(幸せだよね…)
今のぼくって、と小さなブルーが、ふと思ったこと。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
(…ついさっきまでは…)
不幸のドン底だったんだけど、と可笑しくなる。
今の自分はとても不幸で、悲しくなるほどツイていない、と嘆いていた。
仕事の帰りに、ハーレイが寄ってくれなかったから。
学校でもハーレイに会えずに終わって、一度も顔を見られなかった。
古典の授業が無かった上に、廊下でも擦れ違わなかったせいで。
(……ツイてなくって……)
最悪な日だ、と思っていたのだけれども、明日には会えるかもしれない。
古典の授業は無い日だとはいえ、ハーレイは学校にいるのだから。
(朝一番から、柔道部の朝練があるもんね?)
運が良ければ、登校して直ぐに会えるだろう。
其処で駄目でも、廊下や階段で擦れ違うだとか、チャンスは山ほど。
それに明日なら…。
(学校の帰りに、来てくれるかも!)
会議や、柔道部で何かが無ければ、ハーレイは寄ってくれる筈。
そうすれば今日の不幸は一転、幸せな時がやって来る。
窓辺のテーブルと椅子でお茶の時間で、夕食だって、ハーレイと一緒。
(晩御飯の時は、二人っきりじゃないけれど…)
両親も食卓に着くのだけれども、それでも充分、幸せではある。
ハーレイの主な話し相手が、両親になってしまっても。
子供の自分は置き去りにされて、大人同士の話題に花が咲いたって。
(…それでも、ハーレイがいるんだもんね?)
ぼくの側に、と嬉しくなる。
声が聞けたら、鳶色の瞳を見ていられたら、それで充分、と。
ついさっきまでは、そうは思っていなかった。
本当の本当に不幸のドン底、悲しくて泣きそうだったほど。
「今日はハーレイに会えなかったよ」と、心の中で繰り返して。
何度も大きな溜息をついて、「今日は最悪」と嘆いてもいた。
けれど、明日には、と思った所で、今の幸せに気が付いた。
「そうだよ、明日があるんだっけ」と。
今はすっかり夜だけれども、暗い夜中を通り過ぎたら、日が昇る。
そうして明日の朝を迎えて、外では小鳥が鳴き出すだろう。
もしも天気が雨だとしたって、雨音の向こうで、夜が明けてゆく。
雨だと小鳥は鳴かないけれども、代わりに聞こえるだろう音。
(屋根に落ちて来る雨の音とか、表の道を走る車が…)
濡れた道を通ってゆくタイヤの音で、雨の日なのだと知らせてくれる。
他にも色々、晴れた日とは違う、雨の日の朝。
(…うん、ちゃんと朝が来るんだよ)
朝が来たなら、ベッドから出て、学校へ行く支度をする。
顔を洗って、制服に着替えて、それから朝食。
(……ホットケーキの朝御飯かも……)
もしかしたら、と心が弾む。
母が焼いてくれるホットケーキは、もちろん、美味しいのだけれど…。
(前のぼくの、憧れの朝御飯…)
本物の地球のホットケーキ、と心は時の彼方へと飛ぶ。
白いシャングリラで暮らしていた頃、前の自分が、何度も夢見た。
いつか地球まで辿り着いたら、と幾つも描いた夢の一つが、ホットケーキ。
(…ホットケーキに、地球の草を食べて育った、牛のミルクのバターを乗っけて…)
サトウカエデの森で採られた、本物のメイプルシロップを、たっぷりとかける。
そういう素敵なホットケーキを、朝御飯の時に食べたい、と。
(前のぼくの夢、そこまでだけど…)
ホットケーキには地球の小麦や、地球で育った鶏の卵も使われている。
なんとも贅沢な限りの朝食、今の自分には、普通だけれど。
ごく当たり前のメニューだけれども、前の自分には、夢で終わってしまった朝食。
青い地球には辿り着けずに、ただ一人きりで、メギドで生を終えたのだから。
(…今のぼくって、うんと幸せ…)
当たり前に明日の朝が来るのも、前の自分が生きた頃には無かったこと。
白いシャングリラが出来上がった後も、「明日が来る」とは限らなかった。
夜の間に人類軍に沈められたら、其処で全てが終わってしまう。
誰一人として、次の日の朝は、迎えられずに。
翌朝の朝食を用意していた、厨房で働く者たちも。
(…それに比べたら、ホントに幸せ過ぎるよね…)
今のぼくは、と頬っぺたを軽く抓ってみた。
「夢じゃないよね?」と。
ベッドにチョコンと腰掛けた自分、チビの自分は夢ではないか、と。
前の自分が、青の間のベッドで見ている夢。
青い地球まで辿り着いたら、こんな風に生きてゆけたらいい、と。
(だけど、頬っぺた、痛いから…)
これは間違いなく現実なのだし、第一、前の自分は死んだ。
遠く遥かな時の彼方で、命と引き換えに、メギドを一人きりで沈めて。
白いシャングリラとミュウの未来を、たった一人で守り抜いて。
(…今じゃ、英雄扱いだけど…)
英雄なんかじゃなかったんだよ、と今でも決して忘れられない、前の自分の悲しい最期。
右手に持っていたハーレイの温もり、それを失くして泣きじゃくっていた。
「もうハーレイには、二度と会えない」と。
「絆が切れてしまったから」と、絶望の淵に突き落とされて。
泣きじゃくりながら死んだ前の自分は、英雄からは遠いと思う。
もしも誰かが見ていたならば、「あの泣き虫が?」と呆れるだろう。
英雄だったら、毅然としたまま、笑みさえ浮かべているだろから。
右の瞳を撃たれていたって、左の瞳で前を見据えて。
ミュウの未来は守り抜いたと、自分の役目を果たしたことに満足して。
自分の命は消えるけれども、仲間たちの命は続いてゆく、と。
(…誰も見ていなくて良かったよね?)
