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(やっちゃった…)
 ぼくの大馬鹿、と小さなブルーがついた溜息。
 ハーレイが訪ねて来なかった日の夜、自分の部屋で。
 お風呂上がりにパジャマ姿で、広げた本を手にしたままで。
(…まだ最後まで読んでいないのに…)
 こんな酷いことになっちゃうなんて、と眺めたページ。
 半分に折れてしまったページ。
 元に戻しても、ページにくっきり残った折り皺。
 此処で折れたと、本を乱暴に扱うからだ、と言うように。
(…ママが、お風呂、って…)
 「お風呂の時間よ」と呼びに来た母。
 勉強机で本の世界に入り込んでいたら、扉を軽くノックして。
 時計を見れば、そういう時間。
 呼ばれたら直ぐに行くのが「いい子」で、おまけに読書中だったから。
(…もうちょっとだけ、って思ったら…)
 アッと言う間に時間が流れて、「何をしてるの?」と母が覗きに来るだろう。
 「今日はお風呂に入らないの?」と、「何処か具合が悪いの?」と。
 お風呂は好きだし、病気の時でも入りたいくらい。
 本を読むのも好きだけれども、お風呂の時間も捨て難い。
 だから「エイッ!」と諦めた本。
 キリのいい所まで読もうとはせずに、「今は此処まで」とページの途中で。
 お風呂の後でゆっくり読もうと、湯冷めしない程度の時間まで、と。
 そう思ったから、栞は無し。
 「此処までしか読んでいないから」と、机の上に伏せた本。
 読んでいたページを開いたままで。
 手に取った時に、そのまま続きを読めるようにと。


 熱いお風呂にのんびり浸かって、戻った二階の自分の部屋。
 さっきの続き、と伏せておいた本を手にしたら…。
 半分に折れていたページ。
 普段はそのまま伏せはしないから、まるで注意していなかった。
 「後で」とポンと置いて行っただけ、本には注意を払わなかった。
 気を付けて置いてやらなかったら、こういうことになってしまうのに。
 ページが曲がってしまっていたなら、其処から折れてしまうのに。
(…真っ二つ…)
 丁度真ん中、そんな風についてしまった折り皺。
 折れたページを元に戻しても、元通りにはなってくれない紙。
(…ちゃんと栞を挟むとか…)
 でなければ閉じておけばよかった、どのページかを覚えておいて。
 何ページ目、と隅に刷られた数字を。
(…目印だって、ちゃんとあったのに…)
 折れたページの隣のページ。
 其処に挿絵が載っているから。
 何ページ目かを忘れていたって、挿絵で気付くだろうから。
 「此処まで読んだ」と、「この絵だった」と。
 それに、挿絵の隣のページ。
 其処にくっきり残された皺は、もう悲しいとしか言いようがない。
 挿絵のページが入るほどだし、本の山場の一つだから。
 文字が紡ぎ出す物語の世界、それが盛り上がるシーンの一つ。
 こういう具合に本の世界を眺めて欲しい、と素敵な挿絵が入るのに。
 登場人物は今、此処にいるのだと、周りの景色はこんな世界、と。
 本全体でも、それほど多くは無いだろう挿絵。
 余計に悔しくなる失敗。
 最高のページを台無しにしたと、ぼくが失敗しちゃったから、と。


 本を伏せてお風呂に出掛けた時には、浮き立つ気分だったのに。
 お風呂が済んだら続きを読もうと、とても楽しみだったのに。
 部屋に戻って、手に取る時も。
 続きは椅子に座って読もうか、それともベッドで読もうかと。
(…ホントにワクワクしてたのに…)
 今夜は何処まで読めるだろう、と。
 物語の世界はどうなってゆくか、主人公たちは何処へ行くのか。
 どういう話が紡がれるのか、今夜の自分は何処までそれを見られるだろう、と。
 けれど、開いたら戻れる筈だった世界と物語。
 本を手にしたら直ぐに入れて、其処に流れる時間が始まる筈だったのに…。
(……折れちゃった……)
 ページが駄目になっちゃった、と指で撫でても、消えてくれない折れた後の皺。
 ガックリとベッドに腰を下ろして、穴が開くほど眺めても。
 膝の上に置いた本のページをいくら見詰めても、折れたページは戻せない。
 ピンと伸びた元のページには。
 皺一つ無かったシャンとしたページ、それは戻って来てくれない。
 何度も読んでいた本だったら、まだ幾らかはマシなのに。
 同じように気が緩んでいたって、同じ失敗をやらかしたって。
 「仕方ないよね」と諦めはつく。
 「もう何回も読んだんだから」と、「何度も読んだら、本も傷んでくるものね」と。
 酷い折り皺は出来ないとしても、表紙や、本の開き具合といったもの。
 繰り返し読めば、それは自然と表れるから。
 そういう本に皺が出来ても、悔しい気持ちは同じだけれど…。
(…まだ読んでいない本よりはマシ…)
 傷一つ無いのを、何度も読んで来たのだから。
 自然と表紙がくたびれるくらい、お気に入りのページが直ぐ開くくらい。


 なのに、自分が失敗した本。
 パジャマに包まれた膝の上の本、最後まで読めていない本。
 手に入れたばかりで、今が最高に素敵な時間。
 どんな世界が待っているのか、物語はどう進むのかと。
 今夜の間に読み切れなければ、続きは明日に。
 明日でも無理なら、明後日まででも、その先までも。
 物語の世界の旅は続いて、本を楽しむ筈だったのに。
 今だって続きに入り込もうと、胸を高鳴らせて手に取ったのに…。
(…このページ、まだ半分も…)
 読めていないのに、くっきり折り皺。
 よりにもよって、山場の一つで。
 挿絵に描かれた場面がそっくりそのまま、綴られているだろうページの途中で。
(…こんなの、酷い…)
 どうして栞を挟まなかったか、ページを覚えて閉じなかったか。
 そうしておいたら、ページは折れなかったのに。
 開いたら直ぐに、本の世界に飛び込めたのに。
(…いつもだったら、ちゃんと栞とか…)
 栞の無い本だった時には、メモ用紙を挟み込むだとか。
 ページの数字を覚えておくとか、そうやって本を閉じるのに。
 開いたままで伏せて行きはしなくて、こんなことにはならないのに。
(大失敗…)
 ホントに失敗、と悲しい気持ち。
 話の続きを読み進めるには、とても向かない気分の自分。
 本当だったら、今頃は本の世界の中にいたのに。
 物語の登場人物と同じ世界を、時間を旅する筈だったのに。


