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カテゴリー「書き下ろし」の記事一覧

(やっぱり今でも似合わんだろうな…)
 似合う筈がないな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 ブルーの家へと出掛けて来た日に、夜の書斎でコーヒー片手に。
 愛用のマグカップにたっぷりのコーヒー、それだって…。
(うん、似合わないぞ)
 アレには似合わん、と断言出来る。
 遠い遠い昔、前のブルーと暮らした白い船。
 ミュウの箱舟だった白いシャングリラ、其処に咲いていた薔薇の花たち。
(俺には薔薇は似合わない、ってな)
 そういう定評、前の自分を評する言葉。
 「キャプテンには薔薇は似合わない」という、あの船の女性陣の認識。
 面と向かって言われたわけではないけれど…。
(自然と分かってくるってもんだ)
 どういう風に見られているのか、彼女たちの瞳にどう映るかは。
 キャプテンとしての威厳はともかく、この容貌。
(今の俺とそっくり同じわけだし…)
 お世辞にも「甘い」とは言えない顔立ち、どちらかと言えば「いかつい」顔。
 それからミュウらしからぬ体格、シャングリラの時代は目立ち過ぎた。
 人間は全てミュウになった今の時代だったら、さほど珍しくはないけれど。
 スポーツ選手は立派な体躯が普通なのだし、それを目指す者やアマチュアだって…。
(今じゃ、そこそこデカイんだがな?)
 前の自分のように「デカブツ」とは言われないだろう。
 ゼルがよく叩いた憎まれ口のように、「お前ぐらいだ」とけなされることは。


 そうは言っても、今でもやっぱり…。
(似合わんぞ、薔薇は)
 どう考えても柄じゃない、と思い浮かべた薔薇の花。
 今日も目にしてきたけれど。
 小さなブルーとお茶を飲んでいた庭、其処で開いていたのだけれど。
 庭で一番大きな木の下、据えてある白い椅子とテーブル。
 今のブルーのお気に入りの場所で、初めてのデートに選んだ場所。
(あいつ、今でも好きなんだ、あそこ…)
 据えてある椅子とテーブルが変わってしまっても。
 初めてのデートに使ったものとは、違うテーブルが据えてあっても。
 最初のデートをした場所だから。
 ブルーのためにと持って行ってやった、キャンプ用の椅子とテーブルで。
 何度かそれでデートをした後、今の白い椅子とテーブルになった。
 「運んで来て貰うのは申し訳ないから」と、ブルーの父が買ったお蔭で。
 今日もブルーは「庭でお茶がいいな」と言い出したから。
 午後のお茶は庭で、ブルーと二人。
(いいもんだな、と思っていたら…)
 目に付いたんだよな、と庭の薔薇たちを思う。
 ブルーの母が丹精している、多分、四季咲きだろう薔薇。
 遠い昔に暮らした船とはまるで違って、地球の地面に植えられた薔薇。
 それをお供にお茶の時間で、ブルーと二人。
 なんと平和になったものかと、いい時間だと幸せを噛み締めていたら…。
 不意に頭に蘇った記憶。
 白いシャングリラで咲いた薔薇たち、あの薔薇は…、と。


 自給自足で生きてゆく船、箱舟だったシャングリラ。
 名前通りの楽園にしようと、観賞用の薔薇も植えられていた。
(薔薇が咲くだけなら、まだいいんだが…)
 前の自分がいくら武骨でも、いかつい顔をしていても。
 きっと薔薇とは、誰も比べはしなかったろう。
 薔薇たちはただ、花開いているだけだから。
 前の自分はブリッジに立って、舵を握っているだけだから。
(比較しようが無いってな)
 ブリッジに薔薇は咲きはしないし、花が生けられることも無い。
 そんな場所ではなかったから。
 薔薇を植えようとか、花を生けようとか、そういったこととは無縁なブリッジ。
 なにしろ、船の進路を決めてゆく場所。
 船の心臓とも言える部分で、花を愛でている余裕があったら…。
(仕事だ、仕事)
 操舵はもちろん、レーダーを見たり、他にも色々。
 誰もが船の命を握って、自分の仕事をしていた場所。
 たまに笑いが溢れていたって、薔薇の花を愛でる余裕までは無い。
 けれども、其処に薔薇の花がやって来たっけな、と。
 花そのものでは無かったけれど。
 薔薇の花束がやって来たとか、誰かが生けに来たというわけでも無かったけれど。
(よりにもよって…)
 ジャムだったんだ、と苦笑する。
 そいつがブリッジに来るんだ、と。
 似合わない俺の所にだけは来なかったが、と。


 シャングリラの中で咲いた薔薇たち。
 ただ咲くだけで、その内に散っていたのだと思う、最初の頃は。
 その薔薇が、いつの間にやら化けた。
 花が萎れ始める頃合い、それを狙って集め始めた女性たち。
(いったい誰が言い出したんだか…)
 特に興味は無かったけれども、作っていた顔ぶれは今も思い出せる。
 盛りを過ぎた薔薇を集めて、ジャムを作った女性たち。
 香り高い品種を植えていたから、萎れ始めた花からジャムを作っても…。
(充分に薔薇のジャムだったんだ)
 だからブルーに訊いてみた。
 今の小さなブルーに向かって、「あの薔薇の花はジャムにするのか?」と。
 ブルーの母が育てている薔薇、その花びらもジャムになるのか、と。
 キョトンと瞳を見開いたブルー。
 「しないよ、なんで?」と。
 案の定、忘れていたブルー。
 白いシャングリラにあった薔薇のジャムのことを、それを巡っての笑い話を。
(薔薇のジャム、あいつには似合ったんだが…)
 気高く美しかったブルーは、自分と違ってそういう評判。
 「ソルジャーは薔薇がお似合いになる」と、「薔薇で作ったジャムだって」と。
 船で生まれた薔薇のジャム。
 作り始めた女性たちがそれを、「如何ですか?」とブルーに届けてみたほどに。
 試食用にと、出来立てを青の間に運んだほどに。
(でもって、あいつは、それ以来だな…)
 薔薇のジャムを届けて貰える身分。
 「美味しいよ」と評して以来、薔薇のジャムが出来たら、いつも一瓶。
 とても希少なジャムなのに。
 他の者たちはクジ引きなのに。


