(今日はハーレイ、来てくれなくて…)
ハーレイの授業も無かったんだよね、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
学校で挨拶はしたのだけれども、それだけで終わってしまった今日。
ハーレイとゆっくり話せはしなくて、恋人同士の会話も出来ないまま。
(明日もハーレイの授業は無いし…)
授業がある日は明後日だなんて、とガッカリな気分。
けれど、其処まで授業が無くても、学校ではきっと会えるだろう。
運が悪くさえなかったら。
(…運が悪くて会えなくっても…)
明後日になれば教室で会える。授業をしに来たハーレイに。
それに週末がやって来たなら、今度はもっとゆっくり会える。
(予定があるって聞いてないから…)
土曜も日曜も、ハーレイは来てくれる筈。
仕事の帰りに訪ねて来る日は、何の予告も無いのだけれど…。
(土曜と日曜は、ママが張り切って準備するから…)
用意が無駄にならないようにと、来られそうにない時は予告がある。
「すまん、今度の土曜は駄目だ」とか、「日曜日は予定が入っていてな」とか。
それを全く聞いてはいないし、ハーレイはきっと来てくれる。
「来られそうにない」と言った時でも、予定が変われば来てくれるのがハーレイだから。
そんな時には、前の夜に通信が入ったりもする。
突然の訪問で母が慌てないよう、「明日はお邪魔させて頂きます」と。
(お昼御飯も、晩御飯も食べて行くんだものね?)
ハーレイにすれば「通信を入れる」のが礼儀といった所だろう。
予定が中止になった時には、当日だったなら「出掛けた方が早い」けれども。
訪ねて来てから、「急にお邪魔してすみません」でいいのだけれど。
週末は大抵、来てくれるハーレイ。
だから今週だって安心、土曜日が来たら、この部屋で二人。
(お茶とお菓子で、のんびり話して…)
昼時になれば、母が昼御飯を届けてくれる。
もう空になったお茶のカップや、ケーキのお皿を片付けて。
(お昼御飯は、ハーレイと二人…)
夕食は両親も一緒にダイニングだけれど、昼御飯の時はハーレイと二人きり。
どんな話をしていてもいいし、本当に幸せ一杯の時間。
(土曜日のお昼、何になるかな?)
パスタだろうか、それともお箸を使って食べる料理だろうか。
まるで想像がつかないだけに、今からとても楽しみではある。
なんと言っても、「ハーレイと二人きり」だから。
両親の姿が其処に無いだけで、特別に思える時間だから。
(ハーレイと二人で食事だもんね?)
ちょっぴり未来を先取りしたよう。
いつかハーレイと結婚したなら、「二人きりで食事」が当たり前になる。
朝食も、夕食もハーレイと。
ハーレイの仕事が休みの時には、昼食だって二人きり。
(…いつもは忘れちゃってるけれど…)
昼御飯を食べている時には、すっかり忘れているのだけれども、後で思えば幸せな時間。
いつか来るだろう未来の先取り、ハーレイと二人きりでの食事。
(食べてるだけで、おしまいだけどね?)
食事の支度も、片付けも母がしているから。
自分もハーレイも料理はしなくて、ただ食べるだけ。
食べ終わった後の食器なんかも、綺麗に洗って拭いたりはしない。
「このお皿は、此処」と棚に片付けることだって。
ハーレイと暮らし始めた後なら、そういったことも必要なのに。
料理をしないと食べられないし、食べた後には後片付けも。
(うーん…)
まだまだ先だ、と残念な気持ち。
ハーレイと二人きりで、「本当の意味で」食事が出来る日は。
自分たちの家で作った料理を、ハーレイと二人で食べられる時がやって来るのは。
(お料理、ハーレイが作るんだよね?)
