(……んーと……)
今は全然大丈夫、と小さなブルーが触った瞼。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
夕食の後に、右の瞳に感じた痛み。
瞬きしたはずみに、なんだかチクリと。
(…多分、小さなゴミ…)
埃か、あるいは見えないくらいに細い糸とか。
そういったものが目に飛び込んだら、思った以上に痛く感じる。
睫毛が入ってしまった時でも、チクチク痛くなるのが瞳。
(擦ったら、余計に痛くなるから…)
上下の瞼を指で押さえて、涙が出てくるまで待った。
そうすればゴミは洗い流せて、不快な痛みも綺麗に消える。
涙で駄目なら、洗面所に行って目を洗えばいい。
(そこまでしなくて済んだんだけどね…)
もうゴミなんかは入ってないし、と触れてみる右目。
ゆっくりのんびりお風呂に入って、今はすっかり気分爽快。
けれど、右目には「思い出」がある。
今日は来てくれなかったハーレイ、とても大切な人に纏わる思い出が。
(…ハーレイと、教室で初めて会った日…)
右の瞳から溢れた鮮血。
その兆候なら、少し前からあったのだけれど。
(入学式の日に…)
校長先生の挨拶で聞いた、「ソルジャー・ブルー」という名前。
ミュウの時代の始まりの人で、ミュウたちを乗せた箱舟を守った大英雄。
「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」は、学校では定番の言葉なのだけれど…。
(…それを聞いたら、ぼくの右の目…)
目の奥が急にツキンと痛んで、血の色をした涙が零れた。
家に帰った後だったから、母たちは気付かなかったけれども。
最初の出血は、入学式の日。
次は「ソルジャー・ブルー」の名が目に入った時、やはり血が出た。
(病気だったら、大変だから…)
両親には隠していたというのに、日が経ってから、母が何気なく語った名前。
「ソルジャー・ブルー」と聞いた途端に、ズキンと痛んだ右目の奥。
右目から流れた赤い血の涙、見ていた両親は驚き慌てた。
直ぐに病院に連れてゆかれて、あれこれと検査を受けたのだけれど…。
(ぼくの目、なんともなっていなくて…)
診てくれた医師は、「聖痕現象」だと告げた。
「ソルジャー・ブルー」の名が引き金になって、傷も無いのに起こる出血。
確たる証拠は今も無いけれど、「ソルジャー・ブルーは撃たれた」という説がある。
メギドを沈めに潜入した先で、人類軍のキース・アニアンに。
(…その傷が、ぼくに出たんだろう、って…)
語った医師は、「生まれ変わりかもしれませんね」と微笑んだ。
「ソルジャー・ブルーに似ているのは、そのせいかもしれませんよ」などと。
それから、こうも付け加えた。
「私の従兄弟に、キャプテン・ハーレイにそっくりなのがいましてね」と。
(ぼくの学校に、転任してくる予定だから…)
出会った時に聖痕現象が起こるようなら、二人とも生まれ変わりだろう、と話した医師。
(ぼくは、ミュウの長だったソルジャー・ブルーで…)
医師の従兄弟は、キャプテン・ハーレイ。
そういう二人が再会するかもしれませんね、と聞かされた話。
半信半疑で聞いていたものの、考えるほどに恐ろしくなった。
自分が自分でなくなるだなんて。
「ソルジャー・ブルー」になってしまうだなんて、恐ろしいだけ。
今の自分がいなくなるなど、想像したくもなかったから。
(…ホントのホントに、怖かったんだよ…)
間違いであって欲しいと思った、聖痕現象。
生まれ変わりだという話。
(でも、それっきり血は出なくなって…)
自分でも忘れかかっていた頃、教室に「ハーレイ」が現れた。
忘れもしない五月の三日に、新しい古典の教師として。
前の学校に欠員が出たせいで、予定よりも遅れて着任して。
(ハーレイが入って来た途端に…)
ズキンと痛んだ右目の奥。
血の色の涙が溢れ出したけれど、右目だけでは済まなかった。
両方の肩に走った激痛、左の脇腹も銃で撃たれたかのように…。
(物凄く痛くて、気が遠くなって…)
スローモーションのように倒れ込んだ床。
そういった時は、時間の流れを、とても長く感じるものだから。
(床に倒れてたら、ハーレイが来て…)
強い腕で抱き起された瞬間、忘れていた「全て」を思い出した。
遠く遥かな時の彼方で、自分は何と呼ばれていたのか。
ハーレイは、自分の「何」だったのかを。
膨大な量の記憶が交差し、絡み合うように混じったハーレイの「想い」。
前の生で誰よりも愛した恋人、その人と巡り会えたと分かった。
もう会えないと思ったのに。
メギドで命を終えた時には、「ハーレイとの絆が切れてしまった」と泣いたのに。
最後まで持っていたいと願った、ハーレイの温もりを失くしたから。
右手が冷たく凍えてしまって、温もりは二度と戻って来てはくれなかったから。
右目の痛みは、「ハーレイ」を連れて来てくれた。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
気絶するほどだった酷い痛みも、「そのため」だと思えば苦にもならない。
あれに比べれば、目の中にゴミが入ったくらいは…。
(痛いなんて言ったら、神様に叱られちゃうかもね?)
