(……旅行かあ……)
次に行けるのはいつなんだろう、と小さなブルーが思ったこと。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
ふと思い付いた「旅」という言葉。
他所の土地へと出掛けてゆくこと。
生まれつき身体が弱いせいもあって、あまり旅行はしていない。
(夏休みの旅行は、忘れちゃってたし……)
ホントに綺麗に忘れちゃってた、と肩を竦めて舌を出す。
夏休みがあまりに楽しかったから、旅のことなど忘れていた。
今の学校に入学する前、父と約束していたのに。
「病気をしないで元気でいたなら、夏休みには旅をしよう」と。
初めての宇宙旅行の約束。
宇宙と言っても遠出ではなくて、ソル太陽系の外には出ない。
外へ行くどころか、火星までさえ行かない旅行。
宇宙から地球を眺めるだけの遊覧飛行で、行くのは衛星軌道まで。
(…月にも寄らずに、帰るんだけどね…)
それでも宇宙へ出るというだけで、自分にとっては大旅行。
宙港という場所を知ってはいても、其処から飛んだことは無いから。
空を飛んでゆく旅をする時は、地球の空を飛んだだけ。
離れた地域に住んでいる祖父や祖母の所を、訪ねてゆくために。
(…船の形からして、違うんだよね…)
宇宙船と、地球の空を飛んでゆく船とは。
だから楽しみに待っていたのが、もう過ぎ去った夏休み。
両親と一緒に宇宙へ行こうと、宇宙船から地球を見るのだ、と。
(…だけど、ハーレイと会っちゃって…)
毎日が楽しく過ぎてゆく内に、夏休みは終わってしまっていた。
旅の話さえ出て来ないまま、いつの間にやら。
初めての宇宙の旅をするには、体力は充分、あっただろうに。
惜しいことをした、と少しは思う。
宇宙船にも乗ってみたかったし、宇宙から地球を見てみたかった。
前の自分が焦がれ続けた夢の星だけに、父と約束した頃よりも、ずっと。
(……でも、パパとママに誘われてたら……)
自分はいったい、どうしただろう。
夏休みの前に、「約束していた旅行に行くか」と父が尋ねていたならば。
母も一緒に夕食の後で、旅のパンフレットが広げられたなら。
(……んーと……?)
青い地球と宇宙船が刷られた、それは魅力的なパンフレット。
きっと心が騒ぐけれども、旅に行くなら、この家は留守。
(…どんなに短くても、一泊二日で…)
家を空けるから、その間、自分は此処にはいない。
ハーレイが家を訪ねて来たって、カーテンの閉まった窓があるだけ。
いつもだったら、その窓から大きく手を振るのに。
夏休みの間は、毎朝のように「まだかな?」と外を見ていたのに。
(……旅行に行ったら、ハーレイに会えない……)
二人きりで過ごすお茶の時間も、昼食の時間も消えて無くなる。
なにしろ自分は此処にはいなくて、宇宙だから。
ハーレイと居場所が重ならないまま、衛星軌道を飛んでいるから。
(…それは困るよ…)
やっぱり地球よりハーレイだよね、と直ぐに出る答え。
両親に旅に誘われていたら、迷いもしないで…。
(…行かないよ、って…)
返していたのに違いない。
せっかくハーレイと会えたのだから、ゆっくり地球で過ごしたいと。
前の生の積もる話をしたいし、旅に出るより家の方が、と。
(…三百年以上もあるもんね…)
前の自分とハーレイの記憶。
どんなに話しても尽きはしなくて、次から次へと出てくるのだから。
ハーレイと地球で過ごすと言ったら、両親も納得しただろう。
恋人同士なのだとも知らず、疑いもせずに。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、今の時代も語り継がれる英雄たち。
そういう二人の生まれ変わりだけに、話も山ほどあるのだろう、と。
(…旅行の話は、きっと断っただろうけど…)
それは分かっているのだけれども、そういった旅をするチャンス。
いわゆる旅行に出掛ける機会は、いつになったら来るのだろうか。
夏休みの旅を逃したからには、その埋め合わせに…。
(…春休みとか…?)
今は欠片も見えないけれども、もしかしたら父が言うかもしれない。
「春休みに旅行に行かないか?」と。
ほんの一泊二日の旅なら、春休みでも簡単に行ける。
宙港から宇宙に飛ぶ船に乗って、宇宙から青い地球を見る旅。
(……次の誕生日のプレゼント……)
それにどうだ、と言いそうな父。
美しい青い星を見ながら、宇宙で迎える誕生日。
ソルジャー・ブルーの生まれ変わりの、一人息子には似合いのプレゼント。
うんと豪華なディナーを予約し、最高のテーブルも予約して。
(…ぼくは沢山食べられないから…)
船のシェフには、それも伝えることだろう。
食が細い息子でも食べられるように、軽めのメニューにして欲しい、と。
そして大人の両親用とは、盛り付ける量も変えて欲しいと。
(…ディナーの後には、バースデーケーキ…)
きっと間違いなく付いてくる。
次の誕生日で十五歳だから、蝋燭を十五本立てたのが。
そうして灯りも消されるのだろう、蝋燭の光が映えるようにと。
(レストランのお客さんも、みんな祝福してくれて…)
バースデーソングと拍手の中で、蝋燭の火を吹き消すのだろう。
青く美しい地球が見える席で、胸一杯に空気を吸い込んで、フーッと。
(…蝋燭の火を消すまでは…)
窓の外には、青い地球の姿が、鮮やかに見えるに違いない。
レストランの灯りを落としている分、それまでよりも、ずっと。
(……きっと、ぼく……)
その青い地球を長く見ていたくて、息を吸い込むのは、とてもゆっくり。
うんと時間をかけたいけれども、それでは他の人たちが困る。
(…みんな食事に来てるんだものね?)
