明日はブルーの家に行く日、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
夕食の後に書斎で飲んだコーヒー、それのカップを洗いに出掛けたキッチンで。
愛用の大きなマグカップ。
使った後にはきちんと洗って片付ける主義で、次の朝まで置いたりはしない。
朝には棚から出して使いたいマグカップ。
前の夜に綺麗に洗って拭いて、仕舞っておいた気持ちのいいものを。
料理の支度も後片付けの方も慣れているから、マグカップを一個洗うくらいは手間でさえない。
手際よく洗ってキュキュッと拭き上げ、いつもの棚へ。
(次にこいつを使う時は、だ…)
明日の朝食、そのテーブルで。
トーストや卵料理やソーセージなどをゆっくりと食べて、それからコーヒー。
仕事に出掛ける日ではないから、コーヒー片手に時間調整。
(早く行きすぎたらマズイしな?)
ブルーの家に早く着きすぎないよう、いつもより時間をかけて味わう。
朝食も、それにコーヒーも。
後片付けが済んだら家を出るわけで、次にマグカップを棚へ仕舞ったら…。
(ブルーに会いに行けるってな!)
前の生から愛し続けた、愛おしい人に。
今は少年の姿のブルーに、十四歳にしかならないブルーに。
それが楽しみな金曜日の夜、ブルーと一緒に過ごせる週末。
何も用事は入っていないし、土曜日も、それに日曜も。
浮き立つ心でキッチンを出たら、バスタイム。
ついつい零れてしまう鼻歌、明日はブルーに会いに行けると思ったら。
キスさえ出来ない恋人だけれど、まだまだ幼いブルーだけれど。
それでもブルーはブルーだから。
前の生から愛してやまない、大切な恋人なのだから。
会えば心に溢れる幸せ、それにブルーへの愛おしさ。
明日は確実に会えるのが嬉しい、平日ではなくて土曜日だから。
平日でも仕事が早く終われば会えるけれども、思い通りにはいかないもの。
きっと帰りに寄れる筈だ、と考えていても狂うのが予定。
早く終わると思った会議が終わらず、駄目になるのはよくある話。
同僚の誘いを断り切れずに、食事に出掛けてしまう日も。
会いに行けずに終わってしまう日、平日にありがちな予定の狂い。
けれど、週末は予定が狂いはしないから。
ブルーが寝込んでしまうことはあっても、家へ会いには行けるから。
(明日はブルーに会える日なんだ)
間違いなく、と遠足の前の子供さながらに心が弾む。
子供と違って、寝付けないことはないけれど。
ベッドに入れば、ちゃんと眠れるのだけれど。
パジャマ姿で寝室に行って、後は一晩眠るだけ。
目覚めたら朝で、時間次第で何をするかを決める朝。
軽いジョギングに出掛けてゆくとか、庭に出て身体を動かすだとか。
それは目覚めた時間次第で、その日の気分次第だけれど。
朝食は必ず食べるわけだし、またマグカップのお世話になる。
風呂に入る前に洗って片付けておいた、マグカップに熱いコーヒーを。
(飲み終わって洗ったら、出発なんだ)
ブルーに会いに行ける日だから、とベッドに入ろうとしたけれど。
遠足前の子供と違って、ストンと眠りに落ちるベッドに上がったけれど。
(…待てよ?)
こうしてベッドにもぐった後には、訪れる眠り。
目覚まし時計はかけるけれども、きっと早めに覚めるだろう目。
起きたらパジャマを脱いで着替えて、ジョギングに行くか、庭で体操か。
とにかく朝の軽い運動、それから始める朝食の支度。
トーストを焼いて、卵料理やサラダなど。
熱いコーヒーは欠かせないから、香り高いのをたっぷりと。
いつも通りの週末の朝で、何処も変ではないのだけれど…。
(前の俺だと、有り得なかったぞ…!)
こんな風には暮らせなかった、とベッドの端に腰掛けた。
眠れば確実に明日の朝が来て、思った通りの時間が流れ始めるなどは。
その日の気分で変わるとはいえ、軽い運動が済んだら朝食の支度。
出来上がったら食べて、片付けて、それから出発。
小さなブルーが待っている家へ、愛おしい人が住む家へ。
一晩眠れば、その日が始まる。
眠るだけでヒョイと時を越えられる、明日の朝へと。
ブルーの家へと出掛けられる朝へ、いつも通りに。
週末はこうだと思う通りに、目覚めたら始まる土曜日の朝。
(…前の俺には無かったんだ…)
間違いなく明ける夜というものは。
眠れば必ずヒョイと越えられる、訪れる朝というものは。
白いシャングリラで暮らした頃にも、予定は色々あったのだけれど。
キャプテンだったから、それは色々あったのだけれど。
(…そいつを確実に出来る保証は…)
何処にも無かった、実の所は。
夜の間に人類軍に見付かったならば、明日は無いかもしれなかったから。
夜が明ける前に白いシャングリラは沈んでしまって、終わりだったかもしれないから。
(…いつも何処かで思ってたんだ…)
楽園という名の船だけれども、その楽園は仮のものだと。
地面の上には居場所が無いから、こうして浮いているのだと。
ミュウの仲間たちが暮らす箱舟、楽園という名のシャングリラ。
其処で誰もが予定を立てては、それをこなしていたけれど。
明日は会議だとか、来週だとか、そんな風に予定は組まれたけれど。
(…来週どころか、明日ってヤツも…)
来るとは限らなかった船。
誰にも言い切れなかった船。
前のブルーは船を守ると言ったけれども、前の自分も精一杯のことをしようと思ったけれど。
力及ばず沈んでしまえば、明日は永遠に来ない船。
立てた予定をこなす代わりに、何もかもが消えてしまう船。
まるで水面に浮かぶ泡のように、儚かった船がシャングリラ。
考えないようにしていただけで。
暗い考えに囚われていては、心を強く持てないから。
けれど、忘れることはなかった。
朝を迎える度に思った、心の何処かで「無事に朝が来た」と。