 薔薇のジャムは沢山作れないから、欲しい者たちはクジを引く。
 クジに当たれば一瓶貰えて、薔薇の花の香りと味を楽しむ。
 そのためのクジが出来上がったら…。
(ブリッジにやって来たってな)
 ジャムそのものが来るのではなくて、クジ引きの箱が。
 運よく当たりを引き当てたならば、薔薇のジャムを貰えるクジ入りの箱が。
 「薔薇のジャムは如何ですか?」と箱を抱えて来た女性。
 欲しい人はどうぞクジ引きを、と。
(あの箱がだな…)
 一度も来なかったのが俺なんだ、とクックッと笑う。
 ただの一度も、キャプテンの所には来なかった箱。
 舵を握っていたならともかく、キャプテンの席に座っていても。
 特に仕事をしてはいなくて、ブラウたちと談笑していた時も。
(似合わないから、仕方ないんだが…)
 いつも素通りしていった箱。
 クジ引きの箱は止まりはしなくて、一度もクジを引いてはいない。
 ゼルでさえもクジを引いたのに。
 如何ですか、とクジの箱が来たら、「運試しじゃ」と手を突っ込んだのに。
(似合わないのは承知だったし…)
 もしも自分が呼び止めたならば、目を丸くする顔が見えるよう。
 「キャプテンもですか?」と、クジ引きの箱を持った女性が。
 そうなることが分かっていたから、あえて呼び止めはしなかった。
 自分の前だけ、クジ引きの箱が素通りしても。
 ゼルさえも常連だったクジ引き、それに参加は出来なくても。
(似合わない俺は、クジを引かなくても食えたしなあ…)
 前のブルーが持っていたから。
 薔薇のジャムなら、いつもブルーと食べていたから。


(似合わない俺が、クジ引き無しと来たもんだ)
 薔薇の花もジャムも似合わんのにな、と今になっても申し訳ない気分。
 クジを引かずに食っていたぞと、それもブルーと二人でなんだ、と。
(あいつは薔薇が似合うからいいが…)
 美しかった前のブルーに薔薇は似合いで、薔薇のジャムも良く似合っていた。
 「貰ったから食べよう」と紅茶を淹れる姿も、それは優雅で…。
(そういうブルーと、俺が恋人同士でだな…)
 薔薇のジャムを食べていると知ったら、あの女性たちはどうしたろうか?
 「信じられない」と悲鳴を上げたか、気絶するほどの衝撃だったか。
 まず間違いなく驚かれたろう、「薔薇が似合わない」自分がブルーの恋人では。
 誰よりも薔薇が似合うソルジャー、前のブルーが恋をした相手。
 それが薔薇など似合わない自分、クジ引きの箱も素通りするような男では。
(どう考えても美女と野獣で…)
 酷いもんだ、と思うけれども、最後までバレはしなかった。
 前のブルーがいなくなるまで。
 白いシャングリラが戦いの道を歩み始めて、薔薇のジャムが船から消えてしまうまで。
(そのまま、バレずに終わっちまって…)
 また似合わない俺がいるわけで、と眺めたコーヒー。
 薔薇のジャムには紅茶だったと、コーヒーなんかは合いそうに無いと。
(…薔薇は似合わない上に、コーヒー好きでだ…)
 もう薔薇のジャムは致命的に似合わないな、と指先でピンと弾いた額。
 なのにブルーとまた恋をしたと、またしても美女と野獣らしいと。
(でもまあ、多分、許されるよな?)
 薔薇が似合わない自分だけれども、今もブルーが好きだから。
 今度こそブルーを離さないから、薔薇が似合う人の手を、二度と離しはしないのだから…。

 

        似合わない薔薇・了


※前のハーレイの前を素通りしていた、薔薇のジャムが当たるというクジ引きの箱。
 今もやっぱり似合いそうにない、と考えるハーレイ先生です。薔薇の花もジャムもv





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(降って来ちゃった…)
 雨だ、とブルーが眺めた窓の外。
 もう暗いから、雨粒はよく見えないけれど。
 家の窓から漏れる光や、庭園灯の周りに降る分だけ。
 けれども、軒を叩く雨音。
 最初にポツリと聞こえた直後に、いきなりザッと本降りの雨。
 大粒の雨が降っていると分かる、そういう音。
 此処は二階だから、屋根に当たる音もよく響く。
(ハーレイ、ちゃんと帰れたかな…)
 ちょっと心配、と窓の向こうを見詰めてみたって、分からない。
 ハーレイの家は遠いから。
 何ブロックも離れた所で、窓から見えはしないから。
(まだ、学校にいないといいけど…)
 そうでなければ、帰りに買い物に寄った店とか。
 家に帰るまでに雨に降られたら、ハーレイはきっと困るだろう。
 傘があっても、大きな荷物を持っていたなら、それが濡れそう。
 買い物をした店で貰った袋や、学校から家へと運ぶものやら。
(…大変だものね?)
 だから良かった、と思うことが一つ。
 ハーレイが訪ねて来なかったこと。
 仕事の帰りに寄ってくれないか、何度も時計を見たけれど。
 チャイムが鳴るのを待ったけれども、今日は来てくれなかったハーレイ。
 とても残念に思った時間。
 「今日はハーレイは来ないんだ」と、諦めざるを得なかった時間。
 溜息をついた自分だけれども、今は少しだけ嬉しい気持ち。
 もしもハーレイが寄っていたなら、この雨の中を帰らせることになるのだから。