でも痛いものは痛いんだよ、と触れてみる右目。
前の生の最後に、キースの銃で砕かれてしまった瞳の場所を。
(……ハーレイ、今でも怒ってるんだよ……)
「ソルジャー・ブルー」を撃ったキースを。
許す気などは全く無くて、「キース」という名の朝顔さえも憎むほど。
「キース・アニアン」と名付けられた品種の、秋になっても咲く朝顔を。
(…道路まで蔓を伸ばして来たなら、花を八つ裂き…)
そんなことまで口にしていた。
本気で八つ裂きにするかはともかく、「キース嫌い」に間違いはない。
(…キースがいなくて良かったよね…)
クラスメイトの中の誰かが、偶然、キースに似ていただとか。
学校の先生たちの一人が、生まれ変わりかと思うくらいにそっくりだとか。
(……うーん……)
そうなっていたら、どうだったのかな、と考えてみる。
周りに「キースにそっくりな人」が、いたならば、と。
(…ぼくの聖痕……)
ハーレイは「事故だ」と思ったらしくて、肝を潰したと聞かされた。
あの時、交差した記憶の中には、「メギドでのこと」は無かったらしい。
後になってから話して聞かせたせいで、ハーレイの「キース嫌い」は悪化した。
前の生でも憎んではいても、今よりは遥かにマシだったという。
(…ぼくとハーレイが再会した場所、ぼくの教室だったから…)
キースに似ている人はいなくて、メギドでの記憶も伝わらなかった。
けれども、何処かの街角などでバッタリ再会していたら。
「大丈夫ですか!?」と取り囲む人々の中に、「キースに似た人」がいたならば…。
(…メギドのこと、思い出しちゃって…)
ハーレイの心にも「それ」が伝わり、キースへの憎しみが噴き上げたろうか。
偶然、その場に居合わせた人は、「キース」とは全く違っていても。
他人の空似で似ているだけの、赤の他人に過ぎなくても。
(……まさかね?)
いきなり殴りはしないと思う。
何処の誰かも尋ねもしないで、「貴様!」と怒鳴って、掴みかかることも。
(…でも……)
きっと不機嫌にはなることだろう。
「キースに良く似た誰か」が進んで、応急手当てをしてくれても。
救急車を呼びに全力で走って、息を切らして戻って来ても。
どんなに「いい人」で「優しい人」でも、「キースを思い出させる」から。
「こいつが、ブルーを撃ったんだ」と、憎む心が生まれるから。
(……再会の場所って……)
大事だよね、と零れた溜息。
学校の教室で再会したから、とても平和に流れた時間。
ハーレイにとっては「気が気ではない」時間でも。
「もう一度、ブルーを喪うのでは」と、生きた心地もしていなくても。
(…救急車の中で、ぼくに「頑張れ」って…)
手を握り締めて、何度も叫んでいたらしいハーレイ。
けれど、「そのこと」に専念できた。
憎いキースを恨む代わりに、「恋人の無事」だけを祈って。
再会した場所に「キース」そっくりの人が一人もいなかったから。
救急車を見送る先生の中にも、「そっくりさん」は誰もいなかったから。
(…繁華街とかだったら、危なかったかも…)
人が大勢行き交う場所なら、「キース似の人」もいるかもしれない。
キース似の人が手を貸してくれても、ハーレイは嬉しくなかっただろう。
「なんだって、こいつに助けられねばならんのだ!」と。
他人なのだと分かっていたって、救急車の中でも、イライラとして。
(……八つ当たり……)
朝顔の「キース・アニアン」にだって、八つ当たりするのが今のハーレイ。
だから教室で良かったと思う、再会の場所。
其処に「キース」はいなかったから。
せっかく巡り会えた感動の場所に、苛立ちが生まれはしなかったから…。
再会の場所って・了
※もしもハーレイ先生と再会した場所に、キース似の人がいたならば…。大変だったかも?
ブルー君の考え、間違っていないかもしれません。朝顔の話は『秋の朝顔』からです。
(……あの時は、ビックリしたんだよなあ……)
その後は、もっと驚いたんだが、とハーレイが思い出したこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
十四歳にしかならないブルー。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた、愛おしい人。
今では「いる」のが当たり前になって、今日のように残念な日だって多い。
仕事が早く終わっていたなら、ブルーの家に行けただろう。
夕食までの時間をブルーの部屋で過ごして、二人きりでお茶を楽しんで。
(しかし、毎日、そうはいかんし…)
ブルーには学校で会えただけでも良しとしよう、と考える。
学校の廊下でバッタリ出会って、「ハーレイ先生!」と呼ばれたから。
ペコリと頭を下げたブルーに、「元気そうだな」と言ってやることが出来たから。
(……その学校で、あいつと再会したんだ……)
あれは五月の三日だった、と今でも忘れない日付。
転任することが決まっていたのに、前の学校で出た急な欠員。
(…それで着任が遅れちまって…)
ブルーのクラスを担当していた古典の教師と交代したのが、五月の三日。
名簿には目を通してはいても、ピンと来なかったブルーの名前。
(珍しくはない名前だしな?)