前のブルーと夜を過ごして、愛を交わして別れる時にも、やはり思った。
(…これが最後かもしれない、ってな…)
昼の間も、危険は同じにあるのだから。
人類軍の船が来たなら、夜は来ないかもしれないから。
白いシャングリラは沈んでしまって、全て終わりかもしれないから。
何度思ったか分からない。
前のブルーと夜を過ごす度に、その夜は無事に明けるだろうかと。
夜が明けてブルーと別れる時には、こうして再び会えるだろうかと。
(…なんの保証も無かったんだ…)
予定どころか、前のブルーとの逢瀬でさえも。
いつ断ち切られても不思議は無かった、前の自分が生きていた時間。
突然に消えて終わったとしても、仕方なかった儚い世界。
白いシャングリラが存在したこと、それ自体が奇跡だったから。
生きることさえ許されなかったミュウの箱舟、あってはならなかったもの。
マザー・システムにしてみれば。
人類の視点から考えてみれば、忌むべきもので消えるべきもの。
前の自分は其処で暮らした、明日は無いかもしれない船で。
夜が必ず明けるものとは、誰にも言い切れない船で。
(前の俺だと、こんな風には…)
きっと眠れなかっただろう。
心浮き立つ予定がある日の前の夜なら、余計なことまで考えただろう。
その日は本当に来るだろうかと、この夜は明けてくれるだろうかと。
楽しみな予定であればあるほど、心配も募ったに違いない。
それは実現するだろうかと、無事に夜明けが来るだろうかと。
(気にし過ぎちまって、目が冴えちまって…)
酒のお世話になったかもしれない、あの船ならではの合成の酒。
本物の麦や葡萄から出来たのではない、合成品の酒を一杯やってベッドへ。
前のブルーとは夜を一緒に過ごしたけれども、会えない日が続いていたならば。
明日は会えるという日になったら、その夜はきっと…。
(眠れないんだ、コーヒーなんかを飲んでなくても)
待ち遠しいと思う心と、夜が明けるかという心配と。
弾む心と不安な気持ちと、それを抱えて寝付けない夜になったろう。
それが今ではまるで違って、コーヒーまで飲んでしまっても…。
(ベッドに入れば、ぐっすりなのか…)
そうしてヒョイと朝が来るのか、と今の幸せに感謝せずにはいられない。
今は必ず明ける夜。
明日になったらコーヒーを淹れて、飲み終わったら片付けて。
愛おしい人の家へ出掛ける、前の生から愛し続けたブルーの家へ。
ベッドにもぐって眠ればヒョイと越えられる夜。
コーヒーを飲んでしまった後でも、待ってましたとやって来る眠り。
それに意識を委ねるだけで、明日という日が訪れる。
けして断ち切られはせずに流れてゆく時間。
ブルーと二人で地球に来たから。
明日は来るだろうかと案じていた船、あの船で夢見た青い地球に生まれて来たのだから…。
明日がある眠り・了
※ハーレイ先生にとっては、明日が来るのは当たり前。眠ればヒョイと次の日の朝。
けれど、前の生では来るという保証が無かった朝。幸せの証は、こんな所にもあるのですv
(今はハーレイがいてくれるしね…)
いつでも一緒、とブルーが握ってみた右手。
自分の左手を使って、キュッと。
いつもそうしてくれる大きな手の真似をして。
ハーレイの逞しい褐色の手には、まだ敵わない子供の手。
それでも思い出せる温もり、ハーレイがくれる優しい温もり。
「もう平気か?」と、「ちゃんと温かくなったか、右手?」と。
前の自分が、それを失くしてしまったから。
最後まで持っていたいと願いながらも、落として失くしてしまったから。
キースに撃たれた痛みのせいで。
弾が身体に撃ち込まれる度、酷い痛みで薄れた温もり。
「これで終わりだ」と砕かれた右目、それと一緒に砕けて消えてしまった温もり。
ハーレイの腕から貰った温もり、ハーレイとの絆だと思った温もり。
その温もりは、何処にも残っていなかった。
バーストさせた最後のサイオン、それをメギドにぶつけた後は。
自分の方でも「これで終わりだ」と、キースと刺し違えるつもりだった捨て身の攻撃。
けれど、逃げられてしまったキース。
思いもしなかったミュウの青年、キースを救って逃げたミュウ。
その驚きから覚めた時には、もう温もりは何処にも無かった。
右目と一緒に失くしたと知った、痛みが全てを奪い去ったと。
それでもジョミーに「みんなを頼む」と、ソルジャーとしての思いを託した。
メギドに来たのは、そのためだから。
白いシャングリラを、ミュウの未来を、命と引き換えに守るためだから。
あの白い船に幸多かれと、皆が地球まで行けるようにと、祈りを捧げはしたけれど。
ソルジャーの務めは、そうあるべきだと己を律し続けた通りの務めは果たしたけれど。
(…なんにも残っていなかったんだよ…)
自分自身のためには、何も。
死にゆく自分を看取ってくれる仲間はいなくて、白いシャングリラもありはしなかった。
三百年以上もの時を過ごした船は自ら後にしたから。
仲間たちにも心で別れを告げて来たから、それで当然だったのだけれど。
一人きりで死ぬとは知っていたけれど、独りではない筈だった。
最後まで一緒にいてくれる人の温もりを持って、白い鯨を飛び立ったから。
ハーレイの腕に触れた時の温もり、それはある筈だったから。
その温もりさえ抱いていたなら、最後まで温かいだろう。
右手から全身に広がる温もり、それに包まれて旅立てるだろう。
命の灯が消える時まで、きっとハーレイと共にいられる。
互いの間に、どれほどの距離があろうとも。
シャングリラが何処に向かってワープしようとも、遥か彼方へ飛び去ろうとも。
それさえあれば、と思った温もり。
けして自分は一人ではないと、独りぼっちで逝くのではないと。
ハーレイの腕が、その眼差しが、自分を送ってくれるだろう。
