(…今日も温めて貰ったけど…)
それだけだよね、と小さなブルーが眺めた右手。
ハーレイが訪ねて来てくれた日の夜、自分のベッドの端に腰掛けて。
前の生の最後に凍えた右の手。
最後まで持っていたいと願ったハーレイの温もり、それを失くして。
独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ、ソルジャー・ブルー。
温もりを失くしたと気付くまでは強く生きていたのに。
銃で撃たれた痛みを堪えて、メギドを止めようと死力を尽くしていたというのに。
白いシャングリラを、ミュウの仲間たちを守ろうとして。
自分の命は此処で尽きても、シャングリラは地球まで行けるようにと。
少しも惜しくはなかった命。
後悔など無かった、選んだ道。
ソルジャーたるもの、こうあるべきだと。
皆の命を救ってこそだと、そのためならば命も惜しくはないと。
(それは間違ってはいなかったけど…)
間違えたとは今も思わないけれど、たった一つだけ、悲しかったこと。
ハーレイの温もりを失くしてしまって、独りぼっちになったこと。
これでメギドは沈むだろうと安堵した途端に、やっと気付いた。
右手に大切に持っていた筈の、優しい温もりを失くしたことに。
ハーレイと自分を繋ぐ筈の絆、それがプツリと切れていたことに。
温もりを失くして、断たれた絆。
もうハーレイには二度と会えないと溢れ出した涙。
それまでの強さは脆く崩れて、泣きじゃくりながら死ぬしかなかった。
温もりを失くしてしまった右手に、それが戻りはしなかったから。
冷たく凍えてしまった右手を温めてくれる人はいなかったから。
(…今はハーレイ、いるんだけれど…)
青く蘇った地球に二人で生まれ変わって、再び巡り会えたハーレイ。
前とそっくり同じ姿のハーレイに出会えて、また恋をして。
右手に戻ってくれた温もり、ハーレイがそっと包んでくれる手。
自分の手よりもずっと大きな褐色の手で。
「温めてよ」と手を差し出したら、いつも、いつでも、何度でもだって。
今日も温めて貰った右手。
その温かさが嬉しかったけれど、こうして部屋で一人になると…。
(…やっぱり寂しい…)
右手が凍えはしないけれども、寂しいと訴え始める心。
またハーレイは行ってしまったと、家に帰ってしまったと。
何ブロックも離れた所にある家へ。
今のハーレイが住んでいる家へ、今の自分を一人残して。
どんなに強請ってみたとしたって、連れて帰っては貰えない自分。
ハーレイの家族ではない自分。
今の自分は両親と暮らす小さな子供で、いるべき家は此処だから。
ハーレイの家に帰れはしなくて、連れて帰っても貰えないから。
独りぼっちでベッドにポツンと腰掛けるしかない自分。
メギドの時には及ばないけれど、独りぼっちには違いない。
ハーレイは隣にいてはくれなくて、温めてくれる手も側には無くて。
それが寂しい、ハーレイはちゃんといるのに、と。
自分が小さな子供でなければ、今頃はきっと家族だろうに、と。
(ぼくの身体がチビの間は…)
キスも許してくれないハーレイ、それ以上のことなど出来るわけもない。
恋人同士だと主張したって、ままごとのような恋人同士。
結婚だって出来ないのだから、ハーレイの家族になることも無理。
ハーレイの家に帰れはしなくて、こうして一人残されるだけ。
「またな」と軽く手を振る恋人、自分を置いてゆくハーレイ。
次にハーレイが来てくれるまでは、温めて貰えない自分の右手。
もしもハーレイの家族だったら、結婚出来ていたら、一緒に帰ってゆけるのに。
手を繋ぎ合って夜道を歩いて、路線バスにも二人で乗って。
(バスの中でも、席があったら…)
二人並んで手を繋いだまま、きっと座ってゆけるのだろう。
ハーレイの家から近いバス停まで、其処で二人で降りるまで。
降りた後には、手を繋ぎ合って歩いてゆく。
二人で幸せに暮らす家まで、キュッと互いに手を握り合って。
(…ホントだったら、ハーレイと一緒…)
自分がチビでなかったら。
前の自分とそっくり同じに育っていたなら、きっと家族になれていた。
ハーレイと同じ家で暮らして、出掛ける時には手を繋ぎ合って。
今の自分の父と母とが暮らす家へも、二人で出掛けて。
両親も一緒に食べる夕食、それが済んだら「またね」と自分も手を振ったろう。
「また来るからね」と父と母とに。