だから迷惑にならない程度に、時間をかけて吸い込む息。
それを一気に吐き出したならば、ケーキに灯した蝋燭が消える。
(…十五本分…)
出来れば一度に、見事に消したい。
蝋燭を消したら灯りが点ってしまうけれども、それとこれとは話が別。
バースデーケーキの蝋燭を消すのは、バースデーパーティーのハイライト。
周りのお客さんたちも見ているのだから、其処は絵になる景色が欲しい。
消し損なった一本とかを、フーフーと吹いて消すよりも…。
(フーッて、綺麗に、いっぺんに…)
吹き消してこその、パーティーの主役。
バースデーケーキが出て来るまでは、誰もそれだと知らなくても。
ウエイターがケーキを運んで来るまで、隣のテーブルの人さえ気付いていなくても。
(…灯りが消えたら、みんな気付いて…)
心からお祝いしてくれるのだし、主役に相応しく決めたいもの。
十五本の蝋燭を、いっぺんに消して。
再び灯りがついた時には、青い地球が霞んでしまっても。
(…もともと、そう見えていたんだものね…?)
窓の向こうに浮かんだ地球は、最初からレストランの自慢の風景。
青さが少しばかり減っても、きっと充分に美しい。
そういう地球を眺めながらの、それは素晴らしい誕生日。
バースデーケーキは食べ切れないから、周りの人にもお裾分けして。
「おめでとう」と祝福して貰って。
(……春休みかあ……)
そこで旅行になるのかな、と考える。
誕生日プレゼントは宇宙旅行で、地球を見ながらバースデーケーキ。
(…ちょっといいよね?)
素敵だよね、と弾んだ心。
ソルジャー・ブルーだった頃には、ずっと憧れ続けた地球。
何度も何度も地球を夢見て、幾つもの夢を描いていた。
いつか地球まで辿り着いたら、あれをしようと、これもしようと。
(…その中に、バースデーパーティーは…)
まるで入っていなかった。
青い地球を窓の外に見ながら、食事だの、バースデーケーキだのは。
(…とても素敵なイベントなのに…)
やっぱり誕生日が無かったからかな、と傾げた首。
前の自分は、誕生日を覚えていなかった。
成人検査と残酷な人体実験、それらに記憶を奪い去られて。
(……バースデーパーティーなんか、一度も…)
やっていないし、そのせいで思い付かなかっただろうか。
青い地球まで辿り着いても、誕生日を祝うことは無いだろうから。
(…そうだったのかも…)
とは思うけれども、青い地球を眺めながらの食事。
それにバースデーケーキに灯した蝋燭、吹き消した時の祝福や拍手。
(…他のイベントでも、出来そうなんだよ…)
たとえば結婚記念日とかでも…、と思った所で気が付いた。
結婚記念日を迎える時には、もうハーレイと結婚した後。
二人で地球で暮らしている筈で、地球でやりたいことが山ほど。
誕生日は宇宙へ出てゆく代わりに、必ず地球で迎えただろう。
果てが無いほど長い旅をして、ようやく着いた夢の星なのだから。
その地球を離れて宇宙に出るなど、思い付きさえしないままで。
(…今だと、地球は、近すぎちゃう星で…)
春休みに旅に出るのだったら、ハーレイのことが心配になる。
留守の間に訪ねて来たって、窓のカーテンは閉まったまま。
門扉の脇のチャイムを鳴らしても、母の返事は返りはしない。
(…ハーレイもガッカリするだろうけど…)
ぼくもガッカリしちゃうんだよね、と容易に想像できること。
同じ誕生日を祝うのだったら、ハーレイも一緒のパーティーがいい。
青い地球など見られなくても、豪華なディナーなどは無くても。
(…地球なら、此処にあるんだものね)
近すぎちゃって見えないけれど、と浮かんだ笑み。
ハーレイと二人で、地球に来たから。
宙港から宇宙船に乗ったら、青い地球が必ず見えるのだから…。
近すぎちゃう星・了
※ブルー君が行き損なった、夏休みに青い地球を見る旅。その約束さえも忘れたままで。
次は春休みかもしれませんけど、旅に出るより地球での誕生日。ハーレイ先生も一緒にv
(当分の間は、行けそうにないなあ…)
旅ってヤツには、とハーレイが微かに浮かべた苦笑。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
ふと思いついたのが「旅」という言葉。
旅行とも呼ぶ、娯楽の一種。
当分は、それに行けそうもない。
一ヶ月や二ヶ月なんかではなくて、年単位で。
(どう考えても、二年以上は無理だな…)
行けっこないぞ、と頭に描いたチビの恋人。
十四歳にしかならないブルーは、きっと許してくれないだろう。
「旅に出てくる」と言ったなら。
たとえ一泊二日の旅でも、プンスカ怒るに違いない。
「なんで、ハーレイ、一人で行くの!」と。
「ぼくは一緒に行けやしないのに」と、「一人で好きに遊びたいんだ!」と。
なにしろ、連れては行けないから。
恋人とはいえ、まだまだ内緒の間柄。
隣町に住む自分の両親はともかく、ブルーの両親は何も知らない。
一人息子が恋をしていることも、その恋人が足繁く訪ねて来ることも。
(…それをいいことに、一緒に連れて行けだとか…)
言い出しそうなのがチビのブルーで、そうなった時は断れない。
ブルーの両親は、きっと喜んで許すだろうから。
「ハーレイ先生が一緒だったら、安心だ」と。
身体の弱い一人息子でも、保護者つきの旅なら大丈夫。
そう考えて「どうぞ、よろしくお願いします」と頭を下げるのだろう。
一人息子の魂胆も知らず、「ハーレイ先生との旅」に出してやりたくて。
旅は見聞を広めるチャンスで、世界がグンと広がるもの。
だから「是非に」と、大喜びで。
一人息子の成長を願って、「先生と旅をしてくるといい」と。