行くべき所へ、優しく包んで送り出してくれることだろう。
(…そう思ったのに…)
気付けば、消えていた温もり。
失くしてしまった、ハーレイとの絆。
温もりは欠片も残っていなくて、自分は独りぼっちになった。
人類軍の船しか無いだろう宇宙、其処で壊れてゆくメギドの中で。
白いシャングリラも、ミュウの仲間たちも、愛した人さえ見えない場所で。
(右手、冷たくて…)
温もりを失くした右手はとても冷たくて、凍えてしまって、それが悲しくて。
ハーレイとの絆が切れてしまったと、独りぼっちだと泣くしかなかった。
泣いたところで、温もりが戻りはしないのだけれど。
ハーレイが届けに来ない限りは、もう戻る筈もないのだけれど。
白いシャングリラと共に何処かへ行ったハーレイ、メギドに来てくれるわけがない。
とうにワープをして行っただろう、仲間たちを乗せた白い鯨で。
自分が「頼む」と言った通りにジョミーを支えて、まだ見ぬ地球へと向かうのだろう。
本当に切れてしまった絆。
もうハーレイが何処にいるのかも分からない。
追ってもゆけない、自分の命は尽きるのだから。
キースに撃たれた傷が命を奪い去るのか、メギドの爆発に巻き込まれるのか。
どちらにしたって、見えている終わり。
自分の命は此処で終わって、ハーレイとの絆は取り戻せない。
白い鯨は行ってしまって、自分は追ってはゆけないから。
ハーレイが今は何処にいるのか、もうそれさえも分からないから。
独りぼっちになってしまったと、ハーレイには二度と会えないのだと分かった時の深い絶望。
自分で選んだ道だとはいえ、こうなるとは思いもしなかった最期。
ソルジャーとしての務めを終えたら、心安らかに眠る筈だったのに。
白いシャングリラを、ミュウの未来を、自分はきちんと守り抜いたと。
やるべきことは全てやったと、これで満足だと、全力で生きた人生だったと。
(…なのに、独りぼっち…)
誰も側にはいてくれなくて、ハーレイとの絆も切れてしまって。
満足どころか、悲しみだけしか残らなかった。
死よりも辛くて深い悲しみ、絶望の淵に叩き込まれてしまった自分。
救いの手などは何処からも来ない、一条の光も射し込まない闇。
片方だけになった瞳に映る世界は、光に溢れていたけれど。
地獄の劫火を造り出すメギド、青い炎と同じ色をした光が満ちていたのだけれども、深い闇。
絶望という名の闇に覆われ、光を失くしてしまった心。
一人きりだと、もうハーレイには会えないのだと。
それに気付いたら泣くしかなかった、まるで幼い子供のように。
泣いてもどうにもなりはしなくても、それより他には何も出来なかった。
白いシャングリラを、ハーレイを追ってはゆけないから。
自分の命は此処で終わりで、絆を元には戻せないから。
もうおしまいだと、独りぼっちだと、泣きじゃくりながら迎えた最期。
いつ息絶えたか、それすらも自分の記憶には無い。
ただ泣いていたということだけ。
涙の記憶が最後の記憶で、泣きじゃくりながら自分は死んだ。
ソルジャー・ブルーだったのに。
今の時代も讃え続けられる、伝説の戦士だったのに。
悲しみの中で終わってしまった、前の自分の長かった生。
ハーレイとシャングリラで共に暮らして、恋をして、愛されて生きていたのに。
何が起ころうとも一緒なのだと思っていたのに、最後に無残に断ち切られた絆。
そうするつもりでメギドに向かったわけでは決してなかったのに。
あそこでキースに撃たれなかったら、絆は残っていたのだろうに。
(…ぼくの失敗…)
シールドを張り損なったから。
最初の弾さえ防いでいたなら、きっと持ち堪えただろうから。
そうしていたなら、温もりを失くしはしなかった。
ハーレイとの絆を抱き締めたままで、満足して死んでいっただろう。
白い鯨が無事に旅立つ夢を見ながら、青い地球へと向かう姿を思い描きながら。
唇にはきっと笑みさえ浮かべて、安らかな顔で。
たとえ身体はメギドの爆発で砕け散ろうとも、最後まで自分は幸せに包まれていただろう。
右手に持っていたハーレイの温もり、それにすっぽりと包まれて。
まるでハーレイの腕に抱かれているかのように、優しい温もりに全てを委ねて。
心も、身体も、それに命も。
何もかもを全てハーレイに委ね、愛おしい人に見守られて。
ハーレイの姿は其処に無くとも、見えない腕に抱き締められて。
「此処にいますよ」という声を聞いて、温かな胸に、強く逞しい腕に抱かれて旅立っただろう。
滅びゆく身体を後にして、遠く。
いつか再びハーレイと会える世界に向かって、それは幸せに。
けれども、叶わなかった夢。
ハーレイの温もりを失くした自分に残されたものは、涙だけ。
後から後から頬を伝った涙だけしか、前の自分には残らなかった。
悲しみと深い絶望の中で泣きじゃくりながら、自分は逝った。
ハーレイの温もりを失くしてしまって、独りぼっちになったから。
包んでくれる腕も、優しかった声も、何もかも失くしてしまったから。
(…あんなのは、もう…)
二度と御免だと、ブルッと肩を震わせた。
今でも時々、あの時を夢に見てしまう。
メギドで撃たれて死んでゆく夢、泣きじゃくりながら死にゆく夢。
心の傷は癒えていなくて、メギドの夢を見ない時でも右手が冷えると悲しくなる。
寂しくなるから、何もなくてもキュッと左手で握ってしまう。
今はハーレイがいつでも温めてくれるんだから、と。
(…夢を見た時は、側にいてくれないのが困るんだけど…)
夜中にハーレイがいるわけがないし、温めてくれる筈もない。
それが難点、本当にハーレイの温もりが欲しい時には温めて貰えない自分。
なんとも困る、と思うけれども、いつかはそれも…。
(…一緒に暮らせるようになったら、夜中だって温めて貰えるしね?)
