「ねえ、ハーレイは敬語だったよね?」
ぼくと話をする時は、と小さなブルーが傾げた首。
家に来てくれたハーレイと話している時に。
いつものテーブルを挟んで向かい合わせで、唐突に。
「…敬語だと?」
俺は一度も使っちゃいないが、とハーレイは怪訝そうな顔。
現に今日だって使っていないし、ごくごく普通の言葉だから。
「それって、今のハーレイでしょ?」
前のハーレイは違ったものね、とブルーが言うのは時の彼方でのこと。
ブルーがソルジャー、ハーレイがキャプテンだった船。
其処では確かに敬語だった、とブルーが指摘する言葉遣い。
キャプテン・ハーレイは、いつもソルジャーに敬語を使い続けたから。
他には誰もいない時でも、二人きりで過ごしていた時も。
そういやそうか、と頷かざるを得ないハーレイ。
前のブルーとの恋を隠すには、絶対だった「敬語で話す」こと。
もしも普通に話したならば、船の者たちに勘繰られるから。
「ずっと敬語だったのに、どうしたことか」と。
そうだったよな、とハーレイだって覚えているから、ニッと笑った。
「前の俺の頃はそうだったっけな…。今は違うが」
ついでに逆転しちまったよな、と小さなブルーの顔を見詰める。
「今はお前の方が敬語だ」と、「俺はハーレイ先生だしな?」と。
「それなんだけど…。学校で会ったら、そうなんだけど…」
なんだかズルイ、とブルーが尖らせた唇。
「ぼくは頑張って切り替えてるのに、ハーレイは何もしないよね」と。
「前のハーレイもやっていない」と、「ぼくの前でも敬語のまま」と。
ブルーは不満そうだけれども、今のハーレイには必要ないのが敬語。
生徒に敬語を使いはしないし、「使われる方」が当たり前。
ついでに前のブルーにしたって、ソルジャーという立場だったから…。
「おいおい、今の俺だと言葉遣いはコレが普通で…」
前のお前の頃とは事情が違うんだ。あの頃は間違えられないしな?
ウッカリ普通に喋っちまったら、俺たちの恋がバレかねなかった。
切り替えるなんて、そいつはリスクが高すぎたんだ。
だから敬語を使い続けた、と説明したら…。
「分かってるけど、たまには敬語で喋って欲しいな」
いつもは普通に話してるんだし、たまには敬語、と強請られた。
「前のぼくと話していた時みたいに」と、「少しでいいから」と。
「此処なら誰も聞いていないし、ほんのちょっぴり」と。
なるほど、と思わないでもないから、戯れに切り替えた言葉。
「分かりました」と、「敬語で話せばいいのですね?」と。
「うん、そう!」
前のハーレイと話しているみたい、とブルーは喜んだのだけれども。
暫く経ったら落ち着かない顔、「やっぱり変かも」と。
「変だなどと…。私の言葉はおかしいですか?」
気を付けているつもりなのですが、と返してやったら…。
「なんだか、ぼくが凄く偉そう…。王子様みたい」
「そうですね。私の大事な王子様ですよ」
とても小さくて愛らしくて…、と今日は敬語を貫くつもり。
そういうゲームも楽しいから。
ブルーは大切な王子様だし、誰よりも愛おしい人なのだから…。
敬語でお願い・了
(今日はハーレイ、来てくれたから…)
幸せだよね、と小さなブルーが浮かべた笑み。
お風呂上りにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
今は自分が通う学校の教師のハーレイ、けれど恋人には違いない。
学校がある日も、仕事が早く終わった時には、家を訪ねて来てくれる。
今日もそういう幸せな日で、夕食の後までハーレイと一緒。
(晩御飯は、パパとママも一緒だったけど…)
食後のお茶はこの部屋で飲めたし、二人で過ごせた時間がたっぷり。
週末のように、午前中から夜までというわけにはいかないけれど。
ハーレイだって、「またな」と椅子から立つのが早めだったけれど。
(明日も学校、あるんだから…)
仕方ないよね、と思う「早めのお別れ」。
土曜日だったら、もっとゆっくり家にいてくれる時もあるのに。
それでも今日は会えたわけだし、ツイている日で、今も胸にある温かな気持ち。
「会えて良かった」と、「ハーレイが来てくれたから、いい日だったよ」と。
同じにハーレイが来てくれたって、寂しくなる日もあるけれど。
「ハーレイと一緒に帰れなかったよ」と、溜息をつく日も多いけれども。
(またな、って帰って行っちゃうから…)
どうして一緒に帰れないのか、悲しくてたまらなくなる日。
前の生なら、夜もハーレイと離れることは無かったから。
ハーレイが青の間に泊まってゆくか、自分の方がキャプテンの部屋に泊まりにゆくか。
そういった風に過ごしていたから、離れ離れの夜は無かった。
けれど今では、離れ離れが当たり前。
今の自分はチビの子供で、ハーレイと暮らせはしないから。
十四歳にしかならない年では、結婚出来はしないから。
結婚できる年は十八歳。
その時が来るまで、ハーレイの家に一緒に帰れはしない。
チビの自分は「またな」と置いてゆかれて終わりで、ハーレイは一人で帰ってしまう。
仕事の帰りに来た日は車で、天気のいい休日に歩いて来たなら、二本の足で。
(まだまだ我慢しなくっちゃ…)
ハーレイと一緒に暮らせる日まで。
この家に二人で遊びに来たって、「また来るね」とハーレイと一緒に帰れる日まで。
まだ先なのが悲しいけれども、今もこの家で会うことは出来る。
平日だって、今日のように会えることもあるから、幸せな気分に包まれたりも。
(寂しがってばかりじゃないんだよ、うん)
今日のぼくは幸せな気分なんだから、と緩んだ頬。
恋人の姿を思い浮かべて、交わした話をあれこれと思い出したりもして。
(ハーレイがいるから、うんと幸せ…)
だって恋人なんだもの、と愛おしい人へと飛ぶ想い。
ハーレイは自分の恋人だけれど、前の自分だった頃から恋人。
遠く遥かな時の彼方で恋をしていて、今はその恋の続きの恋。
出会った途端に恋に落ちたから、前の自分の記憶が戻って来たのだから。
(あの時からずっと、恋してるもんね?)
