(んー…)
この窓からはちょっと無理、とブルーが見上げた夜の空。
ハーレイが「またな」と帰って行った後、名残惜しげに外を眺めた後で。
夏休みだから、ハーレイは明日も来てくれるけれど。
それは充分に分かるけれども、やはり「またな」と言われると辛い。
ハーレイと一緒に帰りたくなる、自分の家は此処なのに。
まだハーレイとは暮らせないのに、「ぼくも一緒に帰りたかった」と。
だからハーレイを家の表で見送った後は、部屋の窓から外を見る。
「またな」と手を振りながら歩いて帰って行った恋人、その姿が消えた方角を。
ハーレイの家はあっちの方だ、と何ブロックも離れた方を。
いくら見詰めても、連れて帰っては貰えないのに。
ハーレイが戻ってくる筈もなくて、今夜はこれでお別れなのに。
じいっと暗い外を眺めて、溜息をついて。
もう遅いから、と閉めようとした窓、その向こうに瞬く星に気付いた。
黒々と茂る庭の木々の上に、住宅街の屋根の上の空に。
星が見える、と思った途端に探したくなった二つの星。
アルタイルとベガ、彦星と織姫。
天の川を隔てて向き合う星たち、恋人同士だと伝わる星。
ハーレイの古典の授業で習った催涙雨。
七夕の夜に雨が降ったら、天の川が溢れて恋人たちは会えなくなる。
カササギが翼を並べて架けるという橋、それが架かってくれないから。
一年に一度しか会えない二人が涙を流すことになるのが、七夕の夜に降る雨、催涙雨。
もしも自分とハーレイが天の川で隔てられたなら。
ハーレイは「泳いで渡るさ」と言った、カササギの橋が架からなければ。
広い天の川を泳ぎ渡って、会いに行くからと笑った恋人。
きっとハーレイなら泳ぐだろうから、水泳が得意だと聞いているから。
七夕の夜に雨が降っても、天の川が溢れてしまったとしても、今の自分は泣かなくていい。
前の自分が生の終わりに泣きじゃくったように、悲しい涙を流さなくていい。
もうハーレイには会えないのだと、絆が切れてしまったからと泣きながら死んだ、前の自分は。
右の手に持っていたハーレイの温もり、それを失くして。
最後まで抱いていようと思った恋人の温もり、それを失くして凍えた右手。
あの涙はもう流さなくていい、ハーレイとの絆は切れないのだから。
たとえ天の川を泳ぎ渡ってでも、ハーレイが会いに来てくれるのだから。
今度は切れない、ハーレイとの絆。
二人で生まれ変わって来た地球、その上で生きてゆくことが出来る。
前の自分たちの約束の場所で、白いシャングリラで目指した星で。
ハーレイが泳いで渡ると約束してくれた天の川。
あれほどに広い川があっても、天を流れる川があっても、切れない絆。
それを見たいと、恋人同士の二つの星と天の川を、と窓から見上げてみたけれど。
少し角度が悪かった。
そうでなくてもアルタイルとベガ、それに白鳥座のデネブ。
三つの星が作る夏の大三角形、天頂に近い星座たち。
窓から見るには乗り出すしかない、頭の真上を見たいのならば。
(…落っこちたら、馬鹿…)
窓辺に腰掛けて上半身を外に出そうかと思ったけれども、落ちそうな自分。
バランスを崩して、アッと言う間に。
夢中で星を見上げる間に、窓の外へと真っ逆様に。
前の自分の頃と違って、今はサイオンが不器用だから。
空を飛ぶどころか、ろくに浮けない有様だから。
窓から落ちたら怪我をするだけ、庭まで落ちて何処かを打つだけ。
上手い具合に屋根の端っこに引っ掛かっても、自分で上がって来られない。
大声で叫んで父と母とを呼ぶ羽目になって、赤っ恥な上に叱られるオチ。
仕方ないから、アルタイルとベガは諦めた。
一階に下りて庭に出たなら、ちゃんと夜空にあるだろうけれど。
デネブもセットの夏の大三角形、それが見付かるだろうけれども、どうせ見えない天の川。
住宅街の庭では見えない、天の川は。
もっと光が少ない所へ行かない限りは、ほのかに輝く星の川は。
(ハーレイが泳いでくれる天の川は見えないんだし…)
今夜の所は別にいいか、と元の通りに閉めかかった窓。
閉めてカーテンを引こうとした窓。
アルタイルもベガも此処からは無理、と。
けれど…。
(…星だよね?)