見られていたなら、どうなったかな、とクスッと笑う。
「大英雄には、なれなかったかも」と。
写真集はドッサリ出ていたとしても、顔だけを評価された結果で。
今の時代も語り継がれる、ソルジャー・ブルー。
ミュウの時代の始まりを作った、大英雄だと讃えられて。
(でも、そんなことは、今のぼくには…)
少しも関係無いもんね、と十四歳の子供になった今の自分の右手を眺めた。
前の自分が失くしてしまった、「最後まで持っていたい」と願った、ハーレイの温もり。
それを失くして「右手が冷たい」と、泣きじゃくっていた前の自分。
右手が冷たく凍えたままで、前の自分は死んでいったのに…。
(…今のぼくの手、少しも冷たくないんだよ)
温かいお風呂にゆっくり浸かって、今だって、まだ身体ごと温かい。
部屋も少しも寒くはないから、手が冷たくなる心配も無い。
(それに、冷たくなったって…)
暖房を入れるとか、ベッドの中に潜り込むとか、温める方法は幾らでもある。
おまけに、どうしようもなく冷えた時には…。
(…ハーレイに貰った、サポーター…)
それを着ければ、右手は、たちまち温かくなる。
メギドの悪夢に悩まされていた時、ハーレイがくれたサポーター。
「こいつを着ければ、右手は冷たくならないさ」と。
ハーレイが大きな手で握ってくれる時の、力加減まで再現してあるから。
(だから、安心…)
こうしてパジャマで起きていたって、と幸せな気分に包まれる。
「本当に、なんて幸せなんだろう」と。
不幸のドン底だと思っていたのに、そう考えたことさえ、嘘だったように。
(ホントに、幸せ過ぎちゃうくらいで…)
前のぼくには、夢のまた夢、と白いシャングリラを思い出す。
白い箱舟で生きた頃には、あれでも充分、幸せだった。
明日の朝が来る保証など無い、降りる地面さえ持たない白い箱舟でも。
それでもミュウの楽園だったし、「シャングリラ」の名に相応しかった。
船の中では、人らしく生きてゆけたから。
人体実験をされることもなく、きちんと三度の食事も出来て。
(あの頃の、ぼくに比べたら…)
本当に幸せ過ぎる暮らしを、今の自分は送っている。
毎日、毎日、当然のように。
それが特別幸せなのだと、こうして気付くことさえせずに。
(…うんと幸せで、ちゃんとハーレイだっているのに…)
不幸のドン底だと嘆くだなんて、前の自分が耳にしたなら、きっと叱られることだろう。
「メギドで死んだ時の自分」でなくても、赤い瞳でキッと見据えて。
「今の自分を、よく見たまえ」と、「何処が不幸だと言うんだい?」と。
(……うーん……)
もう間違いなく叱られるよ、と首を竦めた。
前の自分が此処にいたなら、お説教を食らうことだろう。
「君が不幸だと言うんだったら、ぼくと代わってやってもいい」と。
そうすれば毎日、必ずハーレイに会えるわけだし、幸せに暮らしてゆけるだろう、と。
(ハーレイと本物の恋人同士にも、なれるんだけど…)
今の幸せは、全て消し飛ぶ。
明日の朝が来るとは限らない日々、おまけに青い地球だって「無い」。
母が焼いてくれるかもしれない、朝御飯のホットケーキも、全部。
(パパとママがいる家も無くなっちゃって、学校も無くて…)
これから先にある筈の未来、それもすっかり消え失せてしまう。
結婚出来る年になったら、ハーレイと結婚することも。
同じ家で暮らしてゆける未来も、二人であちこち旅をすることも。
(それじゃ困るよ、そんなの、絶対、嫌なんだから…!)
だけど、ホントに言われちゃいそう、と前の自分を思い浮かべる。
仲間たちには優しかった前の自分だけれども、自分自身には厳しかった。
そう、命さえも、投げ出したほどに。
ハーレイの温もりだけを握って、一人きりでメギドへ飛び去ったほどに。
「ソルジャー・ブルー」と同じ魂を持っているのに、今の自分は、どうだろう。
叱られてしまいそうなくらいに、うんと我儘で、贅沢で…。
(きっと、幸せ過ぎちゃうと…)
それに慣れちゃって、忘れちゃうんだよね、と軽く叩いた自分の頬っぺた。
「もっと、しっかりしなくっちゃ」と。
不幸だなどと嘆いていないで、今の幸せを噛み締めて。
前の自分と比べてみたなら、自分は、うんと幸せだから。
幸せ過ぎると言えるくらいに、幸せが当たり前なのだから…。
幸せ過ぎちゃうと・了
※ハーレイ先生に会えなくて、不幸のドン底だったブルー君。でも、考えたら幸せな今。
幸せ過ぎるくらいに幸せ過ぎて、それを忘れてしまうほど幸せな日々。それこそが幸せv
(この一杯が幸せなんだよなあ…)
酒じゃなくってコーヒーなんだが、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた熱いコーヒー、それを片手に。
酒も好きだし、夜に飲むなら酒でも構わないけれど…。
(こう、丁寧に淹れたコーヒーってのも…)
うんと幸せになれるモンだ、とカップの中身を傾ける。
絶妙な苦みで、そのくせ、薬などの苦さとは違うコーヒーの深い味わい。
豆から挽いたら、コーヒー豆の癖まで、更に引き立つ。
(産地によって違うってのが、また素晴らしいんだ)
飲んで産地を当てられるほどではないのだけれども、「違う」というのは分かるもの。
だからこそ、こうして幸せな時間を持つことが出来る。
「ブルーの家には、行きそびれたな」と、少しガッカリした日でも。
長引いてしまった会議を恨んで、遅い時間に学校を出るしかなかった日でも。
(晩飯を作って、のんびりと食って…)
それから皿などを洗って片付け、おもむろにコーヒー豆を取り出す。
「今日は豆から挽いてみるか」と、「時間はたっぷりあるんだからな」と。
ブルーの家に寄って帰って来た日は、そこまでこだわったりしない。
大抵、次の日も仕事があるから、コーヒーを淹れるにも、まずは手早く。
(挽いてある豆を使うなんぞは、序の口で…)
インスタントのコーヒーなんかも、実は充分、役立っている。
なにしろ、いくらコーヒー党でも…。
(…学校でコーヒーを飲むとなったら…)
ゆっくり淹れている時間は無いから、当然、インスタントの出番。
誰かが淹れてくれるにしたって、せいぜい好みを聞かれる程度。
「ハーレイ先生は、濃いめでしたっけ?」だとか、「ブラックですか?」だとか。
それに関しても、本当の所は、さほど好みは無かったりする。