チビだけど恋は知っているもの、と誇らしい気持ち。
きっと世間の十四歳だと、恋人などいないだろうから。
恋という言葉は知っていたって、本物の恋をしているような十四歳は…。
(何処を探してもいないよ、きっと)
ぼくの恋は本物なんだから、と誰かに自慢したいほど。
前の自分の恋の続きを生きているなら、正真正銘、本物の恋。
ハーレイとキスが出来なくても。
「俺は子供にキスはしない」と頭をコツンとやられていても。
前の自分なら、何度もハーレイと交わしたキス。
愛も交わしていた二人だから、間違いなく本物の恋人同士。…前の自分とハーレイは。
本物の恋の続きだったら、本物だよね、と思う恋。
ハーレイが「キスは駄目だ」と言おうが、「チビの間は家に来るな」と言っていようが。
いつかは結婚だって出来るし、なんと言っても両想い。
チビの自分が大きくなったら、きっとされるだろうプロポーズ。
その時に「うん」と言いさえしたなら、後は結婚式を挙げるだけ。
(…パパとママだって、きっと許してくれるよ)
最初はとても驚くだろうし、腰を抜かすかもしれないけれど。
ハーレイと二人で「結婚させて」と土下座したって、怒るだけかもしれないけれど。
(でも、パパもママも、優しいから…)
いつまでも反対してはいないで、許してくれる時が来る筈。
そしたらハーレイと結婚できるし、幸せに暮らし始めたならば、土下座もきっと思い出の内。
「あの時は大変だったよね」と、ハーレイと笑い合ったりもして。
二人一緒に、ソファでお茶でも飲みながら。
(ハーレイはコーヒーで、ぼくは紅茶で…)
寄り添い合って過ごす幸せな時間。
いつかそういう時が来るから、その日が来るのが待ち遠しい。
まだ当分は来ないけれども、チビの間は無理なのだけれど。
(…だけど、いつかはプロポーズ…)
そして自分は「うん」と言うだけ、そうすれば来るハッピーエンド。
両親が結婚に反対しようが、きっと乗り越えてみせるから。
前の自分たちには無理だった結婚、それが今度は出来る人生。
ハーレイと誓いのキスを交わして、結婚指輪を交換して。
(幸せだよね…)
その日のためなら頑張れるよ、と思う両親たちの説得。
どんなに反対されたとしたって、ハーレイも自分も諦めない。
土下座だろうが、涙ながらの「お願い」だろうが、なんだってきっとしてみせる。
ハッピーエンドの恋のためなら、ハーレイとの恋が叶うなら。
頑張るんだから、と握った拳。
まだ反対さえされていないのに、気が早いけれど。
そもそもプロポーズさえもまだだし、本当に気が早すぎるけれど。
(いいよね、絶対プロポーズされる日が来るんだから…)
ハーレイとぼくは両想いだもの、と自信たっぷりなのだけれども、ふと思ったこと。
その両想いは、自分たちがまた巡り会えたから始まった恋。
(ぼくとハーレイの記憶が戻って、前の通りに恋人同士…)
出会った途端に恋に落ちたけれど、もしも記憶が戻って来たのが自分だけならどうなったろう?