一人暮らしが長いハーレイは、料理が得意。
凝った料理を作るのも好きだと聞いているから、きっと手抜きはしないのだろう。
「今日は時間が無いからな?」と言っていたって、一工夫。
「これしか作れん」と大皿にドンと盛り付けた時も、もう見るからに…。
(美味しそう、って思うお料理で、美味しそうな匂いがしてて…)
食べる前から心がワクワク躍る筈。
あまり沢山は食べられないのが、自分でも。
ハーレイが「このくらいは食べられるだろ?」と取り分けるのを、「無理!」と止めても。
(おかわりだって出来なくても…)
美味しい料理をお腹一杯に食べて、幸せな気分で「御馳走様」。
まだハーレイが食べているなら、その光景を眺めて楽しむ。
「本当に沢山食べるよね」だとか、「いつ見ても、美味しそうに食べるんだから」とか。
食事する時のハーレイは、傍で見ていても気持ちがいい。
何でも美味しそうに食べるし、「食べるのが好き」というのが伝わって来る。
そんなハーレイと二人きりで食事で、ハーレイも「御馳走様」と言ったら、後片付け。
二人でお皿を運んで行って、お皿に残った海老の尻尾や、魚の骨などは…。
(きちんと捨てて、それから、お皿…)
綺麗に洗って、水気を切るための籠に並べてゆく。
それが済んだら、キュッキュッと拭いて、元の棚へと。
食器洗い機があったとしたって、それよりも二人で洗いたい。
ハーレイが洗ったお皿を拭いてゆくとか、その逆だとか。
きっと幸せに違いないから。
「二人で一緒に暮らしている」のを、実感できる時だろうから。
今はまだ、母に任せっ放しの食事のこと。
ハーレイと二人きりで昼御飯を食べても、用意なんかはしないから。
料理もしないし、運んでも来ない。
ハーレイと二人で暮らしていたなら、料理はハーレイが作るにしても…。
(出来上がったの、ぼくが運ぶよ、って…)
器に盛られたのを、テーブルに運びもするのだろう。
「ハーレイは此処で、ぼくは此処」と、決まった席の所に置いて。
おかわり用のは、テーブルの真ん中に置いたりもして。
(美味しく食べて、食べ終わったら…)
二人一緒に後片付け。
ハーレイが「俺がやっておくから」と言ったとしたって、「ぼくも」と並んで。
洗い上がったお皿をキュキュッと拭いて、棚へと片付けに行って。
(…早く、そういう日が来ればいいのに…)
まだずっと先のことなんだから、と手が届かない未来を夢見る。
チビの間は、その日は来てはくれないから。
前の自分と同じに育って、ハーレイと結婚しないことには。
(まだ何年も先の話で…)
ぼくはまだまだ待たなきゃ駄目、と思った所で気が付いた。
「何年も待つ」ということの意味。
来年は無理で、再来年も無理。
結婚できる年の十八歳を迎えるまでは、どう転がっても出来ない結婚。
(ぼくは十四歳だから…)
十八歳になって直ぐの結婚でも、待ち時間は三年以上もある。
それだけ経たないと来てはくれない、「ハーレイと一緒に暮らせる」未来。
今は全く手が届かなくて、待っているしか無いのだけれど。
そうやって「待っていられる」自分は、いったいどれほど幸せなのか。
「まだ何年も待つ」なんて。
来年は無理で、再来年でも無理なんて。
(…前のぼくには、そんな時間は…)
無かったんだよ、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。
ソルジャー・ブルーと呼ばれた自分に、「待てる時間」は無かったのだ、と。
いつの間にやら失くしてしまって、「残り時間」を数えていた。
「ぼくの命はもうすぐ尽きる」と、「それまでに、誰かに託さなければ」と。
長い年月、守り続けた白い船。
ハーレイが舵を握り続けた、ミュウの箱舟、シャングリラ。
仲間たちの命を乗せていた船を、誰に託せばいいというのか。
自分がいなくなった後には、誰が守ってくれるだろうかと、心を痛めた前の自分。
やっとジョミーを見付けたけれども、その時にはもう無かった「未来」。
夢に見ていた地球は見られず、辿り着けずに死んでゆく。
「地球に着いたら」と前のハーレイと夢見た数々、それを一つも叶えられずに。
ハーレイとの恋を明かすことさえ、ついに出来ずに、たった一人で。
(…それが辛くて…)
悲しくて、何度泣いただろうか。
「ぼくの時間は、じきに無くなる」と、「夢は一つも叶わなかった」と。
そうやって泣いて、悲しみ続けた「未来」が無いこと。
命が尽きてしまうのだったら、あるわけがない「その先の未来」。
ほんの一年先のことさえ、前の自分は思い描けはしなかった。
それまでに命尽きるだろうから、描く未来など持てはしなくて。
(…未来なんか、ぼくにはもう無いんだ、って…)
何度も泣いたソルジャー・ブルー。…時の彼方にいた自分。
けれども、今は「持っている」未来。
ハーレイと二人で生まれ変わって、遥か先まで夢に見られる。
「まだまだ先だよ」と、「来年も、再来年も無理」などと、ずっと先のことまで。
いつか必ず来るだろう日を、ハーレイと二人で暮らせる日を。
前の自分は、一年先の未来さえも持たなかったのに。
それさえ思い描けないままで、いつも涙を零していたのに。
気付けば、自分は「手に入れていた」。
無かった筈の「未来」を、また。
とうの昔に無くなった筈の、「未来を思い描ける」時を。
(…なんだか凄い…)
それに幸せ、と胸がじんわり温かくなる。
ハーレイと二人で暮らせるまでには、まだまだ何年もかかるけれども…。
(ちゃんと、その日が来るんだもんね?)
