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カテゴリー「書き下ろし」の記事一覧

(ハーレイ、来てくれなかったよ…)
 来てくれるかと思ったのに、と小さなブルーが零した溜息。
 お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
 前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
 今は学校の教師のハーレイ、仕事が早く終わった時には家を訪ねて来てくれる。
 そしたら二人で、この部屋でお茶。
 窓際に据えたテーブルと椅子で、のんびりと。
 それから両親も一緒の夕食、幸せな時間を過ごせるけれども、今日はハーレイは来なかった。
 「来てくれるかな?」と待っていたのに、チャイムが鳴るのを待ったのに。
(…会議か、柔道部なのかは知らないけれど…)
 寂しいよね、と嘆いてみたって始まらない。
 今日という日は、時間だけなら幾らか残っているけれど。
 日付が変わる時間までには、充分に余裕があるのだけれども、とうに夜。
 こんな時間にハーレイは来ないし、チャンスがあるなら明日のこと。
 明日、学校から帰って来たなら、今日と同じに待つのだろう。
 「ハーレイが来てくれるといいんだけれど」と。
 勉強机の前に座って、あるいは窓から下を見下ろして。
 庭の向こうに見える生垣、庭と道路を隔てる緑。
 茂った枝葉の間を透かして、別の緑が見えないかと。
 前のハーレイのマントの色と同じ緑の、ハーレイの愛車。
 それが来るのが見えはしないかと、門扉の所に長身の影が立たないかと。
(…明日、ハーレイが来るにしたって…)
 今から何時間あるの、と壁の時計を見上げて悲しくなってくる。
 まだまだハーレイに会えはしないし、その時間までには学校だって。
(学校でも、会えないことはないけど…)
 会えるのは「ハーレイ先生」だしね、と思い始めたらきりが無い。
 どんどん寂しくなってゆくだけで、この時間からハーレイに会えはしないから。


 これじゃ駄目だ、と気分を切り替えることにした。
 ハーレイのことを考えるのはやめて、もっと素敵に過ごそうと。
 眠る前には楽しいことをと、そうすれば夢もきっと素敵、と。
(えっと…)
 何がいいかな、と立ち上がって出掛けた本棚の前。
 新しい本は買っていないし、今までに読んだ本の中から何か一冊選ばなければ。
(…シャングリラの写真集は駄目…)
 好きだけれども、ハーレイを余計に思い出すだけ。
 白い鯨だったシャングリラ。今は写真集の中にしか残っていない船。
 あの船で前のハーレイと暮らして、恋をしていた。
 ハーレイが船の舵を握って、前の自分が船を守った。
 そういう二人が恋仲だなどと、仲間たちに知れたら船の中は上手く回りはしない。
 だから懸命に恋を隠して、最後まで隠し続けたまま。
 前の自分も、前のハーレイも、誰にも言わずにその生を終えた。
 そうして地球に生まれ変わって、また巡り会えた二人だけれど…。
(まだ一緒には暮らせないし…)
 恋をしているとも明かせない。
 今の自分は十四歳にしかならない子供で、結婚することも出来ないから。
 ハーレイが訪ねて来てくれるのを、今か今かと待っているだけ。
(このシャングリラの写真集だって…)
 教えてくれたのはハーレイだけれど、二人一緒に見られはしない。
 ハーレイが家に来てくれなければ、二人で広げてページをめくるのは無理だから。
(…ハーレイだらけの本だしね?)
 同じ写真集をハーレイが先に買っていたから、「お揃いだよね」と思う写真集。
 お気に入りでも、今は選びたくない気分。
 ページをめくれば、ハーレイのことを思い出すから。
 「今日は来てくれなかったよ」と。
 明日は会えればいいんだけれど、と寂しい気分を拭えないから。


 この本は駄目、と切り捨てたのが白いシャングリラの写真集。
 父に強請って買って貰った豪華版。
(見たいけれども、ハーレイしか浮かんで来ないから…)
 他のにしよう、と本棚を端から順に眺めて、一冊選んで取り出した。
 中身をすっかり覚えている本、けれど大好きな物語。
 何処から読んでも、何処で終わっても、話はきちんと繋がるから…。
(もうちょっとだけ、って夜更かししたりはしないしね?)
 此処で終わり、と本を閉じても、話の続きは頭の中。
 どういう風に続いてゆくのか、考えながら眠りに落ちたら、素敵な夢も見られそう。
 物語の世界の中に入って、其処で暮らしている自分。
 運が良ければ、主人公にだってなれそうだから。
(それが一番…)
 ハーレイのことばかり考えてしまう世界から、本の中にある世界に旅立つ。
 きっと今頃は、ハーレイもそう。
 コーヒーでも淹れて、書斎に座って、本の世界を旅していそう。
(…ダメダメ、今はハーレイは抜き…)
 考えちゃったら溜息ばかり、と本を手にして戻ったベッド。
 横になって読むか、ベッドに座るか、少し迷って座る方にした。
 腰掛けていたら、「早く寝なくちゃ」と思うから。
 眠くなるまで頑張りはせずに、「此処でおしまい」と本を戻しに行く筈だから。
(夜更かししちゃうと、身体に悪いし…)
 明日の朝に具合が悪くなったら、行けなくなってしまう学校。
 両親に「寝ていなさい」と言われて、母が学校に欠席の連絡をしてしまって。
(そしたら、学校でハーレイに会えない…)
 そんなの困る、と頭の中身はまたハーレイ。
 どう転がってもハーレイばかりで、消えてくれない恋人の顔。
(それが困るから、本なんだってば…!)
 ハーレイは此処まで、とベッドに腰を下ろして開いた本。
 別の世界に旅をしようと、ハーレイのことを忘れたいならそれが一番、と。


