(今日は会い損なっちまったなあ…)
学校でちょいと会えただけだ、とハーレイがついた小さな溜息。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
今日は会えずに終わってしまった愛おしい人。
前の生から愛し続けた恋人、生まれ変わってまた巡り会えた最愛の人。
(会議が長引いちまったから…)
あいつの家には行きそびれたんだ、と残念な気分。
会議の予定は知っていたけれど、もっと早くに終わるだろうと思っていたから。
(こうなるんだと分かっていたら、もう少しだな…)
あいつと話しておけば良かった、と学校で会った恋人を想う。
廊下で出会って、二言、三言、交わした言葉。
立ち話とまではいかない程度で、「じゃあな」と別れてしまったけれど。
今日は家まで会いに行けるし、とブルーと離れてしまったけれども、大失敗。
(あいつには、家に行くとは言ってないから、そうガッカリはしてないだろうが…)
俺がすっかりガッカリなんだ、とコーヒーを満たしたカップを傾ける。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた熱いコーヒー、「こいつのお蔭で救われるがな」と。
そうしたら…。
「いい御身分だな」と聞こえた声。何の前触れもなく、頭の中で。
(…確かにそうだな…)
いい御身分だ、と思わざるを得ない。
頭の中で聞こえた声は、思念波などでは無かったから。
心の声といった所で、けれども自分の心ではなくて、自分の心の一部でもあって…。
(…前の俺から見てみたら、だ…)
うんと結構な御身分だよな、と思う自分が置かれた状況。
恋人の家に行きそびれただけで、「すっかりガッカリ」なのだから。
カップに満たした熱いコーヒー、それのお蔭で「救われるがな」などと思っているのだから。
自分だけれども、自分とは違う前の自分。
それが自分の中にいるから、たまにこういうこともある。
今の自分には当たり前のことに驚かされたり、如何に自分が恵まれているかを知らされたり。
(俺の中には、前の俺が入っているわけで…)
そっちも俺には違いないが、と考えながらも「おい」と呼び掛けてみた。
今夜は少し話してみるか、と思ったから。
小さなブルーと話す代わりに、前の自分と話すのもいい。
もっとも、前の自分と言っても、魂はまるで同じものだから、多分、一種の独り言。
自分自身に話し掛けてみて、心の中で語り合うだけ。
けれど、時には楽しくもある。…相手は自分自身だけれども、違う時代を生きたのだから。
今の自分とは違う人生、それを生きたのが前の自分だから。
「いい御身分だと言ってくれたよな?」と返してやったら、「ああ」と答えた前の自分。
「俺はそうだと思うがな? たかがブルーに…」
会いそびれただけのことだろうが、というのが前の自分の返事。
遠く遥かな時の彼方で、キャプテン・ハーレイと呼ばれた男。
「けっこうなものを飲んでるじゃないか」とも言われてしまった。
「そのコーヒーは本物だろう?」と。
「俺は本物とは殆ど御縁が無かったがな?」と、「コーヒーと言えば代用品だ」と。
「…分かっているさ。キャロブのコーヒーだったことはな」
白い鯨になった後にはそうだったよな、と頷いて見詰めるカップの中身。
今では毎日、コーヒーを飲んでいるけれど。
朝食の時に飲んで出掛けて、夜も寛ぎの一杯だけれど、間違いなく本物のコーヒー。
豆から挽いたりすることもあるし、正真正銘、コーヒー豆。
けれども、前の自分は違った。
自給自足で生きてゆく船、白いシャングリラが出来上がってからは。
コーヒーはキャロブ、イナゴ豆で出来た代用品。
それまでの船なら、前のブルーが人類の船から奪った本物だったのだけれど。
今と同じにコーヒー豆から出来たコーヒー、本物を愛飲したのだけれど。
そんな具合だから、前の自分に「いい御身分だ」と笑われる。
ガッカリしている理由を笑われ、そのガッカリを癒すコーヒーを「けっこうなものだ」と。
(…お前さんには、勝てやしないんだ…)
あらゆる意味でな、と白旗を掲げるしかない、前の自分という男。
今の自分よりも遥かに過酷な人生を生きて、それをものともしなかった男。
船だけが全ての世界にいてさえ、前の自分は幸せに生きた。
前のブルーと長い時間を、最初は友達同士として。
恋だと互いに気付いた後には、恋人同士の二人として。
「…どうせ、今の俺のガッカリなんかはだな…」
お前さんから見れば些細なことに過ぎないんだろ、と零した愚痴。
「ブルーは生きているんだから」と、「それに、学校では会えたんだしな?」と。
もう間違いなく、前の自分には「けっこうすぎる」今の自分の立場。
前の自分は、ブルーを失くしてしまったから。
誰よりも愛した人を失くして、独りぼっちで地球までの道を生きたのだから。
「そう愚痴らんでもいいだろう。いい御身分だとは思うがな」
お前さんにとっては、それも立派なガッカリだから、と返った言葉。
「幸せに生きてりゃ、それに見合ったガッカリってヤツも来るもんだ」と。
「俺には俺のガッカリがあったし、お前さんにはお前の分が」と。
そう言われるから、「敵わない」と思うキャプテン・ハーレイ。
今の自分より、ずっと器が大きい男。
ブルーの家には行けなかった程度で、ガッカリしたりはしないのだろう。
もっと前向きに考えるだろうし、憩いのコーヒーがキャロブの代用品でも…。
(あいつなら充分、満足なんだ…)
本物のコーヒーがあった時代を、未練がましく振り返りはしない。
「もう一度、美味い本物を飲みたいもんだ」と考えるような男でもない。
常に前だけを見ていた男で、ブルーを失くしてしまった後も…。
(真っ直ぐに地球だけを見ていやがった…)
キャプテンだから、と自分を捨てて。魂はとうに死んでいたって、目指した地球。
「お前さんには敵わんよ」と改めて思うし、降参するだけ。
「俺はけっこうな御身分だから」と、「すっかり柔になっちまった」と。
こんな俺など可笑しいだろうと、「お前さんから見たら、つまらん男だよな?」と。
「どうなんだか…。それも必要だと思うんだがな?」
今はそういう時代だろう、と大らかに笑う心を感じる。前の自分の。
「時代に合わせて変わるもんだ」と、「お前さんには今の生き方が似合いなんだ」と。
そうだろう、と畳み掛ける声。
「ブルーもすっかり変わった筈だぞ」と、「それに合わせて変わらないとな?」と。
前と同じに生きていたのでは、今のブルーが途惑うだけ。
平和な時代に生まれたブルーが、幸せ一杯の子供時代を満喫している恋人が。
(…そうか、ブルーなあ…)
前の俺のままだと困るかもな、という気がして来た。
何かといえば膨れっ面で、我儘にもなる小さなブルー。
キャプテン・ハーレイだった頃のままなら、今のブルーをどう扱えばいいのだろう?
