(…ハーレイ、来てくれなかったよ…)
残念だよね、と小さなブルーが零した溜息。
ハーレイが寄ってはくれなかった日、お風呂上がりにパジャマ姿で。
ベッドにチョコンと腰を下ろして、会えずに終わった恋人を想う。
学校では挨拶できたけれども、あくまで「ハーレイ先生」の方。
「先生」と呼んで、敬語で話さなければいけない相手。
今は教師と教え子だから。
遠く遥かな時の彼方とは、事情が違うものだから。
(ハーレイが家に来てくれた時しか…)
呼び捨てにすることは出来はしないし、恋人同士の会話も無理。
だから毎日、待っているのに、こうして会えない日だって多い。
(…前のぼくが行きたくて夢に見ていた、地球よりは、ずっとマシだけど…)
ハーレイは夢や幻ではないし、今日は駄目でも明日がある。
明日が駄目でも、そのまた明日が。
前の自分が夢に見た地球は、座標さえも掴めていなかったのに。
(…それに、本物の地球の姿は…)
焦がれ続けた青い星とは違っていた。
前の自分は、そうだと信じて夢を見たのに。
フィシスが抱いていた青い地球の映像、それを本物だと信じたのに。
(…前のハーレイが見た、地球は赤くて…)
砂漠化した大地と、毒素を含んだ海に覆われた死の星だった。
そうとも知らずに「地球に行きたい」と見ていた夢より、今のハーレイの方がいい。
会い損なっても、その内に、ちゃんと会えるから。
「ハーレイ先生」の方で良ければ、今日だって、学校で会えたのだから。
(…文句を言ってちゃ駄目なんだけどね…)
でも寂しいな、と思う気持ちは止められない。
もしもハーレイが来てくれていたら、楽しい時間を過ごせた筈。
夕食の席には、両親も一緒だったって。
ダイニングのテーブルに着いた時には、恋人同士の話題は厳禁だって。
それでもいいから、と思うけれども、駄目だった今日。
明日に期待をかけるしかなくて、明日も学校で授業がある日。
週末だったら、ほぼ間違いなく、ハーレイが訪ねて来てくれるのに。
何か用事が出来ない限りは、午前中から。
(……週末は、まだ先……)
明日、会えるかは運次第。
放課後のハーレイの予定次第で、どうなるかは、まるで分からない。
幸いなことに、古典の授業があるけれど…。
(…当てて貰えるかどうかは、分かんないよね…)
それも運だよ、と恨めしい気分。
どんなに勇んで手を挙げたって、当てて貰えない日も多い。
「ブルー君」と呼ばれる代わりに、他の生徒が当てられて。
その子の答えが間違っていても、「答えられる人は?」と訊かれないままで。
(…授業の進め方は、ハーレイ次第…)
どういう心づもりでいるのか、生徒の自分には教えてくれない。
後から話してくれる日はあっても、肝心の授業の最中には。
(それで当然なんだけど…)
ぼくは生徒で、ハーレイは「先生」なんだものね、と諦めの境地。
「前みたいには、いかないよね」と、白いシャングリラで暮らした時代と比べてみて。
(…あの頃は、ぼくはソルジャーで…)
こんなチビでもなかったから、と「今との違い」は承知している。
比べるだけ無駄で、そうは言っても、今の方が遥かに「いい」ことは。
平和な青い地球で暮らせる、今が恵まれていることは。
(……分かってるけど……)
でも…、と愚痴を言っても始まらない。
仕方ないから、明日の準備を確認してみることにした。
ハーレイの授業がある日なのだし、忘れ物をして行かないように。
宿題も、予習も復習も、とうに済ませてあるから…。
(忘れ物だけ…)
調べなくちゃ、と勉強机の方に向かった。
通学鞄は其処にあるから。
勉強机の横が定位置、下げてあるのを取って、机に置いて…。
(教科書と、ノート…)
時間割表と照らし合わせて、「全部あるね」と頷いた。
明日、学校で必要なものは、これできちんと揃っている。
(…後は、ペンケースとか…)
それもあるよ、と鞄を覗いて、ふとペンケースを開ける気になった。
消しゴムもペンも、中に入っている筈だけれど。
家では使っていないのだから、何も欠けたりしていない中身。
何の気なしに開けた途端に、コロンと転がり落ちたペン。
(あっ…!)
落っことした、と思う間もなく、ペンはコロコロ転がって行って…。
(……嘘……!)
消えちゃったよ、と丸くなった瞳。
落っこちたペンは、ベッドの下に入って行った。
コロンコロンと転がった末に、まるで「かくれんぼ」をするかのように。
「此処までおいで」と言わんばかりに、持ち主の自分を置き去りにして。
(……ベッドの下……)
ぼくの手が届くといいんだけれど、と机を離れて、覗いた自分のベッドの下。
ついさっきまで腰掛けていたベッドの下が、ペンの隠れ家。
(…何処に行ったわけ?)
この辺から入って行ったよね、と床に腹ばいになって、愕然とした。
ペンの姿は見付かったけれど、ベッドの反対側の端っこ。
壁際と言っていいほどの場所で、手を突っ込んでも届かない。
もちろん、壁とベッドの間に、頑張って手を差し込んでも…。
(…ぼくの手じゃ、拾えないんだから…!)