そしてハーレイと手を繋ぎ合って、夜道を二人で歩いてゆく。
バス停がある所まで。
二人でバスを待つ間だって、手を繋いだままでいるのだろう。
「もう来るかな?」と伸び上がる間も、「そうだな」とハーレイが頷く時も。
(…ハーレイが腕時計を見る時は…)
邪魔になるから、手を離すかもしれないけれど。
また直ぐにキュッと握り直して、二人でバスを待つのだろう。
バスが来たって、手を繋いだまま。
どちらが先に乗るにしたって、繋いだ手はきっと離れない。
乗るのに邪魔にならない限りは、一瞬だって。
バスに乗った後も、繋いだまま。
並んで座れる席が無いなら、二人で吊革を握って立って。
空いた方の手を繋ぎ合えるよう、吊革を持つ手をどちらにするかに気を付けて。
二人とも右手で吊革を持ってしまえば、手を繋ぐのに苦労するから。
左手で握っても同じことだから、困らないよう、注意して。
そうやってバスの中でも離さなかった手、降りる時にも離れはしない。
流石に無理だと離したとしても、降りたらキュッと握り合う。
お互い、寂しくないように。
一緒なのだと、二人なのだと、離れていた手を繋ぎ直して。
ハーレイと二人で夜道を歩いて、帰り着くだろう二人で暮らす家。
やっと着いたとハーレイが鍵を開ける時には、もう手を離しても寂しくはない。
家に着いたら二人きりだし、手を繋ぐよりも幸せな時間。
キスを交わして、その先のことも。
二人一緒にベッドに入って、朝までずっと一緒だから。
手を繋ぐよりも素敵な時間が、幸せな時間があるのだから。
(独りぼっちじゃないもんね…)
眠っている間も、ハーレイと一緒。
夜中にぽっかり目が覚めた時も、ハーレイの腕があるだろう。
温かな胸に、腕に包まれて、自分は眠っているのだろう。
手を繋ぐよりもずっと幸せな、温もりにふわりと包み込まれて。
前の自分がそうだったように、今の自分もきっとそうだったのだろう。
チビの姿でなかったら。
前と同じに育った姿で、ハーレイと会えていたのなら。
夢は広がるばかりだけれども、チビの自分はチビのまま。
ハーレイと手さえ繋げはしなくて、「またな」と置いてゆかれるだけ。
右手は冷たく凍えないけれど、隣にいてはくれないハーレイ。
ベッドにポツンと独りぼっちで、小さな右手を見詰めるしかない。
ホントだったら繋げたのに、と。
育った姿で出会えていたなら、ハーレイの手と繋げた右手。
右手でキュッと握るのだったら、ハーレイが出してくれる手は…。
(…左手だよね?)
二人並んで歩いてゆくなら、バスの吊革を持つのに苦労しない方の手を選ぶなら。
ハーレイが「ほら」と差し出してくれる手、それは左手なのだろう。
キュッと握ってもかまわない手は、離さずに繋いでいてもいい手は。
きっと左手、と褐色のそれを思い浮かべたら、ふと気付いたこと。
(…前のぼく…)
ハーレイと何度も一緒に歩いたけれども、手を繋いではいなかった。
白いシャングリラの何処を歩く時も、公園でも、長い通路でも。
手を繋いで歩いてゆける場所など、無かったから。
ソルジャーとキャプテン、そんな二人が手を繋いで歩けはしないから。
(…肩を組むなら普通だけれど…)
ハーレイと前の自分の背丈の違いは大きかったから、少々無理はあるけれど。
それでも肩なら組んでいたって、きっと可笑しくはなかっただろう。
ゼルとヒルマンがやっていたように、友情の証というヤツだから。
仲のいい友達同士なのだと、誰もが思うだけだから。
けれども手だとそうはいかない、友達同士で繋ぎはしない。
幼い子供たちならともかく、立派な大人になったなら。
だからハーレイと繋いではいない、前の自分は繋いでいない手。
ハーレイと二人で歩く時には、ただの一度も。
シャングリラの内部を繋ぐ乗り物、その中で二人きりだった時も。
(…前のぼく、繋いでいないんだ…)
恋人同士で長い長い時を、白いシャングリラで過ごしていたのに。
キスを交わして、同じベッドで眠っていたのに。
(…部屋の中で手なんか繋いでなくても…)
もっと幸せに過ごせるのだから、手を繋いではいなかった。
青の間でも、ハーレイの部屋に行った時にも。
(だから、どっちの手なのか分からなかったんだ…)
ハーレイが「ほら」と差し出してくれる手、それが左手か右手なのかが。
自分が右手で握るだろう手、それがどちらの手になるのかが。
(…だけど、今度は繋げるんだよね?)