自分に起こった聖痕現象、あれで戻った互いの記憶。
けれど奇跡が起こらなければ、生まれ変わって出会ったというだけならば…。
(ぼくだけ思い出しちゃうことも…)
まるで無いとは言い切れない。
神が起こした奇跡が聖痕、それ無しで巡り会ったなら。
(ハーレイがぼくの教室に来ても、思い出すのは、ぼくの方だけ…)
もちろん聖痕は現れないから、ハーレイは授業を始めるだろう。
自己紹介を済ませた後には、「此処からだな?」と生徒に確認して。
自分がどんなに見詰めていたって、ハーレイの方では気付きもしない。
気付いたとしても、「当てて欲しいのか?」と思う程度で、そうなるだけ。
「では、この答えは?」と指差されるとか、音読の係が当たるとか。
(…ハーレイ、ホントに気が付かないから…)
恋人だとは思いもしないで、それからの日々も続くのだろう。
ハーレイを追い掛けて歩いてみたって、「質問か?」と訊かれるだとか。
(出会った時に、ぼくが大きくなっていたって…)
同じに気付かないだろうハーレイ。
育った自分と街でバッタリ出会ったとしても、ハーレイにとっては「知らない人」。
「ハーレイ!」と声を掛けたって。
呼び止めてみても、「どなたですか?」と言われる始末。
「何処かでお会いしましたっけ?」と、「前に御挨拶しましたか?」と。
有り得るんだ、と思った「もしも」。
せっかくハーレイに巡り会えても、思い出して貰えない自分のこと。
「生徒の一人」で済まされるだとか、「人違いでは?」と言われてしまうとか。
(…そんなの、酷い…)
あんまりだよ、と思うけれども、ハーレイの記憶が戻らなかったら、そういう結果。
いくらハーレイを好きになっても、自分の恋は片想い。
ハーレイはこちらを向いてくれなくて、他の生徒と変わりない扱いをされるとか。
育った自分の方にしたって、頑張って知り合いになったって…。
(…ハーレイから見たら、ただの年下の友達で…)
食事やドライブに連れてくれても、それはハーレイが「暇だから」。
一人で出掛けるよりはいい、と思うから誘ってくれるだけ。
(ハーレイは、ぼくに恋してないから…)
もちろんプロポーズされはしないし、キスだってして貰えない。
どんなに待っても、ハーレイは自分に恋などは…。
(してくれないかも…)
我慢できなくて恋を打ち明けたら、置かれてしまうかもしれない距離。
自分は男で、普通ではない恋だから。
(振られちゃうって言うんだよね?)
ハーレイが食事に誘ってくれなくなったなら。…ドライブにだって。
少しずつ距離を置かれ始めて、ある日、気付いたら独りぼっち。
ハーレイの家に通信を入れても、「忙しいから」と切られてしまって、それっきり。
家まで行っても、まるで知らんぷりをされるとか。
(チャイム、何度も鳴らしてみても…)
居留守を使われて、無視される自分。
ハーレイは自分に恋していないし、ただ迷惑なだけだから。
「また来やがった」と苛々しながら、カーテンの陰から見ているだとか。
失恋した迷惑な訪問者が諦めて帰るのを。…肩を落として去ってゆくのを。
ハーレイの記憶が戻らなかったら、どう考えてもそうなるのだろう。
運よく恋してくれたとしても、前のハーレイとは違うハーレイ。
(…優しいのは同じだろうけれど…)
前の記憶が戻らないなら、恋の続きは生きられない。
ハーレイにとっては新しい恋で、自分の方は両想いでも片想い。
前のハーレイはいないから。…時の彼方で交わした話も、思い出しては貰えないから。
(…そうならなくて良かったよね…)
もしもハーレイに前の記憶が無かったら、大変なことに…、と気付いたから。
今の自分の両想いの恋、それは本当に奇跡なのだと思うから。
(神様に感謝しなくっちゃ…)
ハーレイにまた会わせてくれてありがとう、と捧げた祈り。
前の自分の恋の続きを生きてゆけるのは、ハーレイの記憶が戻ったお陰。
ハーレイの記憶が無かったら無理で、自分の恋はきっと悲しい片想いになっていた筈だから…。
記憶が無かったら・了
※ハーレイ先生との結婚を夢見るブルー君。プロポーズは絶対だよ、と思ったものの…。
もしもハーレイ先生に前の記憶が無かった時は、大変なことに。記憶があって幸せですよねv
(今日はあいつに会えたしな…)
一緒に飯も食えて良かった、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
夜の書斎でコーヒー片手に、思い返した愛おしい人。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた小さなブルー。
今は自分の学校の教え子、今日は平日で授業があった日。
けれど仕事が早く終わったから、帰りに寄れたブルーの家。
(行く時から胸が弾むってな)
学校の駐車場に置いている愛車、それの扉を開ける時から。
前の自分のマントと同じな、濃い緑色をしている車体。
乗り込んでエンジンをかける間も、心はとうにブルーの許へと飛んでいる。
「じきに行くぞ」と「待っていろよ」と。
学校の門を滑り出したら、後は真っすぐ恋人の家へ。
(たまに寄り道もするんだが…)
ブルーのためにと、何か手土産を買ってゆく時。
前の生での思い出の欠片、その切っ掛けになりそうなものを。
そういう時でも寄り道は少し、目的の物を買ったら直ぐに店を出る。
恋人が家で待っているから、「来てくれるかな?」と思っているのが分かるから。
(あいつの家に着いたら、チャイムで…)
すっかり馴染んだ、門扉の脇にあるチャイム。
表で鳴らして、ブルーの母が開けに来るのを待つ間にも…。
(あいつ、手を振ってくれるしな?)