今の時代は、大英雄になった「ソルジャー・ブルー」。
ミュウの時代の始まりの人で、初代のソルジャー。
それだけに、子供に「ブルー」と名付ける親たちは多い。
まるで全く似ていなくても。
アルビノどころか、銀色の髪さえ持っていなくても。
(…今じゃ、すっかり忘れちまったが…)
多分、「このクラスにも、ブルーがいるんだな」と思った程度だっただろう。
それがブルーだとも知らず。
前の生から愛し続けた、大切な人の名だとも知らず。
そうして入った、ブルーのクラス。
初めて足を踏み入れた場所で、初っ端から酷く驚かされた。
心臓が止まるかと思うくらいに、それは激しい衝撃を受けて。
(悪戯されたわけじゃなくて、だ…)
ヤンチャな生徒が仕掛ける悪戯、新しく受け持つクラスなどでは、よくある話。
けれど、悪戯などでは無かった。
教室に入って目が合った途端、ブルーの瞳から溢れた鮮血。
右の瞳から血の色をした涙が流れて、両肩からも真っ赤な血が噴き出した。
その上、左の脇腹からも。
(…どれも、前のあいつがキースの野郎に撃たれた場所で…)
いわゆる聖痕現象だけれど、そんなこととは、まだ知らなかった。
咄嗟に「事故だ」と思った出血。
倒れたブルーに慌てて駆け寄り、抱き起こした時に、戻った記憶。
ブルーの記憶と絡み合うように交差しながら、膨大な量の「前の自分」のものが。
(…俺は他人の空似じゃなくて…)
若い頃からよく言われていた、「キャプテン・ハーレイの生まれ変わりか?」という言葉。
「そんなわけがない」と笑い飛ばして、今の年まで生きて来た。
正確に言えば、今より一歳、若かったけれど。
まだ誕生日を迎えていなくて、三十七歳だったから。
それまでの間に、何度聞いたか数えてもいない「生まれ変わりか?」。
その度に「違う」と答え続けて、自分でもそうだと信じていて…。
(…だが、本当は、そうじゃなかったんだ…)
ブルーと再会を遂げて、分かった。
今の自分に生まれる前には、誰だったのか。
大怪我をして床に倒れた生徒は、前の自分の何だったのかも。
(…本当に怪我だと思ってたしな…)
記憶が戻って来たせいもあって、半ばパニックに近かった。
「またしても、ブルーを失うのでは」と、大量の出血に凍えた背筋。
いくら医療が発達していても、今の時代も、事故で喪われる命はあるから。
(誰か救急車を呼んでくれ、と叫ぶしかなくて…)
その声で駆け出して行った生徒は、保健委員だと頭の何処かで思った。
血まみれのブルーを抱えながら。
「保健委員」の生徒の役目は、何処の学校でも同じだから。
(……それから後は、俺も必死で……)
ただ懸命に祈り続けた。
愛おしい人が助かるように。
せっかく出会えたブルーの命が、儚く消えてしまわないように。
(居合わせた教師が、俺だったから…)
救急車に一緒に乗って行っても、誰も変だと思いはしない。
むしろ教師として当然の務め、行かずに残る方がおかしい。
ブルーを乗せた担架が救急車に運び込まれる時、駆け付けて来たブルーの担任の教師。
「よろしくお願いします」と深く頭を下げられた。
クラスの騒ぎは鎮めておくから、ブルーの付き添いをよろしく頼む、と。
(…願ったり、叶ったりというヤツなんだが…)
自分の本音は顔にも出さずに、「分かりました」と乗り込んで行った救急車。
サイレンを鳴らして走り出してからも、途方もなく長く感じた時間。
「早く病院に着いてくれ」と。
一刻も早く治療を始めて、愛おしい人を助けてくれ、と。
救急車が病院に着いた後にも、時間は長いままだった。
ブルーの担架が運ばれて行った、扉の向こう。
そこで治療が進んでいるのか、それとも既に手遅れになって…。
(…少しでも長く、命があるようにと…)
沢山のチューブや酸素マスクに繋がれ、「生きているだけ」のブルーがいるのか。
それさえ外では分からないから、待つことだけしか出来なかった。
「助かってくれ」と祈りながら。
「俺のブルーを、死の国に連れて行かないでくれ」と。
(……俺の寿命が縮みそうな時間だったよな……)
実際、そうも考えていた。
「俺の寿命を、ブルーに分けてやってくれ」と。
愛おしい人を救うためなら、何十年でも、何百年でもかまわないから。
(…しかしだ……)
扉の向こうから出て来た医師に、「心配は無い」と告げられた。
ブルーの身体に傷などは無くて、大量の出血は聖痕現象。
そう聞かされてホッとした後、同じ医師から「こっちの部屋へ」と連れてゆかれた。
白衣を着ている、従兄弟の医師に。
数日前にブルーを診察していた、主治医とも言える人物に。
(…お前は、キャプテン・ハーレイなのか、と…)
従兄弟の医師は切り出した。
二人きりの部屋で、声を潜めて。
「お前の前世は、キャプテン・ハーレイ。あの子はソルジャー・ブルーだろう」と。
(…何も間違ってはいないしな?)