 本を広げて、旅に出掛けた別世界。
 直ぐに入り込んで、アッと言う間に其処の住人。
 ページをめくれば次から次へと、色々なものが見えてくる。
 景色も、其処で暮らす人々も、主人公の姿も、その世界に流れている時間も。
(…この森を抜けたら…)
 川の直ぐ側に、小さな家が建っていて…、と分かっていたってワクワクするもの。
 物語というのはそうしたものだし、ページをめくってゆきたくなる。
 文字を追いながら、ぱらりとめくって旅をする。
 本の中にだけ流れる時間を、本の中にだけ広がる世界を。
 そうやって夢中で読んでいる内に、本の世界と一体になっていたのだけれど…。
「あっ…!」
 何のはずみか、膝から滑り落ちた本。
 たちまち世界は消えてしまって、床の上に本が落ちているだけ。
(落っことしちゃった…)
 大失敗、と本を拾って、ページが折れたりしていないかを急いで確認。
 幸い、本は落っこちただけで、何処も傷んでいなかった。
 良かった、とホッと安心したけれど。
(…もうこんな時間…)
 そろそろ寝なきゃ、と壁の時計に教えられた時間。
 別世界の旅は此処でおしまい、続きは今度、思い付いた時に。
 ページをめくればいつでも行けるし、物語だってすっかり覚えているんだから、と。
(夢の中で続き、見られるといいな…)
 続きでなくても、本の中の世界に行けるといいな、とパラパラと繰ってみたページ。
 魔法みたいに別世界に行ける、本に書かれた文字を読むこと。
 こうやってページをめくるだけで…、と読まずに次々めくっていたら…。
(…ぼくの手だよね?)
 これ、と気付いたページを繰る手。
 本をオモチャにしているかのように、ページをめくり続ける手は。


 見慣れた今の自分の手。
 十四歳の子供に似合いの、大人のものとは違った手。
(…ぼくの手だけど…)
 今のぼくの手、と見詰めてしまった小さな手。
 素敵な世界へ旅をした自分、本の世界で過ごしたけれども、其処への旅は…。
(…この手がページをめくってくれて…)
 中へどうぞ、と連れて行ってくれた本の中にある別世界。
 文字を追いながら、無意識の内に指でめくっていたページ。
 自分では何も考えなくても、少しも意識しなくても。
 「めくってよ」と指に、手に、何も頼みはしなくても。
 「早くめくって」と命じなくても、流れるように動いてくれた手。
 本を落っことしてしまうまで。
 膝の上から滑り落ちた本が、床の上で閉じてしまうまで。
(…ぼくは、なんにも考えてなくて…)
 ハーレイのことを考え続けているよりは、と本の世界に飛び込んだけれど。
 其処で楽しく過ごしたけれども、本の世界に入らせてくれて、其処にいさせてくれたのは…。
(ぼくの手だよね…?)
 この手、と本を膝の上に置いて考える。
 小さな右手と、左の手と。
 ページをめくっていた手は右手で、左手はそのお手伝い。
 右手がページをめくりやすいよう、横で助けてくれていた。
 どちらの手にも、自分は指示などしていないのに。
 「本を読ませて」とも、「ちゃんとページをめくってよ?」とも一度も言いはしないのに。
(勝手に動いて…)
 ぼくを連れてってくれていたよ、と鮮やかに蘇る本の中の世界。
 右手も左手も、チビの自分を別世界に飛ばせてくれたけれども…。


(…ぼくの手、とっくに…)
 失くした筈、とキュッと握った右手。
 前の自分が死んだ時には、その手が冷たく凍えたから。
 最後まで持っていたいと願った、右手に残ったハーレイの温もり。
 それを失くして右手は凍えて、前の自分は死んだのに…。
(…ぼくの手、小さくなっちゃったけど…)
 ちゃんと今でもあるんだから、と瞬かせた瞳。
 ハーレイに会えなくて寂しいから、と思ったら本の世界にも旅立てた。
 その手を使って、今の今まで。…本を床へと落っことすまで。
(…またハーレイと繋がっちゃった…)
 振り出しに戻っちゃったみたい、と思うけれども、零れた笑み。
 今の自分は幸せだから。
 本のページをパラパラめくって、別の世界にも旅してゆける。
 ハーレイが来てくれなかった日は、寂しいからと。
 そういう旅をさせてくれる手、この小さな手は「ぼくの手だよね?」と。
 いつか大きくなった時には、きっとハーレイと繋げる手。
 自分はちゃんと生きているから、本のページをめくれる手だってあるのだから…。

 

         ぼくの手だよね・了


※ハーレイ先生が来てくれなかった日の夜、本の世界に逃げ込んだブルー君ですけれど。
 本をめくる手は、前の自分が失くした筈の手。いつかハーレイと繋げる手を持っている幸せv






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(おっと、そうだった…)
 忘れない内に書いておかんと、とハーレイが手に取ったペン。
 ブルーの家には寄れなかった日に、夜の書斎で。
 コーヒー片手の寛ぎの時間、ふと思い出した今日の新聞。
(大したことじゃないんだが…)
 いずれネタにも出来るだろう。
 古典の授業をしている最中、生徒に聞かせてやる雑談。
 集中力を取り戻させようと、色々なことを持ち出すのが常。
 授業とはまるで関係なくても、古典と関係しなくても。
(ちょっとした授業のコツってヤツで…)
 劇的に戻る、教室の生徒の集中力。
 大笑いしたり、「本当ですか?」と驚いたりして、その後はきちんと前を向く。
 居眠りしかけていた生徒だって、吹っ飛んでしまうのが眠気。
(あれをやるには…)
 ネタも大切、とメモに書き付けた。
 新聞にあったコラムの一部で、記事を切り抜くほどでもない。
 元の情報、それを自分は知っているから。
 ただ、実際に見て来た人の話ともなれば、切り口が違う。
(ネタにする時は、話の仕方も大切なんだ)
 最初の一言、それだけで変わる教室の生徒の食い付き具合。
 いつかこのネタを使う時には役に立つ、と書いたメモ。
 こうして一度書いておいたら、忘れない。
 メモが何処かへ行ってしまっても、頭の何処かに入るから。
 ただ新聞を読むのと違って、「書く」という作業が挟まるから。


