(やっぱり今度も駄目なのかな…)
飲めないのかな、と小さなブルーがついた溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、自分の部屋で。
ベッドの端にチョコンと座って、テーブルと椅子の方を見て。
今は空っぽの二つの椅子。
テーブルを挟んで置いてあるだけ、誰も座っていない椅子。
その片方がハーレイのための指定席。
向かい側の椅子が、自分の席。
(ハーレイがあそこに座っていても…)
出て来る飲み物は紅茶やジュース。
ハーレイが好きなコーヒーは自分が苦手ということもあって、まず出ない。
出て来たとしても、ハーレイの分しか出て来はしない。
けれど、それ以上に出て来ないものは…。
(……お酒……)
前のハーレイも好きだった。
もちろん、今のハーレイだって。
たまに父が「どうぞ」と勧める夕食の席。
「頂戴します」と嬉しそうなハーレイ、口に含んだら「美味しいですね」と。
父が勧める酒はいつでも、父の自慢の物だから。
「ハーレイ先生にも、是非」と思うような酒しか出さないから。
その父が今日、開けていた酒。
ハーレイの姿は無かったけれども、誰かに貰って来たとかで。
「美味いと評判らしいからな」と味見に一杯。
評判通りの味だったようで、顔を綻ばせて飲んでいた父。
「休みの日にハーレイ先生がいらっしゃったら、お出ししないと」と。
つまり、今週の土曜日にハーレイが来たら、父が「どうぞ」と注ぐのだろう。
子供の自分には飲めない酒を。
ハーレイのために、それに合いそうな料理とセットで。
(…パパにハーレイを盗られちゃうよ…)
決まっちゃった、と零れた溜息。
ただの酒なら、「美味しいですね」で終わるけれども、父が貰って来た酒だから。
手に入れた経緯や、何処の酒かという話やら。
ハーレイも評判を知っていたなら、話はもっと盛り上がるだろう。
「私も初めて飲みましたよ」とか、そんな具合に。
子供の自分には分からない話。
そうでなくても、普段から。
父と母がハーレイと話し始めたら、大抵、置き去りにされているのが自分。
キョトンと話を聞いているだけで、相槌すらも打てはしなくて。
悲しいことに、チビだから。
大人にとっては面白い話、それがサッパリ分からないから。
ただでも分かっていないというのに、酒の話はもっと謎。
辛口がとうとか、甘口だとか。
(お料理だったら、まだ分かるけど…)
ソースが辛いか、甘いかくらいは。
けれど酒だと、どんなものかも分からない。
「スッキリとした喉ごし」だとか、「重い」とか「軽い」。
そういう話になってしまったら、父やハーレイが飲んでいる酒を見詰めるだけ。
あんなに不味い飲み物でスッキリなんて、と。
それはともかく、「重い」や「軽い」。
酒を飲んだら頭がズシンと重くなるのに、胃だって重いだけなのに。
(…ホントに不味くて、次の日は最悪…)
チビの自分は飲めないけれども、前の自分の頃の経験。
前のハーレイが飲んでいた酒、それを何度も強請って飲んだ。
ハーレイが美味しそうに飲むから、飲みたくなって。
(幸せそうな顔をするんだもの…)
その幸せを共有したくて、何度も注いで貰った酒。
ただの一度も、美味しいと思いはしなかった。
せっかくだからと全部飲んでも、美味しい部分は一滴も無し。
あんな飲み物をハーレイと楽しく語り合う父、自分には謎の酒談義。
今度の土曜日はそれに決まりで、夕食の席は…。
(また置き去り…)
普段以上に、酒のお蔭で。
どういう話をしているのかすらも、見当も付かない酒の出番で。
週末のそれは、もう諦めるしかないけれど。
十四歳にしかならない自分は、「ぼくも」と酒を貰えはしない。
酒が飲めるのは二十歳から、それまでは禁止。
父はもちろん、教師のハーレイも「駄目だ」と叱るに決まっているから。
「一口ちょうだい」と強請ってみても。
一口ならぬ一滴でも。
(…貰えたとしても…)
いつか貰える年になっても、飲めないような気がする自分。
前の自分がそうだったから。
ソルジャー・ブルーだった頃には、大人のくせに飲めなかったから。
前のハーレイに強請って飲む度、酷い目に遭った。
美味しくない酒を頑張って飲んで、次の朝には二日酔い。
頭は割れるように痛むし、胸やけはするし、最悪な気分で目覚めた翌朝。
やっぱり飲むんじゃなかった、と。
(だけど、前のぼく…)
何度やっても、それで懲りてはいなかった。
ハーレイが美味しそうに飲むのを見る度、強請って、飲んで。
いつも結果は惨憺たるもの、美味しくはなくて二日酔い。
それでも懲りずに挑み続けた、本当に美味しそうだったから。
ハーレイの幸せそうな顔つき、それを共有したかったから。
「美味しいね」と。
幸せに二人、笑い合いながら、語り合いながら。
杯を重ねて、幸せな時を。
けれど、失敗に終わり続けた挑戦。
前のハーレイの飲み友達だった、ヒルマンたちのようにはいかなくて。
ハーレイと楽しく酒は飲めなくて、グラスに一杯が精一杯。
それも「美味しくない…」と嘆きながら飲んで、挙句の果てに二日酔い。
(…今度のぼくも、ああなっちゃうわけ…?)