二階の窓から手を振るブルー。
それに応えて振り返しながら、「来られて良かった」と、ただ喜びを噛みしめる。
週末のように一日中とはいかないけれども、ブルーと一緒にいられるから。
夕食までの時間をブルーと過ごして、夕食は両親も交えての席。
食後のお茶も、運が良ければブルーの部屋で飲めるから。
「またな」と席を立つ時間までは、ブルーの顔を見ていられるから。
そうやってブルーと過ごせた今日。
別れて家に帰った後にも、心の中にはブルーの面影。それから声も。
「ハーレイ!」と笑顔で迎えてくれた、小さなブルー。
十四歳にしかならないブルーは、前の自分が失くしてしまった恋人よりも幼いけれど…。
(それでも、俺のブルーだってな)
まだ幼すぎて、キスも出来ない恋人でも。
結婚して一緒に暮らせなくても、出会えただけで、もう充分に幸せ一杯。
前の自分は、ブルーを失くしてしまったから。
誰よりも愛した愛おしい人を、ソルジャー・ブルーと呼ばれた人を失ったから。
(あいつを追って行きたくても…)
ブルーの許へと旅立ちたくても、許されなかった「後を追う」こと。
それがブルーの最後の望み。
ジョミーを支えてやるということ、シャングリラを地球まで運ぶこと。
「頼んだよ」と言い残されては、とてもブルーを追ってはゆけない。
ブルーがいなくなった世界で、あのシャングリラで生きることがどんなに辛くても。
魂はとうに死んでしまって、生ける屍のようであっても。
(早いトコ、地球まで辿り着いてだな…)
キャプテンとしての務めを終えたら、ブルーを追おうと思っていた。
ブルーの望みは叶えたのだし、もういいだろうと。
きっとブルーも寂しいだろうと、一人で待っているのだから、と。
そう思いながら孤独な時間をあの船で生きて、ようやく辿り着いた地球。
「終わり」は其処でやって来た。
地球の地の底、崩れ落ちて来た天井と瓦礫。その下敷きになって潰えた命。
けれど、自分は笑みさえ浮かべていただろう、きっと。
やっと終わると、ブルーに会えると。
これで自分は自由になれると、ブルーを追って飛び立つのだと。
行く先が何処であろうとも。
たとえ宇宙の果てであろうと、宇宙さえも無い場所であろうと。
きっとブルーに巡り会える、と夢見るように終わった命。
それが自分の最後の記憶。
(しかしだな…)
自分はブルーに会えたのかどうか、今の自分は覚えていない。
気付けば青い地球に来ていて、目の前に今のブルーがいた。
今のブルーが通う学校、其処に転任して来た自分。
(俺は授業をするつもりでだな…)
最初の授業だから自己紹介だ、と入って行ったら、出会ってしまった小さなブルー。
おまけに起こした聖痕現象、ブルーの身体は血まみれになって…。
(てっきり事故だと思ったから…)
慌てて駆け寄り、抱き起こしたら、前の自分の記憶が戻った。
腕の中の生徒が誰か分かった、前の自分が愛した人だと。あのブルーだと。
(あれでブルーと出会えたわけで…)
思いがけなく生きて巡り会えた、愛おしい人。
二人とも新しい命を貰って、前のブルーと目指した地球で。
前とそっくり同じ姿で、何処も違いはしない身体で。
(…あいつは小さすぎるんだがな…)
少しどころかかなりチビだ、と思うけれども、ああいう姿も知っている。
アルタミラの地獄で出会った時には、少年だった前のブルー。
(チビでもなんでも、ブルーはブルーだ)
いずれ育てば、前のあいつと同じ姿になる筈で…、と楽しみに待つ幸せな未来。
ブルーが前と同じに育てば、結婚できる年になったら、もう離さない。
今日のように「またな」と別れる代わりに、夜になっても離れはしない。
今度は結婚できるのだから、同じ家で暮らしてゆけるのだから。
(前の俺たちには出来なかったことで…)
だから余計に待ち遠しい。
早くその日が来ないものかと、いつか一緒に暮らすのだから、と。
結婚までには、プロポーズだとか、色々なことがあるけれど。
ブルーの両親にも話さなくてはならないけれども、そういったこともきっと楽しいだろう。
たとえ反対されたとしたって、後になったら素敵な思い出。
「お前のお父さんたちに土下座したっけな」と、ブルーと笑い合ったりして。
(ブルーは反対しやしないから…)
最初から恋人同士なのだし、プロポーズを断られはしない。
よくある失恋、それと自分はまるで無縁だ、と余裕たっぷりだったのだけれど。
(…待てよ?)
もしもブルーに、前のブルーの記憶が全く無かったら。
思い出したのは自分の方だけ、ブルーは欠片も思い出しさえしなかったなら。
(おいおいおい…)
俺はどうなっちまうんだ、と思わず見開いてしまった瞳。
今のブルーと何処かで出会って、「俺のブルーだ」と前の記憶が蘇っても…。
(あいつの方に、前の記憶が無ければ…)
ただ出会ったというだけのこと。
ブルーに向かって名前を呼んでも、「誰?」という顔をされるだろう。
教室だったら、「名簿で知っているのかな?」と考える程度、そういうブルー。
何も覚えていはしないのだし、「新しい古典の先生ですね?」と、ピョコンとお辞儀。
(教室でなかったとしても…)
それこそ街で、前のブルーと同じに育ったブルーを見付けたとしても。
途端に自分の記憶が戻って、「ブルー!」と呼び止めたとしても…。
(どなたですか、って…)
不思議そうな顔をされてしまうか、あるいは気味悪がられるか。
どうして名前を知っているのかと、もしや心を読んだのかと。
(心を読んでまで、声を掛けたと思われそうだぞ)
ブルーにとっては、きっとそうなることだろう。
何処の誰かは知らないけれども、自分の姿が気に入っただとか、そういう輩。
関わりになどはなりたくない、と走って逃げてゆきそうな感じ。
そいつは困る、とショックを覚えた「もしも」の事態。
ブルーの方に記憶が無ければ、自分の恋は片想い。
相手が小さなブルーだろうが、街で見かけた育ったブルーの方であろうが。
(なんとかして、知り合いになれてもだな…)
小さなブルーから見れば自分は「先生」、育ったブルーなら何になるのだろう?