 よし、と眺めたメモの文字。
 ほんの一行、新聞の中身はその一行だけ。
 元の文章と同じかどうかも怪しいけれども、自分が納得すればいい。
 後は添え書き、「ネタに使える」と。
 此処が肝だと思う部分に、丸印だってつけたりして。
(うん、これでいいな)
 書いただけでも充分だけれど、日を置いてからまた見返したら、もう完全に自分のもの。
 一度忘れて思い出したら、けして忘れはしないから。
 そういう作業に似合いの場所が、引き出しの中。
 何気なく開けてメモを見付けたら、「そうだったな」と眺めるもの。
 「ネタに使えると思ったんだ」と、そのために書いておいたのだった、と。
 だから引き出しに仕舞ったメモ。
 日記を入れている場所とは違って、便箋などを収めた引き出し。
 パタンと閉めて、またコーヒーに戻ったけれど。
 愛用のマグカップを傾けたけれど、目に入ったのが机の羽根ペン。
 白い羽根ペンは、誕生日にブルーがくれたもの。
(あいつの予算の分だけだがな…)
 生まれ変わってまた巡り会えた、愛おしい人。
 十四歳にしかならないブルーは、まだまだ子供で小遣いも少ないものだから…。
(…羽根ペンを買うには金が足りなくて…)
 それでも誕生日に贈りたいから、と小さな頭を悩ませていた。
 ブルーの気持ちは良く分かったし、「二人で買おう」と決めた羽根ペン。
 大部分は大人の自分が支払い、ブルーは小遣いから出せる分だけ。
(小遣いの一ヶ月分だったっけな)
 ブルーに「はい」と渡された封筒、一ヶ月分のお小遣い入り。
 もちろん使ってはいない。
 今も机の引き出しの奥に、大切に仕舞い込んである。
 「ブルーに貰った羽根ペン代」と、封筒にきちんと書き添えて。


 その羽根ペンにもすっかりと慣れて、日記を書くのに使うのだけど。
 ペン先をインク壺に浸して、ゆっくりと文字を綴る時間が好きだけれども…。
(今は使わなかったっけな)
 ただのメモだし、と改めて見詰めた羽根ペンと側のインク壺。
 授業に使う雑談のネタを書くだけの作業、それに羽根ペンはもったいないぞ、と。
(しかしだな…)
 そう思ったから、持ったわけではなかったペン。
 ごくごく普通の何処にでもあるペン、机の上のペン立てからヒョイと手に取った。
 メモも机の上にあるのを一枚破り取っただけ。
 それに書き付けて引き出しへヒョイと、今日でなくてもよくやること。
 「忘れない内に書かないと」と、「でないと忘れちまうしな?」と。
 自然に動いた自分の手。
 「メモに羽根ペンはもったいない」と思わなくても、勝手にペンを持っていた。
 いつもそうしていることなのだし、特に変でもないけれど…。
(…そいつが俺の手なんだよな?)
 考えなくても普通のペンを選ぶのが、と見詰めた右手。
 羽根ペンの方にも慣れたけれども、あれは自分には「特別なペン」。
 ブルーがプレゼントしてくれたペンで、日記を書くのに使うだけ。
(後は、大切な手紙くらいか…)
 古くからの友人に手紙を書こう、と思った時には使ったりもする。
 レトロな羽根ペンも気に入っているし、心がこもるように思うから。
(だが、それ以外で書くとなったら…)
 今やったように、右手が自然と動き出す。
 ペン立てから取り出す普通のペン。
 わざわざインクに浸さなくても、スラスラと書ける便利なペン。
 それにしよう、と選ぶのが右手、自分が命令しなくても。
 「今日はこっちだ」と考えなくても、右手はペンを持っている。
 羽根ペンとは違う、普通のペンを。
 インク壺などは必要としない、とても便利で楽に書けるペンを。


 慣れているから、当然のこと。
 羽根ペンの方が後から来た上、恋人からの贈り物。
 日記を書くのと、「これには是非」と思う時しか使わないペン。
 手だって充分承知しているし、メモを書くのに持つのなら…。
(あっちのペンになるんだが…)
 何も不思議はないのだけれども、ああいったペン。
 インク壺さえ必要としない、羽根ペンではないペンを選ぶ手が…。
(俺の手なんだ…)
 そうなるんだな、と右手を広げて、キュッと握って、また広げてみる。
 何度かそれを繰り返しながら、思ったこと。
「俺の手だよな?」と。
 羽根ペンは特別なペンだから、と普通のペンを選んだ手。
 自分が指示を下さなくても、何も考えはしなくても。
(うーむ…)
 前の俺だと、こうじゃなかった、と苦笑い。
 遠く遥かな時の彼方で、キャプテン・ハーレイだった頃。
 航宙日誌を綴った机の上には羽根ペン、今あるのと似た白いペン。
 側にはインク壺もあったし、あの机で何か綴るなら…。
(まずは羽根ペン、そんな感じだ)
 馴染み深かったペンは羽根ペン、書類にサインする時もそれ。
 普通のペンもあったけれども、常に出してはいなかった。
 前の自分の机の上には、無かったペン立て。羽根ペンを立てておくものしか。
(必要な時には、普通のペンをだ…)
 引き出しから出していたのが前の自分。
 羽根ペンよりはこっちだろう、と選んでいたのが普通のペン。
 馴染んでいたのは、白い羽根ペンだったから。
 たかがメモでも、羽根ペンを使って書いていた。
 「これが好きだ」と、「手に馴染むから」と。


 そうしていたのがキャプテン・ハーレイ、それも確かに自分だけれど。
 羽根ペンは今も好きなのだけれど、メモを書くなら普通のペン。
 考えなくても、手の方でそれを選ぶから。
 「これでどうぞ」とペン立てから取って、サラサラと書いてくれるから。
 見た目だけなら、その手は何処も変わらないのに。
 前の自分が持っていた手と、まるで変わりはしないのに。
(俺の手には違いないんだが…)
 ずいぶんと変わってしまったようだ、と驚かされる自分の手。
 「俺の手だよな?」と、まじまじ眺めてしまうほど。
 この手が勝手にペンを取ったぞ、と思わず観察してしまうほど。
 前の自分が持っていた手なら、サッと羽根ペンを取っただろうに。
 「忘れない内に書いておこう」と、羽根ペンの先をインク壺に浸していたろうに。
(…生まれ変わって別人だしなあ…)
 記憶が戻るまでは違う人生を歩んでいたし、と右手に教えられた今。
 小さなブルーと巡り会うまで、羽根ペンが欲しいと思ったことさえ無かった自分。
 愛用のペンはあったのだけれど、そのペンの中にはナスカの星座があったけれども…。
(人生の違いが手に出るってか?)
 握ってたものも違うんだしな、とシャングリラの舵輪を考えてみる。
 あれを握って舵を取ったのが前の自分で、今の自分はせいぜい車のハンドルくらい。
 仲間の命を預かる代わりに気ままにドライブ、そういう人生。
 他の誰かを乗せて走っても、命懸けではなかった日々。
 そういう暮らしをして来た手だから、同じ手でも色々違うのだろう、と。
(一事が万事で…)
 どのペンを自然に選び出すかと同じ理屈で、他にもあるだろう違い。
 直ぐには思い付かないけれども、全く別の人生だから。
(それでも俺の手だよな、これが)
 今はこいつが似合いなわけで…、と零れる笑み。
 平和な時代に生まれて来たから、今はこいつでいいらしい、と。
 いつかブルーが前と同じに大きくなったら、デートの時には手を繋ぐしな、と…。