「これでなければ」という、こだわりは。
コーヒーは濃いのが一番だとか、砂糖は絶対、入れない、などは。
その点について、特に不思議には思わなかった。
食べ物に好き嫌いが無いのと同じで、嗜好品だってそうなのだろう、と。
けれど、今なら腑に落ちる。
「コーヒーってだけで、充分なんだ」と。
本物のコーヒー豆から作った、正真正銘、本物の味。
それが最高の贅沢なのだと、遠く遥かな時の彼方で、前の自分が知っていた。
白い鯨になった船では、もう「本物」は無かったから。
コーヒーと言ったらキャロブのコーヒー、イナゴ豆で作った代用品。
(あれも不味くはなかったんだが…)
本物の味を知った舌には、やはり何処かが違ったもの。
キャロブはキャロブで、コーヒー豆とは違うから。
所詮は身代わり、代用品に過ぎないのだから。
(多分、そいつを覚えていたんだ)
今の俺もな、と可笑しくなる。
ブルーに出会って、記憶が戻って、様々なピースが嵌まり始めた。
「俺の好みだ」と思っていた色々なことが、時の彼方に根っこを持っていたりする。
好き嫌いが無いのも、インスタントのコーヒーでも全く気にしないのも。
(…でもって、今では…)
白い鯨の頃とは違って、たった一杯のコーヒーにまでも、こだわれる暮らし。
「こだわりたい」と思いさえすれば。
豆から選んで、そう、その先の淹れ方にまで。
(濃いめか、薄めか、ってだけじゃなくって…)
その気になったら、エスプレッソも淹れられる。
「家で淹れるぞ」と、専用のコーヒーメーカーを買ったなら。
コーヒーにミルクを足すのも自由で、そのミルクだって泡立てられる。
そう、いくらでもバラエティー豊かに、自分の家で楽しめるのが今のコーヒー。
前の自分が生きた頃には、まるで想像も出来なかった日々。
青い地球まで辿り着かねば、ミュウに、シャングリラに未来は無かったから。
本物のコーヒーの味わいどころか、生きる自由さえ持たなかったから。
(そいつを思えば、今の俺は、だ…)
うんと幸せ過ぎるんだよな、と改めて思う。
普段は意識してさえもいない、ごく平凡な教師の暮らし。
それが「途方もない幸せ」なのだと、幸せ過ぎるというものだ、と。
(…前の俺だと、この時間には…)
どうだったかな、と壁の時計に目を遣った。
白いシャングリラで暮らした頃には、何をしていた時間だろうか、と。
(……ふうむ……)
多分、航宙日誌だろうな、と机の羽根ペンに目を留めた。
「前の俺なら、こいつで日誌を書いてたんだ」と。
ブルーに貰った、白い羽根ペン。
誕生日のプレゼントに、と今のブルーがこだわった。
百貨店まで探しに出掛けて、其処で白いのを見付けて来て。
時の彼方のキャプテン・ハーレイが使っていたのも、白かったから、と。
(しかし、あいつの小遣いで買うには…)
羽根ペンの値段は高すぎたから、諦めざるを得なかったブルー。
とても小遣いでは買えない値段で、けれど貯金は使えないし、と。
(…そこまで高価なプレゼントなんぞ…)
「ハーレイは喜びはしないだろう」と、小さなブルーは考えた。
それでも羽根ペンを諦め切れずに、すっかり元気を失くしてしまって…。
(俺が心配になって訊いたら、悩みは羽根ペンだったんだよなあ…)
だからブルーに提案した。
「俺とお前と、二人で買おう」と。
大部分は自分が支払うけれども、ブルーも「無理のない分だけ、負担する」形にして。
(…俺が自分で買いに行ったが、ちゃんとブルーに箱を渡して…)
誕生日の日に、ブルーの手からプレゼントされて、受け取った。
前の自分が使っていたのと、同じ色をした羽根ペンを。
航宙日誌を書くためにあるのではなくて、好きなことを書いていい羽根ペン。
今の自分は、航宙日誌を書かないから。
きちんと記録を残さなくても、誰も困りはしないのだから。
本物のコーヒーを好きなだけ飲めて、好きな淹れ方が出来る今。
白い羽根ペンを持っていたって、航宙日誌は要らない時代。
なんと幸せな時代だろうか、と書斎の中を見回してみる。
ずらりと並んだ本にしたって、どれも生死が懸かってはいない。
キャプテン・ハーレイが暮らした部屋には、そういう本が幾つもあったのに。
(…パイロットの免許は、持っていなかったが…)
無免許運転だったけれども、シャングリラの操舵には自信があった。
「俺でなければ、乗り切れないぞ」と、あの船で、何度、思ったことか。
(…マードック大佐の船に追われて、三連恒星の重力干渉点から…)
ワープして追跡を振り切った時やら、アルテメシアを脱出した時のワープやら。
(重力圏からの亜空間ジャンプなんぞは…)
文字通り、前例の無いことだったけれど、前の自分はやり切った。
そうしないと船が沈むから。
白いシャングリラが沈められたら、全員が死んでしまうのだから。
(…やってやれないことはない、と…)
前の自分が下した判断、その後ろには、本で学んだ知識が鏤められていた。
「船長として、学んでおかないと」と、懸命に読んだ、航宙学の専門書たち。
人間が宇宙で学んだ全てが、其処に詰まっているのだから。
一つ間違えたら命を失う、過酷な場所が宇宙空間。
其処で「死なずに生き延びる」方法、そのためのヒントが本には山ほど。
(…お蔭で、あの船を、無事に地球まで…)
運んで行けたのが前の自分で、その責任は重かった。
今の時分の書斎と違って、好みだけでは揃えられなかった本。
それを思えば、この書斎だって、贅沢過ぎる空間だろう。
(…そりゃあ、教師には必須の本ってヤツも…)
一緒に並べてはあるのだけれども、殆どは趣味で集めた本たち。
前の自分には許されなかった、「好きな本だけ集める」こと。
こうも違うか、と驚嘆させられてしまう。
「こんなに幸せ過ぎていいのか」と、「ちょっと幸せ過ぎないか?」と。
(……うーむ……)
今の時代は当たり前になった、「ミュウが幸せに生きてゆく」こと。
人間が一人残らずミュウになった今は、前の自分の時代とは違う。
戦いも世界から消えてしまって、穏やかな日々が流れてゆく。
誰もが「今」を満喫しながら、幸せに生きてゆく世界。
(…今の俺には、そいつが普通で、当たり前の暮らしなんだがな…)
ちょっとばかり不安になるってモンだ、と自分の頬を軽く抓ってみる。
「夢じゃないよな」と、「俺は本当に、そういう世界にいるんだよな」と。