けれども、それは出来ない相談。
ブルーの両親が承知したって、肝心の自分が「お断り」。
誰も気付いていないことでも、ブルーは「恋人」なのだから。
前の生から愛していた人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
白いシャングリラでブルーに恋して、ブルーも同じに恋してくれた。
キスを交わして、愛を交わして、共に暮らした長い歳月。
もちろん今も忘れていないし、忘れられよう筈も無い。
どれほどにブルーが美しかったか。
この腕の中に抱き締めた時に、どれほど愛しく思ったのかも。
(いくらあいつがチビになっても、その辺の記憶は…)
少しも薄れちゃいないんだ、と充分にある自覚。
頭から消えてくれない面影。
(……だからだな……)
小さなブルーと、旅は出来ない。
前のブルーと重ねてしまって、道を踏み外すようなことになったら…。
(あいつの両親に顔向け出来んし、第一、俺は自分が許せん)
なんということをしたのだろうかと、自分を責めることだろう。
意志薄弱にも程があるのだし、言い訳などは、とても出来ない。
(…あいつにとっては、うんと都合がいいんだろうが…)
本当の所はどうなんだかな、と考えもする。
小さなブルーは何かと言ったら、「ぼくにキスして」と強請ってばかり。
早く大きくなろうと夢見て、せっせと牛乳を飲んでもいる。
前のブルーと同じ背丈に成長したなら、キスを許して貰えるから。
キスのその先に待っていることも、じきにお許しが出るのだろうと。
(……しかしだ……)
ちゃんと育ったブルーはともかく、チビのブルーは間違いなく子供。
「キスのその先」に待っていることは、今のブルーには早すぎる。
分かっているから、小さなブルーと旅には行けない。
もしも過ちを犯したならば、大変なことになるだろうから。
(…きっとショックで、泣き叫んだ末に…)
ブルーが心に負うだろう傷。
いくら自分が望んだことでも、「思い描いていたもの」とは酷く違ったら。
甘やかな夢が儚く砕けて、惨い現実と入れ替わったら。
(……あいつを旅行に連れてく、ってことは……)
そういうリスクを負うということ。
自制心が利かなくなった時には、小さなブルーを傷付けかねない。
前のブルーと重ねてしまって、そっくり同じに扱った末に。
(…でもって、俺も傷付くからなあ…)
旅は出来んぞ、と最初の所に戻った思考。
小さなブルーが大きくなるまで、旅は封印するしかない。
研修旅行や、柔道部の生徒を連れた旅とか、遠征試合は許されても。
小さなブルーが「仕方ないよね」と、納得してくれるケースだけ。
置き去りにされて、留守番でも。
「ほら、土産だ」と渡した何かを、「ありがとう」と素直に喜ぶ場合。
それ以外の旅は、当分は無理。
小さなブルーが前と全く同じに育って、一緒に旅するようになるまで。
何処へ行くにも、「お前も一緒に来るんだろう?」と、誘えるようになるまでは。
その日は、まだまだずっと先のことで、今の所は見えてさえ来ない。
きっと最初の旅はこれだ、と分かっていても。
二人で出掛ける新婚旅行で、行き先は宇宙なのだ、とも。
チビのブルーは、一度も地球を見ていないから。
宇宙から青い地球を見るのが、二人の新婚旅行だから。
ブルーと二人で旅に出られる時が来るまで、行けない旅行。
出掛けられない、旅というもの。
前は気ままに旅していたのに、すっかり難しくなってしまった。
「おっ、いいな」と心が動くことがあっても、「今は行けん」と諦めてばかり。
ほんの片道半日くらいで、行ける場所でも。
日帰りするには少し遠くて、一泊二日が似合う土地でも。
(一泊二日で行けるトコなら…)
小さなブルーと出会う前には、よく行ったもの。
週末にドライブを兼ねて行くとか、公共の交通機関などで。
(もっと遠くに行きたい時には、夏休みとか…)
長い休みが取れる時に合わせて、旅の予定を組んでいた。
「今度は此処を回ってみよう」と、色々な場所を組み合わせて。
この地球だけでも、長い旅なら、いくらでも出来る。
宇宙船で出掛けてゆく旅だったら、地球を離れて遥か彼方まで。
(…今だったら、行ってみたい所は…)
いったい何処の星だろうな、と考えてみる。
懐かしいアルテメシアだろうか、今の自分は知らないけれど。
前の自分が長く暮らした、雲海の星というだけで。
(…とんと興味も無かった星だが…)
ミュウの時代の始まりの星だ、と歴史の授業で教わる星がアルテメシア。
だから知らない者などいないし、前の自分の名前を刻んだ墓碑がある記念墓地だって。
けれども、記憶が戻る前には、ただそれだけの星だった。
「いつか行こう」と思いもしなくて、「機会があれば」という程度。
近くの星まで行くことがあれば、旅程に組み込むのもいい、と。
「うんと有名な星なんだしな」と、記念墓地などを見学しようと。
そう、入ってはいなかった。
旅したい星のリストには。
長い休みに出掛ける旅行で、「是非とも行きたい場所」の中には。
それを思うと、なんと変わったことだろう。
いつかは行きたい場所の一つに、アルテメシアが入るとは。
歴史で習っただけだった星が、「懐かしい星」になってしまうとは。
(…やっぱり、一度は行きたいよなあ…)
あいつが大きくなった時には、と頭に描いた雲海の星。
青い地球を見る新婚旅行が最初だけれども、ブルーと出掛けてみたい場所。
(まずは新婚旅行なんだが…)
宇宙から青い地球を見んとな、と思った所で気が付いた。
今は「地球の方が」近いのだと。
アルテメシアの方が遠くて、青い星、地球は、足の下にある。