(甘やかし方は多分、分かるんだろうが…)
分かるというだけ、白いシャングリラの養育部門の子供を相手にするのと同じ。
膨れていたなら、「どうした?」と事情を尋ねてやったり、問題の解決に手を貸してみたり。
(今の俺だと、あいつの頬っぺた…)
両手でペシャンと潰したりもする。膨れっ面の理由によっては、笑いながら。
そうして頬っぺたを潰した後には、「ハコフグだな」などと言ったりもして。
頬っぺたを押し潰されてしまったブルーは、今の自分が海で出会ったハコフグに…。
(可笑しいくらいにそっくりなんだ)
元はブルーの顔なんだがな、と思い出してみる「ハコフグ」のブルー。
「酷いよ、ハーレイ!」とプンスカ怒って、抗議してくる小さなブルー。
前の自分が今のブルーの相手をしたって、そうはいかない。
きっと大真面目に話を聞くとか、叱るにしたって筋道を立てて…。
(分かって下さい、とやりそうだよな?)
頬っぺたを潰して笑う代わりに、ハコフグのブルーを作る代わりに。
なるほどなあ…、と思わされたこと。
今の自分はちっぽけだけれど、前の自分に敵わないけれど。
それは時代に合わせた変化で、恋人のためにもなる変化。
キャプテン・ハーレイのままでいたなら、きっとブルーは困るから。
前の自分のように振舞っても、困った顔になるだろうから。
(俺はこのままでいいってか…)
けっこうな御身分の俺のままで、と心で訊いたら、「そうだな」と前の自分が笑う。
「お前さんにはそれが似合いだ」と、「ブルーを大事にしてやれよ」と。
言われなくても、今の自分はそのために生きてゆくのだから…。
「大事にするさ」と余裕たっぷり、この点だけは前の自分に負けない。
それどころか俺の大勝利だぞ、と溢れる自信。
今度は結婚できるのだから、ブルーを守ってゆけるのだから。
(俺の中には、前の俺だっているんだが…)
前の俺の分まで大事にせんと、と思う恋人。
キャプテン・ハーレイにもそう言われたから、ブルーは自分の大切な宝物だから…。
俺の中には・了
※キャプテン・ハーレイと語り合ってみたハーレイ先生。前に比べて、けっこうな御身分。
けれども、今の時代にお似合い。ブルーのためにもなるんだしな、と自信満々な結末ですv
(今日はハーレイ、来てくれなかったんだけど…)
学校でお別れだったんだけど、とブルーが思い浮かべた恋人。
お風呂上りにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は訪ねて来てくれなかったハーレイ、前の生から愛し続けた愛おしい人。
今は学校の教師だけれど。自分は教え子なのだけど。
そのハーレイと帰りに出会った。
授業が終わった後の放課後、家に帰ろうと歩いていたら。
「ハーレイ先生!」と弾んだ心で呼び掛けた自分。
少し立ち話は出来たけれども、最初に「すまん」と謝られた。
「今日はこれから会議があってな」と、「長引くだろうし、お前の家には行けないんだ」と。
残念だった、その言葉。今日は家では会えないのだ、と顔を曇らせたけれど。
(でも、ハーレイは謝ってくれたし…)
それに自分も、こうして最初から聞かされていたらガッカリしない。
家で何度も時計を眺めて、「来てくれるかな?」と待った挙句に、日暮れになってしまうより。
だからハーレイに、「ぼくはかまいません」と元気に答えた。
「じっと待ってるより、こうして予定を聞いた方がずっといいですから」と。
やせ我慢ではなくて、本当のこと。
そう告げた後は、じきに別れたハーレイ。
会議の前には柔道部に顔を出すのだろうし、きっと急いでいるだろうから。
此処で引き留めたら、ハーレイに申し訳ないから。
「それじゃ、先生、さようなら!」とペコリとお辞儀で、門へと歩き出したのだけれど。
ハーレイの方でも、「気を付けて帰れよ」と軽く手を振ってくれたのだけれど。
(…歩き始めてから、振り返ったら…)
まだ同じ場所にいたハーレイ。
とうに背中を向けているかと思ったのに。
大股で歩くスピードも速いのだから、もういないかとも考えたのに。
最初は「あれ?」と傾げた首。「まだいるの?」と。
けれど見送ってくれているのだし、もう一度ピョコンと頭を下げた。
「さようなら」と、「もう行ってくれていいですよ」と。
学校の中では「ハーレイ先生」、お辞儀するなら心の中でも言葉は敬語。
また歩き出して、暫く歩いて振り返ったら、まだハーレイは其処にいた。
ほんの少しも動きはしないで、さっきと全く同じ所に。
笑みまで浮かべて振ってくれる手。「早く帰れよ?」というように。
(そんなに時間があるんだったら、ぼくと話してくれてても…)
よかったのに、と思ったけれども、直ぐに気付いた。
そうではないということに。
きっと急いでいるだろうハーレイ、会議が始まる前に柔道部に行っておこうと。
今日の放課後の練習内容、それを伝えたり、様子を見たりするために。
(だけど、見送り…)
