(まだまだ、詰めが甘かったよな…)
この俺を甘く見るんじゃないぞ、とハーレイの顔に意地の悪い笑み。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた、コーヒー片手に。
ふと思い出した昼間の出来事。
ブルーのクラスに古典の授業で出掛けて、遭遇した珍事。
(…俺は宿題を集めただけで…)
それは、ごくごく普通のこと。
前の授業で宿題を出せば、次の時間に回収するもの。
もっとも宿題の中身によっては、もっと後になることもあるけれど。
(今日のは、1時間もあれば出来るヤツで、だ…)
翌日に回収にやって来たって、大抵の生徒は困らない筈。
家に帰って「宿題があった」と思い出して取り掛かったなら、直ぐに完成するから。
(現にだな……)
教室で「宿題を集める」と声を上げると、生徒たちはサッと用意した。
前回の授業で配ったプリント、それに対する宿題の結果を。
順に提出させたのだけれど、其処で上がった困惑の声。
とても困った顔付きをした男子生徒が、自分の席で手を挙げた。
「宿題が出来ていないんです」と。
それを聞くなり、「そうか」と重々しく頷いてやった。
「こいつが追加の宿題だからな」と、取りに来るよう促してやって。
(…そういう約束だったしな?)
宿題をやらなかった生徒は、罰に宿題を追加する。
何度も念を押してあったし、文句を言われる筋合いは無い。
ところが件の男子生徒は、泣きそうな顔で…。
(……出来なかったんです、と来たもんだ)
宿題は昨夜に仕上げる予定で、ちゃんとスケジュールを書いたメモまで。
なのに思わぬ事態が起こって、手つかずになってしまったのだ、と。
クラス中の生徒が固唾を飲んで見守る中で、彼は切々と訴えた。
「ミミちゃんが病気になったんです」と。
(…妹なのか、と訊き返したら…)
ミミちゃんというのは猫だった。
けれども彼の家族も同然、両親も可愛がっている猫。
その「ミミちゃん」が病気だというので、たちまち家中、上を下への大騒ぎ。
動物病院へ連れて行ったり、診察を終えて家に戻ってからも…。
(自分たちの食事もそっちのけで、せっせと看病……)
落ち着いた頃には、すっかり夜更けで、誰もが疲れ果てていた。
皆で黙々と遅い夕食を食べて、ミミちゃんの様子を確認してから…。
(ああ良かった、と風呂に入って…)
ベッドにもぐり込んだ頃には、日付が変わっていたという。
そんな具合だから、全く出来なかった宿題。
今日の時間割をするだけで精一杯で、古典の教科書やノートがあるのが奇跡なのだ、と。
そちらも忘れて登校したって、何の不思議も無かったのだ、とも。
(…事情を考慮して下さい、と泣き落としで…)
追加の宿題を免れようと、懸命に説明を続けた彼。
「ミミちゃん」が如何に重病だったか、大切な家族の一員なのかを。
今朝は元気になっていたから、こうして授業に出ているけれど…。
(病気が重くて死にそうだったら、学校を休んで、付きっきりで…)
ミミちゃんの看病をしていた筈だ、と彼は主張した。
そうなっていたら、宿題の提出日が今日であろうと関係無い。
授業に出席していないのだし、当然、提出義務だって無い。
追加の宿題を貰うことも無くて、何も知らずに過ごしただろう。
(でもって、例の宿題は…)
次の授業に出席した時、「遅れました」と詫びて提出。
もちろん追加の宿題は出ない。
彼は欠席していたのだから、宿題を忘れずに出しただけでも立派なもので。
(…言うことは間違っちゃいないんだがな?)
自分だって地獄の鬼ではないから、事情があったら臨機応変。
「そういうことなら、この次でいいぞ」と、無罪放免するくらいのことは、わけもない。
とはいえ、世の中、そうそう甘くは…。
(出来てないってな、生憎と)
他の生徒の手前もあるんだ、とコーヒーのカップを傾ける。
真面目に宿題をやった生徒は、きちんと評価されねばならない。
ほんの1時間で出来るものでも、仕上げるのは生徒の義務なのだから。
(…そいつをやらずに、のうのうと遊び暮らした末に…)
真っ赤な嘘で言い逃れるなど、言語道断。
しかも自分が風邪を引いたとか、腹痛だったとかなら、まだしも…。
(……猫が病気だったと、お涙頂戴……)
クラスメイトたちの同情を誘って、泣き落としという手段に出た彼。
これで追加の宿題を出せば、教師の自分が悪者にされる。
「なんて酷い」と、まず女子生徒が騒ぎ始めて。
愛猫のために頑張った彼に、罰を与えるなど、鬼の所業だと。
(そうなれば、男子も黙っちゃいないし…)
俺の人気が地に落ちるんだ、と顰めた顔。
せっかく学校で勝ち得た人気は、すっかりオシャカになるだろう。
「おい、聞いたか?」と噂がたちまち駆け巡って。
「ハーレイ先生、酷すぎるよな」と、まるで根拠の無い悪評が。
(……なにしろ、猫のミミちゃんは……)
