(怖いものかあ…)
ハーレイの場合はコーヒーなんだよね、とブルーがクスッと零した笑い。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は訪ねて来てくれなかった、愛おしい人。
けれど古典の授業で会えた。学校の、自分の教室で。
その時にハーレイが始めた雑談、クラスの生徒の集中力を取り戻すために。
いつもながら見事な技だけれども、今日の雑談の中身は落語。
(まんじゅうこわい…)
人間が地球しか知らなかった頃に、日本で生まれた落語の一つ。
怖い話だと聞いて「怪談なの?」と思ったけれども、全く違っていた話。
(怖いものは何か、って話になって…)
蜘蛛だ、ムカデだ、と話に花を咲かせていた男たち。
その中に一人、「怖いものなど一つも無い」と威張る男がいたものだから…。
(誰だってムッと来ちゃうよね?)
自分たちは「怖いもの」を披露したのに、「俺には無い」などと言われたら。
それで問い詰めたら、「実は…」と男が白状したのが饅頭。
他の者たちは怒っていたから、その男を饅頭攻めにした。
男の部屋に次から次へと、饅頭を山ほど投げ込んで。
(そしたら、怖いから食べちゃおう、って…)
男は端から平らげたわけで、「騙された」と気付いた、様子を見ていた男たち。
腹を立てながら「本当は何が怖いんだ」と尋ねたけれども、男の答えは…。
(今だと、一杯のお茶が怖いって…)
お茶は饅頭にピッタリの飲み物。
SD体制が崩壊した今は、饅頭だって売られている。緑茶も、それにほうじ茶なども。
「饅頭が怖い」と言って山ほど食べた後には、「一杯のお茶」を怖がった男。
教室中の生徒が笑って、雑談はそれで終わりの筈が…。
「授業に戻る」とやったハーレイ、其処で「はいっ!」と手を挙げた生徒。
クラスのムードメーカーの男子、彼の質問はこうだった。
「ハーレイ先生の怖いものは何ですか?」と。
柔道で鍛えたハーレイの強さ、それは誰でも知っている。水泳の腕がプロ級なのも。
その上、飛び抜けて立派な体格、頑丈そうなその身体。
(怖いものなんか無さそうだから…)
聞きたくだってなるだろう。
「ハーレイ先生にも怖い何かがあるのだろうか」と、「是非、知りたい」と。
もちろん自分も例外ではなくて、ワクワクと待ったハーレイの答え。
(ハーレイは何が怖いのかな、って…)
興味津々で瞳を煌めかせたけれど、返った答えは…。
(……コーヒーだなんて……)
ドッと沸き立ったクラスの生徒。
「先生、それは反則です!」と、さっきの落語の話と絡めて。
ハーレイがコーヒーが大好きなことは、生徒たちもよく知る周知の事実。
休み時間や放課後に質問などで出掛けて行ったら、ハーレイが飲んでいるコーヒー。
怖いどころか大好きなわけで、「饅頭が怖い」と言った男と同じこと。
けれどハーレイは「コーヒーだな」の一点張り。
上等なものほど怖いらしくて、コーヒー豆でも駄目らしい。
(…本当に怖いものが何かは…)
聞けないままで、終わりになってしまった雑談。
ハーレイは再び授業に戻って、それっきり。
「本当に怖いものが何か」は話しもしないで、「コーヒーが怖い」と言い切ったままで。
もっとも、相手はハーレイだから…。
(きっとホントに、怖いものなんか無いんだよ…)
ハーレイだものね、と顔を綻ばせる。
誰よりも強くて優しい恋人、それがハーレイ。
怖いものなどあるわけがないし、「怖いものはコーヒーだけなんだよ」と。
それに比べて、自分の方はどうだろう?
コーヒーは苦手でまるで飲めないから、もちろん怖い。
(そのままで飲めって言われたら…)
たちまち降参、一口だけでも口の中が苦くてたまらない。
どうしてもコーヒーを飲みたいのならば、まずは砂糖をたっぷりと。
それからミルクもたっぷりと入れて、仕上げにホイップクリームをこんもり。
(…そうしたら、うんと甘くなるから…)
やっと飲めるのが今の自分で、前の自分もそうだった。
キャロブで作った代用品のコーヒーだろうが、本物の豆のコーヒーだろうが。
(ぼくだとコーヒー、ホントに怖くて…)
他にも怖いものはある。
メギドの悪夢が何より怖くて、それを連れて来る夜の闇だって…。
(怖い時には怖いよね…)
こんなに暗いとメギドの夢を見てしまいそう、と明かりを点けておく夜もある。
常夜灯だけでは心細いから、他にも控えめに明かり。
(…それに、ハーレイのお蔭で怖くなくなったけど…)
フクロウの声も怖かった。
愛嬌のある姿はともかく、あの声が。
幼かった頃に庭の木に来て、「ゴッホウ、ゴロッケ、ゴウホウ」と鳴いていたフクロウ。
てっきりオバケの声だと思って、両親を起こして泣き叫んだ。
「オバケが来た」と、「庭でオバケが鳴いてるよ」と。
母は「フクロウだから大丈夫よ」と教えてくれたけれども、怖いものは怖い。
フクロウは「オバケの鳥」になってしまって、長く自分を悩ませた。
夜に庭から響く鳴き声は「オバケの声」。
とても怖くて、聞きたくもなくて…。
(あれが聞こえたから、メギドの夢まで見ちゃったんだよ)
恐ろしい悪夢を連れて来たのがフクロウの声。
あの声も「怖いもの」の一つで、なんとか克服できただけのこと。
こうして順に数えてみると、「怖いもの」が幾つもある自分。
ハーレイのように、「コーヒーだ」などと余裕たっぷりの答えは無理。
(…やっぱりハーレイはホントに強いよ…)
柔道と水泳で鍛えた心身、それはダテではないらしい。
前のハーレイにも負けない強さを持っているのが、今のハーレイ。
(…前のハーレイも強かったけど…)
柔道などはしていなかったけれど、精神はとても強かった。