せっかく出会えたのだから、と見送ってくれているのだろう。
学校の中では教え子だけれど、自分はハーレイの恋人だから。
時間が許す限りは此処でと、帰ってゆく自分の後ろ姿を。
そう思ったから、何度も振り返っては頭を下げた。
ハーレイはやっぱり動かないまま、こちらに大きく振ってくれる手。
それが嬉しくて、名残惜しくて…。
(何回も後ろ、見てはお辞儀で…)
学校の門まで辿り着いても、ハーレイは同じ場所にいた。
もう表情は見えないけれども、優しい笑顔なのだろう。
「さよなら」と「気を付けて帰るんだぞ?」という風に、こちらへ振られている手。
応えて自分も「さよなら」とお辞儀、門の外へと踏み出した。
もうハーレイとはお別れだけれど、これだけ手を振って貰えれば充分。
とても幸せな気分で帰れた、今日の学校。
ハーレイとは其処でお別れでも。
家に帰って待っていたって、ハーレイは来てくれない日でも。
ハーレイが家に来られない日は、いつもこうだといいのにね、と思ってしまう。
先生と生徒の二人でいいから、見送って貰って出てゆく校門。
門までの間に何度後ろを振り返っても、消えてはいないハーレイの姿。
(…あの後、走って行っただろうけど…)
ハーレイのことだから、大急ぎで柔道部の方へ。
校門を出た恋人の姿が見えなくなったら、「遅くなっちまった」と全力疾走。
その姿が目に浮かぶようだから、もう幸せでたまらない。
学校では「ハーレイ先生」だけれど、ハーレイはちゃんと恋人だから。
帰ってゆくのを、最後まできちんと見送り続けてくれたのだから。
(とっても幸せ…)
ハーレイに見送って貰えるなんて、と思った所で掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分に起こったこと。
(…あの時も、ハーレイ、見送ってたんだ…)
ぼくは振り返っていないけれど、と気付いた前のハーレイとの別れ。
白いシャングリラを後にする前、ブリッジでハーレイに別れを告げた。
「ジョミーを支えてやってくれ」と、ハーレイだけに思念で伝えて。
声に出したのは「頼んだよ、ハーレイ」で、他の者たちには決して気付かれないように。
自分が二度と戻らないこと、死に赴くという決意を。
(…ハーレイ、なんにも言わなかったけど…)
きっと自分の意を汲み取ったから、言葉は何も無かったけれど。
あの時、ハーレイの心の中では、激しい葛藤があったのだろう。
そうでなければ、ただ呆然としていたか。
(ぼくを止めなきゃ、って思っても…)
キャプテンにそれは許されないし、ソルジャーの意にも背くこと。
恋人が死ぬと分かっていても、引き留められなかった前のハーレイ。
どんな顔をして立っていたのか、その表情はどうだったのか。
前の自分は見ていない。
振り向くことはしなかったから。…それをしたなら、足が止まってしまうから。
あれがハーレイとの別れ。
最後になると分かっていたから、もう振り返れはしなかった。
ハーレイの顔を見てしまったら、きっと心が挫けてしまう。
そう思ったから、振り返りもせずに出て行った。
平静なふりを装って。…「すぐに帰る」というふりをして。
(ハーレイ、見送ってくれていたのに…)
振り返る勇気を持たなかった自分。
引き留めたくなるだろうハーレイの心を、嫌というほど知っていたから。
ハーレイを何度も見送っていたから、自分は見送る方だったから。
(…朝になったら、ハーレイはブリッジ…)
前のハーレイと夜を過ごして、朝になったら恋人同士の時間は終わり。
ハーレイはキャプテンに戻ってしまって、自分もソルジャー・ブルーに戻る。
そしてハーレイはブリッジへ。
「失礼します」とキャプテンの貌で、前の自分に別れを告げて。
(…用事も無いのに、呼び止めたりして…)
甘えた朝も何度もあった。「ちょっと呼んでみただけなんだよ」と。
青の間のスロープを下りてゆくハーレイ、去ってゆく背中を見送りながら。
背中に揺れる短いマントを、掴んで止めたい気持ちを抱いて。
(追い掛けてギュッと掴んじゃったら…)
ハーレイは困るだろうけれども、けして振り払いはしないだろう。
「どうなさいました?」と笑顔を向けて、「もう少し此処にいましょうか?」と。
少しくらいの遅刻だったら、何とでも言い訳出来るから。
きっとハーレイならそうするだろうし、「してはならない」と思った引き留めること。
朝になったらソルジャーとキャプテン、そういう恋人同士だから。
誰にも秘密で、知られては駄目な恋だから。
(ハーレイだって、きっとおんなじ…)
引き留めたいに決まっているから、瞳にあるだろうハーレイの想い。
それに気付いたら動けないから、前の自分は振り返らないで去ったのだった。
振り向いていない、と思い出した前の自分のこと。
前のハーレイとの最後の別れは、けして振り返りはしないまま。
(…ハーレイの背中、何度も見送っていたんだから…)
朝にブリッジへ出掛けるハーレイ、愛おしい人が見せる背中を。