まるで記憶が戻らなければ、「年の離れた知り合い」といった所だろうか。
自分に恋してくれるどころか、たまに会えても食事くらい。
(俺が御馳走してやったって…)
年上だからそうするのだろう、と勝手に納得しそうなブルー。
ドライブに連れて行ってやっても、「ありがとう」としか言って貰えない。
ブルーは恋をしていないから。
「年の離れた知り合いが出来た」だけだから。
そんなブルーが今の自分に、恋をするとは思えない。
ブルーの世界に自分はいなくて、せいぜい「ただの友達」程度。
(いったい俺はどうすりゃいいんだ?)
好きなんだ、と打ち明けたって、振られてしまうことだってある。
振られてしまえばそれでおしまい、二度とブルーには会えないだろうし…。
(…いつか惚れてくれるかもしれない、とだな…)
片想いのままで過ごすのだろうか、「何も覚えていない」ブルーと。
前の生のことなど話せはしなくて、自分に恋さえしてはくれないだろうブルーと。
(…もしも、あいつに記憶が無ければ…)
そうなるのか、と気付かされたから、改めて思う自分の幸せ。
「お互い記憶があって良かった」と、「片想いにならずに済んだようだ」と。
ブルーはチビの恋人だけれど、ちゃんと恋してくれているから。
いつか結婚できる相手で、ブルーの方でもその時を待っているのだから…。
記憶が無ければ・了
※ハーレイ先生、ブルー君とは最初から両想いですけれど。失恋も無いと思ったのに…。
もしもブルー君に前の生の記憶が無かった場合は、とても大変。両想いで良かったですよねv
(平均、一分…)
そうだったっけ、とブルーが思い出したこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
さっきまで浸かっていたお風呂。お湯はたっぷり、大好きな時間。
のぼせない程度に長く浸かるのが好きで、今日もゆっくり浸かったお風呂。
手足を伸ばして、のんびりと。
ウッカリ滑って沈まないよう、その辺は加減していたけれど。
(滑ったら、お湯の中にドボンで…)
頭の天辺まで、お湯の中。
小さい頃から何度もやっているのが失敗、お風呂で潜る趣味は無いのに。
弱い身体では、そうそう出来ない水遊び。元気な子ならば、夏はお風呂で…。
(潜ったりしてるらしいけど…)
プール代わりだ、と潜るのがお風呂。家にあるような子供プールより深いから。
けれど自分はしていない遊び、お風呂のお湯に頭まで浸かってしまう時といったら…。
(バスタブの中で滑った時だけ…)
もうちょっとだけ、と足を伸ばして滑るとか。
肩までお湯に浸かった状態、其処でツルッと滑るだとか。
とにかく自分は潜らないお風呂、ゆったり浸かって部屋に戻ったら頭にポンと浮かんだこと。
今日の新聞、「海女」と呼ばれる人たちの記事が載っていた。
人間が地球しか知らなかった時代の、日本の漁業の方法の一つ。
酸素ボンベも何も使わずに、海に潜って貝などを獲っていた女性たち。
地球が滅びに向かった時には、既に失われていた職業。
海に潜っても、貝も魚もいないから。…獲物は何もいなかったから。
けれど今では、ちゃんと復活しているらしい。
せっかくだからとサイオンは抜きで、昔と全く同じに「素潜り」。
シールドは無しで、肺の中にある酸素だけを使って潜る人たち。
彼女たちが潜る時間の平均、それが一分。
一分間で海の底まで行って戻って、獲物も獲って来るというから凄すぎる。
前の自分はサイオンを使って、自在に海に潜ったけれど。
アルテメシアの海の底にも潜んだけれども、素潜りなどはしていない。
平均一分、そんな時間を潜ってはいられなかっただろう。…サイオン無しでは。
(今のぼくでも、絶対に無理…)
お風呂でドボンと沈んだだけでも大変だから、と思い返す何度もやった失敗。
何の準備もしていないから、沈んだ途端にお湯を吸い込んだりもして…。
(ゲホゲホ、ゴホゴホ…)
派手にむせていたら、外の廊下を通り掛かった父や母が覗きに来ることも。
いったい何をしでかしたのかと、廊下まで咳が響くなんて、と。
(叱られたりはしないけど…)
なんともバツが悪いもの。お風呂で溺れかかったなんて。
海女が潜るという一分どころか、ほんの一瞬、ドボンと沈んだだけなのに。
プールに慣れた子供だったら、同じような目に遭ったって…。
(きっと冷静…)
丁度いいや、と目を開けたりもするのだろう。
沈んだからには潜って観察、家のお風呂でプールの気分。
(息が続く間は潜ったままで…)
色々楽しんでいそうだけれども、自分にはまるで出来ない相談。
「溺れちゃうよ!」と慌てて顔を出す水面。そしてゲホゲホ、ゴホゴホと咳。
プールの授業も休みがちだし、入った時にも制限時間つきの身だから。
(潜水なんか、上手くなるわけないってば…)
練習自体をしていないのでは、結果が出せるわけがない。
今のハーレイのようにはいかない、チビの自分と水との関係。お湯にしたって。
(ハーレイだったら、一分間でも…)
潜れそうだよね、と思い浮かべる恋人の顔。
水泳はとても得意らしいし、海に潜った話も聞いた。
(…ハコフグに会ったことだって…)
ハーレイにつけられてしまった渾名が「ハコフグ」、膨れっ面が似ているからと。
海に潜ってハコフグと出会っていたハーレイなら、一分間でも潜れるのだろう。
しかも一分は平均時間なのだから…。
(もっと長い時間、潜っていられる人だって…)
いるのだろうし、ハーレイも潜れるかもしれない。
仕事にしている海女ではなくても、海に潜ってあれこれ獲るのは好きそうだから。
(…一分かあ…)
そんなに長く止められるかな、と思った呼吸。
海女たちは一分間で潜って、獲物を探して、また水面に戻るらしいし…。
(泳ぎながらで一分だよ?)