今のぼくには未来があるから、と浮かべた笑み。
生まれ変わって、今の自分が生きているのは遥か未来へと続く世界。
「未来のある今」が自分の世界で、「まだ何年も先のことだよ」と言えるのだから…。
未来のある今・了
※「まだまだ先だ」とブルー君が思った、ハーレイ先生と二人きりの家で食事をする日。
けれど、何年も先の「未来」。それが無かったのが前の自分。其処に気付けば、今は幸せv
(明日の授業は、と…)
このクラスと此処と、とハーレイが数える明日の授業。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
授業の準備はとうに済んでいるし、頭に浮かんだというだけのこと。
「何処のクラスで授業だっけな?」と、何の気なしに。
一つ考えると続きがあるもの。
明後日は…、と授業の予定を確認、ついでに明日行くクラスの方も…。
(明日にやって、その次に行くのはだな…)
この日なんだ、と数えてゆく。
自分が受け持つクラスの授業を、この次はいつ、といった具合に。
気付けば来週の分まで数えて、会議の予定も織り込んでいた。
「この日は会議もあったっけな」とか、「この会議は早めに終わるヤツだ」とか。
教師の仕事は先が読みやすい。
決まった範囲を、決まった時間の間に教えるのが役目だから。
少なくとも「授業」に関してだったら、先の先まで予定を立てられる。
(予定は未定、なんて言うヤツだっているほどだから…)
あくまで予定なんだがな、と思いはしたって、その気になったら年度末まで予定は組める。
この日に此処まで進めておいて、と。
此処でテストで、成績の悪い生徒のためには此処で補習をしてゆこう、と。
遅れる生徒が増えそうだったら、この頃までに少しペースを落として復習を、とか。
(ザッと予定を立てさえすれば…)
それを基本に臨機応変、年度末までの「未来」を描ける。
「だいたい、こんな感じだな」と。
「これで一年分が終わるぞ」と、「続きは次の年次第だな」などと。
翌年も自分が担当するかは、その頃まで読めはしないもの。
異動がなくても、学校の中でどう変わるかは謎だから。
それでも一年分は描ける、と思った「未来」。
今からだと数か月分だけれども、年度末までの「未来」の授業。
教室に立つ自分の姿も見えるよう。
教科書を広げて、前のボードに次々と文字を書いてゆくのが。
「分かったか?」と、「お前たち、ちゃんとノートに書けよ!」と見回す姿も。
そして合間に生徒を名指しで、「此処を読め」と音読させてゆく所。
手を挙げた生徒を「よし!」と当てては、答えに頷く光景だって。
(うんうん、いつもそうだってな)
何処の学校でも、何年生を担当しても、授業の流れは変わらない。
年度初めに一年分を「描いて」しまえる、「未来」の授業。
(生徒の方でも、その気になれば…)
一年分の勉強の予定が立てられそうだが、と教科書の中身を考える。
プリントなどを配りはしたって、授業の基本は教科書の方。
年度初めに手にしたならば、「今年はこれを教わるのか」と分かる筈。
ならば授業の中身を先取り、いわゆる「予習」。
「この頃までに此処までやっておこう」とか、「夏休みまでに此処までやる」とか。
そうやって予習をしておいたならば、ずいぶんと楽になるのだろうに…。
(あいつらときたら、まずやらないな)
予習をしようというタイプでも、直前にやっているのが普通。
先の先まで見据えて先取り、そんな生徒は滅多にいない。
(よっぽど好きな科目にしても…)
そうそう数はいないんだ、と分かっているのが「先の先まで予習する」生徒。
未来の予定は立てられるのだし、その気になったら出来るのに。
現に「教える」自分の方では、一年分の「未来」を直ぐに描けるのに。
(まあ、あいつらには未来が山ほど…)
ありすぎて忙しいからな、と苦笑する。
友達と遊ぶ予定が入れば、もうそれだけで変わるのが「未来」。
予習どころか、宿題さえも「忘れ果てる」のが生徒だから。
同じ教科書でも、こうも変わるか、と可笑しくなる。
教師の自分には「一年分の未来が描ける」予定表なのに、生徒は違う。
次の授業の分の未来ですらも、描かないのが生徒たち。
予習なんかはしても来なくて、当たろうものなら大慌て。
(前の日にちゃんと読んでおいたら…)
ああはならんぞ、と思う酷い音読、それは教室で馴染みの光景。
「そう読むのか?」と眉間に皺を寄せながら、「読み直しだ!」とやることも。
なにしろ古典は、今の文章とは違うから。
同じ文字でも、今のようには読まないことも多いから。
(明日もそういうパターンだろうな)
誤読する生徒や、答えられなくて「えっと…」と詰まる生徒やら。
「未来を先取り」して来た生徒は、皆無に近い教室で。
(まったく、若いヤツらってのは…)
俺にも覚えはあるんだがな、と学生時代を覚えているから、怒りはしない。
「未来がドッサリある」状態では、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。
「明日はテストだ」と分かっていたって、ついつい遊びに行くだとか。
家に帰って勉強しようと帰宅したって、気付けば「やっていなかった」とか。
(テストで酷い点を取っても、死にやしないし…)
音読に詰まって赤っ恥でも、ただ笑われるだけで済む。教師には叱られるけれど。
まるで危機感が無いのも当然、「命懸け」ではないのだから。
(俺の方でも、命は懸かっていないしな?)
