(ほう…)
月か、とハーレイが眺めた西の空。
今の季節は日が暮れるのが遅いから。
今の時間も西の空を明るく見せている太陽の名残、これから降りてくる夕闇。
其処にほのかに浮かんでいる月、ほっそりと白く浮かんだ月。
満月ほどの輝きは無くて、それほどの大きさも全く無くて。
頼りないほどに細い三日月、まだ若い月。
眉月とも夕月とも言うのだったか、こういう月は。
これから満ちてゆく月は。
七日月には早すぎる月。
上弦の月とも、弓張月とも呼ばれる半分ほど満ちた月のこと。
(…あれは昼間の月なんだ)
正午に昇ってくる半月が上弦の月。
真昼の青空に浮かぶけれども、今の季節は太陽の輝きに負けてしまって忘れられがち。
何人の人が気付くのだろうか、昼間に月が昇っていると。
半分しか満ちていない月が青空にあると、あの白いのが月なのだと。
今の三日月もそうだけれども、太陽に負けてしまいがちな月。
一緒に空に昇った時には、主役は圧倒的に太陽。
(もう少し太れば夕方でも綺麗に見えるんだろうが…)
でなければ日暮れが早い季節、と眺める三日月。
家のガレージに車を入れた後、わざわざ表の通りまで出て。
庭からだと木々などの陰に隠れて見えなくなるから、頼りなさげな細い月を。
こういう月もなかなかにいいと、細くても味わいがあるものだと。
眉月に三日月、それから若月。
同じ形の月であっても、幾つもの名前。
これから満ちてゆくのに合わせて増えてゆく名前、空に輝く月を指す名前。
七日経ったら上弦の月。
弓張月で七日月になる、あの三日月が太ったら。
それまでの間は夕月だったか、弓張月には足りない月。
上弦の月が更に満ちてゆけば、もっと名前が増えてゆく。
十三夜の月に、十四夜の月。
見事に満ちたら満月で十五夜、夜空を煌々と照らす望月。
(…まだまだだな)
十日以上もかかるんだ、と庭に入って別れを告げた。
さっきよりかは明るさを増した三日月に。
もうすぐ西の空に沈むのだろう、細く頼りない眉月に。
庭に入ればもう見えない月、やがて宵闇が降りてくる。
月は沈んでしまったのだから、星たちが煌めき輝く夜が。
月の光に打ち消されないで、幾つもの星が空一面に散らばる夜が。
そういう夜も嫌いではない、月の無い夜空。
主役は自分だと言わんばかりに、星たちが幾つも煌めく夜空。
玄関を開けて入った家。
着替えをしたり、夕食の支度をしたりする間に、とっぷりと暮れて。
さて食べるか、とダイニングのテーブルに着いた頃には真っ暗な庭。
(このくらい暗くなっていればな…)
眉月だって綺麗に光っていただろう。
細いなりにも、銀色の針か何かのように。
夜空に爪で入れた切り込み、そんな風にも見える輝き。
季節がまるで逆の頃には、お目にかかれる明るい三日月。
冷え込む夜の訪れを前に、西の夜空に浮かぶ眉月。
(今の季節じゃ、そうはいかんし…)
強く輝く細い月を見るなら、朝早く。
満月から欠けて細くなった月、二十六夜と名前がついた細い月。
欠けている側は、今日の月とは逆様になっているけれど。
三日月とは逆の側がすっかり影になった月、二十六夜と呼ばれる月。
(十日どころか、もっと先だぞ)
うんと先だ、と窓の向こうの庭に目を遣る。
二十六夜の月が夜明け前の暗い空に昇るまでには、まだどのくらいかかるだろうか、と。
三日月が満ちて、丸くなるまでに十日以上はかかるから。
満月の次の日が十六夜の月で、その次の日が立待月。
人は満月が好きだからだろうか、月の名前はググンと増える。
まだか、まだかと月が昇るのを立って待つから立待月。
その次の日には立って待つのに疲れてしまうから、座って待つ月、居待月。
そのまた次の日は、寝て待つことになって臥待月と呼ばれる月の名。
寝て待ったならば充分だろうという気がするのに、まだ次があった。
夜が更けるまで待っているから更待月、と。
月を待ち侘び、幾つも名前を付けて昇るのを待った人々。
遥かな遠い昔の地球で。
SD体制など誰も思いもよらなかったろう、滅びる前の青かった地球で。
その人々も、夜更けまで待った更待月を見たら満足したのか、疲れ果てたか。
一日刻みの月の名前は其処で途切れて、二十三夜の下弦の月まで無い名前。
二十三日目の夜の月だから二十三夜で、次はまたまた途切れる名前。
三日月の逆の二十六夜が昇ってくるまで、ついていない名前。
(つくづく、よくも名付けたもんだ)
これだけの名前を、と苦笑いした、月なんだが、と。