素直に「ああ」と頷いた。
「どうやら、本当に生まれ変わりというヤツらしい」と。
(…あいつがブルーの主治医だったから…)
今も秘密は守られている。
「生まれ変わり」のことは、たった三人しか知る者はいない。
ブルーの主治医と、ブルーの両親。
お蔭で今でも、それは穏やかな日々が続いているけれど…。
(俺とブルーが再会した場所が、もしも教室じゃなかったら…)
事情は違ったのかもしれない。
繁華街などで、バッタリ出会っていたならば…。
(保健委員の代わりに、野次馬…)
たちまち騒ぎに取り囲まれて、救急車を呼びに走る者だけでは済まなかったろう。
「事故だ」と通報しに行く者やら、運が悪ければ新聞記者なども…。
(…事故の取材をしに来ちまって…)
病院にまでも来たかもしれない。
そうなっていたら、秘密を守ることが出来たかどうか。
ブルーの主治医が黙っていたって、勝手な説が飛び交って。
ああだこうだと、推測する者が出始めて。
(…俺の方だと、大人でガードが固いから…)
十四歳にしかならないブルーが、マスコミに追われていたかもしれない。
学校の帰りに取っ捕まって、「君は、ソルジャー・ブルーなの?」などと。
特にマイクを向けられなくても、今のブルーは、サイオンが上手く扱えない。
心の中身は零れ放題、「どうしよう?」などと動揺したら…。
(…記者に筒抜けになっちまうんだ…)
ソルジャー・ブルーの生まれ変わりであることが。
今ではチビの子供だけれども、偉大な英雄、それに歴史の生き証人だと。
(…うん、学校で良かったな…)
ブルーの教室で実に良かった、と改めて思う。
小さなブルーとまた巡り会えた、再会の場所は。
ブルーと自分の記憶が戻って、前の生での恋の続きが始まった場所は。
もしも教室と違っていたなら、全てが違ったかもしれないから。
穏やかな日々が流れる代わりに、毎日、毎日、取材ばかりだったかもしれないから。
(…神様の計らいに感謝せんとな)
再会の場所は、あの教室に限るんだ、と傾けるカップ。
ブルーとの日々を、大切に過ごしてゆきたいから。
ただの教師と生徒でいいから、取材なんかは御免だから…。
再会の場所は・了
※ハーレイ先生とブルー君が再会した場所。学校の教室だったんですけれど…。
もしも違う場所で再会していたら、取材に追われる日々だったかも。教室で良かったですねv
(……地球だよね……)
地球なんだよね、と小さなブルーが思ったこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今の自分は「地球」の住人。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が焦がれ続けた夢の星、地球。
気付いたら、其処で暮らしていた。
すっかり小さな子供になって、血の繋がった両親までがいて。
その上、再び出会えたハーレイ。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた、愛おしい人。
もう会えないと思ったのに。
ハーレイとの絆は切れてしまって、それっきりになる筈だったのに。
(…ぼくの手…)
前の生の最後に凍えた右の手。
最後まで持っていたいと願った、ハーレイの温もりを落として、失くして。
キースに撃たれた酷い痛みが、大切な温もりを消してしまって。
(……あの時、メギドで……)
命の灯が消えてゆく時、想っていたのはハーレイのこと。
「ハーレイとの絆が切れてしまった」と、泣きじゃくりながら。
二度と会えない人を想って、それでも最期まで祈り続けた。
白いシャングリラが、無事に地球まで辿り着けるよう。
ミュウの仲間を乗せた箱舟、白い鯨が夢の星まで行けるようにと。
それが「自分」の最期の願い。
命の終わりに祈ったこと。
「どうか、地球まで」と、仲間たちのことを。
その仲間たちを乗せている船、シャングリラを預かる恋人の無事を。
そうして終わった、前の生。
メギドの爆発に巻き込まれたのか、それよりも前に命尽きていたか。
自分でも、まるで思い出せない。
深い悲しみに沈んでいたから、それどころではなくて。
「ハーレイの温もりを失くしてしまった」と、自分のことだけで精一杯で。
(……それでも、船のみんなの幸せ……)
それを祈れたのは、流石だと思う。
三百年以上もの長い年月、「ソルジャー」だったからこそだろう。
今の小さなチビの自分には、逆立ちしたって出来ないから。
「ハーレイに会えなくなっちゃった」と泣き叫ぶだけで、滝のように涙が溢れるだけで。
(…前のぼくは、大英雄だから……)
そう呼ばれている「ソルジャー・ブルー」。
ミュウの歴史の始まりの人で、とても偉大なソルジャーだった、と。
それだけのことはあったのだろう、と自分でも分かる「前の自分」の強さ。
今の自分は「持っていない」もの、とても敵いはしないもの。
けれど、自分は地球まで来た。
前の自分は夢に見るだけで、最後まで辿り着けなかった星に。
青く輝く水の星まで、気の遠くなるような時を飛び越えて。
十四歳の「地球の住人」になって、ハーレイとも再び巡り会えて。
(……ズルをして、地球に着いちゃった……)
神様の御褒美なんだけどね、と右手でそっと右目を覆ってみる。
ほんの一瞬、ふうわりと。
前の生の最後に砕けてしまった、赤い瞳があった所に。
(キースが、最後に撃ち込んだ弾……)
それが砕いた、前の自分の右の瞳。
視界が赤く染まった時には、もうハーレイの温もりは消えていたろうか。
あるいは瞳が砕けた瞬間、儚く消えていったのだろうか。
(……分かんないよね……)
メギドを沈めることだけが目当て、そういう「時」が流れる中では。
