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カテゴリー「書き下ろし」の記事一覧

(……今日も一日、終わったってな)
 何事もなく、とハーレイが傾ける愛用のマグカップ。
 ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
 たっぷりと淹れた熱いコーヒー、それが一日の締めくくり。
 飲みながら読書をするのもいいし、のんびりと考え事もいい。
(…あいつの家には、寄り損なったが…)
 それを除けば、いい日だったと言えるだろう。
 学校では、ちゃんとブルーに会えたし、立ち話だって少しは出来た。
 懸命に敬語で話すブルーと、学校の廊下で向かい合わせで。
(明日は、あいつの家に寄れるといいんだがなあ…)
 今の所は特に予定も無いから、おそらく時間はあるだろう。
 急な会議が入ってしまえば、その時は仕方ないのだけれど。
(…こればっかりは、明日、行ってみないと…)
 分からないしな、と思う学校の中の細かな出来事。
 思念波を日常生活で使っていたなら、連絡がヒョイと入りそうでも…。
(生憎と、今はそういう時代じゃないんだ)
 普段の暮らしで思念波を使うのは、マナー違反。
 親しい家族や友達だったら、もちろん使ってかまわなくても。
(…ついでに、深夜に連絡するのも…)
 今の時代はマナー違反になっている。
 緊急の用事などを除けば、夜に通信機が鳴ることは無い。
 離れた地域で暮らす親戚などでも、時差を考えて連絡するもの。
 やむを得ず夜遅くなってしまったら、一言、挨拶しなければ。
 「こんな時間にすみません」と、お詫びの言葉を。
 夜はゆっくり眠る時間で、夜更かししている人にしたって…。
(……昔と違って、誰かと夜通し……)
 通信機などの機械を使って、繋がるような時代ではない。
 遥か昔は、そういう時代が人の歴史にあったけれども。
 地球が滅びるよりも前には、それが当たり前の社会が存在したけれど。


 人類文明の進歩とは逆に、滅びへの道を辿った地球。
 緑が自然に育たなくなって、海からは魚影が消えていって。
 大気はすっかり汚染されてしまい、地下には分解不可能な毒素。
 滅びゆく地球を救う手立ては、もう、人類には何も無かった。
 人類そのものが「変わる」他には。
 地球を滅びに導いた種族、それを改革する以外には。
(……それがSD体制なんだ……)
 完全な生命管理の社会。
 人を人とも思わぬ機械が統治していた、忌まわしい時代。
(前の俺たちが、そいつを壊して…)
 赤黒い死の星のままだった地球も、機械と一緒に燃え上がった。
 そうして全てが焼き尽くされた後に、再び青く蘇った地球。
 宇宙はミュウの時代を迎えていたのだけれども、彼らは英断を下していた。
 人類の過ちは、繰り返さないと。
 文明はとても便利だけれども、きちんと考えて使うべきだと。
 だから失われた、常に繋がっているようなシステム。
 それらは諸刃の剣だから。
 人間が支配しているように見えても、知らない間に機械に縛られる。
 生きている世界も、思考でさえも。
 縛られた自覚を失ったならば、ヒトは再び滅びへと向かう。
 地球や宇宙の星のことなど、まるで全く考えないで。
 自然を破壊し尽くしていって、いつの間にか、故郷を滅ぼしていって。


(……ふうむ……)
 俺は未来に来たわけなんだが…、と顎に当てた手。
 気が遠くなるほど長い時を飛び越え、ブルーと二人で地球まで来た。
 新しい身体に生まれ変わって、青い水の星に住んでいる今。
 けれど、前の自分が今の暮らしを見たなら、どう思うだろう。
(…未来だとは、とても思うまいなあ…)
 この家だけを見たんならな、と苦笑する。
 宙港に行けば、あの時代よりも進歩を遂げた宇宙船が幾つも。
 宇宙の他の星に行くにも、ずっと安全で速い旅が出来る。
 ところが、家の中だけを見れば、白いシャングリラで暮らした頃の…。
(……俺の部屋に比べりゃ、なんにも無くて……)
 通信用のシステムだってありやしない、と目を遣った壁。
 その壁よりも向こうの部屋に、鎮座しているのが今の時代の通信機。
 呼び出し音が鳴っていたって、書斎に届く音は微かなもの。
(…気を付けていないと、まず分からんぞ)
 本に夢中になっていたなら、聞き逃してしまうことだろう。
 それでも全く困りはしないし、第一、こんな夜遅くに…。
(通信を入れる方がマナー違反ってヤツなんだしな?)
 相手も充分、承知している。
 通信に出なくても、仕方が無いと。
 明日の朝にでも、また通信を入れてみるかと、通信を切って。
(前の俺だと、大昔の世界と間違えそうだぞ)
 地球が滅びるよりも前のな、と可笑しくなった。
 ずっと未来に来たというのに、そんな風には見えないから。
 色々不便な古い時代で、人間はまだ、宇宙にさえ…。
(…出られていないか、せいぜい月まで…)
 行った程度で、それも着陸しただけだろう。
 月に基地など作れはしなくて、宇宙ステーションさえ、夢のまた夢。
 それくらい昔に生まれ変わって、古臭い暮らしをしているのだ、と勘違いしそうな前の自分。
 この家だけを眺めていたなら、大昔だと思い込んで。