キャプテンの激務に追われた時でも、けして弱音を吐いてはいない。
(…前のぼくがいなくなった後にも…)
ハーレイは「逃げはしなかった」。
誰よりも大切に想った恋人、それを失くしてしまっても。
白いシャングリラに独りぼっちで、生ける屍のようになっても。
(ちゃんとシャングリラを地球まで運んで、ジョミーを支えて…)
ソルジャー・ブルーが遺した言葉を守り続けた。
途中で投げ出してしまわずに。…恋人を追って、死の国に逃げてしまわずに。
(今も昔も、ハーレイには怖いものなんか…)
きっと無いのだ、と心から思う。
「ハーレイは、とても強いから」と。
前は心がとても強くて、今は心も身体も強い、と。
(だけど、ぼくだと…)
今では「怖いもの」が幾つも、「怖いものなんか無い」とは言えない。
前の自分だった頃にしたって、怖いものなら幾つもあった。
(…アルタミラの檻では、研究者たちや実験が怖くて…)
燃えるアルタミラを脱出した後も、「怖くない」とは言い切れなかった人類軍。
マザー・システムも、テラズ・ナンバー・ファイブも、それを相手にしてはいたものの…。
(怖くない、なんて思ったことは…)
多分、一度も無かったと思う。
怖くないなら、シャングリラごと雲海の中に潜む必要など無いのだから。
どうやら自分は弱虫らしい、と今日のハーレイの言葉を思い出す。
涼しい顔で「コーヒーが怖い」と言ったハーレイ。
あんな風には自分は言えない、好物が幾つあったとしても。
怖いものなら沢山あるから、余裕たっぷりに好物の名前を挙げられはしない。
「ホットケーキが怖いんだよ」とか、「パウンドケーキが怖くって…」だとか。
(…うーん…)
ホントにハーレイに比べて弱い、と思う自分の弱虫っぷり。
「怖いものなんか無いよ」と言ってみたいのに。
ハーレイみたいに「反則です!」と皆に抗議されても、「怖いもの」に好物を挙げたいのに。
(ぼくがやったら、嘘っぱちで…)
誰も笑ってくれないよ、と考えたけれど。
怖いものなら山ほどあるから、ハーレイの真似は無理そうだけれど…。
(…ちょっと待ってよ?)
そのハーレイと一緒に、青い地球に生まれて来た自分。
キスも貰えないチビだけれども、ハーレイは今でも自分の恋人。
遠く遥かな時の彼方で、一度は失くしてしまったのに。
右手に持っていたハーレイの温もり、それさえ失くして泣きじゃくりながら死んだのに。
(…だけど、ハーレイと、ちゃんと出会えて…)
前の自分と同じ背丈に育った時には、キスが貰える。
十八歳になれば結婚できるし、その時はもう離れない。
ハーレイが仕事に行っている間は、家で留守番するにしたって…。
(待ってる間に、ハーレイ、帰って来てくれるしね?)
誰よりも強いハーレイが。
「怖いものなど何も無いが」と言ってしまえるハーレイが。
そのハーレイと一緒だったら、怖いものなんか…。
(あるわけないよね、何処を探しても…?)
絶対に無いよ、と自信を持って言えること。
「怖いものなんか、何処にも無い」と。
ハーレイが側にいてくれるのなら、二人で生きてゆけるのならば。
(…コーヒーは、ちょっぴり怖いんだけど…)
苦いから苦手で怖いんだけど、と思いはしたって、大丈夫。
「コーヒーが怖い」と笑ったハーレイ、そのハーレイが一緒なら。
誰よりも強いハーレイの側なら、怖いものなんか、きっと一つも無いだろうから…。
怖いものなんか・了
※「コーヒーが怖い」と言ったハーレイ先生とは逆に、怖いものが沢山のブルー君。
けれど、ハーレイ先生と一緒だったら、怖いものなんか無いようです。頑張れ、ブルー君v
(怖いものなあ…)
俺には無いな、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
夜の書斎でコーヒー片手に、今日の出来事を思い返して。
ブルーの家には寄れなかったけれど、古典の授業をしに出掛けた。
もちろん、ブルーのクラスへと。
ブルーは熱心に聞いていたって、他の生徒たちはそうはいかない。
いくら「ハーレイ先生」の人気が高くても…。
(授業ってヤツをしてる限りは、俺は嫌われちまうんだ)
テストが好きな生徒が一人もいないのと同じ。
授業が好きな生徒というのは、「いない」と言ってもいいだろう。
どんなに好きな科目であっても、自分のペースで学べるわけではない授業。
あまり好きではない科目となったら、嫌になる生徒だって出てくる。
(もう駄目だ、と投げ出すヤツとか、退屈になるヤツだとか…)
そうなると途切れる集中力。
余所見をしたり、欠伸をしたり、今にも寝そうな顔の生徒も。
それでは教師の自分も困るし、授業は其処で一休み。
生徒が食い付きそうな雑談の時間で、「よく聞けよ?」と始めてやったら…。
(現金なモンで、パッと教室の雰囲気が…)
変わってしまうから面白い。
居眠りしかけていた生徒までが、興味津々でこちらを見てくる。
「今日の話は何だろう?」と、好奇心に瞳を煌めかせて。
(…ああいう調子で、授業も聞いてくれればだな…)
いいんだがな、と思ってはみても、それが無理なことは百も千も承知。
仕方ないな、と始める雑談。
集中力は戻ったわけだし、そういう意味では大成功だ、と。
今日の話は「怖いもの」。
「怪談ですか?」と震え上がった生徒や、「怖い話」に期待する生徒もいたけれど。
(残念ながら、そうじゃなくてだ…)
聞かせてやったのは昔の落語。
ただし「あらすじ」、落語を全部話していたなら、もはや雑談とは呼べないから。
それの中身が「まんじゅうこわい」。
人間が地球しか知らなかった時代の日本で生まれた、有名な落語。
男たちが集まり、「お前の怖いものはなんだ」という話題に花を咲かせた。
