにとっては「恋人」なだけ。
我儘放題で膨れていたって、何も起こりはしないのだ、と高を括って。
(うーむ…)
それで余計に舐められるのか、と悔しい気分。
前の自分が睨んでいたなら、少しは怖がられたろうか。
膨れる代わりに「ごめんなさい」と、萎れて謝っただろうか。
(…今となっては、手遅れなんだが…)
お手上げだよな、と嘆くしかないブルーの肝っ玉。
それによくよく考えてみたら、前の自分も、前のブルーを睨んではいた。
ブルーが無茶をした時などに、今と同じに睨み付けたら…。
(…分かっているよ、と首を竦めていただけで…)
少しも反省していなかった、と思い出したから、諦めるしかないだろう。
ブルーは、今もブルーだから。
チビでも中身は変わっていなくて、睨んでも怖がらないのだから…。
睨み付けたら・了
※柔道部員も怖がるのが、今のハーレイに睨み付けられた時。けれど怖がらないブルー。
いくら睨んでも叱っても無駄で、諦めるしかないのがハーレイ先生。ブルー、最強v
(明日は、ハーレイが来てくれるんだよ)
楽しみだよね、と小さなブルーが浮かべた笑み。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は金曜、一晩寝たら明日の朝には土曜日になる。
待ち焦がれていた週末が来て、待ち人が家を訪ねて来る。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
今では、学校の教師だけれど。
自分は生徒で、学校で会ったら「ハーレイ先生」と呼ぶのだけれど。
(だけど家なら、ただの「ハーレイ」でかまわなくって…)
それに土曜日は午前中から来てくれるしね、と明日という日に思いを馳せる。
土曜と日曜は、ハーレイに何も用事が無ければ、午前中から一日、一緒。
両親も交えての夕食になるまで、この部屋で二人。
(お天気がいいなら、庭のテーブルと椅子でお茶にしてもいいよね)
庭で一番大きな木の下、其処に据えてある白いテーブルと椅子。
初めてのデートの記念の場所で、テーブルと椅子が変わっただけ。
ハーレイが運んで来てくれていた、キャンプ用だというものから。
(いつも持って来て貰うのは悪いから、って…)
父がハーレイに「買いますよ」と申し出た。
一人息子が気に入ったようだし、庭に置くためのテーブルと椅子を買うことにする、と。
(キャンプ用のも好きだったけど…)
家に来たのは、母の意見も混じってしまって、洒落たもの。
「ハーレイには似合わないかもしれない」と心配になった、白いテーブルと椅子。
けれども、要らなかった心配。
それが届いて、ハーレイが其処に腰掛けた途端に、「似合う」と思った。
キャンプ用のものとは違っても。
如何にもお洒落な、白いテーブルと椅子であっても。
(…シャングリラだって、白い船だったから…)
ハーレイには白も似合うのだろう。
初めて車を買いに行った時、白い車も勧められたというほどだから。
そのハーレイと、明日は一日、一緒。
庭に出掛けてお茶にするのも、この部屋で過ごすのも自由。
スーツを着ていない、ハーレイと。
仕事の帰りに寄ったのではなくて、「此処に来るために」起きたハーレイと。
(お休みの日でも、朝は早いんだっけ…)
ハーレイから、そう聞いている。
目覚ましが無くても、早い時間に目を覚ますのが習慣だと。
きっと明日の朝も、ハーレイはパチリと目覚めるのだろう。
チビの自分がベッドでグッスリ寝ている時間に、「もう朝だな」とベッドから下りて。
(うんと早かったら、此処に来る前に…)
ジョギングにまで行ってしまうという。
「その辺りを軽く走って来るか」と、朝の清々しい空気の中を、颯爽と。
(…ぼくにはジョギングなんか、無理…)
絶対、出来ない、と分かっているのがハーレイの趣味。
前のハーレイも丈夫だったけれど、今のハーレイは、もっと頑丈になった。
プロの選手にならないか、と声がかかったほどの、柔道と水泳の達人に。
何処の学校に赴任したって、柔道部か水泳部の顧問を任されるほどに。
(…プロ級だもんね?)