夜空で満ちては欠けてゆく月、ただの衛星に過ぎないんだが、と。
さっきの三日月も、これから満ちたら見える満月も、月は月。
地球の周りを巡る衛星、ただ一つきりの地球の衛星。
幾つ名前をつけた所で月は月だし、その姿までは変わりはしない。
太陽の光を受けて光る面、その大きさが変化するだけで。
月と太陽の位置の関係、それで変わってゆくというだけで。
けれども、遠い昔の人には仕組みも分からなかっただろう。
月は地球の衛星ではなくて神秘の天体、太陽と同じに崇められたもの。
その輝きを忌む人々もあったけれども、月の神までいたのだから。
太陽の女神の弟の一人が月の神。
まさか衛星だとは、誰も思っていなかったろう。
地球の周りを巡っていることも、一ヶ月かけて巡る間に満ち欠けることも、知られないまま。
人は暦を作っただけ。
次に満月が来るのはいつかと、この日の月は何になるのかと。
(…それでだな…)
さっきの月は三日月で間違いなかったろうか、と開いた新聞。
天気予報の欄についている、今日の月齢。
確かめてみたら、やはり三日月、思った通りに眉月だった月。
まだ若いから若月な月、夕方に見えているから夕月。
朔の名を持つ新月から三日しか経っていないのが三日月だから。
(やっぱり当分かかるんだな、うん)
名前だらけの月が毎晩続けて昇るまでには。
十三夜の月に十四夜の月、見事に満ちた十五夜の月。
十六夜が過ぎたら立待月で、居待月が来て、臥待月から更待月。
ズラリ並んだ月の名前は、前の自分が知らなかったもの。
白いシャングリラから月は見えなくて、第一、キャプテンには要らない知識。
月の周りを飛ぼうというなら、名前ではなくて月そのもののデータ。
軌道や重力、そういったもの。
月がシャングリラに及ぼすだろう力や、シャングリラとの距離などのデータ。
それさえあったら船は飛べたし、月の名前は必要無かった。
三日月だろうが、満月だろうが、三日月とはまるで逆の形の二十六夜の月であろうが。
(…知らなくっても当然だよな)
要らないものは、と額を指でピンと弾いた、「今は必須の知識なんだが」と。
月の名前も分からなくては、古典の教師は務まらない。
遠い遥かな昔の人々、彼らが記した文の味わいも、余韻も読み取ることが出来ない。
(でもって、逆にだ…)
今は要らない、月の軌道や重力のデータ。
宇宙船のパイロットをするわけではないし、持っていたって役には立たない。
シャングリラを地球まで運ぶためには必要不可欠だったけれども。
白い鯨で地球に行くには、月の軌道も重力のデータも、他にも色々要ったのだけれど。
そこまで考えてハタと気付いた、夜空に浮かぶ月なるもの。
地球の周りを巡る衛星、たった一つしか無い地球の月。
(…おいおい、あれが本物じゃないか)
正真正銘、あれが月だ、と前の自分が驚いた。
今の自分には当たり前の月で、一ヶ月かけて満ちて欠ける月。
地球を回るたった一つの衛星、夕方の空にあった三日月。
今でも一年は十二ヶ月だし、一ヶ月は三十日前後。
けれども、それが当てはまる場所は。
月が一ヶ月かけて満ち欠け、星の周りを巡ってゆく場所は…。
(…本家本元は地球の月だぞ)
あの三日月だ、と気が付いた。
前の自分が目指していた地球、白いシャングリラから一度だけ目にした地球の衛星。
此処を越えれば地球が見えると、青い水の星があると飛び越えた月の向こうに…。
(…無かったんだった、青い地球なんぞは)
どれほど辛く悲しかったか、月を越えた向こうにあった死の星。
前のブルーが夢に見た星、焦がれ続けて求めた星。
それは何処にも無かった筈で、月の向こうに約束の場所は無かったけれど。
今は夜空にその月が浮かぶ、幾つもの名前を持っている月が。
遠い遥かな昔と同じに、地球が滅びる前と同じに。
(…あの時と同じ月なんだがな?)
前の自分が白いシャングリラで飛び越えた月。
青い地球があると信じて越えて行った月。
それから長い長い時を飛び越え、本物の青い地球に来た。
前の生から愛し続けたブルーと二人で、月を従えた青い地球の上に。
そして月には名前が戻って、今の自分がそれを数える。
三日月に十五夜、十六夜の月と。
立待月の次の月は居待月、その次の月は臥待月、と…。
三日月の夜に・了
※ハーレイ先生、今ではすっかり古典の教師の世界です。月の名前をズラズラと挙げて。
キャプテンだった頃には要らなかった知識、それを幾つも持てる幸せv