「ねえ、ハーレイ。…忘れたんでしょ?」
ホントのところは、と小さなブルーが、いきなり尋ねた。
二人きりで過ごす休日の午後に、首を傾げて。
お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで。
「はあ? 忘れたって…」
何の話だ、とハーレイの方も首を捻った。
あまりにも唐突過ぎる質問、思考回路が付いて行かない。
(…お母さんのケーキは、やっぱり美味いな、と…)
そういう話をしていたのに、と眺めるパウンドケーキ。
ブルーの母が焼くパウンドケーキは、絶品で…。
(おふくろの味とそっくりなんだが、それについては…)
忘れることなど無い筈だが、と額を指でトントンと叩く。
おふくろの味を忘れはしないし、もちろん、レシピも…。
(俺が焼いても、この味わいにはならないだけで…)
忘れやしない、と頭の中で確認するレシピ。
バターと小麦粉、卵と砂糖を1ポンドずつ入れるんだ、と。
忘れる方が難しそうな、パウンドケーキのレシピの分量。
(全部の材料を、1ポンドずつ使うから…)
ポンド、すなわちパウンドケーキ、と、そのままの名前。
前の生では、作った覚えが無いけれど…。
(今じゃすっかり、馴染みのケーキで…)
おまけに、ブルーのお母さんのは美味いんだ、と緩む頬。
小さなブルーも、「練習するから」と言っているほど。
(…もしかして、それか?)
その件だろうか、とピンと来たから、恋人に微笑み掛けた。
「覚えてるぞ」と、自信を持って。
「お前、作ってくれるんだったな、パウンドケーキ」
今は無理だが、いずれはお母さんに教わるんだろう、と。
うんと楽しみに待っているから、腕を磨けよ、と。
「えっと…? やっぱり忘れてしまってるよね…?」
その約束はしたけれど、とブルーは、フウと溜息をついた。
「ケーキの話は今のことでしょ」と、「前のことだよ」と。
「前のことだと?」
今じゃなくてか、と思い当たった前の生。
そっちで何かがあったろうかと。
(…前の俺だった時に、パウンドケーキ…?)
作った覚えは全く無いぞ、と厨房時代を振り返ってみる。
手書きのレシピ集を作っていたほど、頑張ったけれど…。
(菓子も色々作ってたんだが、パウンドケーキは…)
とんと覚えていないんだがな、と困ってしまった。
「本当に、忘れちまったのか?」と。
何か特別な思い出があった、とても大切なケーキのことを。
そうだとしたなら、謝らなければ。
前のブルーとの大事な思い出、その欠片を取り戻すために。
小さなブルーが覚えていること、その話に耳を傾けて。
だから素直に謝った。
「すまん」と、深く頭を下げて。
「…すまない、忘れちまったようだ。俺としたことが…」
本当にすまん、と心の底からブルーに詫びる。
「この通りだから、教えてくれ」と。
「お前が今も覚えていること、それを俺に」と。
そうしたら…。
「いいよ、そのまま動かないでね」
そっちに行くから、とブルーの瞳が煌めいた。
「キスのやり方を教えてあげる」と、「覚えてるから」と。
「キスだって!?」
「うん。忘れちゃったから、ぼくにキスしないんでしょ?」
そうだよね、と勝ち誇った顔のブルーがやって来たから…。
「馬鹿野郎!」
よくも騙しやがって、と銀色の頭に落とした拳。
コツンと、痛くないように。
「悪ガキめが」と、「俺はすっかり騙されたんだ」と…。
忘れたんでしょ・了