(……大昔なあ……)
 そいつも悪くはないかもしれん、という気がする。
 ブルーが一緒だったなら。
 二人で生まれ変われるのならば、同じに青い地球の上なら。
(…生まれ変わりって時点で、未来にしか行けそうにないんだが…)
 あるかもしれない、神の気まぐれ。
 「青い地球さえあれば、幸せだろう」と選んだ時代が大昔。
 ふと気が付いたら、今のこういう世界の代わりに…。
(牛車が、都大路をギシギシ…)
 ゆっくりと進むような世界で、学校で教える古典の世界。
 それが自分の目の前にあって、もちろん自分は其処の住人。
(…平安時代に生まれ変わるんだったら、身分は、そこそこ…)
 いいものを貰わないと駄目だな、と職業柄、すぐに考えた。
 王朝文化に憧れる人は、今の時代も少なくはない。
 けれども、優雅な文化を享受したのは、ごく一握りの人間だけ。
(いわゆる貴族で、特権階級…)
 柄じゃないな、と思いはしても、幸せに生きてゆきたかったら必要な身分。
 貴族以外は、日々の生活で精一杯だった時代だから。
 頑張って田畑を耕してみても、それほど暮らしは良くはならない。
 だから生まれた夢物語。
 竹取の翁が竹の中から姫を見付けて、大金持ちになる話。
(主人公は、かぐや姫なんだがな…)
 金持ちになった翁も羨ましがられたろうさ、と思いを巡らせる。
 あの時代の庶民が話を聞いたら、大いに夢見たことだろう。
 自分の前にも、金色の竹が現れないかと。
 かぐや姫を立派に育てるためでも、大金持ちになれたなら、と。


 平安時代で生きてゆくなら、譲れない身分。
 ブルーも自分も、貴族の身分に生まれ変わっていたいもの。
 宇宙から青い地球を見るには、方法などは何も無くても。
 「此処は地球だ」と確信できても、確かめる術が無いままでも。
(…あいつは、貴族の若様で…)
 自分は、そろそろ初老といった頃合い。
 あの時代ならば、そんな年齢。
 たまに長寿の人もいたって、大抵は早く亡くなったから。
 四十歳にもなってしまったら、妻を亡くして出家する者も多かった。
(…俺は婚期を逸した貴族ってトコか…)
 それでも、あいつと出会うんだな、と頭の中に描いた光景。
 聖痕は、きっと、物騒だから、別の切っ掛け。
(あの時代は、血は縁起でもなくて…)
 忌み嫌われたし、他の何かが、自分とブルーを繋ぐのだろう。
 ちゃんと出会えて恋仲になって、のどかな世界で恋を育む。
 二人で花見の宴をするとか、月見の宴を催すだとか。
(あいつがチビの子供でなければ、もう早速に…)
 自分の館に迎えてもいいし、自分が通って行ってもいい。
 今よりもずっと不便であっても、恋をするには困らない筈。
(歌を詠んで贈らんと駄目だと言うんだったら、歌を詠んで、だ…)
 ブルーからも歌が届くのだろう。
 ペンではなくて、筆でサラサラと書かれたものが。
 季節の折枝などが添えられ、美しい紙に綴られた文が。


(そういうのも、きっと…)
 悪くはないのに違いないぞ、と夢は尽きない。
 昔だったら心配なのが、寿命の問題なのだけれども…。
(…神様が生まれ変わらせて下さるのなら…)
 ブルーも自分も、今と同じにミュウだと思う。
 サイオンのお蔭で年を取らない、今の時代は普通の種族。
(昔だったら、仙人だろうと思われるぞ)
 あの時代の人々が憧れ続けた、年を取らなくなる薬。
 それを飲んで年を取らない仙人、そうだと誰もが信じるだろう。
(…あいつと二人で、仙人になって…)
 のんびり暮らしてゆくのもいいさ、と傾ける少し冷めたコーヒー。
 昔だったら不便であっても、一緒なら、きっと幸せだから。
 ブルーと二人で生きてゆけるなら、遥かな昔の時代でも、きっと天国だから…。

 

          昔だったら・了


※前のハーレイたちが生きた頃より、遅れているように見える今の文明。そういう時代。
 ならば昔に生まれていたら、と考えてみたハーレイ先生。仙人になるのも良さそうですよねv









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(わっ…!)
 凄い風、と小さなブルーが見開いた瞳。
 ハーレイが寄ってはくれなかった日、お風呂上がりにパジャマ姿で。
 ベッドの端にチョコンと腰掛け、のんびり寛いでいた時に。
 窓の向こうで、ゴオッと音を立てていった風。
 夜はカーテンを閉めているから、目には映らなかったけれども…。
(庭の木、うんと揺れたよね…?)
 幹ごと揺れることはなくても、枝は大きく揺れたのだろう。
 風が音を立てて抜けてゆくほどなら、普段は揺れない大きな枝も。
(葉っぱも飛んで行ったかな…?)
 今ので沢山飛んじゃったかな、と瞳を瞬かせる。
 秋が深まるにつれて、葉が色づいてゆく木たちもある庭。
 冬にはすっかり葉っぱを落として、幹と枝だけになってしまう木。
 そういう木たちが持っている葉を、風は奪っていっただろうか。
 ゴオッと吹き抜けた一瞬に。
 木々の梢を、枝葉を鳴らして、夜の庭を駆けてゆく時に。
(……明日、起きたら……)
 冬の景色になっちゃってるかも、と考えたけれど。
 雪はまだでも、木の葉は落ちてしまっているかも、と少し心配だけれど…。
(…でも、あれっきり…)
 風は吹かない。
 窓の向こうで鳴ったりはしない。
(天気予報も、寒くなるとは言ってなかったし…)
 さっきの風は、きっと気まぐれだったのだろう。
 嵐のように吹き荒れないなら、木の葉は枝に残る筈。
 何枚かは持って行かれたにしても、見た目でそれとは分からないほどで。
 明日の朝、カーテンを開けて見たって、庭の景色は変わらないままで。