運動すれば、増える酸素の消費量。静かに座っている時よりも。
体育の授業で走った時には実感するから、ますます凄いと思う海女。…ハーレイだって。
今の自分も、前の自分も、きっと一分も呼吸を止めてはいられない。
(…一分だよね?)
時計の針が此処から此処まで、と眺める時計。秒針つきの目覚まし時計。
一秒刻みで回ってゆく針、それがクルリと一周するのが一分間。
どう考えても無理そうだけれど、ちょっと試してみたい気分。
此処なら海でもお風呂でもなくて、自分の部屋の中だから。
ベッドに座っているだけなのだし、酸素が切れても、その場で息を吸い込めるから。
(…一分間…)
出来るかどうか試してみよう、と深呼吸。
いきなり息を止めるよりかは、何度か大きく呼吸してから。
その方が身体が慣れていそうだし、肺も分かってくれそうだから。
何度も息を吸ったり吐いたり、そろそろいいか、と止めた息。
胸一杯に、大きく息を吸い込んで。
もうこれ以上は入らないよ、と思うくらいにパンパンに肺を膨らませて。
其処でエイッと息を止めたら、出来るのは息を少しずつ吐くことだけ。
使い終えた酸素を吐き出すのならば、全く問題ないだろうから。
目標の時間は一分間。
少しずつ、少しずつ息を吐きながら、時計の針を睨んだけれど。
秒針が回るのを見詰めたけれども、ノロノロ回ってゆくだけの針。
(…今で二十秒…)
あと四十秒もあるんだけれど、と早くも失くしてしまった自信。
とてもそんなに持ちはしないと、今までの時間の二倍も息を我慢だなんて、と。
(…三十秒…)
頑張れ、と両手で押さえた口と鼻。
一分間は耐えてみたいし、出来ることなら頑張りたい。
(もうちょっと…)
半分までは来たんだものね、と思ってみたって、気持ちと身体は別のもの。
やっぱり無理だ、と耐え切れないで、大きく吸ってしまった息。
途端に身体は大喜びで、肺の細胞が生き返ったよう。「やっと酸素を貰えたよ」と。
(…一分なんて…)
長すぎるってば、と乱れた呼吸を整えていたら、不意に頭を掠めたもの。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が聞いた声。
正確に言えば音声だろうか、あれは肉声ではなかったから。
あんな所に、女性は多分、いなかったから。
(…メギドシステムは発射体制に入りました、って…)
当該区画で作業中の者は退避するよう、促す声が何度も聞こえた。
急かされるように急いだ自分。
第二弾が発射されてしまったら、白いシャングリラはおしまいだから。
ふらつく足で歩き続けて、やっとの思いで辿り着いた制御室に繋がる通路の入口。
あの時、聞いた女性の声は…。
(発射まであと一分です、って…)
最終シークエンスに入ったメギド。
一分の間に止められなければ、何もかも全て終わってしまう。
ミュウの歴史も、白いシャングリラも、赤いナスカも。
あと一分しか無くなったのだ、と気付かされた自分の持ち時間。
その間に制御室まで入って、コントロールユニットを破壊するのが自分の務め。
(…背中から撃たれちゃったけど…)
弾はマントが防いでくれた。
けれど防げなかった衝撃、倒れ伏しても立ち上がった自分。
兵士たちを一撃の下に倒して、制御室へと入り込んだけれど…。
(あそこでキースが…)
後ろから来て、向けられた銃。
何発も撃たれて、それでも耐えた。メギドを破壊するためだからと、その一念で。
(最後に右目を撃たれてしまって…)
視界が真っ赤に塗り潰される中で、床へと叩き付けたサイオン。
わざと招いたサイオン・バースト、それでメギドを破壊したものの…。
(…ハーレイの温もり、失くしちゃってた…)
最後まで持っていたいと願った、右手に残っていた温もりを。
ハーレイと自分を結ぶ絆を、それさえあったら、けして一人ではなかったものを。
(メギドの発射は…)
第二弾が発射されたのはきっと、その後だろう。
自分は何一つ覚えていないけれども、照射率は下がっていたそうだから。
制御室が無事なままだったならば、第一弾と同じ炎が解き放たれた筈なのだから。
(…あれだけのことが一分間…)
たった一分、さっき自分が呼吸を止めようと頑張った時間。
やろうと挑んで耐え切れなくて、息を吸い込んで「無理だよ」と思っていたけれど…。
(前のぼくの最後の一分間…)
ほんの一分しか無かったのか、と気付いた前の自分のこと。
息絶えるまでは、もう何秒か残っていたかもしれないけれども、あれも一分。
(…今のぼくだと、息を止めるのも無理な時間で…)
なんと重みが違うのだろうか、どちらも同じ一分なのに。
前の自分の最後の戦い、今の自分が息を止めようとしていた時間。
ホントに全然違うんだけど、と見詰めてしまった時計の秒針。
同じ時間だけど、まるで中身が違うみたい、と。
(…一分あったら、海の底まで行って戻って…)
獲物も獲って来られる時代が今らしい。
自分はとても潜れなくても、ハーレイならばきっと出来そうだから…。
(うんと幸せな一分だよね?)