 天気予報には無かった雨。
 なのに午後から曇り始めて、帰る頃には無かった青空。
 雲がすっかり覆ってしまって、空には青い欠片が無かった。
 灰色をした雲の隙間から射す光だって、見えはしなくて。
(天使の梯子…)
 それも無いよね、と帰り道に見上げた曇り空。
 前にハーレイに教えて貰った、天使の梯子。
 雲の間から射して来る光、真っ直ぐに伸びる光の道。
 其処を天使が行き来するのだと、だから「天使の梯子」なのだと。
 けれど無かった天使の梯子。
 雲が厚くて、隙間が開いていないから。
 雲と雲との間も無いほど、びっしりと雲が覆っていたから。
(だけど、雨なんて…)
 降るとは思いもしなかった。
 さっきポツリと音がするまで。
 たちまち本降りになってしまうまで、「今日は曇り」と思っていただけ。
 「曇りのち雨」とは思いもしなくて、ハーレイが来るのを待っていた。
 来てくれるかなと、寄ってくれるといいんだけれど、と。
(だけど、来なくて…)
 ガッカリしたのが暗くなる前。
 その時間では、もうハーレイは来ないから。
 「遅くなったら、晩飯の都合ってヤツがあるだろ」とハーレイが決めている時間。
 母に迷惑をかけないようにと、遅い時間に来はしない。
 父と母とが「どうぞ御遠慮なく」と言っているのに。
 何度も何度も言っているのに、ハーレイは遅くなったら来ない。
 自分の家へと帰ってしまって、一人で夕食。
 一人暮らしが長かったせいもあるのだろう。
 きっと一人でも寂しくはなくて、遅くなった日は帰って夕食。


 今日のハーレイはそっちみたい、と零した溜息。
 来て欲しかった、と思ったけれども、降り出した雨。
(…ハーレイが来てたら、帰りには雨…)
 上手い具合に止んでくれれば、心配は何も要らないけれど。
 「止んで良かったね」と送り出せるけれど、このまま止まなかった時。
 庭を横切る時も、門扉の向こうに出てゆく時にも、雨は変わらず本降りのまま。
 ガレージで車に乗り込んだ後も、大粒の雨が降っているかもしれない。
(ハーレイの家に着いたって…)
 車を停めたら、玄関までがやっぱり雨。
 傘を差しても雨は止まないし、受け止められるというだけのこと。
 ズボンの裾やら、鞄の端っこ。
 そんな部分が濡れてしまいそうで、いつものようにはいかない帰り。
 普段だったら、家に着いたら脱ぐだけのスーツや、置くだけの鞄。
 それを拭いたり、乾かしたりと、余計な手間が増えてしまうのだろう。
(シールド、しそうにないもんね?)
 出来るだけサイオンを使わないのが、今の時代のマナーだから。
 使わずに何とかなるのだったら、立派な大人は使わないから。
 だから、ハーレイもきっとシールドは使わない。
 大粒の雨が降り注ぐ中を、家へと帰ることになっても。
 この家のガレージに着くまでの道と、ハーレイの家のガレージから玄関までの道。
 両方で濡れることになっても、ハーレイはシールドしないのだろう。
 「濡れちまったな」と零しはしても。
 家に帰って、タオルで鞄やスーツの水気を拭き取りはしても。
(ホントに大変…)
 帰り道に雨が降ったばかりに、ハーレイがせねばならない仕事。
 いつもだったら、帰り着いたら、スーツを脱いでのんびりだろうに。
 好きなコーヒーでも飲みながら。
 新聞なんかも広げたりして。


 ハーレイの時間を盗む雨。
 ほんの少しか、濡れた物とか加減によっては、十五分ほどもかかるのか。
 とにかく時間は減ってしまって、一息つける時間も遅れる。
 雨に盗まれてしまった分だけ。
 濡れた鞄やスーツの手入れに、持って行かれた時間の分だけ。
(こんなに降ってちゃ、きっと濡れるよ)
 けれど、ハーレイは来なかったから。
 真っ直ぐに帰って行った筈だから、多分、家には着いただろう。
 この雨が降って来る前に。
 ポツリと屋根を叩くより前に、ハーレイの家に。
(帰ってるよね?)
 まだ学校に残っていたりはしないと思う。
 そろそろ父も帰る頃だし、それよりは早く帰っている筈。
 帰りに買い物をしていても。
 あそこと此処と、と幾つかの店を回っていても。
(ハーレイ、天気を読むのは得意なんだから…)
 釣り好きの父の仕込みだと聞いた。
 降りそうな日や、曇りだけれども直ぐにカラリと晴れそうな時。
 同じ曇りでも雲が違うと言っていたから、こんな日に余計な寄り道はしない。
 「ブルーの家には、もう行けないし…」と、車で街に向かうとか。
 たまに大きな本屋に行ってみようとか、そういう寄り道。
 雨が降りそうなら、しないで家へ真っ直ぐに。
 降ると何かと厄介だから。
 せっかく買った本の袋も雨の雫がかかるから。
(雨除けのカバー、かけてくれても…)
 やっぱり必要になるタオル。
 中身の本を引っ張り出す前に、カバーの水気を拭かないと。
 でないと本が駄目になるから、ハーレイの鞄やスーツも同じことだから。


 きっと家には帰っているよ、と眺める窓の向こうの雨。
 光が当たる所だけしか、落ちてゆく雨は見えないけれど。
 どちらかと言えば軒を打つ音、それから屋根に降り注ぐ音。
 そっちの方が雨らしいけれど、今頃はハーレイも雨音を聞いているだろう。
 家に帰って、「降って来たな」と。
 「寄り道しなくて正解だったぞ」と、「こんな日は家が一番だ」と。
 家にいたなら、もう濡れないから。
 自分が此処で見ているみたいに、ただ雨を見て音を聞くだけ。
 濡れたら困る雨ならば全部、屋根が防いでくれるから。
 シールドも傘も要りはしなくて、雨は屋根の上を叩いてゆくだけ。
 叩いて、流れて、落ちてゆくだけ、水の雫が。
 屋根から庭へと流れ落ちるだけ、軒を叩いて落ちてゆくだけ。
(家の中にいたら、大丈夫…)
 どんなに雨が降ったって。
 歩くだけでズボンが濡れてしまうような、そんな降り方の雨だって。
(ハーレイが家に着いてれば…)
 頭の上には屋根があるもの、と見上げた天井。
 シールドも傘も要らない屋根。
 雨をしっかり受け止めてくれて、濡れないようにしてくれる屋根。
 もうハーレイは屋根の下の筈、そういう時間。
 此処に寄らずに帰ったから。
 来てくれなかったことは残念だけれど、この雨音だと、それが嬉しい。
 「ハーレイ、きっと濡れちゃうよね?」と、見送らなくて済んだから。
 帰る時間までに止んでくれないか、心配することも要らないから。


