(今日は、ハーレイに会えなかったよね…)
一度も会えないままだったよ、と小さなブルーが零した溜息。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は会えずに終わったハーレイ。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
毎日でも会っていたいというのに、こうして会えない日だってある。
ハーレイが教える古典の授業は、今日は無かった。
学校の廊下でも出くわさないまま、遠目に姿を見てさえもいない。
(ツイていないよ…)
だけど、と明日へと気持ちを向ける。
あと半日も経たない内に、次の日の朝がやって来る。
日付だけなら、数時間もすれば、明日という日が来る勘定。
(きっと明日には、来てくれるよね?)
学校では会えずに終わっちゃっても、仕事の後で、と切り替えた思考。
そうそう毎日、用事は続かないだろう。
連日のように会議は無いし、柔道部だって、長引くことは少ないから。
(うん、明日までの我慢…)
ちょっぴり寂しくなるのは今日だけ、と気分がフワリと軽くなってゆく。
明日の今頃には、すっかり満足している自分がいることだろう。
「今日はとってもいい日だったよ」と、御機嫌でベッドに腰を下ろして。
ハーレイと一緒に過ごした時間を思い返して、幸せになって。
(…だって、来てくれたら…)
まずは二人きりのティータイムから。
窓辺に置かれた椅子とテーブル、其処で、ゆっくり。
母が運んで来てくれたお茶と、母が作った美味しいお菓子で。
(……ママのお菓子、明日は何だろう?)
パウンドケーキの日だといいな、と我儘なことを考えた。
どのお菓子でも美味しいけれども、パウンドケーキは特別なケーキ。
(材料は、とっても単純だけど…)
バナナもオレンジも入ってはいない、プレーンなパウンドケーキがいい。
砂糖とバターと小麦粉と卵、それだけを使ったパウンドケーキ。
どれも、それぞれ1ポンドずつ、使って焼くから「パウンド」ケーキと呼ぶらしい。
(…ママが焼くのと、ハーレイのお母さんが焼くのと…)
何故だか、不思議に、そっくり同じな味のケーキになるという。
ハーレイが初めて口にした時、「おふくろの味だ」と笑顔になった。
「おふくろが焼いて、コッソリ届けに来たのかと思ったぞ」と言ったくらいに同じ味。
だからハーレイの大好物で、食べる時にも、とびきりの笑顔。
(なんでも美味しそうに食べるんだけど…)
それに好き嫌いも無いんだけれど、と可笑しいけれども、本当にパウンドケーキは特別。
毎日だって、母にリクエストをしたいくらいに。
「今日のおやつも、普通のパウンドケーキがいいな」と、朝から強請って。
(…だけど、絶対、飽きちゃうし…)
いくらハーレイの好物でもね、と分かってはいる。
どんなに美味しいお菓子も料理も、同じものが続けば飽きるもの。
「たまには別のものが食べたい」と言いたくもなるし、不満も募ってしまいそう。
「なんて無能な料理人だ」と、美味しいことは棚上げで。
贅沢な食材を使ってあっても、「安くていいから、別のものを」と。
(…パウンドケーキも、それとおんなじ…)
毎回、毎回、出し続けていたら、ハーレイは困ってしまうだろう。
来客の身では、面と向かって「別のケーキに出来ませんか」と言えるわけがない。
「たまには、バナナを入れて下さっても…」と、遠回しに言うことだって。
(パウンドケーキ地獄になっちゃう…)
ふふっ、と時の彼方を思った。
いろんな地獄があったっけね、と。
前の自分が暮らした船。
最初はコンスティテューション号だった、シャングリラ。
燃えるアルタミラから脱出した後、その船で旅が始まった。
船には豊富な食材が載っていたのだけれども、皆で食べれば、じきに無くなる。
(…このままじゃ、みんな飢え死にしちゃう、って…)
前の自分は、たった一人で、生身の身体で宇宙を駆けた。
人類を乗せた宇宙船へと、食材を奪いにゆくために。
(ちゃんと奪って帰って来たけど…)
前のハーレイは酷く心配して、次から奪いに出てゆく時には…。
(コンテナの中身は、何でもいいから、って…)
いちいち選んで探して来るな、と釘を刺された。
「とにかく、サッサと帰って来い」と。
見付からないから大丈夫だ、と何度言っても、「絶対に駄目だ」と睨み付けて。
お蔭で、選べなかった食材。
船の倉庫に運び込んだら、コンテナの中身が偏っていたのは、よくあったこと。
(…ジャガイモだらけだとか、キャベツだらけとか…)
そんな話はしょっちゅうのことで、その度に、船は地獄になった。
来る日も来る日も、ジャガイモ料理が続いてゆくのが、ジャガイモ地獄。
キャベツだったらキャベツ地獄で、何処まで行っても、キャベツ料理が並ぶだけ。
船の中だけが全ての世界では、食事も楽しみの内なのに。
「今日の食事は、何が出るかな」と、皆が食堂にやって来るのに。
(…ジャガイモもキャベツも、美味しいんだけどね?)