病気なんかじゃないんだからな、とカップをカチンと指先で弾く。
宿題を忘れた男子生徒は、苦し紛れに大嘘をついた。
「こう言えば、許して貰えるだろう」と、泣き落としに出て。
きっと嘘だとバレはしないと、スラスラと嘘を並べ立てて。
それが証拠に、彼の顔色はサッと変わった。
「気の毒にな…。帰りに見舞いに寄るとしよう」と微笑んだら。
「俺が子供の頃には、おふくろが猫を飼っていたしな」と、ミミちゃんに敬意を表したら。
(…本当に修行の足りないヤツだ)
同じ嘘なら、もっとマシなのを言えばいいのに、と苦笑する。
修行を積んだ教師が見たって、「嘘かどうか」の判断に困るようなのを。
「宿題を家に忘れて来ました」という定番の方が、まだバレない。
この世の中には、本当に忘れる不幸な生徒もいるものだから。
通学鞄を逆さに振っても、「入れた筈」の宿題が出て来ない子が。
(そっちにしてれば、俺だって……)
宿題の追加を出すべきかどうか、きっと考え込んだだろう。
彼の日頃の行いなどから、総合的に判断するために。
(……しかしだな……)
あの泣き落としは頂けん、と彼に下した追加の宿題。
「特別に、これも付けてやろう」と、その場で考えた宿題もセット。
悪事を働こうとしていたのだから、相応の罰を与えなくては。
「泣き落とし」という卑怯な手段を用いた、彼に。
嘘だとバレなかった時には、「追加の宿題を出したハーレイ先生」が悪者にされる。
「猫が病気だったと言っているのに、酷すぎる」と。
きっと小さなブルーさえもが、後から責めにかかるだろう。
「どうして許してあげなかったの?」と、赤い瞳でキッと見据えて。
「酷いよ、ハーレイ!」と、正義の拳を振りかざして。
そうなっていたら、本当に目も当てられない。
生徒どころか、恋人にまで悪者にされてしまうとは。
血も涙も無い鬼教師だと、情があるとは思えない、と。
ところがどっこい、露見したのが彼の嘘。
「ハーレイ先生」が家に見舞いに来ようものなら、今度は彼が困る番。
きっと玄関を開けた家族は、とても恐縮するだろうから。
(ミミちゃんは、ピンピンしててだな…)
宿題を忘れた言い訳に使われただけで、動物病院に行ってはいない。
「泣き落とし」に出た彼はその場で、家族に叱られることだろう。
先生の手を煩わせた上に、宿題も忘れた悪人として。
場合によっては、夕食の時に、父からゲンコツを貰ったりもして。
(……本当に、あいつは馬鹿だったんだが……)
ちょっと使ってみたい気もする、と思う手段が「泣き落とし」。
彼は失敗したのだけれども、成功するなら、試してみたい。
「大の男」が「お涙頂戴」、それで解決するのなら。
頭を抱えるような難問、それがアッサリ…。
(許しますよ、と言って貰えるのなら…)
いいんだがな、と考える。
今の時点で、その難問には、まだ立ち向かっていないけれども。
立ち向かうべき時は、まだ遥か先で、欠片も見えてはいないのだけれど。
(……息子さんを、嫁に下さいと……)
ブルーの両親を泣き落とせたら、どんなにか楽なことだろう。
「嫁に欲しい」と思う気持ちに嘘は無いから、いくらでも泣ける。
結婚を許して貰えないなら、首を括って死ぬとでも。
高い崖から身を投げるとでも、底無しの沼に飛び込むとでも。
(…あいつを嫁に貰えないなら、生きていたって意味が無いからなあ…)
泣き落とせたら、どんなにいいか、と思うけれども、きっと、その手は使わない。
同じブルーを貰うのだったら、正々堂々、正面から突破したいから。
何度、門前払いを食おうと、懲りずに通い詰めるのだから…。
泣き落とせたら・了
※ハーレイ先生の授業中に起こった「泣き落とし」。宿題を忘れた男子生徒の、真っ赤な嘘。
それが切っ掛けで、使ってみたくもある「泣き落とし」。いつかブルーの両親相手にv
(ハーレイ、何をしているのかな…)
今頃は家でどうしてるかな、と小さなブルーが思ったこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は寄ってはくれなかったハーレイ。
とはいえ、学校では会えた。
挨拶出来たし、廊下で暫く立ち話だって。
(だから、会えてないわけじゃないけど…)
帰りに寄ってくれるかも、と待っていたから、少し寂しい。
「もしかしたら」と、もう来ないのが確実になるまで、何度も時計を眺めたりして。
ハーレイはきっと学校で会議か、柔道部の指導で遅くなったか。
どちらかだろうと分かってはいても、「来て欲しかったな」と零れる溜息。
ほんの他愛ないことであっても、会って話が出来たら良かった。
両親も一緒に食べる夕食、その時間だって。
(…他の先生と食事に行っちゃったとか…?)
そういう可能性もある。
同僚の教師に誘われたならば、行かねばならない時も沢山。
(そっちの方だと、まだ食べてるかな?)