(今頃は、ちゃんと屋根の下…)
 ぼくとおんなじ、と思った所で気が付いた。
 今の自分は、雨音を聞いているけれど。
 頼もしい屋根に守って貰って、ハーレイもきっと同じだけれど。
(前のぼくたち…)
 上に屋根なんかは無かったっけ、と思い浮かべたシャングリラ。
 あの船を雨が叩く時には、白い船体の外側だけ。
 一人一人が住んでいた部屋、その部屋の上に屋根は無かった。
 青の間のベッドの天蓋にしても、ただの飾りで屋根とは違った。
 降り注ぐ雨から、ベッドを守るものではないから。
 船の中には雨が無いから、屋根の代わりに船体が屋根。
 あれを屋根だと言うのなら。
 軒を打つ雨の音さえしない船体、それに覆われたシャングリラ。
(あの中だと、雨に降られる心配、無かったけれど…)
 代わりに家も無かったのだった、こういう家は。
 雨が降ったら駆け込める家は、守ってくれる屋根のある家は。
(この家の方が、ずっと凄いよ…)
 シャングリラよりもずっと小さいのに、雨から守ってくれる家。
 今は両親と一緒に暮らして、いつかはハーレイと暮らすだろう家。
 そういう家を、今は誰もが持っている。
 家の数だけ幸せがあって、こういう雨が降った時には…。
(頼もしいんだよ、屋根があるから)
 シャングリラよりもずっと素敵、と頭の上の屋根を心で思う。
 ハーレイも今は屋根の下にいてくれますようにと、雨に濡れてはいませんように、と…。

 

        屋根がある家・了


※「シャングリラよりも、ずっと凄い」とブルー君が思う、屋根のある家。
 雨から守ってくれる頼もしさ、小さくても。ハーレイ先生と住める日が楽しみですよねv





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(…間に合ったな)
 降る前に中に入れたぞ、とハーレイがホッとついた息。
 ブルーの家には寄れなかった日、自分の家へと帰り着いて。
 今日の午後から怪しくなっていた空模様。
 雨の予報ではなかったけれども、気まぐれなのが地球の空。
 自然の気分で変わってゆくから、こんな日だってたまにある。
 学校に傘は置いてあるのだし、車にも乗せてあるけれど…。
(使ったら濡れてしまうしな?)
 干してやらないと駄目な傘。
 雨の雫が消えてしまうまで、乾いて元通りに畳めるまで。
 学校でもう降っていたなら諦めるけれど、ガレージから家に入るまで。
 庭を横切るだけの所で、出来れば傘は使いたくない。
 「ツイていない」という気分になるから。
 それが楽しい時もあっても、今日は「ツイていない」と思う方だから。
 ガレージに車を入れた後には、抱えた鞄。
 傘を持たずに走るからには、いきなりザッと降り始めたら…。
(鞄がすっかり濡れちまうしな?)
 そうなるよりかは、自分が濡れた方がマシ。
 しっかり抱えて目指した玄関、軒下に走り込んだ時には雨は降ってはいなかったけれど。
 鍵を開けて中に入って間もなく、そう、靴を脱いでいる間に…。
 ポツリ、ポツリと大粒の雨が落ちる音。
 玄関先の床に上がる頃には、土砂降りの雨。
(危なかったな…)
 間一髪だ、と漏らした安堵の息。
 ほんの少しだけ遅れていたなら、頭からずぶ濡れだったろうから。


 ここまで派手に降るとはな、とスーツを脱いで済ませた着替え。
 本当に危なかったと思う。
 傘が濡れたら面倒どころか、スーツも靴も濡れてしまっただろう。
(俺としたことが…)
 読み誤った、と苦笑しながら夕食の支度。
 「やはり無精をしてはいかんな」と、「傘くらいは持っておくべきだった」と。
 傘を干す手間を惜しんだばかりに、スーツや靴を干して手入れでは、ただの馬鹿だから。
 傘よりも面倒なことになるから、そうならなかったことは幸運。
 ツイているとは言えるだろう。
 そうこうする内に出来上がった夕食、テーブルに着いて食べ始めても…。
(まだ降ってるな…)
 大粒の雨が軒を叩く音、それが止まない。
 夜に降る雨は止みにくいから、まだ暫くは降るのだろうか。
(天気予報もアテにならんぞ)
 ついでに俺の勘の方も、とコツンと叩いた自分の額。
 もう少しだけ家に入るのが遅かったならば、ずぶ濡れになっていたのだから。
 此処で夕食を食べるよりも前に、濡れたスーツや靴などの手入れ。
 きっと自分を呪っていたろう、「この馬鹿者め」と。
 「もっとしっかり天気を読め」と、「親父に叩き込まれたろうが」と。
 釣り好きな父は、風や空気の匂いや雲行き、そういったもので天気を読むのが得意技。
 本職の漁師さながらに読んで、「帰るぞ」と竿を畳んだりもした。
 「じきに降るから、今日はここまで」と。
 その父には今も敵わない。
 自分が年を重ねた分だけ、父も同じに年を取るから。
 年の数だけ増える経験、一生、勝てるわけがない。
 そうは言っても、自分も踏んで来た場数。
 今日の天気を読み誤るとは、情けないとしか言えない気分。


(ずぶ濡れだったら、今頃は文句を言ってたろうなあ…)
 自分宛だか、空に宛ててかは分からないけれど。
 手間が増えたと、本当だったらゆっくり晩飯の筈だったのに、と。
 夕食の後も止まない雨。
 コーヒーを淹れて移った書斎も、軒を打つ雨の音が聞こえる。
 この部屋に窓は無いのだけれども、壁の向こうから。
 まだ降り続ける雨の音が。
(まったく、危ないトコだった…)
 よくぞ家まで無事だったもんだ、と濡れなかったことに感謝するだけ。
 間抜けな自分は、傘も持たずに突っ走ったから。
 「まだ降らない」と、「降ったとしたってタカが知れてる」と。
 いきなり降られても、シールドするという手段はある。
 ザッと来た雨、最初の一撃は避け損なっても、後は防げる方法だけれど。
(俺の好みじゃないんだよなあ…)
 あまり使いたくないサイオン。
 「人間らしく」が社会のマナーで、それが無くても頼りたいとは思わない。
 傘があるなら、シールドは要らないと思うから。
 シールドするより、「傘が無いしな」と潔く濡れたいクチだから。
 もっとも、濡れたら後で文句になるけれど。
 「俺としたことが」で、「馬鹿者め」で。
 うっかり天気を読み誤ったから、この有様だ、と。
 大失敗だ、と雨音に耳を傾けていたら、掠めた記憶。
 遠く遥かな時の彼方で、天気を気にしていた自分。
(シャングリラだと…)
 読み誤ったら、大変なことになっただろう。
 船を隠して守る雲海、其処から外へと出てしまうとか。
 荒れ狂う雷雲の中に突っ込んで、あちこち支障が出るだとか。