 

        俺の手だよな・了


※メモを書く時は、羽根ペンではないハーレイ先生。便利なペンを勝手に選んでいる手。
 キャプテン・ハーレイだった頃とは、まるで違っているのが今。平和な時代に似合いの手v






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(今日はハーレイ、来てくれなかったし…)
 古典の授業も無かったし、と小さなブルーが零した溜息。
 お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
 前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
 そのハーレイが仕事の帰りに寄ってくれたら、天にも昇る心地だけれど。
 もう嬉しくてたまらないけれど、寄ってはくれなかった今日。
 おまけに古典の授業も無かった。
 今のハーレイは古典の教師で、授業のある日は教室で会える。
(学校じゃ、先生と生徒だけれど…)
 それでもハーレイの姿が見られて、大好きな声も聞けるのが授業。
 運が良ければ「ブルー君!」と、当てて貰える時だって。
 質問されたら気分は最高、教科書を音読するだけにしても…。
(ハーレイ、こっちを見てくれるから…)
 他の授業より、ずっと張り切るのが古典の時間。
 けれども今日は古典は無しで、明日もやっぱり無いわけで…。
(…ハーレイ、明日も会えないかも…)
 学校でも、ぼくの家でも駄目かも、と悲しい気持ち。
 古典の授業が無い日の学校、そういう時だとハーレイに会えても挨拶程度。
 ツイていたなら、ほんの少しの立ち話。
 それでおしまい、たったそれだけ。
 もっとハーレイの側にいたいのに、姿を眺めていたいのに。
 今は補聴器を通さずに聞ける、あの温かな声だって、もっと。
(…なんで古典の授業も無いわけ?)
 ホントに酷い、と眺めた壁のカレンダー。「あんまりだよ」と。
 今日の日付けが此処だから…、と意地悪なカレンダーを睨むしかない。
 次に古典の授業がある日は此処なんだから、と。


 なんとも悲しい、今日という日と、それから明日と。
 古典の授業は明後日まで無くて、明日もハーレイが家に来てくれなかったら…。
(明後日までは会えないまま?)
 立ち話が出来たらマシな方なの、とカレンダーを見ていてハタと気付いた。
 「今日は何日だったっけ?」と。
 確かにこの日、と頭から思っていたけれど。
 日付も曜日も合っているのだと、すっかり信じていたけれど。
(…今日の宿題…)
 帰って直ぐにやった宿題、それを出したのは歴史の先生。
 歴史の宿題が今日出たのならば、今日の曜日は…。
(嘘…!)
 間違えちゃってた、と今になって気付いた勘違い。
 宿題をせっせとやっていた時は、ちゃんと覚えていた筈なのに。
 もちろん学校から帰った時にも、曜日も日付も勘違いしてはいなかったのに。
(何処で間違えちゃったわけ…!?)
 信じられない、とベッドから下りて駆けて行った勉強机の所。
 明日も学校に持って行く鞄、その蓋を開けて驚いた。
(…やっちゃってる…)
 もう間違えていたんだよね、と分かる証拠がその中に。
 「明日は古典の授業は無いよ」と思った通りに、きちんと詰められた教科書やノート。
 古典の教科書も、ノートも入っていないのだけれど…。
(ハーレイの授業、あるってば…!)
 ぼくが間違えちゃっただけ、と慌てて引っ張り出す中身。
 「この教科書は要らないから!」と、「このノートだって要らないよ」と。
 間違えていた時間割。
 いったい何処で勘違いしたか、曜日を先へ飛び越えていた。
 二日続けて古典の授業が無い所まで。
 まだその曜日は来てもいないのに、自分の頭の中だけで。


 大慌てで直した時間割。
 きちんと古典の教科書を入れて、それにノートも。
(…危なかったよ…)
 もう少しで忘れて行く所、と情けない気分。
 明日はハーレイの授業があるのに、もしも気付いていなかったなら…。
(学校に着いて、鞄を開けて…)
 どの段階で気付くのだろうか、自分が犯した間違いに?
 全く違った教科書やノート、それを揃えて学校に来てしまったことに。
(早く気付けばいいけれど…)
 朝のホームルームが終わった後にも、まるで気付いていなかったならば大惨事。
 一時間目は教科書が無くて、隣の席の子に頼んで見せて貰うしかない。
 ノートを取るのも、その授業のは持って来ていないわけだから…。
(他の科目のノートに書くしか…)
 方法が無くて、そうやって書いた授業のノートは、家でもう一度書いて写すか…。
(ノート、破って貼り付けるか…)
 それ以外には無い方法。
 しかも午前中はそういう授業ばかりで、古典の授業もその一つ。
 他のクラスへ教科書を借りに走って行こうにも…。
(…時間、足りないかも…)
 教科書を忘れたことが無いから、何処のクラスへ行けばいいのか分からない。
 同じ日に古典の授業がある筈のクラス、それがサッパリ分からないから。
(誰か、仲間がいたらいいけど…)
 忘れたから、と借りに走ってゆく生徒。
 救いの神にも見える先達、それがいたなら「あのクラスだ」と駆け込んでゆけばいいけれど。
 誰でもいいから、顔馴染みの生徒を捕まえればそれで済むけれど。
(…借りに行く人、誰もいなかったなら…)
 順に入って訊くしかない。
 「古典の教科書、今日は持ってる?」と。
 持っているなら貸して欲しいと、家に忘れて来てしまったから、と。


