(…ありゃ…?)
どうだったやら、とハーレイの頭を掠めたこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で腰掛けていて。
机の前の椅子に座って、コーヒー片手に過ごす、ひと時。
熱いコーヒーをコクリと飲んだら、そのコーヒーを淹れたキッチンが気にかかる。
(ダイニングの明かりは、ちょいと暗めにして来たんだが…)
そうした覚えは確かにあった。
書斎でゆったり過ごすからには、ダイニングを煌々と照らす明かりは必要ない。
かと言って、消せば真っ暗になる。
それも何だか寂しいものだし、ごく控えめに落としておく照明。
常夜灯よりは明るめに。新聞を読むのに困らない程度に。
その調節は「した」覚えがある。
けれど「ない」のが、キッチンの方。
コーヒーを淹れる間は、もちろん点けていた明かり。
淹れ終わったら、キッチンの明かりは「出てゆくついでに」消すのだけれど…。
(……消した覚えが全く無いぞ?)
スイッチに触れた記憶さえも無いし、点けっぱなしのままかもしれない。
食事などをするダイニングはともかく、キッチンで使う照明は今は「要らない」のに。
後でカップを洗いに行くまで、「消したまま」の暗い部屋でいいのに。
(…エネルギーの無駄というヤツだしな?)
さて…、と考えても分からない。
消して来たのか、今もって点いたままなのか。
(サイオンを使えば、此処からだって…)
キッチンの様子が見えるけれども、そういったことは好みではない。
日常生活で「サイオンを使わない」のが、今の社会のマナーで、ルール。
それが無くても、「自分の身体を動かして」見に行く方がいい。
ちょっとした動作も「運動の内」で、積み重ねてゆけば…。
(かなりの運動になるってもんだ)
立ったり座ったりするだけでも。…たかが廊下を歩くだけでも。
よし、と立ち上がって向かったキッチン。
書斎の扉を開けて廊下へ、それからスタスタ歩いて行って。
(…やっぱりなあ…)
忘れていたか、とキッチンの扉を開けて苦笑する。
要りもしない明かりが点いていたから。
(ウッカリしてたが、忘れたままでいるよりは…)
まだマシだよな、とパチンと消せば、たちまち真っ暗。
じきに目が慣れて、扉の方から差し込む明かりで、ちゃんと全てが見えるけれども。
(これでゆっくりコーヒーが飲めるぞ)
気になることは片付けたから、と戻った書斎。
廊下を大股で逆に辿って、コーヒーのカップを置いて来た場所へ。
書斎に着いたら、机の上にまだ湯気の立つマグカップ。
椅子を引いて、其処に座ろうとして…。
(…………!!?)
いきなり足に受けた衝撃。
正確に言うなら右足の小指、ガツンと星が飛び散ったよう。
「いたっ!」と声が出たのかどうか、まるで自覚は無いけれど…。
(……いたたたた……)
これは痛い、と歪んだ唇。
癖になっている眉間の皺も、深くなったに違いない。
今のは、なんとも「痛かった」だけに。
まだ右足の小指が痛くて、「腫れるのでは」とさえ思うくらいに。
(…やっちまったな…)
俺としたことが、と眺める右足。
それから机の下の方。
座ろうと椅子を引いたまでは良くても、その後の動きを誤った。
何も考えずにスイと動いて、衝突してしまった右足と机。
(よりにもよって、小指と来たか…)
一番痛い場所をやられちまった、と椅子に腰掛けて右足を見る。
「とても痛い」と訴える指を、ぶつけてしまった「小指」という場所を。
柔道や水泳で鍛えていたって、それと「痛み」とは、また違うもの。
どんなに我慢強くなっても、「鍛えられない場所」はある。
(……弁慶の泣き所ってヤツが有名なんだが……)
今ではな、と思う「向う脛」。
SD体制が始まるよりも、遥かな遠い昔の「日本」。
今の、この辺りにあった島国。
其処で「強い男」の代名詞だった「武蔵坊弁慶」、彼の名前がついている「部分」。
弁慶と言えば、最後は「立ったまま死んだ」という伝説があるほど。
武勇に優れて力持ちでもあったのだけれど、その弁慶でさえも…。
(ぶつけた時は、泣いただろうというのがだな…)
いわゆる「弁慶の泣き所」、「向う脛」の異名。
前の自分が生きた頃には、そんな呼び名は無かったけれど。
今の時代も、他の地域では、多分、通じはしないのだけれど。
(…あそこを打ったら、痛くてだな…)
俺だって目から星が出そうだ、と充分なほどにある自覚。
向う脛など、鍛える方法は「ない」だけに。
「痛みに強くなろう」と思った所で、相手は「弁慶の泣き所」。
ぶつけた時は「誰でも痛い」し、そう呼ばれる場所は「どうにもならない」。
(未だに、ぶつけた時は痛くて…)
平気な顔などしていられんな、と「向う脛」の方も眺めてみる。
「こいつも痛い」と、ぶつけた痛みを思い出してみて。
柔道の道場で教えられるほどの立場になっても、何度、泣かされたか分からない。
実際に「泣いてはいない」だけのことで、「痛い!」と思ったことは何度も。
それと同じに「とても痛い」場所、そこを「ぶつけてしまった」のが今。
足の小指は、ぶつけると「とても痛い」もの。
たった今、目から星が飛び散ったかと思ったほどに。
声が出たかは謎だけれども、右足は「とても痛かった」。
腫れてしまうのでは、と思うくらいに酷かった痛み。
ガツンと机にぶつけた途端に、小指が「ギャッ!」と悲鳴を上げて。
(…腫れるほどではないんだが…)
単にぶつけただけだからな、と分かってはいる。
捻ったというわけではないし、重い物を指の上に落としたわけでもない。
ほんの一瞬、机との間で起こってしまった衝突事故。
(…衝突と言うより、接触の方か?)