目の前のキースに邪魔をされずに、忌まわしい兵器を破壊しようとしていたから。
(自分のことなんか、後回しで…)
何も考えずに戦い続けて、気付いた時には「無かった」温もり。
右手から消えて失せてしまって、もう欠片さえも。
ハーレイの腕に最後に触れた時から、しっかりと持っていた筈なのに。
深い悲しみと、それから絶望。
底さえ見えない闇の淵に落ちて、次に瞳が開いた時には…。
(……右目から、赤い血の涙……)
前の自分の涙の代わりに、赤い鮮血が滴り落ちた。
少し前から、その兆候はあったのだけれど。
(…病院に連れて行かれちゃって…)
検査をされて、「異常なし」だと言われた右目。
それが「ハーレイ」と出会った途端に、血の色の涙を溢れさせた。
両の肩からも、左の脇腹からも、流れ出した血。
「前の自分」がキースに撃たれた、傷そのままに。
身体には何の傷も無いのに、まるで大怪我をしたかのように。
「聖痕」と診断されている「それ」は、神が与えてくれたもの。
またハーレイに会えるようにと、この身に深く刻み込んで。
前の自分が英雄だったから、今の自分は地球に来られた。
夢だった星に、ハーレイと二人で生まれて来て。
青い地球の上で生まれ育った、十四歳の少年になって。
(…シャングリラのみんなは、青い地球には…)
行けずに終わっちゃったんだよ、と「今の自分」は知っている。
シャングリラは地球まで行ったけれども、「青い星」は何処にも無かったから。
青い地球が浮かんでいる筈の座標、其処に在ったのは死の星だった。
赤黒い星に見えたくらいに、赤茶けた砂漠に覆われて。
地上の七割を占めている海は、毒素を含んで死に絶えたままで。
(……前のぼくは、何も知らなくて……)
だから最後まで夢を見ていた。
「地球を見たかった」と、涙したほどに。
船の仲間を守るためには、夢は捨てねばならないものでも。
「ソルジャーの務め」を果たすためには、地球は諦める他は無くても。
(…せっかく、ナスカまで行けたのに…)
思いがけなく長生きが出来て、地球までの旅路の途中で目覚めた。
そのまま船に乗っていたなら、いつか地球まで着けそうな旅。
(……だけど、その旅……)
自分が座して「何もしなければ」、ナスカで終わってしまうのだろう。
「地球の男」が戻って来たなら、きっと船ごと沈められて。
それならば、夢は捨てねばならない。
どれほど「地球」を見たくても。
「いつか肉眼で見たい」と焦がれ続けた、夢の星が旅の先に在っても。
そう思ったから、シャングリラを後に飛び立った。
「皆が、地球まで行けるように」と。
自分の夢は叶わなくても、仲間たちの未来を切り拓かねば、と。
(…前のぼくの夢は、其処で終わって…)
それきりになる筈だった。
ハーレイとの絆も切れてしまって、独りぼっちになってしまって。
けれども、夢は終わらなかった。
終わるどころか、思いがけない「続き」があった。
知らない間に「地球」に来ていて。
ハーレイまでが「地球」に生まれて来ていて、また巡り会えて。
(…地球を一目でも見られたら…)
もうそれだけで充分なのだ、と前の自分は思っていた。
幾つもの夢を抱いていた星には、「もう行けない」と悟った時に。
寿命の終わりが見えて来た時、地球への旅は始まってさえもいなかったから。
(…ハーレイと、地球でやりたかったこと…)
本当に幾つもあったのだけれど、それは諦めて「見たい」とだけ。
青い水の星を一目見られたら、夢は叶ったと言えるのだろう、と。
(だけど、終わらなかったんだよ…)
終わりなんかじゃなかったんだよ、と今だから分かる。
夢の終点ではなかった「地球」。
銀河の海に青く輝く、一粒の真珠。
蘇った青い水の星の上で、夢は今でも続いている。
前の自分が夢見たものより、ずっと大きく、果てしなくなって。
尽きることなく広がり続けて、どんどんと夢が増え続けて。
(……今度は、結婚出来るんだから……)
ハーレイの「お嫁さん」になれるんだから、と胸が温かくなる。
いつか迎える結婚式の日、それが「一番、大きな夢」。
とはいえ、「今の時点で」のこと。
結婚式を挙げた後には、また次の夢があることだろう。
「これが一番、大きな夢だよ」と思えることが。
夢が叶う日を指折り数えて、未来に向かって首を長くして「待つ」何かが。
(……それって、どんな夢なのかな?)
夢は一杯あるんだけどな…、と考えてみる。
今のハーレイと約束したこと、「青い地球の上で」叶える夢の数々。
前の生で交わした約束もあれば、新しく交わした約束だって。
(…五月一日に、森のスズランを摘みに行くのも…)
ヒマラヤの青いケシを見に出掛けるのも、前の生から続く約束。
それらは全て叶うのだろう。
前の生では「何処にも無かった」、青い地球の上で。
蘇った青い水の星の上で、ハーレイと叶えてゆけるのだろう。
他にも「今だからこそ」の夢。
幾つも幾つも交わした約束、これからも、きっと増えてゆくから…。
(……地球に着いたって……)
ぼくの夢、少しも終わらないよね、と浮かべた笑み。
前の自分が「夢にも思わなかったこと」。
一目だけでも地球を見られたら、それだけでいいとまで考えて。
「それで充分だ」と思っていたのに、尽きるともさえ思えない夢。
青い地球まで、やって来たから。
ハーレイと二人で、幸せに生きてゆけるのだから。
まずは最初の夢を叶える。
今の自分の「一番、大きな夢」を、この地球の上で。
ハーレイとの結婚式を迎えて、幸せな誓いのキスを交わして…。
地球に着いたって・了
※前のブルーの夢は「地球に行くこと」。寿命の終わりを悟ってからは、一目、見ること。
けれども「地球に着いた」今でも、夢は終わりではないのです。まだまだ、これからv
(……此処は地球だな……)