 そうやって順に尋ねて回って、無事に借りられたらいいけれど。
 間に合ったならばいいのだけれども、古典の授業があるクラスの子が…。
(体育だとか、調理実習…)
 別の場所へと移動していたら、教科書はもう借りられない。
 まっしぐらに其処を目指していたなら、借りられたかもしれないのに。
 他のクラスで「教科書、持ってる?」と訊いたりしないで、直ぐに行ったら。
(…凄くありそう…)
 運が悪すぎる巡り合わせ。
 古典の教科書が手に入らないままで、鳴ってしまうだろう授業のチャイム。
 じきにハーレイがやって来るのに、持ってはいない古典の教科書。
 隣の席の生徒に見せて貰うより他に無い上に…。
(ハーレイ、絶対、気が付くから…)
 きっと側まで見にやって来る。
 教科書を忘れた間抜けな生徒は、いったいどちらの席なのかと。
 二人で一冊、その教科書の広げ方。
 教科書の持ち主はどちらなのかと、隣に迷惑をかけている馬鹿は誰なのかと。
(…見に来られたら、直ぐにバレちゃう…)
 平気なふりを装っていても、きっとハラハラしている自分。
 「どうしよう…」と、「全部バレちゃうよ」と。
 古典のノートも持っていないし、違う科目のノートだから。
 それを広げて書いているだけ、他のページをパラリとめくってみたならば…。
(…古典なんか、何処にも書いていなくて…)
 まるで違った中身のノート。
 どんなに堂々と振舞いたくても、それでは無理。
 ハーレイもきっと見抜くだろうから、「見せてみろ」とノートに手を伸ばすだろう。
 そして中身をパラパラ眺めて、「いい度胸だな?」と声が降ってくる。
 「俺は古典の教師なんだが」と、「いつから別の教科の教師になったんだ?」と。
 そう言った後は、チクチクと嫌味。
 「そっちの授業の方がいいなら、この時間だとあのクラスだな」とか。


 前にやられた生徒を見たから、どうなるのか知っている末路。
 ハーレイの授業で教科書とノートが無かったら…。
(…何組に行け、って叱られちゃって…)
 授業が終わるまで針の筵で、質問が幾つも飛んで来る。
 「おい、其処の馬鹿!」と名前も呼ばずに、教科書の別の箇所から質問。
 今、広げてはいないページに書かれた言葉や、注釈などや。
 「教科書があれば分かるだろ?」と。
 「隣に迷惑かけちゃいかん」と、「それをめくらずに直ぐに答えろ」と。
(…なんとかなるとは思うけど…)
 今日までにやった箇所ばかりだから、自分なら切り抜けられると思う。
 詰まりながらでも、辛うじて。「それはこうです」と、なんとか正解。
 けれど、教科書を持っていないのは本当だから…。
(…うんと恥ずかしくて…)
 おまけに相手はハーレイなのだし、いたたまれない気分なのだろう。
 どうして教科書を忘れたのかと、ノートも忘れて来たのかと。
(…そうならなくてホントに良かった…)
 忘れちゃう前に気が付いたしね、と鞄に詰めてある教科書とノート。
 危うい所だったけど。
 カレンダーを睨んでいなかったならば、忘れて出掛けただろうけど。
(もしもハーレイが今日、来てくれてたら…)
 大満足で眠った筈だし、鞄の中身を間違えたなんて思いもしない。
 明日、学校に行くまでは。
 学校に着いて鞄を開いて、教科書を出そうとするまでは。
(大失敗…)
 もうちょっとでハーレイの前で大恥、と思ったけれど。
 学校で赤っ恥はもちろん、ハーレイが家に来てくれた時も多分、叱られそうだけど。
(…今だからそれで済むだけで…)
 前は違った、と掠めた思い。
 遠く遥かな時の彼方で生きた頃には、違ったと。


 白いシャングリラで暮らした時代。
 前のハーレイと恋をしていた頃には、失敗など出来はしなかった。
 ミュウの箱舟を守るためには、仲間たちの命を守るためには。
(…前のぼくが守り損なったら…)
 白いシャングリラは沈んでしまって、誰一人として助からない。
 もちろん前のハーレイだって。
(…失敗、一度もしなかったけど…)
 それはそのように生きていたからで、毎日が真剣勝負の日々。
 青の間でのんびりしてるようでも、張り巡らせていたのが思念の糸。
 何か起きたら、直ぐ分かるよう。
 いつでも飛んでゆけるようにと、けして失敗しないよう。
(…だけど、今だと失敗したって…)
 赤っ恥だけで済むみたい、と浮かんだ笑み。
 ハーレイの授業で赤っ恥など嫌だけれども、今はそれで済む時代だから。
 失敗したって、大恥だけで済む時代。
 白いシャングリラは沈みはしないし、仲間たちの命を失くしもしない。
 ハーレイにチクチク嫌味を言われて叱られた後は、笑い話でおしまいだから…。

 

        失敗したって・了


※ブルー君が勘違いして鞄に詰めた教科書やノート。まるで別の日の時間割で。
 危うく古典の教科書も忘れるトコでしたけど…。今は大失敗をしても、笑い話で済む時代v








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(おや…?)
 はて、とハーレイが覚えた違和感。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で。
 片付けを済ませて、お次はコーヒー。
 いつもの夜の寛ぎの一杯、それを淹れようとしていた時に。
(…何か変だぞ?)
 そう思ったから、見に出掛けた場所。
 直ぐに気付いた違和感の理由、ある筈のものが無かった其処。
 ガレージに停めた愛車の鍵。早い話が車のキー。
 いつもは其処にあるというのに、キーが姿を消していた。
 チョコマカと駆け回るペットだったら分かるけれども、相手は鍵。
 自分で勝手に走って行きはしないのに。
 いくら車のキーといえども、自力で動けるわけがないのに。
(…何処へ行ったんだ?)
 俺は確かに此処にだな…、と睨み付けるキーが消えた場所。
 今日は帰りが遅くなったし、ブルーの家には寄れずに帰って、車もそのままガレージへ。
 玄関を開けて家に入ったら、鞄を置いたり、スーツを脱いだりするけれど…。
(まずは車のキーでだな…)
 手に持ってるから此処なんだ、と眺める其処。
 たまにテーブルに置いたりはしても、所定の場所に戻すのが常。
 でないと、後で困るから。
 「何処に置いた?」と探し回る話はたまに聞くから、そうなる前に予防するべき。
 これは此処だ、と決めておいたら、もう絶対に忘れない。
 急に飛び出す用事が出来ても、真っ直ぐに此処へ走って来れば…。
(キーを引っ掴んで出られるしな?)
 だから此処だ、と思うのに。
 もはや習慣、車を降りたら此処に来るよう、身体が動く筈なのに。