ハーレイがその気になっていたなら、プロの選手になれただろう。
「プロの道に行こう」と考えたならば、直ぐに幾つものスカウトが来て。
プロになったら、試合のためにと星から星へと転戦して。
(地球でも、大きな試合はあるけど…)
遠征試合も多いだろうから、そうなっていたら、ハーレイはとても忙しい。
チビの自分と再会したって、週末は試合だったりして。
試合の無い日も、練習だとか、遠征のための移動だとか。
(…ぼくの家に来ている暇は無いよね?)
今のハーレイよりも、ずっと忙しくって…、と考える。
「学校の先生の方で良かった」と、「週末は此処に来てくれるから」と。
何か用事が出来ない限りは、週末はハーレイが訪ねて来る。
そんな週末を幾つも過ごして、それでもやっぱり、前の夜には心が弾む。
「明日は、会える日」と、ドキドキと。
ハーレイが来たら、何をしようか、何を話そうかとウキウキして。
(…部屋も綺麗に掃除しなくちゃ…)
いつも以上に、心をこめて。
週末の朝は時間がたっぷりあるから、朝御飯の後で、ピカピカに。
(朝御飯、明日は何だろう?)
ホットケーキだといいのにな、とチラッと思った。
母が焼いてくれる、ホットケーキ。
食の細い一人息子のためにと、普通サイズより小さめに。
(普通の大きさだと、ぼくは一枚でお腹一杯になっちゃって…)
ホットケーキが重ねてあるのを味わえない。
お皿に一枚、ポツンと置かれているものしか。
それでは見た目に寂しいからと、小さめに焼いてくれるのが母。
「ホットケーキは、重ねてある方が美味しそうでしょ?」と微笑んで。
両親のよりも小さめのリングに、ホットケーキの種を流して。
(あれって、子供用だよね…?)
今の自分も子供だけれども、もっと小さな子供用。
レストランとかに入った時には、お子様ランチを迷わず注文するような。
(そういう小さな子供にだって…)
食欲で負けてしまいそうなチビが、今の自分。
今度も弱く生まれた身体は、一度に沢山、食べられはしない。
どんなに美味しそうなものでも。
「これなら、きっと大丈夫!」と齧り付いても、食べ切れない。
ホットケーキも、小さめサイズになって当然。
二枚、重ねて食べたいのなら。
積み重ねてあるホットケーキに、バターを乗っけてみたいなら。
一枚きりだと、見た目に寂しい気がしてくるから、小さめで二枚。
メープルシロップをたっぷりとかけて、「いただきます」と。
学校がある平日の朝は、ホットケーキは滅多に出ない。
大抵はキツネ色に焼いたトースト、今ではそれもお気に入り。
隣町で暮らすハーレイの両親が、夏ミカンの実のマーマレードをくれたから。
(ハーレイのお嫁さんになる子だから、ってプレゼント…)
まだ見たことは無いのだけれども、夏ミカンの木は、その家のシンボルツリー。
とても大きな夏ミカンの木で、その実を使ってマーマレードが作られる。
ハーレイの父や、ハーレイが、たわわに実った実をせっせともいで。
キッチンに運ばれた金色の実を、ハーレイの母が端から洗って、皮を刻んで、鍋で煮込んで。
(あのマーマレードで食べるトースト、美味しいもんね?)
