(えっと…?)
どうだったかな、と小さなブルーの頭を掠めていったこと。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰掛けていたら。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した人。
その人のことを考えていたら、意識が向いた「学校」の方。
今のハーレイは「ハーレイ先生」、学校で会えば古典の教師。
(…古典のヤツじゃないけれど…)
明日の授業に持ってくるよう、言われたプリント。
それを鞄に入れただろうか、と気になって来た。
(教科書とノートは入れたんだけど…)
入れていた時、「明日はプリントも要るんだよ」と思ってはいた。
配られたのは先々週だったか、その時だけのつもりで見ていたプリントなのに…。
(明日の授業で、また使うから、って…)
「持って来なさい」と、前回の授業の最後に注意があった。
プリントを失くしてしまった生徒のためには、また配られるらしいけれども。
(失くしちゃうなんて、不名誉だしね?)
授業で使うのは一度きりでも、大切な資料だったプリント。
いつかテストに出るかもしれないし、「やる気があるなら」取っておくもの。
もちろん、家に持って帰って、きちんと引き出しに仕舞っておいた。
(あのプリントを入れたっけ…?)
どうにも自信がないのが今。
引き出しを開けて、プリントを見た覚えはある。
「うん、これだよ」と眺めたけれども、その瞬間に気が散った。
母に「食べる?」と呼ばれた試食。
それに「食べる!」と直ぐに返事して、部屋を飛び出して、階段を…。
(下りて、キッチンに行っちゃって…)
試食の後は、母とお喋り。
お茶まで飲んで話していたから、次の記憶は「部屋に戻った所から」。
キッチンに出掛けた記憶の続き。
二階に戻ると、部屋の扉を開けて中に入って、その後は本を読んでいた。
「明日の用意は、もう終わったから」と、勉強机の前に座って。
もしかしたらハーレイが来てくれるかも、と微かな期待を胸に抱いて。
(……それっきり……)
開けてはいない、通学鞄。
机の引き出しの方にしたって、「学校に持って行く物」を入れてある場所は…。
(開けてもいないし、覗いてないし…)
プリントは鞄に入れないままで、ポンと引き出しを閉めただろうか。
母に呼ばれた試食の方に気を取られて。
(…だって、コロッケ…)
今日の夕食はメインがコロッケ、そういう日には「ある」試食。
コロッケは「揚げ立て」が美味しいものだし、特別に。
(ぼく専用に、一口サイズで…)
小さくてコロンと丸いコロッケ、一足お先に揚げて貰える。
ホカホカと湯気を立てるのを。
まるで、おやつの続きみたいに、母が「食べる?」と声を掛けてくれて。
(コロッケの試食は、ハーレイにも頼んであるほどで…)
いつか二人で暮らし始めても、やっぱり「試食」がしたいから、と。
ハーレイがコロッケを揚げてくれるのなら、一口サイズの「試食用」が欲しい、という注文。
そんな注文までするくらいだから、「プリントのこと」などは吹っ飛んで消える。
鞄に入れたか、入れていないか、どちらだったかは。
(入れた筈だと思うんだけど…)
いくらコロッケが食べたいとはいえ、「明日の授業」は大切なもの。
授業で使う予定のプリント、それは「入れた」と思いたい。
(……だけど、覚えていないから……)
万一ということも、無いとは言えない。
すっかり忘れて引き出しに入れて、通学鞄を閉めたとか。
鞄の中を覗いてみたって、プリントは「入っていない」だとか。
それは困る、とベッドから立って、勉強机の所に行った。
通学鞄を机に置いて、中を順番に確かめて…。
(うん、入ってる!)
このプリント、と確認してから、大満足で鞄を閉める。
コロッケの試食に夢中で「忘れてしまった」けれども、プリントは忘れていなかった。
きちんと鞄に突っ込んだ後で、「入れた」ことを忘れていただけで。
(ふふっ、優等生…)
ぼくはプリントを失くさないよ、とエヘンと胸を張りたい気分。
明日の授業では「失くしてしまった生徒」が、きっと大勢いるのだろう。
先生が「持っていない人は?」と訊いた途端に、「はいっ!」と幾つも手が挙がって。
(…ぼくもプリント、持って行くのを忘れたら…)
そっちの仲間入りだったけれど、鞄に入れてあったプリント。
明日の授業では、ちゃんと机の上に広げておけるだろう。
「持って来てます」と、教科書やノートと一緒に並べて。
(…これで良し、っと…)
もう大丈夫、とベッドの方に戻ろうとしたら、受けた衝撃。
いきなり星が飛び散った。
(…………!!?)