お互い様だ、と思った所で気が付いた。
当たり前のように描いた「未来」。
年度末まで描けると思って、一年分でもスラスラと描ける「未来」の予定。
それをこなして一年が過ぎて、来年はまた「未来」を描く。
「この学年の担当なのか」と、「ならば教えるのはコレだよな」と。
前の年から教えた学年を引き継ぐのならば、そういったことも織り交ぜて。
未来はいくらでも「描けるもの」で、一年分の授業の未来も描けるけれども…。
(…その未来ってヤツを…)
持っていなかったのが前の俺だ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
今の青い地球に生まれて来る前、キャプテン・ハーレイと呼ばれた頃。
白いシャングリラで、地球を目指して進んでいた時。
(…あの頃の俺は、もう未来なんか…)
既に持ってはいなかった。
前のブルーをメギドで失くして、魂はとうに死んでしまっていたようなもの。
ブルーの望みを果たすためにだけ、「地球」という星を目指していた。
地球には何の夢も抱かず、旅の終着点として。
「地球に着いたら全て終わる」と、「そしたら、ブルーを追ってゆこう」と。
そうなる前には、「未来」を持っていたというのに。
「いつかブルーと青い地球へ」と夢を見た頃は、確かに「未来」があったのに。
あった筈の未来は消えてしまって、未来の代わりに何を見たのか。
「死」だけを思って生きていたって、「未来」はまるで無いのと同じ。
「地球へ行かねば」という目標だけで、それは「未来」と呼べないもの。
予定と呼んでいいのかどうかも、怪しいと言っていいくらい。
(…その目的を果たしたって、だ…)
待っているのは「死」という「終わり」。
ブルーを追って旅立つだけで、それは「先へと繋がりはしない」。
流れる時間の更に「先」へは。
「これが済んだら、次はこうだ」と、続いてゆきはしないもの。
キャプテン・ハーレイは死んでしまって、時の流れの中から消える。
それでは、何も始まらない。
少なくとも、「時の流れ」の中では。
ブルーを追い掛けて旅立った先で、どんな幸せがあろうとも。
(前の俺が、ああやって生きてた時には…)
無かったよな、と気付かされた未来。
地球のその先は「無かった」から。「地球に着いたら、終わり」だったから。
なんてこった、と見詰めてしまった自分の手。
前と同じに生まれ変わって、見た目はあの頃と変わっていない。
コーヒーが入ったマグカップを傾ける手は、授業の時に文字を書いたりする手は。
(だが、今の俺は…)
前の自分と同じようでも、再び「未来」を手に入れた。
遠く遥かな時の彼方で、一度は失くしてしまった「それ」を。
夢見ることさえ忘れた「未来」を、当たり前のように「描いていた」。
「一年分だって描けるんだ」と、「生徒たちだって、その気になったら描けるんだ」と。
前の自分は、それを「失った」のに。
愛おしい人を失くしてしまって、もう「未来」などは無かったのに。
(…そうか、俺には普通なんだが…)
一度は失くしてしまったんだ、と気付かされたら、「今がある」のがとても嬉しい。
こうして未来を描き続けて、もう何年か経ったなら…。
(あいつが嫁に来てくれるんだ)
今はまだまだチビなんだがな、と思い浮かべる小さなブルー。
愛おしい人とまた生きてゆける、幸せな今。
もう一度、「未来」を手に入れたから。
「未来がある今」を生きているから、何処までも「未来」を描けるから…。
未来がある今・了
※授業の「未来」はいくらでも描ける、と思ったハーレイ先生。その気になれば一年分でも。
今では当たり前に「未来」があるのに、それは一度は失ったもの。考えてみると幸せなことv
(ふふっ、ホットケーキ…)
これが大好き、とブルーはパクンと頬張った。
焼き上がったばかりのホットケーキが二枚、お皿の上に乗っかっている。
(ぼくは沢山食べられないから…)
少し小さめ、そういうのが二枚。
ホットケーキは「重ねてある」のが、より美味しそうに見えるから。
大きなものを一枚焼くより、断然、二枚の方がいい。
(メープルシロップたっぷりで…)
熱で溶けてゆく金色のバター、それも大切。
ホットケーキそのものも美味しいけれども、バターとメープルシロップもいい。
(両方揃うと、うんと美味しくなるんだよ)
果物やホイップクリームなどをトッピングするより、基本の食べ方が一番好き。
メープルシロップと金色のバター、これが最高だと思う。
(だって、本物のメープルシロップ…)
合成品ではなくて、砂糖カエデの樹液で出来たメープルシロップ。
混じり気なしの、樹液を煮詰めた甘いシロップは、たっぷりかけても「くどくない」。
バターの方も、地球の草を食んで育った牛のミルクのバター。
牧場で搾ったばかりのミルクを、直ぐに運んで加工してバターの出来上がり。
(食べてる草が美味しいから…)
ミルクもバターも、とても美味しくなって当然。
白いシャングリラの中で育てた、牛たちのミルクのバターより。
(ホットケーキは、こうでないとね?)