遅い時間まで開けている店で、他の先生たちと賑やかに。
それとも食事の時間は終わって、お酒がメインの店に移って…。
(みんなでワイワイ…)
やってるのかも、と考えもする。
そういった店に出掛ける時には、ハーレイは「飲まない」らしいけれども。
酒を飲んだら、運転できないハーレイの愛車。
学校に置いて出掛ける代わりに、他の先生たちを乗せてゆく。
そして一滴も酒を飲まずに、帰りもやっぱり運転手。
ハーレイの家から遠い人の順に、家へと送り届ける係。
(お酒を飲むのが終わったんなら…)
もう運転しているだろう。
前のハーレイのマントの色と、そっくり同じな濃い緑色をしている車を。
どうなのかな、と眺める窓の方。
もうカーテンは閉まっているから、外は見えない。
ついでに、サイオンの目を凝らそうとしても…。
(……なんにも見えない……)
今のぼくには無理なんだよ、と悲しい気持ち。
前と同じに最強の筈の、サイオンタイプ。
人に言ったら羨ましがられる、青いサイオン・カラーの持ち主。
(……だけど、その色……)
見たいと言われても、どう頑張っても見せられない。
「タイプ・ブルー」は名前ばかりで、中身を全く伴わないから。
ほんの子供でも使える思念波、それさえも、ろくに紡げはしない。
あまりにも自分が不器用すぎて。
母でさえも、子育てで音を上げたほどに。
(…赤ちゃんのぼくが、泣いていたって…)
どうして激しく泣いているのか、母には掴めはしなかった。
普通の子ならば、漠然と伝わってくる思念。
「お腹が空いた」だとか、「もう眠い」だとか。
それさえ何も零れてこなくて、まるでお手上げだったという。
(今なら、ぼくの心の中身は、零れ放題なんだけど…)
赤ん坊の思考は、完成されてはいないもの。
だから零れても意味が無かった。
思念波と思考は、少しばかり違うものだから。
赤ん坊が「これが欲しい」と訴える手段は、まだ弱々しい思念波だから。
(……うーん……)
本当に駄目になっちゃった、と自分でも情けないサイオン。
前の自分なら、自由自在に使いこなせていたというのに。
今、ハーレイが何処にいようが、一瞬で…。
(場所を掴んで、何をしてるかも直ぐに分かって…)
きっと満足したことだろう。
他の先生たちと食事していても、「楽しそうだよね」と微笑んで。
いつか自分が大きくなったら、一緒に食事に行こうと夢見て。
(…それさえ、分からないんだよ…)
ハーレイが家で過ごしているのか、外にいるのかも。
家にいるなら、この時間なら書斎だろうか。
(晩御飯の後には、書斎でコーヒー…)
それが好きだと聞いている。
今夜も、そちらの方かもしれない。
(そっちだったら、前のぼくなら…)
思念を飛ばして、あれこれ話が出来ただろう。
今の自分には、逆立ちしたって無理なのだけれど。
(……それに、思念波……)
普段の暮らしでは使わないのが、今の時代のマナーの一つ。
サイオンも同じ。
おまけに、通信機というものがあっても…。
(…夜遅い時間に連絡するのは…)
やっぱり社会のマナーに反する。
他所の家に通信を入れるのだったら、早すぎも遅すぎもしない時間に。
急ぎの用なら、それ以外でも許されるけれど。
(……ずっと昔は……)
人間が辛うじて月まで行けた程度の頃には、違ったという。
誰もが、いつでも、持ち歩いていた小さな通信機。
それを使って二十四時間、何処の誰とでも連絡が取れた。
地球の上なら、それこそ裏側にいる人とでも。
時差などはまるで気にすることなく、飛び交ったという数多の通信。
(…それがあったら…)
今、ハーレイに連絡をしたら、直ぐに返事が返るのだろう。
「何処にいるの?」と訊いたら、「家だ」とか、「店にいるぞ」だとか。
そして食事をしているのならば、料理の写真も届いた筈。
「もう半分ほど食っちまったが…」だとか、「美味いんだぞ」とか。
(……その通信機……)
とても欲しいと思うけれども、二度と作られることはない。
人間がそれを作った結果が、地球の滅びに繋がったから。
いつでも何処でも繋がる世界は、文明を発展させた挙句に、地球を殺した。
その上、便利だった機械は…。
(……地球の地下に作られた、グランド・マザーと……)
宇宙に広がるマザー・ネットワーク、それへと転用されてしまった。
人間が便利に使うものから、人間を支配するものへと。
出産さえも機械が支配し、コントロールしたSD体制の時代。
その恐ろしさを経験したのが、ミュウという種族。
SD体制の中で行われた、壮大な実験に耐えて生き残った新人類。
「過ちは、二度と繰り返すまい」と、幾つもの禁止事項が生まれた。
地球が燃え上がって、SD体制が崩れ去った後に。
気が遠くなるほど長い時を経て、青い水の星が蘇るまでに。
前の自分が生きた時代は、SD体制の末期に当たる。
(……今の世界の始まりの、大英雄……)
そう呼ばれるのがソルジャー・ブルー。
偉大な初代のミュウたちの長。
(ソルジャー・ブルーは、ぼくなんだから…)
命を懸けてSD体制と戦い続けて、最後はメギドを沈めて死んだ。
ミュウの未来を、白いシャングリラを守るためにと。
ハーレイとの絆が切れてしまったと、泣きじゃくりながら。
温もりを失くして凍えた右手を、最期まで嘆き悲しみながら。
(…そのぼくが、禁止されてる機械を…)
欲しがったりしては駄目だろう。
いくらハーレイと話がしたくて、今の様子を知りたくても。
どんなに便利な機械だろうと、それは昔に悲劇を招いた物なのだから。
(…生まれ変わったのが、今の時代じゃなくって…)
昔だったなら、良かっただろうか。
そういう機械が何処にでもあって、地球が滅びてはいなかった時代。
滅びに向かっていたと言っても、まだまだ余裕があった時代に。
(…それなら、ハーレイに連絡するのも…)
簡単だろうし、同じに青い地球の上でもある。
今よりも、自然が少なくても。
一度滅びた後の地球の方が、ずっと緑が多いとしても。
(……生まれ変わるのは、未来でないと駄目なのかな?)
昔に行くのは無理なのかな、と考えてみる。
時間旅行は出来ないけれども、生まれ変わりは神の管轄だから…。
(昔にだって、行けるのかもね?)
ハーレイと二人で、時を飛び越えて。
今よりもずっと遠い昔に、人類が地球しか知らなかった頃へと。
(生まれ変わるのが、昔だったなら……)
何処がいいかな、と傾げた首。
二十四時間、繋がっていられる機械のある時代も良さそうだけれど…。
(もっと昔の方がいいかな?)