あまり飲める気がしないから。
普段に父が飲んでいる酒も、美味しそうだと思わないから。
(…パパが飲んでたら、美味しそうだけど…)
酒のボトルが置いてあっても、少しも心惹かれはしない。
美味しそうだと眺めはしなくて、素通りするだけ。
舐めてみたいとも思わない。
ブランデーでも、ワインでも。
今の時代の、今の自分が住む地域。此処ならではの日本酒でも。
どんな酒でも、「ふうん?」と眺めて、それでおしまい。
また新しいのが置いてあるな、と思うだけ。
辛口も甘口も、「重い」も「軽い」も、自分にはまるで無関係。
想像すらも出来はしないし、飲みたいと思いもしないのに。
(…飲めなかったら…)
これから先もハーレイを盗られちゃうんだっけ、と零れる溜息。
父が新しい酒を手に入れたら。
ハーレイに「どうぞ」と勧め始めたら。
たちまち始まる酒談義。
美味しそうに飲む父とハーレイ、きっと自分は置き去りになる。
たとえ大きく育っていても。
ハーレイと結婚していたとしても。
なんとも酷い、と思うけれども、飲めなかったら確実な未来。
ハーレイは父と杯を重ね、自分はポツンと座っているだけ。
料理やつまみを作るだろう母、その隣に、多分。
母と一緒に紅茶でも飲んで、「楽しそうだね」とハーレイと父を見守りながら。
(それに、ママだって…)
少しは酒を飲めるのだから、自分と違って話に入れる。
ほんの少しだけ注いで貰って、酒の話題に入ってゆける。
甘口に辛口、「重い」や「軽い」。
そんな話をしている所へ、「そうですわね」と。
美味しさについて語れる母。
前の自分のように「不味い」と思わない母。
(…ぼくがホントに前と同じなら…)
もう本当に、置いてゆかれてしまうのだろう。
酒の美味しさが分からないから、どうしようもなくて。
「美味しい」と喜んでいる人たちの中で、「不味い」と言えはしないから。
勇気を奮って言ってみたって、「子供なんだな」と笑われるオチ。
身体ばっかり大きくなっても、舌は変わらず子供のままだと。
酒が飲めないチビのまま。
(…そういう体質、あるんだけれど…)
あるけれど、ごくごく少数派。
普通は飲めるものだから。
大人になったら、気に入りの酒の一つや二つはあるものだから。
(それに、地球のお酒…)
前のハーレイが飲んでいた酒は、合成の酒。
白いシャングリラで本物の酒は無理だったから。
今では酒は全て本物、おまけに地球の水で仕込まれたもの。
ハーレイからすれば「夢のような」酒で、素晴らしいのに違いない。
だからきっと、今のハーレイも…。
(ぼくと二人で飲むんだったら、前よりも、もっと…)
美味しそうに飲んで、ずっと幸せそうなのだろう。
「こんな酒を飲める時代が来るなんて」と。
もしも自分が酒好きだったら、「お前も飲むだろ?」と注いでくれて。
乾杯してから、二人で何度も重ねる杯。
ゼルやヒルマンたちがやっていたように、ボトルがすっかり空になるまで。
それが出来たら、と思うけれども、どうなのだろう?
(…今のぼくも、駄目…?)
前と同じに駄目なのだろうか、ハーレイと飲めはしないだろうか。
「美味しくない」と愚痴を零しながら一杯だけ飲んで、次の朝には二日酔い。
そういうコースが待っているだけで、楽しく飲めはしないのだろうか。
(…体質、変わっているといいんだけれど…)
サイオンが不器用になった代わりに、お酒は平気で飲めるとか。
美味しく飲めて、酔わないだとか。
そうだといいな、と夢を見る。
今度はハーレイと飲みたいから。
父にハーレイを盗られてしまって置き去りよりかは、ハーレイと二人。
「美味しいよね」と、「地球のお酒だね」と、幸せに杯を重ねたいから…。
飲めないぼく・了
※ハーレイとお酒が飲めそうもない、と溜息をつくブルー君。まだ子供なのに。
今度は飲めるといいんですけど、体質はきっと同じでしょうね。でも、飲みそうv
(今度もあいつは駄目なんだろうなあ…)
美味いんだが、とハーレイが傾けたグラス。
夜の書斎で、たまには一杯。気に入りの酒のボトルから。
こうして飲む日は、前のブルーの写真集を出しては来ない。
引き出しの中で、ゆっくり眠っていて貰う。
自分の日記を被せてやって、その下で。
『追憶』という名のソルジャー・ブルーの写真集。
表紙のブルーは、記憶そのままに美しいけれど。
真正面を向いた意志の強い瞳、その奥に秘めた憂いと悲しみ、かの人の真の姿だけれど。
眺めれば、やはり辛くなるから。
あの日、どうして止めなかったかと、悔やむ気持ちに囚われるから。
(…あいつと飲むと、悲しい酒になっちまうんだ…)
分かっているから、出しては来ない。
酒を楽しみたい時は。
寛いだ気分で飲みたい日には。
代わりに小さなブルーを眺める、フォトフレームの中の記念写真。
夏休みの最後に写した、今のブルーと二人の写真。
自分の左腕、ギュッと両腕で抱き付いたブルー。
それは嬉しそうな笑顔をしている、生まれ変わって来たブルー。
十四歳にしかならない子供だけれども、一人前の恋人気取り。
何かと言えばキスを強請るから、「駄目だ」と叱ってばかりのチビ。
今夜は、チビのブルーと一緒。
本物のブルーは、眠っているかもしれないけれど。
(起きていたって、酒は無理だしな?)