夜には戻ると分かっていたって、引き留めたくなってしまう背中を。
ハーレイもそれと同じなのだ、と分かっていたから振り返らないままで別れた自分。
振り向いて心が挫けたならば、シャングリラはきっとおしまいだから。
自分が命を捨てなかったら、白い箱舟は地球に着けないから。
(…そうだったっけね…)
ハーレイに酷いことをしちゃった、と思わないでもないけれど。
前のハーレイも今日のハーレイがそうだったように、見送っていたのだろうけれど。
(ぼくは見送られる方がいいかな…)
ハーレイの背中を見送るよりかは、自分が見送られる方がいい。
それが別れでないのなら。
前の自分がそうだったように、見送られた後は永遠の別れが来るというわけではないのなら。
(今日のぼくは、とっても幸せだったし…)
振り返る度に手を振ってくれた、優しくて温かな心の恋人。
前のハーレイもそうだったけれど、何度も背中を見送ったけれど…。
(…君の背中を見送るよりは…)
断然、見送られる方がいいよ、と零れる笑み。
見送って貰う方の立場なら、とても幸せで満足だから。
「行かないでよ」と寂しさを堪えて見送るよりかは、見送られる方でいたいから。
その方が自分はきっと幸せ、今日の自分が幸せなように。
見送られてもまた明日は会えるし、二度と会えない別れなどはけして来ないのだから…。
君の背中・了
※ハーレイ先生に見送って貰ったブルー君。幸せな気持ちで出て来た学校の門。
前の自分も見送らせたことを思い出したら、見送られる方がいいようです。ちょっと我儘v
(今日のあいつは後ろ姿、と…)
それでお別れだったっけな、とハーレイが思い浮かべた恋人。
夜の書斎でコーヒー片手に、頭に描いた小さなブルー。
今日はブルーの家に寄れなくて、学校から真っすぐ帰って来た家。
「こういう日には…」と買い出しなどはしたのだけれど。
最初から決まっていた会議。中身からして、長引きそうだということも。
だから帰りにブルーの家には出掛けられない、そういう日。
(そしたら、あいつに会っちまってだ…)
授業が終わった後の放課後、バッタリ出会ってしまったブルー。
会議の前に柔道部に顔を出しておこう、と歩いていたら。
「ハーレイ先生!」とブルーの笑顔が弾けたけれども、今日は家には行けないから…。
ほんの僅かな立ち話。
まずは「すまん」と謝ってから。
「今日はお前の家には行けん」と、「これから会議があるもんでな」と。
ブルーの顔は曇ったけれども、健気に「いいえ」と答えてくれた。
「先生の用事が大切ですから」と、「それに、ぼくならかまいません」とも。
来られないことが分かっているなら、もう充分だと微笑んだブルー。
「今日は待たなくていいですから」と、「ガッカリすることもないですから」と。
いつもはひたすら待っているらしい、愛おしい人。
もうすぐ訪ねて来てくれるかと、何度も窓の方を眺めて。チャイムの音にも耳を澄ませて。
予定があると分かっているなら、今日のブルーは待たなくていい。
残念だとは思うけれども、後で「来なかった…」と肩を落とすより、よっぽどいい、と。
そう話してから、「それじゃ、先生、さようなら!」とブルーはペコリと頭を下げた。
「柔道部の方に行かれるんですよね」と、「引き留めてすみませんでした」と。
それに応えて「おう、気を付けて帰れよ」と軽く振ってやった手。
帰ってゆくブルーを見送った。たまに後ろを振り返るのを。
本当だったら、柔道部に急ぐのだけれど。
せっかくブルーに出会えたのだし、今日はもうこれでお別れだから…。
(あいつの姿が見えなくなるまで…)
見送りたいと思ったのだった、小さな背中を。
振り返っては、「もういいですよ」という風に頭を下げるブルーを。
通学鞄を提げたブルーは、校門の方へと歩き続けて、門の所でまた振り返った。
きっと目が丸くなっていたろう、「なんでハーレイ、まだいるわけ?」と。
急いでいるんじゃなかったのかと、それならもっと話していれば良かったかも、と。
(生憎と、そうじゃないってな)
ブルーと立ち話が長く続いても、結果はやはり同じこと。
今日はこれでもう会えない恋人、見送りたくもなるというもの。
小さな後ろ姿でも。
どんどん遠くなる背中でも、門の所では表情さえも分からなくても。
(早く帰れよ、って…)
大きく振った手、ブルーもお辞儀して出て行った。…門の外へと。
(だから最後は後ろ姿で…)
ブルーの顔は見ていない。
いくらブルーがこちらの方を気にしていたって、後ずさりでは出てゆけないから。
こちらに顔を向けたままでは、とても門から出られないから。
(…そういうお辞儀もあったらしいがな?)
人間が地球しか知らなかった頃の、王侯貴族の間の作法。
王や王妃に背中を向けては失礼だから、と後ずさりながら部屋を出てゆく。
上手く出来ないと転んでしまうし、貴族たちには必須の練習。
(特にイギリスのレディーだったか?)