 それならいいな、と小さく頷く。
 冬の景色も好きだけれども、秋の庭の景色も同じくらい好き。
 なにより、秋は穏やかで…。
(寒くないから、ハーレイと庭に出られるんだよ)
 雨さえ降っていなかったならば、いつでも庭に出てゆける。
 平日は、流石に無理だけれども。
(…ハーレイが来る頃は、夕方だものね…)
 秋の日暮れは早いものだし、庭に出るには、遅すぎる時間。
 だから二人で出るなら休日、お茶の時間に選ばれる庭。
 午前中だったり、午後のお茶だったり、気分次第で。
 庭で一番大きな木の下、其処に据えられた白いテーブルと椅子で。
(冬にも出よう、って約束したけど…)
 雪の中でも庭でお茶を、と交わした約束。
 ハーレイのシールドに入れて貰って、庭に降る雪を眺めながら。
 火鉢というものを置いて貰って、暖を取りながら。
(…だけど、今みたいに…)
 頻繁に出られはしないだろう。
 いくらシールドに入ると言っても、寒い季節には違いない。
 「風邪を引くぞ」と、早々に引き揚げさせられることになるかもしれない。
 ただでも風邪を引き易い身体は、けして丈夫には出来ていないから。
 夏でも風邪を引いたくらいに、前と同じに弱いのだから。
(…冬もいいけど、秋の方が…)
 庭に出るにはピッタリなんだよ、という気がするから、秋のままがいい。
 木の葉が風に奪い去られて、一枚も無くなる季節よりかは。
 いずれは冬が来るにしたって、一晩で冬になるよりは。
(…この次に、風が鳴ったなら…)
 その心配も出て来るけれども、今の所は鳴りそうにない。
 本当に、あれっきりだから。
 耳を驚かせた強い風の音は、たった一回だけだったから。


(…風かあ……)
 そういえば…、と頭を掠めていったこと。
 前にハーレイから聞いた。
 遠く遥かな時の彼方で、ナキネズミのレインが言っていたのだ、と。
(…前のぼくは、風の匂いがした、って…)
 レインは、ハーレイにそう話した。
 前の自分がいなくなった後、主を失くした広い青の間で。
 訪れる者さえ滅多にいなくて、ガランとしていた寂しい部屋で。
(…ジョミーは、あの部屋、使わなくって…)
 それまでの部屋を使い続けたから、青の間には、誰も用が無かった。
 たまに会議の場所になる程度で。
(…だから、ハーレイが出掛けて行っても…)
 先客はナキネズミのレインだけ。
 ハーレイはレインと、何度も思い出話をした。
 いなくなってしまった人を想って、時には涙を零しもして。
(……レインは、知らなかっただろうけど……)
 ハーレイにとっての、「ソルジャー・ブルー」が何だったのか。
 ソルジャーであり、古い友だった以上に、誰よりも大切だった恋人。
 気付かれるようなヘマは、お互い、してはいなかった。
 長い歳月が流れ去った今も、誰も夢にも思ってはいない。
 白いシャングリラの頂点にいた二人が、恋人同士だっただなんて。
(…生まれ変わっても、また出会えたほど、うんと絆が強くって…)
 今でも恋人同士だけれども、誰一人として気付いてはいない。
 だからレインも、全く知らなかっただろう。
 「風の匂いがしたソルジャー」が、ハーレイの恋人だったとは。
 思い出話をしに来る理由も、時には涙を零す理由も。
 我ながら、上手くやったと思う。
 あれほどの恋を隠し通して、最期までバレずに死んでいったこと。
 代償は高くついたけれども、それは仕方が無いだろう。
 幸せな日々を過ごせた分だけ、最期に悲しみが降って来たって。


 前の生の最後に凍えた右手。
 ハーレイの温もりを失くしてしまって、絆が切れてしまったと泣いた。
 もう二度と会えはしないのだと。
 「独りぼっちだ」と、青い光が満ちたメギドの制御室で。
 泣きじゃくりながら死んだけれども、気付いたら、地球の上にいた。
 青く蘇った母なる星に、ハーレイと二人で生まれ変わって。
(…神様が、ぼくに聖痕をくれて…)
 お蔭で、巡り会うことが出来た。
 またハーレイと一緒にいられて、前の自分の話まで聞ける。
 「風の匂いがしていたそうだぞ」と、レインが語っていたことまで。
 自分ではまるで自覚が無かった、「ソルジャー・ブルー」の匂いなんかを。
(…風の匂いって言われても…)
 どういう匂いか、本当にピンと来なかった。
 今のハーレイと頭を悩ませ、「硝煙の匂いかも」と考えたほど。
 レインが知っていた風の匂いで、「ソルジャー・ブルー」と重なりそうなもの。
 それは硝煙だったのでは、と物騒な匂いを思い浮かべて。
(……でも、本当は雨上がりの風……)
 きっとそうだ、とハーレイは言った。
 前の自分は知らないけれども、赤いナスカを潤した雨。
 恵みの雨が降った後には、水の匂いを含んだ風が吹いたのだという。
 そして、青の間にも満ちていた水。
 無駄に大きかった貯水槽には、いつだって水が満たされていた。
 だからレインは、その匂いを嗅いで…。
(…前のぼくは、風の匂いがする、って…)
 いつも感じていたのだろう。
 昏々と眠り続ける前の自分と、青の間に満ちている水と。
 それは繋がっているものだったから。
 レインが青の間に入る時には、いつでも水の匂いがしたから。


(……今のぼくだと……)
 水の匂いはしないよね、と腕を鼻先に近付けてみた。
 洗ったばかりのパジャマの匂いが、ふわりと鼻腔の中に漂う。
 お日様の匂いと、それに混じった洗剤の匂い。
(…おやつを食べた時なら、きっと甘い匂いで…)
 その時々で匂いは変わって、「風の匂い」は、もうしないだろう。
 もう青の間には、いないから。
 今の自分が暮らす部屋には、貯水槽も、金魚鉢も無いから。
(…きっとレインも、匂いだけだと…)
 誰だか分からないだろう。
 目隠しをさせて、鼻先に手を差し出したなら。
 「レイン?」と名前を呼んでやっても、「誰だろう?」と首を傾げるだけで。
(……思念波で、バレてしまうかな?)
 前の自分だと有り得ないけれど、レインに心を読まれてしまって。
 放って置いたら零れ放題の、心の欠片をヒョイと拾われて。
(…縮んだの? って…)
 訊かれるだろうか、小さくなった手を舐められて。
 「ブルーの手は、もっと大きかったよ」と、不思議そうに。
(……余計なお世話……)
 ぼくだって好きでチビなんじゃないよ、と膨らませた頬。
 此処にレインはいないけれども、空想の翼を広げた世界で、レインに会って。
 「チビになってしまったブルー」を、レインの思念で評されて。
(…匂いが違うだけならいいけど…)
 今のぼくはチビの子供だもんね、と悲しくなる。
 ハーレイがキスもしてくれないほど、小さな子供。
 十四歳にしかなっていなくて、背丈も、うんと小さくなった。
 前の自分の頃よりも。
 風の匂いがしていたという、「ソルジャー・ブルー」だった頃よりも、ずっと。