蜘蛛だのムカデだの、色々なものが挙げられる中で、「無い」と答えた男が一人。
この世に怖いものなどは無いとうそぶいたから、周りの誰もがムッと来た。
「なんてヤツだ」と。
皆に睨まれた男の方では、もう渋々といった具合で…。
(本当は、一つだけあると…)
白状したのが「まんじゅう」だった。
SD体制が崩壊した今は、ちゃんと売られている「饅頭」。
中に餡子が詰まった食べ物、緑茶やほうじ茶が似合いの和菓子。
遠い昔も、やはり同じにあった「饅頭」、それが男の「怖いもの」。
そういうことなら、と他の輩は考えたわけで、「怖いものは無い」と言った男を…。
(饅頭攻めにしてやろう、と…)
男がいる部屋に次から次へと、「怖い」饅頭を投げ込んだ。
悲鳴を上げて騒ぐだろうと思っていたのに、男の方は…。
(とても怖いから、食ってしまえば無くなるだろうと…)
そう言いながらパクパクと食べて、平らげてしまった饅頭の山。
流石に「騙された」と誰でも気付くし、「本当に怖いものはなんだ」と詰ったら…。
(今だと、一杯のお茶が怖いと…)
饅頭にピッタリのお茶を挙げたから、お手上げとなって落語はおしまい。
生徒たちは「へえ…」と聞き入っていた。
「饅頭が怖い」と答えた男の頓智と、騙された他の男たちの話に笑い転げて。
一気に戻った集中力。
「お前たちも、こういう具合にだな…」
上手く切り抜ける頭を持てよ、とクラスを見回し、「授業に戻る」と言おうとしたら。
「先生!」と男子の一人が手を挙げた。
ブルーのクラスのムードメーカー、何かと言えば出てくる彼。
そうしてぶつけられた質問、「先生の場合は何ですか!?」と。
「…俺だって?」
「はい! 先生の怖いものは何なんですか?」
一つくらいはありますよね、という質問に沸き立った教室。
柔道の強さは知られているし、水泳の腕が立つというのも学校中に広まっている。
その上、身体も飛び抜けて大きく、頑丈に出来ているものだから…。
(俺の怖いものを知りたいというのは…)
分からないでもないんだがな、と今だって思う。
「ハーレイ先生にも怖い何かがあるのだろうか」と、生徒たちが興味を抱くのも。
けれども、怖いものなどは無い。…本当に。
そうは言っても知りたがるのが生徒たちだし、話題は「まんじゅうこわい」だったし…。
「ふむ…」と腕組みをして、暫し、考えるふり。
そして、重々しく答えてやった。眉間に深い皺まで刻んで。
「実はな…。俺は、コーヒーが怖いんだ」と。
途端にドッと起こった笑い。
コーヒー好きなのは、誰でも知っていることだから。
「先生、それは反則です!」と声が幾つも上がったけれど。
「いや、コーヒーが怖いんだ。…あえて言うなら、上等なヤツほど怖くてたまらん」
時間をかけて丁寧に淹れたヤツほど怖い、と震えてみせた。
「俺を怖がらせるなら、コーヒーだろう」と。
コーヒー豆など見ただけで怖いし、淹れたコーヒーなら尚更だな、と。
生徒たちは「嘘は駄目です!」と食い下がったけれど、サラリと無視した。
「授業に戻る」と背中を向けて。
(…コーヒーなあ…)
これが怖い、と愛用のカップを傾ける。
マグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、実の所はお気に入り。
(怖いものは何ですか、と訊かれてもだ…)
本当に「無い」から、そう答えたまで。
それで納得してくれないから、「まんじゅうこわい」の落語よろしく「コーヒーだ」とも。
今の時代はとても平和で、悪ガキとして育った自分のようなタイプは…。
(蛇が出ようが、ムカデだろうが…)
少しも怖いと思いはしないし、とても敵わない猛獣などは動物園の檻の中。
猛獣と戦うわけではないなら、「怖い」と思うわけがない。
「ほほう…」と鋭い牙や爪を眺めて、「いくら俺でも勝てないな」と思う程度で。
(こんな平和な時代じゃなあ…)
いったい何を怖がれと言うんだ、と生徒たちの顔を思い浮かべて苦笑する。
幼い子供だったらともかく、「いい年をした大人」たちには、「怖いもの」など無いだろうと。
(俺だけじゃなくて、誰だって…)
そういうモンだ、と思った所で気が付いた。
今の自分は「怖いものなど無い」のだけれども、前の自分はどうだったか、と。
遠く遥かな時の彼方で生きたキャプテン・ハーレイ、あちらの方は、と。
(…前の俺だと…)
まず挙げるのなら、人類軍。
シャングリラがあれば大丈夫だ、と思ってはいても強敵ではあった。
思考機雷の群れに追われて、三連恒星の藻屑になりかけたこともあったほど。
その人類軍にいた「人類」の方も、色々な意味で怖かった。
ミュウの敵だし、アルタミラでは酷い人体実験をされて生き地獄。
(…あれは確かに怖かったが…)
しかし今だと、どれもいないな、と考えるまでもない時代。
人間は誰もがミュウになったし、平和な宇宙に軍などは無い。
それに兵器も武器も無いから、怖いものなど「無い」と答えて当然だろう。
前の自分が時を飛び越えて来ても、「怖いものは無い」と言う時代。
そんな時代に生まれた自分に、「怖いもの」などある筈もない。
(うんと平和で、おまけにブルーも…)
ちゃんといるしな、と思い浮かべた小さなブルー。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ブルーは帰って来てくれたのだし、もう充分だ、と思う今の生。
けれど…。
(…あいつが俺に惚れていなかったら…)
もしもブルーが新しい身体と命に相応しく、まるで別の恋をしていたら。
自分の方など向いてもくれずに、他の誰かに恋をして去ってしまったならば…。
(…俺の人生は真っ暗じゃないか…!)