(よし、こう抓ったら、痛いから…)
間違いなく現実なのだけれども、こうして「ちょっぴり不安になる」のは…。
(…前の俺が生きた頃の記憶が、俺の中に戻って来たモンだから…)
比べちまって、夢じゃないかと思うんだよな、と苦笑する。
「どうも貧乏性らしい」と。
幸せ過ぎると、不安になってしまうから。
その分、余計に「幸せ」を実感出来るわけだし、お得なのかも知れないけれど。
人間が全てミュウな今では、幸せで当たり前だから。
当たり前の日々を「幸せ過ぎる」と思う人など、きっと、そうそういないのだから…。
幸せ過ぎると・了
※今のハーレイには当たり前の日々、それが前のハーレイには「幸せ過ぎる」という現実。
ちょっぴり不安になってしまうくらいに、今は幸せが普通なのです。幸せですよねv
(今日は一度も会わなかったよね…)
教室でも廊下でも会えなかったよ、と小さなブルーが零した溜息。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は会えずに終わったハーレイ。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
一日中だって側にいたいのに、こうして会えない日だってある。
(…ハーレイの授業、今日は無かったし…)
学校の廊下で会うことも無くて、挨拶さえも交わさないまま。
仕事帰りに寄ってくれるかと、首を長くして待っていたのに、そちらも空振り。
(会議だったのかな、柔道部かな…)
それだって分からないんだよ、と悲しくなる。
少しばかり遅くなってもいいから、帰りに寄って欲しかったのに。
一度も会えずに今日が終わるなんて、なんとも残念でたまらないから。
(前のぼくなら、ハーレイに会えない日なんか、一度も…)
無かったのにな、と遠く遥かな時の彼方へ思いを馳せる。
白いシャングリラでも、改造する前の船の中でも、ハーレイに会えない日など無かった。
必ず何処かで顔を合わせたし、ソルジャーとキャプテンになってからだと…。
(会わないだなんて、周りも許さなかったよね?)
皆を導く立場のソルジャー、皆を乗せた船を預かるキャプテン。
そんな二人が会わずにいたなら、色々な面で支障が出る。
そうならないよう、設けられていた朝食の時間。
(一緒に食事をしてる間に、報告を聞いて…)
船の中の出来事などを把握していた、かつての自分。
本当は報告を受けずにいたって、把握していたのだけれど。
白いシャングリラに張り巡らせていた、思念の糸から、全てを掴んで。
(だけど、言葉は大切だから…)
どんなにキャプテンが多忙だろうと、食事はする。
だから選ばれたのが朝食の時間、其処なら必ず会って話せる、と。
そういったわけで、前の自分は、一日に一度はハーレイに会えた。
夜の報告は無理な時でも、朝食の時間はやって来るから。
ハーレイが仕事に追われていたって、食事は摂らねばならないから。
(でも、今のぼくは…)
今日みたいな日が少なくないよ、と溜息がまた零れ落ちる。
運が悪いと、二日も三日も会えない時も。
(仕方ないけど、悲しくなっちゃう…)
本だって読む気になれないくらい、と机に置かれた本を眺めた。
夢中で読んでいたとしたなら、とっくに読み終えていただろう本。
それは栞が挟まれたままで、まるでページが繰られていない。
机の前に座っていた時、何度も窓へと目を向けていた。
「今日はハーレイ、来てくれるかな?」と。
もしも学校で会えていたなら、その合間にも読み進めただろう。
何ページか読んだら窓の方を見る、といった具合に。
なのに、ハーレイには会えずに終わった、今日の学校。
だから心配が募ってしまって、少し読んでは、見ていた窓。
「ハーレイが来てくれますように」と、祈るような気持ちで。
(そっちに心がいっちゃってたから…)
本の世界に入り込めなくて、同じ箇所ばかりを読み返す始末。
時計の針が進んでゆくほど、どんどん酷くなった症状。
(この時間だと、もう来ない、って…)
ハッキリ分かってしまった後には、本の世界は、もっと遠くなった。
溜息ばかりが零れてしまって、それどころではなかったから。
栞を挟んでパタンと閉じては、また開いての繰り返し。
それでは少しも進みはしなくて、栞は今も挟まれたまま。
ハーレイが来てくれた日だったならば、別れた後にも、また読めたのに。
「今日は素敵な日だったよね」と、うんと幸せな気分になって。
本の残りも読んでしまおうと、弾んだ気持ちで。
「これを読んだら、次はあの本」と、新しい本にも心を向けて。
けれども、会えずに終わったハーレイ。
本のページはサッパリ進まず、気持ちの方も落ち込んだまま。
(……こんな日が、いっぱい……)
本当は、さほど多くもないのに、そういう気分になってくる。
前の生では、会えない日などは、一度も無かったのだから。
(…今のハーレイと会う前だったら…)
別の意味では全く無かった「会えない日」。
ハーレイと出会っていない以上は、会えない日だってあるわけがない。
全く意識していない人では、「会えない」も何も無いのだから。
一度も会えずに終わっていたって、そのことを意識しさえもしない。
(…お隣さんとか、学校の帰りに前を通る家の御主人だとか…)
そういう人たちの方が、会えなかったら気になるだろう。
「今日は表に出ていなかったよ」とか、「今日は挨拶、していないよね?」などと。
けれど「出会っていないハーレイ」は、顔さえ知らない他人でしかない。
何処かで擦れ違うことがあっても、たったそれだけ。
(ハーレイは、うんと背が高くって…)
体格もいいから、「今のおじさん、大きかったよね」と思う程度だろうか。
そうして直ぐに忘れてしまって、それっきりになることだろう。
ただ擦れ違っただけの人など、いちいち覚えていないのだから。
(もしかしたら、ハーレイと出会う前には…)
そういったことが、何処かで起こっていたかもしれない。
お互い、そうだと気付かないまま、擦れ違うことが。
十四年間も同じ町で暮らして来た間に、一度くらいは。
(今でも、出会っていなかったなら…)
ハーレイは「ただの同じ町の住人」、ハーレイの車を見たって同じ。
濃い緑色の車が走っているだけ、チラと眺めてそれでおしまい。
忘れもしない五月の三日に、ハーレイと出会わなかったなら。