せめて壁際まで転がっていたら、届くのに。
そうではない場所に落ちているペン、コロンコロンと転がって行って。
自分の手では無理だから、と物差しに縋ることにした。
これなら長いし、マジックハンドのように引き寄せられるかも、と。
(……んーと……)
もうちょっとかな、と精一杯に手を伸ばすのに、届かない。
壁とベッドの間の方から攻めてみたって、届いてくれない。
反対側へと転がせたならば、ベッドの下から出て来ることもありそうなのに。
物差しでコツンと上手くつつけば、コロンと転がりそうなのに。
(……うー……)
全然ダメ、と格闘し続け、疲れ果てて座り込んだ床。
「前のぼくなら、サイオンで直ぐに拾えたのに」と溜息をついて。
きっと苦も無くヒョイと拾って、ペンケースに戻したのだろう。
拾うどころか、一瞬の間に、ペンケースの中へ瞬間移動をさせたりもして。
(…ぼくのサイオン、不器用だから…)
ペンの一つも拾えやしない、と眺める物差し。
こういうマジックハンドもどきを使ってみたって、今の自分は何も出来ない。
ベッドの下へと逃げ込んだペンを、拾いたくても。
どう頑張っても、腕の長さが足りないから。
それに不器用すぎるサイオン、それも役には立たないから。
(……仕方ないよね……)
明日は違うペンを持って行かなきゃ、と思った時に聞こえた足音。
階段を上って来る足音で、この感じだと明らかに父。
(そうだ、パパなら…!)
拾えるよね、と急いで立ち上がって、駆け寄ったドア。
バタンと開けて、「パパ!」と叫んだ。
「ぼくのペン、拾って欲しいんだけど」と、大きな声で。
「ベッドの下に落っこちちゃった」と、「ぼくには、拾えないんだよ」と。
「パパ、お願い!」
こっちだよ、と父の手を掴んで引っ張った。
廊下に出て行って、グイグイと。
「ほほう…? お前じゃ拾えないのか…」
部屋に来た父は、ベッドの下を覗き込むなり、「あれか」と腕を突っ込んだ。
「パパ、届きそう?」
「どうだかな…。もう少しだが…」
「じゃあ、これで取れる?」
床に転がっていた物差しを渡したら、父は「よし」と掴んで突っ込んで…。
「ほら、ブルー。拾えたぞ、お前の大事なペン。しかし、なんだな…」
「なあに?」
「お前、ソルジャー・ブルーなのにな、と思ってな。…早く寝るんだぞ」
パジャマのままだと風邪を引くぞ、と額を指で弾かれた。
「いつまでも夜更かししているというのは、感心せんな」と。
「ごめんなさい、パパ…。ありがとう、困っていたんだよ」
「このくらいのことは、何でもないさ。次からは早く呼びに来なさい」
ペンでも何でも拾ってやるから、と父は「おやすみ」と出て行った。
「困った時には、パパを呼べよ」と、「もちろん、ママでもいいんだからな」と。
「…おやすみなさい…」
ありがとう、と部屋のドアを閉めて、ペンをペンケースに入れて。
鞄に仕舞って、父の言葉を思い出した。
「困った時には、呼べよ」と言ってくれた父。
それに母だって、困った時には、きっと助けてくれるのだろう。
(…前のぼくだったら、困ったとしても…)
助けなど来はしなかった。
ソルジャー・ブルーの手に負えないなら、他の仲間の手に負える筈がないのだから。
前の自分は「困っている仲間」を助けるばかりで、逆は無かった。
ただ一人きりのタイプ・ブルーで、ただ一人きりのソルジャーだった自分。
次のソルジャーのジョミーを船に迎えた後にも、やはり一人でメギドを沈めた。
他の仲間には出来ないことだと、誰よりもよく分かっていたから。
(…だけど、今だと…)
ペンを落としてしまっただけでも、父が助けに来てくれた。
母だって拾ってくれるだろうし、他のことでも助けてくれる。
「困った時には、呼べよ」と父が言った通りに。
ペンを落とした程度のことでも、困った時には助けが来る。
(…ぼくって、幸せ…)
困った時には、助けてくれる人がいるんだよ、と浮かんだ笑み。
両親も、それにハーレイもいるし、他にも数え切れないほど。
サイオンは不器用になったけれども、今の自分は「ただのブルー」になったから。
ペンを落としてしまったくらいで、「助けて!」と誰かを呼びに行くことが出来るから…。
困った時には・了
※ブルー君が落としてしまったペン。自分では拾えなくて、諦めかけていたんですけど…。
それを拾ってくれたパパ。その程度のことでも助けが来るのが、今の平和な時代ですv
(……うーむ……)
困ったな、とハーレイが眉間に寄せた皺。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップに淹れた熱いコーヒー、困った件は、それとは別。
「そういえば…」と気になった来週の予定のこと。
(…何も考えずに引き受けちまった…)
俺としたことが、と唸る失態。
同じ古典の教師の一人が、出る予定になっていた会議。
ところが用が出来たと言うから、「私が出ますよ」と引き受けた代理。
困った時はお互い様だし、いつか自分が「お願いします」と頼む日だってあるだろう。
今日までに勤めた幾つもの学校、其処で経験済みだから。
(…引き受けたまではいいんだが…)
その日には何の予定も無いから、「いいですよ」と名乗りを上げた。
わざわざ手帳を開かなくても、「用のある日」は把握している。
だから引き受けたのだけれども、その日の予定が空いていただけで…。
(…前の日は、俺が研修でだな…)
代わりに会議に出る次の日は、自分が出席する会議。
それも放課後、代理を引き受けた会議も放課後。
(…研修の日は、学校に戻れそうにないしな…)
つまり続けて三日もの間、自由にならない放課後の時間。
ブルーの家にも寄れはしなくて、きっとブルーは膨れっ面。
「今日もハーレイ、来なかったよ」と唇を尖らせて怒っているか、残念がるか。
十四歳にしかならないチビの恋人、寂しがるのも無理はない。
けれど、問題はブルーのことではなくて…。
(…柔道部の指導が、三日もお留守になっちまう…)
そいつはマズイ、と考え込んだ。
部員だけでも稽古は出来るし、会議の日なら、朝練の時に指導も出来る。
放課後の活動内容の方も、「こうするように」と指示してはおける。