(…ママが「お風呂よ」って呼びに来た時に…)
 戻りたいよ、と眺めた時計。
 時間が逆さに流れたら。時計の針が戻ってくれたなら。
(…この本、ちゃんと閉じるのに…)
 机の上に伏せておかずに、栞を挟んでパタンと閉じる。
 物語の世界も閉じるけれども、また開いたらいいだけのこと。
 栞を挟んだページを開いて、「此処からだっけ」と見付ける続き。
 途切れる流れはほんの少しだけ、じきに物語の世界に戻れる。
 栞を挟んだことを忘れて、一度は閉じたことも忘れて。
(戻りたいな…)
 一時間ほどでいいんだから、と思った時間。
 母が「お風呂よ」と呼びに来るまで、自分が本を伏せる前まで。
 そしたら、大切に閉じてゆく本。
 折り皺なんかはつかないように。
 まだ読めていないページの真ん中、くっきりと皺がつかないように。
(…ホントに、ちょっぴり…)
 こうなる前まで戻りたいよ、と思い浮かべたタイムマシン。
 夢物語の機械だけれども、それがあったら戻れるのに、と。
 ちょっと戻って慎重にやれば、こんな折り皺は出来ないのに、と。
(…戻りたいよね…)
 タイムマシンで、と溜息をついて見下ろすページ。
 この皺が消えてくれたなら、と。
 まだ最後まで読めていないのに、なんてことをしちゃったんだろう、と。


 そうは思っても、タイムマシンは今も無い。
 前の自分が生きた頃から、途方もない時間が流れ去ったのに。
(…あれって、作れないのかな?)
 いつまで経っても夢の機械のままなのかな、と思った途端に掠めた記憶。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が考えたこと。
 「戻りたいよ」と、溜息をついて。
 天体の間の階段に腰を下ろして。
(……眠ったままでも……)
 眠り続けて目覚めないままでも、それで良かった、とチラリと思った。
 十五年もの長い眠りから目覚めた後に。
 間近に迫ったハーレイとの別れ、命の終わりを悟った時に。
 自分の役目は分かっていたから、行くよりも他に無いけれど。
 死へと向かうしかないのだけれども、戻れるものなら戻りたいよ、と。
 こうして自分が目覚める前に。
 永遠にそれを繰り返すとしても、ハーレイと離れずにいられるのなら、と。
 いつまでも此処にいられるのなら、と。
(…ホントにチラッと考えただけ…)
 駄目だと自分で打ち消したけれど、あの時、一瞬、魅せられた夢。
 目覚める前に戻れたならばと、この道を行かずに済むのならと。
(あれに比べたら…)
 本のページについた折り皺、それは本当に些細なこと。
 時間を戻ってやり直すなんて、ただの小さな子供の我儘。
 ページに折り皺がついてしまっても、物語の時間は終わらないから。
 前の自分の時間と違って、ちゃんと続いてゆくのだから。


(…我儘、言っちゃ駄目だよね…)
 きっとハーレイにも叱られちゃうよ、と指先でそっと撫でた折り皺。
 前の自分が失くしてしまった、命の続き。
 それを幸せに生きているから、こんな失敗だってする。
 だから我慢、と我儘は言わないことにした。
 今の自分は幸せだから。
 時間を戻して生きていたいと願わなくても、戻りたかった時間の続きを生きているから…。

 

         戻りたい時間・了


※ブルー君がやった、大失敗。読み始めたばかりの本のページに折り皺、いい場面なのに。
 ショックみたいですけど、前の自分を思い出したら…。タイムマシンは要りませんよねv





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(うーむ…)
 やっちまった、とハーレイが零した大きな溜息。
 俺としたことが、と眺めたテーブル。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後のダイニングで。
(ちょいとお洒落に、と思ったのにな…)
 なんだってこうなるんだか、とゴシゴシと拭いたテーブルの上。
 見事に零れてしまったコーヒー、コーヒーの色に染まった新聞。
 読みかけの記事はコーヒーの色で、他の部分もコーヒー色。
 すっかり零してしまったから。
 デミタスカップに淹れたコーヒー、今は空っぽのデミタスカップ。
 ソーサ―の上に零れて溢れて、テーブルの上まで流れたのだから。
(…いつものカップにすれば良かった…)
 愛用の大きなマグカップ。
 それにたっぷり熱いコーヒー、夜のひと時のお決まりのコース。
 書斎で飲むか、ダイニングにするか、リビングに行くかの違いくらいで。
(…たまには、と思ったのが間違いの元で…)
 どうしたわけだか、少しお洒落に飲みたくなった食後のコーヒー。
 ちょっと気取った店で食べたら、食事の後でテーブルに置かれるデミタスカップ。
 そんな気分で、と考えた。
 夕食は普通の献立だけれど、今日はお洒落に締め括ろうと。
 いそいそとカップを用意して。
 来客の時に使う質のいいもの、それにしようと。
 選んだカップに注いだコーヒー、其処までは良かったのだけど。
 テーブルでゆったり飲み始めた時も、気分は最高だったのだけれど…。