さっきから夢を描いていたように、歩く時にも、バスの中でも。
お互いの邪魔にならない時なら、今度はキュッと繋いでもいい。
恋人同士になっていることを、隠さなくてもいいのだから。
前の生とは違うのだから。
そう思ったら、独りぼっちも少し寂しくなくなった。
いつかはハーレイと繋いでもいい手。
それを自分は持っているから、いつか二人で手を繋ぎ合って歩ける日がやって来るのだから…。
繋いでもいい手・了
※ハーレイと手も繋げないよ、と寂しかったブルー君ですけれど。手を繋げるのは今だから。
前の自分だった頃には繋げなかった、と気付いたら寂しさが紛れたみたいですねv
(ブルーの手か…)
今日も温めてやったんだが、とハーレイが思い出すブルーの右手。
ブルーの家に出掛けて行った日、帰って来てから夜の書斎で。
今は小さなブルーだけれども、前の生ではソルジャー・ブルー。
気高く美しかったブルーは哀しい最期を遂げてしまった。
その身と引き換えに沈めたメギド。
最後まで持っていたいと願った、大切な温もりを其処で失くして。
(…あの時、あいつが持って行ったなんて…)
まるで気付いていなかった。
前のブルーが触れて来た手から送られた思念、それに捕まってしまったから。
「頼んだよ、ハーレイ」と駄目押しのように届いた言葉に、心が凍ってしまったから。
ブルーは逝ってしまうのだと。
二度とシャングリラに戻りはしないと、戻るつもりも無いのだと。
自分にだけブルーが残した遺言、シャングリラの皆にはまだ明かせない。
けれども自分は聞いてしまった、知ってしまった、ブルーの覚悟を。
ブルーの思いを。
(…顔に出さないのが精一杯で…)
それ以上は何も考えられなかった、あの時の自分。
ブリッジを出てゆくブルーの背中に「お気を付けて」とも言えなかったほどに。
そんな具合だから、気付かなかった「ブルーが持って行った」こと。
思念を送り込もうと触れた腕から、前の自分の温もりを持って行ったということ。
それだけがあれば一人ではないと、何処までも一緒だと大切に抱いて。
自分の腕に触れた右の手、その手にしっかりと握り締めて。
(…あいつらしいと思えばそうだが…)
何もかも一人で決めてしまって、一人きりでメギドへ飛び去ったブルー。
一言話してくれていたなら、他に方法はあっただろうに。
ブルーが「駄目だ」と拒否したとしても、密かにジョミーに追わせるだとか。
太陽のように輝く笑顔が眩しかったジョミー、彼ならばやってくれただろう。
「ナスカは私がなんとかします」と、キャプテンとして伝えたならば。
頑固にナスカに残った仲間は責任を持って回収する、と。
そうしていたなら、ジョミーはブルーを追い掛けて飛んだことだろう。
生存者を探して赤い星の上を歩き回る代わりに、遠いメギドへ。
ブルーと共にメギドを沈めて、ブルーを連れて戻っただろう。
たとえブルーが傷を負っていても、命の焔が消えかけていても。
ジョミーならきっと連れて戻れた、ブルーの命の灯が消える前に。
今だから言えることなんだがな、と前の自分の決断を呪う。
どうしてブルーを行かせたのかと、キャプテンとしても失格だろうと。
(あの時の俺は、あれが正しいと思い込んでいて…)
ブルーの言葉を鵜呑みにした上、深く考えさえしなかった。
そう決めたのなら仕方がないと、恋人ではなくてキャプテンとして冷静に、と。
ブルーを「行くな」と止めてはいけない、「私も行きます」と追ってもいけない。
どちらも駄目だと、ブルーの決意を無駄にするなと自分に命じた。
ブルーが命を捨てて守る覚悟のシャングリラ。
自分はそれを守らなければと、それが自分の務めだからと。
(…俺がブルーと恋人同士でなかったら…)
咄嗟に引き止めていたかもしれない、ソルジャー・ブルーを。
「それは駄目です」と、「別の方法を考えましょう」と。
真のキャプテンなら、船の乗員を守るのが仕事なのだから。
(キャプテンってヤツは、最後まで船に残るものなんだ…)
船に何かが起こったら。
不慮の事故でも起きた時には、とにかく船にいる者たちを逃がすこと。
最後の一人が脱出するまで、キャプテンは船に残るもの。
前の自分が生きた時代は、そうだった。
人間が全てミュウになった今は、そういうルールは無くなったけれど。
キャプテンとして行動するなら、前の自分はブルーを止めるべきだった。
ブルーも船の乗員なのだし、おまけにソルジャーだったのだから。
「ただのブルーだよ」とブルー自身が言っても、皆が認めるソルジャー・ブルー。
彼を失くしてしまうよりかは、他の方法を探すべきだった。
それなのに、それをしなかった自分。
白いシャングリラからブルーを降ろして、それでいいのだと思った自分。
真のキャプテンなら、船から誰かを降ろす時には安全を確保するべきなのに。
降りたら命が無いと承知で降ろすことなど、許されないのに。
(…俺は間違えちまったんだ…)