「俺の指導の通りにしろよ」と、徹底するよう、睨みもして。
柔道部の活動で心配なのが、生徒の怪我。
顧問の自分がついていたって、時には起こりがちなもの。
まして「顧問が不在」となったら、部員たちは無茶をしかねない。
実力以上の技を使って、挙句に自分が怪我をするとか、相手に怪我をさせるとか。
(…これが、よくあることなんだ…)
お目付け役が三日もいないと、三日目には何が起こることやら。
そちらの方も心配な上に、気がかりなのが「伸びている」部員。
順調に力をつけているから、ここぞとばかりに指導中。
その「彼」に稽古をつけてやれない。
三日もの間、不在だから。
彼に指導をしてやりたくても、「自分」は二人いないから。
(…どうしたもんだか…)
本当にウッカリしていたな、と後悔しても始まらない。
一度引き受けた会議の代理を、更に「他の誰か」に回すことなど、論外だけに。
(……三日のブランクは大きいぞ……)
自分にも経験があるから分かる。
子供時代に家族と旅行に出掛けた後には、明らかに落ちていた実力。
旅先で柔道の稽古はしないし、どうしても鈍ってしまった技。
流石に今では、そんなことなど無いけれど。
もう安定して「強い」けれども、そうなるまでの道は長いもの。
せっかく強くなれそうな部員、大きく伸びるチャンスを三日も失うと…。
(…取り戻すには、三日で済みやしないんだ…)
彼が稽古に熱心なだけに、なんとも惜しい。
しかも「稽古が出来なくなる」のは、自分のせい。
あの時、手帳を広げていたなら、直ぐに「駄目だ」と気付いたろうに。
何も予定は無い日であっても、「其処は柔道部に行かないと」と。
(……弱ったな……)
誰か代わりの者がいれば、と思ってはみても、代わりになれる教師はいない。
何処の学校へ赴任した時も、着任するなり任されたのが柔道部やら、水泳部。
「ハーレイ先生なら、間違いないから」と、プロ級の腕に期待をされて。
今の学校でも、そうだった。
少し遅れて着任したのに、それまで顧問をしていた者から引き継いだのが柔道部。
(…あの先生なら、いるんだが…)
素人だしな、と零れる溜息。
柔道に関しては、まるで素人だったのが前任者。
やっていたのは他のスポーツ、サッカーだったか、バスケットボールだったか。
(運動だけは出来るもんだから…)
柔道部の顧問をしていただけで、直接、指導に入ってはいない。
部員たちの稽古に目を光らせて、怪我をしないよう見張るのが仕事だっただけ。
(…三日間、監視は頼めたとしても…)
指導が出来なきゃ、どうにもならん、と「伸びつつある部員」の顔を思い浮かべる。
三日間、指導が出来ないばかりに、どれほどの損をさせてしまうことか。
彼自身には自覚が無くても、その三日間が「もったいない」。
(…週末だったら、道場で習っているんだが…)
大抵の柔道部員はそうだし、「彼」も土日は家の近くの道場に行く。
その道場に任せられるなら安心だけれど、平日の稽古は柔道部になっているものだから…。
(あいつだけ、そっちに行けというのも…)
変な話で、他の部員にも公平ではない。
だから「なんとかしたい」とはいえ、入れてしまった会議の予定は変えられない。
自分の身体も二つ無いから、「会議も、それに柔道部も」と欲張るのは無理。
(……迂闊だったな……)
なんとも困った、と額を軽くコツンと叩く。
「ウッカリ者め」と、「ちゃんと手帳を見ないからだ」と叱り付けるように。
そうした所で、どうなるわけでもないけれど。
分身の術など使えはしないし、三日間の間、柔道部の方は指導者不在。
(…どうにもならんな…)
俺のミスだ、と少し冷めかけたコーヒーを傾け、ハタと膝を打った。
「そうだ、あの手があるじゃないか!」と。
自分は「二人いない」けれども、「柔道に強い」者なら何人もいる、と。
(道場のヤツらに頼めばいいんだ…!)
いわゆる出稽古、たまに下の学校に教えに行ったりするのが道場の仲間。
彼らは「教える」のが仕事なのだし、手が空いている者もいるだろう。
(…来てくれる分の費用は、俺が支払いさえすれば…)
学校も文句を言いはしないし、むしろ歓迎かもしれない。
三日間も顧問が不在になるより、「腕に覚えの柔道の達人」が来てくれるなら。
(よし…!)
それだ、と急いで通信機のある部屋に走った。
この時間でも、道場の仲間に連絡はつく。
誰にしようか少し迷って、「こいつでいいか」と入れた通信。
呼び出し音の後に、彼の声が「はい?」と聞こえたものだから…。
「急な話で申し訳ないが、来週、誰か、空いていないか?」
俺の学校で指導を頼みたい、と通信しながら頭を下げたら、「いいぞ」と返って来た答え。
「俺が行こう」と、早速に。
「来週なら、俺が空いているから。…しかし、いきなり、どうしたんだ?」
「それがだな…。ついウッカリと、下手に予定を入れちまって…」
こういうわけだ、と事情を話して、「よろしく頼む」と費用などのことを尋ねたら…。
「水臭いヤツだな、そんなのは要らん。困った時はお互い様だろ?」
お前もそれで会議の代理に行くんだろうが、と豪快に笑い飛ばした相手。
「俺ならタダでかまわないぞ」と、「後進の指導もいいもんだ」と。
こうして決まった、「顧問の代理」。
彼が来たなら、部員たちも喜ぶことだろう。
(…俺と違って、道場の師匠というヤツだしな?)
実力は俺と変わらないが…、と分かってはいても、重みが違う。
「顧問の教師」と、「道場で教えている師匠」では。
(…これで来週も安心だ)
柔道部も会議も両立したぞ、と嬉しくなる。
自分は二人いないけれども、代わりの者が来てくれるから。
「困った時はお互い様だ」と、引き受けてくれた道場仲間が。
ホッと息をつき、傾けたカップ。
コーヒーはすっかり冷めているけれど、その甲斐はあった。
(俺が抜ける分を、埋めて貰えることになったし…)
ブルーが膨れるだけで済むな、と思った所で気が付いた。
「今の自分」が困った時は、どれほどの者が「自分を助けてくれる」のかと。
「困った時はお互い様だ」と、何人が「代わりをしてくれる」のか。
(…一人や二人どころじゃないぞ?)