社交界デビューに向けての特訓、ドレスにくっついた長いトレーンを踏まないように…。
(後ろは見ないで、前を向いたままで…)
お辞儀した後は後ずさり。
失敗したなら恥になるから、来る日も来る日も猛特訓で。
けれど、そういう貴族とは違う小さなブルー。
後ずさりで出てゆく作法があった時代のことすら、きっと知らない。
それに自分も王ではないから、「俺に背中を向けるヤツがあるか!」と怒りもしない。
ブルーが背中をこちらに向けて、「さよなら」と門を出て行っても。
門の向こうへ消えた背中を見送れただけで、充分、満足。
(あいつを見送った後は、体育館まで…)
突っ走る羽目になったけれども、気にしない。
ブルーを見送ることが大事で、そういう気分だったのだから。
(でもって、今日は背中にお別れ…)
最後に見たのは後ろ姿だ、と思った所で掠めた思い。
遠く遥かな時の彼方で、自分はそれを見送ったのだ、と。
これが最後だとブルーの背中を、今よりも大きかった背中を。
(大きいと言っても、俺よりはずっと華奢だったがな…)
前の自分が愛した恋人、ソルジャー・ブルーと呼ばれた人。
去ってゆく背中を、ただ呆然と見送っていた。
多分、自分の表情は普通だったろうけれど。普段通りの筈だったけれど。
(キャプテンの俺が動揺しちまっていたら…)
ブルーの思いが無駄になるから、平静なふりを装った。
けれども心の中は空っぽ、あるいは凍り付いたよう。
ブリッジを出てゆくブルーの背中を、自分は二度と見られないから。
違う場所でも見られはしないし、二度とブルーに会えないから。
(…頼んだよ、と来たもんだ…)
ブルーが声に出した言葉は、たったそれだけ。「頼んだよ、ハーレイ」と。
だから仲間は何も知らない、ブルーが何処へ行くのかも。
(あいつ、死ぬつもりだったのに…)
それを微塵も見せずにいたから、ブリッジの仲間は騙された。
「ジョミーとナスカに行くだけなのだ」と、「残った仲間を説得しに」と。
皆は騙され、ジョミーも疑わなかったけれども、前の自分は知っていた。
ブルーが死にに行くということ、二度と戻りはしないことを。
(俺だけにコッソリ伝えやがって…)
なんという残酷な仕打ちだろうか、恋人が死に赴く姿を見送らせるとは。
ソルジャーだったブルーらしいと思うけれども、恋人としては酷すぎる別れ。
腕を掴んで引き留めたいのに、そうすることは出来ないから。
ブルーの背中が遠くなるのを、ただ見ているしかなかったから。
(まったく、あいつは…)
なんてヤツだ、と思い出しても辛くなる。
「俺の気持ちも考えないで」と、「あいつらしいとは思うんだがな」と。
よくも耐えた、と前の自分の心の強さにも呆れるばかり。
取り乱しもせずに見送ったから。…「ソルジャー!」と呼び止めさえせずに。
一言、声を掛けていたなら、きっとブルーは振り返ったろうに。
「なんだい?」と、「ハーレイ、ぼくに用事でも?」と。
呼び止めていたら、聞けたろう声。
もう一度、見られただろう顔。
誰よりも愛した人の表情、それが偽りの笑みだったとしても…。
(見ることくらいは出来たんだ…)
これで最後だ、と自分の瞳に焼き付けること。
ブリッジの誰が気付かなくても、ブルーの顔には「さよなら」の笑みが浮かんでいても。
(あいつだったら、笑うくらいは…)
きっとしたのだ、と思うソルジャー・ブルー。
船の仲間を騙すためなら、最後に笑うことだって。「すぐ戻るよ」と嘘をつくことも。
けれど、呼び止めなかった自分。
もしも呼び止めたら、抑えが利かなくなるだろうから。
キャプテンの立場をすっかり忘れて、「いけません!」と叫ぶだろう自分。
「このシャングリラに残って下さい」と、「そのお身体では外出禁止です!」と。
決してしてはならないこと。
前のブルーが残した言葉と、意に背くこと。
(…だから見送るしかなくて…)
動けないまま、声も出せずに前のブルーを見送った。
二度と戻りはしない恋人、その人がこちらに向けた背中を。
死へと赴く人の背中が、紫のマントが消えてゆくのを。
(…あの時も背中だったんだ…)
俺が最後に見ていたブルーは後ろ姿だ、と蘇った記憶。
今日のブルーと全く同じに、前のブルーは後ろ姿で自分の前から永遠に消えた。
白いシャングリラに戻りはしないで、メギドへと飛んで。
それきり失くした愛おしい人、もう戻っては来なかったブルー。
(…そいつを思えば、今の俺はだな…)
なんて幸せ者なんだ、と零れた笑み。
今日もブルーを見送ったけれど、小さな背中だったのだけれど。
それが別れになったけれども、ブルーは家に帰っただけ。
明日になったらまた会えるのだし、いつかは二人、結婚式を挙げて…。
(一緒に暮らせるんだしな?)
同じ背中でも大違いだ、と思う自分が見送った背中。
「あいつの背中には違いないんだが、前のあいつとは違うしな?」と。
後ろ姿で消えて行っても、ブルーは自分の家に帰っただけなんだから、と…。
あいつの背中・了
※ハーレイ先生が見送った、ブルー君の背中。名残惜しくて見送り続けたようですけれど…。
前のハーレイも同じに見送ったブルー。同じ背中でも、今は幸せに見送れますよねv
(今日はハーレイ、来てくれたから…)
幸せだよね、と小さなブルーが浮かべた笑み。
お風呂上りにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
今は自分が通う学校の教師のハーレイ、けれど恋人には違いない。
学校がある日も、仕事が早く終わった時には、家を訪ねて来てくれる。
今日もそういう幸せな日で、夕食の後までハーレイと一緒。
(晩御飯は、パパとママも一緒だったけど…)
食後のお茶はこの部屋で飲めたし、二人で過ごせた時間がたっぷり。
週末のように、午前中から夜までというわけにはいかないけれど。
ハーレイだって、「またな」と椅子から立つのが早めだったけれど。
(明日も学校、あるんだから…)
仕方ないよね、と思う「早めのお別れ」。
土曜日だったら、もっとゆっくり家にいてくれる時もあるのに。
それでも今日は会えたわけだし、ツイている日で、今も胸にある温かな気持ち。
「会えて良かった」と、「ハーレイが来てくれたから、いい日だったよ」と。
同じにハーレイが来てくれたって、寂しくなる日もあるけれど。
「ハーレイと一緒に帰れなかったよ」と、溜息をつく日も多いけれども。
(またな、って帰って行っちゃうから…)
どうして一緒に帰れないのか、悲しくてたまらなくなる日。
前の生なら、夜もハーレイと離れることは無かったから。
ハーレイが青の間に泊まってゆくか、自分の方がキャプテンの部屋に泊まりにゆくか。
そういった風に過ごしていたから、離れ離れの夜は無かった。
けれど今では、離れ離れが当たり前。
今の自分はチビの子供で、ハーレイと暮らせはしないから。
十四歳にしかならない年では、結婚出来はしないから。
結婚できる年は十八歳。
その時が来るまで、ハーレイの家に一緒に帰れはしない。
チビの自分は「またな」と置いてゆかれて終わりで、ハーレイは一人で帰ってしまう。
仕事の帰りに来た日は車で、天気のいい休日に歩いて来たなら、二本の足で。
(まだまだ我慢しなくっちゃ…)
ハーレイと一緒に暮らせる日まで。
この家に二人で遊びに来たって、「また来るね」とハーレイと一緒に帰れる日まで。
まだ先なのが悲しいけれども、今もこの家で会うことは出来る。
平日だって、今日のように会えることもあるから、幸せな気分に包まれたりも。
(寂しがってばかりじゃないんだよ、うん)
今日のぼくは幸せな気分なんだから、と緩んだ頬。
恋人の姿を思い浮かべて、交わした話をあれこれと思い出したりもして。
(ハーレイがいるから、うんと幸せ…)
だって恋人なんだもの、と愛おしい人へと飛ぶ想い。
ハーレイは自分の恋人だけれど、前の自分だった頃から恋人。
遠く遥かな時の彼方で恋をしていて、今はその恋の続きの恋。
出会った途端に恋に落ちたから、前の自分の記憶が戻って来たのだから。
(あの時からずっと、恋してるもんね?)