朝御飯でなくても、うんと美味しい、とナイフとフォークで食べてゆく。
こういう素敵な「ホットケーキの朝食」、それが自分の夢だったから。
「いつか地球で」と夢を抱いて、食べたいと願い続けたから。
本物のメープルシロップも、地球の草で育った牛のミルクのバターも、船には無いもの。
青い地球まで辿り着かないと、けして食べられはしないもの。
夢だった筈のホットケーキを、美味しく食べている自分。
溶けたバターを塗り付けながら、メープルシロップを絡めてやりながら。
(バターとメープルシロップの味が混ざって…)
ホントに美味しい、と頬っぺたが落ちそうに感じるほど。
前の自分の夢が叶った、地球でしか食べられないホットケーキ。
(今だと、これが当たり前で…)
その気になったら、毎朝だって食べられる。
今日のように「おやつ」になる日だってあるし、ホットケーキは食べ放題。
胃袋さえ悲鳴を上げないのならば、三枚も、それに四枚だって。
(本の挿絵とかにあるみたいに…)
ドッサリ重ねて、メープルシロップをかけたっていい。
山のような量のホットケーキに行き渡る量を、惜しみなく。
バターもたっぷり、好きなだけの大きさに切り取って。
(そういうのだって、今なら出来ちゃう…)
母に頼んで、沢山焼いて貰ったら。
「本当に全部食べられるの?」と呆れられても、「大丈夫!」と言いさえすれば。
それで残してしまったとしても、母は「やっぱりね」と苦笑するだけ。
「そんなことだと思っていたわ」と、「このホットケーキは、どうしようかしら?」と。
きっと母なら、いい使い道を考えてくれる。
メープルシロップと溶けたバターまみれの、ホットケーキの山だって。
チビの自分が食べ切れないで、「もう入らないよ」と途中で降参した後だって。
(晩御飯には使えなくても、デザートに変身しちゃうとか…)
次の日の朝に、思わぬ形に化けてテーブルに現れるとか。
「昨日のブルーのホットケーキよ」と、母がテーブルに運んで来て。
(ママなら、きっとそうだよね?)
料理上手で、お菓子作りも得意な母。
ホットケーキが山ほど残れば、それを使って別の何かを作るのだろう。
そのまま残して、次の日の朝に温め直したりはしないで。
ママだもんね、と顔が綻ぶ。
とても優しくて、叱る時でも声を荒げはしない。
山のようなホットケーキを作って貰って、残したとしても、怒鳴られはしない。
(…パパには話すんだろうけど…)
それを話して、「叱ってやって」とは言わない母。
聞いた父の方も、「此処に来なさい」と怖い顔になって怒りはしない。
どちらかと言えば、父の場合は…。
(ママにきちんと謝ったのか、って…)
確認するだけで、「謝ったよ」と答えた時には、「よし」と頭を撫でるのだろう。
「ちゃんと謝ったんならいい」と、「次から我儘、言うんじゃないぞ?」と。
(ホットケーキの残りで作った、デザートとかも…)
父は「美味いぞ」とパクパクと食べて、「怪我の功名だな」と笑顔になりそう。
「お前が沢山残さなかったら、こいつは食べられないからな?」と。
(パパもママも、うんと優しいんだから…)
ぼくのホントのパパとママだし、と嬉しくなる。
前の自分は、両親を忘れてしまったから。
十四歳になるまで育ててくれた、優しかったのだろう養父母。
その人たちを忘れてしまって、とうとう思い出せないまま。
どんな顔だったか、どんな声をした人たちだったか。
(…顔だけだったら、写真が残っていたのにね…)
テラズ・ナンバー・ファイブを倒した後に、引き出された膨大な「ミュウに関する情報」。
その中に前の自分のもあって、養父母の写真も残されていた。
今のハーレイが覚えていたから、今の自分にも伝わったけれど…。
(声はデータが無かったから…)
養父母の声は分からない。
今の両親なら、直ぐに頭に浮かぶのに。
どういう言葉を口にしそうか、それだって直ぐに分かるのに。
ホントに残念、と思うけれども、今は幸せなのだし、いい。
血が繋がった本物の両親、それが自分の父と母。
(ホットケーキも、ちゃんと本物…)
前のぼくの夢のホットケーキ、と食べる間に、不安になった。
これは本当のことだろうか、と。
本物の母が焼き上げてくれた、二枚重ねのホットケーキ。
地球の草で育った牛のミルクのバターに、砂糖カエデから採れたメープルシロップ。
(夢みたいだけど…)
こっちが夢の出来事かも、と自分の頬っぺたを抓ってみた。
夢の中なら痛くない、と前に何処かで聞いたから。
(えーっと…?)