前の生では、前のブルーが焦がれ続けた星だったのに。
ブルーは辿り着けずに終わって、前の自分だけが地球まで行った。
前のブルーの言葉を守って、白いシャングリラの舵を握って。
まるで青くない星とも知らずに、約束の場所へと、ミュウの箱舟を運んで行って。
(…着いたのは、死の星だったんだがな…)
ついでに俺も死んじまったが、と遠い日のことを思い出す。
地球の地の底で命尽きた日、ブルーの許へと魂が空へ飛び立った時。
(…その筈だったが、気付いたら、俺は…)
今のブルーと地球に来ていた。
青く蘇った母なる星に。
旅路の遥か彼方だった星が、今では二人の故郷になった。
(……こうも近すぎる星になると、だ……)
ちょいと有難味が減る気もするな、と傾けたコーヒーのカップ。
今では旅に出るとなったら、「地球から」だから。
アルテメシアの雲海で地球に焦がれる代わりに、「遠いな」と思うアルテメシア。
チビのブルーがうるさい間は、行けないから。
いつか二人で行ける時まで、雲海の星には、旅をしたくても出来ないから…。
近すぎる星・了
※当分は気ままに旅が出来ない、ハーレイ先生。置き去りにされたブルー君が怒るので。
けれど今では、近くなった地球。長い旅路を辿らなくても、足の下に地球。近すぎる星v
(…ビックリしちゃった…)
今日の古典、と小さなブルーが瞬かせた瞳。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は寄ってはくれなかったハーレイ。
放課後に会議が入っていたのか、柔道部の指導が長引いたのか。
それは全く分からないけれど、学校でハーレイには会えた。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
古典の教師になったハーレイ、その授業の中で起こった事件。
ブルーのクラスにやって来た時に、宿題を集めようとして。
(……泣き落としなんて……)
そんなの思い付かなかったよ、と驚きと共に感嘆する。
宿題を忘れた男子生徒が、そういう手段に訴えた。
前の授業で、ハーレイが予告していたから。
「宿題をやって来なかったヤツには、追加の宿題を出すからな」と。
(それが嫌だから、泣き落とし…)
宿題のことなど忘れていたろう、件の男子。
彼は「やっていません」と申し出る代わりに、真っ赤な嘘をつくことにした。
「ミミちゃんが病気だったんです」と、愛猫の名前を口にして。
家族同然の「ミミちゃん」だから、上を下への大騒ぎ。
動物病院に連れて行ったり、帰ってからも皆で見守ったりと。
(…晩御飯を食べるのも、うんと遅くなって…)
ミミちゃんの具合が落ち着いた頃には、とうに変わっていた日付。
疲労困憊してベッドに入って、宿題どころではなかった昨日。
お風呂に入るのが、精一杯で。
今日の学校の授業に備えて、時間割だけ整えただけで。
(……ホントに大変だったんだよね、って……)
心から同情した自分。
ところが、事実は違っていた。
何もかもが、口から出まかせの嘘で。
クラスメイトも騙されたけれど、誤魔化せなかったハーレイの目。
事情を聞き終えたハーレイはといえば、大きく頷いて、こう言った。
「なるほど、それは大変だったな」と同情をこめて。
自分も昔は猫を飼っていたから、「帰りにミミちゃんの見舞いに行こう」と。
聞くなり、顔色が変わった生徒。
「ミミちゃん」は病気になっていないし、昨日は、ごくごく平凡だった日。
宿題をやらずに終わった理由は、単に忘れていただけのこと。
もしもハーレイが見舞いに行ったら、家族は恐縮することだろう。
彼がついた嘘もバレてしまって、夜に帰って来た父親に…。
(ゲンコツを貰うとか、晩御飯は抜きになっちゃうだとか…)
ロクな結果になるわけがない。
仕方なく、彼は白状せざるを得なかった。
本当のところはどうだったのかを、「宿題は、やっていないんです」と。
(だから追加の宿題が出て…)
ハーレイを騙そうとした罪の分まで、別の宿題が追加になった。
「忘れました」と言うならともかく、同情を買おうとしたものだから。
愛猫が病気だと「お涙頂戴」、「泣き落とし」などを試みたから。
(……正直に言えば良かったのに……)
そうしていたなら、宿題の追加は一つだけ。
オマケの宿題は貰わなかった。
とはいえ、彼の「真っ赤な嘘」がバレなかったら、効果は大きい。
「やむなく宿題が出来なかった」上に、家族同然の「ミミちゃん」が病気。
一晩で無事に治ってはいても、誰だって気の毒に思うだろう。
病気になったミミちゃんのことも、看病に励んだ彼や家族をも。
(なのにハーレイが、宿題を追加していたら…)
きっとクラス中がブーイング。
「先生、酷い!」と、非難轟々で。
授業が終わった休み時間には、他のクラスにまで伝わって。
(……血も涙も無い、鬼教師だ、って……)
たちまち評判が立つのだろうし、自分だって、ハーレイを責めたくなる。
いくらハーレイのことが好きでも、それとこれとは別問題。
次にこの家を訪ねて来たなら、真っ先に口にすることだろう。
「ハーレイ、なんで宿題を追加しちゃったの!」と。
とても可哀想な生徒を相手に、なんということをするのか、と。
(宿題は、忘れたんじゃなくって…)
男子生徒の言い訳によれば、昨日、仕上げる筈だった。
そのつもりで予定もメモしておいたし、やらない気など全く無かった。
けれど起こった突発事故。
大切な猫が病気となったら、宿題などはしていられない。
気が気ではなくて、勉強なんかは…。
(絶対に、手につかないよね…?)
