「ねえ、ハーレイ。…泳いでくれるって言ってたけれど…」
本当に? と突然訊かれて、ハーレイは心底、面食らった。
小さなブルーが言っている意味が分からない。まるで分からない、唐突すぎる問い。
泳ぐも何も、ブルーの家にはプールなど無くて、泳ぐのであれば学校のプール。
けれども、そちらはブルーの見学を禁止してあった、良からぬ目的を抱いていたから。
水着姿の自分を見ようと、水着一丁の姿を見たいと小さなブルーが考えたから。
そんなブルーに来られたら困る、熱心に見学されたら困る。
熱い瞳で見詰められたらどうにもならない、自分の方でもけしからぬ気持ちになってくる。
前のブルーと過ごした時間を、甘い時間を思い出すから。
二人抱き合い、交わした愛を思い出すから。
そうした理由でプールの見学は禁じてあるのに、何処で自分に泳げと言うのか。
泳いでやると約束をしてもいない筈だが、と小さなブルーをまじまじと見詰めた。
何か勘違いしてはいないかと、きっとそうだと。
「…俺がいつ泳ぐと言ったんだ?」
俺の憩いのプール見学は禁止したが、と問い返したら。
「確かに言ったよ、ハーレイ、約束してくれたよ。ちゃんと泳いで渡るって」
「はあ?」
ますます深まってしまった謎。
泳ぐどころか泳ぎ渡ると来た、これはプールでは有り得ない。
あまり泳げないと聞くブルーならばともかく、自分にとってはプールくらいは軽い距離。
泳ぎ渡らずとも何往復でも出来る場所だし、ブルーは何を言っているのか。
夢でも見たかと、そうではないかと考えたのに…。
「ハーレイ、もしかして忘れちゃった?」
天の川だよ、と小さなブルーが指差す天井。頭の真上。
今は昼間で、天の川などは見えないけれど。
たとえ夜でも天井が頭の上にあっては、天の川も夜空も見えないけれど。
それでもハタと思い当たった、何を泳ぐのか思い出した。
天の川だったと、それを泳ぐとブルーに約束したのだった、と。
古典の授業で教えた七夕、彦星と織姫に纏わる伝説。
アルタイルとベガ、今の時代は太陽なのだと知られた二つの明るい星たち。
遠い昔には天に住む人だと誰もが信じた、七夕の夜にだけ会える恋人同士なのだと。
天の川を挟んだアルタイルとベガ、普段は会えない恋人同士。
年に一度だけ、七夕の夜に天の川に橋が架けられる。
カササギが翼を並べて架けるという橋、それを渡って二人が会う。
七夕の夜は星合の夜で、二つの星が会うけれど。
年に一度の逢瀬だけれども、雨が降ったら二人は会えない。
天の川にカササギの橋は架からず、会えないままで終わってしまう。
七夕の夜に降る雨は二人の涙だとも、二人の涙を呼ぶ雨だとも言われて、催涙雨。
そんな話を授業で教えて、ブルーにも詳しく話してやった。
小さなブルーは熱心に聞いて、恋人同士の二つの星たちに自分を重ねて。
そうして自分も重ねてしまった、前の自分たちと二つの星を。
年に一度しか会えない二人に自分たちを重ねて、ブルーと二人で語り合って。
もしも天の川が自分たちの間にあったなら…、と話したのだった、どうするかと。
雨が降ってカササギの橋が架からず、天の川が溢れていたならば、と。
(泳いで渡ると言ったんだっけな…)
思い出した、と鮮やかに蘇る記憶。
天の川がどんなに広かろうとも、泳いで渡ると。
ブルーが待つ岸まで泳いでゆくと、だから信じて待っていろと。
それをブルーは訊いていたのだ、本当に泳いでくれるのかと。
プールの話とは全く違った、自分の勘違いだった。
すまん、と潔く頭を下げる。
俺が悪かったと、忘れちゃいないと。
「お前、いきなり訊くもんだから…。てっきりプールの話かと…」
まさか天の川のことだったとは、と謝ったら。
「ううん、ぼくの方こそ、ごめん…。きちんと言えば良かったね」
頭の中でだけ考えちゃってた、とブルーもペコリと頭を下げた。
勝手に話を組み立てていたと、自分の中では分かったつもりになっていたと。
昨夜、天の川を見上げていたのだという。
夜の庭に出て、どのくらいの広さがある川なのかと。
「天の川なあ…。あれは本気で広いぞ、おい」
此処から見るよりずっと広い、と話してやった。
遠い昔に前の自分が旅をした距離を、白いシャングリラで旅した宇宙を。
地球があるというソル太陽系を求めて巡った恒星たち。
アルタイルもベガも回ったけれども、あれの間が天の川ならとてつもないと。
「だろうね、授業でも教わるし…。星までの距離は」
でも…、と小さなブルーは微笑む。
彦星と織姫の間の川なら、そこまで広くはなさそうだよね、と。
カササギの橋が架けられる程度、とブルーは言った。
何羽ものカササギが翼を並べて橋を架けられるだけの川幅、と。
「まあなあ…。本物の宇宙の距離なら、そうはいかんな」
「でしょ? カササギを何羽並べればいいのか分からないよ」
カササギ同士でこんがらがりそう、と可愛い意見が飛び出した。
あまりに沢山のカササギだけに、何処に自分が並べばいいのか悩みそうだと。
「ふうむ…。ならばカササギで足りる程度か」
「それと、歩いて渡れる程度の橋だよ」
バスも車も無いんだから、とこれまた愛らしい考え方で。
カササギの橋は歩いて渡って会える程度の短い橋で、天の川もそれに見合った川で。
それでもブルーには広すぎるらしい、天の川。
きっと歩いて渡るにしたって自分には長い距離なのだ、と言い出した。
ハーレイだったら泳げそうだけども、自分は歩いて渡るとしても大変そうだ、と。
「だからね…。前にも言ったけれども、やっぱりハーレイが歩いて来てよ」
ぼくの所まで、と頼まれた。
カササギの橋が架かった時にも、ハーレイの方から歩いて来て、と。
「お前なあ…。あの時も言ったぞ、運動不足は良くないと」
ちゃんと歩け、と軽く睨んだけれども、ブルーは少しも動じなくて。
「ハーレイ、泳いでくれるんでしょ? それに比べたら歩くくらいは…」
きっと簡単、とブルーが言うから。
小さなブルーは自分を歩かせるつもりでいるから、苦笑する。
年に一度しか会えない二人でも、お前は俺を歩かせるのか、と。
「うーん、本当にそうなっちゃったら…」
一年に一度しか会えないんだったら考えるけど、とブルーは赤い瞳を瞬かせて。
これは夢だと、夢の話だから甘えてもいいと主張するから。
もう白旗を上げるしかない、小さなブルーに敵いはしない。
ブルーのためなら、天の川でも泳いで渡ると言ったから。
誓ったのだから、カササギの橋も歩けと言うなら歩いてゆこう。
今度こそブルーと共に生きられる、手を取り合って歩いてゆける。
天の川などに隔てられずに、何処までも、二人。
そんなブルーの夢の話なら、天の川でも泳いで渡る。
カササギの橋もブルーの許まで歩いて渡るし、そうしてブルーと二人、何処までも…。
天の川を渡って・了
※ハーレイ先生に「天の川を渡って来てよ」と強請るブルー君。ハーレイ先生の方から、と。
実に可愛い我儘ですけど、ハーレイ先生、惚れた弱みで全面降伏しちゃってますねv