そのまま食卓に乗るのではないし、きちんと調理してあった。
前のハーレイが腕を揮って、せっせと作った、様々な料理。
それでもやっぱり、皆の不満は募ってゆくから、ジャガイモ地獄が誕生する。
キャベツばかりならキャベツ地獄で、新しい食材が来るまで、地獄。
改造する前のシャングリラでは、食べられるだけでも、とても幸せだったのに。
飢えて死ぬことを考えたならば、不満を言える筈も無いのに。
けれど「地獄だ」と言っていたのが船の仲間で、それを思うと…。
(パウンドケーキばかり出してたら…)
いくらハーレイの大好物でも、パウンドケーキ地獄になることだろう。
「たまにはバナナでも入れて下さい」とは、言えないで。
「他のケーキがいいのですが」とは、逆立ちしたって言えなくて。
それではハーレイに申し訳ないし、パウンドケーキは、やっぱり、たまに。
母が作ろうと思った時に、焼いてくれるのが一番いい。
(ママなら、何のお菓子を作ったのかは…)
決して忘れる筈が無いから、いいタイミングで出て来るだろう。
その日までに作ったお菓子の数々、それらとバランスのいい時に。
「そろそろ、パウンドケーキの出番ね」と、母が思ってくれた日に。
(…ハーレイが、ママのパウンドケーキが大好きだ、ってこと…)
もちろん母も知っているから、以前よりも増えた登場する日。
そう、ハーレイが来るようになってから。
前の生での記憶が戻って、今の自分が「ソルジャー・ブルー」だったと知った頃から。
(パウンドケーキは、今のハーレイのお母さんのだけれど…)
おふくろの味は最高らしくて、自分でも焼こうと何度も試みたらしい。
なのに一度も成功しなくて、この家に来て…。
(ママのケーキで、とってもビックリしたんだよ)
だからホントに特別なケーキ、とパウンドケーキを思い浮かべる。
明日、出て来るかは謎だけれども、それがお皿に載っていたなら…。
(…ハーレイの幸せそうな顔…)
見られることは確実だから、ちょっぴり我儘を言いたくなる。
明日の朝、母に「パウンドケーキを作ってよ」と。
「今日はハーレイが来ると思うから、パウンドケーキ」と。
会えずに終わった今日の分まで、うんと幸せなティータイム。
窓辺に置かれたテーブルと椅子で、二人、ゆっくりと向かい合って。
いいよね、と夢見る明日の幸せ。
パウンドケーキがあっても無くても、本当に幸せなことだろう。
そしてハーレイが帰った後にも、満ち足りた心で、ベッドの端に腰を下ろして…。
(ホントにいい日だったよね、って…)
交わした話を思い返して、頬を緩めているのだと思う。
話の中身は、ごく他愛ないものだって。
前の生の記憶の欠片なんかは、まるで絡んでいなくても。
(柔道部の生徒の話とかでも、うんと幸せ…)
ハーレイと二人で過ごせるだけで、充分だから。
学校の話ばかりで終わってしまっても、それで全然、かまわない。
ハーレイに会えれば、幸せだから。
仕事の帰りに寄ってくれれば、幸せな時間が持てるのだから。
(…早く、明日になったらいいのに…)
日付が変わるのも、まだ先だよね、と壁の時計に目を遣った。
そんな時間まで夜更かししたなら、今の生でも弱い身体が悲鳴を上げてしまうだろう。
体調を崩してしまったら最後、ハーレイと幸せな時間は持てない。
だからその前に、潜り込まねばならないベッド。
(…そしたら、じきに眠くなるから…)
寝ている間に夜を飛び越え、明日という日がやって来る。
目を覚ましたら、部屋に朝日が差し込んで。
もしも曇りや雨の日だって、部屋が明るくなっていて。
(お日様は、ちゃんと昇るんだから…)
雨の日でもね、と思った所で気が付いた。
今ではすっかり当たり前の「明日」、それが無かった時代のことに。
前の自分が生きた頃には、来るとは限らなかった「明日」。
白い鯨に改造された後の時代でも、シャングリラという船に「明日」が来るかは…。
(……誰にも分からなかったんだよ……)
夜の間に沈められたら終わりだから、と身を震わせた。
今でこそ「明日」は当然のように来るのだけれども、違ったのだ、と。
(…今だと、夜になったって…)
さっきまでのように、明日を夢見ていられる。
明日という日が、どんな日になるか、あれこれ楽しく想像して。
母に我儘を言ってみようか、と、ちょっぴり企んだりもして。
けれども、前の自分は違った。
夜が来る度、次の日のことを恐れないではいられなかった。
「明日という日は、来るのだろうか」と。
太陽など昇らない暗い宇宙を、長く旅していた時も。
アルテメシアに落ち着いた後も、夜には、やはり不安になった。
「この船に、明日は来てくれるのか」と。
それを思えば、今の自分は…。
(ホントのホントに、うんと幸せ…)
なんて幸せなのだろうか、と浮かんだ笑み。
「夜になったって、少しも不安にならないものね」と。
明日という日を夢見ていられて、我儘にだってなれるんだもの、と…。
夜になったって・了
※ハーレイ先生に会えなかった日の夜、明日を夢見るブルー君。ちょっぴり我儘なことも。
けれど前の生では、明日が来るとは限らなかったのです。今はとっても幸せですよねv
(今日はあいつに会えなかったな…)
残念ながら、とハーレイがフウと零した溜息。
ブルーの家には寄れなかった日の夜、いつもの書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた、コーヒー片手に。
今日は会えずに終わったブルー。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた、愛おしい人。
会えなかったことは残念だけれど、きっと明日には…。
(うん、学校で会えるだろうさ)
学校では駄目でも、家に行くって手もあるんだし、と大きく頷く。
明日は会議の予定は無いから、仕事の帰りに寄れるだろう。
ブルーが待っている家に。
生垣に囲まれた、すっかり見慣れてしまった家へと、帰り道に車を走らせる。
真っ直ぐ家に帰るのではなく、寄り道をしに。
愛おしい人の顔を眺めに、ゆっくりと話をするために。
(…お茶と夕食を御馳走になろう、というんだし…)
なんとも厚かましい限りだけれども、それにも今では慣れてしまった。
出迎えてくれるブルーの母にも、家族のような親しみを感じているのが今。
「お邪魔します」と挨拶はしても、気持ちの方は「ただいま」に近いかもしれない。
隣町の実家に帰るのと同じで、まるで遠慮はしていないから。
(…本当に、実に厚かましいな)
しかし、あちらも、そういう具合になっているし、と苦笑する。
十四歳にしかならないブルーは、「ハーレイ先生」が大のお気に入り。
訪ねてゆく度、大歓迎で、夕食の席でもはしゃぐほど。