いつかチョコンと海辺に座って、ハーレイが上がって来るのを待つ。
もう戻るかな、とワクワクしながら待つ一分。
何が獲れるかと、獲って来たなら、それをどうやって食べようかと。
(サザエの壺焼き…)
前にハーレイと約束したから、一分間を楽しもう。
「獲って来たぞ」とサザエを手にして、ハーレイが海から顔を出すまで。
今はそういう時代なのだし、同じ時間でも、幸せに使える世界だから。
同じ一分でも違うんだよ、と零れる笑み。
「同じ時間だけど、うんと幸せ」と、「同じ一分でも、中身がまるで違うんだから」と…。
同じ時間だけど・了
※ブルー君が息を止めてみようと、頑張ってみたのが一分間。無理でしたけれど。
前のブルーは、同じ一分で…。どちらも同じ一分だと気付くと、今の幸せが分かりますよねv
(ふむ…)
この一杯が美味いんだよな、とハーレイが傾けたコーヒー。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それが一日の締め括り。
根っからコーヒー党なお蔭で、眠れなくなりはしないから。
夜のひと時に傾けるなら、熱いコーヒーか気に入りの酒。
(そいつが俺の流儀ってヤツで…)
今日はコーヒー豆を挽く所から。
ブルーの家には寄り損ねたけれど、遅くはなかった帰宅の時間。
夕食の片付けを終えた後にもまだ早かったし、こういう夜には本格的に淹れたいもの。
コーヒー豆の袋を棚から出して、豆の選り分けまでやってみた。
(元から選んであるんだが…)
売るために袋に詰めた時から、粒が揃ったコーヒー豆。
いびつな豆など無いのだけれども、せっかくだからと始めた選り分け。
大きさを揃えて、必要なだけ。
もっとも、それで外された豆は元の袋に戻したけれど。
自分が勝手に選び出しただけで、袋詰めした店だか、工場だかに行ったら…。
(どれも及第点なんだ)
けして外れではない豆たち。充分に美味しいコーヒーが出来る立派な豆。
捨ててしまうなど論外だから、ちゃんと袋に戻してやった。
「また美味いのを頼むぞ」と。
選び出した豆をゆっくりと挽いて、粉にしてゆくのがまた楽しい。
急いでガリガリ豆を挽いたら、飛んでしまうのがコーヒーの風味。
摩擦で熱が生まれてしまって、選び出した豆がすっかり台無し。
それでは駄目だし、豆を挽くなら慌てず、焦らず、ゆっくりと。
コーヒー豆が熱を帯びないように。
湯を注ぐ前に、風味が宙に飛ばないように。
今夜はのんびり淹れたコーヒー、時間をかけた値打ちはあった。
実に美味い、と会心の出来。
インスタントではこうはいかない、とても出せない深い味わい。
(…気のせいってヤツも、いくらか入っているだろうがな)
挽いてある豆を使って淹れても、「不味い」と思いはしないから。
いつも満足できる味だし、今夜使った豆にしたって、けして高価ではない豆だから。
(時間をかけて淹れた分だけ、美味くなるって所がなあ…)
不思議なもんだ、と思うけれども、そうやって淹れたコーヒーは美味。
外れたことなど一度も無いから、時間も調味料なのだろう。
コーヒーを最高に美味しく仕上げる、味も形も無い調味料。
(料理にしたって同じだしな?)
じっくり煮たり、炒めた料理は美味しいもの。
同じ材料を使っていたって、同じ手順でそっくり同じにやってみたって。
炒める時間や煮込む時間が足りなかったら、出来た料理も物足りない。
(やっぱり時間は調味料か…)
コーヒーも料理も美味くするんだ、と眺めた時計。
このコーヒーを淹れるのにかかった時間はどれほどだったかと、何の気なしに。
(飯が終わったのが、この時間でだ…)
それから片付け、其処でチラリと見た時計。「今日は早いな」と。
早いのならば、とコーヒー豆の袋を棚から出した。
「今夜は豆から挽いてみよう」と、「どうせなら豆も選り分けるか」と。
其処から後は、時計はまるで見ていない。
多分、何度か見ただろうけれど…。
(美味いコーヒーを淹れたい時には、焦りは禁物…)
あえて頭に入れなかった時間、追い出していたと言ってもいい。
「俺の邪魔をするな」と、時計が指す時間を頭から。
時計が速く進んだところで、美味しいコーヒーがポンと出来上がりはしないから。
自分が手間をかけない限りは、美味しくなってくれないコーヒー。
料理の方でもそれは同じで、時間は一種の調味料。
(上手く使ってやらんとな?)