 ついつい狂ってしまった手元。
 広げた新聞を読んでいる内に、忘れてしまったカップのサイズ。
 いつもの調子で手を伸ばしたら、大きなマグカップは其処には無くて。
 コンと当たってしまった手。
 マグカップよりもずっと小さい、デミタスカップの縁にコツンと。
(当たった場所も悪かったんだ…)
 自分の大きな身体に見合った、大きな手。
 それにゴツンとぶつかられたなら、バランスを崩す小さなカップ。
 中のコーヒーごとコトンと倒れて、アッと思った時には、もう手遅れ。
 半分ほどか、三分の一か、覚えてはいないカップの中身。
 全部すっかり零れてしまって、新聞の上にまで流れたコーヒー。
(…幸か不幸か、新聞だったし…)
 新聞は水気をよく吸い取るから、テーブルだけで止まった被害。
 床まで汚れなかったことなら、とても有難い気分だけれど。
 床掃除の手間は省けたけれども、コーヒーの色に染まった新聞。
 それがなんとも悔しい感じ。
(この記事も、これも…)
 カラーってトコがミソだったのに、と嘆いた所で始まらない。
 一度染まったコーヒーの色は、拭いても残るものだから。
 鮮やかだった元の印刷、その上にコーヒー色の層。
 台無しになったカラー写真や、イラストなどや。
(…何もかも、俺が悪いんだがな…)
 やっちまったのは俺なんだし、と仕方なく畳んで閉じた新聞。
 とりあえず、全部読んでから。
 「綺麗な紙面で読みたかった」と、溜息を幾つも零してから。


 失敗だったデミタスカップ。
 洒落た気分で、と思わなかったら、きっと起こりはしなかった悲劇。
 いつものカップにしていたら。
 そうでなくても、自分が忘れなかったなら。
(…デミタスカップに淹れたってことを…)
 忘れて新聞を読み耽るのなら、普段のカップで充分だった。
 コーヒーの香りを楽しみながら、ゆったり飲むのがデミタスカップ。
 よそ見しながら飲むのではなくて、時間と空間を味わうもの。
 一人で店に入ったにしても、ゆっくりと。
 雰囲気と其処に流れる時間を、食事の余韻をカップに溶かし入れながら。
(…今夜の俺は、そいつには向いていなかったわけで…)
 なのに何処かで間違えた。
 少しお洒落に飲んでみようと、たまには気取ってデミタスカップ、と。
 そうして選んだ結果がコレ。
 どれほどカップに残っていたのか、それすら思い出せないコーヒー。
 淹れた値打ちが無かったコーヒー、ただ漫然と飲んでいただけ。
 おまけに最後まで飲み干す代わりに、テーブルの上に零した始末。
 読んでいた新聞は駄目になったし、テーブルはゴシゴシ拭いてやらねばならなかったし…。
(…まったく、とんだ結末だよな)
 やっちまった俺が馬鹿だった、と溜息をついて立ち上がる。
 「気分直しにコーヒーでも」と。
 飲んだ気分もしないほどだし、淹れ直した方がきっと楽しい。
 贅沢に最初から淹れるコーヒー、一晩に二度も。
 今度はいつものマグカップに。


 淹れ直してから向かった書斎。
 「最初からこっちにすれば良かった」と。
 新聞を読みながら半分ほど飲んで、それから移動するだとか。
 あるいは新聞を読み終えた後に、ゆっくりと淹れて書斎に来るとか。
(…ちょいと時間を戻せたらなあ…)
 椅子に座ったら、ふと思ったこと。
 ほんの少しだけ時計の針を戻せたら、と。
 食事を終えて、片付けのために立った頃まで。
(そしたら、今度はきちんとだな…)
 デミタスカップに淹れたコーヒー、それを飲み終えてから広げる新聞。
 コーヒー色になっていないのを。
 写真もイラストも鮮やかなものを、のんびり、ゆっくり。
(そうするのもいいし、デミタスカップにしないで、だ…)
 最初から今のマグカップ。
 これに淹れたら、きっと零れはしない筈。
 あのタイミングで手を伸ばしたら、慣れたカップに届くから。
 「これだ」とロクに眺めもしないで、ちゃんと手に取れる筈だから。
 そう出来たらな、と目を遣った時計。
 「こいつの針を戻せたらな」と、「この時間まででいいんだが」と。
 ほんのちょっぴり、時間旅行。
 それが出来たら嬉しいのにと、ヒョイと戻れたらいいのにと。
 コーヒーを零してしまう前まで。
 失敗する前の時間まで。
(タイムマシンがあったらなあ…)
 ちょっと戻ってやり直すんだが、と思い浮かべた夢の機械。
 時を遡れる便利な機械は、今も出来てはいないから。


(…そういう意味では、進歩してないな…)
 今の時代の技術ってヤツは、と流れた時の長さを思う。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分は生きていたから。
 あれから途方もない時が流れて、地球までが青くなったのに。
 何もかもすっかり変わっているのに、タイムマシンはまだ無いんだな、と。
(いつになったら作れるのやら…)
 それとも不可能なんだろうか、と考えた途端に掠めた記憶。
 前の自分の深い悲しみ、前のブルーを失くした後の。
(…戻せたなら、と思ってたんだ…)
 時計の針を、時の流れを。
 ほんの少しと、此処まででいい、と。
 「ほんの少し」と思った時間は、いつの間にか増えていたけれど。
 数時間だったのが一日に増えて、数日になって、一ヶ月を越えて、何処までも。
 前の自分の命が尽きてしまうまで。
 地球の地の底、終わりの時がやって来るまで。
(…俺は、あいつを…)
 前のブルーを取り戻したかった、時計の針を、時を戻して。
 その方法があると言うなら、タイムマシンがありさえすれば、と。
 もしも時間を遡れたなら、きっと失敗しないから。
 「ジョミーを支えてやってくれ」と、ブルーに言わせはしないから。
(…何が何でも、ナスカを撤収…)
 あそこに残ると言った者たち、彼らを端から殴ってでも。
 シェルターに麻酔ガスを注ぎ込んででも、一人残さず連れ帰る。
 そうしていたなら、直ぐにナスカを捨てられるから。
 メギドの炎がやって来る前に、シャングリラは宇宙に旅立てるから。