シャングリラの頃とは、まるで違うな…、と浮かんだ笑み。
あの頃は、誰もいはしなかった。
キャプテンの代わりが務まる者など、ただの一人も。
(…だからブルーも、俺にジョミーを託して行って…)
俺はシャングリラに残されちまった、と思い返して、今の幸せを噛み締める。
ブルーが膨れっ面になろうと、「自分の代わり」は見付かったから。
ただそれだけのことが嬉しい。
困った時は、お互い様。
そう言ってくれる者が何人もいるし、何人もが助けてくれるのだから…。
困った時は・了
※ついウッカリと予定を入れてしまった、ハーレイ先生。困っていたんですけれど…。
「お互い様だ」と代理を引き受けてくれた、道場の仲間。それだけのことが、嬉しい今v
(……んーと……?)
この辺にあった筈なのに、と小さなブルーが傾げた首。
ハーレイが寄ってくれなかった日に、夕食の後で。
宿題も予習も済ませたけれども、ハタと気になった消しゴムのこと。
今日も勉強机で使って、その後、ちゃんと片付けたかと。
(ペンや鉛筆は、ペン立てに入れて…)
消しゴムは引き出しに入れるのだけれど、それを仕舞った覚えが無い。
いつもだったら、消しゴムを使った時に出来てしまうクズをゴミ箱に捨てて…。
(消しゴム、引き出しに戻すんだけど…)
そうした覚えがまるで無いから、「消しゴムは?」と見に行った机。
両親と一緒の夕食を終えて、部屋に戻るなり、真っ直ぐに。
けれど、見当たらない消しゴム。
机の上には姿が無くて、「この辺だった」と最後に置いた場所も空っぽ。
消しゴムのクズを掃除した後の、綺麗な机があるだけで。
(…引き出しの中に片付けたのかな?)
ぼくが覚えていないだけで…、と開けた引き出し。
ノートや教科書などと一緒に、文具を入れるスペースもある引き出しだけれど…。
(入っていない…?)
普段は其処に片付けるのに、消しゴムの姿は何処にも無い。
ペン立てには入れない予備のペンやら、替え芯は入っているというのに。
(…此処に無いなら…)
捨てちゃったんだ、とゴミ箱の方に目を遣った。
きっと自分がボンヤリしていて、消しゴムを使った後のクズと一緒に。
「ゴミはゴミ箱に入れないと」と、払ったついでに、消しゴムまで。
消しゴムは小さくて軽いものだし、そうなることもあるだろう。
ゴミ箱に捨てようとしていた「自分」が、「これもゴミだ」と思ったら。
心が何処かに出掛けてお留守で、「消しゴムだ」と見抜けなかったなら。
やっちゃったかも、と自覚は充分にある。
宿題も予習も手抜きしなくても、心は他所に飛んでいただけに。
「今日はハーレイ、来てくれるかな?」というのが、最初の頃の自分の考え。
仕事が早く終わった時には、家を訪ねて来てくれるから。
(…ハーレイが来られる時間を過ぎてしまった後は…)
明らかにガッカリしていた自分。
「今日は来てくれなかったよ」と溜息をついて、恨めしげに見た時計の針。
夕食の支度に充分間に合う時間を過ぎたら、もうハーレイは来てはくれない。
「お母さんに迷惑かけるだろうが」と、余計に作る夕食の分を心配して。
両親が何度「どうぞ」と言っても、「いいえ」と遠慮し続けて。
今日もそういう時間が来たから、寂しい気分になってしまった。
それまでの期待はすっかり萎んで、「今日は、ハーレイが来てくれない日」と。
(…だけど予習はしなくっちゃ…)
ハーレイが来てくれないのならば、明日の分まで先取りして。
夕食までの間に進められるだけ、先に進めておきたいもの。
明日の分も、明後日の分も。
次にハーレイが来てくれた時に、「出来ていない」と焦らなくても済むように。
(だから頑張って、いろんな科目…)
教科書やノートを端から広げて、欲張った。
「これもやろう」と、「こっちの予習もしておこうかな」と。
その時に使っていた消しゴム。
間違えて書いてしまった文字やら、「この方がいいな」と書き直すために消した文字。
実に頼もしいパートナーだから、何度ゴシゴシ消しただろう。
「これは駄目だ」と思った箇所やら、書き直そうとしていた箇所を。
(消しゴムのクズも、増えて行くから…)
時々、ゴミ箱に入れていた。
「邪魔だものね」と手で払っては、「これはゴミだよ」と捨ててしまって。
予習の時間が終わった後には、より念入りにチェックした机。
「消しゴムのクズが、何処かに残っていないかな?」と。
これが最後の仕上げとばかりに、ティッシュペーパーで机を払いもして。
(…あの時に、消しゴムのクズと一緒に…)
捨てたかもね、と覗いたゴミ箱。
とても役立つ消しゴムなのに、その中に捨ててしまったろうか、と。
あれほどゴシゴシ文字を消しては、うんと役立ってくれたのに。
勉強の時間のパートナーとして、きちんと仕事をしてくれたのに。
(……捨てちゃったなんて……)
あんまりだよね、と心で謝りながら、手をゴミ箱に突っ込んだ。
中に消しゴムが入っているなら、救助しないと駄目だから。
(部屋のゴミ箱、お休みの日は、ぼくが空にするけど…)
掃除のついでに中身を捨てるけれども、普段は母がしてくれている。
学校に出掛けて留守の間に、他の部屋のを捨てるついでに。
ゴミを纏めて入れる袋を手に持ち、家中の部屋を回って行って。
(…ママは中身を捨てるだけだし…)
中に消しゴムが入っていたって、きっと気付きはしないだろう。
他の色々なゴミと一緒に、バサッと空にするだけで。
(捨てられちゃったら、消しゴムだって可哀相…)
ぼくのせいで寿命が縮んじゃうよ、とゴミ箱の中を探ってゆく。
あの消しゴムは、まだまだ使える大きさだから。
捨ててしまうには、まだ「若すぎる」消しゴムなのだから。
(…えーっと…?)