 あの船の時じゃなくて良かった、と思った失敗。
 キャプテン・ハーレイだった頃なら、こんな失敗は有り得ないけれど。
 自分の勘に頼りはしないし、常に計器を眺めていた。
 様々なデータを読んでは決めていた進路、うっかりミスは起こらない。
 仮にミスしても、誰かが気付く。
 「このまま進めばエライことになりそうじゃ」とゼルが言うとか、ブラウからの注意。
 「ちょいと、間違えてやしないかい?」などと。
 懐かしく思い出した顔ぶれ。
 今は会えない、あの船で生きた仲間たち。
(みんな、どうしているやらなあ…)
 自分やブルーと全く同じに生まれ変わって、宇宙の何処かで暮らしているか。
 それとも今は天国か何処か、そういった所で次に生まれる順番待ちか。
(会うことはきっと無いんだろうな)
 そう思うから、懐かしい。
 白いシャングリラも、長い年月を共に暮らした仲間たちも。
(会えたって、お互い、気付かないままで…)
 すれ違って行ってしまうのだろう。
 同じ姿とは限らない上に、あの頃の記憶もきっと持ってはいないから。
 今の自分とブルーのようには、ゆきはしないと思うから。
 何処かの駅やバス停などで、偶然出会って話していたって、気付かないまま。
 そうなるだろうと分かっているから、懐かしくなる仲間たち。
 此処にいたならどうだろうかと、どんな話が出来るかと。
 ゼルだったらとか、ヒルマンなら、とか。
(俺が天気を読み違えたことも…)
 話の種になるのだろう。
 「もっとしっかりやらんかい!」だの、「今の時代だ、それも楽しまないと」だの。
 軒を打つ雨の音を聞きながら、皆で興じる思い出話や、今の話や。


 いい時代だよな、と傾けたコーヒー。
 あの仲間たちが此処にいたなら、雨音の中でも賑やかだろう。
 そしてすっかり夜が更けた頃に、皆は帰ってゆくのだろう。
 「それじゃ」と、「また今度」などと言いながら。
 「まだ止まないな」と溜息もついて。
 自分は此処にいればいいけれど、皆は帰らねばならないから。
 雨が降る中、傘を広げて自分の家へ。
 「着いた頃には、雨が止んでるといいんだが」と、きっと誰もが言うのだろう。
 場所によっては、此処よりも雨脚が強かったりもするのだから。
(傘があっても、厄介だよなあ…)
 雨の中を帰ってゆくというのは。
 家に着いたら屋根があるけれど、屋根の下へと入るまで。
 空の上から落ちてくる雨、地面が弾き返す雨。
 運が悪ければ濡れる足元、自分以外の誰もが文句。
(俺は片付けて寝るだけなんだが…)
 他のヤツらは、雨の中を帰って行くんだから、と思った所で気付いたこと。
(…屋根があるってか?)
 頭の上に、と見上げた天井。
 雨の雫は見えないけれども、この家の上にはそれを弾く屋根。
 屋根に落ちた雨は其処を流れて、軒を打つ雨音も聞こえるけれど。
(シャングリラだと…)
 雨は船体の上を流れただけ。
 白い鯨を打っていただけ、個人の部屋の上に降っては来ない。
 部屋に天井はあったけれども、その上に屋根が乗ってはいない。
 屋根の代わりに、白い船体。
 それがすっぽり覆っていたから、誰の部屋にも…。


(屋根なんか無くて、部屋に帰る時も…)
 傘を差したりしなかった。
 シールドさえも要りはしなくて、通路を歩いて行っただけ。
 雨が降ろうが、晴れていようが、何も関係無かった船。
 一人一人の部屋については。
 船の進路には影響したって、個人の部屋にはまるで関係無かった雨。
 屋根の下へと急ぐ必要も、「お前はいいよな、寝るだけだから」と帰る者から言われることも。
(たかが屋根なんだが…)
 こいつも今の時代ならではか、と見上げた天井。
 前は無かったと、今の時代なら、俺の家にもあるんだが、と。
 そして懐かしく思い出す仲間。
 今だったならば、みんな家へと帰るんだな、と。
 雨の降る日は屋根の下を目指して、「止むといいが」と傘を差して、と…。

 

        屋根のある家・了


※今の時代は「濡れたら困る」と走り込めるのが、屋根のある家。ハーレイ先生も。
 けれども、前は無かったのです、その屋根が。船体は屋根じゃないですもんねv





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(当たり前のことになっちゃったんだ…)
 蝶が見られるの、とパチパチと瞬きしたブルー。
 ハーレイと過ごした休日の後に、お風呂上がりにパジャマ姿で。
 今の自分の小さなお城。
 両親と一緒に暮らす家の中、自分だけが使う子供部屋。
 其処のベッドにチョコンと座って、思い浮かべた昼間の光景。
 庭で一番大きな木の下、お気に入りの白いテーブルと椅子。
 ハーレイと二人で腰掛けていたら、生垣をひらりと越えて来た蝶。
 ごくごく普通の黄色い蝶で、特に珍しい種類でもなくて。
 「蝶が来たな」と思う程度の、庭ならよくあることだったけれど。
 ハーレイに言われて気が付いた。
 蝶がいるのは、今だからこそ。
 前の自分が暮らした船には、蝶の姿は無かったのだ、と。
(シャングリラでは、役に立たなかったから…)
 自給自足で生きてゆく船、箱舟だった白いシャングリラ。
 必要なものしか育てられない、乗せてはおけなかった船。
(青い鳥だって飼えなかったし…)
 前の自分が欲しいと願った、幸せを運ぶ青い鳥。
 役に立たないから許可は出なくて、船にいた鳥は鶏だけ。
 それと同じに、蝶だって飼えはしなかった。
 蜜と花粉を運ぶミツバチ、働き者の優秀な虫。
 ミツバチがいれば充分な船で、蝶はミツバチのようにはいかない。
 蜜を集めてくれはしなくて、蜂蜜が採れはしないから。
 その上、蜜を吸う蝶になるよりも前は、植物の葉を食べるから。
(野菜の葉っぱも、公園の葉っぱも…)
 食べてしまって、その見返りは寄越さない。
 迷惑なだけの生き物が蝶で、シャングリラに蝶はいなかった。