 何度も思った、「時を戻す」こと。
 前のブルーを失くさないよう、あの時間まで。
 其処に戻れたらと、戻したいと。
 タイムマシンがあったならばと、どうしてそれは無いのだろうかと。
(…そうだったっけな…)
 もっと切実だったんだ、と気付いた「戻りたかった時」。
 やり直せたらと、戻したいんだと、前の自分が悔やんだ時間。
 最初の間は「ほんの少し」と。
 時が経つにつれて「戻したい時間」は、過ぎた分だけ増えたのだった。
 ほんの少しから、一日に。
 一日から、いつしか数ヶ月にも、もっと増えて終わりを迎えるまで。
(…コーヒーをちょっと零したくらいで…)
 戻したいなんて言っちゃいかんな、と自分を叱る。
 「お前は幸せなんだろうが」と、「ブルーは帰って来たろうが」と。
 「コーヒーを零しちまってな…」と失敗談を話してやったら、笑い転げそうな小さなブルー。
 今は笑いの種でしかない、自分が戻したかった時。
 だから自然と浮かんだ笑み。
 時間の流れを戻さなくても、幸せってヤツは来るもんだ、と。
 コーヒーを零したくらいが何だと、ブルーに言ったら、きっと笑ってくれるんだから、と…。

 

         戻したい時間・了


※ハーレイ先生が零したコーヒー、痛恨のミスで時間を戻してやりたいほど。零さないように。
 けれども、前の自分の気持ち。それに気付いたら、たかがコーヒー。今は充分幸せですv





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(今夜は、ちょっぴり…)
 冷えるみたい、と小さなブルーが見回した部屋。
 ハーレイが来てくれなかった日の夜、夕食を食べて戻って来て。
 まだ充分に暖かいけれど、部屋に戻って来る途中。
 階段の空気が冷たかったし、廊下も少し。
 暖かい空気は上に昇るから、二階はまだまだ暖かいけれど…。
(ママも冷えるって言っていたしね?)
 早めにお風呂に入りなさい、と夕食の時に言っていた母。
 明日の朝は冷えるという予報だから、暖かくして寝なさい、と。
(…ぼくの部屋、まだ暖かいけど…)
 その内に冷えて来るのだろう。
 今の季節にはありがちなことで、気の早い冬の使者の先触れ。
 冬が来るのはずっと先なのに、秋の天気は気まぐれだから。
 不意に降り出す天気雨とか、くるくると変わりやすいのが秋。
 空模様と同じに変わるのが気温、冷える夜やら、汗ばむような昼間やら。
(…暖かすぎる方はいいんだけれど…)
 冷える夜の方は注意信号、と自分でもちゃんと分かっている。
 ほんの小さな子供の頃から、繰り返し注意されたから。
 「夜更かしは駄目」と、「早く寝なさい」と。
 もっと遊んでいたい日だって、母にお風呂に入れられた。
 温まったら、直ぐにベッドへ。
 湯冷めしたなら、風邪を引くから。
 早めのお風呂で温まるどころか、逆に身体が冷えるから。
 子供時代はそうだったけれど、今も冷える日は注意しないと駄目なのだけれど。
(…注意信号の意味…)
 変わっちゃった、と眺めた右手。
 これが問題、と。


 今年の春まで、まるで知らずに過ごした自分。
 前の自分が存在したこと、自分が生まれ変わりなことを。
 けれども今は知っているから、冷える夜には気を付けること。
 恐ろしい夢に襲われないよう、メギドの悪夢を見ないよう。
(…右手が冷えたら…)
 あれを見ちゃう、とキュッと握った小さな右手。
 今は温かくて、握れば体温を感じるけれど。
 もっと強くと握り締めたら、手の中が熱くなるけれど。
(…前のぼくの手…)
 前の自分が持っていた手は、命の終わりに凍えてしまった。
 最後まで持っていたいと願った、愛おしい人の温もりを失くして。
 前の自分が恋したハーレイ、その腕から貰って行った温もりを落としてしまって。
 メギドでキースに撃たれた痛みで、落として消えてしまった温もり。
 ハーレイとの絆は切れてしまって、メギドで独りぼっちになった。
 二度とハーレイには会えはしないと、泣きじゃくりながら死んでいった自分。
 右手がとても冷たいと泣いて。
 凍えた右手が悲しすぎて。
(…ハーレイには、また会えたんだけど…)
 青い地球に二人、生まれ変わって巡り会えたから戻った記憶。
 前の自分は誰だったのかも、誰を愛していたのかも。
 それは嬉しいことだけれども、今もハーレイが好きだけれども。
(…ぼくの右手は…)
 ちょっと厄介になっちゃった、と零れる溜息。
 右手が冷えたら、メギドの悪夢に襲われるから。
 前の自分の悲しい最期が、目の前にまざまざと蘇るから。
 泣きながら目が覚める夢。
 とても怖いと、独りぼっちだと。


 気まぐれに来る秋の冷え込み、それが何度も運んだ悪夢。
 悩まされていたらハーレイがくれた、とても素敵なプレゼント。
 冷える夜には、右手にはめるサポーター。
 医療用のそれは薄い素材で、けして眠りを妨げはしない。
 おまけに、とても頼もしいもの。
 ハーレイが右手を握ってくれている時の力加減。
 それと同じに出来ているから、ハーレイの手が其処にあるよう。
(…今夜は、あれを忘れずに…)
 つけなくっちゃ、と取り出した。
 ハーレイに貰ったサポーター。
 今夜はこれと一緒に寝なきゃと、忘れちゃったら駄目なんだから、と。
 枕の上にそうっと置いて、それからお風呂。
 身体の芯まで温まるように、右手が凍えてしまわないように。
 熱いバスタブに浸かる間も、何度も左手で握った右手。
 「大丈夫だよ」と、「ぼくは平気」と。
 前の自分の悲しい最期は、今では時の彼方だから。
 歴史の授業で教わるくらいに、遠い昔の出来事だから。
 「怖くないよ」と言い聞かせる手。
 今の自分は、前の自分とは違うから。
 生まれ変わりでも、新しく貰った命と身体。
 悲しい記憶を秘めていたって、右手は今の自分の右手。
 メギドに連れ戻されはしないし、ハーレイの温もりを失くしもしない。
 ハーレイはちゃんといるのだから。
 自分と同じに生まれ変わって、前とそっくり同じ姿で。
 キャプテンの制服を着ていないだけで、中身は前のハーレイと同じ。
 やっていることは、違うけど。
 キャプテンではなくて古典の教師で、柔道と水泳もプロ級の腕を持つのだけれど。