豊かな自然が溢れた地球。
自動車さえも無いような昔。
(……自転車も無くて、車と言ったら……)
牛車だった時代が素敵だろうか。
今のハーレイが授業で教える、古典の世界。
(…合戦なんかは怖いから…)
日本が一番平和だったという、平安時代がいいかもしれない。
戦いが皆無だったわけではなくても、僻地の方で起こっていただけ。
(その頃の、都……)
其処に生まれて、ハーレイと出会う。
聖痕は時代にそぐわないから、他の何かが切っ掛けになって。
(不自由なく暮らすなら、貴族なんだけど…)
立派な御殿もいいのだけれども、鄙びた田舎暮らしもいい。
生きてゆくのに困らないなら、とても小さな家だって。
(ハーレイなら、きっと、村一番の働き者で…)
ひ弱なチビの子供の恋人のことも、大切にしてくれるだろう。
自分の畑で採れた野菜を「美味いんだぞ」と届けてくれて。
あの時代ならば貴重な米さえ、食べさせてくれるかもしれない。
「正月くらいは餅もいいだろ?」と。
風邪で寝込んでしまった時には、薬草を採って来たりもして。
(うん、いいかも…)
今の時代も素晴らしいけれど、遥かな昔の地球だって、いい。
ハーレイと生きてゆけるのならば。
たとえ貧しい暮らしであっても、二人、一緒にいられるのなら。
(…だけど、サイオンだけは欲しいな…)
長い時間を共に生きられる、長い寿命と、年を取らない身体は欲しい。
他には何も要らないから。
ハーレイが側にいてくれるならば、欲しいものなど、何も無いから。
(それくらい昔だったなら…)
通信機さえも無いのだけれども、きっと幸せに生きられるだろう。
愛おしい人と一緒だから。
前の生で最後まで焦がれ続けた、青い水の星の上なのだから…。
昔だったなら・了
※ハーレイ先生と生まれ変わった先が、今よりも昔だったなら、と考え始めたブルー君。
田舎で貧しい暮らしであっても、ハーレイ先生がいれば幸せなのです。それと長い寿命v
(……今日も一日、終わったってな)
何事もなく、とハーレイが傾ける愛用のマグカップ。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
たっぷりと淹れた熱いコーヒー、それが一日の締めくくり。
飲みながら読書をするのもいいし、のんびりと考え事もいい。
(…あいつの家には、寄り損なったが…)
それを除けば、いい日だったと言えるだろう。
学校では、ちゃんとブルーに会えたし、立ち話だって少しは出来た。
懸命に敬語で話すブルーと、学校の廊下で向かい合わせで。
(明日は、あいつの家に寄れるといいんだがなあ…)
今の所は特に予定も無いから、おそらく時間はあるだろう。
急な会議が入ってしまえば、その時は仕方ないのだけれど。
(…こればっかりは、明日、行ってみないと…)
分からないしな、と思う学校の中の細かな出来事。
思念波を日常生活で使っていたなら、連絡がヒョイと入りそうでも…。
(生憎と、今はそういう時代じゃないんだ)
普段の暮らしで思念波を使うのは、マナー違反。
親しい家族や友達だったら、もちろん使ってかまわなくても。
(…ついでに、深夜に連絡するのも…)
今の時代はマナー違反になっている。
緊急の用事などを除けば、夜に通信機が鳴ることは無い。
離れた地域で暮らす親戚などでも、時差を考えて連絡するもの。
やむを得ず夜遅くなってしまったら、一言、挨拶しなければ。
「こんな時間にすみません」と、お詫びの言葉を。
夜はゆっくり眠る時間で、夜更かししている人にしたって…。
(……昔と違って、誰かと夜通し……)
通信機などの機械を使って、繋がるような時代ではない。
遥か昔は、そういう時代が人の歴史にあったけれども。
地球が滅びるよりも前には、それが当たり前の社会が存在したけれど。
人類文明の進歩とは逆に、滅びへの道を辿った地球。
緑が自然に育たなくなって、海からは魚影が消えていって。
大気はすっかり汚染されてしまい、地下には分解不可能な毒素。
滅びゆく地球を救う手立ては、もう、人類には何も無かった。
人類そのものが「変わる」他には。
地球を滅びに導いた種族、それを改革する以外には。
(……それがSD体制なんだ……)
完全な生命管理の社会。
人を人とも思わぬ機械が統治していた、忌まわしい時代。
(前の俺たちが、そいつを壊して…)
赤黒い死の星のままだった地球も、機械と一緒に燃え上がった。
そうして全てが焼き尽くされた後に、再び青く蘇った地球。
宇宙はミュウの時代を迎えていたのだけれども、彼らは英断を下していた。
人類の過ちは、繰り返さないと。
文明はとても便利だけれども、きちんと考えて使うべきだと。
だから失われた、常に繋がっているようなシステム。
それらは諸刃の剣だから。
人間が支配しているように見えても、知らない間に機械に縛られる。
生きている世界も、思考でさえも。
縛られた自覚を失ったならば、ヒトは再び滅びへと向かう。
地球や宇宙の星のことなど、まるで全く考えないで。
自然を破壊し尽くしていって、いつの間にか、故郷を滅ぼしていって。
(……ふうむ……)
俺は未来に来たわけなんだが…、と顎に当てた手。
気が遠くなるほど長い時を飛び越え、ブルーと二人で地球まで来た。
新しい身体に生まれ変わって、青い水の星に住んでいる今。
けれど、前の自分が今の暮らしを見たなら、どう思うだろう。
(…未来だとは、とても思うまいなあ…)
この家だけを見たんならな、と苦笑する。
宙港に行けば、あの時代よりも進歩を遂げた宇宙船が幾つも。
宇宙の他の星に行くにも、ずっと安全で速い旅が出来る。
ところが、家の中だけを見れば、白いシャングリラで暮らした頃の…。
(……俺の部屋に比べりゃ、なんにも無くて……)
通信用のシステムだってありやしない、と目を遣った壁。
その壁よりも向こうの部屋に、鎮座しているのが今の時代の通信機。
呼び出し音が鳴っていたって、書斎に届く音は微かなもの。
(…気を付けていないと、まず分からんぞ)
本に夢中になっていたなら、聞き逃してしまうことだろう。
それでも全く困りはしないし、第一、こんな夜遅くに…。
(通信を入れる方がマナー違反ってヤツなんだしな?)
