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先は長いよな

(ゴールなあ…)
 ふと、ハーレイが思い浮かべた言葉。
 ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
 ゴール、すなわち決勝点。それに「目標」の意味もある言葉。
 柔道の試合にゴールは無いのだけれども、水泳の方ならゴールは馴染み。
 「プロの選手にならないか」と誘いが来ていた学生時代は、何度も其処を目指して泳いだ。
 あと少しだ、と懸命に。力の限りに水を切って。
(でもって、一番でゴールした時は…)
 それは気分が良かったもの。充実感も、達成感も。
 勝敗とは無縁の練習の時も、やはりゴールを決めたりもした。
 「あそこまでだ」と、「何処までタイムを縮められる?」などといった具合に。
 自分が努力を重ねたならば、最高の気分になれるのがゴール。
 やり遂げたことを自分に誇って、自信も持てるものだから。
(今じゃ、試合に出やしないから…)
 昔ほどには意識していないゴール。
 ジムに出掛けて泳ぐ時にも、決めずに泳いでいる日も多い。
 「だいたい、こんなトコだよな」と、その日の気分で切り上げたりして。
 柔道の方だと、目標としてのゴールはあっても、目に見える形の「ゴール」は無い。
 試合で勝敗を決める時にも、まるで関係ないのがゴール。
 「此処で勝負が決まる」という地点は存在しない。
 試合の流れで技を決めるだけ、試合の相手を畳に投げたり、叩き付けたりしてゆくだけ。
 技が決まれば、それでゴールになるけれど…。
(水泳と違って、目には見えんな…)
 あそこがそうだ、と分かる形のゴールなどは。
 試合の場としての畳があっても、其処に「ゴール」は刻まれていない。
 水泳だったら、プールの端を「ゴール」に定めて泳ぐのに。
 海などで泳ぐ競技の時にも、ゴール地点は必ず決まっているものなのに。


 いろんな形があるもんだよな、と考えた「ゴール」。
 水泳なら分かりやすいけれども、柔道の試合ではとても曖昧。
 試合前から分かりはしなくて、技が見事に決まって初めて「ゴールなのだ」と知らされる。
 それを見ている観客だって、何処がゴールか分かってはいない。
 水泳だったら、「あそこなのだ」と素人でも直ぐに分かるのだけれど。
(ゴールが分かりやすいスポーツは多いんだが…)
 サッカーならば、ゴールがある。
 ボールがネットを揺らした時には、それで点数が入るもの。
 バスケットボールだって、同じにゴール。
 ボールがネットをくぐっていったら、入る得点。
 ラグビーにもゴールポストがつきもの、ボールを其処まで運んでこそ。
(走る方なら…)
 マラソンだろうが、短距離だろうが、必ずゴールが決められている。
 其処に先頭で走り込んでゆけば、勝者になれるゴール地点が。
(…柔道ってスポーツは、ゴールってヤツに関しては…)
 どうやら分かりにくいらしい、と苦笑してから気が付いた。
 柔道は今でこそスポーツだけれど、元々は武道。
 武道の道には終わりなど無い。
 ゴールは存在しなくて当然、何処までも自分を高めてこそ。
 弓道にだってゴールは無いし、剣道にもゴールは無いのだから。
(…此処で終わりだ、ってのが無いわけだな)
 柔道はともかく、弓道や剣道、それは昔の武士たちのもの。
 命を懸けて戦うための技術で、生き残っても、また次がある。
 生きている限り、いつ敵が来るか分からないから。
 「この戦に勝てば、二度と戦は起こらない」という保証など、何処にも無かったから。
 明日は誰かが裏切るかも知れず、奇襲だって充分、起こり得ること。
 武道にゴールは「ありはしなくて」、何処まで行ってもゴールは見えない。
 自分自身の技を磨いて、次の勝負に備えなければならなかった武士。