ホットケーキよりも特別だよね、と思うけれども、ホットケーキも捨て難い。
今夜みたいに「食べたいな」と感じたら。
急に食べたくなって来たなら、ホットケーキも魅力的。
今から母に注文したくなるほどに。
「ママ!」と部屋から飛び出して行って、「ホットケーキ!」と頼みたいほどに。
(……だけど、今から注文なんて……)
いくらなんでも我儘だろうと思える時間。
もうすぐベッドに入る時刻で、両親から見れば立派な夜更かし。
此処で階段を下りて走って行ったら、きっと二人に呆れられる。
「ホットケーキなら、日曜日の朝でもいいのに」と。
(……そうなっちゃうよね……)
それに今から頼まなくても、勝手に出て来る可能性もある。
母が、そういうつもりなら。
あるいは明日の朝に目覚めて、「ホットケーキを作りましょう」と考えたなら。
(ママが作っていなかった時は、日曜日の朝のために注文…)
それでいいや、とコクリと頷く。
この時間から強請りに行くより、そうした方がいいだろう。
明日の朝食がホットケーキでなかった時には、「明日は、ホットケーキがいいな」と。
日曜日の朝には食べたいと言えば、さほど我儘には聞こえない。
こんな時間から注文するより、遥かに自然な流れだから。
(そうしようっと…)
ホットケーキじゃなかった時には、日曜日の朝のをリクエスト、と思いを巡らせる。
そうすれば日曜日の朝に食べられるし、ホットケーキを食べたい夢が立派に叶う。
運が良ければ、何も注文しなくても…。
(明日の朝御飯はホットケーキで、うんと美味しく食べられて…)
朝から御機嫌、と思った所で気が付いた。
ホットケーキは好きだけれども、前の自分も好きだった、と。
いつか地球まで辿り着いたら、朝食に食べたかったのだと。
(…シャングリラにも、ホットケーキはあったけど…)
ホットケーキに乗せるバターは、船の中で育った牛たちのミルクで出来たもの。
メープルシロップなどはあるわけもなくて、合成品のシロップだった。
だから夢見た、地球での朝食。
ホットケーキに、地球の草を食べて育った牛たちのミルクのバターを添えて、と。
本物の砂糖カエデから採れた、トロリとしたメープルシロップも。
(…食べたいな、って夢を見てたのに…)
もうすぐ寿命が尽きると分かって、夢は「夢物語」に変わった。
他に幾つも夢見たことも、何もかも叶わないままで。
(…そうして、メギドで死んでしまって…)
夢は夢のままで終わった筈。
けれども自分は、夢の続きを此処で見ている。
「明日の朝御飯は、ホットケーキがいいな」と、「明日が駄目なら日曜日だよ」と。
前の自分が夢見た通りに、青い地球で食べるホットケーキの朝食を。
(……なんだか凄い……)
夢の続きを見ているなんて、と驚きだけれど、今の人生は夢ではない。
何もかも全部、本当のことで、明日はハーレイまで来てくれる。
(夢の続きだけど、全部、現実…)
凄すぎるよね、と綻ぶ顔。
夢で終わった前の自分の夢が、此処では叶うから。
ハーレイと二人で地球で暮らす夢も、いつか現実になるのだから…。
夢の続きを・了
※ブルー君が食べたくなったホットケーキ。「明日の朝は、ホットケーキだといいな」と。
前の自分と同じ夢だ、と気付いたホットケーキの朝食。今は、夢ではないのですv
(明日は、あいつに会いに行けるな)
そして夜まで一緒なんだ、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
金曜日の夜に、いつもの書斎でコーヒー片手に。
明日は土曜日、用事は何も入っていない。
午前中からブルーの家に出掛けて、夕食の後まで一緒に過ごす。
それが用事と言えば用事で、「ブルーの守り役」の仕事の一つ。
「仕事なのだ」と考えたことは、今日まで一度も無いけれど。
同僚たちから「大変ですね」と労われた時も、「大丈夫ですよ」と笑顔で返す。
「食事の支度をしないで済むので、助かります」とも。
(…そう言えば、納得してくれるんだが…)
やはり傍目には「大変な仕事」に見えるのだろう。
ブルーが起こした聖痕現象、それのお蔭で「自由な時間が減った」かのように。
暇さえあったら訪ねて行っては、ブルーと過ごしているのだから。
(俺にとっては、願ってもないお役目で…)
仕事なんかじゃないんだがな、という「本当のこと」は明かせはしない。
自分もブルーも、生まれ変わりだということは。
遠く遥かな時の彼方で、「ソルジャー・ブルー」と「キャプテン・ハーレイ」だった事実は。
(…いつか明かす日が来るかもしれんが…)
それまでは何も言えやしないな、と分かっている。
だから「ブルーの守り役」が仕事、そういう立場。
(そいつのお蔭で、ブルーに会いに行けるんだしな?)