キュッと抓っても、ギュウと抓っても、痛くない。
まさか、と頬っぺたを引っ張ってみても、少しも感じない痛み。
(…これって、夢なの…?)
どおりで「夢のホットケーキ」が此処にある筈。
山ほどの量のホットケーキを焼いてくれそうな、「本物の母」が家にいる筈。
(…ぼくはママなんか忘れてしまって…)
父の顔だって覚えていなくて、子供時代の記憶も無い。
それが自分で、「ソルジャー・ブルー」。
白いシャングリラで暮らすミュウたちの長で、向かおうとしているのが青い地球。
その地球でしか、こんなホットケーキは食べられない。
地球に着いても、「本物の両親」なんかはいない。
SD体制が敷かれた時代に、血縁のある親子は存在しないから。
子供は全て、人工子宮から「外の世界」に出されるから。
(…そうだよね…)
こんな素敵な世界なんかは何処にも無いよ、と気付かされた。
ホットケーキも、優しい両親も、全部、自分が見ている夢。
目が覚めたならば、そんな世界は無いのだから。
これは夢だ、と分かってしまうと、夢の世界にしがみ付きたくなる。
夢の世界から出たくなくなる。
(目が覚めちゃったら、ホットケーキも、ぼくのパパとママも…)
消えてしまって、それっきり。
ホットケーキなら、いつか地球まで辿り着いたら、きっと食べられるだろうけれど…。
(パパとママには…)
会えはしないし、一緒に暮らすことも出来ない。
夢の中なら、両親の家に住んでいるのに。
この夢の中で「ママ!」と呼んだら、「どうしたの?」と母が来てくれるのに。
夕食が出来る頃になったら、父も帰って来てくれる。
「ただいま」と玄関の扉を開けて、「今日も学校、楽しかったか?」と。
けれど、何もかも夢の産物。
もうじき夢は覚めてしまって、自分は「ソルジャー・ブルー」に戻る。
今は小さな子供なのに。
十四歳にしかなっていなくて、甘えん坊のチビなのに。
(起きたくないよ…)
ずっとこの夢の中にいたいよ、と我儘な気分。
ソルジャーに、それは許されないのに。
目覚ましが鳴ったら直ぐに起き出し、ソルジャーの衣装に着替えなければ。
そして船での一日が始まる。
ホットケーキが朝食に出ても、メープルシロップは合成品の船。
バターはあっても、船の中で育てた牛のミルクで作られたバター。
(ホットケーキを、ぼくが残しちゃっても…)
美味しく変身させてくれる母はいなくて、「ママに謝ったか?」と訊く父だっていない。
SD体制が敷かれた世界に、「本物の両親」はいないから。
どんな子供にもいる筈の養父母、その人たちも自分は忘れたから。
いられるものなら、この夢の中にいたいのに…。
それは出来ない、と分かっているから零れる涙。とても悲しくて。
(パパ、ママ…)
消えてしまわないで、と泣く自分の声で目が覚めた。
頬を濡らした冷たい涙で、意識が少しずつ冴えてゆく。
(……消えちゃった……)
パパもママも、それにホットケーキも…、と指で涙を拭おうとしたら。
(あれ…?)
青の間じゃないよ、と見上げた天井。
あそこの天蓋はこうじゃなかった、と暗い部屋の中を見回してみて…。
(こっちが本物…!)
ぼくの家だ、と弾んだ胸。
今の自分は十四歳にしかならない子供で、青い地球の上に生まれて来た。
さっきの夢に出て来た両親、それが本物の「パパとママ」。
夢が覚めても、消えはしなかった「夢の中の世界」。…それが「本物」だったから。
(ぼくって、幸せ…)
ホントに幸せ、と今度は嬉しくて泣きたい気分。
ハーレイにこれを話してみようか、「幸せな夢を見たんだよ」と。
「前のぼくが、今のぼくの夢を見てたよ」と、「夢が覚めても、夢は本物だったんだよ」と…。
夢が覚めても・了
※今の自分の夢を見ていたブルー君。「ソルジャー・ブルーになった」夢の中で。
何もかも夢だと思っていたのに、夢が覚めても消えなかった世界。幸せすぎる現実ですv
(いかん…!)