星の海だ、と気が付いた。
太陽が輝く昼の間は、青い空が邪魔をするけれど。
星は一つも見えないけれども、今は何処までも見渡せる空。
空の向こうは宇宙に続いて、其処に輝く幾つもの星。
怖いくらいに澄んでいる夜空、遥か彼方まで広がり散らばる星たちの海。
銀河系を抜けてその向こうまでも、長い長いワープを繰り返してようやく着ける星までも。
そう、この空には果てが無い。
前の自分が旅を続けた、暗い宇宙の海と同じに。
白いシャングリラで地球を目指した、あの星たちの海と同じに。
そう思ったら、まるで夜空に吸い込まれるよう。
前の自分が自由自在に飛んでいた宇宙、生身で駆けていた宇宙。
何処までも飛翔することが出来た、サイオンの青い光を纏って星々の中を。
メギドへと飛んだ最後の旅路は悲しかったけれど、辛かったけれど。
二度と戻れない白いシャングリラ、戻れないハーレイの腕の中。
ともすれば止まりそうになる自分を叱って、ミュウの未来を思って飛んだ。
今はこれしか無いのだからと。
自分が行かねば白い鯨は沈んでしまって、ミュウの未来も消えるのだからと。
けれども、それよりも前の自分は何度宇宙を駆けただろう。
皆のためにと物資を奪いに飛んで行ったり、シャングリラを外から眺めてみたり。
暗い宇宙は馴染んだ世界で、星たちの中を飛んでいた。
白い鯨がそうだったように、前の自分も星の海の中を。
流石に地球へは飛べなかったけれど、瞬かない星が散らばる宇宙を。
(うん、あの星たちは輝いてただけ…)
大気の無い真空の宇宙空間、其処では星は瞬かないから。
今の自分が眺める星たち、窓の向こうの星たちのように瞬いたりはしないから。
チラチラと瞬く幾つもの星、遠く宇宙まで見渡せる夜空。
その中の何処にアルテメシアがあると言うのか、赤いナスカがあったと言うのか。
どちらも地球からは遠く離れて、見えはしないと授業で習った。
長く潜んだ雲海の星を擁したクリサリス星系、そこに至るまでは遥かに遠い。
赤いナスカがあった恒星、ジルベスター星系の二つの太陽も遠い。
この窓からは見えはしなくて、探すだけ無駄で。
それは分かっているのだけれども…。
(…あの空をぼくが旅してた…)
前の自分が、白い鯨で。
前のハーレイが舵を握っていた船、白いシャングリラで旅をしていた。
いつかは地球へ辿り着こうと、ハーレイと何度も夢を語り合って。
青く輝く星に着いたら、母なる地球に降りられたなら。
あれをしようと、これもしようと、幾つもの夢が、望みがあった。
ハーレイと一緒に青い地球へと、いつか必ず辿り着こうと。
けれど、夢へと旅立つより前。
青い地球へと船出する前に、前の自分の寿命は尽きた。
雲海の星に潜む間に、地球の座標さえ手にしない内に。
もう進めないと、地球への旅は出来はしないと、何度も何度も流した涙。
自分の代では行けはしないと、地球へ行くのは次の世代だと。
そうして迎えたジョミーのお蔭で、思いがけなくも永らえた命。
アルテメシアからは外に出られた、赤いナスカで終わったけれど。
地球の座標も分からない内にメギドを沈めて死んだけれども、雲海の星から宇宙には出た。
力尽きて深い眠りに就いたままでも、地球を探しにゆく船で。
広い宇宙を、幾つもの星を巡り続けながら、地球を求めるシャングリラで。
アルタイルとベガ、其処へも行ったとハーレイに聞いた。
キャプテン・ハーレイではない今のハーレイ、生まれ変わって来たハーレイに。
前の自分を乗せていた船は、彦星と織姫の周りをも飛んだ。
其処から何処をどう巡ったのか、シャングリラの旅路は知らないけれど。
(…あの空を旅して…)
前の自分は地球を目指した、深い眠りに就いたままでも。
方角も座標も定まらない旅路、それでも地球を探して飛んでゆく船に乗っていた。
前のハーレイが舵を握って、ジョミーが守っていただろう船に。
辿り着くことは無かったけれども、ナスカで降りてしまったけれども、地球へ向かう船に。
白いシャングリラで探し続けて、彷徨い続けて、着けなかった地球。
前の自分がいなくなった後、シャングリラは地球に着いたけれども。
青い水の星は無かったという、赤い死の星があっただけ。
なのに、自分は地球にいる。
遠い遠い昔にあの空を旅して、辿り着けずに終わった星に。
蘇った青い水の星の上に。
(…これって、奇跡…)
聖痕も奇跡だと思うけれども、ハーレイと二人、生まれ変わって辿り着けた地球。
それが最高の奇跡だと思う、前の自分が旅をした空を見ている今が。
あの空を旅して地球を目指したと、部屋の窓から夜空を見上げて遠い星の海を思い出す今が…。
あの空を旅して・了
※ブルー君が見上げて、気付いた夜空。前の自分が旅した空だと、暗い宇宙を旅していたと。
旅しても辿り着けなかった地球。其処から夜空を見上げられる今は幸せですよねv