(ご両親の方では、俺に気を遣って…)
子供の相手ばかりでは大変だろう、と色々な話題を持ち出すけれども…。
(あいつときたら、ろくに中身が分かってなくても…)
隙あらば会話に混ざり込もう、と虎視眈々と狙っている。
「パパとママに、ハーレイを盗られちゃった」と、子供らしい独占欲に駆られて。
自分だって話に混ざりたいのに、と内心、不満たらたらで。
そういうブルーに、明日になったら会える筈。
仕事の帰りに、寄り道をすれば。
家のガレージを目指す代わりに、別の方へとハンドルを切れば。
(もう少しばかり、寄り道ってのも…)
ひょっとしたら、あるかもしれないな、とコーヒーのカップを傾ける。
今の時点では、そんな予定は無いけれど…。
(なにしろ、明日まで、まだたっぷりと…)
時間があると来たもんだ、と時計を眺めて折ってゆく指。
明日の朝までには、まだ何時間、と。
ついでに仕事が終わるまでには、もう何時間ある勘定なのか、と。
(…丸一日とまでは、いかないんだが…)
半日以上は優にあるから、これから思い出すかもしれない。
前のブルーと過ごした時代の、とても懐かしい思い出を。
今は記憶の底に沈んで、すっかり忘れていることを。
(…そいつを、ヒョイと思い出したら…)
ブルーの家へと出掛ける前に、寄り道することもあるだろう。
ひょっこり戻った記憶の欠片に、何か食べ物でも絡んでいれば。
何処にでもある食料品店、其処で簡単に手に入る品が、それならば。
(こればっかりは、流石の俺にも…)
読めないんだよな、と思う、記憶の不意打ち。
今日までに何度も体験して来て、食料品店にも何度も寄った。
「こいつを買って行かないとな」と、お目当ての品を手に入れに。
小さなブルーに「懐かしいだろ?」と、思い出話をするために。
(はてさて、明日はどうなることやら…)
寄り道する先が一つ増えるのか、それとも真っ直ぐ、ブルーの家か。
それは全く読めないけれども、ブルーの家には行けるだろう。
会議の予定は無いのだから。
柔道部だって、余程でなければ、長引くことなど有り得ないから。
よし、と頭に思い描くのは「明日」のこと。
寄り道する先が一つ増えるか、あるいは真っ直ぐ、ブルーの家か、と。
(一つ増えれば、楽しいんだがな…)
あいつの喜ぶ顔も見られる、と思い出話の切っ掛けに期待するけれど。
何かを思い出しはしないか、胸を弾ませて考えるけれど…。
(そうそう上手くはいかないもんだ)
運なんだよな、と分かってはいる。
記憶の底に沈んだ欠片を、拾えるかどうかは運次第。
まるで川底の砂を掬い上げて、その中から砂金を探すみたいに。
(砂金もそうだし、宝石ってヤツも…)
場所によっては、そうやって探すモンらしいしな、と思うくらいに、本当に、運。
ツイていたなら、最初に掬った砂の中から、砂金の粒が採れるだろう。
宝石だって、コロンと混じっているのだと思う。
けれども、ツイていない時には、たとえ何日、掬い続けようと…。
(砂金も採れなきゃ、宝石だって…)
全く採れずに、ただ努力だけが空回り。
記憶の欠片を拾い上げるのも、そういう作業に何処か似ている。
だから、どんなに思い出そうとしてみても…。
(…俺には、どうにもならないってな)
お手上げなんだ、と軽く両手を広げた。
今夜は思い出せそうにない、と記憶の欠片は諦めて。
明日の寄り道はブルーの家だけ、きっとそうなるに違いない、と。
(だがまあ、あいつの家には行けるし…)
小さなブルーの顔を見られれば、もうそれだけで充分ではある。
思い出話の欠片は無しでも、愛おしい人に会えるから。
今日は会えずに終わった恋人、その人と話が出来るのだから。
(厚かましく、お邪魔しちまって…)
ブルーの部屋で、お茶とお菓子を御馳走になって。
二人きりでゆっくり話した後には、両親も交えた夕食の席で。
きっと会話が弾むだろうから、それだけでいい。
記憶の欠片は拾えなくても、寄り道する先が増えなくても。
(うん、充分に幸せだってな)
明日になるのが楽しみだ、とカチンと弾いたマグカップの縁。
あと何時間か過ぎた後には、明日という日がやって来る。
コーヒーを飲み終えて、片付けしてから、ベッドに入って、ぐっすり寝れば。
夜が明けたら、明日が来るから、ブルーの家に出掛けるまでに…。
(運が良ければ、何かを思い出すかもなあ…)
ツイていればな、と白いシャングリラを思い浮かべる。
あの船で起こったことでもいいし、改造する前の船でもいい、と。
何か記憶の欠片を拾って、寄り道の先が一つ増えればいいんだが、と。
(…そうすりゃ、明日は、もっといい日に…)
なるんだがな、と思った所で気が付いた。
「明日」という日の存在に。
さっきからずっと、当たり前のように想像していた、「明日」の重みに。
(…俺がシャングリラにいた頃は…)
改造前の船はもちろん、白い鯨になった船でも、「明日」が来るとは限らなかった。
暗い宇宙を旅した時代は、朝日は昇らなかったのだけれど。
いつでも外は暗かったけれど、それでも「明日」の概念はあった。
船の中だけが世界の全てで、外の世界は無かったから。
たとえ夜明けは来なかろうとも、一日の始めと終わりは必要。
そうでなければ、人は健康に暮らせはしない。
夜勤に入った者はともかく、そうでない者は…。
(夜になったら、寝るモンで…)
次の日の朝を知らせる合図で、ベッドから起きて活動を始める。
まずは洗顔、それから着替えで、支度が出来たら食堂に行って…。
(朝飯を食ったら、持ち場に出掛けて…)
その日の仕事に取り掛かっていた。
外は真っ暗な宇宙であろうと、「朝が来たから」と。
「今日も一日、しっかりやろう」と、それぞれの持ち場で気を引き締めて。
けれど、何処にも保証は無かった。
次の日の朝が、やって来るとは。
夜を迎えたシャングリラという船、その船に「明日」があるかどうかは。
人類に追われるミュウの箱舟、いつ襲われるか分からない船。
夜の間に沈められたら、次の日などはあるわけが無い。
いくら準備をしていても。
「明日の作業は、これとこれだ」と、皆が段取りしていたとしても。
(前の俺は、その船のキャプテンで…)
シャングリラの全てを背負っていたから、何度、不安を覚えたろうか。
「もしも」と、「明日が来なかったら」と。
人類軍の船が近くを飛んでゆく度、恐れを抱いて夜を迎えた。
そうでない時も、常に何処かで思っていた。
「無事に、明日の朝を迎えられればいいが」と。
シャングリラに、夜が訪れる度。
夜も昼も無い宇宙を旅していた時も、アルテメシアの雲海に潜んでいた時も。
(…その筈だったが、今の俺は、だ…)
実に気楽に暮らしているな、と愛用のマグカップを、しみじみと見る。
ついさっきまで、当たり前のように夢を見ていたのが「明日」。