チビだけど恋は知っているもの、と誇らしい気持ち。
きっと世間の十四歳だと、恋人などいないだろうから。
恋という言葉は知っていたって、本物の恋をしているような十四歳は…。
(何処を探してもいないよ、きっと)
ぼくの恋は本物なんだから、と誰かに自慢したいほど。
前の自分の恋の続きを生きているなら、正真正銘、本物の恋。
ハーレイとキスが出来なくても。
「俺は子供にキスはしない」と頭をコツンとやられていても。
前の自分なら、何度もハーレイと交わしたキス。
愛も交わしていた二人だから、間違いなく本物の恋人同士。…前の自分とハーレイは。
本物の恋の続きだったら、本物だよね、と思う恋。
ハーレイが「キスは駄目だ」と言おうが、「チビの間は家に来るな」と言っていようが。
いつかは結婚だって出来るし、なんと言っても両想い。
チビの自分が大きくなったら、きっとされるだろうプロポーズ。
その時に「うん」と言いさえしたなら、後は結婚式を挙げるだけ。
(…パパとママだって、きっと許してくれるよ)
最初はとても驚くだろうし、腰を抜かすかもしれないけれど。
ハーレイと二人で「結婚させて」と土下座したって、怒るだけかもしれないけれど。
(でも、パパもママも、優しいから…)
いつまでも反対してはいないで、許してくれる時が来る筈。
そしたらハーレイと結婚できるし、幸せに暮らし始めたならば、土下座もきっと思い出の内。
「あの時は大変だったよね」と、ハーレイと笑い合ったりもして。
二人一緒に、ソファでお茶でも飲みながら。
(ハーレイはコーヒーで、ぼくは紅茶で…)
寄り添い合って過ごす幸せな時間。
いつかそういう時が来るから、その日が来るのが待ち遠しい。
まだ当分は来ないけれども、チビの間は無理なのだけれど。
(…だけど、いつかはプロポーズ…)
そして自分は「うん」と言うだけ、そうすれば来るハッピーエンド。
両親が結婚に反対しようが、きっと乗り越えてみせるから。
前の自分たちには無理だった結婚、それが今度は出来る人生。
ハーレイと誓いのキスを交わして、結婚指輪を交換して。
(幸せだよね…)
その日のためなら頑張れるよ、と思う両親たちの説得。
どんなに反対されたとしたって、ハーレイも自分も諦めない。
土下座だろうが、涙ながらの「お願い」だろうが、なんだってきっとしてみせる。
ハッピーエンドの恋のためなら、ハーレイとの恋が叶うなら。
頑張るんだから、と握った拳。
まだ反対さえされていないのに、気が早いけれど。
そもそもプロポーズさえもまだだし、本当に気が早すぎるけれど。
(いいよね、絶対プロポーズされる日が来るんだから…)
ハーレイとぼくは両想いだもの、と自信たっぷりなのだけれども、ふと思ったこと。
その両想いは、自分たちがまた巡り会えたから始まった恋。
(ぼくとハーレイの記憶が戻って、前の通りに恋人同士…)
出会った途端に恋に落ちたけれど、もしも記憶が戻って来たのが自分だけならどうなったろう?
自分に起こった聖痕現象、あれで戻った互いの記憶。
けれど奇跡が起こらなければ、生まれ変わって出会ったというだけならば…。
(ぼくだけ思い出しちゃうことも…)
まるで無いとは言い切れない。
神が起こした奇跡が聖痕、それ無しで巡り会ったなら。
(ハーレイがぼくの教室に来ても、思い出すのは、ぼくの方だけ…)
もちろん聖痕は現れないから、ハーレイは授業を始めるだろう。
自己紹介を済ませた後には、「此処からだな?」と生徒に確認して。
自分がどんなに見詰めていたって、ハーレイの方では気付きもしない。
気付いたとしても、「当てて欲しいのか?」と思う程度で、そうなるだけ。
「では、この答えは?」と指差されるとか、音読の係が当たるとか。
(…ハーレイ、ホントに気が付かないから…)
恋人だとは思いもしないで、それからの日々も続くのだろう。
ハーレイを追い掛けて歩いてみたって、「質問か?」と訊かれるだとか。
(出会った時に、ぼくが大きくなっていたって…)
同じに気付かないだろうハーレイ。
育った自分と街でバッタリ出会ったとしても、ハーレイにとっては「知らない人」。
「ハーレイ!」と声を掛けたって。
呼び止めてみても、「どなたですか?」と言われる始末。
「何処かでお会いしましたっけ?」と、「前に御挨拶しましたか?」と。
有り得るんだ、と思った「もしも」。
せっかくハーレイに巡り会えても、思い出して貰えない自分のこと。
「生徒の一人」で済まされるだとか、「人違いでは?」と言われてしまうとか。
(…そんなの、酷い…)
あんまりだよ、と思うけれども、ハーレイの記憶が戻らなかったら、そういう結果。
いくらハーレイを好きになっても、自分の恋は片想い。
ハーレイはこちらを向いてくれなくて、他の生徒と変わりない扱いをされるとか。
育った自分の方にしたって、頑張って知り合いになったって…。
(…ハーレイから見たら、ただの年下の友達で…)
食事やドライブに連れてくれても、それはハーレイが「暇だから」。
一人で出掛けるよりはいい、と思うから誘ってくれるだけ。
(ハーレイは、ぼくに恋してないから…)
もちろんプロポーズされはしないし、キスだってして貰えない。
どんなに待っても、ハーレイは自分に恋などは…。
(してくれないかも…)
我慢できなくて恋を打ち明けたら、置かれてしまうかもしれない距離。
自分は男で、普通ではない恋だから。
(振られちゃうって言うんだよね?)