今の俺は地球にいるんだっけな、とハーレイがふと思ったこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
信じられない話だけれども、「今の自分」は地球の住人。
気が遠くなるほどの長い時を飛び越え、この青い星に生まれて来た。
やはり同じに生まれ変わった、愛おしい人と。
前の生から愛し続けた、今はチビになったブルーと共に。
何度も幸せを噛み締めたけれど、奇跡に感謝してきたけれど…。
(…その地球ってヤツが…)
前の俺たちの夢だっけな、と改めて心に描いてみる。
白いシャングリラで、改造前の船で、ブルーと二人で夢に見た星。
いつか必ず地球に行こうと、母なる星に辿り着くのだと。
(……しかし、あいつは死んじまって……)
前の自分だけが地球まで旅をして行った。
ブルーが遺した言葉を守って、白いシャングリラの舵を握って。
(…なのに、俺たちが辿り着いた星は…)
青く輝いてはいなかった。
銀河の海に浮かんでいる筈の、一粒の真珠。
誰もが憧れる水の星、地球。
その星は醜く死に絶えたままで、不吉なくらいに赤黒かった。
地球は、ブルーの夢だったのに。
前の自分も、船の仲間たちも、夢の星だと信じていたのに。
(……夢が粉々に砕けちまって……)
まだ若かったジョミーさえもが、スクリーンに映った地球を眺めて叫んだ。
古株だった長老たちも、涙した地球。
「こんな星のために、自分たちは戦い続けたのか」と。
美しい星だと信じていたから、長く厳しい地球までの道を切り開いたのに。
そうやって砕け散った夢。
前の生では、ついに出会えなかった地球。
夢に見ていた姿では。
フィシスの心に刷り込まれていた、青く澄んだ海は何処にも無くて。
(…その地球に、俺は来たわけで…)
今では地球の住人なんだ、と部屋をぐるりと見渡してみる。
書斎に窓は無いのだけれども、この家が在るのは間違いなく地球。
床の下にあるのは地球の地面で、地球の重力が作用している。
家を丸ごと包む大気も、地球の大気圏が作り出すもの。
(……夢の星まで来ちまったんだなあ……)
本当の意味で「夢」だったよな、と前の生での地球の姿を思う。
広い宇宙の何処を探しても、「青い地球」など無かったから。
青い水の星は夢でしかなくて、誰も見ることは出来なかったから。
(…前の俺は、其処で死んだんだがな…)
どういうわけだか、此処にいるな、とカップを持つ手をしみじみと見る。
前の生とそっくり同じ姿で、地球に生まれて来た「自分」を。
夢だった星に生まれ変わって、当たり前に「地球」に生きている「今」を。
(地球といえば夢で、本当に夢で終わっちまって…)
青い地球なんかは無かったからな、と赤茶けていた星を思い出す。
赤黒いとさえ見えたくらいに、砂漠と毒の海に覆われた地球を。
前の自分が知っていたのは、そういう地球。
「ブルーの夢まで砕けちまった」と、どれほど悲しかっただろう。
命を捨ててメギドを沈めた、前のブルー。
白いシャングリラが地球に行けるよう、たった一人で飛び去って行って。
自分は地球を見られなくても、船の仲間たちは行けるようにと。
(…あいつに、なんて説明すればいいんだ、って…)
そう思ったのを覚えている。
地球に着いたら、それで終わる役目。
ブルーの許へと旅立てるのだと、死だけを願って生きていた日々。
けれども、地球で待っていたのは「醜い星」。
ブルーが命を懸ける値打ちは、まるで何処にも無かったような。
(……SD体制を倒すためには、地球に行くしか無かったんだが……)
そうだと頭で分かってはいても、感情がついていかなかった。
「こんな星のために、ブルーは死んだのか」と。
命尽きてブルーと会えた時には、何と話せばいいのだろうか、と。
夢の星など、無かったから。
ブルーが焦がれ続けた星には、青い海さえ無かったから。
そうして前の生は終わって、気付けば地球の上にいた。
すっかり地球の暮らしに馴染んだ、今の自分が。
生まれも育ちも、この青い地球で、地球が故郷だと言える自分が。
(……俺もブルーも、青い地球に着いて……)
夢は見事に叶ったんだ、と幾度、心で呟いたろう。
今のブルーと話しただろう。
「地球に来られるとは思わなかった」と、何度も、何度も。
自分たちが地球の住人だなんて、神様がくれた御褒美なのに違いない、と。
(そうやって地球に着いたわけだが…)
夢は叶った筈なんだがな、とコーヒーのカップを傾ける。
「前の俺たちの最大の夢だ」と、時の彼方に思いを馳せて。
叶う筈もなかった、「青い地球」へと辿り着く夢。
青い地球が宇宙の何処にも無いなら、その夢は叶うわけがないから。
(…とんでもない夢が叶ったんだが…)
それ以上を望んじゃ駄目なんだがな、と思いはしても、そうはいかない。
地球に着いても、それで「終わり」ではないのが今の自分だから。
この地球は「旅の終わり」ではなくて、まだ「始まったばかり」の旅。
十四歳にしかならないブルーと、共に歩いてゆくために。
今度こそ二人、誰にも邪魔をされることなく。
(……地球に着いても、終わらないなんて……)
また途方もなくデカい夢だな、と苦笑する。
前の自分が耳にしたなら、「贅沢すぎる」と言うのだろうか。
「地球に着いたら、充分だろう」と、それ以上、何を望むのかと。
(…そうは言っても、前の俺も、だ……)
着いた後の夢は幾つもあったぞ、と折ってゆく指。
前のブルーと夢に見たこと。
「地球に着いたら、これをしよう」と。
(…五月一日に、森にスズランを摘みに行くとか…)
ヒマラヤの青いケシを見に行くだとか、幾つもあった前のブルーの夢。
ホットケーキも、その一つだった。
本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクのバター。