それだ、と気付いた「怖いもの」。
前の自分はブルーをメギドで失くしたけれども、そうやって「ブルーを失くす」こと。
どんな形であれ、「それが怖い」と、「ブルーがいない人生なんて」と。
ブルーが他の誰かに恋して、幸せに生きていたならば…。
(俺も温かく見守ってやれるが、それでもだな…)
日々、悲しくてやりきれない。辛くて、とても寂しくて。
つまり自分の「怖いもの」とは…。
(…ブルーがいない人生なんだ…)
ブルーだらけの人生だったら歓迎だが、と幸せな未来を頭に描く。
いつかそういう時が来るから、結婚して一緒に暮らすのだから。
(あいつと一緒の人生だったら、怖いものなど…)
一つも無いさ、と自信をもって言えること。
平和な今でも「怖いもの」が一つあるとしたなら、それは「ブルーがいない人生」。
けれどブルーと一緒だったら満足なのだし、怖いものなど全く無いな、と…。
怖いものなど・了
※「怖いものはコーヒー」だと答えたハーレイ先生。怖いものなど一つも無いな、と。
けれど怖いのが「ブルーのいない人生」。ブルー君さえ一緒だったら、「怖いもの」無しv
(今日は、いい日で…)
とっても充実してたよね、と小さなブルーが浮かべた笑み。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は休日、午前中からハーレイが訪ねて来てくれた。
夕食前まで二人きりの時間、両親を交えた夕食の後も…。
(コーヒー、出て来なかったから…)
食後のお茶も、この部屋だった。ハーレイと二人、のんびりと。
コーヒーが似合いの夕食の時は、そうはいかない。
(ぼくはコーヒーが苦手だけれど…)
両親はまるで平気な上に、ハーレイは大のコーヒー好き。
そのことは両親も知っているから、「ハーレイ先生もどうぞ」と出されるコーヒー。
和やかな会話がそのまま続いて、やがてハーレイが立ち上がる。
「そろそろ失礼させて頂きます」と、壁の時計に目を遣って。
そうなった日には、残念な気分。
「パパたちにハーレイを盗られちゃった」と、「もう、お別れなの?」と。
けれど顔には出せない、それ。
ハーレイへの恋はまだ秘密だから、目だけでハーレイに訴える。
「帰っちゃうの?」と。
そうしてみたって、ハーレイを引き止めたりは出来ない。
此処はハーレイの家ではないし、家族同然の付き合いとはいえ、「お客様」には違いない。
遅くまで長居は出来ないものだし、ハーレイは「帰らなければならない」。
頃合いの時間に、「では」と立ち上がって。
仕方ないから、チビの自分はハーレイを外まで送ってゆくだけ。
「ぼく、ハーレイを送って来るね」と、玄関を出て。
ハーレイと一緒に庭を横切り、生垣にある門扉まで歩いて行って。
其処で「またな」と手を振るハーレイ、こちらも「またね」と手を振り返す。
大きな影が見えなくなるまで、「早く家に入れ」とハーレイが身振りで促すまで。
今日もそうして見送ったけれど、素敵な一日ではあった。
朝、目が覚めたら、カーテンの隙間から射し込む朝日。
いい天気だと分かる光で、しかも休日。
(今日はハーレイ、歩いて来るよ、って…)
胸が躍って、ワクワクしながら洗った顔。
「早くハーレイが来ないかな?」と。
パジャマを脱いで着替える間も、頭の中はハーレイのことで一杯。
会ったら何を話そうかと。「訊きたいこと、何かあったっけ?」などと。
ダイニングで朝食を食べる時にも、もう嬉しくてたまらなかった。
(もうじきだよね、って…)
朝食を済ませて待っていたなら、ハーレイが家に来てくれる。
早起きなのだし、今頃はとうに朝食を終えて、出掛けるまでの時間潰しに…。
(庭の手入れとか、新聞を読んでいるだとか…)
ハーレイは何をしているのだろう、と思うだけでも高鳴る鼓動。
もう少ししたら会える恋人、今日は一日、一緒に過ごせる。
午前中のお茶も、二人きりでの昼食も。…それに午後のお茶も。
(ハーレイが来るのが楽しみで…)
頑張って部屋の掃除もした。いつもより、ずっと念入りに。
二人で使うテーブルと椅子も、場所を整え、テーブルを綺麗にキュキュッと拭いて。
それが済んだら、「まだ来ないかな?」と覗いた窓の向こう側。
二階からだと、表の通りもよく見える。
ハーレイが歩いて来たら分かるし、姿が見えたら手を振ろうと。
(でも、ハーレイ…)
早めに来るということは無い。
「お母さんに迷惑だろうが」と、朝食の誘いも断るほど。
だから読めない、到着の時間。
「このくらいの時間」というのはあっても、時計のようにピッタリではない。
少し早かったり、遅かったり。ごくごく自然に幅があるもの。
それもハーレイの主義なのだろう。
時間ピッタリの到着だったら、迎える側も気を遣う。
「準備が出来ていないと駄目だ」と急ぎもするし、遅かったならば心配だって。
そうならないよう、ハーレイはフラリとやって来る。
早すぎもしない、遅すぎもしない、そういう時間の何処かを選んで。
(今日はどっちの方なんだろう、って…)
分からないから、こちらもちょっぴり一休み。
掃除はすっかり済ませたのだし、勉強机の前に座って、読みかけの本を開いていたら…。
(チャイムが鳴って、窓から覗いて…)
ハーレイの姿を其処に見付けた。門扉の向こうで、笑顔で大きく手を振る人に。
こちらも負けずに手を振り返して、じきにハーレイが部屋に来て…。
(ママがお茶とお菓子を運んでくれて…)
其処からは二人きりの時間の始まり。
母が作ったケーキを頬張り、紅茶のカップを傾けながら色々な話。