具合の悪い「ミミちゃん」のことが心配で。
動物病院に連れて行ったのが彼でなくても、家で留守番していたのでも。
(……ぼくだって、きっと泣きたくなるよ……)
ペットを飼ったことは無いけれど、気持ちは分かる。
「このまま、死んでしまったら…」と、涙がポロポロ零れるだろう。
動物病院から帰って来たって、落ち着くまではオロオロ見守る。
「ちゃんと元気になるんだよね?」と、何度も両親たちに尋ねて。
大事な家族がいなくならないかと、寝ている姿を覗き込んで。
(誰だって、きっとおんなじだよ…)
病気のペットを思う気持ちは、誰だって、きっと変わりはしない。
だから「泣き落とし」は効果絶大、彼が成功していたならば。
真っ赤な嘘だとバレなかったら、ハーレイに看破されなかったら。
そうは言っても、世の中、そこまで甘くなかった。
百戦錬磨のハーレイ相手に、通じなかった泣き落とし。
彼が貰ったのは「オマケの宿題」、ハーレイを騙そうとしていた分まで。
素直に「忘れました」と言っていたなら、追加の分だけで済んだのに。
(…思いっ切り、間抜けだったんだけど…)
それは結果がそうなったからで、バレずに成功していた時は…。
(上手くやったな、って羨ましがられて…)
ちょっとしたヒーローだっただろう。
嘘八百を並べまくって、ハーレイの同情を買ったのだから。
「そういうことなら仕方ないな」と、免除になった追加の宿題。
ついでにお見舞いの言葉も貰って、得意だったに違いない。
授業が終わって、ハーレイが姿を消したなら。
「ミミちゃん、病気だったのかよ?」と、友人たちに囲まれたなら。
(…泣き落としだぜ、ってニヤニヤ笑って…)
してやったり、という顔だったろうか。
結果は逆に転んだけれども、ハーレイを騙せていたならば…。
(すげえ、って、友達に褒められちゃって…)
たちまちクラスの英雄扱い、「頭が切れる」と大評判。
宿題を忘れた時の言い逃れに、「泣き落とし」という手は斬新だから。
咄嗟に思い付いたことやら、効果の大きさに、皆が感心して。
(……失敗しちゃったんだけれどね……)
あの手も、きっと悪くないよね、と「泣き落とし」のことを考えてみる。
自分は宿題を忘れないけれど、他の場面で役に立ちそう。
同情を買って「お涙頂戴」、使い方によっては、素晴らしい武器。
彼は泣いてはいなかったものの、本当に涙を流したならば…。
(もっと効果は抜群で……)
普通だったら、すげなく断られそうなことでも、許して貰えそうな気がする。
言われた相手が可哀想に思って、仕方なく折れて。
涙を零したくらいだったら、「駄目だ」と突き放された時でも…。
(大泣きに泣いて、泣きじゃくったら…)
どうにもこうにもならないのだから、涙を止めにかかるだろう。
最初は、僅かに譲歩してみて。
それでも涙が止まらないなら、じりじりと後退していって。
(…うんと無茶なことを言ってても…)
泣き落としという手段に出たなら、勝ち目はありそう。
目玉が溶けて流れるくらいに、おんおんと泣いていたならば。
「聞いて貰えないなら、死んじゃった方が遥かにマシだよ」と、訴えたなら。
(……うん、使えそう……)
いつか大いに役立つだろうか、たとえば両親を相手にして。
ハーレイと結婚できる年になったのに、結婚に反対されたりしたら。
両親が頑として譲らなかったら、まずはポロポロ涙を零して。
「ハーレイとしか結婚しない」と、唇を噛んで。
それで駄目なら、もう身も世もなく泣きじゃくるまで。
結婚を許して貰えないなら、家出するとか。
「御飯は二度と食べないからね」と、ハンガーストライキに入るのもいい。
痩せ衰えて死んでやるから、と涙ながらに脅しをかけて。
そういう手段に訴えたならば、両親も、きっと折れるだろう。
一人息子を失うよりかは、許した方がマシだから。
ハーレイと結婚されてしまっても、息子の命は残るのだから。
(……よーし、この手で……)
いけばオッケー、と笑みを浮かべて頷いた。
両親に反対された時には、「泣き落とし」という手が使えそうだ、と。
(…ついでに、ケチなハーレイにも…)
やってみようか、と考えてみる。
断わられてばかりの唇へのキスも、この手で貰えるかもしれない。
涙をポロポロ幾つも零して、「ぼくにキスして」と。
「ハーレイのキスが貰えないなら、死んじゃうからね」と泣きじゃくって。
これならケチなハーレイでも、と考えたけれど…。
(……鬼教師……)
男子生徒の真っ赤な嘘を見抜いたように、直ぐに見抜かれることだろう。
「馬鹿野郎!」と頭に軽くゲンコツ、おまけに罰も来るかもしれない。
「俺は当分、来ないからな」と、サッサと帰ってしまわれて。
それから何日待っていたって、一向に来てはくれなくて。
(……うーん……)
泣き落とせたらいいんだけどな、と思いはしたって、相手はハーレイ。
きっと敵いはしないものだから、ガックリと肩を落とすしかない。
「泣き落とせたなら、幸せなのに」と、「ハーレイのキスが貰えるのにね」と…。
泣き落とせたなら・了
※ハーレイ先生の授業で、泣き落としを試みた男子生徒。ブルー君まで騙されたほど。
その手を自分も使えるかも、と浮かんだ名案。ハーレイ先生には、無理そうですけどねv
(まだまだ、詰めが甘かったよな…)
この俺を甘く見るんじゃないぞ、とハーレイの顔に意地の悪い笑み。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた、コーヒー片手に。
ふと思い出した昼間の出来事。
ブルーのクラスに古典の授業で出掛けて、遭遇した珍事。
(…俺は宿題を集めただけで…)
それは、ごくごく普通のこと。
前の授業で宿題を出せば、次の時間に回収するもの。
もっとも宿題の中身によっては、もっと後になることもあるけれど。
(今日のは、1時間もあれば出来るヤツで、だ…)
翌日に回収にやって来たって、大抵の生徒は困らない筈。
家に帰って「宿題があった」と思い出して取り掛かったなら、直ぐに完成するから。
(現にだな……)
教室で「宿題を集める」と声を上げると、生徒たちはサッと用意した。
前回の授業で配ったプリント、それに対する宿題の結果を。
順に提出させたのだけれど、其処で上がった困惑の声。
とても困った顔付きをした男子生徒が、自分の席で手を挙げた。
「宿題が出来ていないんです」と。
それを聞くなり、「そうか」と重々しく頷いてやった。
「こいつが追加の宿題だからな」と、取りに来るよう促してやって。
(…そういう約束だったしな?)