子供には飲ませられない酒。
教師の自分が勧めるなどは論外だから、飲ませようとも思わない。
それに、ブルーは…。
(…前のあいつと同じだったら、酒は間違いなく駄目なんだ)
飲んだら確実に二日酔いだ、と前のブルーを思い出す。
そういう思い出は、悲しくなりはしないから。
幸せだった日々を思い返して、懐かしむ酒になるのだから。
(あいつときたら、まるっきり駄目で…)
飲めなかった、と思い浮かべたソルジャー・ブルー。
誰よりも愛した、気高く美しかった人。
皆の前では我儘などは決して言わない人だったけれど。
恋人だった前の自分には、無茶も我儘もぶつけたりした。
それが余計に愛おしくなって、愛しさが増して。
(俺にだけ見せてくれるんだ、って…)
我儘なブルーが好きだった。
無茶を言われても、駄々をこねるように我儘ばかりを繰り返されても。
その我儘の一つが酒。
まるで飲めないと分かっているのに、いったい何度強請られたことか。
「ぼくも飲むよ」と、「君ばかり美味しそうに飲むんだから」と。
けれど、酒には弱かったブルー。
酒の美味さも分かっていなくて、飲めば必ず不満そうな顔。
「何処が美味しいのか分からないよ」と、文句まで。
せっかくの酒がもったいないから、無駄にしたくはなかったのに。
いくら合成の酒といえども、喜ぶ人と飲みたかったのに。
(ヒルマンとかゼルなら、美味い酒で、だ…)
話も弾んだ、時には何かをつまみながら。
つまみが無くても、酒さえあれば。
ところが、前のブルーの場合。
注いでやった酒には「美味しくない」と文句をつけるし、喜びもしない。
美味しくないなら、残りは寄越してくれてもいいのに…。
(意地になって全部飲んじまうんだ)
如何にも不味そうといった感じで、ちびちびと。
苦い薬でも飲むかのように。
(酒は百薬の長なんだがな?)
前のブルーにそう言ったならば、「その通りだね」と返しただろう。
これだけ不味い薬だったら、さぞかし身体にいいのだろうと。
「でも、この薬は人を選ぶね」とも。
なにしろ酒に弱いのだから、ブルーの場合は薬になりはしなかった。
さながら毒薬、待っているものは二日酔い。
酷い頭痛や、胸やけやら。
飲んだ翌朝は寝込むのが常で、ベッドの中から文句を述べた。
「酷い気分で起きられやしない」と、「頭もずいぶん痛むんだけど」と。
一度で懲りて二度と飲まなくなったのだったら、まだ分かる。
きっと本当に不味いのだろうと、ブルーには向かない飲み物らしい、と。
(なのに、あいつは懲りるどころか…)
何度も強請って酒を飲んでは、酷い目に遭ったとブツブツ文句。
ブルーは頑固だったから。
強固な意志は結構だけれど、前の自分と二人きりの時は…。
(そいつが我儘な方へ向くんだ)
前の自分にだけ見せてくれた姿。
仲間たちには見せない姿。
そのせいもあって、ついつい注いでしまった酒。
強請られるままに、「無駄にされる」と分かっていても。
飲んでいる時から不味そうな顔で、次の朝には苦情が来ると分かっていても。
ブルーに「ぼくにも」と強請られた時は。
「一緒に飲むよ」とせがまれた夜は。
何度となく無駄にされた酒。
前のブルーが文句ばかりを言っていた酒。
それが鮮やかに思い出せるから、今のブルーにも期待はしない。
前のブルーとそっくり同じに育つ予定のチビだから。
(今度は頑張る、と言ってるんだが…)
どうなることやら、と眺める写真。
とびきりの笑顔の小さなブルー。
(ハーレイをパパに盗られちゃう、っていうのがなあ…)
その発想からして子供なんだ、とクックッと笑う。
もしもブルーが飲めなかったら、酒を飲むならブルーの父と。
きっとそうなることだろう。
いつかブルーと結婚したなら、新たに増える自分の家族。
ブルーの父と、それから母と。
その人たちとの食事ともなれば、酒が出ることもあるだろうから。
今のブルーが飲めないのならば、ブルーの父と酌み交わす酒。
小さなブルーは、それが腹立たしいらしい。
「ハーレイをパパに盗られる」と。
そうならないよう、頑張ると言っていたブルー。
「今度は飲めるようになるよ」と、「ハーレイとお酒を飲むんだから」と。
「前のぼくとは体質も変わっているかもね」と、小さなブルーは夢見るけれど。
恐らく前と同じだろう。
「美味しくないよ」と不味そうに飲んで、翌日は二日酔いだろう。
だから今度も、きっと文句を言われながらの酒なんだ、と眺めた写真。
十四歳の小さなブルー。
いつか大きく育ったとしても、お前は酒は駄目だろうな、と。
(美味いんだがなあ…)
それに今では本物の酒。
シャングリラで暮らした頃とは違って、正真正銘、本物の酒。
合成どころか、地球の水で仕込んだ素晴らしいもの。
前の自分が耳にしたならば、「一度は飲みたい」と考えたのに違いない。
一番安いものでいいから、ほんの一口、と。
(もう最高の美酒ってヤツで…)
きっと一口で美味しく酔えたことだろう。
アルコール分とは関係無く。
「地球の酒だ」と、その有難さを思っただけで心地良く。
そういう酒が今は山ほど、あちこちの場所で仕込まれる名酒。
味も種類も選び放題、それこそ料理や気分に合わせて。
「今日はこれだ」と気まぐれに。
出掛けた店でも、好き放題に。