ブルーの恋人だったから。
誰よりもブルーを失くしたくなくて、行かせたくなかったのが自分だから。
恋に囚われて判断ミスをしてはいけない、と心に固く掛けた鍵。
ブルーが自分に残した言葉を皆に悟られまいとして。
これが最後の別れだけれども、引き裂かれそうな心の叫びを顔に出してはいけないと。
今にして思えば痛恨のミスで、キャプテンとしても失格で。
けれども、前の自分にとっては精一杯の決断だった。
ブルーを引き止めないということ。
追ってゆきたいブルーの背中を、けして追ってはならないこと。
前の自分の判断ミス。
そうして失くしてしまったブルー。
キャプテンならばこうするべきだ、と下した決断、それが過ち。
ブルーの恋人だったばかりに、前の自分は間違えた。
恋人が逝ってしまうと知った衝撃、それがあまりに大きすぎたから。
心がすっかり凍ってしまって、気付き損ねた恋人の姿。
ブルーは自分の恋人であるよりも前に、ソルジャー・ブルーなのだということ。
命の重さは誰もが同じと言いはするけれど、喪えない命の持ち主なのだ、と。
ソルジャー・ブルーは、ただのミュウとは違ったのだから。
長い年月、皆を導き続けたソルジャー、神にも等しかったのだから。
(…そいつに俺は気付きもしなくて…)
ブルーをメギドに行かせてしまった、たった一人で。
何の手段も講じないまま、ブルーの命を救うための手を打たないままで。
恋人だったブルーを喪う衝撃、それで心が凍ったから。
冷静であろうと努めるあまりに、周りが見えなくなっていたから。
真のキャプテンならどうするべきかも、まるで考えなかったほどに。
船に最後まで残るべき立場、キャプテンよりも先に失われる命があってはならないのに。
キャプテンが船から降ろす以上は。
それが正しいと決めたからには、船を降りる者の命を守るべきなのに。
こうした方が生き延びられる率が高いだろう、と判断した時しか降ろせないのに。
(本当に俺は、何も見えてはいなかったんだ…)
前のブルーを失くすと気付いた瞬間から。
ブルーの思念が届いた時から。
キャプテンとしての決断でさえも誤る有様、それでは分かるわけがない。
ブルーが何を持って行ったか、何を大切に抱いていたのか。
(…俺の温もりだっただなんて…)
ずっと知らないままだった。
前の自分は最後まで知らず、今の自分が聞くまでは。
小さなブルーがそれを話すまでは、前のブルーの最期でさえも。
(あんなに撃たれて、その挙句に…)
前のブルーは失くしてしまった、銃で撃たれた痛みが酷くて。
最後まで持っていたいと願った、右手にあった温もりを。
それを失くして、メギドで独りぼっちになってしまったブルー。
(二度と俺には会えないと泣いて…)
泣いて、泣きじゃくって、涙の中で前のブルーの命は終わった。
温もりを失くした手が冷たいと、凍えた右手を抱えたままで。
その手に温もりは戻らないままで、独りぼっちで泣きじゃくりながら。
だからブルーは温もりを欲しがる、生まれ変わった今になっても。
「温めてよ」と右手を差し出す、「ハーレイの温もりが欲しいから」と。
再会してから、何度あの手を握ってやったことだろう。
小さなブルーの小さな右手を、両手でそっと包んでやって。
(お安い御用というヤツなんだが…)
たまにこうして苛まれてしまう、前の自分の判断ミス。
あの時、ブルーが温もりを持って出掛けたことにも気付かなかった前の自分。
(…気付くくらいの余裕があったら…)
きっと失くしていなかったよな、と前のブルーの手を想う。
どんな思いで触れて行ったかと、温もりを持って出掛けたろうかと。
それさえも分かってやれなかったのが、前の愚かな自分だから。
判断ミスをしてしまったような、馬鹿で愚かなキャプテンだから。
(…今度こそ、あいつを離しやしないさ)
いつまでも、何処までも、ブルーの手をギュッと握ってゆこう。
ブルーが離れてしまわないように、今度こそ二人、離れ離れにならないように。
恋人同士だと知れてしまっても、今度はかまわないのだから。
恋する二人は手を繋ぐもので、手を繋ぎ合って何処までも歩いてゆくのだから…。
繋げる手・了
※あの決断は間違っていた、と今のハーレイが悔やむ判断ミス。恋人同士だったからだ、と。
今度はブルーを離さないでいることが出来ます、ギュッと手を繋いで歩けますよねv
(…ぼくの楽園があったんだよ)
此処に、確かに…、とブルーが見詰めるシャングリラ。
楽園という名の白いシャングリラ、優美な姿の白い鯨を。
本物の船ではないけれど。
ハーレイに教えて貰った写真集の中、白い鯨は飛んでいるのだけれど。
前の自分が乗っていた船。
遠く遥かな時の彼方で、ハーレイと一緒に暮らした船。
二人きりではなかったけれど。
大勢のミュウの仲間たちもいて、それは賑やかだったのだけれど。
(…この船で、いつもハーレイと一緒…)
前の自分が恋をした人と。