宿題をやらなかった生徒は、罰に宿題を追加する。
何度も念を押してあったし、文句を言われる筋合いは無い。
ところが件の男子生徒は、泣きそうな顔で…。
(……出来なかったんです、と来たもんだ)
宿題は昨夜に仕上げる予定で、ちゃんとスケジュールを書いたメモまで。
なのに思わぬ事態が起こって、手つかずになってしまったのだ、と。
クラス中の生徒が固唾を飲んで見守る中で、彼は切々と訴えた。
「ミミちゃんが病気になったんです」と。
(…妹なのか、と訊き返したら…)
ミミちゃんというのは猫だった。
けれども彼の家族も同然、両親も可愛がっている猫。
その「ミミちゃん」が病気だというので、たちまち家中、上を下への大騒ぎ。
動物病院へ連れて行ったり、診察を終えて家に戻ってからも…。
(自分たちの食事もそっちのけで、せっせと看病……)
落ち着いた頃には、すっかり夜更けで、誰もが疲れ果てていた。
皆で黙々と遅い夕食を食べて、ミミちゃんの様子を確認してから…。
(ああ良かった、と風呂に入って…)
ベッドにもぐり込んだ頃には、日付が変わっていたという。
そんな具合だから、全く出来なかった宿題。
今日の時間割をするだけで精一杯で、古典の教科書やノートがあるのが奇跡なのだ、と。
そちらも忘れて登校したって、何の不思議も無かったのだ、とも。
(…事情を考慮して下さい、と泣き落としで…)
追加の宿題を免れようと、懸命に説明を続けた彼。
「ミミちゃん」が如何に重病だったか、大切な家族の一員なのかを。
今朝は元気になっていたから、こうして授業に出ているけれど…。
(病気が重くて死にそうだったら、学校を休んで、付きっきりで…)
ミミちゃんの看病をしていた筈だ、と彼は主張した。
そうなっていたら、宿題の提出日が今日であろうと関係無い。
授業に出席していないのだし、当然、提出義務だって無い。
追加の宿題を貰うことも無くて、何も知らずに過ごしただろう。
(でもって、例の宿題は…)
次の授業に出席した時、「遅れました」と詫びて提出。
もちろん追加の宿題は出ない。
彼は欠席していたのだから、宿題を忘れずに出しただけでも立派なもので。
(…言うことは間違っちゃいないんだがな?)
自分だって地獄の鬼ではないから、事情があったら臨機応変。
「そういうことなら、この次でいいぞ」と、無罪放免するくらいのことは、わけもない。
とはいえ、世の中、そうそう甘くは…。
(出来てないってな、生憎と)
他の生徒の手前もあるんだ、とコーヒーのカップを傾ける。
真面目に宿題をやった生徒は、きちんと評価されねばならない。
ほんの1時間で出来るものでも、仕上げるのは生徒の義務なのだから。
(…そいつをやらずに、のうのうと遊び暮らした末に…)
真っ赤な嘘で言い逃れるなど、言語道断。
しかも自分が風邪を引いたとか、腹痛だったとかなら、まだしも…。
(……猫が病気だったと、お涙頂戴……)
クラスメイトたちの同情を誘って、泣き落としという手段に出た彼。
これで追加の宿題を出せば、教師の自分が悪者にされる。
「なんて酷い」と、まず女子生徒が騒ぎ始めて。
愛猫のために頑張った彼に、罰を与えるなど、鬼の所業だと。
(そうなれば、男子も黙っちゃいないし…)
俺の人気が地に落ちるんだ、と顰めた顔。
せっかく学校で勝ち得た人気は、すっかりオシャカになるだろう。
「おい、聞いたか?」と噂がたちまち駆け巡って。
「ハーレイ先生、酷すぎるよな」と、まるで根拠の無い悪評が。
(……なにしろ、猫のミミちゃんは……)
病気なんかじゃないんだからな、とカップをカチンと指先で弾く。
宿題を忘れた男子生徒は、苦し紛れに大嘘をついた。
「こう言えば、許して貰えるだろう」と、泣き落としに出て。
きっと嘘だとバレはしないと、スラスラと嘘を並べ立てて。
それが証拠に、彼の顔色はサッと変わった。
「気の毒にな…。帰りに見舞いに寄るとしよう」と微笑んだら。
「俺が子供の頃には、おふくろが猫を飼っていたしな」と、ミミちゃんに敬意を表したら。
(…本当に修行の足りないヤツだ)
同じ嘘なら、もっとマシなのを言えばいいのに、と苦笑する。
修行を積んだ教師が見たって、「嘘かどうか」の判断に困るようなのを。
「宿題を家に忘れて来ました」という定番の方が、まだバレない。
この世の中には、本当に忘れる不幸な生徒もいるものだから。
通学鞄を逆さに振っても、「入れた筈」の宿題が出て来ない子が。
(そっちにしてれば、俺だって……)
宿題の追加を出すべきかどうか、きっと考え込んだだろう。
彼の日頃の行いなどから、総合的に判断するために。
(……しかしだな……)
あの泣き落としは頂けん、と彼に下した追加の宿題。
「特別に、これも付けてやろう」と、その場で考えた宿題もセット。
悪事を働こうとしていたのだから、相応の罰を与えなくては。
「泣き落とし」という卑怯な手段を用いた、彼に。
嘘だとバレなかった時には、「追加の宿題を出したハーレイ先生」が悪者にされる。
「猫が病気だったと言っているのに、酷すぎる」と。
きっと小さなブルーさえもが、後から責めにかかるだろう。
「どうして許してあげなかったの?」と、赤い瞳でキッと見据えて。
「酷いよ、ハーレイ!」と、正義の拳を振りかざして。
そうなっていたら、本当に目も当てられない。
生徒どころか、恋人にまで悪者にされてしまうとは。
血も涙も無い鬼教師だと、情があるとは思えない、と。
ところがどっこい、露見したのが彼の嘘。
「ハーレイ先生」が家に見舞いに来ようものなら、今度は彼が困る番。
きっと玄関を開けた家族は、とても恐縮するだろうから。