酒好きだった前の自分からすれば、今はさながら天国のよう。
本物の酒で、地球の酒。
それを何処でも気軽に飲めて、自分の家でも傾けられる。
(ゼルやヒルマンを呼んでやれたら…)
大喜びするに違いない。
遠い昔の飲み友達。
彼らと夜の巷に繰り出し、あちこちハシゴするのもいい。
「次はあっちだ」と店を移って、大いに飲んで、大いに食べて。
つまみも全て地球のものだし、最高の酒を楽しめるのに…。
(…あいつらはいなくて、酒が駄目なブルー…)
もったいない、と零れた溜息。
また俺は酒を無駄にするのかと、素晴らしい地球の酒なのにと。
ブルーにとっては猫に小判で、「不味い」と言われるだけなのかと。
(…苦手を克服、と挑まれてもなあ…)
その酒はきっと無駄になるんだ、と酒の神様に詫びたい気持ち。
青く蘇った地球で、数々の酒が造られるのに。
神様が醸して下さった美酒を、ブルーが無駄にするらしい、と。
(きっと今度も駄目だろうしなあ…)
まず飲めないな、と思った酒。
小さなブルーが育ったとしても、前のブルーと同じだろうと。
地球の水で仕込んだ最高の美酒も、「不味い」と嫌われてしまうのだろうと。
なんとも寂しい話だけれども、そんなブルーも愛おしい。
「美味しくないよ」と顔を顰めても、無理をして飲んで二日酔いでも。
けれど、少しだけ夢を見る。
もしもブルーが今度は酒を飲めたなら、と。
(家で飲むのも悪くないんだが…)
ゼルやヒルマンと出掛けたいように、ブルーと飲みに行けたなら。
「次はあっちだ」と店をハシゴし、大いに酒を酌み交わせたら。
きっと愉快で、楽しい夜になるのだろう。
恋人同士なことも忘れて、遠い昔に友達同士だった頃に戻って。
バンバンと肩を叩き合っては、「次に行こうか」と飲み歩いて。
ほんの少しだけ、夢を見る。
「そんなブルーもいいだろうな」と、「どう考えても無理なんだがな」と…。
飲めないあいつ・了
※お酒が駄目だったソルジャー・ブルー。今のブルー君もきっと駄目なのでしょう。
でも、飲むことが出来たなら…、とハーレイ先生が思うのも無理はありませんよねv
「ねえ、ハーレイ。お話には作者がいるんだよね?」
どんなお話でも、と小さなブルーが投げた質問。小鳥のように首を傾げて。
「そりゃまあ、なあ? …書くヤツがいなけりゃ、話は出来んし」
もっとも、長い年月が流れる間に、誰が書いたか分からなくなる話も多いが…。
かぐや姫の話みたいにな。
日本で最初の物語なのに、作者が不明なんだから。
「そうなんだ…。じゃあ、ぼくたちを書いてる人は?」
どんな人なの、ハーレイだったら分かるかなあ、って…。
一応、日本の人みたいだから。
「おいおいおい…。これは古典になれそうか?」
そもそも、物語ですらないぞ。二次創作っていうヤツだ。
ちゃんとした古典で名を残すんなら、オリジナルの方に行かんとな。
「ふうん…? やっぱり、ハーレイ、知ってるわけ?」
ぼくには全然分からないけど、これを書いてるのが誰なのか。
なんとなく、お話にされてるみたいな気がするだけ。
…何処かで誰かが書いてるよ、って。
「俺も似たようなモンなんだがな…。其処は職業柄ってトコか」
どうにも気になる、と思いながら寝たら、夢を見た。
俺たちのことをせっせと書いてる、誰かの後姿ってヤツを。
「後姿…?」
「うむ。生憎と顔は見えなかったな」
こっちを向いてはくれなかったもんで、どんな顔だかサッパリだ。
ああ、こいつだな、と思っただけで。
なんとも愉快な夢だったが、とハーレイは可笑しそうだから。
二次創作だの、オリジナルだのと、妙な言葉も鏤めるから。
「夢のお話、いったい何が楽しかったの?」
後姿で、顔も分からなかったんでしょ?
面白い人かどうかも、それだと分からないんじゃない…?
「それがだ、なんとも不思議なことに…。ナレーションつきの夢だったわけで」
どうして俺たちを書いているのか、その説明がついて来た。
聞いた途端に俺は吹き出したぞ、「トマトだった」と言うんだから。
「トマト?」
ちょっと待ってよ、トマトって…。
野菜のトマトで、真っ赤なトマト?
トマトジュースのトマトのことなの、そのトマトなの?
「耳を疑ったが、野菜のトマトだ。もう吹き出すしかないだろうが」
お前にとっては、少し気の毒ではあるんだが…。
俺が笑えるのも、お前が帰って来てくれたお蔭というヤツだが。
「えーっと…?」
どうして、ぼくが気の毒なの?
トマト、嫌いじゃないけれど…?
好き嫌いはちっとも無いんだから。前のぼくと同じで。
ハーレイもそうでしょ、食べ物でとっても苦労したから。
トマトの何処が気の毒なの、とキョトンとしている小さなブルー。
そういえば…、とハーレイも直ぐに気が付いた。
「そうか、お前はナスカじゃ眠っていたからなあ…」
あそこのトマト自体を知らんか、そりゃあ見事に実ってた。
それでだ、前のお前が死んじまった後に、ゼルがだな…。
涙を流しながらトマトを齧って、こう言ったんだ。
「こんなに美味かったんじゃなあ…。ハロルド」と、ナスカで死んだ仲間にな。
「ハロルド…。ツェーレンのお父さんだっけ?」
ぼくもハロルドは知ってたけれども、眠っちゃってたから…。
死んじゃったハロルドは可哀相だけど、ぼくとは直接、関係無いよ?