メギドの悪夢で飛び起きたならば、「どうした?」と声が聞こえるだろう。
温かい胸に抱き寄せて貰って、身体ごと温めて貰えるだろう。
前の自分が、もう会えないと泣きじゃくった筈の恋人に。
奇跡のように、また巡り会えたハーレイに。
一度は失くしたハーレイだけれど、また繋がった二人の絆。
だから、自分は泣かなくていい。
右手が凍えるメギドの悪夢は、遠い昔の出来事だから。
ハーレイを失くして泣いた自分は、生まれ変わって幸せだから。
一度失くしてしまったハーレイ、だから前より強まった絆。
そんな気がする、もう失くさないと。
ハーレイとの絆は切れはしないと、今度は何処までも二人で歩いてゆけるのだからと…。
君を失くして・了
※前のブルーが失くしてしまった、ハーレイの温もり。メギドでの悲しい記憶です。
もう会えないと思ったハーレイに会えて、温もりも貰えて、今は幸せv
(ああ、お前だな…)
此処にいるんだな、とハーレイが取り出した写真集。
夜の書斎で、机の引き出しの中から、そっと。
白いシャングリラの写真集とは違って、前のブルーの写真集。
シャングリラの写真集を買いに出掛けた時に見付けた、愛おしいけれど悲しい一冊。
タイトルは『追憶』、その副題が「ソルジャー・ブルー」。
名前の通りに、前のブルーの写真を集めて編まれた本。
前の自分が愛し続けた、気高く美しかった人。
深い眠りの中にいた姿さえも、天の御使いを思わせるほどに。
長い長い時が流れた今でも、ブルーの姿は人の心を魅了するから、何冊もある写真集。
けれど、ただの写真集とは違った『追憶』。
最終章にはメギドが在った。
メギドに向かって宇宙を駆けたソルジャー・ブルーの、最後の飛翔で始まる章。
彗星のように青いサイオンの尾を曳き、ただ真っ直ぐに。
忌まわしいメギドの装甲を破った後には、もうサイオンの光も見えない。
爆発するメギドの閃光で終わる最終章、漆黒の宇宙空間で。
悲しくて辛い本だけれども、滅多に開きはしないけれども。
表紙には前のブルーがいる。
正面を向いた、今も一番広く知られたブルーの写真。
強い瞳の奥、消えない悲しみ。前のブルーが決して見せなかった顔。
それを何処から探して来たのか、奇跡のように存在するのがこの肖像。
前のブルーを知る自分にとっても、「ブルーだ」と心から思える一枚。
たまに、こうして向き合いたくなる。
前のブルーと、前の自分が最後まで愛し続けた人と。
ブルーは帰って来たと言うのに、小さなブルーが同じ町に今もいるというのに。
この時間ならば、きっとベッドの中だろう。
ぐっすりと眠っていてくれて欲しい、悲しいメギドの夢などは見ずに。
前の自分が迎えた最期の記憶に苦しめられずに、幸せな夢を見ていて欲しい。
そう思うくせに、そうあってくれと心から願っているくせに。
忘れられない、愛おしい人。
前の自分が失くしてしまった、ソルジャー・ブルーと呼ばれたブルー。
今は見えない面影を求めて、それに会いたくて写真と向き合う。
十四歳にしかならないブルーは、この姿とはやはり違うから。
同じブルーでも、少年のブルー。
アルタミラの地獄で初めて出会った頃の姿で、まだ育ってはいないから。
(あいつも俺のブルーなんだが…)
お前も俺のブルーなんだ、と写真集の表紙を指先で撫でる。
前のブルーの頬を優しく撫でていたように。
触れて口付けていた頃のように。
写真の中にしか、もういないブルー。
その面影を愛おしみながら、前のブルーに語りたくなる。
お前は幸せになれただろうかと、今は幸せに生きているかと。
わざわざ写真に問い掛けなくても、ブルーは幸せな今を生きている。
何ブロックも離れた所にある家、其処で両親に愛されて。
この時間はきっとベッドでぐっすり、今のブルーのためのベッドで。
前のブルーが暮らした青の間、それよりはずっと狭いけれども、ブルーの部屋。
小さなブルーが好きに使える部屋のベッドで、眠りに落ちているだろう。
ちゃんと分かっているのだけれども、ついついブルーに尋ねてしまう。
前のブルーの写真を見詰めて、「幸せなのか」と。
今は幸せに暮らしているかと、今のお前は幸せだろうかと。
そうなってしまう理由は、きっと…。
(…こいつのせいだな)
今も、開けば涙が溢れる『追憶』の一番最後の章。
前の自分が知らない所で、暗い宇宙で、たった一人で逝ってしまったブルー。
どうして止めなかったのか。
追い掛けることをしなかったのか。
そうなることが分かっていたのに、ブルーの覚悟を前の自分は知っていたのに。
シャングリラの仲間の誰が知らなくても、ジョミーでさえ気付いていなくても。
ブルーが寄越した思念の言葉で、これが最後だと分かっていたのに。
(…それなのに、俺が止めなかったから…)
引き止めることも、追い掛けてゆくこともしなかったから。
ブルーは一人で逝くしかなかった、前の自分の温もりさえも失くしてしまって。
独りぼっちになってしまったと泣きじゃくりながら、暗い宇宙で。
死よりも辛い絶望の中で逝ってしまったブルーの悲しみ。
それを知ったのが今の自分で、小さなブルーが話してくれた。
どれほどに辛く悲しかったか、温もりを失くした右手がどんなに冷たかったか。
(…前の俺は、そんなことさえ知らずに…)
自分だけの悲しみに囚われていたような気さえしてくる、ブルーのことは思い遣らずに。
そうではなかったと分かっていてさえ、自分を責めたい気持ちになる。
どうしてブルーを止めなかったかと、追い掛けさえもしなかったのかと。
失くしてしまって泣くくらいならば、あの時、止めるか、追い掛けてゆくか。