(ハーレイが歩いて来る途中で…)
見て来た花の話も聞いたし、出会った犬や猫の話も。
「それで?」と何度も先を促しては、「他には?」と質問したりもして。
そうして二人で話していたなら、話題はどんどん広がってゆく。
学校のこととか、普段のこととか、ハーレイの両親のことだとか。
(他にも話すことは一杯…)
何かのはずみにヒョイと飛び出す、前の自分たちが生きた時代のこと。
「あの時はゼルが…」とか、「それはブラウだ」とか、思い出話。
遠い昔のことだけれども、今も鮮やかに覚えているもの。
白いシャングリラで過ごした時間を、其処で起こった出来事を。
(今日も話をしてたっけ…)
懐かしい白い鯨での日々。
苦労話もしたのだけれども、どれも今では「いい思い出」。
あんなこともあった、と思い出しては、二人で懐かしんだりもして。
そうやって二人で話している間に、いつの間にやら日が暮れていた。
午前のお茶が済んだら昼食、二人きりでこの部屋のテーブルで食べて…。
(美味しかったね、って…)
ハーレイと「御馳走様」をしたのが、ついさっきのよう。
空になったお皿を母が下げに来て、三時になったらお茶とお菓子が届いたのも。
(まだまだ時間はたっぷりあるよ、って…)
時計を眺めて満足した。「まだ三時だもの」と。
夕食が出来たと呼ばれるまでには、まだ何時間もあるんだから、と。
そしてハーレイと楽しくお喋り、時間はたっぷりあった筈なのに…。
(日が暮れちゃった、ってカーテンを閉めて…)
暫く経ったら、母が扉を軽くノックした。
「夕食の支度が出来たわよ?」と。
ダイニングにどうぞ、と呼ばれたからには、其処で二人きりの時間はおしまい。
両親も一緒の夕食の席で、恋人同士の話は出来ない。
(…コーヒーが出て来ませんように、って…)
祈るような気持ちで降りて行ったら、コーヒーは合いそうにない料理。
ホッとしながら夕食を食べて、食後のお茶は部屋に戻れて…。
(時間はあると思ったんだけどな…)
まだ大丈夫、とハーレイとお茶を飲んでいる間に、アッと言う間に流れ去った時間。
ハーレイが「またな」と立ち上がったから、驚いた。
「もう、そんな時間?」と。
けれども、壁の時計を見たなら、嫌でも分かる。
「ハーレイが帰る時間なんだ」と、「いつの間に時間が経っちゃったの?」と。
そうは思っても、過ぎた時間は戻せない。…どうにもならない。
ハーレイを引き止められもしないし、外まで送ってゆくしか無かった。
階段を降りて、玄関を出て。
庭を横切って門扉を開けたら、「さよなら」の時間。
ハーレイは帰って行ってしまって、終わってしまった「今日という一日」。
終わっちゃった、と寂しい気分。
朝にはあんなに胸が躍っていたというのに、今の自分は一人きり。
ハーレイは家に帰ってしまって、窓辺のテーブルと椅子は空っぽ。
(…ハーレイの指定席だって…)
空っぽだよね、と眺める椅子。
ハーレイの体重で、ほんの少しだけ座面がへこんでいる方の椅子。
朝に掃除して、「この椅子は此処」と置き場を整えた時は、たっぷりあると思った時間。
「今日は一日、ハーレイと一緒」と、「学校のある日とは違うんだから」と。
何を話そうかとドキドキしながら、ハーレイが来るのを待ったのに。
とても素敵な時間が山ほど、幸せな日だと喜んだのに…。
(…うんと幸せだったけど…)
終わっちゃったら一瞬だよね、と思うくらいに短かった日。
さっきハーレイが来たと思ったら、もう空っぽになっている部屋。
外はとっくに真っ暗なのだし、時間が沢山流れたことは本当だけれど…。
(楽しい時間って、どうして早く過ぎちゃうんだろう…)
そうでない時間は、ゆっくり流れるものなのに。
ベッドの端にチョコンと座って、考え事を始めてからの時間だったら…。
(ほんのちょっぴり…)
まだ身体から、ホカホカと湯気が立っているように思えるくらい。
そのくらいしか経っていなくて、それなのに長く感じる時間。
ハーレイと二人で話していた時は、半時間など、直ぐだったのに。
一時間だって一瞬のことで、気が付いたら日が暮れていたのに。
(…前のぼくだって、そうだったけどね…)
いつだって、アッと言う間だっけ、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。
前のハーレイと生きていた頃に。
白いシャングリラに、恋人同士で長く暮らしていた船に。
キャプテンだった前のハーレイはとても多忙で、恋人同士で会えたのは夜。
青の間でのキャプテンとしての報告、それが終われば二人の時間。
(お茶を飲んだり、ちょっと夜食をつまんだり…)
二人で話して、笑ったりもして、楽しく過ぎていった時。
まだ大丈夫と思っていたのに、いつもハーレイに遮られた。
「もう遅いですから、休みましょう」と。
(それで時計を眺めたら…)
思った以上に遅かった時刻、「まだ早いよ」とは返せなかった。
楽しい時間は其処で終わって、何度ガッカリしたことだろう。
同じベッドで眠るとはいえ、もっと話していたかったのに、と肩を落として。
(あの頃も、今も、おんなじだよね…)
楽しい時には、時間が早く経つということ。アッと言う間に流れ去ること。
そうは思っても、前の自分とハーレイだったら、今日のようには…。
(あれだけの時間を二人きりなんて、絶対に無理…)
無理だったよね、と分かっているから、今の自分の幸せを思う。
「楽しい時間は直ぐに終わるけど、前よりも、ずっと沢山だから」と。