「そこが問題だったんだ。前の俺たちは、前のお前を失くしちまったのに…」
偉大なソルジャー・ブルーを失くした、そういう場面だったんだ。
なのに「ハロルド」と言ったのがゼルで、俺が夢で見た人間はだな…。
「ちょっと待て、テメエ!」と叫んだらしいな、その瞬間に。
なんでトマトでハロルドなんだと、其処はソルジャー・ブルーを悼む所だろうと。
前の俺たちの人生ってヤツは、アニメになってたらしいんだ。
しかも土曜の夕方六時からという、とても有名な枠ってヤツで。
だからだ、俺たちを書いてる人間は、そいつで全部見ていたんだな。
前のお前が死んじまったのも、ゼルがトマトを齧ったのも。
「うーん…。ぼくはトマトでも気にしないけど?」
それにハロルドでも、いいと思うけど…。命の重さは誰でも同じ。
「お前なら、そう言うんだろうが…」
俺たちを書いてるヤツにしてみれば、そうじゃなかった。
よくもソルジャー・ブルーをコケにしたなと、トマトのくせに、とブチ切れたんだ。
それ以来、トマトの恨みを抱き締めて生きていたらしい、とハーレイはクックッと笑う。
どうしても許せないのがトマトで、誰かなんとかしてくれないかと思った人間。
せっせと探し回るのだけれど、誰もトマトを書いてはいなくて、怒り続けて。
大きなトマトは腹が立つからと、大好物だったスタッフドトマトにもムカつく有様。
けれど時間は流れてゆくから、前の自分たちのアニメは忘れられていって。
二次創作をする人たちも消え去っていって、それっきり。
トマトの恨みは晴らせないまま、スタッフドトマトにムカつく夏が幾つも過ぎて…。
「とうとう自分で書いちまったそうだ、トマトの恨みを晴らす話を」
しかし、未だに世に出せんとかで、ストックで抱えているらしい。
それよりも後に書いちまった話は、フライングで出したらしいんだが…。
よりにもよって、俺がキャプテンになると決めた話をポンと気前よく。
「…なんでトマトを出さなかったわけ?」
「さあなあ、何か考えがあったのかどうかは知らないが…」
とにかくトマトだ、それが原動力だったらしい。
今じゃすっかり恨みを忘れて、ノホホンと書いてるらしいんだが…。
「読んだ人がムカっと来ない話を」と、「幸せになってくれればいいな」と。
自分がトマトで苦しんだもんで、そういうポリシーらしいんだな、うん。
要はトマトだ、と聞かされたブルーは驚いたけれど、所詮は夢のお話だから。
ハーレイが夢で聞いた話で、本当かどうかは分からないから…。
「あのね…。ぼくたちのお話、ホントに誰かが書いてると思う?」
夢に出て来たトマトの人って、本当に何処かにいるのかな…?
「俺にも分からん。古典の作者が分からないのと同じでな」
しかしだ、もしも誰かが書いているなら、トマトの人なら愉快じゃないか。
前のお前には少し気の毒だが、トマトが原動力だなんてな。
「そうだね、トマトで書きまくるんだものね…」
よっぽどスタッフドトマトが好きな人だったんだね、美味しく食べたくて頑張ったんだね。
好きだった食べ物で腹が立つなんて、凄く悲しいだろうしね…。
「そいつは分かるな、俺も酒でそういう目に遭ったなら…」
泣けてくるしな、原動力にもなるだろう。
下手の横好きでも、この際、書いて書きまくろうと。
今はスタッフドトマトを美味しく食べているそうだからな、俺が夢で見た人間はな。
「そっか、良かった…」
全部ハーレイの夢のお話でも、ちゃんとハッピーエンドだね。
大好物だったスタッフドトマトを、美味しく食べられるようになったんなら…。
ホントに良かった、と小さなブルーは嬉しそうだから。
妙な夢でも見た甲斐はあった、とハーレイも顔を綻ばせる。
何処かにいるかもしれない作者。
自分たちの恋物語をせっせと書いている人間。
そういう人間が本当にいるなら、トマトを美味しく食べてくれと。
スタッフドトマトを食べまくってくれと、ムカついていた時の分まで取り返せよ、と…。
始まりはトマト・了
※何故だか来てしまったお笑いなネタ。書くしかなかろう、と書いちゃいました。
これは本当にあったお話です、始まりはトマトだったんです~!
(うーん…)
凄く有名な本なんだけど、と小さなブルーがついた溜息。
とんでもないことになっちゃったよね、と。
今のハーレイが教える古典も、凄いものではあるけれど。
(SD体制の時代なんかより、ずっと昔で…)
人間が地球しか知らなかった時代に書かれた読み物。
宇宙船など飛んでいなくて、水に浮かぶ船しか無かった時代。
それでも人は文字を綴って、物語や歌を作ったから。
今も読まれる、遠い昔の物語。
それを教えているのがハーレイ、今は普通の古典の教師。
キャプテン・ハーレイにそっくりなだけの、多分、ごくごく平凡な。
特別だとしたら、柔道と水泳の達人なこと。
プロになれると言われた腕前、それは全く落ちてはいない。
(…でも、それ以外はホントに普通…)
柔道や水泳が好きな人なら、ハーレイの名前でピンと来るかもしれないけれど。
古典の教師としての道では、本当に普通なのだろう。
研究者ではないし、個人的にも何もやってはいないから。
論文を書くとか、発表するとか、そういったこと。
ハーレイは何もしてはいなくて、古典の教師をしているだけ。
遠い昔の物語などを挙げていっては、「有名なんだぞ」とクラスを見回して。
授業で習った、源氏物語や枕草子。
他にも色々、日本の古典。
今の自分が住んでいる地域に暮らす人なら、誰でも名前を知っているもの。
(そっちは当たり前なんだけど…)
時の流れを越えて残っても、きっと当然だと思う。
それが生まれた時代からずっと、多くの人に読まれて来たから。
何度も何度も書き写されては、後の時代に残されたから。
(…印刷が無かった時代だもんね?)