 花が咲いたら蝶が来るのは、今では当たり前のこと。
 春になったら舞い始める蝶、秋の終わりまで見られる姿。
 家の庭でも、公園でも。
 その辺りの道を歩いていたって、蝶はひらりと飛んで来る。
 翅を広げて、様々な模様を煌めかせて。
(いろんな蝶がいるもんね?)
 翅の模様も、その形も。
 大きさだって実に色々、ほんの小さなシジミチョウから、アゲハチョウとかの大きい蝶まで。
 今の自分には見慣れた光景、そういった蝶が飛んで来ること。
 まるで気付きもしなかった。
 前の自分が生きた船には、その光景は無かったのだと。
(…アルテメシアに降りた時には、見てたけど…)
 それはソルジャーだった前の自分の特権。
 他の仲間には船の中だけが世界の全てで、蝶を見られはしなかった。
 白いシャングリラで花が咲いても、蜜を吸うのはミツバチだけ。
 ひらひらと舞う蝶は来なくて、花に止まりはしなかった。
 花には蝶が似合うのに。
 ミツバチなどより、ずっと華やかで絵になる蝶。
 けれども、船では蝶は飼えなかったから…。
(いつか地面に降りられたら、って…)
 夢を見る者も多かった。
 花が咲いたら蝶が来るから、それが見られる世界を、と。
 青い地球まで辿り着いたら、広い野原に蝶が飛んでいることだろうと。
 その日を夢見て、あの船で生きた仲間たち。
 白いシャングリラで、蝶がいない船で。


 前の自分は、地球まで辿り着けずに逝った。
 シャングリラは地球に着いたけれども、何処にも無かった青い星。
 死に絶えたままの星が母なる地球。
 蝶は棲めない、どんな生命も生きてゆけない滅びた星が。
(…だけど、今の地球…)
 奇跡のように青く蘇った、今の自分が生きている星。
 ハーレイと二人で生まれ変わって、また巡り会えた青い地球の上。
 其処では当たり前の蝶。
 幼い頃から、花が咲いたら蝶が来ていた。
 母が育てる庭の花壇に。
 遠足やハイキングなどで出掛けた、山や野原にも舞っていた蝶。
(ホントに見慣れちゃってたから…)
 今日まで、少しも気付かないまま。
 前の自分の記憶を取り戻した後も、「地球に来たんだ」と何度思っても。
 花には蝶が来るものだから。
 すっかり見慣れた景色だったから。
(でも、シャングリラだと…)
 花が咲いてもミツバチだけ、と味気ない船を思い出す。
 ミュウの楽園だった箱舟、蝶を飼う余裕は持たなかった船。
 青い小鳥も、花から花へと飛んでゆく蝶も、白いシャングリラには余計なもの。
 邪魔になるだけ、役に立たない生き物たち。
 それは要らない、と切り捨てられた。
 楽園という名の船だったのに。
 世界の全てでもあった船なのに、無かった余裕。
 幸せに生きてゆける船でも、やはり限界はあったから。
 皆の暮らしを守るためには、役立つものしか乗せてはゆけなかったから。


 あの頃を思えば、今の世界はなんと幸せなのだろう。
 当たり前に蝶がいる世界。
 「船で飼おう」と育てなくても、蝶は自分の力で育つ。
 何処かの木の葉や、野菜に卵を産み付けて。
 卵が孵れば、せっせと食べてゆく葉っぱ。
 ぐんぐん大きく育った後には、サナギになって眠り続けて…。
(出て来た時には、一人前の蝶…)
 翅が乾くまで静かに過ごして、それから空へと飛び立ってゆく。
 花の蜜やら、樹液を吸いに。
 同じ仲間の蝶を見付けて群れになったり、時には海を越えて行ったり。
 そうする間に卵を産み付け、次の世代へと繋がれる命。
 また卵から生まれる芋虫、いつか綺麗な蝶になる虫。
(…誰も手なんか貸さなくっても…)
 蝶は生まれて、ひらひらと空を飛んでゆく。
 花が咲いたら蜜を吸いに来るし、日向ぼっこをしていることも。
 前の自分が生きた船では、蝶は見られなかったのに。
 花には蝶が似合いそうでも、その蝶は飼えなかったのに。
(…妖精の羽も蝶なんだけどな…)
 絵本や挿絵の花の妖精、背中には羽があるけれど。
 蝶の翅を持った妖精も多くて、蝶はそのくらい愛された虫。
 遠く遥かな昔から。
 地球が滅びるよりも前から、蝶は身近な生き物だった。
 花には蝶が飛んで来るから、花の妖精にも蝶の翅。
 それが一番、似合うから。
 花には蝶が似合うのと同じで、花の妖精にも蝶の翅が似合いだったから。
 けれど、シャングリラでは飼えなかった蝶。
 役に立たない虫を飼うより、ミツバチで充分だった船。


 仕方なかったとは、今でも分かる。
 青い鳥も蝶も、シャングリラでは飼っていられない。
 それよりも前に育てるべきもの、必要なものが幾つも幾つもあったのだから。
(仕方ないよね…)
 シャングリラに蝶がいなかったことは。
 やっとの思いで辿り着いた地球に、蝶の飛ぶ野原が無かったことは。
 そういう時代だったから。
 青い地球など無かったのだし、ミュウは生きるのが精一杯。
 あれから長い時が流れて、今の自分は地球に生まれた。
 当たり前のように蝶を見ていた、それがいなかった船を忘れて。
 白いシャングリラで暮らした記憶を取り戻したって、「蝶がいるんだ」と思いもせずに。
(これって、贅沢すぎるかも…)
 今の自分が手に入れた世界。
 生まれた時から見ていた世界。
 此処では蝶が当たり前に飛んで、その地球の上にハーレイと二人。
 また巡り会って、恋をしていて、いつかはハーレイと一緒に暮らす。
 同じ家に住んで、庭に来る蝶を見るのだろう。
 今日の蝶みたいに、庭にふわりと舞い込んだ蝶を。
 「蝶が来たよ」と指差したって、きっと自分は忘れている。
 蝶がいなかった世界のことを。
 前の自分とハーレイが暮らした、白いシャングリラで描いた夢を。
 いつかは地球で蝶を見ようと、花には蝶が来るものだから、と。
 今では蝶は当たり前すぎて、今日まで気付かなかったから。
 思い出しさえしなかったのだし、きっと忘れてしまうのだろう。
 蝶がいる世界は素晴らしいのだということを。
 地球の恵みで、今だからこそ蝶たちが舞っていることを。