痛い、と声が出たのかどうか。
とんでもない痛みが足を襲って、思わず座り込んでいた。
「いたたたた…」と両手で足を押さえて、勉強机の直ぐ側に。
ペタンと座ってしまったけれども、それどころではなく痛む右足。
正確に言うなら、右足の小指。
「……うー……」
ホントに痛い、と背中まで丸くなるほどの痛み。
歩き出そうと前に出した足、その足が机にぶつかった。
よりにもよって、右足の小指がゴッツンと。
足の小指は、ぶつけると「とても痛い」のに。
こうして床に座り込むほどに、目から星さえ飛び散ったような気がするほどに。
とっても痛い、と両手で包み込む小指。
もうズキズキと激しく痛んで、今にもプックリ腫れそうだけれど…。
(…ぶつけただけだし…)
腫れないんだよね、と分かってはいる。
変な方に曲がるような「ぶつけ方」をしたなら、腫れてくることもあるけれど。
重たい何かが「落ちて当たった」なら、やっぱり腫れもするのだけれど。
(……でも、痛いから……!)
なんで小指、と泣きそうな気持ちになる痛さ。
同じに足をぶつけたとしても、小指でなければ、ここまで痛くはならない。
どうしたわけだか、小指というのは「酷く痛む」場所。
何処かに、こうして「ぶつけた時には」、とんでもなく。
骨が折れたり、後で腫れたりするのでは、と思うくらいに。
(……ホントのホントに、痛いんだから……!)
ツイてないよ、と指をさすって、やっとの思いで立ってベッドへ。
端っこにストンと腰を下ろして、「ぶつけた小指」をまじまじと見る。
これが小指でなかったならば、今頃は「痛くない」のだろうに。
とうに痛みは引いているとか、痛くてもズキズキしていないとか。
(…小指って、弱く出来ているよね…)
他の場所より、と「少しだけ赤い」指を眺めて考える。
今はちょっぴり赤いけれども、じきに白い肌に戻るだろう。
きっと明日には痕さえも無くて、青い痣さえ残ってはいない。
同じ足でも他の場所なら、これほど酷く痛む勢いで「ぶつけた時」には…。
(明日には青い痣になっちゃって…)
内出血の赤い斑点も、セットで出来ているのだろう。
少し腫れたりするかもしれない。
痕がすっかり消えるまでには、何日もかかると思うのに…。
(足の小指は、うんと痛くても…)
そんな痕など残らないから、「運が悪かった」と悲しい気持ち。
飛び上がりたいほどの痛みを食らうような場所を、ゴツンとぶつけてしまうなんて、と。
悪いのは自分だったのだけれど、ツイていないと思う場所。
足の小指をぶつけた時には、それは「とんでもなく」痛いのだから。
(…ハーレイは来てくれなかったし、足の小指はぶつけるし…)
酷い日だよね、と涙が出そう。
ぶつけた小指は、今もズキズキするものだから。
目から星が出るほど痛かったのだし、きっと泣いてもいいだろう。
(……一人で泣いても、馬鹿みたいだから……)
我慢するだけで、ハーレイがいたら「痛い!」と悲鳴を上げていた筈。
床にうずくまって我慢しないで、大袈裟に顔を歪めてみせて。
「痛いよ」と涙を零したりして、「大丈夫か?」と心配して貰って。
(…絶対、そっち…)
我慢するわけないんだから、と思ったけれども、ふと気付いたこと。
足の小指を「ぶつけた時には」、泣きたいくらいに痛むもの。
けれども、前の自分の頃にはどうだったろう、と。
(…前のぼくだと、ソルジャーのブーツ…)
あれがあったし、そう簡単には「ぶつけない」筈。
とはいえ、ソルジャーになるよりも前は、船に乗る前にはどうだったろう。
アルタミラの檻で暮らした頃には、足の小指をぶつけるなどは…。
(少しも大したことじゃなくって…)
もっと酷い目に遭わされていた。
超高温だとか、絶対零度だとか、過酷な環境のガラスケースに何度入れられたか。
どれほどの薬物などを試され、それでも死ねずに治療をされて生かされたのか。
(…あんな経験をしていたら…)
逃げ出した後に、船で「小指をぶつけた」くらいのことでは、痛いと思わなかったろう。
仮に「痛い」と思ったとしても、じきに忘れてしまったのだろう。
こうして「生まれ変わった後」まで、それは記憶に残りはせずに。
「痛い!」と悲鳴を上げていたって、その場限りで忘れ去って。
足の小指をぶつけたくらいで、死んでしまいはしないのだから。
「死ぬかもしれない」と思うことさえ、一度も無かった筈なのだから。
それを思うと、今の自分は、なんと幸せなのだろう。
たかが小指をぶつけたくらいで、「痛い!」と叫んで、「ツイていない」と考えて。
前の自分が同じ目に遭っても、すぐに忘れてしまったろうに。
(…ぶつけた時には、うんと痛くて…)
とても痛いから、ハーレイがいたら悲鳴を上げてしまいそうなのが、今の自分。
涙を零して「痛いよ」と言って、心配だってして貰って。
そう出来る今が、小指をぶつけた時には「痛い」と思える今が、とても幸せ。
ぶつけた時には「痛いよ」と泣いてしまってもいい、平和な時代にいるのだから…。
ぶつけた時には・了
※足の小指をぶつけてしまったブルー君。とても痛かったみたいですけど…。
それを「痛い」とも思わなかったらしいのが、前の生。痛いと思える今は幸せですよねv