相手も充分、承知している。
通信に出なくても、仕方が無いと。
明日の朝にでも、また通信を入れてみるかと、通信を切って。
(前の俺だと、大昔の世界と間違えそうだぞ)
地球が滅びるよりも前のな、と可笑しくなった。
ずっと未来に来たというのに、そんな風には見えないから。
色々不便な古い時代で、人間はまだ、宇宙にさえ…。
(…出られていないか、せいぜい月まで…)
行った程度で、それも着陸しただけだろう。
月に基地など作れはしなくて、宇宙ステーションさえ、夢のまた夢。
それくらい昔に生まれ変わって、古臭い暮らしをしているのだ、と勘違いしそうな前の自分。
この家だけを眺めていたなら、大昔だと思い込んで。
(……大昔なあ……)
そいつも悪くはないかもしれん、という気がする。
ブルーが一緒だったなら。
二人で生まれ変われるのならば、同じに青い地球の上なら。
(…生まれ変わりって時点で、未来にしか行けそうにないんだが…)
あるかもしれない、神の気まぐれ。
「青い地球さえあれば、幸せだろう」と選んだ時代が大昔。
ふと気が付いたら、今のこういう世界の代わりに…。
(牛車が、都大路をギシギシ…)
ゆっくりと進むような世界で、学校で教える古典の世界。
それが自分の目の前にあって、もちろん自分は其処の住人。
(…平安時代に生まれ変わるんだったら、身分は、そこそこ…)
いいものを貰わないと駄目だな、と職業柄、すぐに考えた。
王朝文化に憧れる人は、今の時代も少なくはない。
けれども、優雅な文化を享受したのは、ごく一握りの人間だけ。
(いわゆる貴族で、特権階級…)
柄じゃないな、と思いはしても、幸せに生きてゆきたかったら必要な身分。
貴族以外は、日々の生活で精一杯だった時代だから。
頑張って田畑を耕してみても、それほど暮らしは良くはならない。
だから生まれた夢物語。
竹取の翁が竹の中から姫を見付けて、大金持ちになる話。
(主人公は、かぐや姫なんだがな…)
金持ちになった翁も羨ましがられたろうさ、と思いを巡らせる。
あの時代の庶民が話を聞いたら、大いに夢見たことだろう。
自分の前にも、金色の竹が現れないかと。
かぐや姫を立派に育てるためでも、大金持ちになれたなら、と。
平安時代で生きてゆくなら、譲れない身分。
ブルーも自分も、貴族の身分に生まれ変わっていたいもの。
宇宙から青い地球を見るには、方法などは何も無くても。
「此処は地球だ」と確信できても、確かめる術が無いままでも。
(…あいつは、貴族の若様で…)
自分は、そろそろ初老といった頃合い。
あの時代ならば、そんな年齢。
たまに長寿の人もいたって、大抵は早く亡くなったから。
四十歳にもなってしまったら、妻を亡くして出家する者も多かった。
(…俺は婚期を逸した貴族ってトコか…)
それでも、あいつと出会うんだな、と頭の中に描いた光景。
聖痕は、きっと、物騒だから、別の切っ掛け。
(あの時代は、血は縁起でもなくて…)
忌み嫌われたし、他の何かが、自分とブルーを繋ぐのだろう。
ちゃんと出会えて恋仲になって、のどかな世界で恋を育む。
二人で花見の宴をするとか、月見の宴を催すだとか。
(あいつがチビの子供でなければ、もう早速に…)
自分の館に迎えてもいいし、自分が通って行ってもいい。
今よりもずっと不便であっても、恋をするには困らない筈。
(歌を詠んで贈らんと駄目だと言うんだったら、歌を詠んで、だ…)
ブルーからも歌が届くのだろう。
ペンではなくて、筆でサラサラと書かれたものが。
季節の折枝などが添えられ、美しい紙に綴られた文が。
(そういうのも、きっと…)
悪くはないのに違いないぞ、と夢は尽きない。
昔だったら心配なのが、寿命の問題なのだけれども…。
(…神様が生まれ変わらせて下さるのなら…)
ブルーも自分も、今と同じにミュウだと思う。
サイオンのお蔭で年を取らない、今の時代は普通の種族。
(昔だったら、仙人だろうと思われるぞ)
あの時代の人々が憧れ続けた、年を取らなくなる薬。
それを飲んで年を取らない仙人、そうだと誰もが信じるだろう。
(…あいつと二人で、仙人になって…)
のんびり暮らしてゆくのもいいさ、と傾ける少し冷めたコーヒー。
昔だったら不便であっても、一緒なら、きっと幸せだから。
ブルーと二人で生きてゆけるなら、遥かな昔の時代でも、きっと天国だから…。
昔だったら・了
※前のハーレイたちが生きた頃より、遅れているように見える今の文明。そういう時代。
ならば昔に生まれていたら、と考えてみたハーレイ先生。仙人になるのも良さそうですよねv
(わっ…!)
凄い風、と小さなブルーが見開いた瞳。
ハーレイが寄ってはくれなかった日、お風呂上がりにパジャマ姿で。
ベッドの端にチョコンと腰掛け、のんびり寛いでいた時に。
窓の向こうで、ゴオッと音を立てていった風。
夜はカーテンを閉めているから、目には映らなかったけれども…。
(庭の木、うんと揺れたよね…?)
幹ごと揺れることはなくても、枝は大きく揺れたのだろう。
風が音を立てて抜けてゆくほどなら、普段は揺れない大きな枝も。
(葉っぱも飛んで行ったかな…?)