(ハーレイが言ってた、イノシカチョウも…)
 忘れちゃうよね、と残念な気持ち。
 今日、ハーレイから教わった言葉が「イノシカチョウ」。
 花札というゲームで遊ぶ時のことで、それで揃える三枚の札。
 イノシシが描かれた札を一枚、それから鹿が描かれた札も。
 蝶を描いた札も合わせて揃えば、「イノシカチョウ」の出来上がり。
 「今の地球なら揃えられるな」と、ハーレイが笑ったイノシカチョウ。
 イノシシも鹿も、山に行ったらいるのだから。
 もちろん蝶も飛んでいるから、運が良ければ揃うのだろう。
 本物のイノシシと鹿と蝶とで、イノシカチョウが。
(ぼくの家だと、大変なことになっちゃうけれど…)
 芝生を掘り起こすらしいイノシシ、木の葉を食べてしまう鹿。
 母の自慢の庭はメチャクチャ、父が手入れをしている芝生も。
(…でも、ちょっとだけ…)
 見たい気もする、と欲張ってしまうイノシカチョウ。
 蝶は当たり前になっているから、地球ならではのイノシカチョウ。
 それを見たいと、ハーレイと一緒なら見られそうだと。
(ハーレイ、タイプ・グリーンだもの…)
 もしもイノシシが突っ込んで来ても、守って貰えそうだから。
 鹿に体当たりをされたとしたって、シールドで守ってくれそうだから。
(…忘れなかったら、見たいんだけどな…)
 いつかハーレイと山に出掛けて、と夢を見る。
 蝶は今では当たり前だから、イノシカチョウの本物を、と。
 イノシシと鹿と蝶の本物がいいと、今の地球なら見られるものね、と…。

 

        蝶が来る今・了


※蝶がいるのは当たり前だ、と思い込んでいたブルー君。忘れ去っていた前の自分のこと。
 今の素晴らしさに気付いたついでに、夢見ているのがイノシカチョウ。見たいんでしょうねv





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(今では当たり前なんだがなあ…)
 気付かなかったな、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
 ブルーの家へと出掛けて来た日に、夜の書斎で。
 愛用のマグカップに淹れたコーヒー、それも今では当たり前のもの。
 コーヒー豆で出来ているのが当然と思っているけれど。
 それがコーヒーだと思うけれども…。
(こいつも、昔は違ったんだ…)
 前の自分が飲んだコーヒー。
 白いシャングリラが出来上がってからは、コーヒー豆はもう無かった。
 代わりにキャロブで作ったコーヒー、合成ではなくて代用品。
 今ではヘルシー食品のキャロブ、イナゴ豆の実から出来たコーヒー。
(コーヒーの方は気付いたんだが…)
 あっちは思いもしなかった、と思い返した今日の光景。
 ブルーの家の庭で見た蝶、ひらりと其処に舞い込んで来た。
 特に珍しい景色でもなくて、花があったら蝶が来るのは当たり前。
 それに、見慣れた黄色い蝶。
 今の季節にはよく飛んでいるし、渡りをするような蝶でもない。
 海を飛び越えて長い旅をする、アサギマダラならば目を引くけれど。
 大きな翅と鮮やかな模様、それに見入ってしまうけれども、何処にでもいる黄色い蝶。
 飛んでいるな、と思う程度で、庭の景色の一部分。
 道をゆく時に横切られたって、「蝶か」と眺めてそれでおしまい。
 わざわざ視線で追いはしないし、飛んで行った先を見詰めもしない。
 生垣を越えて庭に入ったなら、「行っちまったな」と思うだけ。
 覗き込んでまで見はしない。
 ただの黄色い蝶なのだから。
 とても珍しい蝶に出会ったと、喜ぶものでもないのだから。


 花の季節は蝶がいるのが当たり前。
 冬越しをする蝶もいるから、秋の終わりまで飛んでいるもの。
 冬の足音が聞こえて来たって、季節外れの暖かな日なら、蝶が舞う。
 日差しが明るい場所を選んで、ひらひらと。
 咲き残っている花を探して、あるいは日向ぼっこをして。
 春が来る時もそれは同じで、まだ雪が積もるような頃。
 「今日は冷えるな」と目を覚ましたら、辺り一面が白いような日も…。
(雪が一気に融けちまったら、蝶が飛ぶんだ)
 高く昇った太陽が地面を温めたなら。
 空気もすっかり暖かくなって、早咲きの花が香り始めたら。
 誘われるように舞い始める蝶、温まった翅でふうわりと。
 何処かに甘い蜜は無いかと、そろそろ春が来たようだから、と。
(すっかり春になったらだな…)
 サナギが孵って、生まれたての蝶が空に飛び立つ。
 真新しい翅で、ひらひらと。
 花から花へと飛び移りながら、仲間同士で戯れながら。
(そいつがどんどん増えていって、だ…)
 夏ともなれば、色とりどりの蝶たちが舞う。
 町の中でも、山や林でも。
 大きな蝶から目立たないほどの小さな蝶まで、それは沢山。
 自然があったら蝶に出会えるし、町の中でも幾らでも。
 蝶が喜ぶ花があるなら、吸いたがる蜜があるのなら。
(森に棲むような蝶だって…)
 広い公園なら、いたりするもの。
 樹液に集まる蝶の類で、それがひらりと飛んでゆく。