紙屑よりは重いんだから、と底の方から探るけれども、それらしいものに当たらない。
ゴミ箱を両手で抱えて振って、「重い物なら」下の方に落ちるようにしたって。
(…何処に行っちゃったの?)
運悪く紙屑に絡み付かれて、そのままになっているのだろうか。
その可能性も充分あるから、手で探ったのでは駄目かもしれない。
ゴミ箱の中身を、すっかり外に出さないと。
紙屑などを端から選り分け、紛れてしまった消しゴムを助け出さないと。
(何か、広げておけるもの…)
ゴミになってもいい何か…、と部屋を見回し、引っ張り出した包装紙。
何かの時には役立つだろうと、一枚だけ取ってあったから。
よくある平凡な包装紙。
捨ててしまっても惜しくはないし、その上にゴミ箱の中身を空けた。
「エイッ!」と抱えて、飛び散らないよう気を付けて。
(…紙屑、一杯…)
予習と復習、それに宿題の副産物。
その中に混ざってしまった消しゴム、それを捜すのが自分の仕事。
「何処へ行ったの?」と、手で紙屑を右へ、左へ、動かして。
「この中かも」と振ってみたりもして。
そうして作業を始めて間もなく、コロンと転がり出した消しゴム。
クシャリと丸めて突っ込んだ紙に、捕まってしまっていたらしくて。
「あった…!」
良かった、と拾い上げてやった消しゴム。
もしもゴミ箱の中身を空けずに、手だけで探っていたならば…。
(この中じゃないよ、って思ってしまって…)
他の場所を捜したかもしれない。
通学鞄の中とか、他の引き出しとかを。
「ウッカリ、そっちに入れているかも」と、そんな場所には「無い」消しゴムを。
あちこち覗いて、「此処にも無いよ」と考えたりして。
(…ゴミ箱、空けてみて良かった…)
後が大変なんだけれどね、と戻してゆくゴミ。
一つずつ手で拾い上げては、空っぽだったゴミ箱へ、ポイと。
(包装紙ごと、包んで捨ててしまったら…)
楽だけれども、それではかさばる。
包装紙は後で小さく畳んで、ゴミ箱に入れた方がいい。
消しゴムのクズを払った後で。
紙屑などは先に捨ててしまって、一番最後に捨てるのがいい。
(ひと手間、惜しんじゃ駄目なんだよね…)
捨てる時にも、消しゴム捜しにも…、と考える。
楽な方へと流れて行ったら、きっと見付からなかった消しゴム。
明日には母が捨ててしまって、それきりになって。
(ただの消しゴムなんだけど…)
消えちゃったら捜してあげなくちゃ、と「命を拾った」消しゴムを撫でる。
ゴミ箱を元に戻した後で。
包装紙も畳んで捨てたゴミ箱、それをチラリと横目で見て。
「命拾いして良かったね」と、「明日からも、ぼくを手伝ってね」と。
たかが消しゴムなのだけれども、消えてしまったら、やっぱり悲しい。
それも自分がウッカリしていて、ゴミ箱に捨ててしまったなんて。
(…そんな理由で消えちゃったら…)
消しゴムだって泣いちゃうよ、と考えた所で気が付いた。
ただの消しゴムでも悲しくなるのに、遠く遥かな時の彼方で「消えた」もの。
自分が「捨ててしまった」もの。
(…ウッカリ捨てたわけじゃないけど…)
そうしなくては、ミュウの未来が無かったけれども、捨て去ったものは「自分の命」。
捨てた自分の方はともかく、後に残されたハーレイの方は…。
(広いシャングリラに、独りぼっちで…)
一人きりになって、地球を目指した。
誰よりも大切だった恋人、「ソルジャー・ブルー」がもういない船で。
(…消しゴムでも、消えちゃったら必死に捜したのに…)
前のハーレイは、どんな思いでいたのだろう。
捜した所で、「ソルジャー・ブルー」は、けして見付かりはしないのに。
広い宇宙の何処を捜しても、もはや見付かる筈もないのに。
(…ぼくが消えちゃったら、ハーレイは…)
辛かったよね、と今更ながらに思わされたから、膨れっ面は我慢しようか。
ハーレイがキスをくれなくても。
「俺は子供にキスはしない」と、ケチなことばかり言われても。
たかが消しゴムでも、懸命に捜したのだから。
前のハーレイが「失くしたもの」は、何処を捜しても見付けられないものだったから…。
消えちゃったら・了
※ブルー君が失くしてしまった消しゴム。捨ててしまったゴミ箱の中から、無事に発見。
けれども、前のブルーが「捨てた」命は、それっきり。ハーレイ先生にも優しくしないとv
(……はて……?)
アレは何処だ、とハーレイが見回したキッチンの中。
ブルーの家には寄れなかった日の夜、夕食の後で。
後片付けをしようと運んで来た食器は洗って、きちんと棚に片付けた。
水気が残ってしまわないよう、しっかりと拭いて。
「これが済んだらコーヒーなんだ」と、いつものコーヒータイムを思って。
片付けは全て終わったから、とコーヒーを淹れようとして気が付いた。
帰りに寄った食料品店、其処で選んで買ってきた品。
(ついでだから、と買ったんだが…)
まだ切らしてはいない、ほうじ茶を一つ。
ほうじ茶だけに重くもないし、「買っておくか」と突っ込んだ籠。
自前の買い物籠は無いから、食料品店に備え付けのもの。
入口で借りて、帰る時には返す「それ」。
(俺は確かに買ったわけでだ…)
手に取って眺めて、棚に返したわけではない。
「まだ要らないな」と、元の棚へと返してはいない。
籠の中には、確かに入れた。
他にも突っ込んであった品々、それとのバランスを考えながら。
(…レジはどうだったか、覚えちゃいないが…)
生憎と、其処まで記憶していない。
肉や魚を詰めたパックは、鮮やかに覚えているけれど。
様々な野菜が、清算用の籠に詰められたのも。
(…ほうじ茶、忘れちゃいないだろうな?)