白いシャングリラも、キャプテンの務めも放り出してしまえば出来た筈だと、叶わないことを。
出来もしなかったことを考えてしまう、ブルーの最期を知った今では。
(…俺はお前を、失くしちまった…)
勇気が足りなかったせいでな、と零れた涙。
ほんの少しだけ、チラリと眺めた『追憶』の悲しい最終章。
それが運んで来た涙。
前のブルーを止め損なったと、追い掛けることさえ出来なかったと。
取り返しのつかない時の彼方の過ち、失くしてしまった愛おしい人。
誰よりも深く愛していたのに、ブルーのためなら命も要らなかったのに。
(…俺はそいつを捨て損なって…)
ブルーを追ってゆきさえしたなら、共にメギドで捨てられた命。
それを抱えて生きたばかりに、何度涙を流しただろう。
もう戻らない人を想って、帰っては来ないブルーを想って。
早くブルーの許に行きたいと、シャングリラが地球に辿り着いたら、その時が来ると。
それまで会えないことが辛いと、もう一度ブルーに会いたいのに、と。
前の自分が流した涙。
何度も何度も、前のブルーを想って流していた涙。
それはなんとも自分勝手で、自分の悲しみばかりに満ちて。
前のブルーを最後に襲った深い絶望、それを思いはしなかった。
死よりも辛くて深い絶望、その中で逝ったブルーのことは。
(…失くしちまったことばっかりで…)
ブルーも同じに失くしたのだとは、夢にも思っていなかった自分。
右手が凍えて冷たいと泣いて、温もりを失くしてしまったと泣いて、終わったブルーの前の生。
暗い宇宙で、たった一人で。
独りぼっちで、泣きじゃくりながらブルーは逝った。
そんなこととも知りはしなくて、自分自身の悲しみの中に沈み込んでいた前の自分。
愛おしい人を失くしてしまって、一人きりになってしまったと。
このシャングリラに独り残されたと、ブルーが何処にもいない船に、と。
魂はとうに死んでしまって、屍のように生きていた自分。
ブルーの許へと旅立つ日だけを思い続けて、失くしてしまった悲しみに何度も涙しながら。
まさかブルーも失くしていたとは、本当に思いもしなかったから。
泣きじゃくりながら逝ったことなと、知る術さえも無かったから。
(…そうして、お前を放りっ放しで…)
自分の悲しみだけを訴えていたような気がする、前のブルーに。
早く地球まで辿り着きたいと、お前の所に行かせてくれと。
ブルーはもっと辛かったのに。
前の自分との絆なのだとブルーが信じた、右手に持っていた前の自分の腕の温もり。
それを失くして失った絆、独りぼっちになってしまったブルー。
そうとも知らずに、自分の悲しみだけをぶつけた、前のブルーに。
逝ってしまった愛おしい人に、涙の数だけぶつけた悲しみ。
前の自分が何度も流した幾つもの涙、それはブルーを救わなかったことだろう。
自分勝手な悲しみばかりが満ちた涙をぶつけられても、前のブルーは…。
(…救われるばかりか、俺を置いてっちまったことを…)
きっと悲しみ、辛く思っていただろう。
そうするしか道が無かったとはいえ、それを選んだ自分を責めて。
自分のせいで悲しませていると、またハーレイを泣かせてしまったと。
(…すまない、俺のことばっかりで…)
お前のことなど考えもせずに、と零れる涙。
自分勝手ですまなかったと、俺はようやっと気付いたから、と。
たまに、こうして零れ落ちる涙。
前のブルーと向き合った時に、今の自分だから流せる涙。
こうして流す涙は決して、前の自分のように無駄にはすまい。
自分一人の悲しみに囚われ、ブルーを忘れることだけはすまい。
今のブルーは幸せに暮らしているのだけれども、悲しみの記憶を残した右手。
それがすっかり癒える時まで、ブルーの心に寄り添おう。
メギドで一人で泣きじゃくった記憶、前のブルーが流した涙が消えるまで。
幸せの涙に取って代わられて、ブルーがそれを忘れる日まで…。
お前を失くして・了
※前のハーレイには知りようもなかった、ブルーの最期と、凍えてしまった右手のこと。
知っている今だから、流せる涙もあるのです。今のブルーの幸せを願って…。
(ハーレイが歌っていたなんて…)
ちょっとビックリ、とパチパチ瞬きしたブルー。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドの端っこにチョコンと座って。
幼い頃からお気に入りだった歌、ゆりかごの歌。
今の自分はそれで眠った、母や父に何度も歌って貰って。
大好きだった子守唄。
子守唄は幾つもあるのだけれども、一番好きだった歌が、ゆりかごの歌。
何気なくそれを思い出した日に、気付いた違う声の歌い手。
母とも父とも違う誰かが、自分に歌ってくれていた。
優しい優しい、ゆりかごの歌を。
眠りに導く子守唄を。
(お祖母ちゃんたちかと思ったのに…)
祖母か、親戚の誰かが来た時、歌ってくれた子守唄。
きっとそうだと考えた。
自分の気に入りの子守唄だし、その人も歌ってくれたのだろうと。
けれど、違うと答えた両親。
祖母たちが来たら、はしゃいでしまって疲れて眠って、子守唄など要らなかったと。
幼稚園で昼寝の時間に聞いたのだろう、と教えてくれた父と母。
確かに聞いてはいたのだけれど…。
昼寝の時間に歌われた歌は、ゆりかごの歌の他にも色々。
こんなに優しく心の底まで届くほどには、繰り返し歌われていなかったろう。
だから違うと否定したのが幼稚園。
ならば何処で、と考えた末に辿り着いたのは前の生。
前の自分が聞いた歌だと、ゆりかごの歌で眠ったのだと。
ソルジャー・ブルーだった前の自分が、遠く遥かな時の彼方で。
(…前のママかと思っちゃったよ…)
前の自分を育てた養父母。