堂々と仕事をしている顔で、と嬉しくもなる。
もしも「役目」が無かったならば、頻繁に足を運べはしない。
ブルーだけを贔屓しているようで。
同僚からも、生徒たちからも、そのように勘違いされて。
(それじゃマズイし、これでいいんだ)
大変な仕事をやっているのだと、思い違いをされている方がいい。
仕事帰りに寄ろうという日は、「ご苦労様です」と同僚たちに送り出される方が。
そんな具合に過ごしてはいても、週末を迎えると心が弾む。
「明日は会えるな」と、前の夜から。
ブルーの家に出掛けて行ったら、何をしようか、何を話そうかと。
(あいつと何かをすると言っても、デートなんぞに行けやしないし…)
せいぜい、庭にある白いテーブルと椅子での「デート」くらい。
ブルーを自分の車に乗せてのドライブは無理。
もちろん、公共の交通機関で何処かへ出掛けてゆくことも。
(…ブルーは行きたがるんだが…)
まだ早すぎだ、と決めている。
十四歳にしかならないブルーは、まだまだ子供。
一人前の恋人気取りでいたって、中身は「チビのブルー」でしかない。
だからデートもキスもお預け、子供は子供らしいのがいい。
いくらブルーが不満そうでも、頬っぺたを膨らませて怒っていても。
(チビはチビらしくするのがいいんだ)
あいつには自覚が無いようだが…、と苦笑する。
中身まで子供になっているのに、ブルーには、それが分かっていない。
なまじ記憶があるものだから。
「ソルジャー・ブルー」だった時代を、今も忘れていないから。
(…そのくせ、立派に子供なんだ)
何かと言ったら直ぐに膨れるし、プンスカ怒るのが子供の証拠。
そうだと気付いていない所が、また可愛いとも思うのだけれど。
(子供なんだし、きっと今頃は…)
明日の逢瀬を楽しみに待っていることだろう。
「ハーレイが来てくれるんだよ」と、小さな胸を躍らせて。
早く土曜日の朝が来ないかと、何度も壁の時計を眺めて。
(でもって、その内、脱線して…)
朝飯のことでも考え出すぞ、とクックッと笑う。
学校が休みの日の朝食は、普段よりものんびり食べられるもの。
きっと、そっちに思考がズレると、「なんたって、まだ子供だからな」と。
休日の朝も、ブルーは目覚ましで起きると聞いた。
顔を洗って着替えて朝食、それから部屋の掃除をする。
前のブルーと同じに、ブルーも綺麗好きだから。
(しかし、掃除を始める前に…)
両親と一緒の朝食なのだし、それにも期待しているだろう。
食が細くても、好き嫌いなど全く無くても。
(…ホットケーキがお気に入りらしいしな?)
ブルーのためにと、小さめに焼かれたホットケーキを重ねたものが。
それに金色のバターを乗っけて、メープルシロップをかけるのが。
(おふくろのマーマレードのせいで、影が薄れちまっているようだが…)
マーマレードが特別すぎて、と可笑しくなる。
隣町の両親が暮らす家の庭にある、とても大きな夏ミカンの木。
その実で母が作るマーマレードが、今やブルーの大のお気に入り。
朝食の席では、キツネ色に焼けたトーストに、夏ミカンの実のマーマレードを。
すっかり定番になってしまって、影が薄れたホットケーキ。
(学校のある日に、ホットケーキをのんびり食べるのは…)
向いていないし、トーストの方がいいのだろう。
もっとも、ホットケーキを食べて来る日も、まるで無いとは言えないけれど。
(あいつ、寝坊をしない方だし…)
起きてホットケーキが焼けていたなら、御機嫌で食べて登校する。
「時間が無いから、トーストでいいよ!」と言ったりはせずに。
そうは言っても、やはり、ゆっくり食べるなら…。
(土曜や日曜の朝がいいんだ)
他人の自分もそう思うのだし、ブルーも同じ考えだろう。
今頃は明日の朝食を思って、「ホットケーキがいいな」と夢見ていそうではある。
あるいは注文済みかもしれない。
「明日の朝は、ホットケーキにしてよ」と、ブルーの母に。
(そっちも、大いにありそうだよなあ…)
ホットケーキは注文済みな、とチビのブルーを思い浮かべる。
「明日の朝御飯はホットケーキなんだよ」と、考えが脱線しているブルー。
「ハーレイが来てくれるんだよ」から、「ホットケーキが食べられる」方へ。