(……うーん……)
 ホントに小さくなっちゃったから、と落とした肩。
 チビの子供で、おまけに身体が弱くて、すぐに風邪を引く。
 これでは冬になってしまったら、ハーレイと庭に出られる日は…。
(今よりも、ずっと減ってしまって、雪の日だって…)
 火鉢で暖を取りながらのお茶は、そうそう許して貰えないだろう。
 いくらハーレイのシールドがあっても、前から約束していても。
 「雪の中で、お茶がいいんだよ」と、駄々をこねても。
(…この次に、風が鳴ったなら…)
 木々の葉っぱは落ちてしまって、冬将軍が来るのだろうか。
 今夜は無事に済みそうだけれど、次の時には。
 木枯らしという名前の通りに、轟々と風が鳴ったなら。
(……まだ吹かなくていいんだからね!)
 風の匂いも要らないからね、とカーテンの向こうを睨み付ける。
 まだまだ、秋を楽しみたいから。
 ハーレイと二人で庭に出られる季節を、持って行かれたくはないものだから…。

 

         風が鳴ったなら・了


※風の音を聞いたブルー君。木の葉がすっかり落ちてしまったら、少し困ってしまうのです。
 ハーレイ先生と庭に好きなだけ出られる季節に、さよならしたくはないですものねv










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(おや…?)
 風か、とハーレイの耳に届いた音。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で。
 後片付けを手早く済ませて、寛ぐために淹れたコーヒー。
 愛用のマグカップにたっぷり注いで、移動しようとしていた所。
 書斎でのんびり本でも読もうと、ダイニングを後に。
 そこへ庭先を吹き抜けた風。
 書斎と違って大きな掃き出し窓があるから、音が聞こえた。
 カーテンは閉まっていたのだけれども、吹いてゆく音が。
(…冷える予報じゃなかったが…)
 風ってヤツは気まぐれだしな、とカーテンの隙間から覗いてみた。
 庭園灯に照らされた庭で、木々の梢が揺れている。
 さっきほど強くは吹いていなくても、枝を揺すってゆく程度の風。
(冷え込まないといいんだがなあ…)
 ブルーが風邪を引いちまうしな、と心配なのは恋人のこと。
 十四歳にしかならないブルーは、今の生でも身体が弱い。
 風邪を引くのも珍しくなくて、喉を傷めることもしばしば。
 「喉風邪には、これがいいんだぞ」と金柑の甘煮を贈ったほどに。
 隣町で暮らす母のお手製、金柑の実をコトコト煮込んだものを。
(…天気予報だと、大丈夫な筈で…)
 明日も暖かいと言っていたから、ただの風だと思いたい。
 単なる空気の流れのせいで、この町を吹いてゆくだけだと。
(ふむ…)
 収まって来たな、と弱まり始めた風を見詰めて頷いた。
 正確に言えば「風は見えない」から、木々の動きを見るだけだけれど。
 これなら今夜は、きっと冷えない。
 もう安心だ、とマグカップを手に向かった書斎。
 ただの風なら心配は無いし、ブルーも風邪は引かないから。


 いつもの書斎に灯りを点けて、向かった机。
 ゆったりと椅子に腰を下ろして、熱いコーヒーを一口飲んだ。
(落ち着くなぁ…)
 今夜は何の本を読もうか、読みかけの本もいいけれど…。
(前に読んだ本を読むっていうのも、いいモンなんだ)
 どれにするかな、と本棚を眺めて追った背表紙。
 様々な本があるのだけれども、ふと思い出した机の引き出し。
(…此処にも、大事な一冊が…)
 あるんだっけな、と引き出しは開けずに、視線を落とす。
 其処に仕舞った一冊の本。
 読み物ではなくて、写真集。
 前のブルーの写真を集めて編まれた、『追憶』というタイトルの。
 とても有名なブルーの写真が表紙に刷られた、宝物とも呼べる一冊。
 いつも自分の日記を被せて、布団代わりにしてやっている。
 ブルーが寂しがらないように。
 自分が留守にしている間も、「ハーレイ」を感じていられるように。
(ブルーに知れたら、確実に嫉妬されるしな…)
 小さなブルーには、この本は、内緒。
 持っていることさえ話していないし、自分だけの秘密。
 それのページを繰るのもいいな、と考えた所で、掠めた記憶。
 遠く遥かな時の彼方で、ナキネズミのレインが言っていたこと。
 「ブルーは風の匂いがしたね」と。
 前のブルーがいなくなった後、青の間でレインと出会った時に。
 一人と一匹で思い出話をしていた折に。
 青の間はブルーがいなくなっても、そのままの形で残されていた。
 たまに一人で訪ねて行ったら、先客のレインがいたことも多い。
 そういった時はあれこれ話して、前のブルーを懐かしんだ。
 他の者とは、ブルーの話は、それほど出来なかったから。
 どうしても辛くなってしまって、涙が溢れて来そうになって。