「記憶の欠片が拾えるといいが」と、更に欲張りな夢を描いて。
ブルーに会えることは確実なのだし、どうせなら、もっと、と寄り道をしたくて。
前の生での記憶の欠片を、運良く、拾えたらいい、と。
もし拾えたら、それに纏わる「何か」を買いに行けたらいい、と。
(…前の俺だと、夜は不安になったモンだが…)
今では夢見る時間らしいな、と見回した書斎。
此処で寛ぐ安らぎの時間、それが今では「夜」のようだ、と。
今の時代は明日は必ず訪れるもので、夜は、それまでの待ち時間。
何も不安になることは無くて、ただのんびりと明日を待つだけ。
コーヒーを飲んで、後は片付け、それからベッドに潜り込んで。
「明日はブルーに会えるんだしな」と、沢山の夢まで思い描いて。
(うんと贅沢になったモンだな、今の俺はな)
夜になっても、自分の時間をゆっくり楽しむだけなんだしな、と浮かべた笑み。
「本当に、俺は幸せ者だ」と。
明日は必ずやって来る上、明日はブルーに会えるのだから…。
夜になっても・了
※明日はブルー君に会いに行ける、とハーレイ先生が夢見る明日。寄り道もしたい、と。
寛ぎの時間が夜ですけれども、前の生では違ったのです。今の世界は、幸せな世界v
(幸せだよね…)
今のぼくって、と小さなブルーが、ふと思ったこと。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
(…ついさっきまでは…)
不幸のドン底だったんだけど、と可笑しくなる。
今の自分はとても不幸で、悲しくなるほどツイていない、と嘆いていた。
仕事の帰りに、ハーレイが寄ってくれなかったから。
学校でもハーレイに会えずに終わって、一度も顔を見られなかった。
古典の授業が無かった上に、廊下でも擦れ違わなかったせいで。
(……ツイてなくって……)
最悪な日だ、と思っていたのだけれども、明日には会えるかもしれない。
古典の授業は無い日だとはいえ、ハーレイは学校にいるのだから。
(朝一番から、柔道部の朝練があるもんね?)
運が良ければ、登校して直ぐに会えるだろう。
其処で駄目でも、廊下や階段で擦れ違うだとか、チャンスは山ほど。
それに明日なら…。
(学校の帰りに、来てくれるかも!)
会議や、柔道部で何かが無ければ、ハーレイは寄ってくれる筈。
そうすれば今日の不幸は一転、幸せな時がやって来る。
窓辺のテーブルと椅子でお茶の時間で、夕食だって、ハーレイと一緒。
(晩御飯の時は、二人っきりじゃないけれど…)
両親も食卓に着くのだけれども、それでも充分、幸せではある。
ハーレイの主な話し相手が、両親になってしまっても。
子供の自分は置き去りにされて、大人同士の話題に花が咲いたって。
(…それでも、ハーレイがいるんだもんね?)
ぼくの側に、と嬉しくなる。
声が聞けたら、鳶色の瞳を見ていられたら、それで充分、と。
ついさっきまでは、そうは思っていなかった。
本当の本当に不幸のドン底、悲しくて泣きそうだったほど。
「今日はハーレイに会えなかったよ」と、心の中で繰り返して。
何度も大きな溜息をついて、「今日は最悪」と嘆いてもいた。
けれど、明日には、と思った所で、今の幸せに気が付いた。
「そうだよ、明日があるんだっけ」と。
今はすっかり夜だけれども、暗い夜中を通り過ぎたら、日が昇る。
そうして明日の朝を迎えて、外では小鳥が鳴き出すだろう。
もしも天気が雨だとしたって、雨音の向こうで、夜が明けてゆく。
雨だと小鳥は鳴かないけれども、代わりに聞こえるだろう音。
(屋根に落ちて来る雨の音とか、表の道を走る車が…)
濡れた道を通ってゆくタイヤの音で、雨の日なのだと知らせてくれる。
他にも色々、晴れた日とは違う、雨の日の朝。
(…うん、ちゃんと朝が来るんだよ)
朝が来たなら、ベッドから出て、学校へ行く支度をする。
顔を洗って、制服に着替えて、それから朝食。
(……ホットケーキの朝御飯かも……)
もしかしたら、と心が弾む。
母が焼いてくれるホットケーキは、もちろん、美味しいのだけれど…。
(前のぼくの、憧れの朝御飯…)
本物の地球のホットケーキ、と心は時の彼方へと飛ぶ。
白いシャングリラで暮らしていた頃、前の自分が、何度も夢見た。
いつか地球まで辿り着いたら、と幾つも描いた夢の一つが、ホットケーキ。
(…ホットケーキに、地球の草を食べて育った、牛のミルクのバターを乗っけて…)
サトウカエデの森で採られた、本物のメイプルシロップを、たっぷりとかける。
そういう素敵なホットケーキを、朝御飯の時に食べたい、と。
(前のぼくの夢、そこまでだけど…)
ホットケーキには地球の小麦や、地球で育った鶏の卵も使われている。
なんとも贅沢な限りの朝食、今の自分には、普通だけれど。
ごく当たり前のメニューだけれども、前の自分には、夢で終わってしまった朝食。
青い地球には辿り着けずに、ただ一人きりで、メギドで生を終えたのだから。
(…今のぼくって、うんと幸せ…)
当たり前に明日の朝が来るのも、前の自分が生きた頃には無かったこと。
白いシャングリラが出来上がった後も、「明日が来る」とは限らなかった。
夜の間に人類軍に沈められたら、其処で全てが終わってしまう。
誰一人として、次の日の朝は、迎えられずに。
翌朝の朝食を用意していた、厨房で働く者たちも。
(…それに比べたら、ホントに幸せ過ぎるよね…)
今のぼくは、と頬っぺたを軽く抓ってみた。
「夢じゃないよね?」と。
ベッドにチョコンと腰掛けた自分、チビの自分は夢ではないか、と。
前の自分が、青の間のベッドで見ている夢。
青い地球まで辿り着いたら、こんな風に生きてゆけたらいい、と。
(だけど、頬っぺた、痛いから…)
これは間違いなく現実なのだし、第一、前の自分は死んだ。
遠く遥かな時の彼方で、命と引き換えに、メギドを一人きりで沈めて。
白いシャングリラとミュウの未来を、たった一人で守り抜いて。
(…今じゃ、英雄扱いだけど…)
英雄なんかじゃなかったんだよ、と今でも決して忘れられない、前の自分の悲しい最期。
右手に持っていたハーレイの温もり、それを失くして泣きじゃくっていた。
「もうハーレイには、二度と会えない」と。
「絆が切れてしまったから」と、絶望の淵に突き落とされて。
泣きじゃくりながら死んだ前の自分は、英雄からは遠いと思う。
もしも誰かが見ていたならば、「あの泣き虫が?」と呆れるだろう。
英雄だったら、毅然としたまま、笑みさえ浮かべているだろから。
右の瞳を撃たれていたって、左の瞳で前を見据えて。
ミュウの未来は守り抜いたと、自分の役目を果たしたことに満足して。
自分の命は消えるけれども、仲間たちの命は続いてゆく、と。
(…誰も見ていなくて良かったよね?)