お皿に盛られたホットケーキに、メープルシロップをかける方へと。
(なんたって、子供なんだから…)
色気より食い気というヤツなんだ、と思った所で気が付いた。
前のブルーが夢見たこと。
白いシャングリラで暮らしていた頃、「いつか、この船が地球に着いたら」と。
(……ホットケーキが食べたいと……)
それがブルーの夢だった。
青い地球まで辿り着けたら、地球ならではの朝食を食べてみたいと。
シャングリラにもホットケーキはあったけれども、あくまでミュウの箱舟の中。
(船で育った牛のバターと、合成品のメープルシロップしか…)
無かった世界で、ブルーは地球に夢を描いた。
「地球には、本物の砂糖カエデの森があるから」と。
砂糖カエデから採れた本物のメープルシロップ、それが手に入る夢の星だと。
(バターにしたって、地球の草で育った牛のミルクで作ったヤツで…)
船のバターとは味が全く違うのだろうと、前のブルーが抱いた夢。
いつか地球まで辿り着いたら、そういう朝食を食べるのだと。
(…何度も俺に話してたのに…)
前のブルーは、夢を諦めるしか道は無かった。
寿命が尽きることが分かって、もはや地球には行けなくなって。
(ホットケーキの朝飯も、他に沢山見ていた夢も…)
何もかもが「夢物語」と化してしまって、実現は無理だと思い知らされたブルー。
それきり、夢は夢のまま。
叶う時など永遠に来ない、夢物語が幾つも残っただけ。
そしてブルーも消えてしまった。
夢を一つも叶えないまま、一人きりでメギドに飛んでしまって。
そうやって消えた、前のブルー。
前の自分は「ブルー」を失くして、ブルーの「夢」も消えたけれども…。
(…あいつは、ちゃんと青い地球まで来ちまって…)
明日の朝飯は、ホットケーキかもしれないわけだ、と大きく頷く。
前のブルーの夢は叶ったと、「夢の続きは、此処にあるな」と。
(…俺と一緒に、青い地球の上で暮らすのも…)
これから実現させていけるさ、と綻ぶ顔。
前のブルーが失った夢は、今のブルーが続きを見ている。
「明日の朝御飯は、ホットケーキかもしれないよ」といった調子で。
本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球で育った牛のミルクのバターを乗せて。
(しかもそいつは、夢じゃないんだ)
今のあいつには現実なんだ、と今の幸せを噛み締めずにはいられない。
失くしてしまった夢の続きは、此処にあるから。
青い地球の上で次から次へと叶い続けて、きっと全てが現実になる。
チビのブルーが、いつか大きくなったなら。
一緒に暮らせる時が来たなら、前のブルーの「地球での夢」は、自分が全て叶えるから…。
夢の続きは・了
※ハーレイ先生が気付いたこと。前のブルーの夢の続きは、ブルー君が見ているのだと。
しかも夢ではなくて現実。二人一緒に地球で暮らすという夢も、いつかは実現するのですv
(……ハーレイ、来てくれなかったよ……)
待ってたのに、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した恋人。
青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた愛おしい人。
遠く遥かな時の彼方では、同じ白い船で暮らしていた。
ソルジャーとキャプテン、そんな肩書きに隔てられていても。
誰にも恋を明かせないまま、命を失くしてしまったけれど。
(…だけど、いつでも夜は一緒で…)
今のように離れて暮らすことなど、ただの一度も無かった時代。
ソルジャーだった自分は青の間、ハーレイにはキャプテンの部屋があっても。
(…夜になったら、ハーレイが青の間に来てくれて…)
朝まで二人で過ごしていた。
愛を交わして共に眠って、シャングリラに朝が訪れるまで。
船の中には、朝の光が差さなくても。
雲海に潜んだ白い船からは、昇る朝日が見えなくても。
(…ハーレイが仕事で遅くなった日も、ぼくが眠ってしまった後に…)
ちゃんと来てくれていた、前のハーレイ。
朝、目覚めたら、隣にハーレイの姿があった。