(前のあいつは、風の匂いか…)
 それを感じたことは無かった。
 前のブルーを前にした時、「風の匂いだ」と思ったことは。
(シャングリラで吹いていた風は…)
 人工の風で、公園を彩る風物の一つ。
 四季折々の草木を植えていたから、それに合わせて。
 春なら暖かい風を流して、冬には冷たく肌寒いものを。
 ただそれだけの人工の風に、匂いがあったかどうかも謎。
 花の香りが混じることなどは、あったけれども。
(ついでにレインは、本物の風の匂いなんぞは…)
 知らない筈だと思っていたから、今のブルーと考え込んだことがある。
 レインが言った「風の匂い」とは、何だったのか、と。
(ジョミーを救出した時の、硝煙の匂いかもしれん、って話まで…)
 出たのだけれども、結論としては、「雨上がりの風」に落ち着いた。
 前のブルーは、降りないままで終わったナスカ。
 赤い星には恵みの雨が降り注いだし、レインの名前も、そこからついた。
 レインは雨上がりの風の匂いを、「ブルーの匂いだ」と思ったのだろう、と。
 前のブルーが暮らした青の間、其処には水が満ちていたから。
 巨大な貯水槽が造られ、いつも澄んだ水を湛えていた。
 だから部屋にも水の匂いがしていただろう。
 前の自分やブルーは慣れてしまって、まるで気付いていなくても。
 「水の匂いだ」と思ったことさえ、一度も無かったままであっても。
(…だからレインには、前のあいつは、雨上がりの風と同じ匂いで…)
 風の匂いがしたのだと懐かしんでいた。
 もう、いなくなってしまった人を。
 主を失くして空っぽの部屋で、空になったベッドの持ち主を指して。


(…今のあいつは、風の匂いはしないよなあ…)
 小さなブルーの部屋には、貯水槽は無い。
 熱帯魚なども飼っていないから、水槽も無い。
 レインが感じた「風の匂い」は、今のブルーには無いだろう。
 代わりに何か匂いがあるなら、その日に食べた甘いお菓子の匂いだろうか。
(そうなってくると、ケーキ屋の前に行かないと…)
 今のブルーの「風の匂い」は、きっと吹いては来てくれない。
 焼き立てのパイや、オーブンから出したばかりのケーキの匂いを纏った風。
(…さっき吹いてったような風だと…)
 お菓子の匂いは混じらないから、今のブルーの匂いはしない。
 ついでに雨の予報でもないし、前のブルーの匂いでもない。
(せっかくの、地球の風なんだがなあ…)
 前のブルーが焦がれた地球。
 最後まで「肉眼で見たい」と思って、見られないことに涙した星。
 その地球の上に、二人で来た。
 気が遠くなるほどの時を飛び越え、青く蘇った水の星の上に。
 吹く風は、その地球の息吹で、この星の呼吸。
 青い地球が生きている証拠。
(もっとも、前の俺が見た地球も…)
 赤茶けた死の星だったけれども、風くらいは吹いていたのだろう。
 有毒の大気が覆っていたから、出ることも叶わなかった外。
 吹いてゆく風も毒を含んで、生き物の命を奪っただろう。
 それでも「匂い」はあったのだと思う。
 ブルーの匂いとは似ても似つかない、悪臭としか呼べないものでも。
 吸い込んだ途端に息が止まるか、意識を失うものであっても。


 その地球の上に、今は清らかな風が吹く。
 木々の梢を鳴らして吹き抜け、この町を通り過ぎてゆく。
(あいつの匂いじゃないってトコが…)
 残念だがな、と思うけれども、風の匂いも様々なもの。
 シャングリラの頃には分からなかった、地球ならではの自然の恵み。
 青葉の季節と、冬の最中では、すっかり違う匂いになる。
 みずみずしい新芽が萌え出る季節と、うだるような夏の季節でも。
(…今のあいつは、どういう風が似合うんだろうな?)
 風の匂いがするかはともかく、イメージとして。
 甘いお菓子の香りではなく、小さなブルーに似合いそうな風。
(身体も弱いし、まだチビだから…)
 とても柔らかな春風だろうか、それは穏やかに、花びらをそっと揺するような。
 暖かな陽だまりに座っていたなら、心地よく頬を撫でてゆくような。
(…そんな風かもしれないなあ…)
 ブルーは、まだまだ子供だから。
 本人が何と言っていようと、子供なことは確かだから。
(そうして、いつか育ったら…)
 前のブルーと同じ背丈に育ったならば、今度は、どんな風だろう。
 雨上がりの風のような匂いは、きっと纏っていないから…。
(爽やかな初夏の風ってトコか?)
 今のブルーのお気に入りの場所が、庭で一番大きな木の下。
 其処に据えられた白いテーブルと椅子が、ブルーの大好きなティータイムの場所。
(あそこで吹いていくような…)
 風がブルーに似合うだろうか。
 木漏れ日が細かいレース模様を描き出す上で、木の葉を鳴らしてゆくような。
 けして強くはない風だけれど、「吹いているな」と感じる風が。


(…先のことは、まだ分からんが…)
 どういう風が似合うのやらなあ、と思いを馳せる。
 これからも何度も思うのだろうか、今夜のように風が鳴ったら。
 「ブルーは風の匂いがしたね」とレインが語った、あの日を思い出したなら。
 そんな日も、きっと悪くない。
 吹いてゆく風は地球の呼吸で、ブルーと地球に来たのだから。
 今のブルーと二人で暮らせる時が来るまで、ゆったりと待てばいいのだから…。

 

           風が鳴ったら・了


※前のブルーは風の匂い。レインにしか分からなかった匂いですけど、雨上がりの風。
 生まれ変わった今のブルーには、どういう風が似合うのでしょう。育つまでが、楽しみv











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「…ハックション!」
 ブルーの口から飛び出したクシャミ。
 何の前触れもなく、突然に。
 ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、お風呂上がりに。
 いつものようにパジャマ姿で、チョコンと腰掛けていたベッド。
 そこでいきなりクシャミが出たから、驚いた。
(え、えっと…?)
 冷えちゃったかな、と見回した自分の部屋の中。
 今は秋だけれど、今日の昼間は、暖かすぎるほどだった。
 きっとハーレイなら「小春日和」と言うのだろう。
 これから寒さに向かう季節に、何故だか春を思わせる陽気。
 そういった日を「小春日和」と呼ぶのだそうで、前に古典の授業で聞いた。
(…あの日も、暖かかったから…)
 教室もポカポカ暖まっていて、窓辺の生徒は「暑い」と言っていたくらい。
 制服のシャツの袖をまくって、半袖にしている男子もいた。
 それをハーレイがチラリと眺めて、始めた雑談。
(…英語だと、インディアン・サマー…だったっけ?)
 確か、そういう名前だった筈。
 地球が滅びてしまうよりも前に、アメリカ大陸で生まれた呼び名。
 当時のアメリカに、元から住んでいた人々のことを、インディアンと言った。
(……アメリカは、インドじゃないんだけれど…)
 高価な香辛料を求めて、インドに向かって船出していった冒険者たち。
 彼らは西へ、西へと懸命に船を進めていった。
 香辛料が採れるインドへは、東に行くのが当然のことで、近道だけれど…。
(…地球は丸いから、西へ行っても、グルッと遠回りするだけで…)
 必ずインドに辿り着くから、船乗りたちは西に向かった。
 そうして大西洋を渡って、見付けた大陸がアメリカだから…。
(住んでいるのはインドの人で、インディアン…)
 彼らは全く別の人々、インディアンではなかったのに。
 衣服も言葉もまるで別物、大陸だって違う場所だったのに。