これはマズイ、と前方を睨んだハーレイ。
シャングリラのブリッジから見える、大きなスクリーンに映る映像。
船の外部を捉えたもので、刻一刻と船の行く手を皆に知らせてくれるのだけれど…。
他の様々なデータからして、この先は多分、機雷原。
どう避けるかが運命の分かれ目、面舵でゆくか、取舵なのか。
(しかし…)
普通の機雷だったらともかく、思考機雷なら避けるだけ無駄。
あの種の機雷は追尾どころか、船に向かって襲い掛かるもの。
ただし、「シャングリラ」という船にだけ。
人類の敵のミュウの母船を追い掛けるだけで、人類を乗せた船に危害は与えない。
船の乗員が海賊だろうが、軍規違反で逃亡中の軍人だろうが。
思考機雷に搭載された、思念波を拾うサイオン・トレーサー。
アルテメシアを追われた時に初めて出会って、それ以来、ミュウの天敵の機械。
(あれはどっちの機雷なんだ…!)
データを集めさせたいけれども、それをやったら命取り。
シャングリラの主だった機能は全て、「サイオンを使用している」から。
ステルス・デバイスも、サイオン・シールドも、レーダーでさえも。
(サイオン・レーダーの感度を高くしたなら…)
出力を上げるためにと使われるサイオン、思考機雷は「それ」を捉えて寄って来る。
普通の機雷原ならいいが、と主任操舵士のシドに叫んだ。
「面舵いっぱーい!」
「おもかーじ!」
大きく右へと変えられた進路、吉と出るのか、凶と出るのか。
並みの機雷なら、これで遭遇しないで済む。
航路は変更されたわけだし、もうこの先には機雷原など無い筈だから。
けれども、読みは甘かった。
そちらに進路を変えて間もなく、前方に機雷原の反応。
さっきの「アレ」は思考機雷で、移動したのに違いない。
「シャングリラを捕捉した」ものだから。
ミュウの母船を葬り去るべく、その前方へと回り込むのが思考機雷。
(…ワープするか!?)
ワープしたなら、この空間から一気に離脱出来るのだけれど…。
(距離が足りんぞ…!)
ワープドライブを直ぐに起動したって、「直ちに亜空間ジャンプ」は不可能。
転移先の選定に座標設定、その計算にかかる時間も必要。
ついでにワープドライブ自体も、「車のようには」いかないもの。
キーを差し込み、エンジンをかけて、急発進など出来はしなくて…。
(…車だと?)
いったい何を馬鹿なことを、と自分自身を叱咤した。
シャングリラの中には車など無いし、第一、運転したこともない。
現実逃避の最たるもので、「今の状態」から逃げ出したいから、そう考えてしまうだけ。
(落ち着かんか、馬鹿め!)
キャプテンの俺が逃げてどうする、と前方の機雷原を相手に戦う算段。
思考機雷は「追って来る」から、ワープで逃走出来ないのなら…。
「サイオン・キャノン、一斉射撃!」
前方の思考機雷を撃て、と命じた。
「サイオン・キャノン、斉射三連! 撃て!」
シャングリラが放った光の矢たち。
遙か彼方で星屑のように機雷が弾けて、誘爆しているようだけれども…。
いきなり船がガクンと揺れた。
「船尾損傷、シアンガス発生!」
「なんだと!?」
何処からなのだ、と血の気が引くよう。他にも敵が現れたのか、と。
思考機雷が載せたサイオン・トレーサー。
それを頼りに、人類軍の船が急襲ワープで追って来たという所だろう。
「敵艦か!?」
「はい、後方からの攻撃です!」
「艦種識別! 何隻いる!?」
「三隻、全てアルテミス級! 会敵予想時刻まで、あと…」
告げられた数字に愕然とした。
思考機雷を全て叩く前に、後方からの敵と遭遇する。
(どっちと先に戦うべきか…)
敵艦か、それとも思考機雷の群れなのか。
この距離でさえなかったならば、ワープで両方振り切れるけれど…。
(亜空間ジャンプをするだけの余裕は…)
とても無さそうで、出来ることは「全力で戦う」だけ。
このシャングリラの総力を挙げて、サイオン・シールドを強化して。
サイオン・キャノンを撃って撃ちまくって、逃走ルートを何処かに見付けて。
そう考える間に、またも揺れた船。
「機関部に被弾! ワープドライブ、大破!」
「くそっ…!」
他の箇所にも食らった攻撃、被害を拡大させないためには…。
「気密隔壁、閉鎖! ワープドライブは、今は必要ない!」
本当だったら「使いたい」のがワープドライブ。
使えるだけの距離と余裕があるのなら。
けれども最初から無理だったわけで、この状況でワープドライブが大破したなら…。
(逃げられないと気付けば、皆がパニック…)
それは避けねば、と「必要ない」と叫んだだけ。
本当は「それが欲しい」のに。
ワープで此処から逃げられるのなら、誰よりも先にワープを決断したいのに。
なんてことだ、と「打てそうな手」を考える。
このシャングリラが逃げ延びるために、残された手は何があるかと。
(ワープドライブが使えないなら…)
もう文字通りに「戦う」ことしか出来ないだろう。
メインエンジンが被弾する前に、突破口を何処かに作り出す。
(敵艦を落とすか、思考機雷を全部叩くか…)
どっちが早い、と考えるけれど、敵艦は三隻、それも最大のアルテミス級。
思考機雷の群れにしたって、いつも以上の数がある。
どちらを相手に向かって行っても、そう簡単に抜けられるとは思えない。
(これが渋滞だったなら…)
ちょいと横道に入るって手もあるんだが、と思ってはみても、事情が違う。
ズラリ繋がった車の列と、思考機雷やアルテミス級の戦艦とでは。
(どうして車の列になるんだ…!)