ハーレイが今の学校に来ずに、別の学校にいたならば。
なにしろ、出会わないのだから。
出会わなかったら、記憶も戻って来ないのだから。
(…そうなってたら…)
今の苦労は無かったよね、と読めずに終わった本に目を遣る。
「ハーレイに会えずに終わっちゃったよ」と、溜息ばかりで読めなかった本。
もしもハーレイに出会わなかったら、今日は、ごくごく普通の一日。
学校から家に帰って来たら、「ただいま」と母に挨拶をして…。
(焼いてくれてたケーキを食べて、紅茶を飲んで…)
おやつの時間を楽しんだ後は、ゆっくり読書をしたことだろう。
途中で窓を見たりはしないで、夢中になって。
本の世界に入ってしまって、母に「晩御飯よ」と呼ばれても…。
(はーい、って返事だけしたら、まだいい方で…)
呼ばれたことにも気付かないほど、読み耽っていたのかもしれない。
辺りがすっかり暮れてしまって、部屋の中も暗くなっていたって。
机のライトだけしか点けずに、それでも「暗い」と思いさえせずに。
(…うん、きっと、そう…)
ハーレイと出会っていない以上は、自分はただの十四歳の子供なだけ。
それに相応しい日々を送って、溜息なんかは滅多につかない。
今日のように悲しくなりもしないし、寂しい思いもするわけがない。
恋などは、していないのだから。
ハーレイの存在は知りもしないし、愛おしいとも思わないから。
(…そうなってたら、今の苦労は無いんだけれど…)
前のぼくだと、どうだったかな、と時の彼方で生きた自分を考えてみた。
そちらの自分が、前のハーレイと出会わなかったなら、と。
苦労を知らずに生きていたのか、どんな具合の人生だろう、と。
(……んーと……?)
出会ったのはアルタミラだったよね、と思い出すのは燃え盛る地獄。
メギドの劫火に焼かれ、砕かれたジュピターの衛星、ガニメデにあった育英都市。
前のハーレイとは、其処で出会った。
アルタミラがメギドに滅ぼされた日に。
人類がミュウの殲滅を決めて、星ごと砕いてしまった時に。
(…前のぼくも、シェルターに閉じ込められて…)
焼き払われる時を待っていた。
研究者たちが、そう告げたから。
首に付けられていた、サイオンを封じる銀色のリングを外した時に。
「お前たちは皆、滅びるんだ」と、シェルターに押し込み、鍵を掛けて。
(…大勢のミュウが、泣き叫んでて…)
死にたくない、と騒いでいたのだけれども、自分に何が出来るだろう。
どうすることも出来はしないし、その方法も分からない。
自分に途方もない「力」があるとは、夢にも思わなかったから。
だからこそ人類が恐れていたのを、前の自分は知らなかったから。
(……死んじゃうんだな、って……)
思ったけれども、それから何がどうなったのか。
ふと気が付いたら、地面に座り込んでいた。
シェルターは微塵に砕けてしまって、皆が我先に逃げ出してゆく。
それをぼんやり眺めていた時、「お前、凄いな」と声を掛けられた。
逃げないでいた、前のハーレイに。
他の者たちは逃げたというのに、一人だけ残っていたハーレイ。
幾つものシェルターに閉じ込められていた、大勢のミュウを救おうとして。
(…シェルターの鍵、外から開けられるから…)
前のハーレイは、仲間たちを助けに行こうと言った。
そうするためには、一人でも多い方がいい。
それにシェルターを壊した力は、必ず、役に立つ筈だから。
「チビでも充分、相棒になる」と判断して。
(……もしもあの時、ハーレイと出会わなかったなら……)
前の自分は、アルタミラで死んでいたのだろう。
いくらシェルターを破壊したって、逃げなければ意味が無いのだから。
あのまま座り込んでいたなら、きっと命は終わっていた。
燃える炎に巻き込まれていたか、地震で出来た地割れに飲まれて。
砕け散る星と共に焼かれて、宇宙を漂う塵になって。
(…そうなってたよね…)
そして何もかも終わってたよね、と今だから分かる。
前のハーレイと出会わなかったら、シャングリラでの旅路など無い。
青い地球を目指す旅の代わりに、黄泉の国へと旅立っただけ。
そうやって終わった生の先には、今の人生だって無い。
今のハーレイと出会いもしないし、戻って来るべき記憶さえ無い。
遠く遥かな時の彼方で、ハーレイと出会わなかったなら。
前のハーレイと長い時を生きて、互いに恋をしなかったなら。
(…出会えたから、今があるんだし…)
ちょっぴり苦労もしておこうかな、と浮かべた笑み。
ハーレイに会えない日はあるけれども、それも出会えたお蔭だから。
前のハーレイに出会わなかったら、今の幸せも無いのだから…。
出会わなかったなら・了
※ハーレイ先生に会えずに終わって、悲しいブルー君。苦労してるよ、と溜息をついて。
けれど、そうやって苦労しているのは、出会えたからこそ。時の彼方で、前のハーレイとv
(今日は会えずに終わっちまったなあ…)
残念ながら、とハーレイが零した小さな溜息。
ブルーの家には寄れなかった日の夜、いつもの書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた熱いコーヒー、それを片手に。
今日は学校で会えずに終わってしまった、ブルー。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
今はすっかりチビだけれども、愛おしい人には違いない。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が恋した人。
「何処までも共に」と誓っていたのに、前の自分は失くしてしまった。
誰よりも愛していた人を。
気高く美しかった恋人、ソルジャー・ブルーと呼ばれた人を。
(……俺のせいではなかったんだが……)
それとも俺のせいだったろうか、と今更のように思わないでもない。
キャプテンとしての前の自分の判断、それが誤っていたのだろうか、と。
(…ジョミーの意見を容れる代わりに…)
長老たちの意見に従っていたら、全ては違っていたかもしれない。
赤いナスカを調査しに来た、あのメンバーズを殺していたら。
今でも憎くてたまらない男、キース・アニアンの命を断っていたなら。
(…殺せとまでは言われなかったが…)
あの時、ゼルたちが言っていたのは、それと同じなことだった。