 今の季節も、蝶は舞うもの。
 暑い夏が過ぎて、穏やかな秋。
 蝶はいくらでも飛んでいるから、今日だって何の気なしに眺めた。
 「蝶が来たな」と。
 けれども、不意に掠めた記憶。
 前の自分は知らなかったと、こんな景色を見てはいない、と。
(シャングリラに蝶はいなかったんだ…)
 コーヒー豆が無かったように、あの船に蝶はいなかった。
 ミュウの楽園だった船には、それは必要なかったから。
 自給自足で生きてゆく船、白いシャングリラに蝶は要らない。
 何の役にも立たないから。
 花から花へと蜜を集めに飛び回る虫は、ミツバチがいれば充分だから。
(ミツバチだったら、蜜だけなんだが…)
 必要な食べ物は花の蜜だけ、後は巣箱があればいい。
 ミツバチが集めた蜜は食べられるし、働き者で役に立つ虫。
 けれども、蝶はそうはいかない。
 蜜を吸ったら、自分が食べてしまうだけ。
 巣箱に運んでゆきはしないし、花粉を運ぶだけの虫。
 翅や身体についた花粉を、次の花へと持ってゆくだけ。
(ミツバチとはまるで違うんだ…)
 蜜を集めてくれはしなくて、自分の餌にするだけの虫。
 おまけに、花から花へと飛んでゆく蝶が出来上がる前は…。
(俺たちも食べる野菜の葉っぱを…)
 食っちまうんだ、と顔を顰めた。
 芋虫の間は、蝶は葉っぱを食べるから。
 野菜を食べない種類の蝶でも、木の葉を食べてしまうから。


 役に立たないどころではなくて、迷惑でしかないのが蝶。
 翅を手に入れて舞い始めたなら、人の心を和ませるけれど。
 とても綺麗だと喜ぶ仲間もいただろうけれど…。
(芋虫の間は、歓迎されんぞ)
 野菜を育てる仲間たちには嫌われるだろうし、女性たちも好みそうにない。
 歓迎する者がいたとしたなら、ヒルマンくらい。
(子供たちの教材に丁度いい、とな)
 芋虫を捕まえてケースで飼育。
 「これが育ったら蝶になるから」と、子供たちに書かせる観察日記。
 餌の葉っぱも採って来させて、立派な蝶になる日まで。
 サナギの間も、きっと見守ることだろう。
 「今、動いたのを見ていたかね?」と。
 「サナギの間も動くのだよ」と、「よく注意して見ていなさい」と。
 白いシャングリラで蝶が役立つなら、子供たちの教材が精一杯。
 それ以外では全く役に立たない、大飯食らいの嫌われ者。
 野菜の葉っぱを食べてしまうと、公園の木の葉が食べられたと。
 あの芋虫を駆除して欲しいと、苦情が来たっておかしくはない。
 シャングリラで蝶が増えたなら。
 あちこちに卵を産んでいったら、葉っぱがどんどん食べられたなら。
(ミツバチだったら、いくら増えても…)
 誰も困りはしないのに。
 働き者の虫が増えれば、蜂蜜だって増えるから。
 巣箱を開ければ金色の蜜で、それを好きなだけ食べられる。
 だから、ミツバチだけが飼われた。
 白いシャングリラの役に立つから、働き者の虫だったから。


 蝶がいなかったシャングリラ。
 公園にどんな花が咲こうが、蝶が舞ってはいなかった。
 今では当たり前なのに。
 花が咲いたら蝶が来るのに、前の自分は見なかった景色。
 白いシャングリラに蝶はいなくて、ブルーと見てはいなかった。
(すっかり忘れちまってた…)
 今の自分に慣れてしまって、なんとも思っていなかった景色。
 普通だとばかり思っていた蝶、それは自然の恵みだったのに。
 青く蘇った地球だからこそ、自分は蝶に出会えるのに。
(…前の俺だって、見てはいたんだ…)
 小さなブルーに訊かれたこと。
 「前のハーレイは蝶を見たの?」と。
 シャングリラに蝶はいなかったけれど、ナスカでは蝶を見たのかと。
 「いや」と返した自分だけれども、その他の星。
 前のブルーがいなくなった後、地球を目指す途中で降りた星々。
 アルテメシアやノアでは見たと答えた。飛んでいるのを見てはいたな、と。
(…確かに蝶には出会ったんだが…)
 蝶がいるな、と思っただけ。
 此処にはそういう虫がいるのかと、シャングリラとは違うのだな、と。
 蝶を美しいと思う心は、とうに持ってはいなかったから。
 前のブルーを失くしてしまって、死んでしまっていた魂。
 ただ生きていたというだけのことで、蝶がいようが、どうでもいいこと。
 もしもブルーが生きていたなら、二人で蝶を眺めたろうに。
 「蝶がいますよ」と指差してみせて、「本当だね」とブルーが笑んで。
 これが当たり前になったらいいと、二人でミュウの未来を夢見て。


 けれど、ブルーはいなかった。
 前の自分が蝶を見た時、愛おしい人はもう、何処を探しても…。
(…いなかったんだ…)
 蝶と同じで、と胸を過ってゆく痛み。
 まるであの日に戻ったかのように。
 前のブルーを失くしてしまって、抜け殻になって生きていた日々に。
(…だが、俺は…)
 俺はあいつを取り戻したんだ、と今の自分に言い聞かせる。
 ブルーと二人で蝶を見たろうと、楽しい話もして来ただろう、と。
(…そうだ、あいつとお茶を飲んでて…)
 小さなブルーと蝶を眺めて、思い出話をして来たから。
 蝶がいるのが当たり前の世界、其処に二人で生まれ変わったから…。
(いくらでも蝶を見られるってな)
 いつかは同じ家で暮らして、庭に来る蝶も、出掛けた先で眺める蝶も。
(前の分まで、たっぷり見ないと…)
 蝶がいなかった船で生きていた分、と思うけれども、きっと明日には…。
(忘れちまうんだな)
 その有難さを、蝶がいる世界が素晴らしいことを。
 今ではそれが当たり前だから。
 暖かい季節は、いくらでも蝶を見られるのだから…。

 

        蝶がいる今・了


※今は当たり前に飛んでいる蝶。けれど、シャングリラに蝶はいなかったのです。
 ブルー君と二人で蝶を眺めていた庭。幸せな時代になりましたよねv





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