見られていたなら、どうなったかな、とクスッと笑う。
「大英雄には、なれなかったかも」と。
写真集はドッサリ出ていたとしても、顔だけを評価された結果で。
今の時代も語り継がれる、ソルジャー・ブルー。
ミュウの時代の始まりを作った、大英雄だと讃えられて。
(でも、そんなことは、今のぼくには…)
少しも関係無いもんね、と十四歳の子供になった今の自分の右手を眺めた。
前の自分が失くしてしまった、「最後まで持っていたい」と願った、ハーレイの温もり。
それを失くして「右手が冷たい」と、泣きじゃくっていた前の自分。
右手が冷たく凍えたままで、前の自分は死んでいったのに…。
(…今のぼくの手、少しも冷たくないんだよ)
温かいお風呂にゆっくり浸かって、今だって、まだ身体ごと温かい。
部屋も少しも寒くはないから、手が冷たくなる心配も無い。
(それに、冷たくなったって…)
暖房を入れるとか、ベッドの中に潜り込むとか、温める方法は幾らでもある。
おまけに、どうしようもなく冷えた時には…。
(…ハーレイに貰った、サポーター…)
それを着ければ、右手は、たちまち温かくなる。
メギドの悪夢に悩まされていた時、ハーレイがくれたサポーター。
「こいつを着ければ、右手は冷たくならないさ」と。
ハーレイが大きな手で握ってくれる時の、力加減まで再現してあるから。
(だから、安心…)
こうしてパジャマで起きていたって、と幸せな気分に包まれる。
「本当に、なんて幸せなんだろう」と。
不幸のドン底だと思っていたのに、そう考えたことさえ、嘘だったように。
(ホントに、幸せ過ぎちゃうくらいで…)
前のぼくには、夢のまた夢、と白いシャングリラを思い出す。
白い箱舟で生きた頃には、あれでも充分、幸せだった。
明日の朝が来る保証など無い、降りる地面さえ持たない白い箱舟でも。
それでもミュウの楽園だったし、「シャングリラ」の名に相応しかった。
船の中では、人らしく生きてゆけたから。
人体実験をされることもなく、きちんと三度の食事も出来て。
(あの頃の、ぼくに比べたら…)
本当に幸せ過ぎる暮らしを、今の自分は送っている。
毎日、毎日、当然のように。
それが特別幸せなのだと、こうして気付くことさえせずに。
(…うんと幸せで、ちゃんとハーレイだっているのに…)
不幸のドン底だと嘆くだなんて、前の自分が耳にしたなら、きっと叱られることだろう。
「メギドで死んだ時の自分」でなくても、赤い瞳でキッと見据えて。
「今の自分を、よく見たまえ」と、「何処が不幸だと言うんだい?」と。
(……うーん……)
もう間違いなく叱られるよ、と首を竦めた。
前の自分が此処にいたなら、お説教を食らうことだろう。
「君が不幸だと言うんだったら、ぼくと代わってやってもいい」と。
そうすれば毎日、必ずハーレイに会えるわけだし、幸せに暮らしてゆけるだろう、と。
(ハーレイと本物の恋人同士にも、なれるんだけど…)
今の幸せは、全て消し飛ぶ。
明日の朝が来るとは限らない日々、おまけに青い地球だって「無い」。
母が焼いてくれるかもしれない、朝御飯のホットケーキも、全部。
(パパとママがいる家も無くなっちゃって、学校も無くて…)
これから先にある筈の未来、それもすっかり消え失せてしまう。
結婚出来る年になったら、ハーレイと結婚することも。
同じ家で暮らしてゆける未来も、二人であちこち旅をすることも。
(それじゃ困るよ、そんなの、絶対、嫌なんだから…!)