 ハーレイが学校で教えてくれた、古典とは関係ない話。
 小春日和という言葉で始めて、インディアン・サマーを持ち出して。
(…あの話も、面白かったっけ…)
 興味津々で聞き入っていた、大勢のクラスメイトたち。
 同じ話を歴史の授業で聞かされたならば、みんな退屈したのだろうに。
(…歴史だと、アメリカ発見なだけで…)
 黒板にもそういう風に書かれて、それをノートに書き写すだけ。
 船乗りたちの冒険談など、誰も夢にも思わずに。
 新しい大陸を見付け出すまでに至った理由も、きっとつまらない。
(……香辛料は高いから、って……)
 歴史の先生にそう言われたって、「はい、そうですか」としか思わない。
 これがハーレイの雑談だったら、誰もが心を躍らせるのに。
 西に向かって船出した後、首尾よくインドに辿り着くことが出来たなら…。
(金と同じ値段で取引されてる、胡椒とか…)
 シナモンだとかカルダモンだとか、それは色々な名前のスパイス。
 船乗りたちはそれを手に入れ、ドッサリと船に積み込める筈。
 そうして故郷に戻って来たなら、それらを売って、たちまち大金持ちに。
(おまけに、王様たちが出資してるから…)
 地位や名誉も手に入る。
 インドに至る航路を見付けた英雄として。
 新しい船を建造したいと思ったならば、スポンサーだってつくだろう。
 英雄が再びインドを目指して、西へと出航するのだから。
(…考えただけでワクワクするよね?)
 それは素晴らしい冒険の旅。
 たとえ彼らが行き着いた先が、本物のインドではなかったとしても。
 全く別の新しい土地で、後にアメリカと呼ばれる場所でも。


 小春日和は、インディアン・サマー。
 けれど語源になったインディアンの方は、インドとは違う土地の人。
(確かに地球は、丸いんだけど…)
 西へ西へと向かって行ったら、確かに、いつかはインドにも着く。
 アメリカ大陸の南の果てを回って、太平洋へと進んだら。
 途轍もなく広い大海原を旅して、西へ西へと、幾つもの波を越えて行ったら。
(…そっちだと、世界一周の旅…)
 アメリカ大陸が見付かった後に、そちらに挑んだ人々もいた。
 「インディアン」たちが住んでいる場所、其処はインドではなかったから。
 インドだとばかり思っていたのに、実のところは「新大陸」。
 それなら次に目指すべきなのは、本物のインドに辿り着くこと。
 丸い地球の上を回って、東とは逆の西に向かって。
 インドに行くなら東へ行くのを、「地球は丸い」ことを信じて。
(……海は平らで、端まで行ったら大きな滝になっていて……)
 海の果てまで行き着いた船は、落ちるのだと皆が思っていた。
 滝に向かう流れに吸い込まれたなら、もはや逃れる術などは無くて。
 当時の船は、帆を張って走る帆船。
 風の力だけで走る船では、世界の果てから落ちる滝には歯が立たない。
 そうだと皆が信じた時代に、西を目指した冒険者たち。
 「地球は丸い」という説を頼りに、命を懸けて。
 本当に地球が丸いのかどうか、確かめる手段は無かったのに。
 人工衛星などは無いから、誰も「地球の姿」を知らない。
 それが丸いのか、平らなのか。
 西へ西へと旅をしてゆけば、インドに着くとは限らなかった。
 乗った船ごと、真っ逆様に滝から落ちてゆくかもしれない。
 もしも地球が丸くなければ、世界一周などは出来ずに。
 無事にインドに辿り着く代わりに、世界の端から落ちてしまって。


(…それでも旅をして行ったんだよ…)
 世界一周をした船乗りたちは…、と遠い昔に思いを馳せる。
 インディアンが住む新大陸の端を回って、太平洋という海に出て。
 世界の果ての滝を恐れもしないで、本物のインドに辿り着くために。
(凄いよね…)
 前のぼくたちの旅より凄かったかも、と傾げた首。
 白いシャングリラは地球を求めて、長い長い旅をしたのだけれど…。
(…地球の座標が謎だっただけで、宇宙の何処かに地球があるのは…)
 間違いようもない真実。
 宇宙の果ては今も謎だけれども、地球に行くには、あの時代でも困らなかった。
 広い宇宙の何処であろうと、宇宙船で行ける範囲の宙域。
 けして「宇宙の端」から落ちはしないし、そういう意味では安全な旅。
 敵は人類だけだったから。
 人類軍に船を壊されなければ、いつかは地球に着けるのだから。
(……度胸だけなら、きっと昔の船乗りの方が……)
 シャングリラにいた仲間たちより、上だったろう。
 いくらハーレイがキャプテンとして優れていたって、宇宙の端から落ちるリスクが…。
(…あるんだったら、地球を探して旅したかどうか…)
 どう考えても、危ういと思う。
 前のハーレイの最大の務めは、仲間たちの命を守ること。
 そのために人類と戦いはしても、冒険の旅には出られない。
 宇宙の端から落っこちるかもしれない旅など、白いシャングリラには「させられない」。
 確実に地球に着ける航路を見付けなければ、地球には行けない。
 昔の船乗りたちと違って、シャングリラだけが「ミュウの未来」を負っていたから。
 白いシャングリラはミュウの箱舟、冒険の旅をする船ではない。
 人類軍との戦いだったら、ギリギリの賭けをしてはいたって。
 今もハーレイが自慢している、三連恒星の重力の干渉点からワープするような。