(ミミちゃんは、ピンピンしててだな…)
宿題を忘れた言い訳に使われただけで、動物病院に行ってはいない。
「泣き落とし」に出た彼はその場で、家族に叱られることだろう。
先生の手を煩わせた上に、宿題も忘れた悪人として。
場合によっては、夕食の時に、父からゲンコツを貰ったりもして。
(……本当に、あいつは馬鹿だったんだが……)
ちょっと使ってみたい気もする、と思う手段が「泣き落とし」。
彼は失敗したのだけれども、成功するなら、試してみたい。
「大の男」が「お涙頂戴」、それで解決するのなら。
頭を抱えるような難問、それがアッサリ…。
(許しますよ、と言って貰えるのなら…)
いいんだがな、と考える。
今の時点で、その難問には、まだ立ち向かっていないけれども。
立ち向かうべき時は、まだ遥か先で、欠片も見えてはいないのだけれど。
(……息子さんを、嫁に下さいと……)
ブルーの両親を泣き落とせたら、どんなにか楽なことだろう。
「嫁に欲しい」と思う気持ちに嘘は無いから、いくらでも泣ける。
結婚を許して貰えないなら、首を括って死ぬとでも。
高い崖から身を投げるとでも、底無しの沼に飛び込むとでも。
(…あいつを嫁に貰えないなら、生きていたって意味が無いからなあ…)
泣き落とせたら、どんなにいいか、と思うけれども、きっと、その手は使わない。
同じブルーを貰うのだったら、正々堂々、正面から突破したいから。
何度、門前払いを食おうと、懲りずに通い詰めるのだから…。
泣き落とせたら・了
※ハーレイ先生の授業中に起こった「泣き落とし」。宿題を忘れた男子生徒の、真っ赤な嘘。
それが切っ掛けで、使ってみたくもある「泣き落とし」。いつかブルーの両親相手にv
(ハーレイ、何をしているのかな…)
今頃は家でどうしてるかな、と小さなブルーが思ったこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は寄ってはくれなかったハーレイ。
とはいえ、学校では会えた。
挨拶出来たし、廊下で暫く立ち話だって。
(だから、会えてないわけじゃないけど…)
帰りに寄ってくれるかも、と待っていたから、少し寂しい。
「もしかしたら」と、もう来ないのが確実になるまで、何度も時計を眺めたりして。
ハーレイはきっと学校で会議か、柔道部の指導で遅くなったか。
どちらかだろうと分かってはいても、「来て欲しかったな」と零れる溜息。
ほんの他愛ないことであっても、会って話が出来たら良かった。
両親も一緒に食べる夕食、その時間だって。
(…他の先生と食事に行っちゃったとか…?)
そういう可能性もある。
同僚の教師に誘われたならば、行かねばならない時も沢山。
(そっちの方だと、まだ食べてるかな?)
遅い時間まで開けている店で、他の先生たちと賑やかに。
それとも食事の時間は終わって、お酒がメインの店に移って…。
(みんなでワイワイ…)
やってるのかも、と考えもする。
そういった店に出掛ける時には、ハーレイは「飲まない」らしいけれども。
酒を飲んだら、運転できないハーレイの愛車。
学校に置いて出掛ける代わりに、他の先生たちを乗せてゆく。
そして一滴も酒を飲まずに、帰りもやっぱり運転手。
ハーレイの家から遠い人の順に、家へと送り届ける係。
(お酒を飲むのが終わったんなら…)
もう運転しているだろう。
前のハーレイのマントの色と、そっくり同じな濃い緑色をしている車を。
どうなのかな、と眺める窓の方。
もうカーテンは閉まっているから、外は見えない。
ついでに、サイオンの目を凝らそうとしても…。
(……なんにも見えない……)
今のぼくには無理なんだよ、と悲しい気持ち。
前と同じに最強の筈の、サイオンタイプ。
人に言ったら羨ましがられる、青いサイオン・カラーの持ち主。
(……だけど、その色……)
見たいと言われても、どう頑張っても見せられない。
「タイプ・ブルー」は名前ばかりで、中身を全く伴わないから。
ほんの子供でも使える思念波、それさえも、ろくに紡げはしない。
あまりにも自分が不器用すぎて。
母でさえも、子育てで音を上げたほどに。
(…赤ちゃんのぼくが、泣いていたって…)
どうして激しく泣いているのか、母には掴めはしなかった。
普通の子ならば、漠然と伝わってくる思念。
「お腹が空いた」だとか、「もう眠い」だとか。
それさえ何も零れてこなくて、まるでお手上げだったという。
(今なら、ぼくの心の中身は、零れ放題なんだけど…)
赤ん坊の思考は、完成されてはいないもの。
だから零れても意味が無かった。
思念波と思考は、少しばかり違うものだから。
赤ん坊が「これが欲しい」と訴える手段は、まだ弱々しい思念波だから。
(……うーん……)
本当に駄目になっちゃった、と自分でも情けないサイオン。
前の自分なら、自由自在に使いこなせていたというのに。
今、ハーレイが何処にいようが、一瞬で…。
(場所を掴んで、何をしてるかも直ぐに分かって…)
きっと満足したことだろう。
他の先生たちと食事していても、「楽しそうだよね」と微笑んで。
いつか自分が大きくなったら、一緒に食事に行こうと夢見て。
(…それさえ、分からないんだよ…)
ハーレイが家で過ごしているのか、外にいるのかも。
家にいるなら、この時間なら書斎だろうか。
(晩御飯の後には、書斎でコーヒー…)
それが好きだと聞いている。
今夜も、そちらの方かもしれない。
(そっちだったら、前のぼくなら…)
思念を飛ばして、あれこれ話が出来ただろう。
今の自分には、逆立ちしたって無理なのだけれど。