今の自分も恋をしている、愛おしい人と。
どんな時でもハーレイと二人、この船の中で生きていた。
自分が外へと出ていない時は、文字通りに同じ船の中。
互いの姿が見えない時でも、同じ船には乗っていたから幸せだった。
ハーレイは今は何処だろうかと、サイオンで船を探ってみたり。
用も無いのにブリッジに行って、船を操るのを眺めてみたり。
もちろん、ブリッジに出掛けた時にはソルジャーの貌をしていたけれど。
ハーレイに恋した自分は綺麗に隠して、ソルジャー・ブルーだったのだけれど。
事情はハーレイの方でも同じで、キャプテンの貌で自分を迎えた。
「ようこそ、ソルジャー」と、「本日は視察でいらっしゃいますか」と。
ソルジャーだった前の自分と、キャプテンだったハーレイと。
二人で白い鯨を守った、仲間たちを乗せた箱舟を。
ミュウの未来を乗せている船を、いつか地球へと旅立つ船を。
(前のぼくが船を丸ごと守って…)
ハーレイもまた、船を丸ごと守り続けた。
舵を握って船を操り、船そのものも維持したキャプテン。
修理が必要な箇所が出たなら、直ちに補修の指示を下して。
生きてゆく上で欠かせない物資、それに不足が生じそうなら、そうなる前に手を打って。
(…いつでも、ぼくとハーレイと二人…)
手を取り合って船を守った、ソルジャーと、それにキャプテンと。
誰もがそうだと思ったけれども、そうだと信じていたけれど。
あの船の中で恋を育み、いつしか恋人同士になって。
もしもソルジャーとキャプテンでなければ、共に暮らしていたことだろう。
恋人同士で暮らせるような部屋を貰って、二人一緒に。
それは幸せに、二人きりの部屋でキスを交わして、愛を交わして。
けれども、出来なかったこと。
白いシャングリラを守る二人が、ソルジャーとキャプテンが恋人同士だと明かせはしない。
知られてしまえば、誰もついてはこなくなるから。
ミュウの未来を導くソルジャー、船の行く先を決めるキャプテン。
そんな二人が恋人同士だと知れてしまえば、誰もついてはこなくなる。
二人で勝手に決めたのだろうと、それなら二人で行けばいいと。
自分たちは自分の道をゆくから、二人で好きにするがいいと。
そうならないよう、懸命に隠し続けた恋。
誰にも明かせず、時の彼方に消えてしまったハーレイとの恋。
前のハーレイが書き残していた航宙日誌にも、何も書かれていなかったから。
恋をしたことも、二人で何度も夜を過ごしていたことも。
誰一人として気付かないままで、前の自分たちの恋は終わった。
前の自分がメギドへと飛んで、命を失くしてしまった時に。
白い鯨にハーレイが一人、取り残されてしまった時に。
(でも、それまではずっと…)
ハーレイと二人、あの船で恋をして、愛を交わして。
いつまでも、何処までも共にゆこうと誓い合っては夢を見ていた。
この船で青い地球へ行こうと、地球に着いたらきっと幸せになれるだろうと。
白いシャングリラが地球に着いたら、もうソルジャーは要らないから。
キャプテンもお役御免になるから、そうすれば晴れて恋人同士。
自分たちの仲を皆に明かして、後は二人で生きてゆこうと。
誰にも隠さなくてもいい恋、そういう恋が始まるからと。
(いつかハーレイと地球に着いたら…)
山のようにあった、やりたかったこと。
前の自分が夢に見たこと。
ハーレイと二人で、あれもこれもと。
いつか約束の場所に着いたら、青い地球まで辿り着いたら。
夢を見ていた青い星。
ハーレイと行こうと夢に見た地球。
きっと素晴らしい楽園だろうと、美しく青い星があるのだと。
遥かな昔にアダムとイブが追われた楽園、エデンの園にも負けないほどの。
(だけど、楽園…)
エデンの園には敵わないけれど、青い地球には勝てないけれど。
前の自分は其処に住んでいた、前のハーレイと二人一緒に。
楽園という名の白い船の中、あそこに楽園は確かにあった。
名前だけではなかった楽園。
ハーレイと二人で生きた楽園。
外の世界には出られない船、閉ざされた世界だったけれども。
それでも幸せに自分たちは生きた、楽園の中で暮らしていた。
船の中を探せば、必ず姿があったハーレイ。
前の自分が愛していた人、今も変わらず愛している人。
ハーレイと二人で乗っていたから、あのシャングリラは楽園だった。
恋をして共に生きていたから、愛おしい人といられたから。
二人で暮らせる部屋は無くても、恋人同士だと明かせなくても。
誰にも秘密の恋であっても、恋をしたことが幸せだった。
キスを交わして、愛を交わして、ハーレイと二人。
何処までも共にと誓い合っては、いつか行けるだろう地球を夢見て。
白いシャングリラはミュウの箱舟、仲間たちを守るための船。
ミュウの未来へと向かう箱舟、受難の時代を乗り越えるための白い箱舟だったのだけれど。
箱舟が旅をしている間は、本当は楽園は無いのだけれど。
(…何もかも水の下なんだしね?)