 けれど、其処から消えたキー。
 いつもと同じに家に入って、荷物を置いたら着替えて夕食。
(飯を作って、食ってだな…)
 あれきり車じゃ出掛けてないぞ、と考えなくても分かること。
 小さなブルーと出会う前なら、夕食の後で気ままにドライブ、そういう夜もあったけれども…。
(今じゃ、すっかり御無沙汰なんだし…)
 飯をゆっくり食ってただけだ、と思い出してゆく自分の行動。
 夕食の後は新聞を広げて、気になる記事をのんびりと。
 それから片付け、皿も茶碗もきちんと拭いて食器棚へと。
 「もう終わりだな?」と確認してから、取り掛かろうとしたのがコーヒー。
 夜の習慣になった一杯、それを飲むのが好きだから。
 愛用のマグカップにたっぷりと淹れて、書斎で、あるいはリビングなどで。
(…何処へも出掛けちゃいないぞ、俺は?)
 車の出番は無かったんだ、とハッキリ言える。
 乗らない車のキーなど使うわけがない。
 持って何処にも出掛けはしないし、第一、自分は出掛けてはいない。
(いったい何処に置いたんだ?)
 テーブルの上には無かったぞ、と直ぐに分かるのがダイニング。
 食事を済ませて、さっきテーブルを拭いたから。
 新聞も畳んでキッチリ揃えて、隅から隅まできちんと綺麗に。
 あのテーブルの上にキーがあったら、もちろん此処へ持ってくる。
 「ウッカリ置きっ放しにしちまってたな」と、「キーは此処だ」と。
 決められた場所にあってこそだと、「でないと直ぐに使えないんだ」と。
(…しかしだな…)
 現にこうして無いわけで…、と首を捻るしかないキーの逃亡。
 ペットみたいに、走って逃げはしないのに。
 車とセットになって初めて、キーは走ってゆけるのに。


 なんとも謎だ、と逃げてしまったキーの行方を考える。
 帰った後に行った場所は…、と順番に。
 洗面所で手を洗ったりもしたし、リビングにだってもちろん入った。
 そういう所に置き忘れただろうか、ヒョイと何処かに放り出したままで…?
(洗面所なあ…)
 あそこかもな、という気もする。
 今日は帰りに出掛けた買い出し、食料品の他にも色々。
 ブルーの家には寄れなかった日の帰り道。そういう時にはピッタリだから。
 あれこれ買い込んで家に戻ったら、最初に行くのが洗面所。
 食料品を冷蔵庫などに仕舞う前には、手を洗わねば、と決めている。
(今日はドッサリ買ったから…)
 食えないモンも、と思った所でハタと気付いた。
 手を洗った後、冷蔵庫に入れた食材たち。冷蔵庫の他に、棚などにも。
(そいつを済ませて…)
 他の買い物、そちらを片付けにかかっていたのが着替えてから。
 「これはこっちだ」と運んだりして、それから夕食の支度にかかって…。
(途中で思い出したんだ…!)
 荷物が一個、足りなかったこと。
 よりにもよって、野菜を刻んでいた最中に。
 食料品とは違ったけれども、後部座席に載せて帰った荷物。
 多分、家まで走る途中に、シートの上から落ちてしまって…。
(気付かないままで、それっきり…)
 車のドアをバタンと閉めた。「これで全部だ」と満足して。
 だから家には無い荷物。
 車の中に落っこちたままで、忘れ去られて今もガレージ。
(あれで慌てて…)
 野菜を刻み終えた所で、キーを掴んで走って行った。
 「忘れない内に取って来ないと」と、「でないと明日の朝になるぞ」と。


 あまり学校には載せて行きたくない荷物。
 生活感が漂う荷物は、家で降ろしてしまいたい。
 それで急いで出掛けたガレージ、荷物はきちんと持って戻って来たけれど…。
(持ってたか、キー…?)
 持って入った荷物を仕舞って、「よし」と始めた料理の続き。
 キーを所定の場所に戻すという行動は…。
(やってないんだ…!)
 あそこだ、と分かったキーがある場所。
 後部座席のドアは閉めたけれども、車の中に置きっ放しになったキー。
(ドアにそのまま挿してれば…)
 忘れずに持って帰っただろうに、ご丁寧に抜いていたらしい。
 そして荷物と入れ替えるように、キーは今でも後部座席の辺りの何処か。
(やっちまった…!)
 あのままロックされちまってるぞ、と分かるから掴んだ予備のキー。
 鍵がかかった車の中から、キーを出さねばならないから。
 うっかり忘れて閉じ込めた鍵を、自分が置いて来たキーを。
(なんてこった…!)
 俺としたことが、と走ったガレージ、後部座席のドアを開けたら…。
 やっぱりな、と零れた溜息。
 本当に鍵があったから。
 「ずいぶん長く待ちましたよ」というような顔で、ちゃんと車に乗っていたキー。
 後部座席の上にチョコンと、偉そうに。
 「私がいないと、車は動かないんですが」と、「私を忘れて閉めましたね?」と。
(…申し訳ない…!)
 俺のミスだ、と座席から拾い上げたキー。
 「忘れてすまん」と、「来るのが遅くなっちまった」と。
 なにしろ愛車のキーなのだから、本当に申し訳ない気持ち。
 放り出したまま、ドアを閉めるだなんて。
 今まで忘れて、まるで気付きもしなかったなんて。