 色々と変わった自分の周り。
 ハーレイも変わったし、自分も変わった。
 十四歳にしかならない子供で、ハーレイが教える学校の生徒。
 違う人生を生きているのに、たまに襲うのがメギドの悪夢。
(…あれだけは嫌…)
 悲しくて怖い夢だもの、と震わせた肩。
 ウッカリ見た日は、何もかも揺らぎそうになる。
 自分の悲鳴で飛び起きた夜中、世界さえもが幻に見える。
 今の自分も、自分の部屋も。
 同じ二階で寝ている筈の両親だって、両親と暮らす家だって。
 何度涙が零れただろうか、とても怖くて。
 全ては前の自分の夢かもしれないと。
 死んでしまったソルジャー・ブルーが、その魂が紡ぐ夢ではないのだろうかと。
 「怖い」と「助けて」と、ハーレイの名を呼ぶけれど。
 縋り付きたくて泣くのだけれども、ハーレイは側にいてくれない。
 たった一度だけ、ハーレイの家へと瞬間移動をした日以外は。
 無意識の内に飛んでしまって、ハーレイのベッドで目覚めた朝を除いては。
(…あれっきり、二度と飛べないし…)
 ただでもサイオンは不器用なのだし、飛んで行けるとも思わない。
 いくら泣いても、泣きじゃくりながら眠っても。
(…本当に飛べやしないんだから…)
 悲しくて怖くて、独りぼっちで泣き続けるだけ。
 「夢じゃないよね」と、「生きてるよね」と。
 ぼくもハーレイも生きているよねと、二人で地球に来たんだものね、と。
 泣いて心が落ち着くまで。
 自分は確かに生きているのだと、泣いて実感出来るまで。


 そんな思いはしたくないから、お風呂から出たら、真っ直ぐ部屋へ。
 パジャマだと少し寒いけれども、何かを羽織るほどでもない。
 急いで廊下を歩いたら。
 階段を上って部屋へ急いだら、中の空気は暖かいから。
(…まだ暖かい…)
 外がひんやりしてただけ、とホッと安心した部屋の中。
 これなら明日の朝になっても、それほど冷えはしないだろう。
 ちょっぴり頬に冷たいくらいで、きっと暖房も要らないけれど…。
(…これは忘れちゃ駄目なんだよ)
 今は暖かくても、寝てる間に冷えるんだから、と右の手にはめたサポーター。
 キュッとはめたら、頭に浮かんだ恋人の顔。
 それに温もり、いつも右手を「ほら」と両手で包んでくれる時の。
(ハーレイと一緒…)
 今も一緒、と綻んだ顔。
 ハーレイは此処にいないけれども、右手を握ってくれているから。
 このサポーターと一緒に、キュッと。
 「大丈夫だからな」と、「俺がいるから」と。
 きっと今夜も、ハーレイは守ってくれるのだろう。
 メギドの悪夢が来ないようにと、右手をしっかり握ってくれて。
 明日の朝まで、こうして自分を守り続けてくれるのだろう。
 サポーターをはめた時には、メギドの悪夢は来ないから。
 来てしまった時でも、夢の中では…。
(…ハーレイが温めてくれるんだよ…)
 冷たく凍えてしまった手を。
 温もりを失くして冷えた右手を、ふわりと両手で包み込んで。
 メギドからは遠く離れている船、シャングリラから飛んで来てくれて。
 夢の中のハーレイの魂だけが。
 想いが温もりを届けに来てくれて、もう泣かなくても済む幸せな夢。


 今夜もきっと大丈夫、と入ったベッド。
 上掛けを肩まで引っ張り上げたら、後は眠りに落ちるだけ。
 部屋の明かりは常夜灯だけ、それでも感じるハーレイの想い。
 ハーレイは側にいないけれども、サポーターをはめた自分だけしかいないけれども。
(でも、一緒…)
 今だってずっと一緒だもの、とハーレイを想う。
 きっとハーレイは、今も自分を想ってくれている筈だから。
(だって、今夜は冷えるから…)
 ハーレイも気付いて、心配をしているのだろう。
 メギドの悪夢に捕まらないかと、サポーターはちゃんと着けただろうかと。
 暖かい内にベッドに入ったろうかと、夜更かしして右手が冷えねばいいが、と。
(…大丈夫だよ、ぼく…)
 もう暖かくして寝ているから、と伝えたくても、届かない声。
 ハーレイの家は何ブロックも離れた所で、声が届きはしないから。
 けれど、ハーレイはきっと心配しているだろうから、小さな声で呟いてみる。
 「ちゃんと寝てるよ」と、「サポーターもはめているからね」と。
 ハーレイが側にいるかのように。
 本物のハーレイが側にいたなら、こんな具合、と瞼を閉じて。
 「少し冷えるね」と、「部屋の外はちょっぴり寒かったよ」と。
 でも平気だよ、と語り掛けながら眠りに落ちてゆく。
 ハーレイと一緒でとても幸せと、心はいつでも一緒だよね、と…。

 

          少し冷えるね・了


※ちょっぴり冷える夜のブルー君。きちんとサポーターをはめたようです、忘れないで。
 メギドの悪夢を防いでくれる大切なもので、はめると幸せな気持ちが一杯v





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(ふむ…)
 少し冷えるな、とハーレイが零した独り言。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後のダイニングで。
 すっかり片付けを済ませたテーブル、これからコーヒータイムだけれど。
 いつも夜には淹れる一杯、そういう頃合いなのだけれども。
 ふとしたはずみに気付いた温度。
 部屋の室温、それが低いと。
(寒いってほどじゃないんだが…)
 上着を羽織るほどでもないし、と思う程度の夜の冷え込み。
 身体が頑丈に出来ているから、その気になったら真冬でもシャツは一枚でいい。
 半袖のTシャツ、それでも風邪など引かない身体。
 けれど感覚は鈍くないから、冷えた時にはきちんと分かる。
 肌で、身体を包む空気で。
(どうするかな…)
 まずはコーヒー、と淹れにかかれば、使う熱源。
 熱い湯を沸かして淹れるわけだし、周りの温度は上がるから…。
 愛用のマグカップに注ぐ頃には、改めて感じた「冷える」ということ。
 カップが冷たかったから。
 いつもと同じに手に取ったカップ、コーヒーを淹れる前のカップが。
(食器棚の中で冷えてやがったか…)
 つまり普段より寒いわけだ、と見回した部屋。
 書斎に行くか、ダイニングのテーブルでのんびり飲むか。
 どっちにしようか、悩ましい。
 本に囲まれた書斎の空気は、何処かひんやりしているもの。
 その雰囲気も好きだけれども、こんな夜にはどうするかな、と。