だけど、ホントに言われちゃいそう、と前の自分を思い浮かべる。
仲間たちには優しかった前の自分だけれども、自分自身には厳しかった。
そう、命さえも、投げ出したほどに。
ハーレイの温もりだけを握って、一人きりでメギドへ飛び去ったほどに。
「ソルジャー・ブルー」と同じ魂を持っているのに、今の自分は、どうだろう。
叱られてしまいそうなくらいに、うんと我儘で、贅沢で…。
(きっと、幸せ過ぎちゃうと…)
それに慣れちゃって、忘れちゃうんだよね、と軽く叩いた自分の頬っぺた。
「もっと、しっかりしなくっちゃ」と。
不幸だなどと嘆いていないで、今の幸せを噛み締めて。
前の自分と比べてみたなら、自分は、うんと幸せだから。
幸せ過ぎると言えるくらいに、幸せが当たり前なのだから…。
幸せ過ぎちゃうと・了
※ハーレイ先生に会えなくて、不幸のドン底だったブルー君。でも、考えたら幸せな今。
幸せ過ぎるくらいに幸せ過ぎて、それを忘れてしまうほど幸せな日々。それこそが幸せv
(この一杯が幸せなんだよなあ…)
酒じゃなくってコーヒーなんだが、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた熱いコーヒー、それを片手に。
酒も好きだし、夜に飲むなら酒でも構わないけれど…。
(こう、丁寧に淹れたコーヒーってのも…)
うんと幸せになれるモンだ、とカップの中身を傾ける。
絶妙な苦みで、そのくせ、薬などの苦さとは違うコーヒーの深い味わい。
豆から挽いたら、コーヒー豆の癖まで、更に引き立つ。
(産地によって違うってのが、また素晴らしいんだ)
飲んで産地を当てられるほどではないのだけれども、「違う」というのは分かるもの。
だからこそ、こうして幸せな時間を持つことが出来る。
「ブルーの家には、行きそびれたな」と、少しガッカリした日でも。
長引いてしまった会議を恨んで、遅い時間に学校を出るしかなかった日でも。
(晩飯を作って、のんびりと食って…)
それから皿などを洗って片付け、おもむろにコーヒー豆を取り出す。
「今日は豆から挽いてみるか」と、「時間はたっぷりあるんだからな」と。
ブルーの家に寄って帰って来た日は、そこまでこだわったりしない。
大抵、次の日も仕事があるから、コーヒーを淹れるにも、まずは手早く。
(挽いてある豆を使うなんぞは、序の口で…)
インスタントのコーヒーなんかも、実は充分、役立っている。
なにしろ、いくらコーヒー党でも…。
(…学校でコーヒーを飲むとなったら…)
ゆっくり淹れている時間は無いから、当然、インスタントの出番。
誰かが淹れてくれるにしたって、せいぜい好みを聞かれる程度。
「ハーレイ先生は、濃いめでしたっけ?」だとか、「ブラックですか?」だとか。
それに関しても、本当の所は、さほど好みは無かったりする。
「これでなければ」という、こだわりは。
コーヒーは濃いのが一番だとか、砂糖は絶対、入れない、などは。
その点について、特に不思議には思わなかった。
食べ物に好き嫌いが無いのと同じで、嗜好品だってそうなのだろう、と。
けれど、今なら腑に落ちる。
「コーヒーってだけで、充分なんだ」と。
本物のコーヒー豆から作った、正真正銘、本物の味。
それが最高の贅沢なのだと、遠く遥かな時の彼方で、前の自分が知っていた。
白い鯨になった船では、もう「本物」は無かったから。
コーヒーと言ったらキャロブのコーヒー、イナゴ豆で作った代用品。
(あれも不味くはなかったんだが…)
本物の味を知った舌には、やはり何処かが違ったもの。
キャロブはキャロブで、コーヒー豆とは違うから。
所詮は身代わり、代用品に過ぎないのだから。
(多分、そいつを覚えていたんだ)
今の俺もな、と可笑しくなる。
ブルーに出会って、記憶が戻って、様々なピースが嵌まり始めた。
「俺の好みだ」と思っていた色々なことが、時の彼方に根っこを持っていたりする。
好き嫌いが無いのも、インスタントのコーヒーでも全く気にしないのも。
(…でもって、今では…)
白い鯨の頃とは違って、たった一杯のコーヒーにまでも、こだわれる暮らし。
「こだわりたい」と思いさえすれば。
豆から選んで、そう、その先の淹れ方にまで。
(濃いめか、薄めか、ってだけじゃなくって…)
その気になったら、エスプレッソも淹れられる。
「家で淹れるぞ」と、専用のコーヒーメーカーを買ったなら。
コーヒーにミルクを足すのも自由で、そのミルクだって泡立てられる。
そう、いくらでもバラエティー豊かに、自分の家で楽しめるのが今のコーヒー。
前の自分が生きた頃には、まるで想像も出来なかった日々。
青い地球まで辿り着かねば、ミュウに、シャングリラに未来は無かったから。
本物のコーヒーの味わいどころか、生きる自由さえ持たなかったから。
(そいつを思えば、今の俺は、だ…)
うんと幸せ過ぎるんだよな、と改めて思う。
普段は意識してさえもいない、ごく平凡な教師の暮らし。
それが「途方もない幸せ」なのだと、幸せ過ぎるというものだ、と。
(…前の俺だと、この時間には…)
どうだったかな、と壁の時計に目を遣った。
白いシャングリラで暮らした頃には、何をしていた時間だろうか、と。
(……ふうむ……)
多分、航宙日誌だろうな、と机の羽根ペンに目を留めた。
「前の俺なら、こいつで日誌を書いてたんだ」と。
ブルーに貰った、白い羽根ペン。
誕生日のプレゼントに、と今のブルーがこだわった。
百貨店まで探しに出掛けて、其処で白いのを見付けて来て。
時の彼方のキャプテン・ハーレイが使っていたのも、白かったから、と。
(しかし、あいつの小遣いで買うには…)
羽根ペンの値段は高すぎたから、諦めざるを得なかったブルー。
とても小遣いでは買えない値段で、けれど貯金は使えないし、と。
(…そこまで高価なプレゼントなんぞ…)
「ハーレイは喜びはしないだろう」と、小さなブルーは考えた。
それでも羽根ペンを諦め切れずに、すっかり元気を失くしてしまって…。
(俺が心配になって訊いたら、悩みは羽根ペンだったんだよなあ…)
だからブルーに提案した。
「俺とお前と、二人で買おう」と。
大部分は自分が支払うけれども、ブルーも「無理のない分だけ、負担する」形にして。
(…俺が自分で買いに行ったが、ちゃんとブルーに箱を渡して…)
誕生日の日に、ブルーの手からプレゼントされて、受け取った。
前の自分が使っていたのと、同じ色をした羽根ペンを。
航宙日誌を書くためにあるのではなくて、好きなことを書いていい羽根ペン。
今の自分は、航宙日誌を書かないから。
きちんと記録を残さなくても、誰も困りはしないのだから。
本物のコーヒーを好きなだけ飲めて、好きな淹れ方が出来る今。
白い羽根ペンを持っていたって、航宙日誌は要らない時代。