忙しかった店員が「計算するのを忘れて」、レジに残ったままだったとか。
そうでなくても、自分が覚えていないのだったら、レジで精算した後に…。
(貰った袋に詰め直す時に…)
入れるのを忘れて、籠に残して来たのだろうか。
肉や魚や、野菜を詰めて満足して。
「これで全部だ」と袋を手にして、ほうじ茶は店に置き忘れて。
そうかもしれん、と顎に手を当てた。
帰宅して直ぐに入ったキッチン、肉や魚は冷蔵庫に。
長期間保存したい品々などは、冷凍庫にも。
野菜は野菜室に入れたし、常温で保存できる野菜は専用の箱に仕舞った記憶。
けれど全く覚えてはいない、ほうじ茶のこと。
(…買って来たなら、此処に入れる筈で…)
俺が覚えていなくてもな、と開けてみた棚。
封を切っていないコーヒー豆やら、紅茶の缶などを入れておく場所。
ところが、其処も「留守」だった。
買って帰った筈の「ほうじ茶」、それの袋は見当たらない。
(やっぱり店に忘れて来たか…?)
店員のミスか、はたまた自分がウッカリしたか。
どちらにしても消えた「ほうじ茶」、この家には無いに違いない。
(……やっちまったな……)
買い物に気を配っていたなら、こんなことにはならないだろうに。
レジで計算して貰う時も、品物から目を離さないで。
自分で袋に詰め直した後も、「忘れ物は無いか」チェックして。
それを忘れてしまったのなら、こんな日だってあるだろう。
レジ係の店員が「お客様!」と呼んでいる声にも、気が付かないで。
同じ場所で袋に詰め直していた誰かが、「忘れてますよ」と呼び止めたのも知らないで。
(…俺がウッカリしていたんだし…)
仕方ないな、と諦めるしかない「ほうじ茶」のこと。
何処に忘れて来たかはともかく、持って帰っては来なかっただけに。
(…まあ、切らしてるわけじゃないから…)
次からは気を付ければいいさ、と切り替えた思考。
ほうじ茶くらいでクヨクヨするなど、性に合わないものだから。
(こういう時こそ、気分転換…)
コーヒーなんだ、と淹れることにした。
書斎でゆっくり寛ぐための、夜の定番の飲み物を。
さて…、と用意を始めた所で、「ありゃ?」と上げてしまった声。
コーヒー豆の袋の隣に、鎮座していた「ほうじ茶」の袋。
まるで当たり前に、「此処が私の居場所です」という顔をして。
店で買った時の姿そのまま、未開封の袋が其処に座って。
(…おいおいおい…)
なんだって此処にあるんだか…、と自分でも解せない、ほうじ茶の居場所。
普段は其処に置きはしないし、いわばコーヒー専用の場所。
豆であろうが、インスタントの手軽な品であろうが。
(それにだな…)
封を切っていない「ほうじ茶」だったら、さっき覗いた棚が定位置。
買い物をして帰って来たなら、「これは此処だ」と仕舞うもの。
それがどうして此処にあるのか、自分でも目を丸くするしかない。
「いったい俺は何をしたんだ?」と、「これはコーヒーじゃないんだが」と。
何処かで起こった勘違い。
別の何かを考えながら作業したのか、あるいは身体がミスをしたのか。
「ほうじ茶」が「コーヒー豆」のつもりで、「此処だったな」とストンと置いて。
(…てっきり忘れて来ちまったんだとばかり…)
思っていたのに、実は家に「いた」ほうじ茶の袋。
姿を消していただけで。
「ほうじ茶」を捜すためには覗かない場所、そういう所で息を潜めて。
(消えちまったと思ったんだが…)
妙なトコから出て来るもんだ、と見付けた袋を手に取った。
「見付かったんなら、それでいいか」と。
自分がミスしたことはともかく、店に忘れてはいなかったから。
買った「ほうじ茶」が家にあるなら、それでいい。
ほうじ茶の値段は知れていたって、「置き忘れた」ならガッカリもする。
「なんてこった」と、ミスを呪って。
「しっかりしろよ」と自分に発破で、「二度とやるなよ?」と叱りもして。
けれど、ほうじ茶は見付かったのだし、後はコーヒー。
「置き場所を間違えた」ほうじ茶の方は、定位置の棚に片付けて。
それから淹れた熱いコーヒー。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れて、いつもの書斎に運んで行った。
机の前に座ってカップを傾け、ほうじ茶のことを考える。
「家の中でも消えちまうのか」と、自分でも少し可笑しいから。
あちこち捜してみたというのに、ヒョッコリ出て来た「ほうじ茶」の袋。
「私だったら、最初から此処にいましたよ」と、すました顔で。
(何処かに消えてしまったくせにな?)