自分の手元に置きたかったら、書き写すしかなかった時代。
一番最初に書かれたものを、そっくりそのまま。
自分で写すか、プロに頼むか。
どちらかの道を選ばなければ、本など持てはしなかった。
そんな時代に大勢の人が「素晴らしい」と思ったからこそ、名作は時を越えられた。
沢山の人が称賛し続け、書き写して残し続けたから。
(消えちゃった本も、きっと沢山…)
書かれたとしても、誰も欲しいと思わなかったら、それっきり。
最初に書かれた物が古びて駄目になったら、消えておしまい。
幾つもの本がそうやって消えて、いい物だけが今に残った。
生まれた時から、既に名作だったから。
大勢の人が「欲しい」と願って、書き写して残したのだから。
(そういう本なら、分かるんだけど…)
今の時代に残っているのも、有名な本になっているのも。
少しも不思議に思わないけれど、なんとも謎な代物が一つ。
古典の授業には出て来ないけれど。
名前が出るのは歴史の授業で、必ず名前を教わる本。
(…扱いだけだと、古典とおんなじ…)
授業で聞く時は、そうだから。
「源氏物語や枕草子はこの時代です」と、教えられるのと変わらない。
それがハーレイの航宙日誌。
キャプテン・ハーレイが書き続けていた航宙日誌で、超一級の歴史資料。
初代のミュウの歴史を知るには、他に資料が無いのだから。
おまけに手書きで残されたもので、研究者たちの垂涎の的。
一流と呼ばれる学者でなければ、本物を見られはしないから。
(見る時は、きっと…)
白い特別な手袋をはめて、マスクだって要ることだろう。
長い長い時を越えて来たそれを、損なうことがないように。
次の時代の研究者たちも、同じように繰って読めるように、と。
初代のミュウたちの日々を記した、唯一の本。
長く後世に残すためには、傷をつけてはならないから。
そうっと、慎重に繰られるページ。
研究者だけが立ち入れる書庫の奥の一室、其処でそうっと、一ページずつ。
いつの間にやら、そういうことになっていた。
前のハーレイが書いた航宙日誌。
「俺の日記だ」と隠し続けて、一度も読ませてくれなかった日誌。
覗こうとする度、大きな身体の陰に隠して。
(前のぼく、一度も読んでないのに…!)
ホントに読めなくなっちゃったんだけど、と零れる溜息。
前の自分は仕方ないけれど、今の自分は別だと思う。
生まれ変わって別の人間、中身は前と同じだとしても。
それにハーレイも別の人間、隠す権利はもう無いだろう。
キャプテン・ハーレイの航宙日誌は、前のハーレイが書いていたもの。
「俺の日記だ」は通らないと思う、今のハーレイとは違うのだから。
(今のハーレイの日記だったら、駄目だろうけど…)
そうじゃないのに、と残念でたまらない航宙日誌。
今なら自分も読めるだろうに、あまりにも変わりすぎた状況。
超一級の歴史資料になってしまった航宙日誌。
読んでみたいなら、研究者になる他はない。
キャプテン・ハーレイの航宙日誌を、子細に読み込む研究者たち。
一流とされる学者だけしか、本物の日誌は扱えない。
手袋をはめて、マスクも着けて。
保管庫の奥の特別な書庫で、多分、許可証なんかも見せて。
こんなことなら、コッソリ読めば良かっただろうか?
前の自分が生きていた頃に、キャプテンの部屋に忍び込んで。
(…前のぼくなら、簡単だしね?)
ハーレイが部屋に鍵をかけても、前の自分には意味のない鍵。
瞬間移動でスッと入って、きっと好きなだけ読めただろう。
「今日はこの辺り」と引っ張り出しては、前のハーレイの日記とやらを。
いったい何が書いてあるのかと、読む度に興味津々で。
時には怒っていたかもしれない、「この書き方は酷いと思う!」と。
(…前のぼくのこと、なんにも書いていないって…)
ハーレイはそう言ったから。
前のハーレイは何も言わなかったけれど、今のハーレイからそう聞いた。
「俺の日記だ」と隠し続けた航宙日誌。
其処に全く書かれてはいない、前の自分との恋の思い出。
ほんの小さな欠片でさえも。
だから今でも、誰も気付いていない恋。
キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーの恋は、今も変わらず隠されたまま。
何も書かれていなかったから。
どんなに細かく読み込んでみても、書かれていないことは読み取れないから。
前の自分が知っていたなら、きっと怒ったことだろう。
「ぼくのことは?」と。
前のハーレイに詰め寄っただろう、「ぼくはどうでもいいのかい?」と。
船のことやら、仲間たちのこと。
そういったことは書いてあるのに、書かれてはいない恋のこと。
甘い言葉の欠片さえも無くて、想いの欠片も無いのだから。
(…ハーレイ、酷い…)
あんなに何度も隠していたから、きっと素敵な中身だろうと思ったのに。
前の自分に読まれたならば、恥ずかしくなるようなハーレイの想い。
それが書かれているのだろうと。
大真面目に日誌を書いているふりで、恋の欠片も鏤めるのだと。
(…そう思ったから、読まなかったのに…)
前のハーレイの心の中まで、覗き見るのは悪いから。
決して心を読まないのならば、ハーレイが綴る日記も同じ。
「お読み下さい」と差し出されるまでは、開くべきではないだろう。
時が来たなら、ハーレイはきっと「どうぞ」と渡してくれるから。
それを読んでもかまわないなら。
読んでいい日が訪れたなら。
(…きっと素敵な中身なんだ、って…)
夢見ていたのに、外れた予想。
前のハーレイが書いていたものは、恋の欠片も無い日誌。
こんなことなら読めば良かった、そして怒ってやれば良かった。
「ぼくのことは何処に書いてあるわけ?」と、「これは日記じゃないようだけど」と。
今頃になって、触れもしないオチならば。
超一級の歴史資料になってしまって、手も足も出なくなるのなら。
(…書いたハーレイだって、読めないんだけど…)
ただの古典の教師では無理。
今の自分と全く同じで、読もうとしても門前払い。
けれど、ハーレイは奥の手を持っているらしい。
研究者よりも凄い才能、書き手だったからこそ使える才能。
(…元の字を見たら、読めるって…)
データベースで無料で見られる、航宙日誌の文字をそのまま写したもの。
其処に書かれた文字を見たなら、ハーレイには全て分かるという。
どんな思いでそれを書いたか、その日には何があったのか。
文字がハーレイに伝えるらしい、秘密の中身。
ハーレイだけが読み取れる日記。
それもぼくには読めやしない、とガッカリするのが航宙日誌。
超一級の歴史資料で、本物にはとても触れられなくて。
前のハーレイが文字の向こうに閉じ込めた想い、それも自分には読み取れなくて。
(…やっぱり、読んでおけば良かった…?)