これからもたっぷり取れるんだから、それを楽しみにすればいいよね、と…。
楽しい時には・了
※楽しい時には、時間は直ぐに過ぎてしまう、と考えているブルー君。「今日も、そう」と。
前の生でも同じだった、と思ったものの、今はたっぷりある時間。次の機会を待てるのですv
(今日は充実してたよなあ…)
いい日だった、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
ブルーの家へと出掛けた日の夜、いつもの書斎でコーヒー片手に。
今日は休日、午前中から出掛けて行って、夕食の後までブルーと一緒。
もっとも、夕食はブルーの両親も交えての時間だったのだけれど。
(しかし、食後も…)
ブルーと二人きりで飲めたお茶。
ダイニングから二階のブルーの部屋に戻って、ゆっくりと。
(食後がコーヒーだったなら…)
ああはいかんな、と分かっている。
小さなブルーは苦手なコーヒー、それが似合いの夕食だったら、食後の時間は…。
(あいつの部屋に戻る代わりに、ダイニングで…)
和やかな語らいが続いていって、ブルーとの時間も其処でおしまい。
二人きりには戻れないままで、「では」と立ち上がることになる。
壁にかかった時計を眺めて、帰る時間になったなら。
(そうなっちまうと、あいつはガッカリした顔で…)
とても寂しそうで、けれど表情には出さない。両親が見ているものだから。
目だけが「もう帰るの?」と訴えて来て、ブルーも椅子から立ち上がる。
「ぼく、ハーレイを送って来るね」と。
二人で一緒に玄関を出て、庭を横切り、生垣にある門扉の所まで歩く。
門扉を出たなら、別れの時間。「またな」と軽く手を振ってやって。
(ああいう時には、本当に名残惜しそうで…)
「帰らないで」と瞳に書いてあるけれど、それは今日でも同じこと。
二人きりでゆっくり過ごせた時にも、ブルーは一緒に帰りたがる。
それを言葉には出さないだけで。「ぼくも帰りたい」と、「帰らないで」と。
(食後のお茶を二人きりで飲めたら、笑顔になってはいるけどな…)
寂しい気持ちは変わらないらしい。「もう帰っちゃうの?」と。
其処の所は自分も同じ。
こうして改めて振り返ってみると、思いはブルーと変わらない。
(いい一日で、うんと充実していたんだが…)
終わっちまうとアッと言う間だ、と気付かされてしまう「今日という一日」。
朝に目覚めて、ワクワクしながら食べた朝食。
「今日はブルーに会いに行けるぞ」と、「会ったら何を話そうか」と。
家を出て、歩いてブルーの家まで向かう途中も、躍った心。
車で仕事に出掛ける時とは、まるで違っていた気分。
(仕事も好きではあるんだが…)
好きでなければやっていないし、柔道部の顧問も引き受けはしない。
朝練もあるのが柔道部だから、他のクラブに比べたら…。
(俺の拘束時間は長くなっちまって…)
家を出てゆく時間も早め。
朝練など無いクラブの顧問だったら、朝からジムにも行けるのに。
人によっては、趣味の時間も取れるだろうに。
(ジムと朝練では、違うよなあ…)
同じに運動すると言っても、自分の好きには出来ないメニュー。
ジムの方なら、その日の気分で「何をするのか」好きに選べる。
プールで泳ぐのも、様々な器具を使って身体を鍛えるのも。
けれど、朝練ではそうはいかない。あくまでクラブの生徒のためで、生徒が中心。
(俺も一緒に走っていたって、朝から稽古をつけていたって…)
趣味の運動とは違うんだよな、と分かっている。「生徒のため」だし、主役は生徒。
古典を教える時も同じで、好きな古典ではあるけれど…。
(この家で好きに読んでいる時と、生徒に教える時とでは…)
やはり違ってくる中身。
自分の趣味では「教えられない」。
「こう読んだならば、面白いのに」と思っても。「こんな解釈もある」と知ってはいても。
授業は授業で、教えることは「きちんと決まっている」ものだから。
好きで選んだ仕事とはいえ、勝手気ままに振舞えないのが仕事の現場。
どうしても縛られる「仕事」という枠、それを忘れるわけにはいかない。
朝に車に乗り込んだならば、切り替えなければならない気分。
「さあ、出勤だ」と、「今日も元気にやらんとな?」と。
けれども、今朝は違っていた。
仕事ではなくて、ブルーの家へと出掛けてゆく日。
午前中からブルーと過ごせて、日が暮れて夜になったって…。
(あいつと一緒で、晩飯も一緒に食えるってわけで…)
もう最高にいい日なんだ、と颯爽と歩いた、ブルーの家へと続く道。
「ちょっと早いか」と回り道したり、道沿いの家の花壇を覗き込んだりしながら。
今日という日の中身を思って、「これからたっぷり楽しめるぞ」と。
ブルーの家に着いた時にも、門扉の脇のチャイムを鳴らして、それは御機嫌。
「今日は一日、ブルーと一緒だ」と、二階の窓へと手を振った。
其処からブルーが覗いていたから、「着いたぞ!」と大きく、とびきりの笑顔で。
ブルーの部屋へと案内されたら、二人きりで過ごす時間の始まり。
お茶とお菓子をお供に話して、昼食も同じテーブルで。
(昼飯は、いつも二人きりだしな?)
ブルーの両親は抜きの食事で、今日も楽しく語らいながらの昼食の時間。
食後のお茶が済んだら、のんびり二人であれこれ話して…。
(お次は、午後のお茶ってヤツで…)
ブルーの母が「ごゆっくりどうぞ」と部屋まで運んで来てくれる。
今日はブルーの部屋だったけれど、庭のテーブルと椅子でお茶にする時も。
(初デートの場所ってトコだよな?)