ほうじ茶のくせに生意気なヤツだ、と零れる苦笑。
「この俺様を翻弄するとは」と、「忘れて来たかと思うじゃないか」と。
もっとも、ほうじ茶の袋自体は、自分の力で動いてゆきはしないけど。
「此処がいいな」と勝手に決めて、移動するわけがないのだけれど。
(しかしだな…)
消えちまったら焦るじゃないか、と棚に上げたくなる自分のミス。
コーヒーの置き場に「置いた」のは、自分だったのに。
置いた記憶が抜けているだけで、「飲む物は此処だ」と考えたりして。
(ほうじ茶だったから、まだ良かったが…)
もっと高価な品物だったら、家捜しをしていたのだろうか。
「何処へやった?」と走り回って、見付からなければ、店に連絡したりもして。
「こういう忘れ物がありませんか?」と、買った品物の名を伝えて。
(…消えちまったら、困るものだってあるからなあ…)
買ったばかりの品物にしても、諦め切れないものもある。
ほうじ茶くらいの値段だったら、「仕方ないな」と思えても。
(…気に入った、と選んだヤツなら、それほど高くなくっても…)
未練たらたらというヤツなんだ、と思った所で気が付いた。
ずっと昔に、自分は何を失くしたか。
目の前から何が消えて行ったか、それきり二度と戻らなかったか。
(……ほうじ茶どころの騒ぎじゃなくて……)
俺はあいつを失くしたんだ、と蘇る記憶。
遠く遥かな時の彼方で、ソルジャー・ブルーと呼ばれた人。
誰よりも大切だった恋人、その人が消えてしまったのだ、と。
メギドへと飛んで、それきり消えた愛おしい人。
その後、長く辛い日々を生きて、生まれ変わって、また巡り会えた。
今ではチビになったブルーに。
人間は誰もがミュウになった時代に、青く美しく蘇った地球で。
(もしも、あいつが消えちまったら…)
きっと懸命に捜すのだろう。
ブルーが何処かへ行ってしまって、行方不明になったなら。
消えてしまった場所が、遊園地の中であろうと。
デートに出掛けた先の何処かで、目を離した隙にいなくなったなら。
(今のあいつは、命の危険なんかは無くて…)
さっきの「ほうじ茶」の袋みたいに、「どうしたの?」と戻るに違いない。
「何をそんなに慌てているの」と、「あっちに綺麗な花があるよ」とでも言いながら。
そういうオチだと分かっていたって、きっと捜さずにはいられない。
血相を変えて、「ブルーは何処だ!?」と。
(何を慌てているんだろう、と大勢のヤツらが見てたって…)
走り回って捜すだろうな、とその光景が目に浮かぶよう。
大切なものが消えた時には、諦めることなど出来ないから。
「大丈夫なんだ」と分かっていたって、ブルーを捜して、きっと全力疾走だから…。
消えちまったら・了
※ハーレイ先生の前から消えた、ほうじ茶の袋。諦めかけたら、姿を現した「それ」。
ほうじ茶だったら諦められても、ブルー君が消えた時には大変。大騒ぎして捜しますよねv
(……んーと……)
昼間は暑かったんだけれどね、とブルーが眺めた窓の方。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
小春日和と呼ぶには、少し暑すぎた今日。
学校でも、そう思ったけれども、帰り道でもそう感じた。
バス停から家まで歩く途中に、「今日はちょっぴり暑いよね」と。
夏の暑さには及ばなくても、暑い気がする時はあるもの。
制服はとっくに半袖ではなくて、しかも上着まで着ているだけに。
(お日様の光も、眩しくて…)
今の季節にしては珍しく、日陰を選んで家まで歩いた。
道沿いの家の庭木が落とす木陰を、「次は、あの木」と辿りながら。
(家に帰って、冷たい飲み物…)
玄関を入るなり、母に向かって注文したほど。
「暑かったから、何か冷たいものをちょうだい」と、「ただいま」の後に。
制服を脱いで、おやつの時には、それを用意して貰えるように。
(…流石に、氷は入ってなくて…)
キンと冷えてはいなかったけれど、母が出してくれた冷たいジュース。
家で搾ったばかりのオレンジ、絶妙だった甘さと酸味のバランス。
身体の熱気が引いてゆくのが、直ぐに分かった。
「美味しいよね」と、一口飲む度、オレンジジュースが、こもった熱を奪ってくれて。
酸っぱさが元気を運んでくれて。
(うんと元気になれたから…)
これでハーレイが来てくれたなら、と欲張ったけれど。
仕事の帰りに寄ってくれたら最高なのに、と夢を見たけれど、駄目だった。
柔道部の部活が長引いたのか、何か会議でもあったのか。
門扉の脇のチャイムは鳴らずに、時が流れて行ってしまった。
もうハーレイは来ない時刻が訪れるまで。
壁の時計の短い針が、「もう遅すぎる」という数字の所を指し示すまで。
そんな具合に「今日」は終わって、後は寝るだけ。
お風呂にも入ってしまったわけだし、湯冷めして風邪を引かない内に。
けれども、昼間は暑かった。
夜は暑くはないだろうけれど、もしかしたら寒くもないのだろうか。
朝晩は冷える季節と言っても、夏の夜ほどに暑くなくても。
(…外の空気は、暖かいとか…?)
どうなんだろう、と眺める窓はカーテンの向こう。
日が暮れて、「もうハーレイは来ない」と分かった時刻に、閉めたカーテン。
開けていたって、来て欲しい人は、もう来ないから。
窓の向こうに手を振りたくても、姿が見えることはないから。
(…帰ってから、窓は開けたけれども…)
それは部屋の中が暑かったせい。
帰り道に「暑い」と感じた熱気が、部屋の中にも籠もっていて。
(ママが開けてはくれたんだろうけど…)
買い物に出かける時に閉めて行って、それきりになっていたのだろう。
「ブルーも、じきに帰って来るわ」と考えて。
だから、自分で開け放った窓。
「涼しくしなきゃ」と、まだ制服を脱がない内に。
それから着替えて、階段を下りて、ダイニングでおやつ。
冷たいオレンジジュースのお蔭で、すっきりと冷えたものだから…。
(もういいよね、って…)
部屋に戻るなり、閉めてしまった窓。
その後は、もう開けてはいない。
(…昼間の暑さって、残ってるかな…?)
日が沈んでから経った時間が長いし、冷えただろうか。
それとも暑さの名残を留めて、パジャマでも寒くないのだろうか。
(…どっちなんだろ…?)