なんと幸せな時代だろうか、と書斎の中を見回してみる。
ずらりと並んだ本にしたって、どれも生死が懸かってはいない。
キャプテン・ハーレイが暮らした部屋には、そういう本が幾つもあったのに。
(…パイロットの免許は、持っていなかったが…)
無免許運転だったけれども、シャングリラの操舵には自信があった。
「俺でなければ、乗り切れないぞ」と、あの船で、何度、思ったことか。
(…マードック大佐の船に追われて、三連恒星の重力干渉点から…)
ワープして追跡を振り切った時やら、アルテメシアを脱出した時のワープやら。
(重力圏からの亜空間ジャンプなんぞは…)
文字通り、前例の無いことだったけれど、前の自分はやり切った。
そうしないと船が沈むから。
白いシャングリラが沈められたら、全員が死んでしまうのだから。
(…やってやれないことはない、と…)
前の自分が下した判断、その後ろには、本で学んだ知識が鏤められていた。
「船長として、学んでおかないと」と、懸命に読んだ、航宙学の専門書たち。
人間が宇宙で学んだ全てが、其処に詰まっているのだから。
一つ間違えたら命を失う、過酷な場所が宇宙空間。
其処で「死なずに生き延びる」方法、そのためのヒントが本には山ほど。
(…お蔭で、あの船を、無事に地球まで…)
運んで行けたのが前の自分で、その責任は重かった。
今の時分の書斎と違って、好みだけでは揃えられなかった本。
それを思えば、この書斎だって、贅沢過ぎる空間だろう。
(…そりゃあ、教師には必須の本ってヤツも…)
一緒に並べてはあるのだけれども、殆どは趣味で集めた本たち。
前の自分には許されなかった、「好きな本だけ集める」こと。
こうも違うか、と驚嘆させられてしまう。
「こんなに幸せ過ぎていいのか」と、「ちょっと幸せ過ぎないか?」と。
(……うーむ……)
今の時代は当たり前になった、「ミュウが幸せに生きてゆく」こと。
人間が一人残らずミュウになった今は、前の自分の時代とは違う。
戦いも世界から消えてしまって、穏やかな日々が流れてゆく。
誰もが「今」を満喫しながら、幸せに生きてゆく世界。
(…今の俺には、そいつが普通で、当たり前の暮らしなんだがな…)
ちょっとばかり不安になるってモンだ、と自分の頬を軽く抓ってみる。
「夢じゃないよな」と、「俺は本当に、そういう世界にいるんだよな」と。
(よし、こう抓ったら、痛いから…)
間違いなく現実なのだけれども、こうして「ちょっぴり不安になる」のは…。
(…前の俺が生きた頃の記憶が、俺の中に戻って来たモンだから…)
比べちまって、夢じゃないかと思うんだよな、と苦笑する。
「どうも貧乏性らしい」と。
幸せ過ぎると、不安になってしまうから。
その分、余計に「幸せ」を実感出来るわけだし、お得なのかも知れないけれど。
人間が全てミュウな今では、幸せで当たり前だから。
当たり前の日々を「幸せ過ぎる」と思う人など、きっと、そうそういないのだから…。
幸せ過ぎると・了
※今のハーレイには当たり前の日々、それが前のハーレイには「幸せ過ぎる」という現実。
ちょっぴり不安になってしまうくらいに、今は幸せが普通なのです。幸せですよねv
(今日は一度も会わなかったよね…)
教室でも廊下でも会えなかったよ、と小さなブルーが零した溜息。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は会えずに終わったハーレイ。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
一日中だって側にいたいのに、こうして会えない日だってある。
(…ハーレイの授業、今日は無かったし…)
学校の廊下で会うことも無くて、挨拶さえも交わさないまま。
仕事帰りに寄ってくれるかと、首を長くして待っていたのに、そちらも空振り。
(会議だったのかな、柔道部かな…)
それだって分からないんだよ、と悲しくなる。
少しばかり遅くなってもいいから、帰りに寄って欲しかったのに。
一度も会えずに今日が終わるなんて、なんとも残念でたまらないから。
(前のぼくなら、ハーレイに会えない日なんか、一度も…)
無かったのにな、と遠く遥かな時の彼方へ思いを馳せる。
白いシャングリラでも、改造する前の船の中でも、ハーレイに会えない日など無かった。
必ず何処かで顔を合わせたし、ソルジャーとキャプテンになってからだと…。
(会わないだなんて、周りも許さなかったよね?)
皆を導く立場のソルジャー、皆を乗せた船を預かるキャプテン。
そんな二人が会わずにいたなら、色々な面で支障が出る。
そうならないよう、設けられていた朝食の時間。
(一緒に食事をしてる間に、報告を聞いて…)
船の中の出来事などを把握していた、かつての自分。
本当は報告を受けずにいたって、把握していたのだけれど。
白いシャングリラに張り巡らせていた、思念の糸から、全てを掴んで。
(だけど、言葉は大切だから…)
どんなにキャプテンが多忙だろうと、食事はする。
だから選ばれたのが朝食の時間、其処なら必ず会って話せる、と。
そういったわけで、前の自分は、一日に一度はハーレイに会えた。
夜の報告は無理な時でも、朝食の時間はやって来るから。
ハーレイが仕事に追われていたって、食事は摂らねばならないから。
(でも、今のぼくは…)
今日みたいな日が少なくないよ、と溜息がまた零れ落ちる。
運が悪いと、二日も三日も会えない時も。
(仕方ないけど、悲しくなっちゃう…)
本だって読む気になれないくらい、と机に置かれた本を眺めた。
夢中で読んでいたとしたなら、とっくに読み終えていただろう本。
それは栞が挟まれたままで、まるでページが繰られていない。
机の前に座っていた時、何度も窓へと目を向けていた。
「今日はハーレイ、来てくれるかな?」と。
もしも学校で会えていたなら、その合間にも読み進めただろう。
何ページか読んだら窓の方を見る、といった具合に。
なのに、ハーレイには会えずに終わった、今日の学校。
だから心配が募ってしまって、少し読んでは、見ていた窓。
「ハーレイが来てくれますように」と、祈るような気持ちで。
(そっちに心がいっちゃってたから…)
本の世界に入り込めなくて、同じ箇所ばかりを読み返す始末。
時計の針が進んでゆくほど、どんどん酷くなった症状。
(この時間だと、もう来ない、って…)
ハッキリ分かってしまった後には、本の世界は、もっと遠くなった。
溜息ばかりが零れてしまって、それどころではなかったから。
栞を挟んでパタンと閉じては、また開いての繰り返し。
それでは少しも進みはしなくて、栞は今も挟まれたまま。
ハーレイが来てくれた日だったならば、別れた後にも、また読めたのに。