そういう朝食を食べてみたいと、夢見たブルー。
「地球に着いたら」と、赤い瞳を輝かせて。
(…今のあいつは、ホットケーキは食べ放題で…)
夢は叶っているわけだけれど、更に大きく広がった夢。
メープルシロップが採れる砂糖カエデの森、其処へ行こうと。
(……採れるのは、雪がある季節だから……)
その頃に二人で旅をしよう、と今のブルーは夢に見ている。
いつか二人で暮らし始めたら、砂糖カエデの森に出掛けてゆきたいと。
(…前のあいつだと、ホットケーキの朝飯だったが…)
今では砂糖カエデの森だぞ、と口に含んだコーヒー。
「他にも幾つも夢があるな」と、「あいつの夢は、終わっちゃいない」と。
憧れだった地球に着いても。
青い水の星に生まれ変わっても、夢は広がる一方なんだ、と。
まるで尽きない、ブルーの夢。
それと同じに、今の自分の夢も尽きない。
前のブルーと夢に見たこと、それを端から地球で叶えて、もっと、もっと、と。
(…あいつが幸せになってくれるんなら…)
どんな夢でも叶えたいと思うし、そのための努力は惜しまない。
この地球の上で。
前の自分が夢に見ていた、「約束の場所」に着いた今でも。
(……まさか、こうなっちまうとは……)
本当に夢にも思わなかった、と可笑しくなる。
「地球に着いても」、それで願いが叶ったことにはならないなんて。
前のブルーと交わした約束、それらを全て果たし終えても、先があるなんて。
(…流石は本物の地球、ってことか…)
奥が深いな、と浮かべた笑み。
赤黒くもさえ見えた星では、夢は広がりようもないから。
前のブルーと辿り着いても、きっと回れ右していたのだろう。
トォニィたちが、そうしたように。
「百八十度回頭」と操舵士に言って、地球を後にして旅立ったように。
(…ところが、本物の青い地球ってヤツは…)
俺たちを捕らえて離さないんだ、と今のブルーとの約束を思う。
前の生より多くなっている、「地球でやりたいこと」たちの数を。
いつか二人でやる筈のことを、旅やら、他にも様々なことを。
(……地球に着いても、夢は尽きんな……)
贅沢だよな、と思う今の自分の幸せ。
地球は終点ではないのだから。
今のブルーと歩いてゆく道、それは始まったばかりなのだから…。
地球に着いても・了
※前のハーレイの夢は「地球に着く」こと。その地球に生まれたのが、今のハーレイ。
夢は叶ったわけですけれども、それでも尽きない夢の数々。贅沢すぎる幸せ。
(……幸せだよね……)
ぼくは幸せ、と小さなブルーが浮かべた笑み。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は来てくれなかったハーレイ。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた、愛おしい人。
今は学校の教師をしていて、チビの自分は、その教え子。
学校では顔を合わせたけれども、家に寄ってはくれなかった。
仕事が早く終わった時には、帰りに訪ねて来てくれるのに。
前のハーレイのマントの色の愛車を、ガレージに停めて。
門扉の脇のチャイムを鳴らして、この部屋の窓へ手を振りながら。
(だけど、幸せ…)
ハーレイの顔は見られたもんね、と学校でのことを思い出す。
「ハーレイ先生!」と呼び掛けて、ペコンと頭を下げた。
足を止めてくれたハーレイに。
恋人らしい会話は出来ない、教師の顔をした愛おしい人に。
(…会える分だけ、幸せだもんね?)
それに、人生バラ色だもの、と小さな胸が温かくなる。
誰が言ったか、「ラヴィアンローズ」。
文字通りにバラ色の人生のことで、今の自分は「そうだ」と思う。
ハーレイとキスは出来なくても。
「俺は子供にキスはしない」と、すげなく断られてばかりの日々でも。
(……そうなっちゃうのは、ぼくがチビだからで……)
いつか大きく育った時には、もう「駄目だ」とは言われない。
前の自分と同じ姿になったなら。
「ソルジャー・ブルー」と呼ばれた頃の姿を、もう一度、手に入れたなら。
まだ遠い未来のことだけれども、その日は必ずやって来る。
十四歳にしかならない自分が、結婚できる年の十八歳を迎える頃には。
もっと早くに成長したなら、まだ学校の生徒でも…。
(……きっとキスして貰えるよね?)
ハーレイと二人でデートに行って…、と膨らむ夢。
今はデートも禁止なのだけど、ハーレイの家にも行けないけれど…。
(前のぼくと同じ背丈に育ったら…)
キスをしてやる、とハーレイは前に約束してくれた。
その約束を、ハーレイは破りはしないだろう。
学校でキスは出来なくても。
教師と教え子、その関係は、まだ続いていても。
(…学校じゃない所だったら…)
貰えるよね、と思う唇へのキス。
頬や額へのキスとは違って、恋人同士で交わされるもの。
そういったキスを、ちゃんと貰えるのに違いない。
時と場所さえ、選んだなら。
デートに出掛けた先の公園やら、ドライブの途中などだって。
(うん、ドライブにも行けるんだよ)
隣町に住む、ハーレイの両親の家にも遊びに行ける。
夏ミカンの大きな木がシンボルの、憧れの家に。
チビの自分を「新しい家族」と認めてくれている、優しい人たちが暮らしている家に。
(……行きも帰りも、ハーレイの車で……)
濃い緑色の車の助手席に乗って、隣町まで旅をする。
一度目は「紹介」して貰いに。
二回目からは、「ハーレイの未来のお嫁さん」として。
じきに「お嫁さん」になる日が来るから、十回目頃ならば、もう…。
(…新しいお父さんと、お母さん…)
そういう人たちに会いに行くことになるのだろう。
ちょっとしたお菓子なんかを手土産に持って、「パパ、ママ!」と。
(…パパとママだと、おかしいかな?)