神の洪水に覆われた大地、其処から水が引くまでは。
箱舟が地面に降りる日までは、楽園などありはしないのだけれど。
(…楽園は船にあったんだよ…)
ハーレイと恋をしていたから。
二人一緒にいられる場所なら、其処が楽園だったから。
箱舟の中に楽園はあった、前の自分とハーレイのための。
誰にも言えない恋であっても、幸せに生きていられたから。
いつかは二人で地球に行こうと、遠い未来を思い描いて。
きっといつかは二人きりの日々が、今よりも幸せな時が来るのだと夢を描いて。
青い水の星に着いたなら。
ソルジャーとキャプテン、そういう立場を離れられる時が訪れたなら。
その日まで共に生きてゆこうと、何処までも行こうと誓ったキス。
抱き合っては二人、愛を交わして甘い未来を夢に見ていた。
今よりも、もっと幸せに。
いつか約束の場所に着いたら、地球という名の楽園に辿り着いたなら。
そうして二人で夢を見た地球、白い鯨で向かう楽園。
幾つもの夢を語り合っては、きっと其処へと重ねた唇。
いつかは二人で青い地球へと、本物の楽園へ辿り着こうと。
(…なのに、前のぼく、死んじゃった…)
地球を見る前に尽きてしまった命。
寿命が尽きると分かった時から覚悟は出来ていたのだけれども、予想もしなかった悲しい最期。
ハーレイのいない暗い宇宙で、独りぼっちになってしまって。
愛おしい人との絆の温もり、それを失くして独りぼっちで。
前の自分は楽園を失くし、恋をした人も失くしてしまった。
白いシャングリラを離れた時には、まだ恋だけは持っていたのに。
楽園という名の船とは別れて飛んだけれども、ハーレイとの絆はまだあったのに。
右手に残ったハーレイの温もり、それを抱いて逝こうと思った自分。
温もりがあれば一人ではないと、ハーレイの心は側にあるから、と。
なのに温もりを失くしてしまって、切れてしまった大切な絆。
愛おしい人との間を結んでくれていた絆、それを失くして自分は死んだ。
楽園も、恋人も消えてしまって。
暗い宇宙にたった一人で、泣きじゃくりながら潰えた命。
もうハーレイには二度と会えないと、絆が切れてしまったからと。
(あの時、全部無くなったのに…)
楽園があった白い鯨も、ハーレイとの恋も、何もかも全部。
前の自分の周りから消えた、全部微塵に砕けてしまって。
泣きじゃくることしか出来なかった自分、独りぼっちになってしまったと。
全ては其処で終わってしまって、それきりになった筈だったのに。
(…ぼく、本物の楽園に来ちゃったよ…)
辿り着けずに終わった筈の青い地球まで、ハーレイと二人。
前の自分が夢に見たよりも、ずっと楽園に相応しい星に。
人間は誰もがミュウになった世界、平和な時が流れる世界。
気が遠くなるような時を飛び越え、本物の楽園に辿り着いた自分。
前の自分がこれを見たなら、エデンの園だと思うのに違いない星へ。
約束の場所より遥かに素敵な、命の輝きと優しさが満ちた青い水の星へ。
(前のぼく、失くしちゃったけど…)
楽園という名の白い鯨を、楽園があった船を自ら捨てたけれども、恋した人とも別れたけれど。
これだけがあれば、と持っていた温もりさえも失くして、恋人との絆も失ったけれど。
(…泣きながら死んじゃったんだけど…)
今にして思えば、あれが旅立ちだったのだろう。
楽園があった白い船から、本物の楽園へ引越すための。
ハーレイと二人で地球に来るための、旅の始まりだったのだろう。
それを思うと、あの時の悲しみも愛おしいように思えてくる。
前の自分が失くした楽園、それよりも今が素敵だから。
本物の楽園へハーレイと二人で来られたのだから、あれは旅立ちだったのだろうと。
失くしてしまった楽園の代わりに、今は本物があるのだから。
ハーレイと二人、夢に見た地球で幸せに生きてゆけるのだから…。
楽園があった船・了
※前のブルーにとっては、楽園だったシャングリラ。ハーレイと二人でいられるだけで。
今は本物の楽園に来た上、ハーレイと二人。ブルー君、幸せ一杯ですよねv
(シャングリラか…)
この船が俺の全てだったな、とハーレイが眺めたシャングリラ。
自分の家の夜の書斎で、机の上で。
もちろん本物があるわけがなくて、白い鯨は本の中。
小さなブルーも持っている本、シャングリラの写真ばかりを集めて編まれた写真集。
ブルーの小遣いで買うには少々、高すぎる豪華版だったのだけれど。
父親に強請って買って貰って、小さなブルーも手に入れた。
「ハーレイの本とお揃いだよ」と自慢している写真集。
ブルーに教えた自分の方でも、気に入りの本ではあったから。
たまにこうして広げてみる。
あの白い船を思い出した夜は、見てみたくなってしまった夜は。
(あいつが守って、俺が動かして…)
シャングリラはそういう船だった。
大勢の仲間を乗せていたけれど、ブルーと二人で守っていた船。
ブルーは人類から船を守り続けたし、前の自分は船の全てを守ったキャプテン。
自ら船の舵を握って、船の設備や生活なども自分が舵を取っていた。
修理が必要な箇所が出たなら、そのように。
生きてゆくのに欠かせないものが不足しそうなら、直ちに適切な手を打って。
そうしてブルーと守り続けた白い船。
楽園という名の白いシャングリラ、世界の全てだった船。
外の世界に生きるための場所は無かったから。
宙に浮かんだミュウの楽園、その外にミュウのための世界は無かったから。
ミュウと分かれば殺される世界、そんな世界に前の自分は生きていた。
遠い歴史の彼方の出来事、今の時代はまるで違ってしまったけれど。
(なにしろ、ミュウしかいないんだしな?)