「おはようございます」と微笑んで。
「じきに朝食の時間ですよ」と、優しいキスを贈ってくれて。
(…ハーレイはいないし、キスも貰えないし…)
寂しいよね、と思ってしまう。
今の自分がチビでなければ、一緒に暮らせたのだろうに。
ハーレイと出会って、前の自分の記憶が戻ってくれた途端に。
聖痕はとても痛かったけれど、あれが「ハーレイ」を連れて来てくれて。
(俺のブルーだ、って抱き締めてくれて…)
きっと、直ぐにでもプロポーズ。
こうして離れて暮らす代わりに、同じ家で共に暮らせるように。
今のハーレイが一人でいる家、其処へ「お嫁さん」として迎えるために。
けれど、世の中、上手くいかない。
生まれ変わった自分はチビで、十四歳にしかならない子供。
ハーレイはキスさえしてはくれずに、子供扱いするばかり。
「俺は子供にキスはしない」だとか、「キスは駄目だと言ってるよな?」と叱るとか。
おまけに一緒に暮らせはしなくて、今日のように会えない日だって多い。
ハーレイの仕事が忙しい日は、帰りに寄ってはくれないから。
学校では顔を合わせられても、あくまで教師と生徒の関係。
「ハーレイ先生!」と呼び掛けるのが精一杯。
運よく立ち話などが出来ても、話題は他の生徒たちのと変わらない。
「元気そうだな」とか、「次の授業は何なんだ?」とか。
恋人同士の会話は出来ずに、挨拶をして別れるだけ。
今日もやっぱり、そうだった。
廊下で出会って、「ハーレイ先生!」とペコリとお辞儀。
それから少し言葉を交わして、右と左に別れて行った。
ハーレイは、次の授業をするクラスへと。
自分の方も、授業を受けに教室へと。
(……こんな日ばっかり……)
どうしてなの、と頬を膨らませていたら、不意に背中に感じた違和感。
「あれ?」と思った時には、痒くなっていた。
蚊の羽音などはしなかったのに。
チクンと刺された痛みなんかも、まるで覚えは無いというのに。
(…背中の真ん中…)
うんと痒い、と自分の背中が訴えてくる。
蚊に刺されたというわけではないなら、パジャマが悪さをしたろうか。
痒くなるような生地ではなくても、ほんのちょっぴり。
背中の柔らかな肌の何処かに、繊維が擦れて悪戯をして。
(……痒いんだけど……!)
なんで背中、と慌てて右手を突っ込んだ。
早くバリバリと掻きたくて。
痒い辺りを掻き毟ろうと、パジャマの襟の所から。
直ぐに掻けると思った背中。
ところが右手は届いてくれずに、ただ痒さだけが増してゆく。
「此処までおいで」と、ペロリと舌を出すかのように。
「掻けるものなら掻いてみろ」と、「あっかんべー」とするかのように。
(……届かないよ……!)
右手じゃ届かない所が痒い、と左手の力を借りることにした。
「こっちは引退」と右手を引っ込め、代わりに左の手を突っ込んで。
けれど、やっぱり届いてくれない。
痒い所は、もう少しばかり右の方だという気がする。
(ぼく、焦っていて間違えた…?)
右手のままで良かったのかな、と再び右手の出番。
それでバリバリ掻こうとしたって、届きはしないものだから…。
(…首の方から掻くのが間違い?)
下から掻けば良かったかも、とパジャマの上着の裾から攻めた。
上に向かって掻けるようにと、右手を入れて。
今度こそバリバリ掻けるだろうと、腕を伸ばして。
(……あとちょっと……)
もうちょっとなのに、と頑張ってみても、掻けない背中。
ただ痒みだけがググンと増して。
「掻けない」ことで、余計に痒いように感じて。
(……うー……)
こんなの、我慢出来やしない、と立ち上がって部屋の外に出た。
まだ両親は起きているから、背中を掻いて貰おうと。
ダイニングにいるか、リビングにいるか、二人とも、きっと一階にいる。
(…パパでも、ママでもかまわないから…)
背中を掻いて、と急いで駆け下りて行った階段。
「パパー!」と、父を呼びながら。
「ママでもいいよ!」と、声を張り上げて。
少しでも早く掻いて欲しいし、助けを呼ぶならこれが一番。
二人とも直ぐに声に気付いて、こっちに駆けて来るだろうから。
「どうした、ブルー!?」
「何があったの!?」
リビングの扉がバタンと開いて、揃って飛び出して来た両親。