ハーレイが食事に誘ってくれなくなったなら。…ドライブにだって。
少しずつ距離を置かれ始めて、ある日、気付いたら独りぼっち。
ハーレイの家に通信を入れても、「忙しいから」と切られてしまって、それっきり。
家まで行っても、まるで知らんぷりをされるとか。
(チャイム、何度も鳴らしてみても…)
居留守を使われて、無視される自分。
ハーレイは自分に恋していないし、ただ迷惑なだけだから。
「また来やがった」と苛々しながら、カーテンの陰から見ているだとか。
失恋した迷惑な訪問者が諦めて帰るのを。…肩を落として去ってゆくのを。
ハーレイの記憶が戻らなかったら、どう考えてもそうなるのだろう。
運よく恋してくれたとしても、前のハーレイとは違うハーレイ。
(…優しいのは同じだろうけれど…)
前の記憶が戻らないなら、恋の続きは生きられない。
ハーレイにとっては新しい恋で、自分の方は両想いでも片想い。
前のハーレイはいないから。…時の彼方で交わした話も、思い出しては貰えないから。
(…そうならなくて良かったよね…)
もしもハーレイに前の記憶が無かったら、大変なことに…、と気付いたから。
今の自分の両想いの恋、それは本当に奇跡なのだと思うから。
(神様に感謝しなくっちゃ…)
ハーレイにまた会わせてくれてありがとう、と捧げた祈り。
前の自分の恋の続きを生きてゆけるのは、ハーレイの記憶が戻ったお陰。
ハーレイの記憶が無かったら無理で、自分の恋はきっと悲しい片想いになっていた筈だから…。
記憶が無かったら・了
※ハーレイ先生との結婚を夢見るブルー君。プロポーズは絶対だよ、と思ったものの…。
もしもハーレイ先生に前の記憶が無かった時は、大変なことに。記憶があって幸せですよねv
(今日はあいつに会えたしな…)
一緒に飯も食えて良かった、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
夜の書斎でコーヒー片手に、思い返した愛おしい人。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた小さなブルー。
今は自分の学校の教え子、今日は平日で授業があった日。
けれど仕事が早く終わったから、帰りに寄れたブルーの家。
(行く時から胸が弾むってな)
学校の駐車場に置いている愛車、それの扉を開ける時から。
前の自分のマントと同じな、濃い緑色をしている車体。
乗り込んでエンジンをかける間も、心はとうにブルーの許へと飛んでいる。
「じきに行くぞ」と「待っていろよ」と。
学校の門を滑り出したら、後は真っすぐ恋人の家へ。
(たまに寄り道もするんだが…)
ブルーのためにと、何か手土産を買ってゆく時。
前の生での思い出の欠片、その切っ掛けになりそうなものを。
そういう時でも寄り道は少し、目的の物を買ったら直ぐに店を出る。
恋人が家で待っているから、「来てくれるかな?」と思っているのが分かるから。
(あいつの家に着いたら、チャイムで…)
すっかり馴染んだ、門扉の脇にあるチャイム。
表で鳴らして、ブルーの母が開けに来るのを待つ間にも…。
(あいつ、手を振ってくれるしな?)
二階の窓から手を振るブルー。
それに応えて振り返しながら、「来られて良かった」と、ただ喜びを噛みしめる。
週末のように一日中とはいかないけれども、ブルーと一緒にいられるから。
夕食までの時間をブルーと過ごして、夕食は両親も交えての席。
食後のお茶も、運が良ければブルーの部屋で飲めるから。
「またな」と席を立つ時間までは、ブルーの顔を見ていられるから。
そうやってブルーと過ごせた今日。
別れて家に帰った後にも、心の中にはブルーの面影。それから声も。
「ハーレイ!」と笑顔で迎えてくれた、小さなブルー。
十四歳にしかならないブルーは、前の自分が失くしてしまった恋人よりも幼いけれど…。
(それでも、俺のブルーだってな)
まだ幼すぎて、キスも出来ない恋人でも。
結婚して一緒に暮らせなくても、出会えただけで、もう充分に幸せ一杯。
前の自分は、ブルーを失くしてしまったから。
誰よりも愛した愛おしい人を、ソルジャー・ブルーと呼ばれた人を失ったから。
(あいつを追って行きたくても…)
ブルーの許へと旅立ちたくても、許されなかった「後を追う」こと。
それがブルーの最後の望み。
ジョミーを支えてやるということ、シャングリラを地球まで運ぶこと。
「頼んだよ」と言い残されては、とてもブルーを追ってはゆけない。
ブルーがいなくなった世界で、あのシャングリラで生きることがどんなに辛くても。
魂はとうに死んでしまって、生ける屍のようであっても。
(早いトコ、地球まで辿り着いてだな…)
キャプテンとしての務めを終えたら、ブルーを追おうと思っていた。
ブルーの望みは叶えたのだし、もういいだろうと。
きっとブルーも寂しいだろうと、一人で待っているのだから、と。
そう思いながら孤独な時間をあの船で生きて、ようやく辿り着いた地球。
「終わり」は其処でやって来た。
地球の地の底、崩れ落ちて来た天井と瓦礫。その下敷きになって潰えた命。
けれど、自分は笑みさえ浮かべていただろう、きっと。
やっと終わると、ブルーに会えると。
これで自分は自由になれると、ブルーを追って飛び立つのだと。
行く先が何処であろうとも。
たとえ宇宙の果てであろうと、宇宙さえも無い場所であろうと。