成人検査で家を出る日まで、優しく包んでくれた人たち。
ミュウと判断されてしまって、すっかり失くしてしまった記憶。
成人検査と人体実験、それが記憶を奪ってしまった。
欠片も残さず、何もかもを。
養父母の顔も、育てられた家も、どんな風に過ごしていたのかも。
前の自分は思い出せなくて、そのままで死んでしまったけれど。
メギドを沈めて散ったけれども、今の自分は養父母の顔を知っている。
今のハーレイから、その情報を貰ったから。
アルテメシアで手に入れたという、前の自分のデータを教えて貰ったから。
優しそうな顔をした、前の自分を育てた母。
その母が歌った歌かと思った、ゆりかごの歌。
母が歌ってくれた歌なら、この懐かしさも分かるから。
今の自分の心までも包んでしまう優しさ、その温かさも分かるから。
(…ホントに前のママなんだ、って…)
そう考えたのだった、今の自分は。
前の自分が思い出せずに終わってしまった、母の記憶が戻って来たと。
ゆりかごの歌が母の思い出を運んでくれたと、自分に届けてくれたのだと。
遠く遥かな時の彼方で、母が歌った子守唄。
優しい響きの、ゆりかごの歌を。
けれども、それを歌う声。
前の自分が耳にした声、ゆりかごの歌の優しい歌い手。
あまりにも歌う声が遠くて、母の声だと今の自分には分からない。
養父母の顔は知っているけれど、声までは知らなかったから。
前のハーレイが手に入れたデータ、それに声までは無かったから。
(…ママの声、思い出せなくて…)
顔だけでは声まで分かりはしないし、歌い手が母だとピンと来なくて。
それが悲しくて、辛かった。
せっかく歌声を思い出したのに、ゆりかごの歌だと気付いたというのに、戻らない記憶。
あれは母だと、母の声だと幸せに満ちてはくれない心。
記憶の欠片が足りないばかりに、大切なピースを一つ落としてしまったばかりに。
思い出せない、母の声。
前の自分を寝かしつけながら、ゆりかごの歌を歌っていた母。
いくら記憶を追い掛けてみても、遠い記憶を探ってみても。
戻っては来ない、前の自分の母の歌声。
ゆりかごの歌の優しい歌い手、母が持っていた声の手掛かり。
見付けられない失くした思い出、それが心に残っていたから。
抜けて行ってはくれなかったから、ハーレイの前でそれと気付かず歌ってしまった。
庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子で二人で過ごしていた時に。
唇から思わず零れてしまった、ゆりかごの歌が。
(…あれでハーレイがギョッとしたから…)
今の自分の声の高さに驚いたのかと思ったけれど。
歌う時には普段よりも声が高くなるから、ボーイ・ソプラノなのだから。
けれども、実は違った真相。
思わぬ所で解けた謎。
ゆりかごの歌を歌っていたのは、前の自分の母ではなかった。
前の自分に聞かせていた人は、優しい声の歌い手は。
(ハーレイだなんて思わないよね…)
歌い手としても意外すぎたし、ゆりかごの歌の方にしても同じ。
白いシャングリラでは、一度も聞かなかったから。
ゆりかごの歌を耳にしたことが無かったから。
あの子守唄の存在自体を、前の自分は知らなかった。
シャングリラに来た子供たちには、別の子守唄があったから。
SD体制の時代に生まれた幾つもの歌、子供たちのための子守唄。
前の自分が長い眠りに就くよりも前は、それがシャングリラの子守唄だった。
アルテメシアから救い出された子供たちには、馴染みのある歌が良かったから。
子供たちが養父母の家で聞いた歌、その歌が必要だったから。
シャングリラにも同じ歌があるのだと、子供たちを安心させてやるために。
養父母の家にいた頃と同じに、幸せな眠りを得られるように。
幾つも、幾つも、前の自分が耳にしていた子守唄。
養育部門の仲間たちが歌った、優しい調べの歌の数々。
けれど無かった、ゆりかごの歌。
一度も聞かずに深い眠りに就いてしまった、ソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。
十五年間も眠り続けて、目覚めた時には迫っていた危機。
赤いナスカと白いシャングリラに迫りつつあった破滅の中では、誰も歌いはしないから。
子守唄など聞こえないから、前の自分は最後まで気付きはしなかった。
新しく生まれた子守唄。
データベースから探し出された、遠い昔の子守唄が幾つも出来ていたことに。
トォニィが一番好きだったという、ゆりかごの歌。
その歌も、他の優しい子守唄も。
ゆりかごの歌があったことなど、知らずにメギドへ飛んで行った自分。
それでは分かるわけがない。
前の自分に歌い聞かせた人が誰かも、それを聞いたのがいつだったかも。
(…シャングリラの時代には、もう無くなってた歌だって…)
そう思い込んだのが今の自分で、だから育ての母の歌だと考えた。
子供時代を過ごした頃には、ゆりかごの歌があったのだろうと。
前の自分は、その歌を聞いて眠っていたのに違いないと。
けれど、全く違った真実。
白いシャングリラに、新しく生まれた子守唄。
本物の母の胎内から生まれたトォニィのために、と探し出された幾つもの歌。
人間が地球しか知らなかった頃に、青い地球の上で歌われていた子守唄。
自然出産の子に相応しいから、と歌われるようになった歌。
(…トォニィが大好きだった歌…)
トォニィの一番のお気に入りだったのが、ゆりかごの歌。
カリナもユウイも、他の仲間も、誰もが歌って聞かせていた。
優しい調べの、優しい響きの、ゆりかごの歌を。