(ゴールが無いのも、当然ってことか…)
 柔道も武道なんだから、と大きく頷く。
 目に見える形のゴールが無いのも、武道だったら当たり前。
 武道というものが生まれた時代に、ゴールがありはしなかったから。
 どんな武士でも、最後の息が絶える時まで、ゴールイン出来なかったから。
(病気で伏せっちまっても…)
 好機とばかりに攻め込んでくる敵もいただろう。
 そうなれば弓を、剣を取って戦わねばならない。
 戦えなければ其処で終わりで、不本意な最期を遂げるだけ。
 「自分のゴール」を、攻め込んで来た敵に奪われて。
 「これで終わりだ!」ととどめを刺されて、人生は其処で終わりになる。
 そうならないとは限らないから、生涯を終えるその瞬間まで、見えなかったゴール。
 「いい人生だった」と死んでゆけるか、「こんな筈では…」と命を落とすのか。
 敵に命を奪われたくなければ、ひたすらに技を磨くのみ。
 弱っていようと、敵を相手に戦えるように。
 弓が引けなくても、枕の下から取り出した剣で勝利を自ら掴めるように。
 そう考えてみると、武道を始めた武士というのは…。
(ゴールするまで、一生、頑張り続けたわけで…)
 なんとも気の長い話だよな、と自分が教える古典の世界を思ってみる。
 平家物語は、平家と源氏の長い戦の物語。
 太平記ならば、もっと戦は長くなる。
 鎌倉時代の終わりに始まり、何度も戦を繰り返しながら変わる政権。
 誰にとってのゴールだったか、それすら見えないくらいの戦。
 戦が一つ終わった途端に、またも戦が起こるのだから。
(あんな中では、ゴール出来んぞ)
 剣も弓もな、と思う激しい合戦。
 きっと誰もが「見えないゴール」を目指して、懸命に剣を振るい続けた。
 生き残るために矢をつがえては、敵に向かって何本も射て。


 ゴールが見えない戦いなのか、と今の時代との大きな違いに驚くばかり。
 同じ武道でも、今ならゴールが「あるもの」なのに。
 目には見えない形にしたって、一応、「ゴール」は定められている。
 試合をするなら、「これがゴールだ」と。
 柔道だったら、文字通り技を決めた時。
 試合の相手を倒した瞬間、其処がゴールで、試合終了。
 弓道ならば、如何に高得点を出したか、何本の矢を的に当てたのか。
 それで決まるし、剣道の方は、柔道の試合と似たようなもので…。
(技だよな…)
 相手よりも優れた技を繰り出し、それでゴールを作り出すだけ。
 自分が「勝ち」を収めたならば、その時がゴール。
(今じゃ、ゴールがあるんだが…)
 それでも一時的なものだ、と分かってはいる。
 武道に本物のゴールは無いから、極めたいなら、自分自身との勝負。
 何処までゆけるか、それこそ一生をかけての戦い。
 武士との違いは、「命が懸かっていない」ことだけ。
(…柔道の道も先は長いぞ…)
 俺の場合も、まだまだ終わっちゃいないから、と確認してみる「ゴールが無い」こと。
 いくら自分が強いと言っても、上には上があるものだから。
 けして頂点に立ってはいなくて、一生、磨き続ける技。
(まあ、武士よりは楽なんだが…)
 奇襲も無ければ、裏切りもない、戦争などは無い世界。
 のほほんと平和に生きて暮らせて、柔道だって「ただの趣味」。
(本当にいい時代だよなあ…)
 前の俺だと、戦ってヤツもあったんだが、と苦笑い。
 柔道などやっていなかったけれど、「戦争」ならばあったから。
 白いシャングリラの舵を握って、人類軍の船との戦い。
 地球まで辿り着くために。…前のブルーが遺した言葉を、ただ守るために。


(前の俺には、戦があったが…)
 今は無いな、と笑んだけれども。
 「いい時代だ」と思ったけれども、青い地球の上に生まれた自分。
 前のブルーも其処に生まれて、今は自分の教え子のチビで…。
(…あいつを嫁に貰うんだが…)
 そいつはずいぶん先のことだぞ、と目を丸くした。
 まだまだブルーは子供なわけで、結婚式など挙げられはしない。
 プロポーズさえも出来はしなくて、ブルーの両親に結婚の許しを得ることも…。
(あいつがチビの間はだな…)
 無理じゃないか、と唸ってしまった。
 今度はブルーと一生、二人で暮らすのだけれど。
 そのために挙げる結婚式の日、それも一種のゴールなのだけど…。
(いつになるやら、まるで見えんぞ?)
 この戦も先が長そうだ、と零れた溜息。
 今は平和な時代だけれども、武道さえも「ゴール」が設けられている時代だけれど。
(…先は長いよな…)
 あいつとゴール出来る日までは、とコーヒーのカップを傾ける。
 「早くその日が来ないもんかな」と、「まだまだゴールは見えないんだが」と…。

 

         先は長いよな・了


※ゴールについて考えていた、ハーレイ先生。「水泳にはあっても、柔道には無いな」と。
 武道には「無い」のが当たり前のゴール。そしてブルー君との結婚式だって、まだまだ先v









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