子供っぽい響きになりそうだから、「お父さん、お母さん」の方がいいのだろうか。
「パパ、ママ」でも許してくれそうだけれど、背伸びをして。
「子供じゃないよ」と、「ハーレイのお嫁さんだもの」と。
(……どっちでもいいよね……)
大切な人たちに、呼び掛けることが出来るなら。
新しい家族になってくれた人に、会いに行くことが出来るのならば。
(…まだ先だけど…)
その日は必ず訪れるのだし、本当に幸せだと思う。
今はキスさえ貰えなくても。
ハーレイにキスを強請っては、「駄目だ」と断られても。
その度ごとにプウッと膨れて、ハーレイを睨み付けるのが常。
「ハーレイのケチ!」と、両の頬っぺたに空気を詰めて。
リスが頬袋を膨らませるように、不平と不満を一杯に詰めて。
(……リスならいいけど……)
可愛らしいと思うけれども、ハーレイは、そうは見てくれない。
プンスカ怒って膨れてやる度、「フグだな」と言われてしまう顔。
おまけに、大きな両手でペシャンと押し潰される頬。
それは可笑しそうに笑いながら。
「フグがハコフグになっちまったぞ」などと、より酷いモノを持ち出して。
リスの頬袋なら、可愛いのに。
頬っぺたを膨らませた生き物だったら、フグの他にも、ちゃんといるのに。
恋人のことを「ハコフグ」呼ばわりするハーレイ。
とても酷いと思ってはいても、ハーレイが好きでたまらない。
こうして会えずに終わった日だって、思い浮かべて微笑むほどに。
「幸せだよね」と、「ぼくの人生、バラ色だよね」と。
(……ハーレイがいてくれるから……)
君がいるから、ぼくは幸せ、と緩む頬。
どんなにケチで意地悪だろうと、ハーレイがいるから、人生、バラ色。
この先の未来も、何処までもバラ色に染まってゆく。
今よりも、もっと幸せに。
もっと遥かにバラ色になって、人生という道筋に、バラが咲き乱れて溢れるほどに。
(……バラの絨毯……)
その上を歩く、未来の自分が見えるよう。
ハーレイとしっかり手を繋いで。
香り高いバラの花の間を、一面に散り敷いた花びらの上を。
(…ハーレイにバラは似合わない、って…)
シャングリラの女性たちが、ずっと昔に笑ったけれど。
ハーレイにだけは、バラの花びらのジャムが届かなかったのだけれど…。
(……バラの花びらのジャムが、当たるクジ引き……)
女性クルーが「ジャムは如何ですか?」と抱えていた箱。
それはブリッジにも行ったけれども、ハーレイの前は素通りだった。
ゼルでさえもが、クジ引きの常連だったのに。
クジ引きの箱がやって来る度、「どれ、運試しじゃ」と手を突っ込んだのに。
(……ハーレイの前は、箱が素通り……)
誰も異論を唱えなかった。
「キャプテンは、クジ引き、しないんですか?」と尋ねる者さえもいなかった。
ハーレイにバラは似合わないから、「それでいいのだ」と皆が思って。
昔馴染みのゼルやブラウも、笑うだけで知らんぷりをして。
(…だけど、バラ色だったんだよ……)
あの頃だって、と思う人生。
ハーレイの意見は知らないけれども、きっと人生はバラ色だった。
前のハーレイと、シャングリラという船で暮らした頃は。
恋人同士になった後はもちろん、その前だって。
(……ハーレイがいてくれたから……)
どんな暮らしでも、幸せに満ちていたのだろう。
ミュウの未来を憂いていたって、悲しみが胸に満ちていたって。
「ソルジャー・ブルー」という尊称の下に隠れた、「ただのブルー」は。
(…ハーレイも、敬語だったけど…)
常に敬語で通したけれども、ちゃんと「ブルー」を見てくれていた。
ソルジャーではない、ただのブルーを。
それこそ、出会った瞬間から。
メギドの炎で燃えるアルタミラ、地獄だった星で顔を合わせた時から。
(…お前、凄いな、って…)
そう声を掛けてくれたハーレイ。
無意識の内に使ったサイオン、それでシェルターを破壊した後に。
呆然とその場に座り込んでいたら、同じシェルターに閉じ込められていたハーレイが来て。
「他にも仲間がいるだろうから、助けに行こう」と。
(……ハーレイ、怖がらなかったんだよ……)
強すぎるサイオンを持った「ブルー」を。
自分よりも遥かに年上なのだと知った後にも、「チビだからな」と守ってくれて。
身体と同じに心もチビだと、「子供だから育ててやらないと」と。
もしもハーレイがいなかったならば、どうなったろう。
アルタミラからは逃げ出せたとしても、船の仲間たちは、どうだったろう。
(…船を守れるのは、前のぼくだけだから…)
同じように「ソルジャー」と呼ばれたとしても、距離を置かれたかもしれない。
「自分たちとは、全く違う」と、気味悪いものでも見るかのように。
人類がミュウを忌み嫌ったように、ミュウの中でも同じことが起こって。
(……ハーレイの、一番古い友達……)
ハーレイがそう言って、皆に紹介してくれた。
お蔭で怖がる者はいなくて、すんなり溶け込んでゆけた船。
そのハーレイに守られながら育っていって、いつしかハーレイに恋をしていた。
恋をした後は、人生、バラ色。
メギドに向かって飛び立つ前にも、ハーレイのことを想っていた。
そう、死に瀕した瞬間でさえも。
「ハーレイの温もりを失くしてしまった」と泣きじゃくりながら。
(……本当に、君がいてくれたから……)
バラ色だったんだよ、と思う人生。
今の自分の人生もきっと、前よりもバラで一杯だろう。
ハーレイには、バラが似合わなくても。
バラの花びらで作られたジャム、それのクジ引きから外されたのがハーレイでも。
(今だって、ぼくは、君がいるから…)
とても幸せ、とハーレイの姿を思い浮かべる。
誰よりも愛おしい、大切な人を。
キスもくれないケチな恋人、「フグだな」と笑う意地悪な人を…。
君がいるから・了
※今も昔も、ハーレイがいれば、人生がバラ色なブルー君。今度は前よりバラが多くなって。
ハーレイにはバラが似合わなくても、やっぱり人生はバラ色なのですv
(本編の方では「薔薇」と書きましたが、こっちは軽めに「バラ」になりました)