今ので沢山飛んじゃったかな、と瞳を瞬かせる。
秋が深まるにつれて、葉が色づいてゆく木たちもある庭。
冬にはすっかり葉っぱを落として、幹と枝だけになってしまう木。
そういう木たちが持っている葉を、風は奪っていっただろうか。
ゴオッと吹き抜けた一瞬に。
木々の梢を、枝葉を鳴らして、夜の庭を駆けてゆく時に。
(……明日、起きたら……)
冬の景色になっちゃってるかも、と考えたけれど。
雪はまだでも、木の葉は落ちてしまっているかも、と少し心配だけれど…。
(…でも、あれっきり…)
風は吹かない。
窓の向こうで鳴ったりはしない。
(天気予報も、寒くなるとは言ってなかったし…)
さっきの風は、きっと気まぐれだったのだろう。
嵐のように吹き荒れないなら、木の葉は枝に残る筈。
何枚かは持って行かれたにしても、見た目でそれとは分からないほどで。
明日の朝、カーテンを開けて見たって、庭の景色は変わらないままで。
それならいいな、と小さく頷く。
冬の景色も好きだけれども、秋の庭の景色も同じくらい好き。
なにより、秋は穏やかで…。
(寒くないから、ハーレイと庭に出られるんだよ)
雨さえ降っていなかったならば、いつでも庭に出てゆける。
平日は、流石に無理だけれども。
(…ハーレイが来る頃は、夕方だものね…)
秋の日暮れは早いものだし、庭に出るには、遅すぎる時間。
だから二人で出るなら休日、お茶の時間に選ばれる庭。
午前中だったり、午後のお茶だったり、気分次第で。
庭で一番大きな木の下、其処に据えられた白いテーブルと椅子で。
(冬にも出よう、って約束したけど…)
雪の中でも庭でお茶を、と交わした約束。
ハーレイのシールドに入れて貰って、庭に降る雪を眺めながら。
火鉢というものを置いて貰って、暖を取りながら。
(…だけど、今みたいに…)
頻繁に出られはしないだろう。
いくらシールドに入ると言っても、寒い季節には違いない。
「風邪を引くぞ」と、早々に引き揚げさせられることになるかもしれない。
ただでも風邪を引き易い身体は、けして丈夫には出来ていないから。
夏でも風邪を引いたくらいに、前と同じに弱いのだから。
(…冬もいいけど、秋の方が…)
庭に出るにはピッタリなんだよ、という気がするから、秋のままがいい。
木の葉が風に奪い去られて、一枚も無くなる季節よりかは。
いずれは冬が来るにしたって、一晩で冬になるよりは。
(…この次に、風が鳴ったなら…)
その心配も出て来るけれども、今の所は鳴りそうにない。
本当に、あれっきりだから。
耳を驚かせた強い風の音は、たった一回だけだったから。
(…風かあ……)
そういえば…、と頭を掠めていったこと。
前にハーレイから聞いた。
遠く遥かな時の彼方で、ナキネズミのレインが言っていたのだ、と。
(…前のぼくは、風の匂いがした、って…)
レインは、ハーレイにそう話した。
前の自分がいなくなった後、主を失くした広い青の間で。
訪れる者さえ滅多にいなくて、ガランとしていた寂しい部屋で。
(…ジョミーは、あの部屋、使わなくって…)
それまでの部屋を使い続けたから、青の間には、誰も用が無かった。
たまに会議の場所になる程度で。
(…だから、ハーレイが出掛けて行っても…)
先客はナキネズミのレインだけ。
ハーレイはレインと、何度も思い出話をした。
いなくなってしまった人を想って、時には涙を零しもして。
(……レインは、知らなかっただろうけど……)
ハーレイにとっての、「ソルジャー・ブルー」が何だったのか。
ソルジャーであり、古い友だった以上に、誰よりも大切だった恋人。
気付かれるようなヘマは、お互い、してはいなかった。
長い歳月が流れ去った今も、誰も夢にも思ってはいない。
白いシャングリラの頂点にいた二人が、恋人同士だっただなんて。
(…生まれ変わっても、また出会えたほど、うんと絆が強くって…)
今でも恋人同士だけれども、誰一人として気付いてはいない。
だからレインも、全く知らなかっただろう。
「風の匂いがしたソルジャー」が、ハーレイの恋人だったとは。
思い出話をしに来る理由も、時には涙を零す理由も。
我ながら、上手くやったと思う。
あれほどの恋を隠し通して、最期までバレずに死んでいったこと。
代償は高くついたけれども、それは仕方が無いだろう。
幸せな日々を過ごせた分だけ、最期に悲しみが降って来たって。
前の生の最後に凍えた右手。
ハーレイの温もりを失くしてしまって、絆が切れてしまったと泣いた。
もう二度と会えはしないのだと。
「独りぼっちだ」と、青い光が満ちたメギドの制御室で。
泣きじゃくりながら死んだけれども、気付いたら、地球の上にいた。
青く蘇った母なる星に、ハーレイと二人で生まれ変わって。
(…神様が、ぼくに聖痕をくれて…)
お蔭で、巡り会うことが出来た。
またハーレイと一緒にいられて、前の自分の話まで聞ける。
「風の匂いがしていたそうだぞ」と、レインが語っていたことまで。
自分ではまるで自覚が無かった、「ソルジャー・ブルー」の匂いなんかを。
(…風の匂いって言われても…)
どういう匂いか、本当にピンと来なかった。
今のハーレイと頭を悩ませ、「硝煙の匂いかも」と考えたほど。
レインが知っていた風の匂いで、「ソルジャー・ブルー」と重なりそうなもの。
それは硝煙だったのでは、と物騒な匂いを思い浮かべて。
(……でも、本当は雨上がりの風……)
きっとそうだ、とハーレイは言った。
前の自分は知らないけれども、赤いナスカを潤した雨。
恵みの雨が降った後には、水の匂いを含んだ風が吹いたのだという。
そして、青の間にも満ちていた水。
無駄に大きかった貯水槽には、いつだって水が満たされていた。
だからレインは、その匂いを嗅いで…。
(…前のぼくは、風の匂いがする、って…)
いつも感じていたのだろう。
昏々と眠り続ける前の自分と、青の間に満ちている水と。
それは繋がっているものだったから。
レインが青の間に入る時には、いつでも水の匂いがしたから。
(……今のぼくだと……)
水の匂いはしないよね、と腕を鼻先に近付けてみた。
洗ったばかりのパジャマの匂いが、ふわりと鼻腔の中に漂う。
お日様の匂いと、それに混じった洗剤の匂い。
(…おやつを食べた時なら、きっと甘い匂いで…)
その時々で匂いは変わって、「風の匂い」は、もうしないだろう。
もう青の間には、いないから。
今の自分が暮らす部屋には、貯水槽も、金魚鉢も無いから。
(…きっとレインも、匂いだけだと…)
誰だか分からないだろう。
目隠しをさせて、鼻先に手を差し出したなら。
「レイン?」と名前を呼んでやっても、「誰だろう?」と首を傾げるだけで。
(……思念波で、バレてしまうかな?)