ジョミーは対話を望んだけれども、長老たちの意見は「調べ尽くす」こと。
精神崩壊してもいいから、キースの真意を、地球の情報を、引っ張り出して。
(そうなっていたら、キースは発狂…)
狂った人間に用など無いから、恐らくは、放り出しただろう。
死ぬのを承知で、真っ暗な宇宙空間に。
なにしろ人類がミュウにしたことは、それに似たことばかりだから。
(そしたら、キースは死んでしまって…)
もうメギドなどは持ち出せないから、ブルーを失わなかったろうか。
いつかメギドが来たとしたって、その頃までには、きっと備えがあったろうから。
(…俺のせいだったのかもしれないなあ…)
間接的にはそうかもしれん、と思うけれども、自業自得の報いなら受けた。
前のブルーを失くした後には、果てさえ見えない辛い道のりが待っていたから。
(あいつと約束してたのに…)
ブルーの寿命が尽きてしまうことが、白い箱舟の中で分かった時。
ドクター・ノルディが悲しい告知を口にした後、前の自分はブルーに誓った。
「何処までも一緒に参りますから」と。
ブルーの命の灯が消えた時は、自分も後から追ってゆくから、と。
キャプテンとして、ソルジャーの葬儀を終えたなら。
(…その時のためにシドを選んで、薬も用意してたんだがな…)
そのつもりで生きていたというのに、ブルーはそれを許さなかった。
最後の最後に、「ソルジャー」として下した命令。
恋人としての願いではなく、ソルジャーからの願いとして。
「頼んだよ、ハーレイ」とブルーが紡いだ言葉が、前の自分を縛り付けた。
ジョミーを支えて、地球までの道を歩んでゆくことに。
ブルーを失い、魂は既に死んでいようと、白いシャングリラを地球まで運んでゆく道に。
(…本当に、生ける屍だったよなあ…)
いくら顔では笑っててもな、と思い返すと今も苦しい。
キャプテンだからと自分を叱咤し、懸命に繕い続けた外見。
仲間たちを励まし、共に喜び、勝ち抜いていった人類軍との戦いの日々。
「此処まで来られた」と歓声が船を揺るがせる度、笑顔の裏で思っていたことは…。
(これで、あいつに…)
会いに行ける日がまた近付いた、ということだけ。
船が地球まで辿り着いたら、そして人類に勝利したなら、ブルーに頼まれた役目は終わる。
そうしたら、晴れて旅に出られる、と。
(先に逝っちまった、あいつを探しに…)
身体を離れて飛んでゆける、と思っていた。
その日が、早く来てくれないかと。
一日も早くブルーの許に、と、ただ、それだけを頼みに生きた。
自分の身体を捨ててゆく日に憧れ、それを望み続けて。
(思っていたのと、少々、違っちまったが…)
前の自分は地球の地の底で死んで、そうしてブルーと、また巡り会えた。
青く蘇った、この地球の上で。
前のブルーが焦がれ続けた、青い水の星で。
(あいつに会うって夢は立派に叶ったな)
それも最高の形で会えた、と考えただけで嬉しくなる。
前の生でブルーと共に描いた、「地球に着いたら」という夢の数々。
ブルーの寿命が尽きると分かって、諦めるしかなかった夢たち。
それを二人で叶えてゆけるし、そうなる時が待ち遠しい。
チビのブルーが前のブルーと同じ姿に育って、結婚式を挙げる日が。
今度こそ二人で生きてゆけるし、同じ家で暮らせるようになるから。
(それもこれも、あいつに出会えたからで…)
幸せだよな、と頬が緩んでしまう。
記憶が戻って来るよりも前は、想像さえもしなかった人生。
恋人が出来て、結婚式を夢見るなんて。
その恋人に会えなかったと、溜息をつく日が来るなんて。
(…もしも、あいつに出会わなかったら…)
今日も普通に授業を済ませて、会議をしていたことだろう。
「会議があるとは、ツイてないな」とは思わずに。
そのせいで恋人に会いに行けない、とガッカリしたりは全くせずに。
(いそいそと会議に出掛けて行って、それが終わったら…)
愛車を家に向かって走らせ、途中で買い物。
今日の自分も、買い物には寄って来たけれど…。
(…あいつの顔が浮かんじまって…)
御機嫌と言えはしなかった。
家に帰って夕食の支度、その間だって。
ブルーに出会う前だったならば、鼻歌交じりに楽しく料理をしたのだろうに。
何もかも変わっちまったな、と思う「出会ってからの日々」。
前の自分もそうだったろうか、と時の彼方に思いを馳せる。
今はこれほど幸せなのだし、前の自分はどうだったろう、と。
前のブルーと出会った後には、人生がすっかり変わったろうか、と。
(…前のあいつとは…)
燃えるアルタミラで出会ったんだ、と遠い記憶の糸を手繰った。
増え続けるミュウに恐れをなした人類が決めた、星ごと滅ぼしてしまうこと。
実験体だったミュウは一人残らず、シェルターの中に閉じ込められた。
「人類の敵」を檻に押し込めた後は、宇宙船で逃げて行った人類。
それからメギドが照準を定め、地獄の劫火が解き放たれた。
アルタミラがあったジュピターの衛星、ガニメデに向けて。
ミュウが一人も生き残らぬよう、跡形もなく燃やし、消し去るために。
(シェルターの中で、とんでもない地震に見舞われて…)
これで死ぬのだ、と泣き叫ぶミュウたちに囲まれながら思った。
地獄だった日々も此処で終わると、それもいいかもしれないな、と。
(…少々、苦しい死に方をしても…)
自分の命は其処で終わりで、二度と人体実験は無い。
死んでしまえば、あの苦痛からは解放される。
「死にたくない」と騒ぐミュウたち、彼らは「気付いていないだけ」。
解放されるということに。
不幸な形には違いないけれど、生き地獄は終わるということに。
(…どのくらいの間、そう思ってたんだか…)
長かったように思うけれども、実際は、一分も無かっただろう。
何故なら、自分は「本当に」解放されたから。
木っ端微塵に砕けたシェルター、閉じ込める檻は一瞬の内に消え失せたから。
(あの時、真っ直ぐ、逃げ出していたら…)
ブルーとは出会わなかったのだろう。
前の自分の人生もまた、それから間もなく終わったと思う。
燃えるアルタミラから逃げ出せていても、前のブルーがいないから。
前のブルーがいなかったならば、誰も生き延びられないから。
(あそこで人生、変わったんだな)
前のあいつと出会ったから、と深く頷く。
「人生、すっかり変わっちまった」と、「今の俺とは違う形で」と。