 きっと昔の船乗りの方が度胸があるよ、と眺めた窓の方。
 今はカーテンが閉まった向こうに、ずっと先の方に、広がっている筈の地球の海。
 遥かな昔に「地球は丸い」と信じた人々、彼らが船で旅をした場所。
 地球を一周することは叶わず、世界の果てから落ちる危険があったのに。
(…ホントに凄い…)
 尊敬しちゃう、と思った所で、頭を掠めた「小春日和」という言葉。
 ハーレイが授業で話してくれた、インディアン・サマーだったのが今日の昼間で…。
(忘れてた…!)
 さっきのクシャミ、と竦めた肩。
 あれが無ければ、きっと昔の船乗りのことは、思い出しさえしなかった。
 本でも広げて読んでいたのか、あるいはのんびり座っていたか。
(…冷えちゃったのかも…)
 お風呂に入って温まった身体が、夜になって気温が下がったせいで。
 部屋の空気が思った以上に、実は冷たくなっているとか。
(風邪引いちゃったら、とても大変…!)
 船乗りの話どころじゃないよ、と慌ててベッドにもぐり込んだ。
 「寒い」という気はしないけれども、用心した方がいいだろう。
 クシャミが出たなら風邪の前兆、そういったことも少なくはない。
 今の生でも身体が弱くて、ふとしたはずみで風邪を引くから。
 昼間はポカポカ陽気の日だって、朝晩は油断出来ないから。
(……手遅れじゃありませんように……)
 お願いだから、と暖かな布団を肩の上まで引っ張り上げる。
 ハーレイの雑談を思い出したせいで、ベッドに入るのが遅れてしまって…。
(風邪を引いたら、本末転倒…)
 学校を休む結果になったら、ハーレイの話を聞き損ねる。
 そんなのは御免蒙りたいから、願わくば…。


(…誰かが噂を…)
 していたんだよ、と思いたい。
 クシャミが出たなら、誰かが噂をしているのだ、と聞いたから。
 そっちの方なら、さっきのクシャミも安心だから。
(……神様、お願い……)
 風邪の方じゃありませんように、と暗くした部屋で目を閉じる。
 暖かいベッドでぐっすり眠って、明日は元気に起きたいから。
 今のハーレイがしてくれる素敵な話を、学校でも聞いていたいのだから…。

 

       クシャミが出たなら・了


※昼間は小春日和だった日の夜、クシャミが出たのがブルー君。夜は冷えるのかも。
 けれど頭は別の方へ行って、ハーレイ先生の雑談を思い出して…。風邪を引きませんようにv











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「ハーックション!」
 突然、ハーレイの口から飛び出したクシャミ。
 ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で寛いでいたら。
 コーヒー片手の夜のひと時、急にムズムズした鼻の奥。
 「ありゃ?」と頭で思うよりも先に、派手なクシャミが飛んで出た。
 猫のミーシャが今もいたなら、驚いてピョンと跳ねそうなほどに。
 もしも膝の上で眠っていたなら、きっと慌てて逃げただろう。
(…ミーシャがいた頃の俺だったら、子供だったしなあ…)
 同じクシャミでも、もっと小型で、ミーシャは驚かなかったかもしれない。
 飛び起きたとしても、「ふあぁ…」と欠伸で、すぐに目を閉じて…。
(寝ちまったろうな…)
 だが、今のだと…、と考えるクシャミ。
 ずいぶん身体が大きくなったし、ミーシャにとっては凄い騒音。
 膝の上にいたなら、振動だって大きいだろう。
(……とんだ目に遭った、と……)
 恨みがましく見上げる瞳が、見えるかのよう。
 白い毛皮によく映えた、青く輝く瞳。
 それが自分をジッと見詰めて、「うるさいじゃない」と。
 とてもゆっくり寝られやしないと、喋れない分、苦情を山ほど詰め込んで。
(…そうなってたかもしれないなあ…)
 一人で良かった、と見回す書斎。
 幸いなことにミーシャはいないし、同居人だっていない家。
 そこは、ちょっぴり残念だけど。
 小さなブルーがいてくれたならば、今のクシャミで…。
(風邪ひいたの、って…)
 心配してくれたかもしれない。
 ミーシャのように飛びのく代わりに、近付いて来て。
 心配そうな瞳で、覗き込んで。


 けれど、この家にブルーはいない。
 一緒に暮らせるようになる日は、まだまだ、ずっと先のこと。
 クシャミが出たって、ブルーの耳に届きはしなくて、今の時間なら…。
(…寝ちまってるな…)
 いつもより夜更かししていない限り、暖かなベッドにもぐり込んで。
 夢の世界の住人になって、もしかしたなら…。
(…前の俺と、デート中かもなあ…)
 そいつは嬉しくないんだが、と零れた溜息。
 小さなブルーが夢の世界で幸せだったら、それ自体はいい。
 前の生の悲しい思い出よりかは、幸せだった時の夢を見ていて欲しい。
 そうは思っても、夢の中でデートされたなら…。
(今の俺の立場が無くなっちまうし…)
 ついでに、次にブルーの家に行ったら、御機嫌斜めかもしれない恋人。
 「前のハーレイは、優しかったのに」と、夢の話を持ち出して。
 キスもくれない「ケチなハーレイ」よりも、遥かに素敵な恋人だった、と。
(……さっきのクシャミは……)
 まさかソレか、と見開いた瞳。
(誰かが噂をしていたら…)
 クシャミが口から飛び出すという。
 夢の世界で、小さなブルーが言っただろうか。
 とても優しい恋人の、「前のハーレイ」に。
 「今のハーレイは、ケチなんだよ」と。
 信じられないくらいにケチだと、「ハーレイとは比べられないくらい」と。
(…おいおいおい…)
 勘弁してくれ、と頭を抱えたくなる。
 所詮はブルーの夢であっても、そんな不名誉な噂は勘弁。
 ブルーのためを思っているから、絶対にキスはしないのに。
 いくらブルーが誘おうとも。
 あの手この手で求められても、「ハーレイのケチ!」と詰られても。