前の自分だと有り得ないけれど、レインに心を読まれてしまって。
放って置いたら零れ放題の、心の欠片をヒョイと拾われて。
(…縮んだの? って…)
訊かれるだろうか、小さくなった手を舐められて。
「ブルーの手は、もっと大きかったよ」と、不思議そうに。
(……余計なお世話……)
ぼくだって好きでチビなんじゃないよ、と膨らませた頬。
此処にレインはいないけれども、空想の翼を広げた世界で、レインに会って。
「チビになってしまったブルー」を、レインの思念で評されて。
(…匂いが違うだけならいいけど…)
今のぼくはチビの子供だもんね、と悲しくなる。
ハーレイがキスもしてくれないほど、小さな子供。
十四歳にしかなっていなくて、背丈も、うんと小さくなった。
前の自分の頃よりも。
風の匂いがしていたという、「ソルジャー・ブルー」だった頃よりも、ずっと。
(……うーん……)
ホントに小さくなっちゃったから、と落とした肩。
チビの子供で、おまけに身体が弱くて、すぐに風邪を引く。
これでは冬になってしまったら、ハーレイと庭に出られる日は…。
(今よりも、ずっと減ってしまって、雪の日だって…)
火鉢で暖を取りながらのお茶は、そうそう許して貰えないだろう。
いくらハーレイのシールドがあっても、前から約束していても。
「雪の中で、お茶がいいんだよ」と、駄々をこねても。
(…この次に、風が鳴ったなら…)
木々の葉っぱは落ちてしまって、冬将軍が来るのだろうか。
今夜は無事に済みそうだけれど、次の時には。
木枯らしという名前の通りに、轟々と風が鳴ったなら。
(……まだ吹かなくていいんだからね!)
風の匂いも要らないからね、とカーテンの向こうを睨み付ける。
まだまだ、秋を楽しみたいから。
ハーレイと二人で庭に出られる季節を、持って行かれたくはないものだから…。
風が鳴ったなら・了
※風の音を聞いたブルー君。木の葉がすっかり落ちてしまったら、少し困ってしまうのです。
ハーレイ先生と庭に好きなだけ出られる季節に、さよならしたくはないですものねv
(おや…?)
風か、とハーレイの耳に届いた音。
ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で。
後片付けを手早く済ませて、寛ぐために淹れたコーヒー。
愛用のマグカップにたっぷり注いで、移動しようとしていた所。
書斎でのんびり本でも読もうと、ダイニングを後に。
そこへ庭先を吹き抜けた風。
書斎と違って大きな掃き出し窓があるから、音が聞こえた。
カーテンは閉まっていたのだけれども、吹いてゆく音が。
(…冷える予報じゃなかったが…)
風ってヤツは気まぐれだしな、とカーテンの隙間から覗いてみた。
庭園灯に照らされた庭で、木々の梢が揺れている。
さっきほど強くは吹いていなくても、枝を揺すってゆく程度の風。
(冷え込まないといいんだがなあ…)
ブルーが風邪を引いちまうしな、と心配なのは恋人のこと。
十四歳にしかならないブルーは、今の生でも身体が弱い。
風邪を引くのも珍しくなくて、喉を傷めることもしばしば。
「喉風邪には、これがいいんだぞ」と金柑の甘煮を贈ったほどに。
隣町で暮らす母のお手製、金柑の実をコトコト煮込んだものを。
(…天気予報だと、大丈夫な筈で…)
明日も暖かいと言っていたから、ただの風だと思いたい。
単なる空気の流れのせいで、この町を吹いてゆくだけだと。
(ふむ…)
収まって来たな、と弱まり始めた風を見詰めて頷いた。
正確に言えば「風は見えない」から、木々の動きを見るだけだけれど。
これなら今夜は、きっと冷えない。
もう安心だ、とマグカップを手に向かった書斎。
ただの風なら心配は無いし、ブルーも風邪は引かないから。
いつもの書斎に灯りを点けて、向かった机。
ゆったりと椅子に腰を下ろして、熱いコーヒーを一口飲んだ。
(落ち着くなぁ…)
今夜は何の本を読もうか、読みかけの本もいいけれど…。
(前に読んだ本を読むっていうのも、いいモンなんだ)
どれにするかな、と本棚を眺めて追った背表紙。
様々な本があるのだけれども、ふと思い出した机の引き出し。
(…此処にも、大事な一冊が…)
あるんだっけな、と引き出しは開けずに、視線を落とす。
其処に仕舞った一冊の本。
読み物ではなくて、写真集。
前のブルーの写真を集めて編まれた、『追憶』というタイトルの。
とても有名なブルーの写真が表紙に刷られた、宝物とも呼べる一冊。
いつも自分の日記を被せて、布団代わりにしてやっている。
ブルーが寂しがらないように。
自分が留守にしている間も、「ハーレイ」を感じていられるように。
(ブルーに知れたら、確実に嫉妬されるしな…)
小さなブルーには、この本は、内緒。
持っていることさえ話していないし、自分だけの秘密。
それのページを繰るのもいいな、と考えた所で、掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、ナキネズミのレインが言っていたこと。
「ブルーは風の匂いがしたね」と。
前のブルーがいなくなった後、青の間でレインと出会った時に。
一人と一匹で思い出話をしていた折に。
青の間はブルーがいなくなっても、そのままの形で残されていた。
たまに一人で訪ねて行ったら、先客のレインがいたことも多い。
そういった時はあれこれ話して、前のブルーを懐かしんだ。
他の者とは、ブルーの話は、それほど出来なかったから。