何事なのかと血相を変えて、一人息子の様子を見に。
「え、えっと…。背中、痒くて…」
掻いてちょうだい、と背中を向けたら、両親はプッと吹き出した。
「なんだ、背中が痒かったのか…。どうしたのかと思ったぞ」
「ママもよ。怪我でもしちゃったのかとビックリしたわ」
でも背中なのね、と母が笑って、父は「どっちがいい?」と尋ねた。
「パパが掻いたら、痛すぎるかもしれないぞ。…パパかママか、どっちにしたいんだ?」
「ん、んーと…。痛いのは嫌かも…」
「じゃあ、ママだな。…掻いて貰いなさい」
ママ、と父が促してくれて、母が「どの辺?」と優しく微笑む。
「何処が痒いの? 手が届かないのなら、真ん中かしら?」
「そう…。この辺の…」
上手く説明できないけれど、と指で差したら、母は「いいわよ」と襟元から手を突っ込んだ。
「この辺ね。もっと下? それとも右?」
「…もうちょっと下…。ううん、其処じゃなくて…」
何度か注文を繰り返した末に、痒い所を母が捕まえた。
「其処!」と叫んで、バリバリと掻いて貰った背中。
「痒いから、もっと強く掻いて」と、「大丈夫、痛くないから」と。
(…パパだったら、痛いかもだけど…)
ママだから気持ちいいだけだよね、と目を細めながら、痒みが引いてゆくのを感じる。
母の手が掻いてくれる度に。
「ブルー、本当に痛くないの?」と、気遣う声がする度に。
そうして痒くなくなったから、「もういいよ」と母に笑顔を向けた。
「ありがとう! 痒いの、収まったよ」
「良かったわ。何かに刺されたわけでもないわね」
そういう痕はついていないわ、と母は背中を確かめてくれた。
パジャマの上着の裾をめくって、父と二人で眺め回して。
何かに刺されたわけではないなら、痒さが収まれば、もう安心。
両親に「早くベッドに入りなさい」と急かされたから、「うん」と素直に頷いた。
「おやすみなさい。…ビックリさせちゃって、ごめん」
「いや、いいが…。痒いものは仕方ないからな」
「そうよ、自分じゃ掻けないんだもの」
おやすみなさい、と両親に見送られて、トントンと上って行った階段。
二階に戻って部屋に入って、ベッドに座ってホッと一息。
(…もう痒くないよ…)
パパたちがいてくれて、ホントに良かった、と嬉しくなる。
一人きりなら、痒い背中を抱えたままでいただろう。
掻いて欲しくても、誰もいないから。
「パパ、お願い!」とも、「ママでもいいから!」とも、助けを呼べはしないから。
(……一人暮らしじゃなくて良かった……)
痒い時には困るもんね、と思った所で気が付いた。
一人暮らしをしている恋人、今日は来なかったハーレイのこと。
(…ハーレイ、どうしているんだろ…?)
さっき自分がそうなったように、背中が急に痒くなったら。
バリバリと手で掻きたくなっても、痒い場所に手が届かなかったら。
(……もしかして、我慢するしかないの……?)
掻いてくれる人が家にいないのなら、そうなるだろう。
「こりゃたまらんな」と顔を顰めて、痒みが去るまで我慢するだけ。
きっとハーレイはそういう暮らしで、今日も困っていたかもしれない。
「痒いんだが、手が届かんな」と、痒くてたまらない背中を相手に。
(……一人暮らしって、大変なんだ……)
背中を掻いてくれる人もいないよ、と今のハーレイの境遇を思う。
キスもくれないケチだけれども、どうやら苦労をしているらしい、と。
(…もうちょっとだけ、我慢しててね…)
何年かしたら、ぼくが行くよ、と浮かべた笑み。
ハーレイのお嫁さんになったら、同じ家で暮らしてゆくことが出来る。
二人一緒に暮らしているなら、ハーレイの背中が痒い時には…。
(ぼくに任せて、って手を突っ込んで…)
バリバリと掻いてあげられるよね、と夢見る未来。
それに自分も掻いて貰えるし、早くその日が来ればいい。
痒い時には、お互いに助け合える日が。
「背中が痒い」と言いさえしたなら、ハーレイも自分も、バリバリと掻いて貰える時が…。
痒い時には・了
※背中が痒くなったブルー君。自分では掻けなくて、お母さんに掻いて貰うことに。
痒みは無事に収まったものの、一人暮らしのハーレイが心配。早くお嫁に行かないと…v