気になるよね、と思い始めたら、ますます窓の向こうが気になる。
ガラスを一枚隔てた外は、パジャマ姿でも平気なくらいに暖かいのか。
あるいは「寒い!」と首を竦めて、窓をピシャリと閉めるくらいに寒いのか。
どっちなのかな、と掻き立てられる好奇心。
外は寒いか、暖かいのか。
(…寒かったら、風邪を引くかもだけど…)
ほんのちょっぴり開けるだけなら、風邪を引くことはないだろう。
いくら生まれつき弱い身体でも、そこまで弱く出来てはいない。
一瞬、冷気に触れた程度で、とんでもない風邪を引くほどには。
明日の朝には寝込んでしまって、学校を休むくらいには。
(…せいぜい、クシャミで…)
クシャンと一回、そんな程度で済むのだと思う。
雪の季節とは違うから。
「寒いのかな?」と開けた窓から、白くて冷たい欠片が入って来はしないから。
(冬だと、風邪を引いちゃうことも…)
ありそうだけれど、ただのクシャミで済む季節ならば、確かめてみたい。
昼間の暑さは何処へ行ったか、今も残っているものなのか。
すっかりと消えて涼しくなって、「寒い!」と思うほどなのか。
(…ちょっとだけ、開けるくらいなら…)
大丈夫だよ、とベッドの端から立ち上がった。
窓の側まで歩いて行って、カーテンをそっと引いてみる。
窓をちょっぴり開けてみるのに、必要だろうと思う分だけ。
(…外は真っ暗…)
庭園灯などの明かりはあっても、この時間には散歩の人だっていない。
家に帰ってゆく人の車、それも滅多に通りはしない。
それほど遅い時刻でなくても、家路を急ぐには遅すぎる時間。
何処の家でも、夕食はとうに済んだだろう。
(…ハーレイだって、他の先生と食事に行ったりしていないなら…)
家に帰って食事を済ませて、この時間には書斎だろうか。
いつも飲むと聞くコーヒーを淹れて、それをお供に本でも読んで。
(ハーレイの家は、此処から見えないけれど…)
それを見るんじゃないものね、と触れた窓枠。
「外の温度を確かめるだけ」と、「外は暑いか、寒いか、どっち?」と。
そうして細めに開けてみた窓。
途端に冷たい風が吹き込み、レースのカーテンがフワリと揺れた。
(寒い…!)
外はちっとも暑くないよ、と慌てて窓をピシャリと閉めた。
「昼間は、あんなに暑かったのに」と驚きながら。
冷たいジュースが欲しかったほどの、暑さは何処に行ったのだろうと。
(…これが当たり前なんだろうけど…)
今の季節なら、こうだよね、と分かってはいても、真ん丸な瞳。
「ビックリした…」と、カーテンを引いて。
閉めてしまった窓に背を向け、ベッドの方へと戻りながら。
(…直ぐに閉めたから、風邪を引いたりはしないだろうけど…)
それに部屋の中は暖かいし、とベッドの端に腰掛ける。
窓を開けようと出掛ける前に、自分が座っていた場所に。
(暖房は入れていないのに…)
中と外とで、全然違う、と見詰めるカーテン。
それの向こうの窓を開けたら、たちまち冷えてしまうだろう部屋。
開けっ放しにしておいたら。
直ぐに閉めずに、あのまま放っておいたなら。
(部屋中、寒くなっちゃって…)
風邪を引くよね、と竦める首。
きっと半時間もしない間に、クシャミを連発し始めて。
急いでベッドにもぐり込んでも、そのベッドまでが冷え切っていて。
(……窓って、大切……)
ガラスが一枚あるだけなのに、と考える。
今日、学校から帰った時には、「暑い」と感じてしまった部屋。
こもった熱気を外に出すために、窓を大きく開け放った。
それで涼しくなってくれたし、冷房までは入れずに済んだ。
その「同じ窓」が、今は冷気を遮断している。
「外は暑いのかな?」と、開けて確かめたくなるほどに。
まさか寒いとは思いもしないで、細めに開けてしまったほどに。
(…特別な窓じゃないんだけどな…)
何処の家にもある窓だよね、とカーテンを見ていて気が付いた。
その「窓」さえも無かった世界を「知っていた」ことに。
窓を細めに開けることさえ、叶わない世界を「見ていた」ことに。
(…シャングリラにあった窓とかは…)
どれも「外」には繋がってない、と思い出す。
青の間には窓は無かったけれども、居住区の部屋にはあった窓。
(個室の窓からは、公園が見えて…)
皆が眺めを楽しんだけれど、その公園は「船の中」のもの。
個室の窓を開けてみたって、入って来る空気は外の世界のものではない。
船の中だけを巡る空気で、何処にも繋がってはいない。
(…船の外が見える窓は、殆ど無くって…)
そういった窓の向こうに見えていたのは、真空の宇宙や、アルテメシアの雲海など。
そんな窓では、開けられはしない。
開けようものなら、真空の宇宙に吸い出されて死ぬか、激しい気流に連れてゆかれるか。
(…開けようと思う人なんか…)
誰もいないし、開けられるように出来てもいなかった。
万一、事故が起こったりしたら、船も無事では済まないだけに。
(隔壁の閉鎖が間に合わないと、開いちゃった窓から船が壊れてしまうことも…)
まるで無いとは言い切れないから、どの窓も全て、強化ガラスで出来ていた。
「開けられないような」窓は、一つ残らず。
船の仲間たちを守るためにと、ある程度までの衝撃にだって耐えられるように。
(…あれに比べたら、ぼくの部屋の窓…)
なんて頼りないことだろう。
強化ガラスは嵌まっていないし、割れる時には呆気なく割れる「ただの窓」。
けれど、なんとも頼もしい。
部屋の外と中をきちんと隔てて、空気を入れ替えることだって出来て。
(ただの窓だけど、ホントに凄い…)
特別だよ、と浮かんだ笑み。
強化ガラスが嵌まったような窓でなくても、頼もしい窓。
おまけに外の世界に繋がり、開けたり閉めたり、自分の好きに出来る窓。
(前のぼくには、夢みたいな窓…)
それが今では部屋にあるよ、と嬉しくなる。
青の間には窓が無かったけれども、今の自分は「特別な窓」を持っているから。
ただの窓でも、窓の向こうは宇宙などではないのだから…。
ただの窓だけど・了
※ブルー君が細めに開けてみた窓。もう夜なのに、外は暑いか、確かめようと。
驚くくらいに寒かった外。強化ガラスの窓でもないのに、部屋の窓は頼もしいのですv