読み放題だった、前の自分の頃に。
航宙日誌が超一級の歴史資料に出世する前に、コッソリと。
そして怒れば良かっただろうか、「ぼくのことは?」と。
「何処にも書いていないじゃないか」と、「恋人なのに!」と。
なまじ出世を遂げたばかりに、なんとも悔しい航宙日誌。
読めば良かったと、今のぼくには読めないのに、と。
(名作だったら許すんだけど…!)
そうではないと分かっているから、「なんで?」と零れてしまう溜息。
どうして日誌が出世するの、と。
お蔭でぼくは読めやしないと、出世しちゃうなんて酷すぎるよ、と…。
出世してる日誌・了
※名作だったら許すんだけど、とブルー君が怒る航宙日誌の出世ぶり。
ハーレイ先生、いつか解説させられそうですねえ、復刻版を買わされちゃって…v
(…とてつもなく出世しやがって…)
こんな筈ではなかったんだが、とハーレイが見詰める自分の日誌。
今のではなくて、前の自分の。
キャプテン・ハーレイだった頃に記した航宙日誌。
夜の書斎で、懐かしい文字を。
手で触れることは出来ないけれど。
本物は此処にあるわけがなくて、今の自分が手に取ることさえ…。
(出来なくなったと来たもんだ)
俺とは違って偉いんだから、と苦笑しながらコーヒーを一口。
愛用の大きなマグカップ。
それにたっぷり、熱いコーヒー。
今の自分はただの教師で、キャプテン・ハーレイに似ているというだけ。
「生まれ変わりか?」と尋ねられるほど、瓜二つというだけの一般人。
こうして飲んでいるコーヒーの銘柄、それさえ誰も気に留めない。
これがキャプテン・ハーレイだったら…。
(まず間違いなく質問攻めだな)
いつもコーヒーを飲んでいるのか、コーヒーと紅茶、どちらが好きか。
気に入りのコーヒーの銘柄は…、と色々と訊かれることだろう。
そして答えはアッと言う間に、宇宙に広がり…。
(誰かが余計な記事を書くんだ)
俺についてか、シャングリラだか…、と傾けるコーヒー。
今の俺なら本当に誰も気にしないんだが、と。
ただの古典の教師の自分。
たったそれだけ、古典の分野で名を上げたというわけでもない。
ついでに日本の古典が専門、SD体制の時代なんかは全く縁が無い世界。
(どう転がっても、こいつには会えん)
確かに俺が書いたんだが、と追ってゆく文字は本物そっくり。
けれどデータで、指で触れても画面に指がつくというだけ。
(超一級の歴史資料じゃなあ…)
自分が全く知らない所で、そういうことになっていた。
前の自分が地球の地の底で命尽きた後、一人歩きした航宇日誌。
まさか出世を遂げるなどとは、夢にも思いはしなかった。
これを記していた頃には。
(…後のヤツらの参考になれば、と書いてたんだが…)
毎日、律儀に。
その日に起こった出来事を書いて、残しておいた自分の記録。
シャングリラのことや、ソルジャーのことや。
(…俺の日記ではあったんだ、うん)
簡潔に書いておいたけれども、読んだら思い出せるようにと。
気まぐれにパラリと開いた箇所から、「こうだったな」と蘇る思い出。
そうなればいいと思っていた。
いつか懐かしくそれを読めたらと、のんびりページを繰れたならば、と。
青い地球に辿り着いたなら。
ブルーと二人で、長かった旅を思い返せる時が来たなら。
けれど、訪れなかったその日。
ブルーは地球まで辿り着けなくて、暗い宇宙に散ってしまった。
メギドを沈めて、たった一人で。
前の自分も一人残され、魂は死んで生ける屍。
地球へ行かねばと、辿り着ければ自分の役目も終わるのだからと、それだけの日々。
航宙日誌は綴り続けたけれども、もう読み返しはしなかった。
読んだ所で意味は無いから。
愛おしい人は何処にもいなくて、ただ辛くなるだけだから。
「これを書いた頃はブルーがいた」と。
こんな風に二人で語り合ったと、ブルーは幸せそうだったと。
(…俺と一緒にいた時のあいつは…)
泣いていたこともあったけれども、いつも最後は笑顔だったから。
「君がいてくれるから、もう大丈夫」と、前のブルーは微笑んだから。
恋人同士ではなかった頃から。
仲の良い友達だった頃から。
ブルーとの日々が、思い出が詰まった日誌。
それを読み返せる筈もなかった。
ブルーを失くしてしまった後には、ただの一度も。
(…シャングリラのことなら、他にデータが残っていたしな?)