どうしても辛くなってしまって、涙が溢れて来そうになって。
(前のあいつは、風の匂いか…)
それを感じたことは無かった。
前のブルーを前にした時、「風の匂いだ」と思ったことは。
(シャングリラで吹いていた風は…)
人工の風で、公園を彩る風物の一つ。
四季折々の草木を植えていたから、それに合わせて。
春なら暖かい風を流して、冬には冷たく肌寒いものを。
ただそれだけの人工の風に、匂いがあったかどうかも謎。
花の香りが混じることなどは、あったけれども。
(ついでにレインは、本物の風の匂いなんぞは…)
知らない筈だと思っていたから、今のブルーと考え込んだことがある。
レインが言った「風の匂い」とは、何だったのか、と。
(ジョミーを救出した時の、硝煙の匂いかもしれん、って話まで…)
出たのだけれども、結論としては、「雨上がりの風」に落ち着いた。
前のブルーは、降りないままで終わったナスカ。
赤い星には恵みの雨が降り注いだし、レインの名前も、そこからついた。
レインは雨上がりの風の匂いを、「ブルーの匂いだ」と思ったのだろう、と。
前のブルーが暮らした青の間、其処には水が満ちていたから。
巨大な貯水槽が造られ、いつも澄んだ水を湛えていた。
だから部屋にも水の匂いがしていただろう。
前の自分やブルーは慣れてしまって、まるで気付いていなくても。
「水の匂いだ」と思ったことさえ、一度も無かったままであっても。
(…だからレインには、前のあいつは、雨上がりの風と同じ匂いで…)
風の匂いがしたのだと懐かしんでいた。
もう、いなくなってしまった人を。
主を失くして空っぽの部屋で、空になったベッドの持ち主を指して。
(…今のあいつは、風の匂いはしないよなあ…)
小さなブルーの部屋には、貯水槽は無い。
熱帯魚なども飼っていないから、水槽も無い。
レインが感じた「風の匂い」は、今のブルーには無いだろう。
代わりに何か匂いがあるなら、その日に食べた甘いお菓子の匂いだろうか。
(そうなってくると、ケーキ屋の前に行かないと…)
今のブルーの「風の匂い」は、きっと吹いては来てくれない。
焼き立てのパイや、オーブンから出したばかりのケーキの匂いを纏った風。
(…さっき吹いてったような風だと…)
お菓子の匂いは混じらないから、今のブルーの匂いはしない。
ついでに雨の予報でもないし、前のブルーの匂いでもない。
(せっかくの、地球の風なんだがなあ…)
前のブルーが焦がれた地球。
最後まで「肉眼で見たい」と思って、見られないことに涙した星。
その地球の上に、二人で来た。
気が遠くなるほどの時を飛び越え、青く蘇った水の星の上に。
吹く風は、その地球の息吹で、この星の呼吸。
青い地球が生きている証拠。
(もっとも、前の俺が見た地球も…)
赤茶けた死の星だったけれども、風くらいは吹いていたのだろう。
有毒の大気が覆っていたから、出ることも叶わなかった外。
吹いてゆく風も毒を含んで、生き物の命を奪っただろう。
それでも「匂い」はあったのだと思う。
ブルーの匂いとは似ても似つかない、悪臭としか呼べないものでも。
吸い込んだ途端に息が止まるか、意識を失うものであっても。
その地球の上に、今は清らかな風が吹く。
木々の梢を鳴らして吹き抜け、この町を通り過ぎてゆく。
(あいつの匂いじゃないってトコが…)
残念だがな、と思うけれども、風の匂いも様々なもの。
シャングリラの頃には分からなかった、地球ならではの自然の恵み。
青葉の季節と、冬の最中では、すっかり違う匂いになる。
みずみずしい新芽が萌え出る季節と、うだるような夏の季節でも。
(…今のあいつは、どういう風が似合うんだろうな?)
風の匂いがするかはともかく、イメージとして。
甘いお菓子の香りではなく、小さなブルーに似合いそうな風。
(身体も弱いし、まだチビだから…)
とても柔らかな春風だろうか、それは穏やかに、花びらをそっと揺するような。
暖かな陽だまりに座っていたなら、心地よく頬を撫でてゆくような。
(…そんな風かもしれないなあ…)
ブルーは、まだまだ子供だから。
本人が何と言っていようと、子供なことは確かだから。
(そうして、いつか育ったら…)
前のブルーと同じ背丈に育ったならば、今度は、どんな風だろう。
雨上がりの風のような匂いは、きっと纏っていないから…。
(爽やかな初夏の風ってトコか?)
今のブルーのお気に入りの場所が、庭で一番大きな木の下。
其処に据えられた白いテーブルと椅子が、ブルーの大好きなティータイムの場所。
(あそこで吹いていくような…)
風がブルーに似合うだろうか。
木漏れ日が細かいレース模様を描き出す上で、木の葉を鳴らしてゆくような。
けして強くはない風だけれど、「吹いているな」と感じる風が。
(…先のことは、まだ分からんが…)
どういう風が似合うのやらなあ、と思いを馳せる。
これからも何度も思うのだろうか、今夜のように風が鳴ったら。
「ブルーは風の匂いがしたね」とレインが語った、あの日を思い出したなら。
そんな日も、きっと悪くない。
吹いてゆく風は地球の呼吸で、ブルーと地球に来たのだから。
今のブルーと二人で暮らせる時が来るまで、ゆったりと待てばいいのだから…。
風が鳴ったら・了
※前のブルーは風の匂い。レインにしか分からなかった匂いですけど、雨上がりの風。
生まれ変わった今のブルーには、どういう風が似合うのでしょう。育つまでが、楽しみv