「今日は素敵な日だったよね」と、うんと幸せな気分になって。
本の残りも読んでしまおうと、弾んだ気持ちで。
「これを読んだら、次はあの本」と、新しい本にも心を向けて。
けれども、会えずに終わったハーレイ。
本のページはサッパリ進まず、気持ちの方も落ち込んだまま。
(……こんな日が、いっぱい……)
本当は、さほど多くもないのに、そういう気分になってくる。
前の生では、会えない日などは、一度も無かったのだから。
(…今のハーレイと会う前だったら…)
別の意味では全く無かった「会えない日」。
ハーレイと出会っていない以上は、会えない日だってあるわけがない。
全く意識していない人では、「会えない」も何も無いのだから。
一度も会えずに終わっていたって、そのことを意識しさえもしない。
(…お隣さんとか、学校の帰りに前を通る家の御主人だとか…)
そういう人たちの方が、会えなかったら気になるだろう。
「今日は表に出ていなかったよ」とか、「今日は挨拶、していないよね?」などと。
けれど「出会っていないハーレイ」は、顔さえ知らない他人でしかない。
何処かで擦れ違うことがあっても、たったそれだけ。
(ハーレイは、うんと背が高くって…)
体格もいいから、「今のおじさん、大きかったよね」と思う程度だろうか。
そうして直ぐに忘れてしまって、それっきりになることだろう。
ただ擦れ違っただけの人など、いちいち覚えていないのだから。
(もしかしたら、ハーレイと出会う前には…)
そういったことが、何処かで起こっていたかもしれない。
お互い、そうだと気付かないまま、擦れ違うことが。
十四年間も同じ町で暮らして来た間に、一度くらいは。
(今でも、出会っていなかったなら…)
ハーレイは「ただの同じ町の住人」、ハーレイの車を見たって同じ。
濃い緑色の車が走っているだけ、チラと眺めてそれでおしまい。
忘れもしない五月の三日に、ハーレイと出会わなかったなら。
ハーレイが今の学校に来ずに、別の学校にいたならば。
なにしろ、出会わないのだから。
出会わなかったら、記憶も戻って来ないのだから。
(…そうなってたら…)
今の苦労は無かったよね、と読めずに終わった本に目を遣る。
「ハーレイに会えずに終わっちゃったよ」と、溜息ばかりで読めなかった本。
もしもハーレイに出会わなかったら、今日は、ごくごく普通の一日。
学校から家に帰って来たら、「ただいま」と母に挨拶をして…。
(焼いてくれてたケーキを食べて、紅茶を飲んで…)
おやつの時間を楽しんだ後は、ゆっくり読書をしたことだろう。
途中で窓を見たりはしないで、夢中になって。
本の世界に入ってしまって、母に「晩御飯よ」と呼ばれても…。
(はーい、って返事だけしたら、まだいい方で…)
呼ばれたことにも気付かないほど、読み耽っていたのかもしれない。
辺りがすっかり暮れてしまって、部屋の中も暗くなっていたって。
机のライトだけしか点けずに、それでも「暗い」と思いさえせずに。
(…うん、きっと、そう…)
ハーレイと出会っていない以上は、自分はただの十四歳の子供なだけ。
それに相応しい日々を送って、溜息なんかは滅多につかない。
今日のように悲しくなりもしないし、寂しい思いもするわけがない。
恋などは、していないのだから。
ハーレイの存在は知りもしないし、愛おしいとも思わないから。
(…そうなってたら、今の苦労は無いんだけれど…)
前のぼくだと、どうだったかな、と時の彼方で生きた自分を考えてみた。
そちらの自分が、前のハーレイと出会わなかったなら、と。
苦労を知らずに生きていたのか、どんな具合の人生だろう、と。
(……んーと……?)
出会ったのはアルタミラだったよね、と思い出すのは燃え盛る地獄。
メギドの劫火に焼かれ、砕かれたジュピターの衛星、ガニメデにあった育英都市。
前のハーレイとは、其処で出会った。
アルタミラがメギドに滅ぼされた日に。
人類がミュウの殲滅を決めて、星ごと砕いてしまった時に。
(…前のぼくも、シェルターに閉じ込められて…)
焼き払われる時を待っていた。
研究者たちが、そう告げたから。
首に付けられていた、サイオンを封じる銀色のリングを外した時に。
「お前たちは皆、滅びるんだ」と、シェルターに押し込み、鍵を掛けて。
(…大勢のミュウが、泣き叫んでて…)
死にたくない、と騒いでいたのだけれども、自分に何が出来るだろう。
どうすることも出来はしないし、その方法も分からない。
自分に途方もない「力」があるとは、夢にも思わなかったから。
だからこそ人類が恐れていたのを、前の自分は知らなかったから。
(……死んじゃうんだな、って……)
思ったけれども、それから何がどうなったのか。
ふと気が付いたら、地面に座り込んでいた。
シェルターは微塵に砕けてしまって、皆が我先に逃げ出してゆく。
それをぼんやり眺めていた時、「お前、凄いな」と声を掛けられた。
逃げないでいた、前のハーレイに。
他の者たちは逃げたというのに、一人だけ残っていたハーレイ。
幾つものシェルターに閉じ込められていた、大勢のミュウを救おうとして。
(…シェルターの鍵、外から開けられるから…)
前のハーレイは、仲間たちを助けに行こうと言った。
そうするためには、一人でも多い方がいい。
それにシェルターを壊した力は、必ず、役に立つ筈だから。
「チビでも充分、相棒になる」と判断して。
(……もしもあの時、ハーレイと出会わなかったなら……)
前の自分は、アルタミラで死んでいたのだろう。
いくらシェルターを破壊したって、逃げなければ意味が無いのだから。
あのまま座り込んでいたなら、きっと命は終わっていた。
燃える炎に巻き込まれていたか、地震で出来た地割れに飲まれて。
砕け散る星と共に焼かれて、宇宙を漂う塵になって。
(…そうなってたよね…)
そして何もかも終わってたよね、と今だから分かる。
前のハーレイと出会わなかったら、シャングリラでの旅路など無い。
青い地球を目指す旅の代わりに、黄泉の国へと旅立っただけ。
そうやって終わった生の先には、今の人生だって無い。
今のハーレイと出会いもしないし、戻って来るべき記憶さえ無い。
遠く遥かな時の彼方で、ハーレイと出会わなかったなら。
前のハーレイと長い時を生きて、互いに恋をしなかったなら。
(…出会えたから、今があるんだし…)
ちょっぴり苦労もしておこうかな、と浮かべた笑み。
ハーレイに会えない日はあるけれども、それも出会えたお蔭だから。
前のハーレイに出会わなかったら、今の幸せも無いのだから…。
出会わなかったなら・了
※ハーレイ先生に会えずに終わって、悲しいブルー君。苦労してるよ、と溜息をついて。
けれど、そうやって苦労しているのは、出会えたからこそ。時の彼方で、前のハーレイとv