ハーレイまでが覚えるくらいに、歌えるようになったくらいに、何度も、何度も。
そしてハーレイは前の自分に歌って聞かせた。
昏々と眠り続ける自分に、目覚めないままの前の自分に。
上掛けの下の手をそっと握って、ゆりかごの歌を。
前の自分の深い眠りを、子守唄で守ろうとするかのように。
自分は一度も、それに応えはしなかったのに。
思念の微かな揺れさえ返しはしなかったろうに、ハーレイは歌い続けてくれた。
ゆりかごの歌を、前の自分が魂の底で繰り返し聞いて、覚えたほどに。
今の自分に生まれ変わった後も、気に入りの歌になるほどに。
(…前のママの歌でも、嬉しいんだけど…)
思い出せたのなら嬉しいけれども、ハーレイの歌だと分かって喜ぶ自分がいる。
ハーレイだったと知った時には驚いたけれど、それ以上の嬉しさに満たされた心。
自分は忘れていなかったのだと、ハーレイの歌を覚えていたと。
深い眠りの底にいてさえ、ハーレイの歌は聞こえていたと。
(…きっと、ハーレイだったから…)
ハーレイが歌った子守唄だから、自分は聞いていたのだろう。
眠りの底まで届いたのだろう、愛おしい人の声だったから。
夢を見ていたか、見ていなかったか、それさえも覚えていなかった眠り。
それでもハーレイの声は聞こえた、子守唄を歌っていた声が。
ゆりかごの歌に包まれて眠って、そして覚えた。
愛おしい人がこれを歌ったと、誰よりも愛した人の歌だと。
(生まれ変わっても、あの歌が好き…)
ハーレイが歌っていた歌だから。
前の自分が愛し続けた人が歌ってくれたから。
(ハーレイ、歌ってくれたけど…)
照れながら歌ってくれたのだけれど、まだまだ足りない、ゆりかごの歌。
前の自分が聞いた数には及ばないから、もっと歌って欲しいから。
いつかはきっと、あの歌を聴けることだろう。
ハーレイと二人で眠るベッドで、優しい調べの子守唄を。
強請らなくても、ハーレイはきっと、何度も歌ってくれるのだろう。
前のハーレイが歌に託した、自分への想い。
それが届いて、もう一度、出会えたのだから。
前の自分へのハーレイの想い、前の自分のハーレイへの想い。
それを繋いだ、ゆりかごの歌。
繋いでくれた歌に御礼を言いたい、ありがとう、と。
またハーレイと巡り会えたと、また子守唄を優しく歌って貰えると。
遠い昔の子守唄。
今の時代も歌い継がれる、優しい優しい、ゆりかごの歌に…。
ゆりかごの歌に・了
※ゆりかごの歌を歌っていたのは、育ての母だと勘違いしたブルー君。子守唄だっただけに。
今のハーレイが何度も歌ってくれる日までは、まだ何年か待ちぼうけですねv
(ゆりかごの歌なあ…)
俺にも馴染みの歌だったが、とハーレイが浮かべた苦笑い。
夜の書斎で、コーヒーを淹れた愛用の大きなマグカップをお供に。
小さなブルーに「歌って」とせがまれ、披露する羽目に陥ったけれど。
太陽がまだ高い内から、ブルーの家の庭で歌わされる羽目になったけれども。
(…俺の歌だとは知らなかったんだ…)
前の俺の、と思い浮かべたシャングリラ。
遠く遥かな時の彼方で、ブルーと暮らした白い船。自分が舵を握っていた船。
あのシャングリラで自分が歌った、遠い昔に。
眠り続ける前のブルーの手を握りながら、ゆりかごの歌を。
本当は目覚めて欲しい人だったけれど、子守唄を歌って寝かしつけては駄目なのだけれど。
ブルーは目覚める気配すらなくて、ただ昏々と眠っていたから。
深い深い眠りの底にいたから、せめてその眠りを守りたかった。
思念さえも届かない深い所で眠り続けているブルー。
悪夢など見ず、幸せに包まれて眠ってくれと。
夢の中でも、どうか幸せであってくれと。
そう願いながら、前の自分は、あの子守唄を歌い続けた。
トォニィが生まれて、初めて耳にした子守唄。
それまではシャングリラに無かった歌を。
ゆりかごの歌は今の時代も歌い継がれているけれど。
今の自分も母や父に歌って貰ったのだけれど、前の自分はそれで育っていなかった。
成人検査と人体実験で失くしてしまった、前の自分の子供時代の記憶の全部。
子守唄も、両親の顔も、育てられた家も、何一つとして思い出せなかった。
だから分からない、前の自分が聞いた子守唄。
どういう歌声を聞いて眠ったか、子守唄のメロディも、歌詞の欠片も。
けれど、ゆりかごの歌ではなかった。
あの歌を聞いてはいなかった。
白いシャングリラで長く暮らしたから、ミュウの子供たちを育てた船にいたから分かる。
何度も訪れた養育部門で、ゆりかごの歌は聞かなかったから。
SD体制の時代に相応しく誕生した歌、それが歌われる場所だったから。
アルテメシアから助けた子たちが、養父母の家で聞いた歌。
温かな家で、優しい腕の中で、繰り返し聞いた子守唄。
子供たちの心を癒すためには、同じ子守唄が要ったから。
この船にも同じ歌があるのだと、養父母の歌だと、安らぎを感じて欲しかったから。
(前の俺だって、きっと…)
白いシャングリラに流れていた歌、あの子守唄で育っただろう。
幾つも歌われた歌のどれかが、前の自分を育てただろう。
耳を傾けても、「これだ」と思いはしなかったけれど。
失くした記憶が戻りはしないかと、メロディを、歌詞を捉えてみても。
補聴器を通して前の自分の耳に届いた子守唄はどれも、記憶を連れては来なかった。
それを歌ってくれた養父母の顔も、優しかったろう、その歌声も。
何度も、何度も、聴いてみたのに。
子守唄が聞こえる時に行ったら、耳を、心を傾けたのに。
自分を育てた筈の歌。
養父母が歌ってくれただろう歌。
何処からか戻って来てはくれないかと、記憶の欠片を歌が運んでくれないかと。