わざわざ日誌を開かなくとも、データベースを調べればいい。
あの時にはどう対処したかと、どう判断を下したのかと。
(それが効率的ってもんだ)
船を進めるだけならば。
シャングリラを地球まで運ぶだけなら。
(…あの船で生きてゆこうと言うなら…)
日誌にも意味はあるのだけれど。
船で起こった日々の出来事、それが書かれていたのだから。
例えば船に来たばかりのジョミー、彼がキムたちと喧嘩したこと。
赤いナスカに着いた後なら、初めての収穫があったこととか。
そういったことは、生きてゆくのに欠かせないこと。
喧嘩で荒れた心の波やら、収穫の時の喜びやら。
生きているからこその感情、シャングリラで暮らした仲間たちの記録。
後の時代にそれを開いて、「今も昔も変わらないな」と誰かが思ってくれればいい。
「俺たちはもっと上手くやれるぜ」でも、「まるで進歩が無いんだが」でも。
それも生きている証だから。
キャプテン・ハーレイの時代に思いを馳せる仲間たちは、「今」を生きるのだから。
そう思ったから、綴り続けた航宙日誌。
前のブルーを失くした後も。
魂は死んでしまっていたのだけれども、日々の出来事を。
シャングリラのことも、戦いのことも、ただ淡々と。
仲間たちの記録もそれまで通りに、今日はこういうことがあった、と。
(…そいつが出世しちまうなんてなあ…)
消えちまったなら分かるんだが、と眺める自分が書いた文字。
遠く遥かな時の彼方で、それはレトロな羽根ペンで。
自分くらいしか使わなかった、非効率的な文具の羽根ペン。
インクが勝手に出ては来ないし、切れれば浸してやるしかない。
文字の続きを綴るためには。
(そういう面でも良かったのか、あれは?)
もしも手書きで残してはおらず、データの形だったなら。
何処かで散逸したかもしれない、何かのはずみに破損するとか。
けれども、手書きだったから。
立派な表紙まで作られたほどの、キャプテン専用の日誌だったから。
(…間違って捨てることもないしなあ…)
日誌は時を越えただろうか、今の時代まで。
死の星だった地球が青く蘇り、人間が其処で暮らせる日まで。
どうしたことだか、前の自分の航宙日誌は残り続けた。
白いシャングリラが時の流れに連れ去られた後も、この宇宙に。
超一級の歴史資料になってしまって、今の時代まで。
(…お蔭で俺も読めるわけだが…)
こんな具合に、とデータベースに収められている日誌を眺める。
前の自分の文字をそのまま写した、そのデータを。
羽根ペンで記した文字の滲みも、掠れ具合も、弄ることなく。
(…この日のあいつが、見える気がするな…)
前の自分が愛したブルー。
気高く、美しかった人。
そうは書かれていないけれども。
日誌の中では、「ソルジャー」もしくは「ソルジャー・ブルー」。
一度も「ブルー」と綴ってはいない。
恋の欠片も、想いの欠片も、まるで記しはしなかった。
それでも文字を見るだけで分かる。
この日のブルーはどうだったのかと、どんな言葉を交わしたのかと。
特別なことが無かった日でも。
(…あいつは、いつも通りだったってことで…)
そういう日なら、きっと、こう。
ブルーの言葉は、ブルーが見せた表情は。
それを鮮やかに思い出せるから、こうして開いてみたくなる。
データベースに収められていて、誰でも読める航宙日誌を。
戯れにあちこち拾い上げたページ。
時の彼方で、読み返さないままで終わった日誌。
それをしたいと思わないままで、前の自分は死んだから。
いつか懐かしく読み返そうと思っていた日は、前の自分には来なかったから。
(…そいつを俺が読んでるわけで…)
書いておいた甲斐はあったんだが、とコクリと飲んだ冷めたコーヒー。
肝心の日誌は、手元には無い。
繰ったページは、指でめくったわけではなくて…。
(ちょいと操作しただけってのがなあ…)
相手はデータで、紙を綴じてはいないから。
そういう形で読みたかったら、今の時代は…。
(とんでもない金がかかるんだ、これが)
なにしろ相手は、超一級の歴史資料。
本物の航宙日誌に触れたかったら、その研究者になるしかない。
それも一流と言われるレベルに。
(…なんだって俺が研究なんかを…)
しなくちゃならん、と思うのだったら、復刻された航宙日誌を買うしかなくて。
(そいつが素敵に高いんだ…)
研究者向けと来やがった、と出世しすぎた航宙日誌に漏れる溜息。
ただの活字でいいのだったら、文庫本にもなっているのに。
前の自分の文字を見るには、とてつもなく高い復刻版を買うか、研究者になるか。
当分はデータベースでタダ見しとくか、と苦笑いする航宙日誌。
「ずいぶん出世しちまったな」と。
(…書いた俺でも手が出ないってのが…)
研究者になるか、大金を出すか、どちらも今の自分には…。
(うんと敷居が高すぎるってな)
ただの教師に過ぎないから。
大散財をして復刻版を揃えた所で、それを一緒に読みたい人は…。
(まだまだ家には来てくれないんだ)
失くしたブルーは帰って来たけれど、チビだから。
子供なのだから、航宙日誌は当分、タダ見。
いつかブルーと懐かしくそれを読める日が来たら、考えよう。
出世しすぎて、とんでもない値段の復刻版。
それを買おうかどうしようかと、出世しすぎた日誌の値段に躊躇いつつも…。
出世した日誌・了
※ハーレイ先生では、手も足も出ないキャプテン・ハーレイの航宙日誌。
自分の日記を読み返すのに苦労しているみたいです。平和な時代ならではですよねv