SD体制が崩壊した後、ミュウの時代が訪れた。
人類は次第にミュウと混じって、自然と起こった世代交代。
今の世界の何処を探しても、人類にはお目にかかれない。
一人もいなくなったから。
サイオンを持たない短命だった種族、人間としては損が多い種族。
進化の必然だったというミュウ、それに変わらないわけがない。
生き物は進化してゆくから。
同じ環境でもより生きやすいよう、自分たちの益になるように。
今ではすっかりミュウの時代で、シャングリラはとうに伝説の船。
遠い昔にあった箱舟、ミュウを守ったノアの箱舟。
SD体制という大洪水の中、滅ぼされそうだったミュウたちを乗せて。
洪水が引いてミュウが地上に降りられる日まで、漂い続けたノアの箱舟。
ノアが作った箱舟などではなかったけれど。
ミュウの力で作り上げた船、ノアという名の仲間はいなかったけれど。
(あの時代にノアと言えばだな…)
皮肉なことに、人類たちの首都惑星の名がノアだった。
悪い冗談だと思うけれども、彼らに悪意は無かっただろう。
きっとあの星を整備した頃は、あれこそが人類の箱舟だったのだろうから。
滅びてしまった地球に代わって、人類が生きてゆくための星。
宇宙に散らばる育英惑星や他の惑星、全てを束ねて滅びないように導いたノア。
人類のためにあった箱舟、だからノアの名が付いたのだろう。
(…本当に必死だったんだろうが…)
人類もまた、生き延びるために。
だから脅威となる新しい種族、ミュウを懸命に排除した。
生かしておいたらロクなことは無いと、ミュウは根絶やしにするべきだと。
アルタミラで星ごと殲滅しようとしたほどに。
白い鯨になった後にも、発見されたら徹底的に追われたように。
(…シャングリラの外は、俺たちには地獄だったんだ…)
ミュウと分かれば殺される世界、殺されなければ実験動物にされるだけ。
人とは認めて貰えない世界、其処から逃れて箱舟に乗った。
ノアの名は何処にも無かったけれども、あの時代のノアの箱舟に。
ミュウの命を守る箱舟、大洪水を越えて生き延びるために作られた船に。
最初は借り物の船だったけれど。
元は人類が持っていた船、それを拝借したのだけれど。
シャングリラと名付けて、白い鯨に改造した後も、船は変わらず箱舟のまま。
降りる地面は見付からないまま、宙に浮かんでいるだけだった。
何処までゆこうと、ミュウが生きられる地面などありはしなかったから。
前のブルーを喪ったナスカ、あの星でさえも仮初めの宿。
あれが本当の居場所だったなら、ブルーを失くしはしなかったろう。
他の多くの仲間たちも。
(…しかしだ、前の俺にとっては…)
あの船は楽園だったんだ、と懐かしく思い出すシャングリラ。
写真集のページをぱらりと捲って、船のあちこちを巡りながら。
ブリッジや公園、それから通路。
どんな場所にも残る思い出、前のブルーと生きていた船。
あのシャングリラで恋を育み、幸せに暮らしたブルーとの日々。
ブルーと二人で船を守って、恋も守って。
誰にも明かせない秘密の恋でも、充分に幸せだった恋。
いつも満たされて生きていた。
前のブルーとキスを交わして、愛を交わして。
何処までも共にゆこうと誓って、いつか地球へと夢を見ながら。
(…あいつがいなくなっちまうまでは…)
白い鯨は楽園だった。
ブルーと二人で暮らす楽園、エデンの園とも呼べるくらいに。
ミュウという種族の未来を思えば、憂いは尽きなかったのだけれど。
明日があるかも危うい箱舟だったのだけれど、それでも楽園だった船。
前のブルーと恋をしたから。
共に生きようと、いつかは地球へと、幾つもの夢を描けたから。
外の世界へ出られなくても、あの船があれば充分だった。
愛おしい人が生きている船、愛おしい人と生きる船。
それだけでシャングリラは箱舟ではなくて立派な楽園、エデンの園とも名付けたいほどに。
楽園の中を探せばブルーがいたから、二人きりで過ごせる時もあったから。
名前の通りに楽園だと思ったシャングリラ。
ブルーと二人で守った楽園、その中で恋を育んで。
誰にも言えない秘密の恋でも、充分に幸せだった恋。
愛おしい人がいるというだけで、前のブルーと生きられるだけで。
いつまでも、何処までも共にゆこうと、いつか地球へと二人で夢見て。
楽園という名が相応しかったシャングリラ。
前の自分のエデンの園。
ブルーがいなくなるまでは。
楽園を後にして飛び去ったブルー、前のブルーの命が潰えてしまうまでは。
ブルーがいたから、前のブルーと恋をしたから本物の楽園だった船。
こうしてページを繰ってゆく度、ブルーの姿が蘇る。
此処にいたなと、此処にもブルーが立っていたな、と。
(…本当に楽園だったんだ…)
あいつが乗っていただけで、と白いシャングリラの写真を撫でる。
俺にとっては楽園だったと、外の世界に出られなくても、と。
閉ざされた船でも、大洪水の中を漂うノアの箱舟でも、白い鯨はエデンの園。
前のブルーと恋をしたから、ブルーと二人で生きていたから。
ブルーと二人で地球を夢見て、二人で船を守り続けて。
いつかは地球へと、本物の楽園へ辿り着こうと、ミュウの未来を描き続けて。
(…楽園は地球だと思っていたが…)
エデンの園は、約束の場所は地球だと思っていたけれど。
其処へ着いたら旅は終わって、本物の楽園で暮らせるものだとブルーと夢を見たけれど。
そんな星など必要無かった、ブルーと恋をしていられれば。
二人で生きてゆけるのであれば、もうそれだけで充分だった。
前の自分は既にいたのだ、エデンの園に。
シャングリラという名の楽園の中で、ブルーと共にエデンの園に。
それでも足りずに夢を見たから、自分はブルーを喪ったろうか?