(……それに、思念波……)
普段の暮らしでは使わないのが、今の時代のマナーの一つ。
サイオンも同じ。
おまけに、通信機というものがあっても…。
(…夜遅い時間に連絡するのは…)
やっぱり社会のマナーに反する。
他所の家に通信を入れるのだったら、早すぎも遅すぎもしない時間に。
急ぎの用なら、それ以外でも許されるけれど。
(……ずっと昔は……)
人間が辛うじて月まで行けた程度の頃には、違ったという。
誰もが、いつでも、持ち歩いていた小さな通信機。
それを使って二十四時間、何処の誰とでも連絡が取れた。
地球の上なら、それこそ裏側にいる人とでも。
時差などはまるで気にすることなく、飛び交ったという数多の通信。
(…それがあったら…)
今、ハーレイに連絡をしたら、直ぐに返事が返るのだろう。
「何処にいるの?」と訊いたら、「家だ」とか、「店にいるぞ」だとか。
そして食事をしているのならば、料理の写真も届いた筈。
「もう半分ほど食っちまったが…」だとか、「美味いんだぞ」とか。
(……その通信機……)
とても欲しいと思うけれども、二度と作られることはない。
人間がそれを作った結果が、地球の滅びに繋がったから。
いつでも何処でも繋がる世界は、文明を発展させた挙句に、地球を殺した。
その上、便利だった機械は…。
(……地球の地下に作られた、グランド・マザーと……)
宇宙に広がるマザー・ネットワーク、それへと転用されてしまった。
人間が便利に使うものから、人間を支配するものへと。
出産さえも機械が支配し、コントロールしたSD体制の時代。
その恐ろしさを経験したのが、ミュウという種族。
SD体制の中で行われた、壮大な実験に耐えて生き残った新人類。
「過ちは、二度と繰り返すまい」と、幾つもの禁止事項が生まれた。
地球が燃え上がって、SD体制が崩れ去った後に。
気が遠くなるほど長い時を経て、青い水の星が蘇るまでに。
前の自分が生きた時代は、SD体制の末期に当たる。
(……今の世界の始まりの、大英雄……)
そう呼ばれるのがソルジャー・ブルー。
偉大な初代のミュウたちの長。
(ソルジャー・ブルーは、ぼくなんだから…)
命を懸けてSD体制と戦い続けて、最後はメギドを沈めて死んだ。
ミュウの未来を、白いシャングリラを守るためにと。
ハーレイとの絆が切れてしまったと、泣きじゃくりながら。
温もりを失くして凍えた右手を、最期まで嘆き悲しみながら。
(…そのぼくが、禁止されてる機械を…)
欲しがったりしては駄目だろう。
いくらハーレイと話がしたくて、今の様子を知りたくても。
どんなに便利な機械だろうと、それは昔に悲劇を招いた物なのだから。
(…生まれ変わったのが、今の時代じゃなくって…)
昔だったなら、良かっただろうか。
そういう機械が何処にでもあって、地球が滅びてはいなかった時代。
滅びに向かっていたと言っても、まだまだ余裕があった時代に。
(…それなら、ハーレイに連絡するのも…)
簡単だろうし、同じに青い地球の上でもある。
今よりも、自然が少なくても。
一度滅びた後の地球の方が、ずっと緑が多いとしても。
(……生まれ変わるのは、未来でないと駄目なのかな?)
昔に行くのは無理なのかな、と考えてみる。
時間旅行は出来ないけれども、生まれ変わりは神の管轄だから…。
(昔にだって、行けるのかもね?)
ハーレイと二人で、時を飛び越えて。
今よりもずっと遠い昔に、人類が地球しか知らなかった頃へと。
(生まれ変わるのが、昔だったなら……)
何処がいいかな、と傾げた首。
二十四時間、繋がっていられる機械のある時代も良さそうだけれど…。
(もっと昔の方がいいかな?)
豊かな自然が溢れた地球。
自動車さえも無いような昔。
(……自転車も無くて、車と言ったら……)
牛車だった時代が素敵だろうか。
今のハーレイが授業で教える、古典の世界。
(…合戦なんかは怖いから…)
日本が一番平和だったという、平安時代がいいかもしれない。
戦いが皆無だったわけではなくても、僻地の方で起こっていただけ。
(その頃の、都……)
其処に生まれて、ハーレイと出会う。
聖痕は時代にそぐわないから、他の何かが切っ掛けになって。
(不自由なく暮らすなら、貴族なんだけど…)
立派な御殿もいいのだけれども、鄙びた田舎暮らしもいい。
生きてゆくのに困らないなら、とても小さな家だって。
(ハーレイなら、きっと、村一番の働き者で…)
ひ弱なチビの子供の恋人のことも、大切にしてくれるだろう。
自分の畑で採れた野菜を「美味いんだぞ」と届けてくれて。
あの時代ならば貴重な米さえ、食べさせてくれるかもしれない。
「正月くらいは餅もいいだろ?」と。
風邪で寝込んでしまった時には、薬草を採って来たりもして。
(うん、いいかも…)
今の時代も素晴らしいけれど、遥かな昔の地球だって、いい。
ハーレイと生きてゆけるのならば。
たとえ貧しい暮らしであっても、二人、一緒にいられるのなら。
(…だけど、サイオンだけは欲しいな…)
長い時間を共に生きられる、長い寿命と、年を取らない身体は欲しい。
他には何も要らないから。
ハーレイが側にいてくれるならば、欲しいものなど、何も無いから。
(それくらい昔だったなら…)
通信機さえも無いのだけれども、きっと幸せに生きられるだろう。
愛おしい人と一緒だから。
前の生で最後まで焦がれ続けた、青い水の星の上なのだから…。
昔だったなら・了
※ハーレイ先生と生まれ変わった先が、今よりも昔だったなら、と考え始めたブルー君。
田舎で貧しい暮らしであっても、ハーレイ先生がいれば幸せなのです。それと長い寿命v