シェルターが砕け散った瞬間、それをやってのけた少年を見た。
青いサイオンの光を放って、皆を自由にした少年を。
(しかし、あいつは…)
自分がそれをやったことさえ、まるで気付いていなかった。
その場にペタンとへたり込んだまま、動こうともせずに。
自由を得られたミュウたちは皆、我先に逃げて行ったのに。
何処へ向かって逃げるというのか、目標さえも定めないまま、一目散に。
(…俺は冷静だったんだろうか…)
それとも単に鈍かっただけか、それは今でも分からない。
けれど自分は、逃げ出さなかった。
代わりに「皆を助けなければ」と、他のシェルターのことを思った。
そうするためには、一人でも多い方がいい。
その上、助けてくれた少年、彼を見捨ててなどは行けない。
(…だから、あいつを助け起こして…)
「お前、凄いな」と声を掛けてやって、そこから全てが始まった。
他のシェルターでの救出劇も、アルタミラからの脱出も。
脱出した後、シャングリラで長く宇宙を旅して、アルテメシアに辿り着いてからの日々も。
(……もしも、あいつと出会わなかったら…)
何もかも、あそこで終わっていた上、今の人生も無いのだろう。
前のブルーと出会ったからこそ、こうして二人で生まれ変わって来たのだから。
(…うん、最高の出会いだったな)
そして今もな、と浮かべた笑み。
前の自分も、今の自分も、ブルーと出会って幸せだから。
もしもブルーと出会わなかったら、今の人生は無いのだから…。
出会わなかったら・了
※ハーレイ先生が考えたこと。ブルー君と出会って変わった人生、前もそうだった、と。
前のブルーに出会わなかったら、恋はもちろん、白いシャングリラでの旅も無かったのですv
(…今のハーレイは、学校の先生なんだよね…)
前のハーレイからは、ちょっと想像できないけれど、と小さなブルーが思ったこと。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は、仕事の帰りに来てくれなかったハーレイ。
放課後に会議があったのだろうか、それとも柔道部の部活が長引いたのか。
どちらにしたって「教師ならではの」理由、其処から「学校の先生」に向かった思考。
「今のハーレイは、学校の先生なんだ」と。
遠く遥かな時の彼方では、ハーレイの仕事はキャプテンだった。
白いシャングリラの舵を握って、仲間たちを纏め上げていた前のハーレイ。
船の航路から、船内で起こる様々な事まで、常にしっかり把握し続けて。
(…んーと…?)
そう考えてみると、今のハーレイの教師の仕事も、適職と言えば言えるだろう。
前のハーレイがキャプテンでなければ、教師をやっていたかもしれない。
子供たちだって懐いていたから、まるで不向きな職ではない。
もしもハーレイに「その気」があって、そういうチャンスがあったなら。
(だけど、前のハーレイがキャプテンになる前は…)
働いていた場は、厨房だった。
シャングリラというのは名ばかりの船で、せっせと料理をしていたハーレイ。
そうなったのは「料理人の素質があったから」だと聞いている。
ある日、たまたま手伝った厨房、其処で誰よりも料理の才能を発揮したから。
野菜を切るのも、下ごしらえも、身体が勝手に動いたという。
前のハーレイには、料理をした記憶は無かったのに。
(それで厨房に入ったんだし、キャプテンになっていなかったなら…)
きっとそのまま、厨房の責任者を続けていたことだろう。
教師の仕事は巡って来なくて、厨房のトップ。
白い鯨になったシャングリラに、子供たちが来るようになった後にも。
船に「先生」という職業が出来て、ヒルマンが彼らを纏める時代が訪れても。
(……前のハーレイだと、先生は無理……)
向いてることにも、きっと気付かなかったよね、とブルーは首を傾げる。
教えるチャンスが無かったのなら、キャプテンか、厨房のトップのままなハーレイ。
(でも、ひょっとしたら…)
先生そのものにはなっていなくても、教えることは出来たかもしれない。
白いシャングリラに、それを思い付く人がいたなら。
(子供相手の料理教室…)
今の時代は、けっこう人気があると聞く。
本物の料理教室と違って、毎日通うわけではなくて…。
(ホテルとか、大きなレストランとかで、一日だけ…)
子供たちを集めて、プロの料理人が料理を教える教室。
其処で教える料理は色々、凝ったものから、ごく簡単に作れるものまで。
(シャングリラだと、食料は大事だったから…)
自給自足で飛んでいた船では、コーヒーさえも代用品で出来ていたほど。
キャロブの豆から作ったコーヒー、それにチョコレートやココアなど。
そんな船では、貴重な食材を無駄にすることは許されない。
料理に全く慣れない子供たちに、卵やバターは任せられない。
(オムレツだって、焦がしちゃったら…)
たとえ黒焦げにならなくっても、その分の卵は「無駄遣い」。
それが厨房の見習いだったら、叱られて終わりになるけれど。
「焦げた分は、お前が食べておけ!」と、厨房のトップに怒鳴られるだけ。
けれども、子供たちの場合は、そうはいかない。
おまけに子供は遊びたがるもの、フライパンから煙が出たって、よそ見をしそう。
他の子たちはどんな具合か、キョロキョロして。
挙句にオムレツが焦げていたって、「失敗しちゃった」と俯くか…。
(ペロッと舌を出しちゃって…)
ごめんなさい、と口では言っても、目だけは笑っていそうな子も。
(…お料理教室、シャングリラでは無理…)
お料理教室の先生も無さそう、と大きく頷いた。
前のハーレイには、教師という職は無かっただろう、と。
そうなってくると、教師は今のハーレイならではの仕事。
ハーレイが好きで選んだ仕事で、プロのスポーツ選手への道もあったと聞いた。
柔道も水泳も、今のハーレイはプロ級だから。
学生時代は沢山の大会に出て、幾つもの賞を取っていた。
そっちの道に進んでいたなら、そういうハーレイに出会えただろう。
(プロのスポーツ選手の方も…)
前のハーレイには無理だったよね、と時の彼方を頭に描く。
SD体制が敷かれた時代は、職業は機械が決めていた。
いくら前のハーレイが頑丈に出来ていたって、プロにはなれなかったと思う。
それほど才能があるのだったら、食材を前に勝手に身体が動くようには…。
(なってないよね?)