庭で一番大きな木の下、据えてある白いテーブルと椅子。
小さなブルーのお気に入りの場所で、前に自分が選んでやった。その場所を。
キャンプ用の椅子とテーブルを持ち込み、「此処でデートだ」と。
ブルーがすっかり気に入ったせいで、ブルーの父が買った白いテーブルと椅子。
「持って来て頂くのは悪いですから」と、夏になる頃に。
今日のお茶は其処ではなかったけれども、やはりブルーと二人きり。
色々なことを話して笑って、気付けばすっかり日が暮れていて…。
(夕食の支度が出来ましたから、って…)
ブルーの母が扉を軽くノックした。「ダイニングにどうぞ」と。
賑やかだった夕食の時間。人数が増えるものだから。
ブルーの両親が加わるお蔭で、二人だったのが一気に倍の四人になって。
(学校のことやら、シャングリラのことやら…)
話題は山ほど、ブルーの両親もシャングリラの時代には興味津々。
キャプテン・ハーレイにも、ソルジャー・ブルーにも。
そうやって夕食を終えた後には、ブルーの部屋で食後のお茶で…。
(楽しかったな、って晩飯の時の話の続きを…)
語り合う間に、進んでいった時計の針。ハタと気付けば、もう帰る時間。
ブルーに夜更かしさせられないし、そうでなくても「他所の家」。
遅くまで長居は失礼だから、と「またな」と別れて来たのだけれど…。
(…本当にアッと言う間に終わっちまった…)
あいつと過ごしていた時間、と目を遣った時計。
書斎に来てから、どのくらいの時間が経ったろうか、と。
カップのコーヒーは熱いままだし、思った通りにさほど経ってはいない「時」。
(うーむ…)
ブルーの家にいた時だったら、一瞬で経っていたんだが、と考える時間。
三十分など直ぐに過ぎたし、一時間でも同じこと。
(あの家に着いて、ブルーと別れて帰って来るまで…)
長かったんだが、と思ってはみても、感じた時間はあまりに短い。
さっき出掛けて、直ぐに帰って来たかのように。
ブルーの部屋に入った途端に、「すまん、忘れ物だ」と取りに戻ってきたように。
(楽しい時間というヤツは…)
どうして直ぐに過ぎるんだろうな、と思ってしまう。
「ずっと昔もこうだったよな」と。
遠く遥かな時の彼方で、前のブルーと暮らした船。
白いシャングリラで生きていた頃、やはり同じに思ったものだ、と。
(楽しい時には、時間は直ぐに経っちまうんだ…)
前のブルーと青の間で二人、お茶を飲みながら過ごした時間。
ブルーが可笑しそうにコロコロ笑って、前の自分も笑ったりして。
(次の日の仕事に差し支えるから…)
そうそう夜更かし出来ないぞ、と分かっていたから、時間には気を付けていたのに…。
(気付いたら、すっかり遅くなってて…)
前のブルーに「もう休みましょう」と声を掛けては、残念がられた。
「そんな時間かい?」と、「ついさっき、君が来たような気がしてたのに」と。
あの頃は、それで別れたわけではないけれど。
ブルーと同じベッドに入って、朝まで一緒だったのだけれど。
(…今も昔も、変わらんなあ…)
楽しい時は、時間が早く経っちまう、と零れた笑み。
「今なら、ゆっくり二人の時間を取れるんだがな」と。
シャングリラでは、あれほど長い時間は取れなかったし、それを思えば夢のよう。
けれど同じにアッと言う間だと、「楽しい時ほど、早く時間が経つもんだよな」と…。
楽しい時は・了
※ブルー君と過ごした休日、「アッと言う間に終わっちまった」と思うハーレイ先生。
今も昔も、楽しい時ほど早く時間が過ぎるようです。前よりも、ずっと長い時間でもv
(前のぼくだと、英雄なんだけどな…)
大英雄のソルジャー・ブルー、と小さなブルーが、ふと思ったこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は平日、ハーレイは訪ねて来てくれなかった。
会議で帰りが遅くなったか、柔道部の方が長引いたのか。
残念だけれど、そういう日だって少なくないから、そちらはとうに諦めている。
「今日は駄目でも、また別の日があるもんね?」と。
それが明日だといいんだけれど、と考えていたら、「英雄」が頭に浮かんで来た。
前の自分は「大英雄」で、並みの英雄とは違う。
(ミュウの時代の始まりになった、凄い英雄…)
メギドの炎で燃えるアルタミラから、初代のミュウを脱出させたソルジャー・ブルー。
自分が閉じ込められたシェルター、それを壊して、他のシェルターも開けて回って。
(あの頃はソルジャーなんかじゃなくて…)
見た目も今と変わらないチビで、心も身体も長く成長を止めていたまま。
狭い檻と過酷な人体実験、他には何も無かった世界。
そんな世界で大きくなっても、希望などありはしないから。もちろん、未来も。
(自分じゃ意識していなくても…)
育っても何もいいことはない、と思った身体は子供のまま。中に宿っていた心も。
けれど、アルタミラを脱出してから、前の自分は育っていった。
前のハーレイやブラウたちがせっせと声を掛けたり、散歩に連れ出したりと世話してくれて。
身体も心も育ててくれて、気付けば立派に「ソルジャー」だった。
(…青の間まで作られちゃったけれどね…)
「ソルジャーはとても偉いのだから」と祭り上げられ、なんとも困っていたけれど。
その扱いに相応しいだけの、働きはきっと出来たのだろう。
今の時代も、ソルジャー・ブルーは英雄だから。
「大英雄」と呼ばれるくらいで、学校の式典などの時には出てくる名前。
「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」と、今の平和な時代を築いた礎として。
前の自分はとても偉くて、今では英雄。
命まで捨ててメギドを沈めて、ミュウの未来を守り抜いた。
(うんと強くて、強かったのはサイオンだけじゃなくって…)
中身の心も強かった。
自分の命と引き換えにしても、ミュウの未来を守ろうだなんて。
そうするためには、命を失くしてしまうばかりか…。
(前のハーレイともお別れなんだよ…)
さよならのキスも出来ないままで。
ハーレイはブリッジに詰めていたから、別れの言葉も告げられない。
「死にに行くのだ」と皆に知れたら、引き止められてしまうから。
ブリッジの者たちが寄ってたかって、「ソルジャー・ブルー」を止めにかかるから。
(いくらジョミーがソルジャーでも…)
三百年もの長い歳月、ソルジャーだった自分がいなくなったら、ミュウにとっては大きな損失。
この先、どうやって地球に向かうか、ミュウの未来を目指すのか。
道標だった「ソルジャー・ブルー」無しでは、心許ない旅になる。