 とんでもない失敗をしたもんだ、と家に入って、大切なキーを戻してやった。
 いつもの場所へと、「これでいいな?」と。
 それから淹れた憩いのコーヒー、やっと書斎へ行けたけれども。
(…まったく、とんだ失敗だった…)
 他のヤツらを笑えないな、と思う同僚や友達、彼らから聞いた失敗談。
 家ならともかく、出掛けた先で閉じ込めるらしい車のキー。
 予備のキーなど持っていないし、素人だったらサイオンで開けることも出来ないから…。
(プロのお世話になるってな)
 そういうサービスをしている所へ連絡して。
 「開けて下さい」と助けを頼んで、後はぼんやり待っているだけ。
 開けてくれるプロがやって来るまで、何も出来ずに、車の側で。
(…そういうコースは御免蒙りたいんだが…)
 特にブルーと一緒の時は、と思い浮かべた恋人の顔。
 いつかブルーが大きくなったら、ドライブに行こうと決めているから。
 其処でキーなど閉じ込めたならば、大失敗で…。
(…あいつ、膨れっ面になるのか、それとも笑われちまうのか…)
 どっちだろうな、と考えていたら、掠めた思い。
 「今だから許される失敗だぞ?」と。
 失敗したって、今日のようにキーを取りに走るとか、プロに出動を頼むとか。
 取り返しはつくし、なんとか出来る。キーの閉じ込めくらいなら。
 たとえブルーに笑われようとも、膨れっ面をされようとも。
 けれども、前のブルーと過ごした白い船では…。
(…失敗したら、それで終わりで…)
 小さなミスでも、やり直しなどは出来なかった船。
 どんな時でも、どんな場面でも、真剣勝負だった日々。
 ほんの小さなミスが切っ掛け、起こりかねない重大な事故。
 そうならないよう、常に気を張り詰めていた場所がブリッジ。
 キャプテンの任務はそういうものだし、失敗は出来なかったのだ、と。


(…そうか、今だから出来るのか…)
 こういうミスも、と少し嬉しい気分。
 キーを閉じ込めても、予備のキーを持って行けばいい。
 出先で予備のキーが無いなら、プロに頼めば助けて貰える。
(ブルーの前だと、かなり格好悪いんだが…)
 それに笑われるか、膨れっ面をされるのか。
 「なんで閉じ込めちゃったわけ?」と。
 とはいえ、たったそれだけのこと。
 恋人に散々笑われるだとか、膨れっ面をされるだけで済む。
 愛車はブルーと二人きりで乗ってゆくシャングリラだけれど、失敗しても要らない心配。
 今は失敗してもいいんだと、失敗したって笑い話で済むんだからな、と…。

 

         失敗しても・了


※ハーレイ先生が閉じ込めてしまった車のキー。大失敗といった所ですけれど…。
 今だから出来る、そういう失敗。原因になった生活感が漂う荷物って、何なのでしょうね?







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(ハーレイ、明日も来てくれるといいな…)
 仕事が早く終わるといいのに、と小さなブルーが思ったこと。
 お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
 今日は平日だったけれども、仕事の帰りに訪ねて来てくれたハーレイ。
 前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
 二人でお茶を飲んで過ごして、両親も一緒に食べた夕食。
 ハーレイは「またな」と帰ってしまって、今頃はきっと何ブロックも離れた家で…。
(…コーヒーだよね?)
 そんな時間だと思うから。
 いつも夜にはコーヒーらしいし、コーヒーが大好きなハーレイ。
 けれど、この家ではコーヒーは出ない。
 チビの自分が苦手な飲み物、それを知る母は滅多に淹れはしないから。
(ホントにコーヒーが似合う時だけ…)
 そういう夕食を作った時だけ、母が淹れるのが食後のコーヒー。
 ハーレイはとても喜ぶけれども、チビの自分はそうはいかない。
(…コーヒー、ホントに飲めなくて…)
 何度強請っても、挫折してばかり。
 最初の一口、その苦さだけでもう駄目なのが口の中。「なんでこんなに苦いわけ?」と。
 頑張って続きを飲もうとしたって、まるで飲めないのがコーヒー。
 どうしても飲むなら、砂糖たっぷり、ミルクたっぷり。
(それにホイップクリームも…)
 こんもりと入れて、ようやく飲める味になる。「これなら、ぼくも大丈夫」と。
 そうなるのを母も知っているから、いくらハーレイがコーヒー好きでも…。
(うちでは滅多に飲めないんだよ…)
 今日も出ないで終わってしまった食後のコーヒー。
 飲み損なった分を取り戻すように、ハーレイはコーヒーを飲んでいるだろう。
 気に入りの書斎か、リビングか、あるいはダイニングで。


 コーヒーが好きな恋人には少し気の毒だけれど、出来るなら明日も来て欲しい。
 学校の仕事が早く終わったら、この家へ。
(…学校でも顔は見られるけれど…)
 立ち話だって出来るのだけれど、学校ではあくまで教師と教え子。
 ハーレイは「ハーレイ先生」なのだし、敬語で話さなくてはならない。
 恋人同士だと分かる話はもちろん、ハーレイに甘えることも出来ない。
 会えても何処か寂しさが残る、学校でしか顔を見られなかった日。
 明日がそういう日にならないよう、夜には心の中でお祈り。
 「ハーレイが来てくれますように」と。
 次の日が休みでない限り。
 確実にハーレイが来てくれるのだと、分かっている日でない限り。
(…明日も仕事が早く終わって、柔道部の方も何にもなくて…)
 柔道部の生徒が怪我をしたりはしませんように、と祈る目的は自分のため。
 もしも誰かが怪我をしたなら、ハーレイはその子の家に行くから。
 保健室だの病院だので手当てを終えたら、車に乗せて。
 そっちの方へと行ってしまったら、この家に来てはくれないから。
(…ぼくの勝手なお祈りだけど…)
 生徒の無事を祈るのだから、神様もきっと知らない顔はしない筈。
 少しくらいは気にかけてくれて、柔道部が活動している間は…。
(多分、守ってくれるよね?)
 こらしめなければ、と神様が思わない限り。
 よくハーレイが言う「弛んでいる」生徒、そんな生徒への戒めの怪我。
 「もっと酷い怪我をしない間に、気を付けろ」という神様の声。
 捻挫で済んで良かったと思え、と足首を捻挫させるとか。
 ウッカリついた手首がグキッと、そんな感じの怪我だとか。
(柔道、危ないらしいしね…)
 頭を打ったら気絶することもあるという。
 だから神様の警告だってあるだろう。
 「これに懲りたら気を付けなさい」と、「次からきちんと気を引き締めて」と。