そんなトコか、と思いもする。
小指はゴツンと「ぶつかった」だけで、痛みの割には「掠っただけ」とも言うだろう。
衝突と言うのは、もっと激しく「ぶつかる」こと。
今の程度なら、きっと「接触」。
(…うんと痛い、と思っちまうのは…)
鍛えられない場所を「ぶつけた」からで、「弁慶の泣き所」にも匹敵する「小指」。
足の小指は、どうしたわけだか「とても痛い」場所。
大怪我などはしなくても。
さっきのような「接触事故」でも、星が飛び散りそうなくらいに。
(…前の俺でも、きっと痛いと思っただろうが…)
生憎と記憶に残ってないな、と遠い記憶を探ってみる。
三百年以上も生きていたのだし、きっと何度も「ぶつけた」だろう場所。
「弁慶の泣き所」と呼ばれる「向う脛」の方も、同じくらいに痛い「足の小指」も。
なのに、記憶は残っていない。
何百回と「ぶつけた」だろうに、「何千回」かもしれないのに。
(…とんでもない人生だったしな?)
成人検査でミュウと判断され、送り込まれた研究施設。
小さな檻に押し込められて、繰り返された人体実験。
(俺の場合は、せっせと負荷をかけるのがメインで…)
ブルーよりかはマシだったけれど、過酷だったことは間違いない。
肉体の苦痛も、精神的な苦痛の方も。
(…あれに比べりゃ…)
ぶつけた痛みは、「記憶する」ほどでも無かっただろう。
生まれ変わってまで「覚えている」ような、そこまでの酷い痛みではなくて。
それを思うと、なんという平和な時代だろう。
「鍛えられない場所は痛い」と、ぶつけた足の小指を眺めているなんて。
同じに「痛い」と称される場所の、「弁慶の泣き所」まで考えていられるなんて。
(ぶつけた時は、とても痛くて…)
星が飛び散るとまで思ったけれども、前の自分なら「どうだった」のか。
この程度で「星が飛び散っていたら」、前の自分の場合は、きっと…。
(…アルタミラの檻で、死んじまっていたんだろうな…)
苦痛に耐えて「生き残る」ことは出来なくて。
前のブルーとも出会えないまま、死体になって廃棄されて。
(……前の俺は、鍛えていたってか?)
鍛えられない場所であろうと、激しい痛みに耐えられるように。
どれほどの苦痛を与えられようとも、それに屈せず、生きてゆけるように。
(…どうだったんだかな?)
そこは分からん、と定かではない、遠い遠い記憶。
「弁慶の泣き所」などは知らなかったし、「足の小指」をぶつけた記憶も無い前の生。
けれども、今は「痛い」それ。
さっきも星が飛び散っただけに、今の自分は「痛い」と感じる。
(でもって、ブルーの場合はだ…)
大騒ぎだぞ、と思い浮かべる小さなブルー。
メギドで「遥かに痛い目に遭って」死んでいたって、アルタミラの記憶があったって。
生まれ変わった今のブルーは、自分と同じで「平和な時代」に生きているから。
(ぶつけた時は、痛くて当たり前だってな)
俺だって目から星が出るんだ、と傾けるカップ。
「実に平和な時代だよな」と、「今だって、ちょいと、ぶつけた小指が痛むんだが」と…。
ぶつけた時は・了
※柔道で鍛えたハーレイ先生でさえも、ぶつけた時は「痛い」と目から星が飛び散る場所。
けれども、前の生では「痛かった」記憶さえも無い場所。今は、とっても平和らしいですv