幼かった日に聞いた歌なら、魂のずっと深い所に刻まれているかもしれないから。
機械の力も及ばない深み、其処に沈んで眠っているかもしれないから。
(いろんな歌を聴いたんだがなあ…)
魂に響く歌は無いかと、心を揺さぶる子守唄は、と。
何度も何度も試してみたのに、聴き入ったのに、ついに戻って来なかった記憶。
失われたままだった、前の自分の子守唄。
そういう時代が過ぎ去った後に、もう子供たちがいなくなった後に。
アルテメシアを遠く離れて流離う船はナスカを見付けた。
赤いナスカを、人類が見捨ててしまった星を。
あの星に降りて、その上で生まれたナスカの子供。
人工子宮ではなくて母の胎内から、この世に生まれて来たトォニィ。
SD体制が始まって以来、一人も無かった自然出産児。
奇跡のように生まれた命に、新しい時代を生きる子供に、今の子守唄は似合わない。
本物の母のお腹で育って、本物の父がいる子供には。
人工子宮など知らない子供に、今の時代の子守唄はきっと相応しくない。
アルテメシアで子供たちを育てた仲間は、そう思ったから。
トォニィには本物の子守唄がいいと、SD体制よりも前の時代の子守唄を、と探したデータ。
ゆりかごの歌は、その一つだった。
トォニィが一番気に入った歌で、誰もが歌って聞かせていた。
カリナも、ユウイも、若い世代も、古い世代の仲間たちまでもが。
無垢な命をあやす時には、ゆりかごの歌。
トォニィが一番好きな歌をと、繰り返し歌われた子守唄。
いつしか前の自分も覚えた、ゆりかごの歌を。
前の自分が探し続けた養父母の歌とは違うけれども、温かな歌。
遥かな昔に、人間が地球しか知らなかった時代に、地球の上で何度も歌われた歌。
優しい優しい子守唄だと、本物の歌だと思った自分。
なんと温かな歌だろうかと、優しい響きの歌だろうかと。
(だから、あいつに…)
前のブルーに届けたかった。
深い眠りの底にいる人に、前の自分が愛した人に。
覚めない眠りの中にいるなら、その眠りの海が優しいものであるように。
暖かくブルーを包むようにと、ゆりかごの歌を聞かせたかった。
眠り続けるブルーの耳には届かなくても、その身体には。
ブルーの眠りを作る身体には、優しい響きの子守唄を。
そうしておいたら、歌はブルーの身体の中へと沁みてゆくかもしれないから。
子守唄だと分からなくても、ブルーが気付いてくれなくても。
ゆりかごの歌の優しい響きと、その温かさ。
それがブルーの眠りを守って、幸せな夢が幾つも幾つも、ブルーを包むかもしれないから。
幾重にもブルーを暖かく包んで、ブルーが寒くないように。
恐ろしい夢を見ないようにと、前の自分は歌い続けた。
眠るブルーの手をそっと握って、ゆりかごの歌を。
優しい優しい子守唄を。
ブルーは知らない筈だったのに。
前の自分が何度歌っても、反応が返りはしなかったのに。
握った手からは、思念の微かな揺れさえ感じはしなかったのに…。
(…あいつ、あの歌を覚えていたんだ…)
この地球の上に生まれて来るまで。
メギドと一緒に失われた身体、それの代わりに新しい身体と命を貰った今まで。
しかも記憶が戻る前から、ゆりかごの歌が好きだったという。
トォニィと同じに母の胎内から生まれたブルー。
赤ん坊だった頃のブルーのお気に入りの歌が、ゆりかごの歌。
少し育って幼稚園に上がる頃になっても、子守唄の中で一番好きだった歌。
ブルー自身もそれとは知らずに好んだ歌が、ゆりかごの歌。
前の自分が聞いていたことは、すっかり忘れていたらしいけれど。
記憶が戻っても直ぐには思い出さなくて、今までかかってしまったけれど。
それでもブルーは覚えていた。
前の自分が歌って聞かせた、あの子守唄を。
優しい優しい、ゆりかごの歌を。
(歌わされる羽目になっちまったが…)
小さなブルーが思い出したばかりに、歌う羽目になった、ゆりかごの歌。
ブルーの家の庭で一番大きな木の下に据えられた、白いテーブルで。
白い椅子に座って、ゆりかごの歌を小さなブルーに聞かせたけれど。
それは恥ずかしかったのだけれど…。
(悪い気分じゃなかったな、うん)
もう一度ブルーに会えたからこそ、歌うことが出来た子守唄。
前のブルーに届いていたと、やっと分かった子守唄。
深い眠りの底まで届いた、ゆりかごの歌。
あの歌がブルーの眠りを守り続けた、自分の代わりに。
優しい優しい、ゆりかごの歌が。
前のブルーを守り続けた、優しい響きで、その温かさで。
思念さえ届けられなかったブルーだけれども、前の自分の歌がブルーを守ってくれた。
魂の底の底まで届いて、生まれ変わっても忘れないほどに。
ゆりかごの歌を聞きながら眠ったことを、その歌声が好きだったことを。
小さなブルーは、前の自分を育ててくれた母の歌かと勘違いをしていたけれど。
申し訳ない気もするけれども、何故だか嬉しい自分がいる。
前のブルーは、そう思うくらいに、ゆりかごの歌を気に入ってくれていたのだから。
それに守られて眠る時間が、きっと好きだったのだから。
(今の俺には馴染みの歌だし…)
ブルーが今も好きな歌なら、覚えてくれていたのなら。
いつか聞かせてやりたいと思う、今のブルーに、ゆりかごの歌を。
せがまれなくても、何度でも。
いつか二人で眠るベッドで、ブルーの眠りを守りながら。
遠い昔の思い出の歌を、前の自分が歌った歌を。
優しい優しい、ゆりかごの歌。
今の時代も残る子守唄を、優しい響きの、ゆりかごの歌を…。
ゆりかごの歌を・了
※ハーレイ先生が歌う羽目になった「ゆりかごの歌」。流石に恥ずかしかったようです。
けれど、前のブルーに何度も歌った子守唄。ブルー君にも歌ってあげないとねv