(…前の俺と、噂話というのは…)
 有難くない話だけれども、口からクシャミが出たのは事実。
 小さなブルーが夢の世界で噂しているか、それとも他の誰かだろうか。
(飲みに行ったヤツらは、いない筈だが…)
 同僚は全員、今夜は真っ直ぐ自分の家へと帰った筈。
 「酒の肴」になってはいない、と考えたものの、世界は広い。
(…前の学校の同僚ってことも…)
 有り得るだろうし、もっと範囲を広げたならば…。
(この地球じゃなくて、何処か他所の星で…)
 誰かが噂したかもしれない。
 「そういえば…」と、「ハーレイ」のことを思い出して。
 教師仲間か、柔道仲間か、はたまた昔の同級生か。
(……うーむ……)
 心当たりがありすぎるぞ、と頭の中に浮かんでくる顔。
 もはや特定不可能なほどに。
 「俺の噂をしていただろう?」と尋ねたならば、同時に幾つも手が挙がるほどに。
(…こいつが、前の俺だったなら…)
 直ぐに誰だか分かったろうな、と考えてみる。
 白いシャングリラは、とても大きな船だったけれど…。
(所詮は、ミュウの箱舟でしかなかった船で…)
 閉じた世界に過ぎなかったから、「噂をしていた人物」の特定くらいは簡単。
 監視カメラを端から当たれば、じきに答えが出ただろう。
 そうでなければ、前のブルーに尋ねさえすれば…。
(ちょっと待ってて、とクスッと笑って…)
 シャングリラ中に張り巡らせていた、サイオンの糸を辿ったと思う。
 思念で紡がれた細い細い糸は、誰にも見えない。
 けれどブルーは、それを使って、いつだって船を見守っていた。
 深い眠りに就いた後にも、その糸は健在だったくらいに。
 物騒な地球の男に気付いて、目覚めたばかりの身体で果敢に対峙したほどに。


 前のブルーが船を守った、サイオンの糸。
 それを辿って行きさえすれば、「誰がハーレイの噂をしたか」は、一瞬で分かる。
 不名誉な噂か、そうでないかも、手に取るように。
(…しかし、あいつも…)
 それに俺も、とシャングリラの頃を思い出す。
 たとえクシャミが出たとしたって、噂は放っておいただろう、と。
 ただでも娯楽が少ない船では、噂話も楽しみの種。
 船に不安が満ちてゆくような噂だったら、直ちに消さねばならないけれど…。
(俺がしでかした失敗談なら、大いに笑って貰って、だ…)
 愉快な気分になって貰って、笑いが船に広がってゆく方がいい。
 噂の出処がブリッジだったら、其処から機関部、更に厨房や農場にまでも。
 「キャプテンが、こんな失敗を…」と皆で笑って、噂をして。
(…うん、きっとそうだ…)
 あいつも、俺も放っておくな、と白い鯨の仲間たちの笑顔を思ったけれど。
 彼らが笑っていてくれるのなら、噂されても良かったけれど…。
(……ちょっと待てよ?)
 クシャミをしたら噂だったか、と顎に当てた手。
 さっきクシャミが飛び出した時に、「噂かもな」と考えた自分。
 そして始めた犯人捜し。
 小さなブルーか、同僚なのか、はたまた古い知り合いなのか、と。
(…だが、前の俺は…)
 そんなことなどしなかった。
 クシャミが出たら「風邪か?」と不安が掠めたもの。
 キャプテンが風邪を引こうものなら、たちまち船に影響が出る。
 操舵は誰かに任せるとしても、他にも山とある仕事。
 代わりの者では瞬時に判断出来ない、船の航路の変更などが、その筆頭。
 寝込んでなどはいられないから、体調には常に気を付けていた。
 うっかり風邪など引かないように。
 下手に疲労を溜め込んだりして、病を呼び込まないように。


(クシャミが出たら、噂ってのは…)
 今の俺だ、と気付いた自分の考え方。
 青く蘇った水の星の上で、新たに学んだ日本の文化。
(一つだったら、誰かが噂していて…)
 そういえば「良い噂」だった、と今になってから思い至った。
 クシャミの回数で決まってゆくのが、噂の中身。
 一つだったら良い噂、二つだったら悪い噂といった具合に。
(すると、ブルーが夢で噂をしていても…)
 悪口の方ではなかったろうか。
 夢で「前のハーレイ」とデートをしていて、「今のハーレイ」のことを語っても。
(…ふむふむ…)
 それなら逆に嬉しいもの。
 その上、「噂か?」と、あれこれ思い巡らせたことも。
(……前の俺だと、知りようもなかったことなんだ……)
 クシャミが出たら、噂をされたと思う文化は。
 機械が統治していた時代は、日本の文化は消されていた。
 他の「余計な文化」も消されて、神さえも一人しかいなかったほど。
(…クシャミが出たら、ゴッド・ブレス・ユー、だっけな?)
 そう言う地域もあるのが今。
 クシャミと一緒に魂が抜けてしまわないよう、周りの者が唱える言葉。
(…それだって、誰も言わなかったさ…)
 そんな文化も消えていたしな、と満ちてゆくのは幸せな思い。
 ブルーと二人で青い地球までやって来たから、クシャミが出ても要らない心配。
 今の自分が風邪を引いても、仲間に危険が及びはしないし、その逆に…。
(噂が娯楽になると思って、大いにやってくれ、とだな…)
 考えたのが今の自分で、今はそういう時代だから。
 青く輝く水の星では、クシャミひとつで、あれこれと思い悩めるから…。

 

         クシャミが出たら・了


※ハーレイ先生の口から飛び出したクシャミ。ブルー君が夢で噂をしているのかも。
 あれこれ考えたわけですけれど、シャングリラの頃には無かった考え方。幸せですよねv










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