 もちろん、書斎にもある暖房。
 今夜だったら、それのお世話になるのが快適。
 ほんの少しだけ温めてやって、空気がふうわり柔らかくなったら直ぐに切る。
 後は書斎の気分にお任せ、冷えてゆくのも悪くない。
 冷えていったら、なんとなく…。
(頭が冴えるような気がするんだよなあ…)
 昔の人もそう言ったんだ、と古い言葉を思い出す。
 「頭寒足熱」、そういう言葉。
 頭は冷やして、足は温めるという意味の言葉。
 「頭を冷やす」と言うほどなのだし、頭には多分、冷えているのがいいのだろう。
 実際、書斎の空気が冷えたら、頭も冴えてゆく気がするから。
(蛍の光に窓の雪ってな)
 遠い昔の勉強方法、蛍を集めて夜に勉強、窓の雪明かりでやっぱり勉強。
 蛍が光る夜は昼より冷えるものだし、雪の季節も寒いもの。
 頭のためには冷えるのがいいというわけだ、とクックッと笑う。
 「そういう意味の言葉じゃないな」と、「蛍の光、窓の雪はな」と。
 分かってはいても、素敵な解釈。
 ちょっとこじつけ、「冷える時の方が頭が働く」と。
 明日、学校で話してやろうか、何処かのクラスで。
 「昨夜はちゃんと勉強したか?」と切り出して。
 冷える時こそ勉強なんだと、冴えた頭で頑張ったか、と。


 いいな、と思った雑談の種。
 やはり書斎に行くとしようか、勉強と言えば書斎だから。
 勉強部屋とは違うけれども、ダイニングよりは「勉強」向け。
 机に向かって調べ物とか、読書するための部屋だから。
 仕事で使う資料の纏めもするから、冷える夜には…。
(俺も生徒を見習ってだな…)
 頭寒足熱で勉強ならぬ読書でも、と思った所で頭に浮かんだ恋人の顔。
 前の生から愛した恋人、十四歳の小さなブルー。
 今のブルーは自分の教え子、学校の生徒。
(…あいつ…)
 どうしているだろうか、今頃は。
 今夜は少し冷えるけれども、ちゃんと暖かくしているのだろうか?
(…さっさとベッドに入ってりゃいいが…)
 こういう時に限って、起きていそうな気がしないでもない。
 風呂に入って温まった後に、のんびりと。
 「もうちょっとだけ」と、読みかけの本を読み進めようと。
 上に何かを羽織ればいいのに、それも忘れて。
 「温まったから」とホカホカの身体で、暖房を入れることさえ忘れて。
 やりかねないのが小さなブルーで、如何にも子供らしいこと。
(直ぐに夢中になっちまうしな?)
 本にしたって、考え事をするにしたって。
 そうした挙句に風邪を引いたり、そうならなくても…。
(暖かい間に寝ないもんだから…)
 冷えてしまう右手、ブルー自身が気付かない内に。
 自覚も無しでベッドに入って、そのまま眠ってしまいそうなブルー。
 「もう眠いから」と本をパタンと閉じて。
 冷える夜にはどうするべきかも、すっかり忘れ果ててしまって。


 大丈夫だろうか、と心配になった小さなブルー。
 前の生から愛した人には、今は小さくなってしまった身体には…。
(…前のあいつの…)
 悲しい記憶が今でも刻み込まれたまま。
 小さな右手に秘められた記憶、冷えた時には蘇るそれ。
(俺の温もりを失くしちまって…)
 メギドで凍えてしまった右手。
 前のブルーは、ソルジャー・ブルーは泣きながら逝ってしまったと聞いた。
 最後まで持っていたいと願った、右手の温もり。
 「ジョミーを支えてやってくれ」と送り込んだ思念、その時に触れた前の自分の腕の温もり。
 自分は全く気付かなかったけれど、ブルーは温もりを持ったままで飛んだ。
 最期を迎えるだろうメギドへ、死が待つ場所へと。
 なのに、ブルーはそれを失くした。
 撃たれた痛みで失くしてしまって、一人きりになってしまったブルー。
 「ハーレイとの絆が切れてしまった」と、「もう会えない」と泣いて、ブルーは逝った。
 だから今でも、その夢を見る。
 右手が冷えてしまった夜には、メギドの悪夢に襲われる。
 そうならないよう、右手を包むサポーターを作ってやったのに…。
(あいつ、忘れてしまいそうなんだ…)
 右手に着けて眠るのを。
 ほんの少しだけ冷える夜だから、寒いほどではないのだから。
 右手が冷えたことにも気付かず、眠ってしまっていそうなブルー。
 もしも自分が側にいたなら、「おい」と注意してやれるのに。
 「ちゃんと着けろよ?」とサポーターを出して、「ほら」と渡してやれるのに。
 そうなるよりも前に、何か羽織らせていそうだけれど。
 「暖かくしろよ」と暖房も入れて。
 早くベッドに入るようにと、うるさいほどに声だって掛けて。