きっとブルーに巡り会える、と夢見るように終わった命。
それが自分の最後の記憶。
(しかしだな…)
自分はブルーに会えたのかどうか、今の自分は覚えていない。
気付けば青い地球に来ていて、目の前に今のブルーがいた。
今のブルーが通う学校、其処に転任して来た自分。
(俺は授業をするつもりでだな…)
最初の授業だから自己紹介だ、と入って行ったら、出会ってしまった小さなブルー。
おまけに起こした聖痕現象、ブルーの身体は血まみれになって…。
(てっきり事故だと思ったから…)
慌てて駆け寄り、抱き起こしたら、前の自分の記憶が戻った。
腕の中の生徒が誰か分かった、前の自分が愛した人だと。あのブルーだと。
(あれでブルーと出会えたわけで…)
思いがけなく生きて巡り会えた、愛おしい人。
二人とも新しい命を貰って、前のブルーと目指した地球で。
前とそっくり同じ姿で、何処も違いはしない身体で。
(…あいつは小さすぎるんだがな…)
少しどころかかなりチビだ、と思うけれども、ああいう姿も知っている。
アルタミラの地獄で出会った時には、少年だった前のブルー。
(チビでもなんでも、ブルーはブルーだ)
いずれ育てば、前のあいつと同じ姿になる筈で…、と楽しみに待つ幸せな未来。
ブルーが前と同じに育てば、結婚できる年になったら、もう離さない。
今日のように「またな」と別れる代わりに、夜になっても離れはしない。
今度は結婚できるのだから、同じ家で暮らしてゆけるのだから。
(前の俺たちには出来なかったことで…)
だから余計に待ち遠しい。
早くその日が来ないものかと、いつか一緒に暮らすのだから、と。
結婚までには、プロポーズだとか、色々なことがあるけれど。
ブルーの両親にも話さなくてはならないけれども、そういったこともきっと楽しいだろう。
たとえ反対されたとしたって、後になったら素敵な思い出。
「お前のお父さんたちに土下座したっけな」と、ブルーと笑い合ったりして。
(ブルーは反対しやしないから…)
最初から恋人同士なのだし、プロポーズを断られはしない。
よくある失恋、それと自分はまるで無縁だ、と余裕たっぷりだったのだけれど。
(…待てよ?)
もしもブルーに、前のブルーの記憶が全く無かったら。
思い出したのは自分の方だけ、ブルーは欠片も思い出しさえしなかったなら。
(おいおいおい…)
俺はどうなっちまうんだ、と思わず見開いてしまった瞳。
今のブルーと何処かで出会って、「俺のブルーだ」と前の記憶が蘇っても…。
(あいつの方に、前の記憶が無ければ…)
ただ出会ったというだけのこと。
ブルーに向かって名前を呼んでも、「誰?」という顔をされるだろう。
教室だったら、「名簿で知っているのかな?」と考える程度、そういうブルー。
何も覚えていはしないのだし、「新しい古典の先生ですね?」と、ピョコンとお辞儀。
(教室でなかったとしても…)
それこそ街で、前のブルーと同じに育ったブルーを見付けたとしても。
途端に自分の記憶が戻って、「ブルー!」と呼び止めたとしても…。
(どなたですか、って…)
不思議そうな顔をされてしまうか、あるいは気味悪がられるか。
どうして名前を知っているのかと、もしや心を読んだのかと。
(心を読んでまで、声を掛けたと思われそうだぞ)
ブルーにとっては、きっとそうなることだろう。
何処の誰かは知らないけれども、自分の姿が気に入っただとか、そういう輩。
関わりになどはなりたくない、と走って逃げてゆきそうな感じ。
そいつは困る、とショックを覚えた「もしも」の事態。
ブルーの方に記憶が無ければ、自分の恋は片想い。
相手が小さなブルーだろうが、街で見かけた育ったブルーの方であろうが。
(なんとかして、知り合いになれてもだな…)
小さなブルーから見れば自分は「先生」、育ったブルーなら何になるのだろう?
まるで記憶が戻らなければ、「年の離れた知り合い」といった所だろうか。
自分に恋してくれるどころか、たまに会えても食事くらい。
(俺が御馳走してやったって…)
年上だからそうするのだろう、と勝手に納得しそうなブルー。
ドライブに連れて行ってやっても、「ありがとう」としか言って貰えない。
ブルーは恋をしていないから。
「年の離れた知り合いが出来た」だけだから。
そんなブルーが今の自分に、恋をするとは思えない。
ブルーの世界に自分はいなくて、せいぜい「ただの友達」程度。
(いったい俺はどうすりゃいいんだ?)
好きなんだ、と打ち明けたって、振られてしまうことだってある。
振られてしまえばそれでおしまい、二度とブルーには会えないだろうし…。
(…いつか惚れてくれるかもしれない、とだな…)
片想いのままで過ごすのだろうか、「何も覚えていない」ブルーと。
前の生のことなど話せはしなくて、自分に恋さえしてはくれないだろうブルーと。
(…もしも、あいつに記憶が無ければ…)
そうなるのか、と気付かされたから、改めて思う自分の幸せ。
「お互い記憶があって良かった」と、「片想いにならずに済んだようだ」と。
ブルーはチビの恋人だけれど、ちゃんと恋してくれているから。
いつか結婚できる相手で、ブルーの方でもその時を待っているのだから…。
記憶が無ければ・了
※ハーレイ先生、ブルー君とは最初から両想いですけれど。失恋も無いと思ったのに…。
もしもブルー君に前の生の記憶が無かった場合は、とても大変。両想いで良かったですよねv