調味料ならば、大切なのは使い方。
どのタイミングでどれだけ入れるか、どんな具合に使うのか。
(料理だったら、下味ってのもあるからなあ…)
最初から肉などにつけておく味、そういう使い方もある。
料理の途中で順に加えるものも多いし、仕上げに入れるものだって。
(時間ってヤツは、どの段階でも使えそうだよな?)
まさに万能の調味料だ、と思わないでもない時間。
たっぷり時間がある時だったら、豆から選り分けたコーヒーだって淹れられる。
料理も同じで、時間があるなら凝った料理は幾らでも。
(逆に急いでいる時でも、だ…)
上手く使えば、美味しく仕上がるのが料理。
コーヒーの方も、満足の出来に淹れられるのだし、時間さまさま。
(要は時間の使い方だな)
美味くするのも不味くするのも…、とコーヒーのカップを傾けたけれど。
「この一杯にかかった時間はこれだけで…」と、時計の針を見たのだけれど。
不意に頭を掠めた思い。
「コーヒーどころじゃなかったんだ」と。
あの時は思いもしていなかったと、時間が経つのが恐ろしかったと。
(…前の俺だな…)
思い出しちまった、と零れた溜息。
同じに時計を眺めていたって、どうしようもなく怖かった。
キャプテンとしてブリッジで見ていた時計は、「終わり」を連れて来るのだから。
じきにその時が来るのだろうし、止める術など無かったから。
(…俺はブリッジに立ってただけで……)
何一つ出来やしなかった、と蘇る記憶。「あの時の俺は、そうだったんだ」と。
赤いナスカがメギドの炎に襲われた時。
前のブルーは、もうシャングリラにいなかった。
表向きは「ナスカに残った仲間たちの説得」だったけれども、違うと知っていた自分。
ブルーは二度と戻りはしない、と。
(…メギドだとまでは思わなかったが…)
仲間たちをを守って命を捨てるつもりなのだ、と前のブルーを見送った。
「ジョミーを支えてやってくれ」と、ブルーは自分に言い残したから。
どう聞いてみても、遺言でしかなかった言葉。
(あれで覚悟はしてたんだがな…)
それでも、まさかあれほどまでとは思わなかった。
ナスカで倒れてしまったブルーが、船に運び込まれることはあっても…。
(あいつが死んでしまっていたって、俺はあいつを…)
見送れるのだ、と疑いさえもしなかった。
ブルーの命が潰えたとしても、最後の別れは出来るのだと。
その魂は既に飛び去っていても、手を握ることは出来るだろうと。
(…なのに、あいつは行っちまって…)
ナスカから遠く離れたメギドへ、ジルベスター・エイトの向こうへと飛んだ。
その報告を受けた時から、刻一刻と迫り続けた「終わりの時」。
シャングリラがナスカを離れるのが先か、ブルーがメギドを沈めるのが先か。
いずれにしたって、確実にやって来る「終わり」。
この世からブルーが消える時。
何処にもいなくなってしまって、本当に「二度と戻らない」時。
それが恐ろしくて、ただ悲しくて。
流れゆく時を止めようとしても、けして止まってはくれない時計。
そんなものなど見たくないのに、キャプテンは見ないわけにはいかない。
ナスカからワープで逃げるためには、それも重要なデータだから。
ワープドライブはとっくに起動していたけれども…。
(タイミングを一つ間違えたなら…)
事故に繋がりかねないワープ。まして緊急事態の時は。
何度自分に言い聞かせたろうか、「焦るな」と、「まだ時間はある」と。
その一方で思ってもいた。
「じきに終わる」と、「ブルーの命が消えてしまう」と。
経って欲しくない時間だけれども、ナスカから安全に逃げるためには出来るだけ早い方がいい。
少しでも速く時間が流れて、ナスカに頑固に残った仲間を全て回収し終わったなら…。
(直ぐにワープで、そうするためには…)
速く流れて欲しいのが時間、けれども時が流れた分だけ、早くなるのがブルーの死。
「その時」は遅い方がいい。
少しでも長くブルーといたいし、同じ時間を共に生きたい。
もはや会うことは叶わなくても、ブルーが二度と戻らなくても。
(…とんでもない時間だったよな…)
俺の人生では、あれが最悪の時だった、と今でも思い出せること。
あれから地球に辿り着くまで生きたけれども、「最悪だった」と言える時間はあの時。
前のブルーを喪うと知って、それでも見るしか無かった時計。
それが自分の役目だったし、果たせなければブルーの犠牲が無駄になるから。
(…ああやって時計を見ていた俺が…)
今じゃ時間を調味料だと思うのか、と胸にこみ上げてきた幸せ。
「時間は料理を美味くするよな」と考えたのは自分だから。
コーヒーを美味しく淹れられたのも、時間が豊かな風味を与えてくれたから。
(うん、贅沢なコーヒーだってな)
今じゃ時間は調味料だぞ、と浮かべた笑み。
「同じ時間だが、あの時とはまるで違うよな」と。
ブルーの家には寄れなかったけれど、生きて帰って来てくれたブルー。
お蔭でコーヒーも美味く飲めると、「今じゃ時間は、最高の調味料なんだ」と…。
同じ時間だが・了
※今日は時間がたっぷりあるから、とコーヒーをゆっくり淹れたハーレイ先生。
美味しいコーヒーのために使った時間と、ナスカの時と。まるで違っても、時間は同じv