十五年間も眠ったままでも、「其処にいる」だけで、皆は安心出来たろうから。
「ソルジャー・ブルーがおいでになる」と、「いざとなったら目覚めて下さるだろう」と。
実際、そうして目覚めた自分。
白いシャングリラに張り巡らせていた、思念の糸が震えたから。
キースが起こした脱出騒ぎと、カリナのサイオン・バーストとで。
(…船に何かが起こってる、って…)
そう感じたから、眠りから覚めた。
キースは逃がしてしまったけれども、人質は一人解放させた。
お蔭で皆の期待は高まり、赤いナスカからの脱出を巡って、意見が割れた時でもあるから…。
(ソルジャーなら、何とかしてくれる、って…)
何人もの仲間が見詰めていた。「ソルジャー」は、とっくにジョミーなのに。
だからこそ、知られるわけにはいかない。
「ソルジャー・ブルー」は二度と戻らないことを、死ぬために船を出てゆくことを。
仲間たちが自分を引き止めないよう、隠し通した「最後の目的」。
ハーレイにさえも「さよなら」を言えないままになっても、そうすべきだから。
(みんなに知れたら、もう力ずくで…)
取り押さえるようにしてでも、船に留め置かれていただろう。
何処かの部屋に押し込めるだとか、意識を奪ってしまってでも。
そうなったならば、もうシャングリラを救えない。
ジョミーだけではとても無理だし、白いシャングリラは沈んでしまう。
それを防ごうと、ただ一人きりで…。
(ハーレイに「さよなら」のキスもしないで…)
メギドへと飛んだ、ソルジャー・ブルー。
あれほどの強さを自分は持たない。
十四歳にしかならないチビの子供で、おまけに平和な時代の生まれ。
(前のぼくの記憶が戻って来たって…)
強くなったとは思わない。
その前と同じに子供のままで、我儘も言えば、寂しくてポロポロ涙を零す日だって。
(前のぼくなら、我儘なんか…)
滅多に言いはしなかった。
ソルジャーと呼ばれるよりも前から、子供の姿をしていた頃から。
(みんなと船で暮らせるだけでも幸せだから、って…)
もう充分に満たされていたし、我儘を思い付きさえしない。
「こうなればいいな」と思っていたって、それを押し付けはしなかった。
我儘を言える立場になっても、言えるだけの余裕が船に出来ても。
(前のハーレイには、我儘も言っていたけれど…)
それでもキャプテンの立場を思って、ずいぶんと控え目だったと思う。
今のように直接ぶつけはしないで、「君さえ良ければ」という形。
「良かったら、こうしてくれないかな?」と、頼んでいたのが前の自分。
ハーレイが青の間にやって来る時に、ついでに何かを届けて欲しい、と小さな我儘。
「食堂で何か貰って来てよ」と、夜食の出前を頼んだとか。
前の自分はそんな風に生きて、今の時代は大英雄。
それに比べて自分はと言えば、どうしようもなく弱くてチビ。
(前のぼくだった頃と、同じ背丈に育っても…)
きっと中身は、あれほど強くはならないだろう。
今と同じに泣き虫なままで、我儘だって言うのだろう。
(平和な時代に生まれて、育って…)
十四年間もそうして生きたら、それが「自分」の中身になる。
前の自分の記憶があっても、あくまで知識のようなもの。
本で読んだり、教わるよりかは「実感がある」というだけのこと。
アルタミラの地獄を見てはいないし、酷い実験もされてはいない。
優しい両親に守られて育って、幸せ一杯の日々を過ごして来たものだから…。
(今のぼく、弱くなっちゃって…)
前のようには生きられない。
サイオンが不器用でなかったとしても、やはり「強くはない」だろう自分。
寂しくなったら涙を零して、ハーレイに我儘だって言う。
いつか二人で暮らし始めても、そう出来るほどに大きく成長しても。
(何処も、少しも強くないよね…)
英雄になんかなれっこないよ、と自分が一番よく知っている。
今の自分は、きっと一生、ちっぽけなままで終わるのだろう。
ハーレイの大きな身体に守られ、その陰に隠れて顔だけを出して。
(…生まれ変わりなんだ、って話せば別だけど…)
たちまち自分は英雄扱い、「ソルジャー・ブルー」として脚光を浴びるだろうけれど。
毎日のように取材があったり、あちこちの星へ招待されたり、もう本当に英雄だけれど。
(その英雄はソルジャー・ブルーで、ぼくじゃなくって…)
今の自分が生きて来た日々は、きっと訊かれもしないのだろう。
記憶が戻ってくるよりも前は、どういう風に生きたのか。
「ソルジャー・ブルー」の記憶抜きなら、どんな考えの持ち主なのかも。
皆が知りたいのは「ソルジャー・ブルー」で、今の自分は、ただの器に過ぎないから。
前の自分の威を借りたって、弱い自分は変わらない。
むしろ今より霞むくらいで、誰も「自分」を見てはくれない。
(ぼくじゃ、英雄にはなれないものね…)
それに強くもないんだし、と考えた所でハタと気付いた。
ハーレイを想う気持ちだったら、前の自分にも負けてはいないと。
もしかしたら前より強いくらいで、前以上かもしれないと。
(…前のぼくは、ハーレイと結婚なんて…)
諦めていたと言ってもいい。
シャングリラでは恋さえ明かせなかったし、結婚などは夢のまた夢。
いつか地球まで辿り着けたら、二人で暮らそうと夢見た程度。
夢を見るのは自由だから、と幾つもの夢を描き続けて…。
(ぼくの寿命が尽きると分かって…)
その夢さえも諦めざるを得なかった。涙を幾つも零しながら。
「仕方ないのだ」と、我儘などは言わないで。
けれど、自分はそうはならない。ハーレイとの恋を諦めはしない。
(ハーレイとの結婚、パパやママたちに止められたって…)
「男同士だから」とか、「まだ若すぎる」だとか、止める理由は幾つもある。
そして本当に止められないとは限らない。
両親はとても優しいけれども、一人息子の結婚となれば、考えることも多いだろうから。
(絶対に駄目だ、って叱られたって…)
きっと自分は諦めなくて、泣いて怒って、部屋に立て籠って…。
(許してくれるまで出て行かないとか…)
何日も食事をしないままでも、おやつも食べられないことになっても、やめない籠城。
ハーレイと結婚するためだったら、どんな障害でも乗り越えたいと思うから…。
(今のぼくだって、ちゃんと強いよ…)
前のぼくとは違う部分で、と浮かべた笑み。「ぼくも頑張る」と。
もしも結婚に反対されたら、前の自分よりも強く生きよう。
「許してくれるまで食事しないよ」と、「部屋からも絶対、出ないからね」と…。
今のぼくの強さ・了
※ソルジャー・ブルーだった頃ほど、今の自分は強くない、と考えたブルー君ですけれど。
ハーレイと結婚ということになったら、いくらでも強くなれそうです。部屋に籠城v