 けれど、ブルーには届かない言葉。
 届きはしない、自分の心配。
 小さなブルーが住んでいる家は、何ブロックも離れているから。
 そんな注意をするだけのために、連絡を取れはしないから。
(何事なのかと思われるしな?)
 きっと、ブルーの両親に。
 「ハーレイ先生から」と取り次ぎながらも、首を傾げるだろう両親。
 いったい何の用事なのかと、ブルーが何かしたのだろうか、と。
(…それはマズイし…)
 あいつに期待するしかないな、と零れた溜息。
 夜更かししないで早く寝てくれと、それが無理なら気付いてくれと。
 冷える夜にはサポーターだと、右手を暖かくして眠れと。
(…気付いてくれるといいんだが…)
 俺さえ側にいたならば、と眺めたマグカップのコーヒーから昇る温かな湯気。
 この湯気のように、ふうわりと包んでやれるのに。
 ブルーが無茶をしないようにと、温かな想いで幾重にも。
 まるで真綿で包み込むように、柔らかく。
 ブルーの邪魔をしない程度に、「気を付けろよ?」と何か羽織らせて。
 眠る前にはこれをはめるのも忘れちゃ駄目だ、とサポーターだって、と考えたけれど。
(……待てよ?)
 もしも自分が側にいたなら、サポーターなどはもう要らない。
 ブルーの右手が冷えていたなら、温めてやればいいことだから。
 いつもしてやるように両手で包んで、「ほら」と温もりを移してやって。
 夜更かししていて冷えた身体も、丸ごとしっかり抱き締めてやって。
(あいつが眠いと言い出したなら…)
 そっと運んでやるだろうベッド。
 「おやすみ」とキスを一つ落として、後はブルーを胸に抱いて眠る。
 ブルーが暖かく眠れるように。
 幸せな夢を見られるように。


 いつか、その日がやって来る。
 ブルーと二人で暮らし始めたら、いくらでも世話をしてやれる。
 「今夜は少し冷えるからな」と、熱い紅茶やココアを淹れて。
 肩にふわりと何か羽織らせて、ブルーが寒くないように。
(…あいつが側にいるんなら…)
 こんな夜には、きっと書斎に行きはしないで、ダイニングにいることだろう。
 でなければリビング、ブルーと二人で。
 自分はコーヒー、ブルーは紅茶かココア辺りをカップに淹れて。
 暖かい部屋で二人一緒で、きっと話は尽きないのだろう。
 「少し冷えるな」と口にしたなら、「うん、少しだけ」と声が返って。
 「ずっと前には、サポーターが無いと駄目だったけど…」と、ブルーの右手が差し出されて。
 もう温もりなど充分なくせに、「温めてよ」と。
 昔みたいにと、悪戯っぽく目を輝かせて。
 きっとそうだな、という気がするから、今夜コーヒーを飲む場所は…。
(此処にするかな)
 書斎は駄目だ、と腰を下ろしたダイニングの椅子。
 此処でゆったり飲むのがいい、と。
 ブルーと二人で暮らし始めたら、こんな夜はきっと、書斎に行きはしないのだから…。

 

        少し冷えるな・了


※ほんのちょっぴり冷える夜。ハーレイ先生が心配になった、小さなブルー。
 いつか一緒に暮らす日を夢見て、今夜はダイニングでコーヒーを。幸せたっぷりの時間ですv





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(ハーレイ、とっくに帰っちゃったし…)
 後は寝るだけ、と小さなブルーが零した溜息。
 お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
 今日も来てくれた、愛おしい人。
 前の生から愛したハーレイ、今も愛しているのだけれど。
(ぼくはホントにハーレイが好きで…)
 今もこうして想っているのに、世の中、上手く出来てはいない。
 十四歳の子供でしかない、小さな自分。
 ハーレイと一緒に暮らせはしなくて、いつもこうして置いてゆかれる。
 夕食の後のお茶が済んだら、帰って行ってしまうハーレイ。
 「またな」と軽く手を振って。
 のんびり歩いて帰って行ったり、停めてあった愛車に乗り込んだりして。
 今日もやっぱり残された家。
 ハーレイは自分の家に帰って、呼んだって声は届かない。
 何ブロックも離れた所に、声が届きはしないから。
 思念を紡いで届けようにも、今の時代は難しいそれ。
 人間が全てミュウになった今は、何処の家にも施されている仕掛けがあるから。
 白いシャングリラのようにはいかない、他所の家へ思念を届けること。
 あの船だったら、簡単に届けられたのに。
 「ハーレイ?」と呼べば応えて貰えたのに。
 今の時代の仕組みもそうだし、今の自分の方も問題。
(…とっても不器用…)
 とことん不器用になったサイオン、思念波もろくに紡げないレベル。
 だから仕掛けが無かったとしても、此処からハーレイの名前は呼べない。
 呼んでも決して届きはしなくて、ポツンと独りぼっちの自分。
 ハーレイに巡り会えたのに。
 今も愛して、恋しているのに。


 なんとも悲しい、今の状況。
 すっかり慣れたと思っていたって、何かのはずみに思い出す。
 今の自分の幸せな恋は、ちょっぴり欠けているのだと。
 とても幸せに恋していたって、前のようにはいかないのだと。
(キスが出来ないのもそうだけど…)
 ハーレイに「駄目だ」と叱られるキス。
 前の自分と同じ背丈に育つまでは貰えない、唇へのキス。
 いつだってキスは頬と額だけ、ハーレイがそう決めたから。
 どんなに強請ってもキスは貰えなくて、代わりに叱られてしまうだけ。
 「俺は子供にキスはしない」と、「何度言ったら分かるんだ」と。
 キスも貰えない有様なのだし、恋人同士の時間は持てない。
 抱き締めて貰ってもそれでおしまい、二人でベッドに入れはしない。
(…前のぼくたち、本物の恋人同士だったのに…)
 今はそうではなくなった恋。
 「俺のブルーだ」と言って貰えても、それっきり。
 キスは駄目だし、溶け合えもしない自分たち。
 だから、こうして置いてゆかれる。
 「またな」とハーレイが帰って行って。
 独りぼっちでベッドにチョコンと座るしかなくて、ハーレイに声も届かない。
 夕食の後のお茶が済んだら、お別れの時間。
 前の自分とハーレイだったら、それからが大切だったのに。
 キスを交わして、愛を交わして、朝まで一緒。
 同じベッドで二人で眠って、目覚めた時にはハーレイの顔。
 「よくお休みになれましたか?」と。
 おはようのキスを贈って貰って、其処から始まっていた一日。
 ベッドから出たら、恋人同士の時間は終わってしまっても。
 ソルジャーとキャプテン、そういう二人に戻らなくてはいけなくても。