 怪我をする生徒も災難とはいえ、チビの自分も蒙る被害。
 来てくれる筈だったハーレイは来なくて、何度も零すのだろう溜息。
 「まだ来ないかな?」とチャイムが鳴るのを待つ間にも、ついに鳴らずに終わった後にも。
 こんな風にお風呂に入った後にも、きっと溜息が幾つも零れる。
(今日はハーレイ、来なかったよ、って…)
 とても寂しくて、ハーレイの家がある方角を眺めてばかり。
 ハーレイは今頃、何をして過ごしているのだろうか、と。
 書斎でコーヒーを飲んでいるのか、それともリビングかダイニングの方か。
 少しでいいから姿を見たいし、声が聞きたくてたまらないのに、と。
(お前、まだ起きているのか、って…)
 呆れた顔で叱られたって、会えないよりはずっとマシ。
 会えなかったら声も聞けないし、叱られることも無いのだから。
 今日は運よく会えたけれども、明日は本当に分からない。
(来てくれないと寂しいんだけど…)
 ぼくはとっても困るんだけど、と思ったら不意に掠めた思い。
 今の自分は、ハーレイが訪ねて来てくれるように、せっせと祈っているけれど。
 柔道部の生徒が怪我をしないよう、柔道部員のためにも祈るのだけれど。
(…柔道部員のためにお祈り…)
 そんなの、前はしていなかった、と気が付いた。
 ハーレイと出会って、前の自分の記憶が戻って来るまでは。
 遠く遥かな時の彼方で、ソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。
 チビの自分が大きくなったら、きっとそっくりになる筈の人が、自分なのだと知るまでは。
(…ソルジャー・ブルー…)
 今では「前のぼく」と呼ぶ人。
 白いシャングリラで生きていた人、前のハーレイと恋をした人。
 その人がとても怖かったのだ、と今の今まで忘れていた。
 自分がソルジャー・ブルーだったこと、それをきちんと思い出す前は。
 ただ漠然と「そうかもしれない」、そう告げられてからの自分は。


 思い出す前には怖かったんだ、と蘇って来た、自分が感じていた恐怖。
 聖痕が身体に現れる前、右目からの出血を起こした時。
(パパたちの前で、血が出ちゃって…)
 連れて行かれてしまった病院。
 診察結果は「異常なし」だったけれど、恐ろしいことを聞かされた。
(怪我か何かだと思っていたのに…)
 だから両親にも出血のことを隠していたのに、診てくれた医師はこう告げた。
 「もしかしたら」と、「あなたはソルジャー・ブルーの生まれ変わりかもしれませんね」と。
 「生まれ変わりという現象を、私は信じていませんが…」とも、言ったけれども。
(…そんな怖いこと…)
 言われても困る。
 今日まで「ぼくだ」と思って来た自分、それが本当は違うだなんて。
 歴史の授業で教わる英雄、ソルジャー・ブルーが自分だなんて。
(…先生の従兄弟に、キャプテン・ハーレイにそっくりな人がいて…)
 教師をしていて、近い間に自分が通う学校に赴任して来るという。
 その人に会った途端に記憶が戻るかも、と口にした医師。
 「もしも本当にソルジャー・ブルーなら、そうなるのかもしれませんね」と。
 それを聞いて以来、怖かった。
 本当にソルジャー・ブルーだったなら、自分はどうなってしまうのかと。
 今の自分は消えてしまって、違う自分になるのだろうか?
 遠い昔の英雄だったソルジャー・ブルーが復活したら。
 彼の記憶が戻って来たなら、チビの自分は何処かに消えて。
 両親と暮らす幸せな日々も、今の記憶も消えてしまって。
(そうなっちゃったら、どうしよう、って…)
 ただ怯えながら過ごしたけれども、止んだ出血。
 もう大丈夫、と思っていた頃、ハーレイに会った。
 学校の自分の教室で。
 忘れもしない五月の三日に、ハーレイが其処に入って来て。


 ハーレイの姿を目にした途端に、右の目から、肩から溢れた鮮血。
 脇腹からも出血したから、激しい痛みで気絶したけれど。
(…気絶する前に、全部思い出して…)
 ハーレイなのだ、と分かった恋人。
 ずっと愛していた人だったと、やっと会えたと。
 それきり意識を失くしたけれども、もう忘れたりはしなかった。
 自分が本当は誰だったのかも、ハーレイを愛していたことも。
 気が遠くなるほどの時を飛び越えて、ようやく地球で巡り会えたということも。
(…あの時からずっと、ハーレイに夢中…)
 チビの自分は、消えてしまいはしなかった。
 思い出す前には恐れていたのに、ソルジャー・ブルーの記憶が運んで来たものは…。
(前のぼくが行きたかった、地球で暮らしているぼく…)
 青い地球の上で、優しい両親と暮らす幸せな自分。
 それに再び会うことが出来た、愛おしい人。
 今は古典の教師をしている、前はキャプテン・ハーレイだった恋人。
(…ハーレイに会えてしまったから…)
 会えなかった日にはとても寂しくて、悲しい気持ちに包まれる。
 夜にポツンと独りぼっちで、「ハーレイ、どうしているのかな?」と。
 そうならないよう、毎晩、祈っている自分。
 「明日はハーレイが来ますように」と、「柔道部の生徒が怪我をしたりはしませんように」と。
 自分が誰かを思い出す前には、柔道部員の生徒なんかは、目にも入っていなかったのに。
 朝のグラウンドで走っていようが、放課後の彼らの活動場所が何処であろうが。
(だけど、今だと…)
 朝に彼らが走っていたなら、ハーレイの姿を探してしまう。
 放課後になったら、気になる場所は体育館。
(…なんだか、色々変わっちゃったよ…)
 思い出す前には、怖かったりもしたのにね、と思うけれども、今は幸せ。
 クラブの時間に怪我をする生徒がいませんように、と柔道部員の分までお祈り。
 コーヒーが大好きな愛おしい人、ハーレイに明日も会えますように、と…。

 

         思い出す前には・了


※ハーレイ先生に来て欲しいから、と柔道部員の安全まで祈るブルー君。怪我しないように。
 けれど、ソルジャー・ブルーの記憶が戻る前には、怖かった日々も。今は幸せ一杯ですv







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