それに横道なんぞがどうした、と自分を殴りたい気分。
「現実逃避にも程があるぞ」と、「シャングリラを沈めたいのか!」と。
冷静になるべき場面なのに。
車がどうとか、渋滞だとか、「ありもしないこと」を考えるなどは論外なのに。
(今日の俺は、本当にどうかしてるぞ…)
いくらパニックになったとしても、と情けない。
今の自分の頭の中身が皆に知れたら、船は大混乱だろう。
「もう逃げられない」と、「キャプテンだって、あの有様だ」と。
シャングリラとはまるで無縁な世界の、「車」や「渋滞」を思い浮かべているのだから。
「横道があれば、そっちに入れる」と、夢物語のような解決策を。
(しっかりしろ…!)
思考機雷か、敵艦の方か、と懸命に思考を組み立ててゆく。
車なんぞは頭の中から追い出して。
道路を埋め尽くす渋滞のことも、あれば入りたい横道のことも。
そうして考え続ける間も、敵の攻撃は続いているから、次々と指示を下し続けて…。
(…何処に逃げ道があると言うんだ…!)
これでは見付け出せそうもない、と焦りながらも、「落ち着け」と皆に何度も叫んだ。
「本船はまだ持つ!」と、「諦めるな!」と、被弾する度に。
(本当に、これが車だったら…!)
こんなことにはならないんだが、と思った所で、ハッと「目覚めた」。
明かりを落とした「自分の部屋」で。
夜の夜中に、ぽかりと開いた目。浮上した意識。
(…今のは…?)
俺じゃなかったのか、とベッドの中から部屋をぐるりと見回した。
敵艦などは何処にもいなくて、思考機雷の群れも無い。
第一、ブリッジも、あのスクリーンも…。
(…あるわけがないな、今の時代じゃ…)
シャングリラはもう無いんだった、と気が付いた。
前の自分が指揮していた船、白いシャングリラは広い宇宙の何処にも無い。
あれから遥かな時が流れて、「今の自分」は地球の上にいる。
青く蘇った水の星の上に、かつて自分が目にした時には「死の星だった」地球に。
(…夢だったのか…)
どおりで酷い状況だった、とホッと息をつく。
あのまま行ったら、シャングリラが沈むのは「時間の問題」。
青の間で深く眠ったままだった、前のブルーを逃がせもせずに。
ブルーの所へ駆け付けることも叶わないまま、最期までブリッジで指揮を執り続けて…。
(とんでもない最期になるトコだったぞ?)
前のあいつと心中には違いないんだが、と零れる苦笑。
「しかし、それだと叱られるよな」と、「あいつにも顔向け出来やしない」と。
(夢だったんなら、車も渋滞も、横道のことも…)
俺がブリッジで考えるわけだ、とクックッと一人、笑い出す。
夢が覚めたら「いつもの世界」で、この時間なら小さなブルーもベッドの中。
「この夢をあいつにも話してやろう」と、「あいつだって、きっと面白がるぞ」と…。
夢が覚めたら・了
※キャプテン・ハーレイ、最大のピンチ。もはや「沈む」しか道が無さそうなシャングリラ。
けれど何もかも夢だったわけで、気付けば青い地球の上。本当に「夢で良かった」ですよねv
けれど、覚えていない天国。
前の自分も、その天使たちに会ったのだろう。
ホントに何にも覚えていない、と惜しい気持ちが募る天国。
きっとそうして、幸せに生きていたのだろう。
(いつか、ハーレイと結婚できて…)