 誰にも秘密で、隠し通した前の自分とハーレイの恋。
 そうしなくてはいけなかったから、誰にも言えずに終わった恋。
 けれど、確かに幸せだった。
 ハーレイに恋して、愛されて。
 いつも心は寄り添っていたし、呼べばハーレイが応えてくれた。
 ブリッジで舵を握っていたって、「どうなさいました?」と。
 「後でそちらに伺いますから」と、用を作って来てくれもした。
 ハーレイは多忙だったのに。
 教師をしている今のハーレイより、遥かに忙しかったのに。
(…ハーレイの時間は、前よりたっぷり…)
 キスも出来ないチビの自分を、わざわざ訪ねて来てくれるほど。
 「仕事が早く終わったからな」と、学校のある平日だって。
 休みの日ならば、午前中から来てくれる。
 二人で一日一緒に過ごして、夕食の後のお茶の時間まで。
 ハーレイが割いてくれる時間は、前よりもずっと多いのに。
 多い筈なのに、それは昼間の間だけ。
 太陽が沈んで夜になったら、近付いてくるのがお別れの時間。
 今もこんなに愛しているのに、ハーレイは「またな」と帰ってしまう。
 「行かないでよ」と言えはしなくて、見送ることしか出来ない自分。
 ハーレイが此処にいてくれたならば、今だってきっと幸せなのに。
 キスは駄目でも、二人でベッドに入れなくても。
(…ハーレイがいたら…)
 眠くなるまで、話すことは山ほどあるのだろう。
 いくら話しても尽きはしなくて、次から次へと浮かぶのだろう。
 これを話そうと、次はあっち、と。
 ハーレイもきっと相槌を打って、話を楽しくしてくれる。
 「其処は俺だと…」と、思いもよらない方へ話を転がしたり。


 二人でいたなら、終わりは来そうにない話。
 眠くなってベッドに入るまで。
 ハーレイが「おやすみ」と言ってくれるまで。
 「続きは明日な」と、「ゆっくり眠れよ」と優しい声で。
 同じベッドで眠れなくても、ハーレイのベッドは別の部屋でも。
(…ホントに、ちょっぴり欠けちゃってる…)
 前の自分の恋に比べて、自分の恋は。
 いつでも側にいてくれたハーレイ、離れていたって感じた思念。
 それが今では離れ離れで、思念だって家まで届きはしない。
 家の仕掛けも問題だけれど、ハーレイは思念を届けようとはしてくれないから。
 そんなつもりがあるのだったら、「またな」と帰りはしないから。
(…ハーレイ、好きだって言ってくれるけど…)
 「俺のブルーだ」と何度も抱き締めて貰ったけれども、それだけのこと。
 前と同じに好きだと思ってくれているなら、ハーレイだって…。
(…離れたくない筈なんだよ…)
 自分を独りぼっちにしたりはしない。
 独りぼっちにするしかなくても、もっと悲しんでくれる筈。
 「俺も帰りたくないんだけどな」と、「すまん」と謝ってくれるとか。
 帰り際には手を握り締めて、名残を惜しんでくれるとか。
(…パパとママがいるから、無理にしたって…)
 方法はきっと、幾つでもある。
 「またな」と軽く手を振る代わりに、握手したなら伝わる温もり。
 そうでなくても、見送りに出た時、小さな声で囁くだとか。
 「愛してる」と、とても小さな声で。
 自分だけにしか届かない声で、あるいは優しい思念の声で。
 それなら誰も気付かないのに。
 両親は全く気付かないから、きっと大丈夫な筈なのに。


 けれども、今日も「またな」とだけ。
 軽く手を振って帰ったハーレイ、「愛してる」の言葉は貰えなかった。
 握手さえ求めてくれなかったから、温もりだって貰っていない。
 独りぼっちで置いてゆかれて、ベッドにポツンと座った自分。
 ハーレイが此処にいてくれたならば、それだけで充分幸せなのに。
(…キスは駄目でも、ベッドも別で部屋も別でも…)
 眠くなるまで、ハーレイと一緒にいられたら。
 他愛ない話を交わし続けて、瞼が重くなってくるまで。
 欠伸を噛み殺せなくなってしまって、「チビは寝ろよ?」と言われるまで。
 どんなに幸せな気分だろうか、そういう風に過ごせたら。
 いつもハーレイと一緒にいられて、「おやすみ」と言って貰えたら。
 唇ではなくて、頬にキスでも。
 額に「おやすみ」と貰うキスでも、きっと幸せが胸に溢れる。
 そのまま一人で眠るだけでも、一人きりで眠るベッドでも。
 ハーレイが側にいてくれたならば、眠りに落ちるまでいてくれたなら。
(ホントのホントに、きっと幸せ…)
 おやすみのキスしか貰えなくても。
 ハーレイと一緒に眠れなくても、今よりもずっと幸せな筈。
 なのにハーレイは帰ってしまって、今夜も自分は独りぼっちで…。


(やっぱり、ちょっぴり欠けているよね…)
 今の自分とハーレイの恋。
 前と同じに恋をしていても、ちょっぴり欠けた月のよう。
 きっと自分がチビだから。
 ハーレイもチビだと思っているから、「またな」と自分を置いてゆく。
 側にいてくれたら、もうそれだけで充分なのに。
 唇にキスを貰う代わりに、頬か額に「おやすみ」のキス。
 それが貰える毎日だったら、きっと最高に幸せなのに。
(君さえ、側にいてくれるなら…)
 いくらでも我慢出来ると思う。
 キスは駄目でも、本物の恋人同士の時間を持つことは出来なくても。
 いつもハーレイと一緒だったら、と思うけれども、チビの自分は今日も置き去り。
 君さえいれば、と頼んでも、きっと駄目だから。
 ハーレイは「またな」と帰るだけだから、こんな夜には零れる溜息。
 たまに、気付いてしまったら。
 今の自分の幸せな恋は、ちょっぴり欠けたお月様だ、と…。

 

        君さえいれば・了


※今のぼくの恋はちょっぴり欠けてる、と溜息なのがブルー君。独りぼっち、と。
 ハーレイ先生の気持ちが分からないのは、チビだから。これではキスは貰えませんよねv





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