食べてはならない禁断の果実、知恵の実を食べたアダムとイブがエデンの園を追われたように。
今の楽園ではまだ足りないのだと欲を出したから、楽園を追われてしまったろうか。
ブルーを喪い、白いシャングリラに独り残されて。
この船を地球まで運んでゆけと、神の罰までをその身に負って。
(…まさか、そいつは無いんだろうが…)
望みすぎたから、楽園を追われたということは。
エデンの園を失くしてしまって、前のブルーを喪ったなどということは。
もしもそうなら、今の自分はいないだろうから。
神の怒りが下ったのなら、ブルーと二人で青い地球には決して来られなかっただろうから。
(…うん、あいつと本物の地球に来たしな?)
しかもミュウの時代で青い地球で、と素晴らしいことばかりの今の地球。
本物の楽園に生まれ変われた自分たち。
前の自分たちが夢見た以上の楽園、エデンの園としか思えない地球。
其処に二人で来られたからには、前の自分たちの悲しい別れも…。
(…きっと、こうなるためだったんだな)
箱舟から本物の楽園へ引越しするための。
地球という名のエデンの園へと、ブルーと二人で旅立つための。
そう思えば悪い気はしない。
前の自分は楽園で生きて、今度は本物の楽園なんだ、と。
ブルーと二人で生きてゆけると、また恋をして、今度は本物のエデンの園で、と…。
楽園だった船・了
※前のブルーと生きていたから、楽園だったシャングリラ。外の世界へ出られなくても。
今度は本物の楽園なのです、青い地球の上にブルーと二人。きっと最高に幸せですよねv
「ハーレイは好き嫌いが無いんだよね?」
確か一つも、と尋ねた小さなブルー。
向かい合わせで座ったテーブル、ブルーの部屋で。
「そうだが…。親父たちに躾けられたってわけでもないのにな」
お前もそうだろ、と浮かべてみせた苦笑い。
好き嫌いは全く無いんだよな、と。
小さなブルーは身体も弱いし、如何にも好き嫌いが多そうなのに。
意外にも全く好き嫌いが無い、頑丈な身体の自分と同じで。
原因はどうやら、前の生。
二人揃ってアルタミラの地獄で生きていたから、そうなったらしい。
食べられるだけで幸せなのだと、何を食べても美味しいと。
ブルーの場合は例外も少しあるけれど。
酒とコーヒーは苦手だけれども、単なる嗜好品だから。
好き嫌いには入らないだろう、この二つは。
ところが、困ったような表情のブルー。
暫く迷って、赤い瞳がパチパチして。
「えっとね…。ぼく、食べられないものがあったみたいで…」
どうしてもそれは無理みたい。
好き嫌いなんかしていちゃ駄目だ、と思うんだけど…。
「なんだって? そんな食べ物があったのか、お前」
まさか、と目を丸くしたのだけれども、ブルーの方は暗い顔をして。
「…ホントに食べられないんだよ…」
挑戦しようとか、それ以前の問題。
食べなくちゃ駄目だと思っているけど、食べられないから…。
駄目だよね、とブルーは俯いた。
食べられないものがあるだなんて、と。
「お前なあ…。前のお前はどうだったんだ、それは」
食べていたのか、と確かめてみれば「うん」という返事。
「前のぼくはちゃんと食べられたんだよ、だけど今は駄目」
「おいおい…。そいつはいかんな、前は食えたというのなら」
今度もきちんと食べないと、と軽く睨んだ。
それでは大きくなれやしないぞ、と。
「やっぱり、ハーレイもそう思う?」
これじゃ駄目かな、とブルーが訊くから。
「当たり前だろう、好き嫌いがあるなら克服しないと」
頑張って食べられるように努力をしろ、と腕組みをした。
そんなことではチビのままだと、背が伸びないと。
「…そっか…。じゃあ、ハーレイも協力してくれる?」
一人じゃ頑張れそうもないから、と縋るような視線。
ぼくと一緒に食べてくれる、と。
それでブルーが食べようという気になるのなら。
苦手なものでも挑戦するなら、お安い御用というものだから。
「よしきた。今度、一緒に食ってやる」
「ありがとう! でも、今すぐでもいいんだけれど…」
「はあ?」
ブルーの苦手は何なのだろう、テーブルの上にはお茶とお菓子だけ。
どれが駄目なのだ、と眺めていたら。
「ハーレイのキスが食べられないんだよ、どう頑張っても!」
苦手を克服、と自分の唇を指差したブルー。
食べられるように努力するから、ぼくにキスして、と。
「馬鹿野郎!」
それは苦手なままでいい、と額をコツンと小突いてやった。
まだまだ苦手でかまわないと。
食べられなくても困りはしないと、お前にキスはまだ早いんだ、と…。
苦手を克服・了