料理に費やすような時間は、子供時代から無かった筈。
たとえ料理が好きだったとしても、そうそう、させては貰えない。
スポーツの時間が最優先で、学校はもちろん、きっと他にも練習の場があったろう。
養父母が送り迎えをしたのか、それとも送迎バスが来たのか。
(お休みの日だって、練習だよね…)
プロのスポーツ選手の指導で、才能をもっと伸ばせるように。
料理をしている暇があったら、トレーニングに励むように、と教え込まれて。
(…あの時代だと、前のハーレイが就いてた職って…)
ミュウだと判断されていなかったならば、料理人になっていたのだろうか。
あるいは操船の才能を機械が見出し、パイロットの道に進んだろうか。
(どっちにしたって、先生は無し…)
本当に今のハーレイらしいよ、と嬉しくなるのが教師という職。
前のハーレイだと、どう転がっても、教師になるのは無理だから。
ミュウであっても、ミュウでなくても、なれそうにないのが学校の教師。
他の仕事を割り当てられて、別の道へと向かってしまう。
シャングリラならば、キャプテンか厨房の料理人。
人類の世界で暮らしていたなら、パイロットか、料理人の道へと。
(……料理人かあ……)
前のハーレイが厨房で働く姿は見たから、今のハーレイのも見たい気がする。
シェフの帽子も、寿司職人などが被る帽子も、良く似合いそう。
(うん、ハーレイならピッタリだよ)
スポーツ選手並みの身体に、料理人の白い制服、それに制帽。
なかなか絵になる姿なのだし、そっちの道に進んだハーレイに出会っていても…。
(やっぱり、ハーレイはハーレイだものね)
きっとハーレイを好きになったよ、と胸が高鳴る。
教室ではなくて、ハーレイの店が出会いの場だったとしても。
両親に連れられて入ったお店で、「いらっしゃいませ」と迎えられても。
(絶対、一目で分かるんだから!)
だって、ハーレイはハーレイだもの、と思ったけれども、どうだろう。
今のハーレイは、前のハーレイにそっくりだけれど…。
(…違う姿ってこともあるよね?)
髪と瞳の色が違うとか、肌の色が違っているだとか。
それだけで済んだら、まだマシな方で、顔立ちからして別人だとか。
(……うーん……)
今の生でも、二人揃って、そっくり同じに生まれて来た。
白いシャングリラで共に暮らした、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイに。
今の自分はチビだけれども、大きくなったら、前と同じになるだろう。
ハーレイは「キャプテン・ハーレイ」にそっくりなのだし、自分も、きっと。
けれども、これは奇跡に等しい。
違う姿に生まれていたって、不思議ではないし、嫌とも言えない。
二人一緒に、青い地球に生まれられたなら。
前の生での記憶も戻って、二人で生きてゆけるのならば。
(神様が、うんと贅沢に…)
奇跡を大盤振る舞いしてくれたお蔭で、同じ姿に生まれて来られただけ。
もしも奇跡が少なめだったら、違う姿も有り得ただろう。
自分はもちろん、ハーレイだって。
全く違う姿に生まれて、見た目だけなら別人になって。
(それでも、きっと…)
ぼくは一目で分かる気がする、と心がじんわり温かくなる。
料理人になったハーレイの店で、「いらっしゃいませ」と迎えられても。
前のハーレイとは似ても似つかない、繊細な青年が出て来たとしても。
(身体なんかも、すっかり華奢になっちゃって…)
どちらかと言えば「ソルジャー・ブルー」に近い体格、そんな青年になったハーレイ。
今のハーレイほど年を取っていなくて、若々しい姿で止めた年齢。
それが似合いの姿形で、それもセールスポイントの一つ。
「とても素敵なオーナーシェフ」が腕を振るうなら、店の人気も高くなる。
料理の腕が素晴らしい上、目の保養まで出来るとなったら、客が放っておかないから。
一度でも食事をしに訪れたら、二回、三回と通いたくなるだろうから。
(ハーレイだったら、うんと気配り出来るから…)
男性客にも、きっと大いに喜ばれる筈。
「やたらと美形な店長なんだが、店の雰囲気が最高なんだ」と。
腰が低くて、とても気が利いて、料理はどれも美味しいから、と。
(……見た目は、ハーレイらしくないけど……)
それでも、やっぱりハーレイなんだよ、と見抜ける自信は大いにある。
もしも、その店に入った時に、客の中に「ハーレイそのもの」の人がいたって。
前のハーレイにそっくりそのまま、そういう姿で、けれど中身は他人の魂。
(そんな人が食事をしてたって…)
ぼくは絶対、間違えやしない、と思うし、きっと間違えない。
「ハーレイにそっくりな客」の方には、目をくれもしないことだろう。
カウンターの向こうの繊細な青年、そちらの方に惹き付けられて。
前のハーレイには何処も似ていない、若いオーナーシェフに惹かれて。
(ハーレイの姿だけだったなら…)
ぼくは好きになんかならないものね、と浮かべた笑み。
どんな姿になっていようと、惹かれるのは、その魂だから。
ハーレイの魂を持っていてこそ、前の生から愛し続ける人なのだから。
たとえ姿は違っていても。
教師ではなくて料理人でも、うんと繊細な姿形で、逞しさの欠片も無かったとしても…。
姿だけだったなら・了
※ハーレイの仕事を考える内に、ブルー君が見たくなった料理人のハーレイ。似合いそう、と。
けれど、前のハーレイの姿でなくても、必ず好きになるのです。惹かれるものは魂v